第30話ベルゼブブ

 良くも悪くも、人の可能性は無限大である。


「もう制限時間一杯だってとき! すみれは見事に釣り上げた! 大きくて立派な鯛をな! そりゃあ皆、度肝を抜かれたぜ!」

「我が母ながら、凄いことをするなあ……」


 船頭に母の武勇伝を聞かせてもらいながら、私は何事もなく向こう岸へと着けた。

 その間に船幽霊たちに私の和菓子を薦めたが、彼らは残念そうに「俺たちは現世の食べ物を食べられないんだ」と断った。


「お腹空くこともないし、満腹にもならん。こうして漁をした魚なら話は別だけどな」

「そういうものなのか」

「すみれの旦那さんも和菓子が欲しいとは言わなかっただろう?」


 言われて気づかされた。再会したときの動揺のせいで、和菓子を出せなかった。

 船頭は「でも毎日供えているんでしょう? 仏壇に」と優しく教えてくれた。


「供えてくれたものなら食べられます。だからあなたの味は分かっていると思いますよ」

「……いつの間にか、私は夢を叶えていたのか。私が自信をもって作った和菓子を、父と母に食べてもらえるということを」


 そう考えれば、この上なく嬉しい。知れただけで地獄巡りをした甲斐もあるということだ。

 着岸して船を降り、船幽霊たちにお礼を言って、船頭に教えてもらった道を歩く。空は灰色で大地も白く生気が無い。あたり一面に響き渡るのは悲鳴と嘆き。心が淋しくなる。


 道無き道をゆっくりと歩いていく。平坦で歩きやすいが、コンパスも地図も無いので、これで合っているのかと不安になる。それでも進んで行くと、遠くのほうに鉄柵が見えた。近づくとかなり大きく頑丈に作られていると分かる。


 柵の先に人々が争っている――否、殺しあっている光景が広がっている。

 鋭く尖った爪で互いの肉体を切り裂き、固く生えた歯で互いの骨まで砕こうとする。

 しかし奇妙なことに死ぬ者は居なかった。いや、もう既に死んではいるのだけど、すぐに再生していく。切り傷も噛み傷も、打撲も骨折も治っていく。


「ここは……何の地獄なんだ?」

「等活地獄だよ」


 隣に気配がした。急に現れるのはいつになっても慣れない。横を見るとそこには外国人の男が立っていた。浅黒い肌に黒髪、彫りの深い顔で目は青色だった。背はさほど大きくない。端整なハンサムだが、どこか人を不快にさせる印象を受ける。見下されているというか、一言で言えば醜悪な表情を浮かべている。


「あなたは……妖怪か?」

「妖怪。そんなものと一緒にされたくはないが、甘んじて受け入れよう」


 男は気味の悪い笑い声を上げながら私と向かい合う。

 手を差し伸べてきたので、握手に応じる。


「俺はベルゼブブ。人からは悪魔とも呼ばれている。神野や山ン本と同じ、魔王だよ」


 漫画やアニメなどの創作で聞いた覚えがある。それらに疎い私でも知っているということは、よほどメジャーな魔王なのだろう。

 私は手を離すと「どうしてあなたがここに?」と訊ねた。


「新たな魔王が生まれる気配がしたんだ。それが君らしい。おめでとう。心から祝福するよ」


 ぱちぱちと拍手されるが、私は「魔王にはなりませんよ」と首を横に振った。

 兄のことが頭をよぎったのは否めないが、そんな気はさらさら無かった。


「なんだ。てっきり神野の名を受け継ぐのかと思ったが」

「神野の名を受け継ぐ? まさか、神野悪五郎は世襲制だったんですか?」

「永遠に存在する者などこの世にはない。かつて俺が神として崇め奉られていたときもそうだった」

「……あなたは、神だったのですか?」


 悪魔に詳しくない私は驚きで一杯だった。

 ベルゼブブは「昔の話だよ」と韜晦した。どこか淋しそうだったが、何かが壊れている雰囲気があった。


「人によって神の座から引きずり落とされ、魔王に貶められて、散々冒涜された。所詮、信仰されぬ神など、人の玩具にされて当然だ」

「あなたのような、神だった存在は他にも居るのですか?」

「ああ、たくさん居た。しかしほとんどの者は忘れられた。そう考えると俺はまだマシなほうだな」


 私は唖然として言葉も無かった。神代には多くの神が居て、ほとんど忘れられて、運が良くても、魔王に貶められる――


「神野も山ン本も同じだ。日本は八百万の神が居るのだろう?」


 ベルゼブブの口から衝撃的なことを言われた。

 まさか悪五郎も神だったのか!?

 あいつは『神』野悪五郎……


「つまり、お前は魔王の子孫でありながら、神の血を引く者でもある」

「そ、そんな、嘘だ……」

「おいおい。そんなに怯えるなよ」


 ベルゼブブは私を嘲笑う。整った顔を歪ませる、醜い表情だった。

 それから鉄柵を指差す。


「ここは俺の心を慰めてくれる。人の醜さを感じさせてくれる。奴らの本質は醜いものだと分からせてくれる」

「ち、違う。人は……人の本質は、醜くない!」

「そうかな? ま、お前とそのことで議論するつもりはない。既に結論は出ているからな」


 ベルゼブブの背中から翼が生えた。いや、翼と言うより、蝿の羽根のような、穢れたものだった。


「もうすぐお前の友達がここに来る。それまで、人の醜さを目に焼き付けておけ」


 捨て台詞を吐かれたが、言い返せ無かった。

 ベルゼブブの言葉が衝撃過ぎて、頭を占めていたからだ。

 私は、どうなってしまうのだろうか……

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