第2話 2日目

 トン……トン……

 背後から足音が聞こえてくる。ヒカルの足音に合わせるかのような規則正しい音だ。

 街灯の少ない、舗装されていない裏道。駅と家をショートカットで結ぶその道が、今日はいつもよりも長く感じた。通いなれた道。そう、通いなれた道だ。

 ヒカルは何回、何十回と自分に言い聞かす。ふと、空を見上げると、今日は満月だった。

 うっすらとした月明かりと、数十メートルおきにぽつん、ぽつんと弱弱しい光を放つ街灯が、頼りない道しるべとして機能する。

 じゃり、と砂の塊を踏みつぶしてしまったヒカルは一瞬足を止めた。

「……」

 背後からずっと聞こえていた足音が、止んだ。

 後ろを振り返る勇気なんてなかった。足音が止まってほしくなんてなかった。

 何事もないように、すいすいとおじさんやおばさんがヒカルの横を追い抜いていくことを期待していた。

 けれど、足音は止まった。

 ヒカルが足を止めた瞬間に、止まった。

 彼は後ろを振り向けないまま、緊張した面持ちで足を踏み出す。

 トン……

 ヒカルの歩調に合わせるかのように響いてきた背後の足音に、びくりと体を震わせた。

 もう一度足を止める。

 足音はしない。

 ゆっくりと、一歩踏み出す。

 トン……

 二歩、三歩。

 トン……トン……

 ヒカルは徐々に早足になる。後ろを振り向くことはできなかった。

振り返ったら、何がいるかわからないから。

 数十メートル先の街灯が、怪しく点滅していた。ぶうん……ぶうん……と、切れかけの電球のように、点滅を繰り返す。

 ヒカルは息を呑んだ。

 街灯の灯りがなくなってしまったら、本当に暗闇に包まれてしまう。

 しかし走り出す勇気も持てない。

 じゃり、じゃり、と土を踏みしめるヒカルの足音が夜に響く。それに合わせるかのように、トン、トン、という足音も響く。

「……」

 怪しく点滅する街灯を眺めながら、ヒカルはあることに気が付いた。

 背後からの足音は、どう考えても舗装されていない道路を歩いている音ではなかったのだ。それはまるで、乾いた木に何か硬いものをあてているような、心地いい音。

 どこか懐かしい音。

 パチッ。

「っ!」

 懐かしい音に気をとられ、足を止めたヒカルは、背後の足音が着実に近づいてきていることを理解した。

 微かだった音が、だんだんと鮮明になり、ついにははっきりとすぐ後ろで鳴った。

 モウ、スグソコニイル。

 彼の頭が恐怖で痺れていく。

 すぐ後ろに、何かがいる。

 ヒカルは無我夢中で駆け出した。走り出すことへの恐怖を、走り出さないことの恐怖が上回ったのだ。

十メートル。切れかけの街灯を通過する。

二十メートル。次の街灯が見える。

三十メートル。街灯の下にたどり着く。

「あれ?」

 そこでヒカルは音が消えたことに気が付いた。

 もう、背中から音が聞こえなくなっていた。

 振り切ったのか。

 ふう、と安堵のため息をついた瞬間、ぶうん、と不快な音がして、自分が寄り添っていた街灯の灯りが消えた。

 ひっ、と口から空気が漏れる。

 しかしヒカルは慌てて口を押えて、硬直した。

 背後に、何かの気配を感じた。

 何も考えられなくなった彼は、肺から空気を押し出して、ゆっくりと振り返る。

 

 目。


 一番初めに視界に飛び込んできたのは、ぱっちりと開かれた目だった。

 ぶうん。

 街灯が光を取り戻す。

 パチッ!

 その、地面に何かを叩きつけるような音は、背後からではなく、自身の内側から響いていた。



**


パチッ!

 縦に十九本、横に十九本の線が交差する囲碁の碁盤。宇宙よりも広いと呼ばれるその十九路盤のど真ん中に、岩崎くんが勢いよく黒の石を置いた。

「初手、天元!?」

 囲碁っていうのは陣取りゲームで、単純に言うと右上左上、右下左下の四エリアを奪い合うことになる。天元って言うのはど真ん中のこと。

 だから初手は四つのエリアのどれかをとりにいくのが定石なので、いきなりど真ん中に打つのはなかなかない。ゲームのルールを理解していない馬鹿か、四つのエリア全てに隣接している最強の碁石として君臨させるほどの実力がある猛者かのどちらかだ。

 岩崎くんは明らかに最近囲碁漫画を読んだ馬鹿の側なので、ぼくは腕まくりをしながら「いいだろう、どんな一局だって受けてあげる」と言った。

 そのままの勢いでぼくは五の五へ碁石を叩きつける。五の五はまあ、インファイトしてやるぜ! っていう場所だと思ってくれるといいかな。

 すると岩崎くんはニヤリと笑って、天元を中心にぼくが置いた石と点対象の位置へ碁石を置いた。

「お前は確かに、はじめたばかりの俺と比べれば少しばかり囲碁ができるようだけどな、こうしてお前の置いた石の対角に石を置き続ければ、勝利はなくとも敗北もあり得ないんだわ!」

「そっちのパロディする人初めて見たよ……」

 と、そんな感じでわちゃわちゃと囲碁を打っていると、ガラっと部室の扉が開いた。

「すいません、ここって民間伝承研究会であっていますか?」

「あー、あってるぜ」

 岩崎くんが碁盤を見つめたまま答える。お客さんなんだから丁寧にしてほしいな。

 入ってきた男の人は一礼して、「佐為籐ヒカルです」と名乗った。

「はじめまして、どうされたんです?」

 岩崎くんが囲碁の入門書をじっくり読んでいるので、仕方なくぼくが対応する。マネ碁する人に入門書はいらないよ。

 ヒカルさんは何かを言いかけて。

「……それ、囲碁ですか?」

 と打ちかけの碁盤に目を付けた。

 その瞬間、彼の目の色が変わったように見えた。

「打ちましょう。今すぐ打ちましょう。この続きからでいいです。この続きから、負けている側からでいいので碁を打たせてください。負けている方……って、これマネ碁じゃないですか。マネ碁なんて簡単に返されるんですよ。ここにこう打ってこうしてこうしてこう、ほら、黒の陣地はほとんどない。もう虫の息。マネ碁って言うのは絶対にやっちゃいけない作戦なんです。あー、このレベルかあこのレベルなら打ちごたえもないなあ。でも碁石に触りたいので打ちましょうよ。この白の方は少しばかり打てるんじゃないですか?」

「……」

「……」

 なんか早口で言ってそうだな、と岩崎くんが呟いた。

 実際すごく早口で、マネ碁を打った岩崎くんが馬鹿にされたことしか認識できなかったんだけど、この人なんなの?

 はじめ部室に入ってきたときは丁寧そうな雰囲気だったのに、今は囲碁のことしか頭にないように見える。

 仕方ないのでぼくが石を握って、一局打つことにした。

「……」

 秒殺された。

 鮮やかに殺された。

 囲碁って言うのは将棋やオセロと違って瞬殺されにくいゲームであり、ぼく自身ネット碁でそこそこに遊んでいた程度には腕がたつ。だからしばらくは敗北していることにすら気が付けなかった。

 強い。

 岩崎くんはこの人の打つ碁のレベルがわからなかったようで、「おまえ、弱いなあ」などと揶揄してきた。この人が強すぎるんだけどなあ。

 ヒカルさんは一局打って少しだけ満足したのか、お茶を一杯飲んで話し始めた。

「民間伝承研究会って、怪談バスターズって呼ばれていますよね。不思議な事件を解決できるって有名な……あの、笑わないで聞いてほしいんですけど」

「くっく、怪談バスターズって本当に呼ばれているのか俺たち。まあいいや。ああ、笑わねえよ。こちとら不可思議な事件には慣れっこだからな」

 岩崎くんがおかしそうに笑って、話の続きを促した。

「あの、俺、囲碁の妖怪に憑りつかれているんです!」

 んんんん?


 ヒカルさんは先日の夜中に誰かに後をつけられていたらしく、意を決して振り向くと真っ黒な体に真っ白な目をした少年と、真っ白な体に真っ黒な目をした少年が、自分の中に入りこんできたんだという。

 そしてそれ以来、常に頭の中に「囲碁を打ちたい」「囲碁を打たせろ」という声が流れ込んでくるらしい。

 放っておくと、コミカルな漫画だと吐き気を催す程度で済むところだけれど、彼に憑りついたモノはたちが悪く、インフルエンザに感染したときのような頭痛と眩暈がするようだ。

 そのせいでスマホの囲碁アプリは常時オン。さっきみたいに碁盤を見ると、自分でも抑えられないような衝動が沸きあがってくるらしい。

「なるほどな。ちょっと待ってろ。十分程度かな」

 そう言って岩崎くんは調べ物をするために奥に引っ込んだ。

 あとには碁盤とぼくとヒカルさんだけが残された。


 囲碁はとても面白いんだけど、ルールが煩雑でとっつきにくいのはよくわかる。そもそも初心者はいつゲームが終了したのかすらわからない気がする。オセロは全部が埋まったタイミング、将棋は王が、チェスはキングがとられた瞬間。カタンは誰かが十点に到達した瞬間など、普通勝利条件はわかりやすくあるべきだ。でも囲碁はなあ。

 よく写真撮影とかで、女の子と女の子に挟まれた男の子が「うわー、俺も女の子にならなきゃー」「タイ式のオセロ!」みたいなやり取りをすると思うんだけど、前後も女の子に挟まれていたタイミングでぼくが「囲碁なら消えてるね!」って言うと一様に「何言ってんだお前」って顔をされてしまう。四方向を囲まれたら囲碁なら消えるんだよ。

 そんなわけで岩崎くんが戻るまでひたすら碁を打ち、教えてもらっていたぼくは、またひとつ賢くなった。

「待たせたな。ヒカル。あんたに憑いているものの正体がわかったぞ」

 ヒカルさんは恐らく年上なんだけど、岩崎くんはいつものように上からの態度だ。

「名前はそのまま、『囲碁の精』。江戸時代の古書に記録が残っているらしいからかなり古い付喪神の一種だな。色白と色黒のコンビが話しかけてきて、それ以来驚異的に囲碁が強くなったらしい。普通は囲碁好きの前に現れるらしいし、憑りつくわけじゃなく現れてそれでおしまいらしいけど、まあ伝承は事実と異なることも多いだろう」

 囲碁の精。

 岩崎くんが言った通り、『知玄』と『知白』の二人と出会った人間が囲碁で負け無しになった、という伝承が元になったお話のようだ。

 伝承のままだったら、会って別れて強くなるだけなので、ヒカルさんに憑りついているものの方が脅威に見える。

「なるほど……それで、対策はあるんでしょうか」

 ヒカルさんが不安そうに聞いた。ぼくは妖怪退治の専門家、『怪異切り』の異名を持つ玲さんを呼ぶことを提案しようとしたけれど、岩崎くんはそれを制して指を一本立てた。

「囲碁の精が満足するまで碁を打ち続ければいいんじゃないか」


 ヒカルさんはその強さで大学の囲碁部を壊滅させた。


「……質の悪い碁を打つね」

 ぼくがそう漏らすと、岩崎くんは不思議そうな顔をした。

「ただ囲碁部の連中が弱っちいだけなんじゃないのか?」

「そうかもしれないけど、ヒカルさんは相手の心を折りに行くような打ち方をしているんだよ。自分の強さを見せつけるかのような、自分に絶対の自信があって、それを振りかざすような打ち方なんだ」

 ツヨイダロ、オレ。そんな声が聞こえるような勢いだ。

 囲碁は、勝負だけれど、ゲームだ。負けた相手を思いやらず、ただ自分が勝って気持ちよくなるためだけの打ち方は許しがたい。

 ぼくは珍しく憤っていた。

 岩崎くんはそんなぼくを物珍しそうに眺めながら、「じゃあ、どうする?」と聞いてきた。

 『怪異切り』の玲さんを呼ぶのは簡単だ。

 でも、それだとぼくの気が収まらなかった。

「岩崎くん、この一件、ぼくに任せてくれないかな」

 彼はにやりと笑って、快くいいだろう、と言った。


翌日。

「ヒカルさんこちらへ」

 ぼくはヒカルさんを碁盤の前に呼び出した。

 無邪気を装って問いかける。

「ヒカルさんの中には今、二人いるんですよね?」

「そうですね。白いのと黒いのがいます」

「その二人がヒカルさんを乗っ取っているなら、それぞれが囲碁のスペシャリストってことなんですかね」

 ヒカルさんは無言で頷く。

 ぼくは岩崎くんの不遜な態度を思い出しながら、できるだけどうどうと胸を張る。

「その二人って、どっちが強いんですか?」

 それを聞いた瞬間、ヒカルさんの体がビクン、と跳ねた。数秒の間があって彼が答える。

「『興味はありますが、試しようがない。わたしは二人で一つなのだから』」

 それは明らかにヒカルさんの声ではなかった。

 囲碁の精だろう。

 そういう二人に、ぼくは再び言葉を投げる。

「試すことは簡単だよ」

 ぼくは碁盤をポンポン、と叩いた。

 ヒカルさんが碁盤の前に座り、内なる心に言われるがまま石を置いていく。

 パチッ、と乾いた音が響く。

 色黒のほうが先手で黒の碁石。色白のほうが後手。

 初手天元やマネ碁などの奇をてらった囲碁はなく、王道で、攻撃的。それでいて丁寧な囲碁だった。

 右上の攻防。ぼく程度だとどちらが有利かわからない。

 右下の攻防。左右が繋がって最終局面へ。

 数時間かけて、決着がついた。

 黒のほうが、六目多かった。

 岩崎くんは途中から興味を失ったようで漫画を読んでいたけれど、ぼくはその美しい囲碁に魅了されていた。

 けれど本来の目的を思い出し、慌てて首を振る。ぼくはヒカルさんの耳元に囁いた。

「負けた白って、存在している意味なくない? 黒だけでいい気がするんだけど」

 バン! とヒカルさんが碁盤を叩く。敗北した白が暴れているのだろう。

「負けて暴れるって、みっともないなあ……」

 しばらくして、ヒカルさんはすん、と落ち着いた。

 驚いたような表情で「声が一つ、消えた」と言った。

 敗北感に打ちのめされた白が消滅したのだろう。

 あと一息だ。ぼくはスマートフォンを取り出して、もう一度ヒカルさんに向かって言葉を投げる。

「囲碁って、先手が圧倒的に有利なゲームなんですって。だから最近は“コミ”って言って、後手はあらかじめ六目半持っているっていうルールがあるんです」

「というと?」

「最後対極が終わった後、後手には六目半与えられるっていうことです。つまり、さっきの対局は黒の六目勝ちじゃなくて、白の半目勝ちなんです」

 ぼくは一息置いて、口調を変えた。


「現代のルールだと白の勝ちなんだけど、負けた黒って存在している意味あるのかなあ?」


 さっき言った通り、囲碁は先手が有利なゲームなので現代囲碁では六目半のハンデが与えられている。これは江戸時代の途中から生じたルールなので、囲碁の精は知る由もなかっただろう。囲碁部の連中やぼくは六目半どころじゃないレベルで叩きのめされたので、そのルールを知るタイミングがなかったと言える。

「コミを利用したロミオとジュリエットか」

岩崎くんが笑いながら言った。ぼくは頷く。

「ちょうど六目の差があったからよかったものの、五目とか七目の差があったらどうしてたんだ?」

「二人の実力は拮抗していると思っていたんだ。じゃないとコンビで行動しないでしょ。で、現代の確率計算で六目半がちょうどいいと言われているんだから、だいたい五目から七目で決着することは予想できた」

「ふむ」

 岩崎くんは言葉を続けろと言ったふうに顎をしゃくる。

「岩崎くんは興味ないだろうけど、コミは歴史が深いんだ。七十年ごろまでは四目半だったし、そこから五目半を経て現在の六目半に至る。アメリカでは七目半が用いられているんだよね」

「なるほどな。つまりついた差に応じて、出すデータを変えるつもりだったというわけか」

 その通り。七目の差がついていればアメリカルールを引き合いに出して黒を消し去る予定だった。

 囲碁の精は、自身の強さに絶対の自信を持っていた。だから、敗北感を味合わせることで対消滅を狙ったというわけ。

 作戦は成功だった。

 こうしてぼくは『怪異切り』の玲さんに頼らずに、囲碁の精を消し去ることができた。

「しかしさっきのお前、なかなかいい顔だったな」

 岩崎くんが珍しくぼくのことを褒めた。

 それが少し嬉しくて、思わず顔が緩む。

「まあ、不思議現象をいくら解決したところでお前が言う『都市伝説になりたい』という夢が叶うわけじゃないけどな」

「でもほら、ある日突然囲碁が強くなるだなんてちょっと都市伝説っぽいところあるでしょ。それに出会えただけで夢に一歩近づけたんじゃないかな」

 岩崎くんは鞄を背負って「言ってろ」と言った。


 後日、大学の囲碁部を叩き潰した人間を、民間伝承研究会の岩崎が叩き潰した、という噂が広まっていた。


 あれ、ぼくは?



<『い』ごのせい 討伐>

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