第12話 混乱

 父親が帰ってこない。夜狩りの仕事は太陽が登るまでだ。だから、父はいつも昼前には家に帰ってきていた。一人前とされる第三プロティアたちは街の外に出て《夜》を狩り、生活費を稼ぐ。そしてたまに来る連合からの要請を片付ける。それが日課で、ラドルファスもいつかそうなるのだと漠然と思っていた。


 サイラスとて子供ではない。まだ時刻は夕方前だ。心配する程ではないかもしれない。ただ、ラドルファスはどうしようもない胸騒ぎを覚えていた。


「ちょっと出てくる!」


「ラド、待ちなさい! 危ないでしょ!」


「まだ夜じゃないから大丈夫だ!」


「ちょっと​──────」


 母が止めるのを無視して、ラドルファスは家を飛び出した。外は夕暮れも近く、人影はまばらだった。父がどこに行ったのかは分かっていた。ラドルファスもよく一緒に訓練をしていた街にほど近い森の中だ。森、といってもそう深いものではなく、宵喰もたいして住んでいない。それこそ昼間には村の人々が枝を拾ったり、果実を取りに来たりするような、そんな場所だった。


 が、森はいつもとはかけ離れた姿に変貌していた。真っ白な炎がそこかしこに燃え盛り、見るだけで気分が悪くなってくる。不思議なことに、炎は木々を全く燃やしていなかった。吸い寄せられるように近づいたラドルファスは、殆ど骨だけになった鳥が地面に落ちているのをぼんやりと眺める。この炎は動物だけを燃やすのかもしれない。


 そこでラドルファスは正気に戻った。この明らかに異常な事が起こっている森に、父がいるかもしれないのだ。もたもたしていれば、大変な事になるかもしれない。


「護れ深樹のくびき、二百五の門よ」


 一番基本的な暁ノ護法が、ラドルファスの周りを障壁のように取り巻いた。これで炎から身を守れるかは分からないが、急がなければならない。


 勢いに任せて飛び込んだそこは、地獄のような状態だった。今まで体験したこともないような熱気と目も眩むような炎、焼け焦げた動物たちの死骸。植物だけが燃えていないのが不気味で仕方がなかった。


 ラドルファスは慌てて周囲を見渡す。しかし、手がかりになりそうなものは見当たらない。この勢いだと長くはここに居られない。走っても走っても、小さいはずの森に終わりはないように思えた。


 ふと空を見ると、闇の帳が羽を広げていた。血の気が引く。もう夜になる。いつ奴らと遭遇してもおかしくない​─────その時、彼の視界の端に赤いものが映った。はっとして目を凝らすと、それは血だった。量はそれほどでもないが、垂れた血が森の端へと続いている。


 急いでその跡を追うと、程なくして森の外に出る。それと同時に、《夜》の唸り声と​、何かを咀嚼するような水っぽい音。


 ​────そこには確かに父がいた。右腕は焼け爛れて人間の腕と認識できないような状態になっており、今まさに左脚を《夜》が喰らっている所だったが。


「あ……ぇ……?」


 ラドルファスは震えながら意味のない言葉を漏らすことしかできない。目の前の光景は悪夢のようで、しかしどうしようもなく現実だった。崩れ落ちるラドルファスの気配に気がついたのか、サイラスが振り返る。


「ラ……ド……」


 激痛に震える声で名前を呼ばれかけた瞬間、ラドルファスの中で何かが弾けた。


「ぁ、あああああああぁぁ!!」


 先程まで動かなかった身体が嘘のように、ラドルファスは腰から短剣を抜いて《夜》に襲いかかった。​────焦りと油断は禁物だと、他でもないサイラスに口を酸っぱくして言われたというのに、そんな事は一瞬で頭から抜け落ちていて、


 続く刹那。


 凄まじい衝撃がラドルファスを襲った。


「がッ……!」


 骨がひしゃげる嫌な音がして、口から押し出された血が溢れた。地面に叩きつけられたラドルファスは、ほとんど本能で追撃を受け止める。二匹目の《夜》が彼の上にのしかかっており、身動きを封じていた。迫り来る牙から必死で急所を守りながら、砕けた骨の激痛にも構わずに身を捩る。しかし、《夜》はその程度の力など気にも止めない。


「くそ……! 離せ!! 離せよ……ッ!!」


 目の前では黒い靄に包まれた牙が、白炎に反射して不気味に光る。


 乾いた枝を思い切り踏み抜くような音がした。


 ◇◇◇


 街は大混乱に陥っていた。《竜殺しの街》アストラといえども、人々の全てが六翼の竜を堕とす気概があるわけではないようだ。​─────いや、空に浮かぶあの巨体を見れば、一目散に踵を返したくなるのも大いに共感できる。あれはもはや災害のようなものだった。


「ターラントは何をしているのでしょう……避難誘導が進んでいない」


 隣を走るレスティリアが呟いた。逃げ惑う人々はまるで統率が取れておらず、何人か誘導しようとしている人もいるようだが、多勢に無勢だ。


 ラドルファスとしては、いつまでもレスティリアのお守りをしている訳にもいかなかった。街の外に出現した《夜》を狩らなくてはならないし、何より​─────ラドルファスには黒竜を殺さねばならない理由があった。あの森を地獄に変えていた白い炎。あの時父を喰らった下級の《夜》ごときの力ではないと、彼は身を持って知っていた。父をあそこまで追い詰めたのは、上空に浮かぶ六翼の竜で間違いない。


「……なあ、今どこに向かってるんだ?」


「ご自分の仕事もあるのに、護衛をして頂いて申し訳ありません……ただ、これから向かう場所は、あなたにも利益をもたらすはずです」


「どういう意味だ?」


「私が向かっているのは、街の中心です。そこに、夜の力を大幅に失わせることが出来る……東雲結界アストリアスがあるのです」


東雲結界あすとりあす……?」


 疑問を呈したのは、涼しい顔でラドルファスの横を走るサフィラだった。《影》ということだけあって、基礎体力はあるらしい。レスティリアは、《影》であるサフィラの言葉にも嫌な顔ひとつせずに頷いた。


「はい。東雲結界アストリアスを起動できるのは、巫女である私だけです。この街に代々伝わる非常に強い結界で、街から広い範囲に効果を及ぼすと聞いています……ただ、一度起動すると溜まった法力エンシェントが失われ、その後五十年ほど使用困難になるとも……」


 ​─────確かに、それはラドルファスにも利益がある話であった。結局のところ、ラドルファスとて一人で、いや二人であの竜を狩れるとは思っていない。目の前の巫女の協力は必要だろう。


「分かった。そこまで、俺たちが無事にあなたを連れていこう。この剣にかけて」


「ありがとうございます。このお礼は必ず」


「いいんだ。あの竜を殺すために協力してくれれば、それで」


 ラドルファスがそう答えると、巫女は少し不思議そうな顔になった。


「……どうして私たちに力を貸してくださるのですか。先程無礼を働いたばかりなのに……」


「……あの竜は、俺の父親の仇なんだ」


 少し迷った後にそう告げると、レスティリアは後悔するような表情を浮かべ、手に持った槍を握りしめた。


「……すみません。辛いことを……」


「俺が自分で言ったことだ。それに、俺は夜狩りだからな。目の前に《夜》がいるのに、逃げるなんて選択肢はないさ」


 それを聞いたレスティリアは、眩しさを感じたかのように目を細めて優しく頷いた。少し恥ずかしくなったラドルファスは目を逸らすが……そこで、サフィラが頬をぷくりと膨らませて不満そうな表情を浮かべているのに気がついた。


「……サフィラ?」


「別に、なんでもない」


「いや、それなんでもないっていう顔じゃ……」


「なんでもないったらない!」


「わ、分かった……」


 ひどく間抜けなやり取りをしている自覚があったので、ラドルファスはレスティリアの方へ向き直ったりはしなかった。予想だが、より羞恥心が高まる気がするからだった。


「もうすぐです!」


 一瞬弛緩した空気を引き締めるように、レスティリアが叫んだ。彼女の言う通り、前方に広場のようなものと、長い石柱が見える。走る速度を上げた彼女に合わせてラドルファスも足に力を入れた瞬間、


 吠え猛る《夜》の声と、人間の悲鳴が響いた。















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