第3話 暁ノ法

「サフィラ! どうして……!」


 ラドルファスは助けられたことも忘れて叫んだ。《夜》は完全にサフィラを認識したようで、彼女に向かっておぞましい咆哮を上げる。魔眼が閉じられていようとも、その禍々しい気配への恐怖は容易に拭えるものではない。サフィラの与えた僅かな傷も、瞬きの間に修復されている。だが、彼女は気丈にも《夜》を睨みつける。そんな行為に意味はないはずなのだが、《夜》はまるで怯んだように唸り、こちらの様子を伺っている。


「ラドルファス、私の力、使って」


「力……?」


法力えんしぇんと。私はたくさん持ってるんだと思う。あなたのために使いたい」


 そこでサフィラは、泳ぎでもしているかのように息を継いだ。夜のことも一瞬忘れて、思わず彼女の顔を見る​──────《影》の少女は、瞳を静かに伏せた。今にも泣きそうな、子供の顔だった。


「……やっぱり《影》なんかの力、使いたくない?」


 彼女はそっと囁いた。その瞬間、ラドルファスには分かった。サフィラはきっと、今持てる最大の勇気を振り絞っている。散々に虐げ、あらゆる尊厳を踏みにじったであろう人間を、信じてくれている。今この瞬間だけは、ラドルファスを信じてくれているのだ。


「そんなわけ、ないだろ」


 頭の中から《影》に対する憎しみが抜け落ちていった。いや、この少女は《影》ではなくサフィラだ。自分を精一杯信じているひとりの人間を、自分もまた信じるのだ。ラドルファスは勢いよく、短剣で自らの指を切った。


「サフィラ、力を貸してくれないか」


 ぱちり、とサフィラは瞳を瞬かせた。しかし動揺は刹那、彼女は顔を綻ばせる。


「もちろん」


 差し出されたちいさな手に、ラドルファスは自らの血で簡単な陣を刻む。仮契約だ。《影》や宵喰から法力エンシェントを提供してもらう場合、法力回路エンシェント・パスというものを構築する必要がある。回路を通じて、法力エンシェントが人間の身体に通るのだ。そのために一番手っ取り早いのは、互いの血を利用することである。


「……ッ!」


 繋がった、という感触と共に、凄まじい力の奔流がラドルファスの身体を奔った。骨まで軋むような冷たさが、身体の隅々まで突き抜けていく。思わず歯を食いしばった。


(なんて量だ……! これほどの法力を持つ《影》なんて見たことがない!)


 こちらの出方を伺っていた《夜》は、急な法力エンシェントの膨張に危機感を覚えたのか、ラドルファスの何倍もの速さで鉤爪のように尖った翼を打ち下ろす。狙いはサフィラだ。


(守りたい。俺を信じてくれたサフィラを!)


 今までにない疾さで一対の短剣が軌跡を描く。サフィラの法力エンシェントが流れてから、周りの景色が減速されたように感じる。キィィ!と耳障りな音と共に翼が弾き返され、その片翼のバランスの悪さも相まってか、ついに《夜》が体勢を崩した。ラドルファスはすかさず暁ノ法を喚ぶ。


「叫べ風の狂槌! 三十五の門よ!」


 ことば法力エンシェントにより《門》から猛風が呼び出され、《夜》の一つ目の頭に直撃した。暁ノ攻法「スレイプニル」。莫大な法力エンシェントを使用した一撃は、朝露石を使っていた頃とは比べ物にならない威力だ。《夜》の頭がひしゃげ、黒い霧のようなものが辺りに散乱する。明確な苦痛の呻き声を上げた《夜》は、よろよろと距離を取ろうとした。あれは再生まで時間がかかるはずだ。


(もっと……もっと速く……!)


「駆けろ疾風の大鷲、六十六の門よ!」


 暁ノ呪法「ラピッド・ウイング」の効果で、ぐん、と身体が加速する。未だかつて至ったことのない圧倒的な速さ。肉が軋むのを感じるが、そんなことは関係ない。もっと速くなれる。風すらも追い越す境地へ!


 ラドルファスの一対の短剣が、舞うように宙を駆け抜ける。夜闇を切り裂く眩い切っ先が、無数の軌道を作り出す。七本の尾は瞬く間に四本になり、中央の頭が原型を残さずに闇に溶けた。


 《夜》は聞くに耐えない奇声を上げて暴れ回る。ここまで追い込んだのにも関わらず、核はまだ見当たらない。しかし、どこかに必ずあるはずだ。探して破壊する他に道はない。暁ノ法を教えて貰えなかったラドルファスには、殺す方法はそれしかないのだ。最後の頭の中に核があるかもしれない。刃が向いた瞬間、唐突に身体が硬直する。


(なんだ……!?)


 視界の端に、ぎらぎらと敵意の炎を燃やす目が写った。魔眼だ。先程切り落としたしたばかりの中央の頭が再生している。が、尾や翼はそのままだ。


(……そうか! 中央の頭に再生力を集中させて……!)


 動け、と脳が焼き切れるほどに命令するが、固まった身体はぴくりとも動いてくれない。今度こそ命を狩り取ろうと、残りの四本の尾が鋭く向かってくる。後ろでサフィラが叫ぶ。だが二回目は通用しない。法力回路エンシェント・パスを繋いでいる影響か、元々威力のない素の法力エンシェントはさらに弱まり、《夜》はよろめきもしなかった。


(こんな所で……!)


 死が喉元に降りる​──────


夜明けデイブレイク


 転瞬。朝の光が、万象を灼き尽くした。


 何かを思考する間もなく、視界が暁光に染まる。いっそ暴力的なまでの光は夜も闇も吹き飛ばし、断末魔さえ許されることなく、《夜》は朝の光に飲み込まれて消えていく。地面に自分の身体が落下するまで、ラドルファスは舞い降りた朝に目を奪われていた。


 やがて、少し薄くなりつつある闇が光を薄れさせていくと、ようやく周りが見えるようになった。サフィラが駆け寄ってくるのが分かるが、ラドルファスは、目の前に立つ人物に完全に気圧されて立てなかった。


 星明かりを編んだような長い銀の髪に、静かに獲物へと近づく豹のごとくしなやかな体躯、肩には黒い小竜が止まっている。加えて鋭く切れ長な翠の瞳。数瞬の間、男だと気づけなかったくらいのうつくしさだ。


「おい、そこのお前。『それ』はなんだ?」


「それ」が後ろで恐怖に縮こまっているサフィラを指しているのだと、一瞬遅れて理解した瞬間、先程の印象も忘れるほどの怒りがこみ上げてくる。


「.......サフィラがどうかしたのか」


 溢れ出たのは敵意さえ滲むようなぶっきらぼうな言葉で、案の定目の前の男は顔を顰めた。


「お前、どうしてこの時間に夜が現れやがったのか理解してないのか? そいつが誘蛾灯になってんだよ。自分の物の管理もまともに出来ねぇのか……」


「……っ、サフィラは物じゃない!」


 少し前に滲み出た憤りを遥かに凌駕する勢いで怒りが押し寄せ、ラドルファスは思わず男に掴みかかろうとした​──────が、あっさりといなされて逆に地面に転がされる。あまりに鮮やかな手際に抵抗の余地すらなかった。


「彼我の実力差すら悟れないとは、どうやら頭も弱いらしいな。どうする? 俺としては、ここに馬鹿の死体を二つ生産してもいいんだが?」


 最大限の侮辱に腸が煮えくり返るような心地を覚えるが、男の言う通り、実力の差は圧倒的だ。ラドルファスとサフィラは、次の瞬間に死体になっていてもおかしくない。


「……すみませんでした」


「ま、いいだろう」


 男は存外あっさりとラドルファスを放した。


「とにかく、そいつの法力エンシェントを何とかできなけりゃ、わんさか夜が集まってくるぞ。まあ、俺は仕事が増えるから良いがね」


 そう言い残すと、男はくるりと背を向けて去っていこうとする。しかし、ラドルファスは夜狩りとしてはまだ未熟な身だ。当然サフィラの法力エンシェントを封じる方法など知らない。では彼女を殺すかといえば、論外だ。かといって、このままでは一般人に被害が出るかもしれない​。ラドルファスの力では、次二体以上の夜が襲ってくれば耐えられない──────


 そこまで考えて思い至る。自分が苦戦した夜を一撃で葬り去った男の実力を。この力ならば第二セーデは確定だろう。あるいは、第一シビュラに至っているかもしれない。サフィラの力を抑える方法だって知っているのではないか。


「待ってく……ださい!」


 待ってくれ、と言いかけて慌てて変更する。また男の機嫌を損ねては大変だ。言ってから、この男は人の言うことを聞くのかという不安が今更ながらやってくる。が、意外にも男は足を止めると、面倒そうに振り返った。今からやろうとしている事を未だに心のどこかは受け入れていなくて、一瞬躊躇った。けれど、


(……もっと強くならないと、サフィラ一人すら守れない)


「俺をあなたの弟子にしてくれませんか!」


 お願いします、と深く頭を下げる。後ろのサフィラからは驚いたような気配が伝わってきた。


「はァ?」


 男は流石に少し面食らったようで、僅かに考える素振りを見せた。


「なぜ俺がそんな事をしなきゃならねえんだ? 大体、俺はもう弟子を取らないって決めてんだよ」


 そのまま歩いていこうとする。何とかして引き止めなくてはと思うが、咄嗟に言葉が見つからない。そんなラドルファスを救ったのは、男の肩に止まる小竜だった。恐らく宵喰だろう。


『まあまあスライ、ちょっと試すくらいはしてあげてもいいんじゃない?』


 小竜が流暢に人の言葉を操ったことに驚いていると、スライと呼ばれた男は嫌そうな表情を浮かべた。


「ランディ、俺になんのメリットがある?」


『その子を置いとくだけで夜狩り放題だよ? それに……ほら、君の「あれ」の解決にも役立つんと思うんだけどなー』


「…………」


 男は不機嫌そうにしながらも、一応考えているらしい、黙りこんだ。が、すぐにこちらに向き直る。


「……一週間だ。お前が俺の弟子にふさわしいかどうか判断する。素質がないと思ったらすぐに出ていってもらう。それでもよけりゃついてこい」


 反射的によろしくお願いします、と言いかけて、ラドルファスはまだ名乗っていないことに気づいた。案外すんなりと事が進んだことにまだ現実味を感じられない。


(なんだかんだ言って助けてくれたし、ちょっと……いや大分口は悪いけど、意外といい人なのかもな)


「俺はラドルファス・ブランストーン、後ろのはサフィラです! よろしくお願いします!」


「……シルヴェスター・ヴァレンシュタインだ。九分九厘一週間後まで持たないだろうが、精々頑張りな」


 ​──────言ってないが、ラドルファスは前言撤回したくなった。この人と上手くやっていけるのか、始まってもいないのに不安が募っていく。溜息が口から飛び出そうになって、慌てて飲み込んだ。


(苦労しそうだ……)














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