第29話 バレンタインと羽のない妖精
ホテルのツインルーム。
備えてある電気ポットで湯を沸かし、ココアの粉末を入れたマグカップに湯を注ぐ。それをスプーンでかき混ぜていた時、浴室から蒸気と共にタナリアスが出てきた。
彼は肩にかけたタオルで髪を拭きながら、冷蔵庫を開けてボトルを取り出す……彼が水を飲んでいる時、生々しい傷跡がバレンの目に入った。
「あなたって、セイレーンなの?」
筋肉質で逞しいその白い背中には、肩甲骨の溝に沿って二つの傷——。
確か、レヴィはタナリアスの事をセイレーンだと言い、彼もそれを否定しなかったことをバレンは思い出した。
「あぁ。」
「……何で、わたしを助けてくれるの?」
あのふたりに襲われた時、彼は自分を見捨てず戦い守ってくれた。その後も安全な場所へ逃げようと飛行機を調べ、一緒にロンドンへ……そうして今、宿のホテルでふたり一緒にいる。
何故、見ず知らずの者にそこまでするのか……見返りを期待しているのかもしれない。しかし、彼の言動から度々お節介のようなものをバレンは感じていた。
「困っている者に手を差し伸べて、良い奴ぶるのが好きなものでね。」
「ダズビーにも言ってたけど、冗談よね?」
「冗談でもないさ。誰かを助けることが、私の〝贖い〟なんだ。」
「贖い? ……それって、何の?」
軽い話ではない事を、バレンはなんとなく察した。会って間もない彼の、個人的な部分に踏み入るつもりはない……しかし、恐る恐るを聞いてみる。
バレン自身が無意識に確認したかったのだろう。一緒にいる者が悪人かどうかを。
タナリアスの方も、自分がどういう者か知った上で共にいるかどうかをバレンに判断させるべきだと考えていた。
バレンはマグカップを持ったままベッドに腰を下ろし、聞く姿勢に入る。
すると、もう一つのベッドにタナリアスも腰を下ろし、バレンと向かい合った。
「……昔、暴君に仕えていた。」
どれくらい昔なのだろう——?
対して重要ではない余計な質問を飲み込んで、バレンはタナリアスの話に耳を傾けた。
「彼の言うまま、女子供関わらず無害な者たちを殺し、時には殺すより酷い事をした。アトランティス侵略にも、加担した……私は、正真正銘の悪人だ。」
アトランティス侵略——
それは誰もが知る、歴史に大きく刻まれた大規模な侵略戦争である。その昔、神秘の大陸を手に入れようとアハ・イシュケを中心とする水の妖精たちがアトランティスに攻め入った。その時地中海を治めていたセイレーンの一族はアトランティス側についていたのだが、実はアハ・イシュケたちと内通しており、彼らはアトランティスに味方をするケルピーたちに鉄の轡を噛ませアトランティスを窮地へ追い込んだ——
「悪い事だと分かっていて、その王様に従っていたの?」
「あぁ。王が絶対であることを、私は受け入れた……一度捧げた忠義を取り消すことはできない。」
周りは、傲慢で残虐で略奪を好むスルゥに王としてのカリスマを感じていた。強欲で多くを望み、それを叶えていこうとする彼に、タナリアス以外の誰もが焦がれたのだ。
そして、同族や自分を慕い敬う者に対しては手厚いという部分も含めて、スルゥは王に選ばれた。
仲間の多くが認めた王ならば、自分も認め、従うしかない。私情を挟まず彼に仕え忠義を貫くと、タナリアスは誓った。
誓いは破れない。破るためのものではないのだから当たり前だが、妖精の誓いと人間の誓いは重さが違う。場合によっては、妖精は嘘をつくと死や災いへ追い込まれるのだ。
「主君の命令や行いに疑問を抱こうとも、私は自分の意思と真逆の行動をとり続けた。結果、後悔しか残らなかったよ。自分で選択して貫いた忠義を、人生最大の汚点だと考えている時点で、私には信念がない。あの時自分の意思に従っていたとしても、きっと私は後悔していただろう……一度捧げた忠誠を、なぜ偽りにしたのかと。」
「どっちをとっても後悔するってわかってるなら、後悔する必要なんてない。選んだ後は、前向きに考えなくちゃ。」
「それは最もな意見だが……私は、シンプルな男ではないのだよ。」
「知ってる。あなたって面倒臭そうよね、皮肉で理屈っぽいところあるし。」
「……。それで、こんな私といて君は大丈夫なのか? 私の身の上を聞いて疑心を抱いたのなら、私は君の前から姿を消そう。」
———正義感がある。根は真面目……良くも悪くも、真面目。
彼の話を聞いてバレンが感じたのは、そんな印象だった。だからきっと、タナリアスは悪い人ではないのだろう……バレンは、そう思うことにした。
「そばにいてちょうだい。わたしひとりじゃ、何もできないんだから。」
側に誰かがいるだけで、気の持ちようは違う。
例え彼が、弁護しようのない極悪人だとしても———程度にもよるが、バレンはタナリアスと共にいる事を望んだかもしれない。
「……そうか。なら、私は君の助けになろう。それで、マーティンは……彼は、今も生きているのか?」
バレンが初めて創造魔法を使った時に生み出した、とても賢い小犬のマーティン。
彼女を逃した後、彼はどうなったのか。今バレンがマーティンを頼っていないということは、彼はもう——。
しかし、バレンの返答はタナリアスの予想をあっさり覆した。
「生きてるわ。わたしがミラにいる間も、たまに連絡をとってた。彼、今はウェントワースのラボの局長をしているの。研究者になるのが夢だったマーティンにとって、あそこは最高の環境よ。だから、彼の邪魔はしたくない。困らせたくないし、頼りたくないの……。」
「君がいなくなって真っ先に疑われるのは彼だが……無事だったんだな。」
「彼はとっても賢いから。わたしのことは天使に拐われたように画作したわ。」
ゴーレムで天使の見た目を再現し、監視カメラのある場所でゴーレムにバレンを襲わせる。そのあと親友が攫われて悲しむ迫真の演技を見せると、誰もマーティンを疑わなかった。
「君が消えた後もマーティンはカンヴァースの研究所で働き続け、その後出世してウェントワースに移ったと。」
バレンは静かに頷いた。
ウェントワースにある7つのラボの職員は、優秀な者のみに限られる。そこの局長にまで上り詰めたとなれば、マーティンは研究者として相当に優秀なのだろう。そんな知恵者がバレンの友達だというなら、彼を頼らないわけにはいかない。なにより彼は、バレンの事情を知っている。マーティンこそ、バレンが頼るに適した人物……ではなく、犬だ。
「……バレン。やはり、彼を頼るべきだ。新しい物語を描いてそこに逃げ込むという選択肢は、君の中ではないんだろう?父親と仲直りできるかどうかも、分からない。」
「でも……」
「あれもこれも嫌だと言うのは、何もしていないのと同じだ。状況は何も変わらない。そのうちまた、この前のふたりが追ってくる。」
タナリアスの言う通りだった。
彼は色々と案を出してくれているが、バレンはそれを拒否するばかりで代案すら出していない。
「私の背中を見ただろう、私には翼がない。魔力の大部分を失ってまともに飛ぶこともできないし、戦闘も強いとは言えない。つまり、私ひとりでは君を守っていけない。」
「!……翼なら、わたしが治してあげるわ。わたしなら治せる!」
バレンはタナリアスのベッドへ移り彼の背中へ回ったが、彼はバレンに背を向けんと振り返った。
「せっかくの申し出だが、断るよ。これは、私の罪なんだ。背負っていかなければならないものなんだ。」
全てをなかった事にしたくない。
屍山血河を築いたことも。あの大きな侵略戦争で生き残ってしまったことも。彼女が死んで、自分はまた死に損なったことも。
〝ない翼〟は、過ちの象徴だった。
「——バレン、マーティンとコンタクトをとろう。」
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