第17話 邪竜と悪魔


 イタリア・ローマ 夜間


 男にとって、欠けているものなど何一つなく。

 妻を持ち間も無くして息子ができて、今年は待望の娘が産まれた。家庭は裕福ではないが、貧乏でもない。それでも、人並みの幸せの中で最高の幸福を男は見出していた。


「見てッ❤︎ あっ……ほらぁっ❤︎」


 枕元に足を投げ、頭のみベッドの淵から垂れている。

 一糸纏わぬ男の上———、一糸纏わぬ少女が、甘美の声を上げながら体を揺らしている。


 頭に血が上り詰める窮屈な意識の中で、男の逆さまの視界には、幸せにすると誓った家族の姿がはっきりと映っていた。

 5歳の息子は、静かに泣いている。

 おそらく、目の前の行為がなんだかは理解していないだろう。ただ、父親が被害者の立場にいることは理解しているようだった。

 妻は赤子を胸に抱え、静かに泣いている。

 息子と自分の視界を遮りたいところだが、それはできない。

 少女の指示通り壁を背にしてベッドの前に立たされた時より、妻と息子の体は指一本、1ミリとも動かすことができなくなった。無論、瞬きすらできない。


 なぜ少女は、そこに立つよう妻と息子に指示を出し、そのあと体の自由を奪ったのか。

 なぜ少女は、ベッドの淵から頭をはみ出させて男を寝かせているのか。

 態々説明するまでもない、見せつけるためだ。

 夫が自分以外の女と絡み合っているところを、妻に見せつけるため。それを見て絶望する妻を、夫に見せつけるため。


「あぁっ❤︎ すごい❤︎ ねぇ、感じてる? わたしで、感じてる?」


 涙で男の視界が、ぼんやりと霞んでゆく。

 体に熱が迸り、少女の柔肌を心地よいものだと感じている……。不快や嫌悪で満たされるべき心が、快感によって満たされていくことに罪悪感を抱く。

 そんな男の心情を、少女はわかっていた。

 いつのまにか少女の手に持たれていた、小さな刃物…それを両手で握り振り上げたのを、妻は見ていることしかできない。

 自分の意思で体を動かすことができる男は、少女の姿が目に入っていれば、すぐさま抵抗を始めただろう。

 しかし、男の体制上、視界には妻と子しか見えないのだ。


「天国にぃ〜っ、連れてってあげる❤︎」


 刃物を振り下ろそうとした時、少女の体は突如としてベッド脇の壁へ追いやられた。

 妻の視点では少女がひとりでに吹っ飛んだようにしか見えなかったが、実際には現れた人影が少女の首を掴んで攫い、壁へ叩きつけたのだ———瞬く間に。


「ルシファーちゃん……❤︎」


 首を掴まれ壁に押しやられたまま、うっとりと……悦楽に満ちた少女の瞳は、苦悶を露わにしている男の険しい顔を見据えた。

 そこのベッドで組み敷かれていたのはこの男では無いが、まるで自分の胸が引き裂かれたように、彼は悲痛の顔色をしている。

 黒ワイシャツに黒スーツの装い、側頭部を刈り上げて癖毛を後ろに流したオールバック。

 紅瞳は緊張感を放っているが、普段だと、やや垂れ目な目元がそれを少し緩和している。しかし今の彼はとても険しい顔をしているので、その眼光は何にも補われず鋭いものとなっていた。

 そして彼は、澄んだ低い声を怒りで震わせた。


「何を、しているんです……!」


「×××❤︎」


 ぱっと答えた少女に、羞恥する様子はなかった。


「何故ッ……こんなことをなさる?! この家族が、貴女に何かしたのですか?!」


「このッッ悪魔! 汚らわしい! あんたは卑劣で下劣よ!ドブネズミ女!地獄へ堕ちろ!!!」


 少女によってかけられていた魔法が解かれ、女は息子と赤ん坊を抱きしめながら呪詛を叫ぶ。

 起き上がった夫はすぐに妻へ駆け寄ると、もう離れないと言わんばかりに家族を強く抱きしめた。


「悪魔ぁ? わたしは、ドラゴン❤︎ 悪魔は、カレ……❤︎」


 少女は親指の黒い爪先を、ルシファーへ向けた。

 彼は一旦少女から手を離すと、家族の元へ近寄ってしゃがみこむ——


「……大丈夫。あなた方は世界で1番、幸せな家族だ。」


 ルシファーの紅瞳が、数秒間鮮やかな色を放つ——

 記憶操作の魔術を施した後は眠りのまじないをかけ、家族全員をベッドへ運ぶ。

 男に服を着せて振り返った時には、少女も服を着ていた。

 ハーフツインテールに結われた、濃い赤紫色の髪。

 黒のレースインナーにコルセットベスト、下はレースのミニスカート、デニールタイツにショートブーツ。

 幼さの中に妖艶さを孕んだ彼女の美貌と肉体は、多くの者の目に留まることは確かだった。特に、異性は思わず手を伸ばしたくなるだろう。

 しかし、無邪気に残虐を成す姿を目の当たりにした時、誰もが目を背け、手を引っ込めるに違いない。


「脳の中でね〜? 食欲と性欲を司る部分は隣り合わせにあるんだって❤︎ だからね、どちらかが満たされれば片方も少しは満たされるらしいの❤︎ それで、わたしは選ばせてあげたの……ローストベビーを作ってわたしに食べさせるか、旦那をわたしと×××させるか❤︎ 息子を人質にとったら、この夫婦はすぐに後者を選んだわ❤︎」


 口調こそおっとりとしているが、その言動は怖気が走るものである。


「この刃物はなんです?」


 少女から奪い取ったナイフを床に投げる。

 地に落ちたそれは塵を放ち始めると、やがて音も無く消え去っていった。


「プレイの一環❤︎ 殺す気なんて、なかったよ?」


「ノエル……どうか、その憎悪は私にのみ、ぶつけてください。罪のない、関係のない者を———……」


「憎悪ぉ? わたしがいったい、何を憎んでるっていうの?」


 ノエルはルシファーへ詰め寄ると、愛らしいしぐさで彼の両手を握っては、満面の笑みを浮かべた。


 嫌な予感がした———


「"その赤ちゃん……オーブンで焼いて❤︎"」


 ルシファーは夫婦の間で寝かせていた赤子を持ち上げると、部屋を出た。

 その直後、切迫して荒んだ声が家中の空気を震わせる。


「取り消してくださいッ!!!」


 契約による〝強制〟———


 半年ほど前、彼は彼女と契約を交わした。

 しかしそれは、悪魔とその召喚者の間で交わされる一般的な魂の契約ではない。

 彼らの間で交わされたのは、生涯破ることのできない〝隷属の契約〟。主はノエル、奴隷はルシファー。

 契約上、奴隷は主からの命令には決して抗うことができない。

 主が"解放する"と言うまで、あるいは、主が死ぬまで。この契約は有効である。


 赤子を手にルシファーは一階へ降りて行き、その背中に高笑いを浴びせながらノエルがついて行く。

 彼は声を掠れさせながら訴え続けたが、そのほとんどがノエルの笑いにかき消された。

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