第8話

「貴様の都合などどうでもいい。」


 案の定、ジルに有無を言わさずフランチェスカは拳を放った。

 その一発は綺麗に顔面の中心に入ると、ジルの体は数十メートル吹っ飛び店外を出て歩道の地面を弾みながら転がる。

 ジルが起き上がろうと頭を上げた時には既に、フランチェスカが目の前に立ちこちらを見下ろしていた。

 伸ばされた手がジルの胸ぐらを掴み彼女を地面に叩きつけると、パンチラッシュが始まる————


 ドッ……ガッ! ガッ! ガッ! ガッ! ガッ! ガッ!


 ひたすら強烈な打撃をもらい続けるジル。

 彼女は抵抗を一切とせず、声すら出さなかった。


「おい……貴様、何故抵抗しない?」


 フランチェスカは一旦、拳を止める。

 彼女はもっと、壮絶な戦闘になる事を想像していた。ところが現状、なんともぐだぐだとした地味な戦いである。

 これは戦いと呼べるのか。こちらが圧倒的力でねじ伏せているわけではないことくらい、彼女にだってわかる。


「やる気がないからだよ。」


 そう平然と答えるジルの顔は見るも無残に腫れ上がり血を吹き出しているが、よく見ると徐々に腫れがひいていき〝再生〟されている。


「やる気がないだと? お前はッ……欲望のまま暴れ回り肉を貪る、血に飢えた下劣な竜だろう?! まさか、反省しているとでも言うのか!!!」


 怒りの籠った声で、フランチェスカは叫ぶ。

 反対に、ジルの返事は物静かだった。


「反省などしていないさ。君たちが獣を狩って食べるように、私もそうしただけなのだから。」


 ジルの顔がすっかり元どおりになった時、フランチェスカは彼女を引っ張り起こし、強い一発を再び顔面にくらわせた。


「己が生きるためだと? お前は喰い散らかしたドワーフの亡骸を態々、私たちの元まで投げ捨てに来たではないか! 時に村を襲い、獲物を追いかけ回して遊んでいた……明らかに殺戮を楽しんでいたではないか!」


「それは———そうだな……退屈な時は少々、行き過ぎたことをしたかもしれない。血に飢えた下劣な竜なので。」


 その時、ジルは腹部にほんの違和感を感じた。

 視線を下に落とすと、フランチェスカの右の拳から出た三本の鉤爪の刃が自身の脇腹を貫いているのが見える。

 しかしジルに怯んだ様子はなく、顔色一つ変える様子もない。まるで痛みを感じていないかのように。


「お前は何度でも……ッ、」


 フランチェスカが右腕を横へ、振り払う。

 肉が裂け血飛沫が上がり、それが対峙するふたりの顔に飛び散った。

 僅かにジルの眉が動いたが、それでも怪我に対しての反応にしては薄いものだ。


「この私が、殺してやる!!!」  


「おい、」


 喉を掻き切ろうとフランチェスカが右腕を振り上げた時、しゃがれた声が呼び止めた。


「もうその辺にしとけ。」


 テラス席を囲う柵をひょいと乗り越え、スキャランはジルたちのいる河川沿いの歩道へ歩いていく。

 彼女が無抵抗なのは最初だけだと分かってはいるが、今は次の予定が押している時…。早くしろと催促しなければ。……それに、何もせずに待っているこちらは中々に退屈なのだ。


「部外者はすっこんで……ん? 今喋ったのはお前か?」


 こちらへ歩いてくる、小さくて醜い生き物…フランチェスカはそれに訝しげな視線を注いだ。


「さっさと終わらせろぉ……ケーキも落ちたし、待ってるの退屈。」


 スキャランたちのいたカフェに人気はなくなり、店員に注文もできない状態だった。  


「……わかった、すまない。」


 キュイ……


 肩をすくめたくなるような、鉄の曲がる高い音が鳴る。


「くッ———……!」


 フランチェスカはジルを離し、捻り潰された自らの腕を抑えた。

 ナックルは握られた形にぐにゃりと凹んでおり、この凹み具合からしておそらく中の肉はすり潰され骨は砕かれている。

 しかし彼女は、苦悶の声をあげず。

 痛めつけても淡白な反応しかしない者の前だと尚更、痛がるような素振りはみせられない。そしてそれは、相手が憎い相手だと尚更だ。

 弱音を吐くような真似は、彼女のプライドが許さなかった。


「殺しはしない。ただ、追いかけられると面倒なので手足の骨を片方ずつ折る……ごめんよ。」


 肩や腕についた埃を払いながら、ジルは言った。

 引き裂かれた脇腹は〝再生〟を始めている。


「……貴様、やはり油断させるつもりだったか!」


「違う。やる気がないと言っただろう。それと、君は私とまともに戦って傷一つ負わせられない。それでは可哀想だと思ったので、しばらくは黙って殴られていようと思ったのだよ。」


「笑わせるな! 私の兄たちはお前をのだ! 私は兄たちに引けを取らない、お前に負けるはずがない! 腕を一本折っただけで調子に乗るなよ邪竜……!」


 ザッパァアッ!!!


 突然、重々しい水音とともに河川から水しぶきが高く立ち上った。

 大きな黒い影が、三人の足元を暗くする。


「なんだ……?!」


 河川から出てきた巨大なそれは長い胴体を持ち、蛇やミミズのような姿をしていた。

 皮膚の表面は赤黒くてらてらと光り、ぬめり気を帯びている。

 地上に出ている部分だけでも4、50メートルはあるだろう。

 頭部全体が壺の淵のような大口になっており、内側には針のように細くて長い鋭い歯が、何百本も敷き詰められるようにして生えている。


「ワーム……?! なんでこれがこんな場所に……」


 フランチェスカは一歩、二歩……と後退りながら、目の前にいる巨大でおどろおどろしい化物の名を口にした。

 この魔物はこんな都会の街中に出没するものではない。ワームの生息地は、深い森の湿地帯や沼地である。 

 ロンドンで暮らしていたら、まず出会すことのない怪物……。

 そんなものが突然この大都会を行き交う者たちの前に飛び込んできたら、皆狼狽るはず———。

 たちまち辺りから悲鳴が飛び交い、道ゆく人々は腰を抜かし、またはその場からわっと走り出していく。


 ピギャッ


 芋虫を踏みつぶしたように弾けた鳴き声を上げ、ワームの口から多量の紫色の毒液が吐き出される。

 ジルとフランチェスカ、スキャランはそれぞれ左右に避け、その毒液から逃れた。

 毒液を浴びた石畳の歩道はジュウジュウと肉を焦がすような音を出しながら黒く変色し、溶解していく——


「邪魔を、するな!!!」


 フランチェスカは高く飛び上がる。

 右腕の鉤爪を赤く閃光させると、それを一撃、二撃、とワームのこめかみに叩きつけた。

 巨体はぐらん……ぐらん……としなるように大きく揺れたが、倒れることはなく。

 彼女自身も手応えがイマイチだったので、警戒する———……攻撃した箇所は蒸気を出しているだけで、無傷であった。


「硬い……なんだ、こいつ……」


 見るに悍しい醜怪な大口が、空中にいるフランチェスカの方を向いた時———その奥から、禍々しい色の液体が煮え立つようにぐつぐつと湧き上がっていた。


 ぞわり……


 背中が震えた。おそらく、即死はありえない。

 あの毒液はゆっくりと血肉を焼き溶かしながら、穏やかではない死を与えるのだろう——

 殺してくれと無惨に泣き叫ぶ自分を一瞬想像し、両手を前にクロスして空中で身を固める。

 無駄だと分かっていても、急所を守ることしかこの場でなす術はなかった。空中にいるこの状態では何もできない。


 ゴォゥ……!!!


 ————毒液が外へ吐き出された瞬間、ワームとフランチェスカの間を青い炎が過り隔てた。

 これにより体を爛れさせる事なく、フランチェスカは無事に地面に着地する。


「貴様ッッッ……なんのつもりだ!!! 礼など言わないぞ!」


 青い炎はジルの口から吐き出されたもので、それが轟々と毒液を焼き消していた。


「結構だ。」


 フランチェスカの文句を受け流しジルは大きく息を吸い込むと、先ほどよりも多量の炎を吐き出した。

 それが巨体のワームを包み込み、轟々と燃え盛る。

 しかし、ワームの弱点であるはずの火が通用している様子はなかった。

 炎に包まれながらもワームに苦しみ悶える様子はなく、河川を這い上がって歩道へと侵入してくる。


「おい、あれは何なんだ! ワームじゃないのか?!」


 そう聞きながらフランチェスカがジルを見た時、彼女の格好は会った時と少し変化していた。

 両腕両脚が、銀のアーマーに覆われている——彼女の右手の人差し指が僅かに黄金に光ると、次の瞬間にはその手に重々しい白銀の武器が持たれていた。

 長い柄の先は鎌とハンマーを掛け合わせたような鳥頭の形をした大きな攻撃部。その緩やかに湾曲した先端は鋭利に尖り、斬撃・打撃も可能な形状になっている。


 ジルは大きく横に振りかぶると、ワームの胴体めがけて〝竜の頭蓋〟シェーデルを振り切った。


 ……ドボンっ!


 この一撃だけで巨体は歩道から弾き出され、大きな水飛沫を上げて河川に戻された。

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