第5話

 この日、授業はいつにも増して長く感じられた。もともと俺が学校の勉強に対し積極性のあるタイプではないというのもあるのだが、唯でさえ日々注視せねばならぬ如月の存在という憂鬱さを抱えているのに、更に放課後を待ちわびるという渇望が加わったとなれば、否応なく時の流れが緩やかに感じてしまうものである。体感時間とは往々にして自身の願望とは相反して働くもので、だからこそ体感時間たり得て大別されるものなのだ。つまりはそれだけ、かの手紙内容に対する俺の期待値が甚大であったという事に他ならなかった。

 ともあれ、それでも時の歩みは止まる事を知らないわけで、宇宙の物理法則に従ってこの日の放課後は、やはりいつもの様に訪れるのであった。

 ホームルームが終わり、皆が続々と教室を後にする最中、同じく教室を後にした俺は、階下の昇降口へと降りて行く多くの他生徒を尻目に、いつもとは異なり階上へと歩を進め屋上を目指した。

 当然の事ながら俺の足取りは軽い。逸る気持ちが普段よりも力強く体を押し上げていたためであろう。

 そんな事情もあり、文字通りあっと言う間に、屋上へと繋がる階段最上部の踊り場に辿り着く事となった。

 我が校の屋上は基本的に一般生徒の使用は禁じられている。その為、薄汚れたアルミ製のドアには使用禁止の張り紙がしっかりと張られているのだが、俺は辿り着いた勢いそのままに、構わずドアノブに手を伸ばした。無論、施錠されている可能性を考慮しなかったかと言えば嘘になる。だが、ここまで来て、それをやらずに帰るのは流石に無粋というものなので、そうしたのだ。

 開かなかったら開かなかったで、その時考えれば良い。そんな思いも後押ししてか、俺は躊躇う事無くドアノブを捻るのだった。


 結果はというと――


 カチャリ!

 乾いた金属の摩擦音と共にドアノブは呆気なく回転し、ドアを難なく開く事が出来た。

 開放されていくドアの隙間から差し込む陽光の広がりと共に、心臓の鼓動の高鳴りと僅かに心地良い息苦しさを覚えた。本来は開かないはずの扉が開いたのだ。つまりそれは状況的に、まだ見ぬ彼女が屋上そこに確実に居るという事を示唆していると思ったからだ。

 何? それよりも使用不可な場所なのに入れてしまえる事に疑問を懐かないのか、だって? 

 勿論懐いているさ。ただその点に於いて俺は今、目を瞑っているのである。何事にも何処かしらのネガティブ要素が付いて回ったりするものだが、得られる成果と照らし合わせ利益の方が勝るならば、時には目を瞑り道理を曲げて対処するというのも、幸福を掴む為には必要だと思うからである。

 かくして屋上に出た俺は、平静を装いながらそれとなく辺りを見回した。

 我が校の屋上はそれ程広大なスペースを有しているわけではない。ましてや、そこは普段進入禁止とされている殺風景な場所。人影の有無など一度見渡せば直ぐに分かるというもので、確認に要する時間など一呼吸する間と然程変わらない。

 しかしながら俺は周囲を見渡すというその行為を、呼吸を重ねて暫く繰り返す事となった。

 なぜかって?

 そりゃ……アレだ……哀しい現実というやつは往々にして受け入れるまでに時間を要するものだからさ。

 まあ要約すると……屋上には人っ子一人居なかったという事になるけどな……。


 それはもう見事なまでの無人っぷりで、彼方で囀るカラスの鳴き声と傍らを吹き抜ける旋風の風切り音がしっかりと耳に残る程だった。

 俺は要望を受けて此処に来たわけである。逸る気持ちを抑えて放課後この時間まで待って。

 にも拘らずの非情な現実であった。

 今一度、懐から例の手紙を取り出し注意深く読み返してみた。何か俺側に落ち度が無いかの確認だ。俺にミスが有るのなら、まだ挽回の余地があるからだ。

 尤もこの期に及んでそんな事をしている時点で、その可能性は極めて低いと言わざるをえない。何せ手紙の中身は、至ってシンプルな短文で、間違えようも、見間違えようもないのだからな。

 案の定、その内容に変化を見出す事は出来なかった。

 出来なかったが――――それでも諦められないのは男の性というものだろうか。俺は、更に残る可能性を模索してしまう。

 と言っても、残る可能性なんてものは、弄ばれたか、俺が相手よりも早く着き過ぎたか、くらいのものである。そのうち前者は現実の容認と同意にも等しいものなので却下だ。となれば、自ずと結論は一つに絞られる。

 そんなわけで、俺は暫しその場で待機する事にした。断っておくが、これは決して現実逃避などではない。栄光を掴むためのたゆまぬ努力である。極限まで希望を捨てず抗う勇気と覚悟こそが未来を切り開く礎となる、という弛まぬ信念故のものである。いやマジで。

 こうしていつの間にか心拍数も平常運転に戻り落ち着きすら取り戻した俺は、飽く迄もポジティブな理由により、まだ見ぬ手紙の差出人を待つ事にしたわけだ。

 だが、存外その待機時間は短くして終わりを告げる事となった。否、正確には短いと言うよりも略無かったと言える。なぜなら待機を決意した矢先に背後から、僅かながらも確かに届く金属の摩擦音を耳にしたからだ。

 因みにその時俺が背にしていたのは、つい今し方、自らが通過した階段の踊り場と屋上スペースを繋ぐ出入り用ドアである。状況的に振り向くまでも無く、その意味は理解可能であった。

 再び俺の心臓が有酸素運動時並みに活発活動を始めた。焦らされた上での待ちに待った瞬間というやつだったので当然であろう。

 しかしながら俺は即座に振り向こうとはしなかった。無論、逸る気持ちというやつは有り余るほどに持ち合わせていたのだが、ここでそれをしてしまうと飢えた狼のように余裕無く器量の小さい奴みたいで、格好悪い事この上ないからだ。我ながら詰まらないプライドだとは思う。だが、それこそ青春の醍醐味だと思うので異論はご遠慮願いたいものだ。

 んなわけで、俺は相手に悟られぬよう深呼吸すると、業とらしく素っ気無い雰囲気を醸し出して、ゆっくりと後方に目を向けるのだった―――

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