鬼哭の森のラーミナ

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鬼哭の森のラーミナ

鬼哭の森のラーミナ


 薄荷はっかの香る水底から、“少女”の白い裸身が浮かび上がる。

 大理石をくり抜いた湯船は深いから、湯の中で彼女の足裏は階段を一段、また一段と踏みしめるようにして登った。きめの細かい絹のような柔肌はうっすらと女の脂が乗り、かすかに冷感のする湯を弾く。昼間のように明るい浴室の中で、ただ佇んでいるだけだというのに裸婦画のような妖しい美しさを放っていた。

 だが、双子の侍女メイドらにとっては日常的で、しかし扇情的な光景なのだろう。

 姉のマイは上気した顔のまま、恭しく一礼する。

「本日はわたくしが洗髪させて頂きます」

 と、妹のメイに拘束衣のベルトを外してもらい、自由になった両腕で肩口から袖を取り払う。黒いチョーカーから伸びる革ベルトは股を通って背中へと伸び、肩甲骨あたりの布地にある留め金で固定していて、それ以外、彼女らの下半身を覆うものはない。ハイレグめいた奇妙な格好で、マイは濡れて黒々と輝く“少女”の長髪を胸元に手繰り寄せてから、泡立てたシャンプーを頭皮に塗りつけ、指の腹でこするように洗い始めた。

 その傍ら、妹のメイは湯を張った洗面器に浸したスポンジでボディソープを泡立て、姉と同様、袖を外した両手に子供の頭ほどもある泡を乗せ、

「失礼します、お嬢さ……ま?」

 “少女”の人形めいた完全肢体には、ただ一つ、大きな瑕疵かしがあった。その背中には、袈裟懸けに刃で掻かれたような刀痕とうこんがあった。まだ新しく、いつ鮮血を湛えてもおかしくない。薬草湯に浸かり、かろうじて止血できているような──この背中に泡を塗りたくるのはためらわれた。

「息が荒くてよ、マイ。もっと親指を、こう。──ほら、こんなふうに」

 マイの鼠径部に両の親指を押し当て、その力加減を表現する。

「は、はい……。お嬢様……!」

「そう、いいわ。気持ちいい」

 むしろさらに荒くなった息のまま、鼠径部で感じ取った指遣いを再現しようと必死な姉の仕事ぶりに比べて、妹はせっかくこしらえた泡を小さく二分して、太ももやふくらはぎばかりを洗い、また遠慮がちに脇腹や下腹部に泡を塗るばかりだった。

「メイ。そろそろ背中も洗って頂戴」

「お言葉ですが、お嬢様。お嬢様のお背中は、いま──」

 それを言いかけたところで“少女”の背中に刻まれた傷から、鮮血がしたたり落ちた。

 生命の水は浴室の窓から見える夕暮れよりなお赤く、彼女の白肌を舐めるように伝って、尻の谷間へと流れ込む。その刺激で気付いたという事でもなかろうが、彼女は天を仰ぎ、静かな声で、

「そうね。下から洗って頂戴」

 足を肩幅に開く。その間からぽたぽたと雨垂れのように落ちていく鮮血は、彼女が生き絶えるまで止まらないのかもしれない。そんな錯覚と格闘しつつ、メイは白い泡を纏わせた手を言いつけ通りの場所へと伸べた。

 “少女”の名は、ラーミナ。

 その名はラテン語で“刃”を意味し、悪魔狩りを生業とする特務機関が造り上げた唯一の成功例──その身は最初からヒトを超越したヒトガタといったところか。

 止め処なく流れるかに思えた血潮が、まるで映像を逆再生するように刀痕へと吸い込まれて、傷もまた袈裟懸けの終端から始端へとなぞるように塞がっていくのだ。まるで悪夢のような光景を、しかしメイは恍惚として見ていた。

 もはやその背中には傷どころか一点の曇りすら無い、陶磁器のなめらかさと白さを取り戻している。否、血ばかりは残っていたから、メイは仕事を得た悦びのままに大量の泡を塗りつけ、残った血の赤を洗い落としていく。

 ラーミナは、「くすぐったいわ」と笑った。

 穏やかな口調と慈母のような表情でありながら、眼だけは獲物を見つけた猟犬のように鋭く冴え渡り、対面にいるマイにも聞こえない声で、ぽつりと、

「見つけた……」

 ああ、その網膜にはえている。

 深い森の奥で生娘の血を啜るラーミナの姉が。



 湯浴みを終えたラーミナは、その裸身に魔除けのラメを双子の侍女に塗ってもらい、薄化粧と青薔薇の口紅を引いて、戦装束に身を包む。

 銀のティアラは精霊の加護を。

 純白のブラウスは魔爪まそうを通さず。

 耐魔性を備えた漆黒のコルセットスカートを穿いて、黒髪をアップに結えたなら、その背に銀十字の剣を担ぎ、右手に白百合の銃を、左手に荊棘いばらの手甲を。

「どうかご武運を。ラーミナお嬢様」

 侍女らのはなむけの言葉を背に、ステンドグラスに浮かぶ紋章に姉殺しを誓ったラーミナは屋敷の前庭を駆け抜け、獣めいた跳躍で門を飛び越えた。

 屋敷の外はすでに人外魔境、鬼哭きこくの森が広がっている。



 空に月は無く、星明かりもまばらな闇を切り裂く疾風のように獣道を行く──時折、白百合の銃は火を噴き、荊棘の手甲が閃いた。

 ラーミナの背後にはことごとく、吸血コウモリと魔犬の亡骸が転がり、灰となって夜風に舞う。

 すべての因縁は、ラーミナという存在が生まれるより以前、否、特務機関が彼女をこしらえようとした時から始まっていた。気の遠くなるような理論と、倫理を踏みにじる実験の繰り返し。当然ながら失敗作は山のように築かれ、すべてデータと血の大河へと流された──ラーミナという大海へのサクリファイスとして。

 だが、これが因果か。血の大河には支流が出来てしまった。それをすべて堰き止める事がラーミナの任務の一つだ。あるいは罪、そして究極存在が背負う罰かもしれない。

 すなわち、眼前の姉の必殺である。

「ごきげんよう、お姉様。殺しに参りました」

 白い淑女は、血染めのワンピースの裾をつまんでお辞儀する。闇の中でも白いと分かる白髪は肩で切り揃えられ、金のティアラが煌めいていた。

 ラーミナへ向けられる眼差しは、むしろ優しいものだというのに、あぁ、その右手は左肩から覗く剣の柄を握る。

 ステップは軽やかに、ラーミナの懐へと潜り込むや否や、鈍色の刃が叩きつけられる。ラーミナは抜刀が間に合わず、手甲で受けるしかない。

 闇に散る火花の数は、そのままラーミナが拾った命の数だ。電動工具めいた威力の剣撃を受け続けた手甲はすでにひしゃげて見る影もない。

 だというのに、彼女は青薔薇の唇で嗤う。

 左手を振ってつぶれた手甲を外した。地に落ちたそれは森の土と魔法反応を起こしたらしい。

 荊棘細工いばらざいくの猟犬へと生まれ変わった手甲の元で片膝をつき、ラーミナはその耳に淑女の蛮行を告げた。お前を痛めつけたのはあいつだ、と。

 怒り狂った獣というものは恐ろしい。二足歩行のヒトガタが辿り着いた戦法など通じない。その身に宿る野生が一挙手一投足、すべて必殺の威力を秘めている。

 だが、淑女はその爪をひらりと舞うように避けて、その牙を前に怯むどころか、その口へ拳を突っ込んで止めてしまう。ならばと荊棘細工の猟犬はその姿を網に変じて捕らえようとしたが、忠犬は笑いながら斬り刻まれた。

 即、ラーミナは白百合の銃を撃った。

 仰け反る淑女を確かに見たが、むしろ銃を両手に構え直す──と。

 心底愉しげな顔をして、姉は上体を起こしてきた。二発の銃弾はその刀身で受け止められ、ヒビ一つ入れられない。レプリカとはいえ銀十字の剣相手では、白百合の銃は一枚落ちる。

 ラーミナは手のひらを向けて、

「少々お待ちを。弾を変えますわ」

 やはり例のお辞儀で返してきた。手品やサーカスを愉しむ少女のように。それは痛ましく憐れみの情を誘われたが、弾を入れ替えるや否や、ラーミナはいきなり撃った。

 それでも白い淑女は返す刀で受け止める。

 だが、それはかつて“この姉”に撃ち込まれた猿神の弾だ。彼女は今も「言わざる」を強いられ、口頭での呪詛が使えない。偽・銀十字の剣を這って「聞かざる」の呪詛がその身に刻まれたと気付いたのは、まさに聴力を失ったその時だった。

 その違和感がもたらす、有るか無きかの人外の虚を突く。銀十字の剣と、その剣技。

 ラーミナが踵を鳴らし、それは成った。

 姉の眉間に突き立てた剣を持ち替え、謳う。

 ──Dust to dust, Ash to ash.

 (死せる悪魔に休息を。忘却の彼岸にて)

 蒼白い炎を噴きながら灰に還る姉を見送り、ラーミナは剣を背中の鞘に納めた。

「さようなら。お姉様」


 前略、くらい森の奥にて。

 黒い封筒に蒼いシールワックスを垂らし、三つ頭の番犬の刻印を打つ。

 ラーミナは羽根ペンを置き、揺れる灯火と室内に満ちる薔薇の香りに恍惚として瞼を閉じるのだった。


fin.

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