第5話 計画と、正義。
指導教授が死んでいる。
これが僕にとって最大の難点だった。研究内容を相談しようにも、既にこの世の人じゃないのだ。墓前でいくらでも話はできるが、そこから建設的な話になりようがない。
よって、僕は一人で研究計画を立てなければならなかった。まぁ、今や准教授なのだから当たり前と言えば当たり前だ。
肝心の研究テーマは……これは最近の僕の一番の心配事だったが、ついに解決した。それはあの国文学科の彼女のおかげでもあるし、ある意味僕が天から授けられた運命によるものでもあった。
僕が苦労して、そして天啓的なひらめきによって見つけ出した、研究テーマ。
それは、「悪魔」だった。
『悪魔が来りて笛を吹く』。横溝正史のあの本が、僕にひらめきを与えてくれたのだ。早速だが、僕は大学の生協であの『悪魔が来りて笛を吹く』を買った。国文学科の資料室にあったものとは表紙が違ったが、内容が一緒なら構わない。そう思った。
作中の犯人はその内面的な理由によって殺人に及んだのか? いや、自身の置かれた環境要因によって殺人に及んでしまったのではないか?
この仮説が僕の中でずっと残っていた。犯人のことを思いやる。あの人だって幸せな人生を送る権利はあったはずだ。自分で正しい道を選ぶこともできたはず。それなのに、何があの人を「悪魔」に変えてしまったのだろう。
そのことに興味があった。人を殺人に駆り立てるものとは? 人に悪魔的行動をとらせる要因は何か?
僕の関心をより分かりやすい言葉に換言すれば、「犯罪者は如何にして生まれるか?」という話になると思う。
例えば、割れ窓理論というものがある。別名ブロークン・ウィンドウ理論。そのままだ。
これは要するに、「軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで重大な犯罪を防ぐことができる」というような理論だ。
建物の窓ガラスが割れていると、その建物は「誰も見ていない」ことの象徴となり、やがてその建物内で重大な犯罪が行われる、という理屈に根差した理論である。
この理論によれば、人間の行動、ひいてはその原理たる人格に影響を与えるのは環境や状況であるということになる。「割れた窓」という環境が、人に「ここでは犯罪に及んでもいい」という気持ちを発生させるのだ。
同じ理屈を、僕は横溝正史の「悪魔」にも当てはめてみた。
すなわち、正史の「悪魔」は、その内面的要因……生得的な、とか、先天的な、とかいう言葉に変換できるかもしれない……に起因したのではなく、環境要因、すなわち後天的な要因によるものである、というような理屈だ。
この理屈に則れば、僕たちはその環境と条件を整えさえすれば、「悪魔」を作り出すことができる、ということになる。
……作ってみたい。
率直にそう思った。『悪魔が来りて笛を吹く』を読んだ時の興奮が蘇る。作ってみたい。正史の悪魔を、作ってみたい。
それは純粋な学術的好奇心だった。多分、初めてクローンを作った学者も同じような気持ちに突き動かされていたはずだ。作ってみたい。文学部棟で『悪魔が来りて笛を吹く』と運命的な出会いを果たしてから一週間ほど。僕はこの誘惑に晒され続けた。
正直な話、小説を読んで得られたひらめきを研究テーマに据えることに、抵抗がなかったというと嘘になる。が、健全な……健全だろうか……好奇心と、学術的探究心がそれを上回った。
母校での三回目の講義の後。五月のゴールデンウィークに入った頃だったと思う。
僕は祝日であるにも関わらず、自分の研究室のパソコン……准教授になると、大学から支給された……を使って、研究計画書を書き上げていた。
まず肝心な、研究タイトルについては、以下のようにした。
『悪魔のような人間を作ることは可能か――人を非倫理的行動に走らせる要因とは――』
もちろんこれは仮題だ。決定ではない。でも僕はなかなかに満足していた。言いたいことは言えているし、サブタイトル内の言葉の雰囲気もいい。そして何より……そそられる。
――悪魔。特定の宗教意識に根差した悪しき超自然的存在や、悪を体現する超越的存在を意味する言葉である。人はしばしばこの悪魔に誘惑される。太古の昔から悪魔は人を誘惑する存在であり、そして人はしばしばその誘惑に屈してきた。
はじめに、の項である。「悪魔」という存在についてのまとめだ。アダムとイブの頃から、人は悪魔に屈し続けてきた。そんなことを思う。
――そして時に、極悪非道な人間はこの悪魔に例えられる。犯罪者、特に大量虐殺をした殺人者などがそうである。
例えば、横溝正史の描く悪魔とかね。僕はキーボードを叩き続ける。
――人は如何にして悪魔になるか? この命題を解決することは、人に「悪魔の誘惑に勝つ力」をつけることに繋がるのではないだろうか? 人が悪魔の誘惑に屈する過程、つまり人を悪魔的行動に駆り立てる原因について調べ、その根本を断てばそれは悪魔に対抗する力を持つことに繋がるのではないだろうか?
そう、そうなのだ。キーボードを叩きながら僕は思った。アウトプットをすると自分でも思っていなかった行動の真理に気づくことが多い。この時僕はパソコン画面に向かってまるで患者に向き合った新人カウンセラーのように首肯していた。
そう、そうだ。僕の研究は、人に「悪魔に打ち勝つ」能力を与えるにはどうすればいいか、を考える研究なのだ。
……すなわち、正義だ。キーボードを叩く。研究目的の項を書き始める。
――倫理的観点に根差した時に問題のある行動、すなわち非倫理的行動のことを「悪魔的行動」と呼ぶことにした場合、悪魔のような行動をとる人間の行動心理を明らかにするということは、すなわち人を非倫理的行動に走らせる要因について明らかにすることに繋がる。
非倫理的行動。なかなかいい言葉を見つけたと一人満足する。悪の対義語が倫理なのか、という問題はあるが、多くの場合、悪魔のとる行動は倫理的に問題のある行動だ。そう納得する。
――本研究では、人を非倫理的行動に走らせる要因について明らかにすることで、悪魔に打ち勝つ力、つまり悪を断つ力について解明することを目的としている。
ふう、と僕は一息つく。窓の外を見ると、新緑鮮やかな山々が見えた。美しい。ふとそう思う。だが、悪魔は時にその美しさを利用して人を陥れる。僕は山々から目を逸らすと自分のパソコンと向き合った
……もう少し。もう少しで、見えてくる。
そんな予感に包まれる。いい前兆だ。最初、四谷教授に「一年以内に一本」と言われた時は大丈夫かと思ったが、これなら何とかなる。何せ、仕事を初めて約一か月で感覚を取り戻しつつあるのだから。
窓を開けていた。この頃は寒くないので窓を開けっぱなしにしていても問題はない。涼しい風が入り込んできた。緑の匂いがする。脳裏に浮かんだのは、ツツジだった。濃いピンクの花。小さい頃、花の蜜を吸って遊んだっけ。
一人仕事に打ち込んだ。キーボードの音だけが響いていた。
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