X10 美少女の欲望


 食器を洗い終えた廉さんが、キッチンから戻ってきました。

 私の隣に来た彼は、そのままテレビの方を向いて、ゆっくり腰を下ろします。


 こうして並んで、というより、くっついて時間を過ごすことが、最近の私たちにはとても多くなっていました。


「今日の飯、うまかったなぁ」


「食べている時も、ずっと言っていましたね」


「ああ。マジでうまいんだよ、あれ」


 廉さんはそう言って、うんうんと満足げに頷いていました。


 彼が褒めてくれているのは、今日初めて振る舞ってみた、炊き込みご飯のことでした。

 好きだとは聞いていたので挑戦してみましたが、思っていたよりもずっと、気に入ってくれたようです。


「豚汁もうまかったし、こういう和食寄りなメニューもいいな」


「私も廉さんのおかげで、新作を試す機会が増えてありがたいです」


 自分一人ではどうしても作るものがワンパターンになりがちですし、やっぱり誰かのために作るというのは、いいことなのだと思います。


 私たちは肩をくっつけたまま、見るでもなくテレビを眺めました。

 なんでもないような会話を交えながら、時々手を触れ合わせたり、髪を触り合ったり。


 廉さんに触れて、廉さんに触れられるたびに、私はどうしようもなく幸せな気持ちになります。

 そんなことを繰り返すうちに、だんだんもっと触れたくなって、ハグをしたくなって……。


「ん、なんだ?」


「あっ……いえ」


 知らない間に、廉さんの顔を見つめてしまっていたようでした。


 私は思い切って、中腰になって廉さんに向き合いました。

 私の気持ちを察したらしい彼が、優しく抱きしめてくれます。

 廉さんの肩に顔を埋めて目を閉じると、少しずれた自分と彼の鼓動が聞こえてくるようでした。


「……どうしたんだよ」


「なんでもありません。……ただの愛情表現です」


 私が答えると、廉さんは少し間を置いてから、抱きしめる力を強めてくれました。

 少し苦しくて、だけどすごく心地いい、そんな感覚でした。


「理華?」


「なんですか?」


「……ハグするの、慣れたか?」


「……慣れていません。まだ、ドキドキします」


「……よかった。俺だけかと思った」


 その言葉に、私は自分の胸がキュッとなるのを感じました。


 かわいい、愛しい、好き。

 気持ちと言葉が溢れてきて、どうにかなりそうな気分でした。


「……廉さん」


 身体を離すと、廉さんの顔が目の前にあります。

 私は自分の頭の中に、あらぬ欲望が湧いてきていることに、気がついていました。


「どうした?」


 ……キスがしたい。


「い、いえっ! べつに……」


 どうしてなのかはわかりません。

 けれど、私は廉さんと、キスがしたくなってしまっていました……。


「……」


 自然と、廉さんの唇に目が行きました。


 色が薄くて、ゆるく結ばれている、実は少しだけ凛々しい唇。

 以前私のそれと重なって、それっきり触れたことのない、柔らかな唇。


 いったい、どうしてこんな気持ちになるのでしょう。

 どうして唇が触れ合うだけの行為が、こんなに恋しいのでしょう。


 自分が、キスがしたいと思っている理由が、私にはやっぱりよくわかりませんでした。

 なのに、したいと思う感情だけが、私の理性をほったらかしにして、どんどん大きくなっていくのでした。


「な……なんだ?」


 廉さんの声で、私ははっとして顔をそらしました。

 ですが、それがかえって不自然になってしまい、廉さんはますます不思議そうな顔をしました。


 そもそも、キスとはなんなのでしょう。

 どうして人は、好きな人とキスがしたくなるのでしょう。

 私の今の気持ちは、どこから生まれてきたのでしょう。


 そして……廉さんはどう思っているのでしょう。


「……あ、もう9時か」


「え……」


 見ると、いつのまにか帰る時間になっていました。

 廉さんが立ち上がり、身体をほぐすように腕を伸ばします。


「……理華?」


 私は、依然としてその場に座り込んでいました。

 彼を見上げた目が潤むのが、自分でもわかりました。


「脚、痺れたのか?」


「……違います」


 キスがしたい。

 別れ際でいいから、一度だけでいいから。


 恥ずかしいことに、私の頭は、もうそのことでいっぱいになってしまっていました。


「ほら、理華。引っ張ってやるから」


 廉さんは私の手を握って、強すぎない力で私を立たせてくれました。

 ですが彼の気遣いが、今の私にはついつい、恨めしく思えてしまいました。


 言えない。

 突然、キスがしたいだなんて。


 キスをねだるのは、ハグや手を繋ぐことに比べて、ハードルがすごく高いような気がしました。

 自分が彼にそれを言うのを想像すると、まるでのぼせるような、顔に火がついたような気分になりそうでした。


「じゃあ、今日もありがとな」


「……」


 廉さんにそう声を掛けられながら、私は玄関で靴を履き、彼に身体を向けます。

 自然と、大きなため息がこぼれました。


 今日の私は、意気地なしです。

 廉さんが望むことは、なんでもやってあげたい。

 そう思っているのに、自分からしたいことを言う勇気が、私にはないのです。


 きっと私は、このまま自分の部屋に戻って、自己嫌悪とモヤモヤを抱えたまま一人で眠るのでしょう。

 でも、仕方ありません。

 こうしてひとつひとつ、ゆっくりと悩んで、失敗して、そうして進んでいくしか、私にはできそうにないのです。


「理華」


「……え」


 気づけば彼の顔が、私のすぐ近くにありました。


「……廉さん?」


 彼は、何かを言おうとしてしていました。

 けれどなかなか踏ん切りがつかないのか、何度か目をそらして、頬をかいて、それから深く息を吸いました。


「……キスしていいか?」


 不安そうに、顔を真っ赤にして、けれどまっすぐこちらを見て。


 途端、私は自分の顔が歪むのがわかりました。


「……嫌です」


「えっ……そ、そうか」


 違う、違うんです。


 私が言いたかったのに。

 私が言えなくて、諦めようとしていたのに。

 どうして、あなたはそうやって、もう。


「ご、ごめんな、り」


 これじゃあ、私がどこまでも、ダメな人みたいじゃないですか。


「廉さん」


 私は、キスをしました。


 言葉を遮るように。

 謝ろうとするその口を、無理やり塞ぐように。

 

 彼の唇に触れたところが、じんと熱くなります。

 廉さんの匂いが鼻腔を突いて、目眩がしそうです。


 唇以外の感覚がなくなって、まるで宙に浮いているみたいでした。


「……っはぁ。り……理華?」


「……キス、しちゃダメです。私がするんです。私だってしたかった……私の方が、したかったんです」


 廉さんは、とても驚いたような顔をしていました。

 ですが、自分がどんな顔をしているのか、もう私にはわかりませんでした。


「……理華」


「……はい」


「……おやすみ。またな」


 言って、今度は廉さんが、私にキスをしました。

 涙が出そうになるのをこらえながら、私は彼の腕に、ただ身を委ねていました。


 これは、なんでもない私たちの日々の中の、少しだけ特別な出来事でした。



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