203 少年は眠れない


「……うぅん」


 ……。


「……暑っ」


 ……眠れない。

 床は硬くはないものの、夏の夜に冬の布団を敷くのはさすがに寝苦しいな……。


 体感では一時間くらい横になっていた気がするが、いつもと違う環境、それから暑さでなかなか寝付けなかった。

 俺は意外と繊細なのだ。


 手を伸ばしてスマホを取る。

 深夜一時過ぎ。

 あんまり眠くはないものの、このままずるずると夜更かしするのは嬉しくないな。


 ひとまず立ち上がって、キッチンへ。

 コップ一杯のお茶を飲むと、意識がスーッと冴えていった。


 理華を起こさないように、静かにリビングへ戻る。

 棒立ちのまま部屋を見渡してみたが、何かあるわけでもない。


 すぅ、というかすかな音が聞こえた。

 なんとなく危険を感じて、俺は半歩後ろに下がってしまう。


 理華の寝息だった。


「……んぅ……ん」


 ……。

 いや、可愛すぎるだろ……。


 思わず天井を見上げる。

 心頭滅却、あれはただの風の音だ。


 ……。


 足音を立てないように、ゆっくりベッドに近づく。

 眠っている間に布団は脱いでしまったようで、理華はパジャマ姿の上半身をすっかり晒していた。


 ……。


 それなりに見慣れていたはずの格好なのに、眠っているとなると、まるで全然違う服装に見えてしまう。

 凛々しさを失ったあどけない寝顔も、少し乱れた髪も、たまに動くまぶたも、全部が新鮮で、無償に愛しい気がした。


 ……やべっ。


 触りたい、という衝動が沸き起こったことを自覚して、俺は咄嗟に後ろを向いた。


「……ふぅ」


 いくら彼女だとは言え、本人が眠ってる間に触るなんて、良くない。

 世間一般的にはどうなのか知らないが、俺の感覚ではアウトだ。

 変な気を起こす前に、さっさと寝てしまおう。


 ……でもまあ、寝顔くらいは。


 最後にもう一度寝顔を堪能するため、俺はその場に中腰になって、理華の顔に近づいた。


 それにしても、やっぱり驚くくらい綺麗な顔をしている。

 この顔で、俺に向けて笑ったり、泣いたり、名前を呼んできたりするんだから、普段の俺はよく平然としているもんだ。


 この子が本当に、俺の彼女なんだよなぁ……。


 俺はなぜだか神に感謝したくなって、顔の前で手を合わせた。

 理華をこの世に生み出してくれてありがとうございます、神。


「さて、と……」


 柄にもないことを考えてしまったが、いい加減いつまでも寝顔を見ているのはやめよう。


 問題は、どうやって寝つきやすい環境を作るか、だが……。


「……んっ……んん、あれ……?」


「っ⁉︎」


「……ふぁ、廉さん?」


 まずい……。


 理華は目をこすりながら、むくりと身体を起こしてしまった。

 立っていた俺の顔を見上げてから、キョロキョロと部屋の中を見渡している。


「……あ、そうでした。私、廉さんの部屋で……」


 それ忘れてたのかよ……。


「理華、ごめんな、起こして」


「いえ……。……ねむ」


 やべぇ、可愛い……。


 そういえば、寝ぼけてる時の理華は初めて見るかもしれない。

 ピシッとしてるいつもとは裏腹に、子供っぽく、それからアホっぽくなっている。


「廉さぁん」


「なっ……なんだよ」


「んー……」


 可愛らしく唸って、理華は両腕を広げた。

 これは、ハグの要求だ……。


「……寝てなさい」


「えぇー……いじわる」


 意地悪はどっちだ……。


「……何してたんですか?」


「ん? あ、ああ……ちょっと喉が乾いただけだよ」


「……そうですか」


「おう。気にせず、寝てな」


「……はぁい」


 まだ眠いのだろう、理華はまたあっさり横になると、もう何も喋らなかった。


 ふぅ……。

 とりあえず、よかった。

 さあ、あとは自分の寝床の問題だ。


 敷いていた冬用の布団をどかして、床に直接寝転がってみる。

 案の定、痛い。

 これはダメだな、眠れる気がしない。


 スウェットを脱ぐか?

 いや、起きた時に理華に見られるとまずい。

 クーラーは寝ながら使いたくはないし、直接風が当たるのは理華のところだから心配だ。


 さて……。


「……あ」


 そうだ、扇風機があったな。

 それなら俺だけ当たれるし、ちょうどいいだろう。


 ガサゴソとクローゼットを探ると、奥の方に古いモデルの扇風機が眠っていた。

 去年はクーラーばっかり使っていたので、結局使うのは初めてかもしれない。


 引っ張り出して、俺の頭が来るところに設置した。

 あとはコンセントを繋げば……


 “ガタンっ‼︎”


「いっ⁉︎」


 大きな音に振り返ると、扇風機が倒れていた。

 完全に、ケーブルの長さを見誤った……。


「んぅ……廉さん?」


 しかも理華がまた起きた!

 これは……言い逃れが……。


「……何してるんですか? ……扇風機?」


「あ、いや……べつに」


「……もしかして、眠れないんじゃ」


 音が大きかったせいか、今度の理華はさっきと違って半覚醒状態だった。

 するするとベッドから抜け出て、部屋の状態を眺める。


「やっぱり……」


「いや、まあ、なんだ……ちょっと暑いかな、とか」


「敷いていた布団が冬用だったせいですね……。それで扇風機を」


「ま、まあこれでなんとかなるだろうから、気にするなよ……」


「ダメです。扇風機をつけたまま寝るのも身体によくありません」


「た、タイマーにしとけば平気だって……」


「ダメ。さあ、こっちへ来てください」


 言って、理華はまたベッドに入り、自分の身体を奥に詰めるようにしてこちらを向いた。

 これは……。


「こ、こっちってなんだよ」


「い、一緒に寝るんですっ。さあ、早く」


「い、いやそれこそダメだって! 寝る前にそう言ったろ!」


「さっきとは状況が変わったんですっ。私のせいで廉さんが眠れないなんて、私はいやです」


 理華は意志のこもった声音でそう言うと、ササっとベッドから這い出てきて俺の腕を掴んだ。

 グイグイと引っ張るように促し、そのままもう一度ベッドに登る。


「お、おい……理華」


「せ、背中を向けて眠れば平気です……。いつもハグしているんですから、身体が触れ合うくらいどうってことありません!」


 寝る前のヘタレ理華とは違い、今の理華は強気で冷静だった。

 こういう時の理華は頑固だ。

 そして、なによりムスッとしたような、照れたような顔が可愛すぎる……。


 俺はついに自分の覚悟が弱まるのを自覚して、倒れるようにベッドに入った。


 理華を生み出した神よ……お許しください。

 でも、あなたがこんなに可愛い女の子を作るからいけないのです……。

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