六 『孤独の霊峰』

 『孤独の霊峰』は、特殊な時空に存在している小さな世界である。

 どこまでも白く、雲と大気の区別もつかない、何も存在しない空間に、おとぎ話にあるような中空に浮かぶ浮島という形で存在している。

 もちろんあまり大きな島ではなく、中央の峰――頂上の台地が、神域である――、麓の神殿――神域への入り口――、そして数百人規模の街が存在するのみであった。

 『孤独の霊峰』は、孤独を頼りに生きる人が最後にたどり着く心の拠り所だ。

 それだけに、街に住む人々も、基本的には他者との接触は一切避けて暮らしている。

 もちろん街で行き交うこともあるし、話しかけることも出来るが、基本的に自分勝手なことを一方的に話すだけでまともな会話にはならない。

 ヴァルカン――事情を知らないこの時代の姉、幼い本人がいるので、黒衣と黒頭巾で防護した上で、ヴィルフレードは偽名を使うことにした――の話では、食事はこの世界では必要なく、大切なのは孤独に暮らすための趣味、なのだという。それを実現するためには、家の中でただ願えば良いらしく、それで孤独な暮らしは全う出来るそうだ。

 パシオネなどは、「案外、良い世界なんじゃん?」と軽口を叩いていたが、やはりアルドにはどこか、不自然な印象が拭えなかった。


 ひっそりと静かな街をしばらく歩くと、子供たちの声が聞こえてきた。

 どうやら、しばらく先に小さな空き地があるようだ。そこから三人の子供が、駆け足で飛び出してきた。

 先頭は虎柄の髪をした少年で、すぐにヴィルフレードだとわかった。

「ほら、虎刈りじゃないか。ケケケケッ!」

 うるさい、と応じるヴァルカンは、しかしすぐに顔を引き締めた。

「アルド。『アオイ』が来る。警戒を怠るなよ」


 見ると、確かにヴィルフレードのあとを駆ける少女がアオイだと、すぐにわかった。

 豊かに流れるマリンブルーの髪は、ヴァルカンの腰にある長剣の宝玉と全く同じ色合いだった。


「待てー、ヴィルー!」

「あは、アオイ! 捕まえてみろよー!」


 幼いヴィルフレードは、たしか八歳くらいだったはずだ。アオイの姿も、同じ歳くらいに見える。

 そして、そのあとを追いかけるのは――。


「あーん、二人とも! お姉ちゃんをおいてかなーい!」


 アルドは、驚愕した。今、二人の元気な子供たちを懸命に追いかけているのが、人間の頃のフェデリカであることは、わかる。わかるが……。


「あれは、髪の色が……」

「そうだ、アルド。あれが、姉さんの本当の、髪の色なんだ」

 銀色のリボンで快活にまとめられた豊かに揺れるフェデリカの髪色は、紺色に艶めく黒色だった。


「……姉さんは、もともと銀髪なんかじゃあ、ない――ッ!」

 ギリリッ、と歯ぎしりする音がヴァルカンの口から漏れる。

 アルドにも、その気持ちがよく分かった。

「二万年もここに閉じ込められるということは、つまり、そういうことなのか」


 ここへ来て良かった、とアルドは思った。

 今のヴァルカンが辿るこれからのことを思うと辛さもあるが、それでも、このフェデリカとヴィルフレードという姉弟を助けたい。

 そのためには、結局のところ、策は一つしか無い。

 姉弟をさらって、パシオネの魔石でこの世界から抜け出すのだ……!


「待てッ!」ヴァルカンが、幼いヴィルフレードの前に立ちふさがった。

「うわッ、兄ちゃん、何者だよ!?」

 子供らしく狼狽する幼いに対して、ヴァルカンには一切の躊躇は無かった。

 素早く幼いヴィルフレードを小脇に抱えると、例の剛脚を以て、すぐにその場を遠く離れていった。

「あ! ヴィル!! どこへ……ッ!?」

 アオイの脇をヴァルカンは通り抜けていく。さながら、一陣の突風のようだ。

 だが。

「あたしのヴィル! どこに、やるつもりぃッ!?」

 アオイは急ブレーキをかけて背面を向いた。その勢いは凄まじく、また、すでに魔力を開放し始めているのか、石畳の道路の隙間から鋭い水柱が幾本も吹き出した。

 目を剥いて、まさに鬼の形相でヴァルカンを追いかけてその場を巨大な水流と共に高く飛び立ったアオイは、あっという間に見えなくなった。 

 一瞬、アルドの脳裏にはあの恐ろしい守護兵たちの強さがフィードバックして肝を冷やしたが、ともかくも、手筈通りだ。

 作戦では、まずヴァルカンがアオイを引きつける。

 最強の守護兵である彼女を引きつけられるのは、ヴァルカンだけだ。彼は一目散に神殿へ向かった。市街地での戦闘は人道的な理由で避けたかった。だが、神殿には当然、アオイの他に二人の守護兵がいる。ヴァルカンでもさすがに三人の守護兵を同時相手では勝ち目は無いだろう。多少の時間をかせぐだけに留まるだろうが、それで良い。

 元々、ヴァルカン生還のシナリオは、残念ながらこの作戦には無いのだから。

 老パシオネが気乗りしなかったのも、そういう意味だ。

 実のところ、フェデリカを生還させる時点で、今のヴァルカンにはタイムパラドクスが起きてしまう。つまり、その瞬間に、ヴァルカンはこの次元から消滅してしまうのだ。

 今のヴァルカンは、元々、別次元の『アオイ』が、同じく別次元のフェデリカを『アルクマ神』に神格化させることで『孤独の霊峰』を保ちつつ、アルドたちの世界へ連れてきた人物だ。フェデリカが神格化せねば、『孤独の霊峰』から『アオイ』は離れることができない。離れた瞬間に、『孤独の霊峰』は消滅してしまうからだ。


 なお、ヴァルカンが連れて行った幼いヴィルフレードは、パシオネが作った幻影だった。

 本物のヴィルフレードは気を失って、今はアルドが抱きかかえていた。これもパシオネの魔術である。無駄に偉そうに腕を組んで鼻高々としたポーズで仁王立ちしているこのネズミには、あとでチーズの一つでも差し上げておこう、とアルドは思った。

 あと残るは、目の前で呆然としているフェデリカを穏便に説得するだけである。ヴァルカンの話では、彼女には生まれつき強烈な魔術の素養があり、催眠術の類は効かないのだそうだ。伊達にアルクマ神へ格上げされたわけでもないようである。


 もちろん、アルドはここに来るまでに、何度もヴァルカンの意思を確認していた。

 その度に、彼は言っていた。

「姉さんが、あの頃のように笑ってくれれば、俺はそれでいい」と。


(ヴァルカン……すまんッ!!)

 アルドが説得のためにフェデリカの方へ一歩を踏み出した時、彼女は、恐らくは彼女がいままで発したこともないほどの声で叫び声をあげた。それだけではない。彼女の全身から強烈な閃光が発せられた。

「くッ、これは……!」

「おいアルド! オイラでも何も見えねえ、聞いてねえぞ、こんなの! すげえ魔力の目潰しだ!!」

 うわぁ、と叫んで、小さな身体のネズミはどこかへ転がっていった。

 それほど強烈な突風がアルドたちに襲いかかった。そして、それはすぐに閃光と合わせて止んだ。

「しまった……俺は、なんて迂闊なんだ!」

 フェデリカがこれほどの魔力を持っていたこともそうだが、より根本的なことをアルドは見落としていたことに気がついた。

「彼女は、さすが、ヴィルフレードの姉さんだ……くそッ!」

 アルドの目の前には、すでにフェデリカの姿はなく、それはアルドが今しがたまで抱えていた幼いヴィルフレードも同様だった。彼女が、あの閃光に合わせて奪取したのだ。

「あ、あいつ、あの短時間で弟もろとも、逃げたのか!? 信じられん!」

 チョロチョロと戻ってきたパシオネは舌を巻いたが、アルドはいつまでもそうしてはいられず、すでに走り出していた。

「追うぞ、パシオネ! 二人はきっと間違いなく、神殿にいるッ!」

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