CRY OUT

アサリ

第1話

 手足と口、それから思考がばらばらに動いているようだった。早瀬マリはどうにかそれらを一つにまとめようと、皿の上のメインディッシュを睨み付けた。和牛のステーキ。部位はヒレ。給仕はフィレ、と発音した。ソースはトリュフだそうだ。肉の上に添えられた、これは鉄板で焼かれたのだろうか。ブロッコリーとトマト、ニンジンが塩のみで味付けされている。余ったソースをつけてもいいのかもしれない。

 できるだけ音を立てないようにナイフとフォークを使って、口に入れる。今まで自分が食べて来た肉とは何か、根本的に違う。野菜も、これは本当に同じ野菜なのかと感動した。

「美味いですか?」

 あまりの美味しさに感動して、戸惑っているところだった。正面に座っている男がにんまりと笑う。いかにも裏がありそうな笑顔だ。長身でひょろりとしているところがまた、軽薄な雰囲気を増幅させている。髪は後ろへ撫で付けて室内なのにサングラス。誠実な印象を持たれたくないに違いない。

「……美味くない?」

 マリが黙っていると、首を傾げてそう言った。

 美味しくないことはないが、美味しい、と言う簡単な言葉で片付けてしまってはいけないような気がして迷っていた。三十円のチョコレートを食べても美味しい、と言う言葉を使うのだ。それとは格別の美味しいという表現はないものか、とマリは手を止めて悩む。このコース料理はきっと、ゼロの数が二つ、下手をしたら三つほど違うだろう。

「まあいいですよ。どっちでも」

 マリの思考は両断された。マリは慌てて「美味しいです」と答える。「あー、いいんですいいんです。無理する必要は一切ない」無理はしていない。少し、言葉を選ぼうと悩んで、待たせてしまっただけで。

「ある程度は、見ればわかるんで」

 男は、花見シイナは笑っているように見えた。

 本当にわかったのかどうか、わかったとしたら何がわかったのか。マリには判断がつかなかった。

「スープが、特に」

 全て美味しいが、順番を付けるとしたらスープが好みだった。さつまいものポタージュスープ。マリには、窓から広がる夜景だとか、漂う高級な雰囲気だとか、周囲の客の確固たる威圧感だとか、そんな中に一人、高校の制服のままの自分だとか、そんな自分にも他と同じ料理が出て来ることだとか、全てが未知であり、何をどう話せばいいのか、思考がまったく追いつかない。

 一番わからないのは、シイナは、何故こんなところに自分を連れて来たのか、ということだった。

「そうですかい」

 迎えにやってきて「それじゃ、行きましょうか」と言われた時から怖くて堪らない。料理で若干気持ちが解れたが、ここがホテルの最上階であることには変わりがない。大人の男の人が、自分のような子供であるとしても、女をこんなところに連れてきて、そのまま帰す、ということがあるのだろうか。自分はシイナに飼われているようなものだし、何の遠慮もする必要はない。

「マリさん」

 マリの肩がびくりと跳ねる。視線は勝手にあちこち移動し続け、頭の中では様々な感情が浮かんでは沈む。けれど体は食事を続けていた。シイナには自分がどう見えているのだろうか。馬鹿にするなら、もっとわかりやすく馬鹿にして欲しいものだが。

「もうちょっと楽しそうにしてくだせえや。これは、デートなんですから」

 シイナは笑っている、ように見える。

 ただ、どうして笑っているのかが見えないせいで、マリは余計に混乱した。混乱していても、目の前の料理を処理しなければこの時間は終わらないことはわかっていて、だからやっぱり体は食事を続ける。

 楽しそうにしろ、と言われたが、デザートのチョコレートのムースが出てくるまでほとんど無言であった。シイナも積極的に話を振る、と言うことはなかった。デザートを食べ終わって食器を置くと、シイナは、マリをここに連れて来た時と同じテンションで「帰りましょうか」と席を立った。

 帰るんですか。と喉元まで出かかった言葉を飲み込んでシイナについて行く。外へ出ると待っていた車を近くへ呼んで私を後部座席に座らせた。シイナが運転手に言う。

「おう。しっかり頼むぜ」

「へい」

 会話はそれだけだった。

 シイナは座席のドアを閉めると「また会いましょう」とひらひら手を振った。マリは僅かに頭を下げてどうにか「ごちそうさまでした。ありがとうございました」とだけ伝える。心から感謝して、という風ではなかったかもしれないが、お礼の言葉を伝えた。「どういたしまして」会話としてはこれ以上ないくらいに自然であるはずなのに、どうもしっくり来ない。

 違和感を突き止める前に、車が発進した。

 家まで丁寧に送られた。

 心配したことは何一つ起こらなかった。


 早瀬マリを家まで送ると、今度は、料亭『凩』まで花見シイナを迎えに行った。ぞろぞろと出て来るいかついスーツの男達の中に、夜中だというのにサングラスを外さないシイナの姿を発見して、窓から手を振る。シイナはすぐに気付いて助手席に乗った。

 発進してしばらくすると、煙草を一本取り出して、火を点ける。――と、煙と一緒に「はあああ」と長い溜息を吐いていた。

「上手くいかなかったんすか」

「女子高生ってのは、難しいな……」

「ああ、そっちか」

「会合なんざただのオヤジの飲み会だよ」

 温めておいたシートにぎゅっと背を押し付けている。体を伸ばすと脱力して「はあ」とまた溜息だ。

 運転手、シマの方をちらちらと見て「なあ」と身を乗り出す。マリをこの男に送らせたのは理由がある。シマは人相は悪いが、マリとは同じ年だ。故に、もしかしたら、シイナには話せないことでも、シマにならば言えるのではと考えたのだ。

「……マリさん。なんか言ってなかったか」

「なんかってなんすか?」

「なんでもいい。なんか話さなかったか?」

 シマは眠そうな目を数度瞬かせて考え始める。「やっぱり大したことは話してないけど」ハンドルから手を離して一つずつ指を折り曲げていく。その動きと話す言葉は一致していない。何かを思い出すときのシマの癖だった。

「んー……、なんか、買うもんあるならどっか寄ります、つって。そしたら、じゃあ適当なスーパーにって頼まれたんで、」シイナは頷きながら熱心に聞いている。「一緒に買いもんしました。その時にこれ」シマはごそごそとポケットから菓子を取り出した。ぞんざいにポケットに入れたせいで折れてしまっている。

「あ?」

 細長く、片手でも食べやすいように設計された菓子で、数種のナッツがチョコでコーティングされているので、如何にも、運転手をしているシマのことを配慮した贈り物と言える。高カロリーであることもポイントが高い。

「貰いました。付き合ってくれてありがとうって。私のお金じゃないけど、つって。いいひとですね」

「……」

 一流のホテルでディナーをすることよりも、その辺のスーパーで買い物をした方が打ち解けられるのだろうか。マリは高校生で、自分はそれなりに大人であるから、ああいう場所の方が喜ばれるかと考えたわけだが、方向性を変える必要性があるかもしれない。マリは終始落ち着かない様子であった。

 黙り込んでいると、シマが菓子の先でシイナをつついた。

「ん、なんすか。俺あ、また、なんか間違ってました?」

「思ったより打ち解けてて吃驚してるだけだ」

「打ち解けた、ってほど、打ち解けたかはわかりませんが」

 それでも、自分よりは近しい位置にいるように思えて、シイナはがりがりと頭を掻いた。セットした髪がやや崩れる。「はあ」

「女子高生ってのは、一体なににときめくもんなのかね」

「ははは」

「なに笑ってんだお前は」

「シイナの兄貴がおもしれーこと言うから」

 低く笑うシマを叩くと、シイナは持っている菓子を適当に振った。

「実は兄貴の分も貰ったんすよ。これからまだなにか仕事があるんじゃないかって」

 シイナはばっと体を起こして、シマの肩を持ち、シマの体をがくがくと揺らす。

「どこにあんだ? お前、折ってないだろうな?」

 夕方まで仕事をして、その後マリを迎えに行き、食事をし、それからさらに同業者が集まる会合があった。やっとお開きになったのが、午前一時を過ぎた今である。先の会合ではほとんど何も口にしていない。シイナにとっても丁度良い菓子であった。それになにより、マリからの贈り物である。興奮している兄貴分に「これです」とシマは言う。

 手に持って、振っていた菓子をそのまま渡された。

「これがそうっす。俺のはもう食っちまいましたから」

「なんてことしてんだお前は!」

「いてっ、事あ一緒でしょうが!」

 さっきよりも強めに叩かれて不満そうなシマはちらりとシイナの方を見る。文句を言いながらも菓子を受け取ったシイナは、シマのポケットの中でぐちゃぐちゃになった包装を一度綺麗に伸ばし、高価な宝石でも見るみたいに、いろんな角度から眺めていた。

 シイナには、その数百円の菓子が、何万とする和牛のステーキより、輝いて見えるに違いない。


 最寄りの駅まで行って、電車に乗る。三駅先で降りると、同じ制服の生徒もちらほら現れる。そこまではよかった。十分ほど歩いたあたりでマリは自分を取り巻く視線に気付いて、寒さを誤魔化すフリをしながらコートのポケットに手を突っ込んで、そっと足を速める。

 学校へついても周囲の視線はついて回り、教室へ入ると、数秒、クラスメイトが凍り付くように黙り込んだ。この教室だけやけに冷える。十一月の空の下よりも冷え込んでいる。

「マリ!」

 声は二つ重なって聞こえた。

 二人ともクラスメイトで、マリとは中学一年から現在まで。五年間の付き合いがある。二人は揃ってマリの机に手をつき、全く同じことを言った。

「大丈夫だった!?」

「大丈夫だよ。えーっと、あれ、メールし忘れたっけ?」

「来てたけど、安心できるわけないでしょあんなんで! 一通だけだし! 次から写真も付けなさい!」

「そうだな名案だ。是非そうしてくれ。本当に気が気じゃなかったんだからな」

「ご、ごめ」

「いいけどね! そもそも悪いのはマリじゃないし!」

 マリがへらりと笑うと、女子生徒と男子生徒が、それぞれほっと胸を撫で下ろす。

 昨日は、彼女達と遊びに行く約束をしていたのだが、花見シイナが現れて、それが延期となってしまった。二人はシイナを大層怪しんで、絶対に行くなと止めたのだが、マリは大人しくシイナについて行くことを選んだ。

 友人が突然現れた知らない男に連れて行かれ、憤慨したり心配したり、如何に気が気ではなかったかを二人は延々とマリに聞かせた。

「ありがとう」

「ごめん、大丈夫」とマリは言ったが、女子高生が見知らぬ大人に連れて行かれるのは大丈夫なことではないように思えて、心配そうに眉を寄せる。

 男子生徒の方はさらさらとした髪と意思の強い真っ直ぐな目が形の良い顔の上に乗っている。目鼻立ちが美しいので、不安気な顔をさせてしまうと申し訳ないな、とマリはいつも思う。古田ホムラはちらりと周囲の、珍しく自分へ向けられているわけではない視線を確認した。

「大丈夫ではないだろ。学校中で噂になってる」

「ちなみに、どんな?」

「そのままよ。びっくりするくらいそのまんま!」女子生徒は集まる視線を鬱陶しそうに手で払いながら言う。「二年A組の早瀬マリがヤクザの男と付き合ってるって!」快活な明るさを象徴する大きな目が怒りを露わにくるくると動く。感情表現が豊かで良く動く手足の先まで余すことなく彼女の感情が乗っかっている。「囲われてるとか言われてるわよ! ったく、適当なこと言いやがるわね!」ヤクザの男、はシイナで、シイナがマリを囲っている。

「うーん。真実」

「何を呑気な……って、」

 セイコとホムラはお互いに顔を見合わせて「はあ!?」とまた声を揃えた。ぐっとマリに近付いて途端、小声になる。

「真実って、どこからどこまでが!?」

「全部?」

「恋人、いや、愛人? なのか!? あの男の!?」

「そう。どっちかはわからないけど」

「はあ!?」二人はもう一度声を合わせて、そして頭を抱えた。ホムラはそのまま項垂れて、セイコは天井を仰いでいた。「落ち着いて」とマリに言われ、二人は仕方なしに呼吸を整える。何度か深呼吸をしてから、改めて顔を寄せ合う。小声だ。

「なんでそんなことになってんの?」

「一応、助けてくれた、のかな」

「何言ってるんだ。君のお父さんはどうなった?」

「父さんは」

 マリは一度言葉を止める。どこからどう説明するべきか。そもそも今、全てを話すべきか。二人にはもっとちゃんと話をするべきなのでは。噂は真実なので今更弁解することもないが、全部を説明するとなるとあまり聞かれたくない話も交えなければならない。

「ごめん、」

 また、ちゃんと話をするから、と言う声に、「早瀬!」学年主任の学園一の大声が被さった。悪いことをしていたわけではなく、ただ名前を呼ばれただけなのに、三人は一様にびくりと体を震わせた。

「早瀬! ちょっと職員室まで来なさい!」

「はい」

「ごめんね」とマリはもう一度二人に言ってから、教室から出て行った。

 噂は真実なのか、真実であれば問題である。そんな話をされるのだろうとマリは覚悟しながら職員室へ付いて行くと、実際案内されたのは校長室であった。校長と担任の教員、学年主任が同席している。

 沈黙が重く、何か話すべきだろうか、とマリは考えたが、余計なことは言うべきではない気がして、気まずさを一身に背負い誰かが口を開くのを待った。一番最初に口を開いたのは、担任の森山カスガだった。線が細く顔も細く、声まで細い女性の教師だ。

「話は、全部、花見さんから聞いているの」

 なんだ、とマリは安堵した。ならば、マリから話すことはない。シイナが話したという『全部』が、マリの思う『全部』とは限らないが、それならばなおの事、マリが学校側に何かを説明するべきではない。シイナの都合の良いように学校に認識させておくことは、おそらく割合に大事なことであるように思えた。

「ただ、学校としてこういうことがはじめてだから、ちょっと来てもらったの……、早瀬さん、誰かにこのことを話した?」

「いえ、まだ誰にも」

 森山の言う『こういうこと』も『このこと』もわからなかったので、そう答えた。森山をはじめ教員たちは露骨に安心して、一様に強張った体から力が抜けていた。森山の声も格段に柔らかくなる。

「噂について誰かに聞かれたら、あの人は親戚だって、そういうことにしておいて欲しいのよ」

「ああ」

 ヤクザと関わりがあることがまずいし、付き合っていたらなおまずいし、囲われているなんて論外なのだろう。当然学校内で大変な噂になるし、学校内から学校外へと噂が流れ出たらいつ学校ごと保護者から、下手をしたらメディアから叩かれるとも知れない。

 それは大変なことだ。マリは他人事の様に思い「わかりました」と頷いた。間違いなくセイコとホムラには何もかも喋るが。それでも、ここは「気を付けます」である。

 マリの言葉と、素直な態度に教員は何を感じ取ったのか、森山が代表して労いの言葉をかけた。

「……大変だったわね」

「いえ、まあ」

 大変だった。

 いまいちしっくりこない言葉ではあるが、確かに、大変ではあった。マリの脳内で自分より過敏になってホムラとセイコが怒りだす。二人が一緒じゃなくてよかった。適当なことを言いやがってと怒ったに違いない。想像すると面白くて、笑ってしまった。

「ありがとうございます」

 現在進行形で割合に大変だし、今更だ、とマリは思った。

 なくなったものが戻ることはない。


 母が死んだのは、マリが高校二年になってすぐだ。交通事故だった。運転手は母の早瀬ユキが突然飛び出して来た、と言っている。母はその日、夕方から友達と飲みに行ってくると言って家を出た。私と父は「気を付けて」とそれを見送った。父はいつも通りに「迎えに行こうか」と聞いたが母は「大丈夫!」と答えた。

 次に母の顔を見たのは病院で、そのまま別れの言葉もなく母は逝ってしまった。

 セイコとホムラと彼らの保護者、全員が早瀬家のことを気にかけてくれたのだが、父は、そんな周囲の支えも虚しく、妻の死を受け入れられず苦しんでいた。仕事へ行かない日が増えて、半年後には遂に全く会社へ行かなくなった。クビになったのか、行くことができなかったのか、マリは知らない。

 父の衰弱を見て、マリは母の葬儀が済むとすぐにアルバイトをはじめていた。できるけ長い時間、多い日数で、と頼み込み、自分はその給料には一切手を付けずにいた。それでも、家庭を養えるだけの金額には至らない。

「マリ、それ、どうしたの」

 隠していたのだが、ある日マリは、左の頬を腫らして学校に行った。昼間から酒を煽る父に殴られた、とは言わずに「転んだ」と笑ったマリであったが、セイコが大声で泣くのでその日の授業はそのままサボった。ホムラも道連れであった。もちろん、全部白状させられた。

 二人は気晴らしにとよくマリに声を掛け、揃ってマリのことを気にしていたが、高校生の自分たちできることはあまりにも少ないと悔しがっていた。なんとかしたいが、根本的な部分はどうすることもできない。マリの生活を丸ごと変える力は二人にはなかった。

 だが、花見シイナは一瞬でマリの生活を変えて見せた。

 三日前だ。

 十一月二十四日、水曜日。午後十時半、マリが家へ帰ると、ホムラの母が「マリちゃん!」血相を変えて走って来た。一体何事かと聞くと、父が数人の男達に連れられているのを見たのだと彼女は言った。中華料理『鳴林』に入って行くのを見た、と。「警察に連絡はしたんだけど、マリちゃんが心配で」マリちゃんは無事でよかった、と彼女は言ったのだが、言い切る前にマリは走り出していた。

 五連勤の五日目でくたくただったけれど、ひたすら走って、『鳴林』まで行った。店に入ると奥に通された。マリが来ることはわかっていた様子だった。奥には地下への階段があり、滑るように一番下まで降りた。

「おや、お嬢さんのご到着か」

 そう言ったのが、花見シイナだった。シイナは言いながらぱたぱたと手元に並んだ麻雀牌を全て倒す。「ロン」卓を囲んでいたのは父とシイナ、それからシイナの所属する組の人間らしき男が二人。それ以外の景色は覚えていない。むせ返るような煙草のにおいが全身にからみついて、不快だった。

「今ので三百万の負けなわけだが、おとうさん、払えますかい」

「三百……?」

 反応したのはマリだけだった。父は電池が切れたオモチャのように、項垂れて動かない。マリはどうにか歩いて、父の横に立った。その時の父の表情は、絶望ではなく、安堵のようなものだった。終わっている。マリはそう思った。勝手に終わらないでくれ、と掴み上げるだけの気力が、マリにもない。

 親子二人で呆然としているだけ。

 それでもマリは考えていた。どうしたらいいのだろう。三百万の負けを取り戻そうという気持ちすら、父にはない。ならば自分がやるしかない。だが、どうしたら。

「助けてやってもいいですよ」

「えっ?」

 シイナはマリに近付いて、無遠慮に顎を掴んで顔を上げさせた。まだ若いと思うのだが、目が隠れているせいで印象がぼんやりとしている。ただ、唇は常にきゅっと弧を描いていて揺るがない。マリは、シイナの言葉を待つしかない。じっと黙って、どうにかする方法を考えている。「はは」

「なかなか賢そうな娘さんだ。顔も体も悪くない。これならば使い道はいくらでもある。三百なんてすぐ稼げるでしょうねえ」

 シイナはちらりと父を見た。マリはシイナから視線を外さない。シイナの言葉は予測できていた。自然な流れである、とすら思った。

「俺と一緒に来るのなら、俺が全部、なんとかしてやりましょう」

 シイナの言う全部がどの全部かはわからなかったし、その先にどんなひどいことが待っているのか想像もできなかった。だから即答はできずに、シイナを睨んだまま、マリは考え続けていた。断ったら、父が無事では済まないだろう。了承したら、自分というものがなくなるかもしれない。「それが嫌なら、そうですねえ、」シイナがなにか言いかけたが、マリの決意がシイナの言葉を止めた。

「わかった」

 マリはシイナの手をそっと退かして、もう一度繰り返す。

「わかりました」

 父は動かない。それでもマリは、父を庇うように、シイナと父の間に立ち、挑むようにシイナを見つめた。頭の中で、セイコとホムラが「なんてこと言うんだ」と騒ぎ立てる。ごめん。マリは一度俯いて、すぐに顔を上げる。

「それで助けて貰えるなら、私の事は、好きにしていい」

「物分かりがよくて、助かります」

 シイナは笑って、マリの肩に手を置いた。そのまま部屋を出ようとしたので「お父さんは」とすかさず聞いた。「心配しなくても、悪いようにはしねえよ」間に受けたわけではないが、マリは黙ってシイナに従った。

 シイナは、まず、マリを今まで住んでいた家から遠ざけた。「ここが今日から貴女の部屋ですよ」と駅に近い、アパートの一部屋に放り込まれた。「必要なものはあるはずですが」と始終にやついたまま話すシイナの言葉は聞こえていたようないないような。長く自分を使う為の投資だろうか。居住区くらいはきちんとしたところを与えておいた方が、潰れにくいとか、そんな理由かもしれない。「足りなければ、隣に監視役が住んでます。そいつに言うといいでしょう」マリは黙って頷いた。逃げる場所などないのに、厳重なことだ。

 親戚とは縁が切れていて、どこに、どういうつながりの人が住んでいるのか、マリは何も知らされていなかった。母の実家が北の方の、日本海側の町にあることはギリギリ知っていた。逆に、父は南の方だと聞いたことがある。その程度だ。

「今日はもう遅いですし、こんなところで。また明日、迎えに来ます」

 部屋の鍵を渡されて、シイナが部屋を出て行った。

 この部屋はどこになにがあるのだろうと確認しながら、明日の学校について考える。ただ、この時点で三時を回っていたので、荷物を整理している途中で眠ってしまった。

 スマートフォンに何度も連絡が来ていたのだろう。朝起きると充電はすっかりなくなって、真っ黒い画面のままうんともすんとも言わなかった。マリはそのまま学校へ行き「おはよう」と半分眠ったような顔で出校した。

「マリ」

「うーん?」

「大丈夫だったのか。昨日」

 ホムラは彼の母から父のことだけを聞いていたのだろう。「うーん」大丈夫だったと言えば大丈夫だったのだが、大丈夫、と言えるかと言うと微妙だ。マリは考えながら一瞬意識が遠のいた。油断すると眠ってしまいそうである。

「そんなに眠いなら、保健室で」

「あっ、ホムラがマリを保健室に連れ込もうとしてる! エッチ!」

「ち、ちがっ、ばか! 違う!」

 マリはセイコとホムラのやりとりを頷きながら聞いて、一、二時限目はほとんど眠っていた。昼頃になるとようやく意識がはっきりしはじめて、一日の授業が終わるとすっかりいつもの調子を取り戻した。そして、放課後、教室の後ろの方に集まっていざ昨日の事、今自分がおかれている状況を話そうとした、その時だ。

「は、早瀬さん……!」

 森山が教室に駆け込んできてマリを呼んだ。「ちょっと、荷物を持って来て」マリは言われた通りに荷物を持って森山に続く。セイコとホムラも付いて来た。そして、二人も花見シイナと出会い、絶句する。

 校門で、真っ黒の車を停めて一人で待っていたので、大層目立っていた。行きかう生徒は一体何事かと、中心にいるシイナとマリを見る。シイナは、マリを見つけると、ひらひらと上機嫌そうに手を振った。

「迎えに行くって言ってあったのに、学校行っちまうんだもんなあ。ったく、シマの奴もなんでちゃんと見ておかねえかな」

 詳しい説明は一切なかった。

「さ、行きましょうか」

 と、手を差し出されて、当然のようにセイコとホムラと揉めていた。二人はマリを背中に隠し「一体誰ですか」「彼女になんの用事ですか」と質問責めにした。「あー……」と面倒そうに頭を掻くシイナが、ちらりとマリと目を合わせる。サングラス越しに、脅迫されたような気持ちになって、マリは二人に「大丈夫だから」とだけ伝えた。「大丈夫。ごめん。ありがとう」母がいなくなってから、この言葉を何回使ったかわからない。二人はマリのこの言葉が苦手なようで、これを聞くなりぐっと押し黙って静かになった。

「良い友達がいるんですねえ」

 けらけらと愉快そうに笑うシイナを、セイコとホムラは下から睨み付けていた。

 そして連れて行かれたのが、あのホテルだった。

 高そうなフルコースを食べさせられて、それで終わりだった。

 わざわざ藪をつついてヘビを出すような真似はしたくなくて黙っていたが、内心、マリも自分の置かれた状況について理解できていない。

「どういうこと!?」

 マリの替わりに、セイコが叫んだ。

「どういうことなのよ!?」

「どういうことなんだろう」

 雲一つない秋空の下で、昼食を食べながら話をした。

 マリとホムラは購買のパンで、セイコは弁当だ。今日は余程時間がなかったのだろうか。半分はご飯で、もう半分は全て卵焼きだった。昼休みは半分ほど終わってしまったが、三人の昼食は一口たりとも減っていない。

 屋上で叫び回るセイコに対して、ホムラは顎に指を添えて考えながら言う。

「けれど、今のところは、マリは、本当に、助かっているってことか」

「お父さんをあそこに連れてって法外な賭け麻雀をしたのもあの人なんだろうとは思うけど、今のところは、助かってる」

「そんなのは助かってるとは言わない!」

 滑り込むようにしてセイコが戻ってくると、「意味わかんない!」とまた叫んだ。意味がわからないのはマリも同じだが、まだこの生活がはじまって三日目である。どういうつもりなのか、自分に何を期待しているのか、その内には聞く機会もあるだろうと考えていた。シマにはこっそり「どういうつもりか知ってる?」と聞いたが彼は「あー……兄貴が考えてることは、俺にはわかんねっす」と言った。ぼんやりとしていて表情が読めないが、悪意があるようには思えず、お礼を渡して反応を見たりもした。素直に喜ばれてしまって、余計にわからなくなっただけだったが。「けれど」暴れるセイコを宥めるようにホムラが言う。

「仮に、僕たちがマリを元の生活に戻したとして、それは、助けたことになるだろうか」

「難しいこと言わないで! けど、マリは今、あいつに絶対服従ってことでしょ! そんなのいいわけがない!」

 条件としてはそうだ。今、放り出されたらとても困る。マリとホムラは顔を見合わせる。

「マリ、本当に、あいつに変なことを言われたり要求されたりしてないのか?」

「混乱はしてるけど、今のところ、すごく快適」

「なら、ひとまずはよしと、」しておくべきなんじゃないか。ホムラの言葉を予測して、切り裂くようにセイコが叫ぶ。

「いいわけない! あんた今夜にでもマリがあいつにぺろっと食べられちゃっても平気だって言うの!?」

「君はちょっと落ち着け」

「裸にされて写真集とか作られてもいいって!?」

「落ち着けったら」

「マリがどろどろに穢されてもい、」

「いいわけないだろ!」

 いいわけない。ホムラが繰り返す。「いいわけはない。けど」だからと言って、どうすることもできない。セイコはようやく落ち着いて、しかし人目がないのを良いことに舌打ちをしてどっかりと座った。

「食べよ。お腹空いた」

「ああ。そうしよう。マリは今日、バイトは?」

「今日は行くよ」

「バイトも許されてるんだな」

「本当に、なにかしろとかするなとかは、言われてないよ。今のところ」

 マリはがさがさとパンの包みを開き、一口齧る。購買のクリームパンはクリームが大量に詰め込まれているので人気が高い。カロリーも高いが、夜までもたせるためにはこのくらいでなければ調子が悪い。

「マリ」

「ん?」

 呼ばれて顔を上げると、ホムラとセイコがじっとマリを見つめていた。マリはそっと微笑んで「大丈夫」といつものように言おうとした。

「何かあったら、絶対教えて」

 セイコが飛びついて来てマリを抱きしめたので、言えなかった。「うん」頷いて、セイコの背中をぽんぽんと叩く。「大丈夫」そしてやっぱりこの言葉だ。

「大丈夫だよ」

 今のところは。

 マリは、次にシイナに会った時には、自分に何を求めているかはっきりさせようとそう決めた。友人二人に心配をかけない為に、必要なことだ。


 マリのアルバイト先の居酒屋は、駅の裏にある。全国に展開している焼き鳥のチェーン店だった。大体週に四日か五日。十八時から二十二時までの四時間働いている。土曜、日曜は十六時から開店準備も手伝い、プラス二時間。すると月に七、八万円は稼げた。更に、まかない料理も出るので、夕飯をアルバイト先で済ませられて、大変に都合の良い働き先であった。

「おはようございます」

 言いながら店に入ると、従業員が一斉にマリの方を見た。

 誰が来たのかをちらりと確認する、という見かたではなかった。「ああ、おはよう」明らかにいつもとは違う雰囲気に、マリは急速に体が冷えていくのを感じた。お客さんはちらほらと入っている。従業員があまりにマリを見るものだから、それに気付いて飲みに来た客もちらちらとマリを見る。炭火とたれの匂いが、やけに遠い。

「早瀬さん」

 明らかに異常な空気の中、事務所から店長の山岡がひょこりと顔を出して「ちょっと」と手招きをした。何かやらかしたか、シフトの相談か。そのどちらでもなさそうだった。深刻な顔で煙草を灰皿に押し付ける。言葉は端的だった。

「悪いんだけど、もう来ないでくれる?」

 従業員が遠くでひそひそと、なにかを話しているのが聞こえる。なにを話しているのかは聞こえない。

「え、そんな、いきなり……」

「変な噂があってさ。お父さんがヤクザと繋がりがあるみたいだとか、とんでもない借金してるとか、早瀬さんは体売ってるらしいとか。まあ、噂だから、全部本当と思ってるわけじゃないけど、それでも、ほら、ねえ」

「ねえ、って言われても、困ります」

「昨日、実際にやばそうな男と歩いてる早瀬さん見たって人もいてさ。すごく熱心に働くから困ってるんだろうとは思ってたけど。バレたら警察沙汰でしょ。それにもし、この店にもそういう人が押し掛けて来ると困るし」

 マリは咄嗟に否定をする。

「き、きませんよ」

「絶対に?」

 絶対に、とまでは言えなかった。山岡は言うべきことは言ったとばかりに事務所のパソコンの方に椅子を回して、マリを見もせずに続けた。何を言っても無理かもしれない、目頭にぎゅっと力が入った。

「悪いんだけど、うちではもう無理だよ」

 都合が良いバイトだった。ここに決まるまでに五件は面接をした。条件が合わなかったり普通に落とされたりした。今日まで、ミスがなかったわけではないが、それなりにうまくやってきたはずだ。せめて今月いっぱいだけでも、そう食い下がろうと力を振り絞る。「なら、せめて、」

「あと、余計なお世話かもだけど、いくら困ってるって言っても、そういう方法は品性を疑うなあ。早瀬さんはもっとちゃんとした女の子だと、」

 山岡が真横に吹き飛んだ。

 バックヤードで作業をしていた何人か、今まさに出勤してきた従業員がぎょっと目を見開いた。黒いモッズコートの、見知らぬ男が事務所にいた。そして今まさにその男が、山岡を右拳で殴り飛ばした。呻く山岡に、吐き捨てるように彼は言う。

「クビにしといて言う事じゃねえや」

 ここまでしてから、ようやく、しまった、と言う顔をした。

「……あっ、やべ」

 癖毛の下の鋭い目が、マリに向いた。マリの腕を掴んで、軽い調子で言う。

「逃げましょ」

「ええっ?」

 さっきの勢いは何だったのか。ぽかんとするしかない従業員たちの横をさっさと通り過ぎて店から出て行った。きっと二度とこの店には来られない。しばらく走っていたが、人混みに紛れてしまうと男はマリから手を離した。

「シマさん。いつから、っていうか、なんで事務所に」

「呼び捨てでいいすよ。敬語もいいや。なんかくすぐってえし。年、たぶん同じだし」

 年が同じということは十七ということである。彼はごく自然に車を運転していたが、あれはどう説明するのか。年の方が嘘なのか、無免許運転なのか。マリは彼の真意を探ろうと思うのだが、見た目に反しゆったりと喋るシマからは、悪いものは感じられない。素朴ささえ漂わせる柔らかな低音である。山岡に言葉を投げた時は完全にその筋の者に見えたが、今はその影は見当たらない。

「なんか変な雰囲気だったんで、こっそり立ち聞きしてやした。で、気付いたら首突っ込んでて。すんません」

「え、い、いや、大丈夫。むしろ、ありがとう」

 マリははっとして、シマに深々と頭をさげた。疑問は多々あるが、あの瞬間、シマは間違いなく、マリに向けられた言葉に憤っていた。

 シマはきょとんと眼を丸くする。

「ありがとうなんですか?」

「暴力はよくないけどね」

「うーん。兄貴に怒られっかな」

 しまったなあ。とシマは頭を掻いている。人を殴ったことではなく、これから自分がシイナに怒られるかもしれないということを気にしているので、暴力を振るうことには慣れてしまっているのだろう。

 シイナに信頼されているらしい彼は、シイナの運転手、それからマリの監視役を任されている。寒いのか、コートのファーを引き寄せた後、大小さまざまな傷痕のある両手をポケットに突っ込んだ。

「そもそも、どうして店にいたの?」

「んー、焼き鳥食いに。あと酒飲みに。ついでに、かあさんの職場の見学に」

「そ、そうなの」

 未成年の飲酒はいけない。未成年に酒類を販売することも犯罪である。あれもこれも悪びれた様子がないので常習犯だ。

 ちなみにシマの言う「かあさん」と言うのはマリの呼び名だ。昨夜、スーパーで買い物をするマリに。

「なんて呼んでもいいっすか?」

 と、不思議な問いかけをした。「なんと呼んだらいいか」ではなく「なんと呼んでもいいか」だった。マリが首を傾げながら「はい」と返事をすると「じゃあ、かあさん」シマがあまりにも嬉しそうに笑ったので、マリはそのままにしておいた。

「仕事なくなっちゃいましたし、これから帰るっすか」

「うん。駅でフリーペーパーを貰ってから帰るよ」

「なんで?」

「新しいバイト先探さないと」

「ふうん」シマは少し考えるように斜め上に視線を投げて、それから人懐っこくにっと笑った。

「かあさん、飯、なにが好きですか」

「え、ハンバーグ」

「和風すか? それとも洋風? 変わり種とか?」

「えーっと、和風かな。シソと大根おろしで食べるのが好きで」

「ふむ……それなら買い足さなくても作れるな……」

 シマはなにやらぶつぶつ呟いたり、一人で頷いたりしている。考えがまとまったようでぱっとマリの方を見て左手をポケットから出して、マリの右手を掴んだ。

「よっしゃ」

 指の先まで古傷が残る彼の手はごつごつしていたが、じわりとあたたかかった。

「帰りましょ。俺、飯つくりますよ。かあさん」

 シマが作ったハンバーグは大変に美味しく「和風だったら味噌汁と米でしょ」と片手間に作ったらしい味噌汁も絶妙であった。


 一週間が経過したあたりで、シイナから連絡があった。土曜日の朝に迎えに行く、とのことだった。

 その一週間の間に、監視役として隣の部屋に住んでいるシマとは大分仲良くなり、シマは度々マリに手料理を振舞い、遂には先日から弁当を作って渡してくるようになった。朝に弱いらしく、今にも眠ってしまいそうな目を無理やり開いて「かあさん、弁当」と弁当を渡して部屋に戻る。眠そうにしているとより一層目つきの悪さが際立っていた。

 折角なので何度か花見シイナについて聞いてみたが、彼からは情報が得られなかった。正確には、マリになにをさせたいのか、ということは一切「知らね」とのことだった。ただ、気まぐれに聞いたシイナの好物についてはいろいろと教えてくれた。ああ見えて辛い物が駄目らしい。

 それを聞いたところで安心できないが、シマがゆるゆるとしているので対するマリも、ひょっとしてこのまま何も起こらないのではないか、と思えた。

 と、比較的穏やかに過ごせていたのは昨日までで、電話を切った直後から無償に緊張し、遅くまでごそごそと部屋で動いていると、シマが夜食を持って来た。「勉強すか?」と呑気にしていたが、マリの顔色が悪いのを見て「うーん、まあ、平気ですよ。ね」と宥めるように背を撫でた。

 予告通り、土曜日の九時半ごろ、シイナはマリを迎えにやってきた。

 鍵を開けてそのまま入ってきたら良さそうなものだが、シイナはインターホンを鳴らして、マリがドアを開けるのを待っていた。マリは一度深呼吸をしてからドアを開ける。

「おはようございます! 昨日はよく……」

 シマが夜食を持って来たのが十二時頃、あまりごそごそやっていると心配をかけるとベッドに入ったのが一時過ぎ。ベッドに横になってはいたがなかなか寝付ず、何度も目が覚めていた。コンディションとしては最悪だった。

「……顔色が、良くないですねえ」

「大丈夫です。ただの寝不足ですから」

「寝不足……」シイナはマリの言葉を繰り返した。「と、なると、あんまり歩くのは、微妙、か……?」今日もスーツにサングラスで、如何にもなオールバックで、立派な額を晒している。玄関先から動こうとしないので、マリは覇気のない声で問いかける。

「……行かないんですか」

「ん? ああ。行きますよ。行きますとも。さあさあ。こっちでさあ。今日は俺の運転ですからね」

 シマは一緒ではないのか、と、シイナに連れられながらシマの部屋を一瞥した。音がしない。出かけているのかもしれない。シイナと一緒にいるのならマリの監視の仕事は休みと、そういうことだろうか。

 一階に降りると、一週間前にも乗った、黒い車の助手席に座らされた。

 エンジンをかけると、スピーカーからラジオが流れ始めた。テンションの高いパーソナリティが本日誕生日のリスナーにひたすらおめでとうと言っている。

「よし、それじゃあしゅっぱーつ」

 シイナは間の抜けた声で言った。マリはどう反応したら良いのかわからず、黙って前を見つめていた。


 二人の沈黙の間をラジオが埋める。マリは、緊張で、ぴんと背筋を伸ばしたまま座っている。国道へ出て、高速道路に乗ってもまだ行儀よく座っていたので、シイナはにんまりと口端を釣り上げて笑いながら言う。

「楽にしてていいですよ」

「はい」

 マリはそう答えたが体から上手く力が抜けない。その態度が気に入らなかったのか、沈黙に耐えかねたのか、シイナは右手の人差し指でハンドルを叩きはじめた。不快な思いをさせたかもしれないと思うが、車全体から煙草のにおいがしていて、それが服につくのも嫌だった。

「今日は、どこへ行くか聞かないんで?」

「……どこに行くんですか?」

「ま、それはお楽しみなんですけどね」

 わざとらしくからからとシイナは笑った。だったら何故質問させたのかと思うが、質問はしても良さそうだ。少なくとも、口を開いたからという理由で怒りだす、なんてことはなさそうだった。

「あの」

「ん?」

 お互いに、ずっと真正面だけを見ている。

「今日は何をしに行くんですか」

「それも秘密ってことで」

「私はなにをしたらいいんですか」

「そうですねえ。まあ今はとりあえず、俺と楽しくおしゃべりでも」

「私の使い道っていうのを、聞きたいんですが」

「なんでまたそんなことを?」

「聞いておけば、覚悟できるので」

「そんな覚悟は、あってもなくても同じことですよ」

 父にはじめて殴られた時のことを思い出していた。とても以前の父と同一人物とは思えないその人に殴られた時、これからはこういうこともあるのだと覚悟をしたけれど、覚悟をしたところで、殴られれば痛いし、大切な人にひどいことを言われれば涙が出た。

「……そうかもしれません」

 シイナは教えてくれそうにない。ホムラとセイコを安心させられるような情報を貰えればと思ったのだが、無理そうだ。

 もし何か聞きだせたとして、それがどういう内容であったにせよ、ホムラとセイコがシイナを信用できなければ何を言われても同じだろう。彼の言う事は正しい。あってもなくても同じだ。

「他になにか聞きたいことは?」

「お父さんは元気ですか」

「元気ですよ。もっとも、今はまだ会わない方がいいでしょうが」

 それもその通りだ。マリは音を出さない様に静かに息を吐いた。

「他には?」

「お父さんは、どうしてあんなところに居たんですか?」

「おやじさんが自分で来たからですよ」

「連れられて行かれているのを見た、と聞きました」

「ついて来たんです。無理強いはしてませんよ。より掛け金を多くしてやらないかと、そう誘っただけです」

「残念、でしたね」

「なにがですか?」

「勝ったのに。現時点ではマイナスなんじゃないですか」

 シイナは何も答えなかった。マリは一度だけ彼の表情を確認する。口元は薄っすらと笑っていた。怒っている風ではない。しかし、これ以上この話はしていたくないらしい。「他の質問は?」と言って来た。

「もう、ありません」

「そうですか」

 ラジオのパーソナリティは変わって、天気予報、町のニュースと続き、電話での悩み相談、ラジオショッピング。もう二時間以上経つが、シイナが高速道路から降りる気配はない。サービスエリアに寄る素振りもみせないし、一度、道を間違えたのか環状線を一周した。

 ラジオに突っ込みを入れる以外に、シイナは話をしなくなった。

 マリは、ずっと人形のように同じ姿勢を続けている。

「あの」

「んー?」

「どこかで、停まって、くれませんか」

「へえ?」

 その姿勢を崩す。右手で口元を押さえて、目をきつく閉じる。朝は、ほとんど何も食べなかったが、吐き気が込み上げる。

「とまって」

 吐かない様にと耐えていると、目の前がちかちかして、冷や汗が全身から噴き出て来た。重圧と緊張とに耐えながら、絶対に吐いてはならないと言い聞かせる。全ての感情がマリにとっての負荷となって、息苦しくなっていく。

 シイナは何か言ったようだが、マリは吐き気を耐えることに必死で聞き取ることができなかった。


 何も食べていないので、何も吐けずに、不快感と数十分戦った。

 パーキングエリアのトイレに籠り呼吸を整えると「もうやだ」と弱音が零れた。「う、えっ」込み上がって来た吐き気に従いえづいたが、僅かに出てきたのは胃液のみである。もっとちゃんと吐ければ楽になるのだが。

 仕方がない。ハンカチで口を拭いて外に出た。

 トイレに籠っているよりも外にいる方が楽だった。シイナは車に戻っているだろうかと姿を探すと、自販機が四つ並んでいる前を行ったり来たりうろうろし続けていた。忙しなく長い脚を動かして、ぐるぐると回っている。

 たまたまここへ寄ったと思われるカップルや、トラックの運転手らしい作業着の男が訝し気に見ていく。人の視線が気になるような人間には見えないが、今は気にしていない、というより、気付いてさえいないように見えた。

「あの」

 マリは他の人がいなくなったタイミングで声をかけた。シイナはびくりと細長い体を震わせて振り向いた。「マリさん!」声が大きい。かなり遠くにいた人が驚いてこちらを見た。シイナは気にせずに、マリの前に走って来て、地面にそのまま膝をついて、マリの顔色を確認した。

「き、救急車、呼ばなくていいですか」

「え、いや、ただの、車酔いなので……」

 そんなに大袈裟にしたら呆れられるか小言を言われる。確実に迷惑だ。言ってしまってから、迷惑でもなんでも、救急車で運ばれれば今日の用事は延期になるのでは、と気づいた。呼んでもらうべきだったのかもしれない。だがやはり、こんなことで、と思う。

「車酔い……? 車あ、駄目ですか?」

「普段はそこまででもないですけど」

 緊張、空腹、煙草のにおい? はっきりとした原因はわからなかったが、シイナから漂ってきた煙草のにおいに顔を歪めた。

「駄目そうなら、そうだ、しばらく車で寝てていいですから」

「車は」

「うん?」

「煙草のにおいが」

「煙草が駄目!」

 シイナは飛び退いてマリから距離を取った。

 自分のスーツに顔を寄せてにおいを嗅ぐ。「するか? いや、しねえほうがおかしいか……」マリから風下側へ二メートル程離れてしゃがみ込み、がっくりと肩を落とす。

「すんませんね、気が利かなくて」

「いえ、こちらこそ、」

 なんの稼ぎにもならなくて、とは言わなかった。「はあ」とシイナは溜息を吐いて「なら、あそこにしばらく座ってましょうや」とマリをベンチへと誘導した。端と端に座る。隣に灰皿があったからであろう。ほとんど反射で胸ポケットから煙草を取り出すと、一本つまんだところではっとして、箱ごとまとめて灰皿に捻じ込んでいた。

「ええ、あの、別に、大丈夫です」

「煙草は今やめました」

「けど」

「やめました」

「付き合いとかで、吸わなきゃ気まずい時とかないんですか?」

「そりゃ、ありますが……」

 たっぷりと時間を置いて再び「やめます」と宣言し、首を振った。灰皿をぐい、と押して遠ざけている。

 マリは顔を上げて、できるだけ遠くを見るようにした。二時間車に乗っている内に都会からは随分と離れて、トンネルをいくつか越えて、ここは山間のパーキングエリアだ。日本海側に向かっているようだった。

 目を閉じてじっとしていると、冷たい風が吹き抜けて行って、木々を揺らす音が微かに聞こえた。住んでいる場所とは明らかに違う空気を、数を数えながら吸い込み、それより長い時間をかけて吐き出す。

「なにか、飲みますか」

「今はまだ……」

「ですよねえ……」

 ベンチに両手をついて、ぐっと後ろに身体を逸らす。「そうだ」極めて明るい声音で言うと、ぱっと体を戻して文字盤の厚い、ごつごつした時計で時間を確認した。ブランドものの良い時計なのだろうが、長く使っているらしく、ベルトが大分痛んでいる。

「そろそろ昼ですが、体調戻ったら何か食いたいもんとかねえですか?」

「今はちょっと思いつかないです……」

「ですよねえ……!」

 シイナは正面で手を組んで、自分の腕を指先で何度も叩いている。「なんで」だとか「どうして」だとか、断片的に独り言が聞こえている。気分はすっかり落ち切って、溜息を吐いては頭を左右に振っている。なにやら悲痛な様子なので、マリはつい。

「すいません」

 マリの謝罪に、シイナはぴたりと動きを止めて、マリの顔を覗き込むように見つめる。

「なんで、マリさんが謝るんで?」

「予定があって呼ばれたのに。なんの稼ぎにもならなくて」

「稼ぎとかは、別に、マリさんに稼いで貰わなくたって俺あ結構な高給取りですから」

「でも」

 ざあ、と強い風が吹いた。マリの髪が巻きあがって、シイナも、マリを待っている間に頭に触ったのか崩れた髪が靡いている。

「でも、貴方の時間を無駄にした」

 風に掻き消されそうなくらいに弱弱しく「はは」とシイナが笑う。

「俺は、貴女の時間を食いつぶそうとしてる男ですよ。未来ある若者の弱味を握って、言う事を聞かせている大人です。そんなもんに、気なんて使うもんじゃねえですよ」

 会話らしい会話はこれで終わってしまい、以降、簡単な体調確認が何度か行われただけで、マリは結局、そのまま家に帰された。

 シイナが帰ると、シマが入れ替わりにやってきて「平気だったでしょ」と笑った。マリは否定も肯定もできなかった。


 事務所へ入ると、シイナのいる一角だけ異様に重苦しい空気が流れていた。シマはその空気を払うように手をひらひらとさせながらシイナの傍へ行く。いつもならばほとんどいつでも煙草を咥えているシイナが、今日は灰皿と対角線の位置にあるソファに腰かけていた。

「あれ? シイナの兄貴、煙草は?」

「やめた」

「なんでですか?」

「マリさん」

「ああ」

 煙草をやめたから苛々しているのか、マリとなにかあったから落ち込んでいるのかまではシマには判断がつかないが、納得はした。マリ絡みとなるとシイナは大分面白いことになる。

「でも、あの人は、やめろなんて言わねえでしょ」

「言わねえよ。それどころかやめたら都合悪いだろって心配までされたってえの」

 シイナは低く呻るように肯定して、シマを睨み付けた。シマは慣れているので大して気にした様子もなくひょいと踏み込んでいく。

「なら、なんで?」

「やめたいからやめたんだろうが!」

「いてっ、なにがあったか知らねえすけど、俺に当たんないでくださいよ。当たるなら他のやつにしといてくだせえ」

 事務所の黒い革張りのソファに深く体を沈めながら「フー」と大仰に息を吐きだした。煙草が吸いたいのだろうとは容易に察しがついたが、シマは何も言わずにスマートフォンのディスプレイを確認した。マリからメールが来ている。カレーを作ったのでよければ貰いに来てくれという内容だった。「なあ」シイナも自分のスマートフォンをいじりながら言う。

「マリさん、普段はどんな感じだ?」

「普段? 普段は、ああ、昨日、肉じゃが御馳走になりました」

「はあ?」

「美味かったっす。俺が作るのとは違う味しました」

「お前、普段マリさんとなにしてんだ?」

「なにって。見張ってます。ついでに飯作ったり。買い物一緒に行ったり」

「……」

 シイナは無言で立ち上がり、シマの頬を思い切り抓った。

「いででで、なんで抓るんすか」

「…………」

 ぎりぎりとシマの頬がだんだんと赤くなっていくのをただ見下ろしていたが、そのままやられているシマではない。思い切りシイナの腕を振り払って吠えた。

「痛えっつってんだろ! やめろ! 仲良くなりたいならあの人にそう言やあいいだろうが!」

 サングラスをしていても分かる程に不快感を表に出して、シマと同じかそれ以上の音量でシイナも吠え返す。

「こんな極道モンにんなこと言われたらいい迷惑だろうが!」

「はは! 雑ー魚!」

「誰が雑魚だクソガキ……!」

 組の人間は二人が本気の喧嘩をしていると思い込み、部屋の外ではどちらが勝つかで賭けはじめる人間が集まり、事情を知らない構成員も大層盛り上がっていた。


 マリが家を出るタイミングで、シマも隣の部屋からのそりと出て来て、手製の弁当をマリに渡す。断ろうとするとかなり残念そうにするのと、朝が弱いのにわざわざ用意してくれていると思うと突き返すことはできなかった。

「かあさん。弁当」

 相変わらず眠そうにしているが、本日は輪をかけて不調そうであった。

「ありがとう。……どうしたの。それ」

 不調の原因は顔にある赤い痣ではないかと、マリが自分の頬を指差して異常のある箇所を示す。「ここ、赤くなってる」「ああ」そのことか、とシマは手を打って、苦々しく顔のパーツを全て中央に寄せた。

「これは、まあ、ほっときゃ治るんで……、それよりかあさん。ちょっとこっちに」

 シマは部屋着のまま廊下に出て来て、スマートフォンのカメラを起動し、ぐっと上に持ち上げた。画面には制服姿のマリと濃いグレーのスウェットを着たシマが写っていた。「もっと寄って。はい、ピース」言われるままマリはにこりと笑ってカメラに向かってポーズした。

 撮れた写真を確認して、シマは「よし」と強く頷く。

「じゃあ、かあさん、気を付けて。今日もおつとめ頑張ってくだせえ」

「うん。ありがとう。いってきます」

「へい。いってらっしゃい」

 写真の出来栄えが余程良かったのか、シマは上機嫌に笑って、マリが見えなくなるまで手を振っていた。

 電車に飛び乗り、学校の最寄の駅で降りた。近くに三つ程高校があるとは思えない程駅前は閑散としている。若干広めのロータリーを抜けると、学校へ行くまでにコンビニが一軒あった。それ以外は一階と二階だけが商業用に使われているビルがあったり、外装に凝りに凝ったお城のような小児科医院があるくらいである。道を逸れれば小さなラーメン屋もあったりするが、それ以外には別段、見るべきところはない。

 家の近所のほうがまだ若干都会だ。それでも主都部のベッドタウンという風なので、胸を張って都会です言えるほどでもない。田んぼしかない、というのも謙遜がすぎるような。高校に入ると自分の住んでいる場所を説明することもあるので、マリはいつも適切な言葉が浮かばず困っている。

 薄い水色の空をぼんやりと眺めながら歩いていると、まだまだマリの噂をする生徒はいて、感情が濁って行くのを感じる。一向にかまわないが気にならないわけではない。噂をするにしてももっと本人にわからないようにしてくれないだろうか、と溜息を吐いた。

 若干縮んだ背を、「おはよう」と左右から別の人間に叩かれた。「いっ」今、マリにこんなに気安いことをしてくる人間は二人しかいない。

「おはよう。ホムラ、セイコ」

「元気?」

「うん。元気だよ」

 元気がなさそうな後ろ姿だったのかもしれない、とマリはぴっと背中に力を入れて真っすぐに立つ。周囲の視線を咎めるように、ホムラとセイコがそれぞれ右側と左側に視線を走らせた。目が合った生徒はびくりと震えてそそくさとこちらに注目するのをやめる。「下んない連中」ぽそりとセイコが言って、「そうだな」とホムラが同意した。

 噂は一週間程度では当然なくならず、相変わらずマリとヤクザ(これはシイナのことなのか、シマのことなのか判断がつかないことが多い)が一緒に居たという目撃証言で盛り上がったりしているようだ。スーパーで買い物をしていた、とかだと信憑性があるなと思うが、ラブホから出てきたとかは完全に作り話である。偽の目撃証言が出始めているので、一体どのように噂が展開を見せているのか、マリには知りようがないことであった。

 教員に口止めされたが、マリを怖がっている生徒も多いせいで、直接聞きに来る生徒はいない。

「それで、どうだったの?」

 ホムラとセイコは例外だ。彼らには土曜日に会うことになったということも喋っている。だから何かしらの報告をする必要があるのだが、報告できることがこれと言って存在しない。車に乗せられて、気分が悪くなったから停まって貰って、しばらくしたらそのまま帰って来た。

「……なにもなかった」

「本当か?」

「うん」

「いや、絶対嘘でしょ。変な間があったし」

 例えば体調が悪くなければなにかがあったのだろうか、とは思うが、「どちらでも同じこと」だと言った、シイナの言葉を思い出す。なにかあっても、なにもなくても、マリは何もなかったと言い張っただろう。

「本当に、なにもなかったよ。四時間くらい車に乗ってただけ」

「車でいかがわしいことされたって!?」

「されてないよ」

「……マリ」

「ん? 顔が怖いよ、ホムラ」

「本当に? 本当になにもされてない?」

 そして、何を言ったとしても、きっと心配はさせるのだ。

「されてない」

 ならばせめてと笑って見せるが、そうやって笑えば笑う程に、ホムラとセイコは寂しそうにするのであった。「ええっと」今のところは何もないことくらいは信じて貰えたら、と思っていると、ふと、手元の紺色の保冷バッグが目に入る。シマが「かわいいほうがいいと思って」と用意してくれた弁当セットだ。紺のつるりとした生地に、黒地に白水玉のリボンがちょこんとついている。弁当箱もこれと同じ色味で、センスがいい。

「そうだ、新しい家に遊びに来るといいよ」

「新しいって、あのヤクザから与えられてる?」

「そう。シマに聞いたら、遊びに来て貰ってもいいって」

「シマって、隣に住んでて毎日マリに弁当を渡してる?」

「そうそう」

 セイコとホムラはそれぞれ聞いて、揃って沈黙した。彼らにとっては敵地に赴くような気持ちなのかもしれない。マリは大分あの場所にも慣れて、間違えて元の家があった方へ足が向くこともなくなったが、彼らには未知の領域である。

「なんなら泊まって行ってもいいし、布団ないけど」

「それよ!」

 セイコがマリの両肩をがっと掴んだ。

「え?」

「ホムラ、わかってるわね?」

「いや、そうしたいのは山々だけど、僕はまずいんじゃ」

「わかってるわね!?」

「……マリが構わないなら、もちろん僕も行く」

「マリ!」

 はい、と勢いに流されながら返事をする。「いいわよね?」とセイコはそのままマリの体を前後に揺すった。がくがくと頭が揺らされて目が回る。

「泊まりに来るってことだよね?」

「いいって言ったわよね?」

「いいよ」

「ほら! いいって」

「なんにもないけど、それでもよければ、是非」

 セイコはマリの肩を話すと「作戦会議よ」と今度はホムラと肩を組んだ。「とりあえず布団か寝袋は持って来ること、あとは護身用の催涙スプレーとかあればそれも」「常備してるわけないだろそんなもの」「不用心ね。私はあるわよスタンガン」「物騒だな君は……」ほかにもいくつかやりとりをした後、二人は頷き合って離れた。

「じゃあ、今日! 帰ったら荷物持ってすぐに行くから!」

「あっ、う、うん。待ってる」

 二人は本日の数学の宿題について話しはじめた。写させてと甘えた声で言うセイコを、駄目に決まってるだろと突き放す。マリはスマートフォンを取り出して、シマに連絡をした。『今日から、もしかしたらしばらく友達が泊まりにくるかも』寝ていたのだろう。昼頃にシマから返事があった。『食べられないものは事前に教えて』何か、作ってくれるつもりらしい。


 その日は、七時頃にマリの新しい住まいへ二人が集まって来た。布団を抱えていたせいですごい荷物で、警察に職質されたそうだ。実際夜逃げや家出と勘違いされても仕方がない出で立ちであった。

「お邪魔します」

 二人は荷物を全て、マリのベッドがある部屋に降ろす。そしてリビングダイニングに適当に座った。「思ったよりもいい部屋ね」セイコの印象は悪くないようだったが、ホムラは隣の部屋の住人、シマを気にしていた。

「あれだけ広いなら、私は別にマリと同じベッドで寝られたわね。なんならホムラも一緒に川の字でもいけたかも」

「それはまずいだろ、色々……」

「大丈夫よ。変な気起こしたら私が水ぶっかけて外に放り出してやるから」

「過剰防衛だ」

「今の時期だと風邪引くね」

 三人で卒業旅行に行こう、と話をしたことがあった。どこへ行くか、セイコとホムラは北と南で揉めて、結局その日に行先までは決定しなかったが、それでも、絶対に行こうと約束をした。これはただのお泊り会だが、林間学校や修学旅行とはまた違う楽しさがある。

「それはいいけどお腹すかない? 何か食べに行く?」

「お金がかかるだろ。簡単なものを作ろう」

「ええ? 私手伝わないわよ」

「何しに来たんだ君は……」

「だってここにあるものってあのヤクザが用意したものでしょ。あんまり遠慮なく使うのはどうなの?」

 それは、とホムラが押し黙る。そのタイミングで「あの、今日はね」とマリが立ち上がる。視線を隣へ向けて、両手の指先も隣に向ける。

「用意、してくれてるって」

「は?」

 昼過ぎから、シマからのメールが止まらなかった。好きなものはなにか、メニューはこれでどうか、いややっぱりこっちのほうがいいだろうか。熱量が文量に比例している。マリは圧倒されながらもぽちぽちと返事を打ち込んだ。

 そして、シマは『決めました。俺の部屋に用意しとくんで、三人で来て下さい』というメールを最後に何も送って来なくなった。何を用意してくれたのかマリにも教えられていない。

「はあ?」

 マリに手を引かれシマの部屋へ行くと、二人は再びそう声を揃えた。

 間取りはマリの部屋と同じで、殺風景さ加減も同じだった。ただ、本棚にびっしり料理の本が詰め込まれており、中央に大きめの炬燵が置いてある。インテリアに頓着がないのか、炬燵布団は可愛らしい猫柄だった。

 そして、炬燵の上にホットプレートが用意されている。周りにはタコとキャベツ、ネギ、たこ焼きの粉。ソースにからしマヨネーズ。

「いらっしゃいませ、っすね」

「お邪魔します。また気合入れたねえ」

「人が集まった時はやっぱこれっしょ」

 ぐっと親指を立てるシマを見て、セイコはがっと頭を抱えた。「意味が! わからない!」「おい、人の家で暴れるな」ホムラはどうどうとセイコを宥めながら、ちらちらとマリとシマのやりとりを気にしている。

「かあさんはたこ焼きになに入れんのが好きっすか」

「ネギ、かな……」

「よっしゃ。じゃあやりましょ」

 シマは自分の服の袖を捲りあげた。部屋着ではなく薄手のセーターを着ている。惜しげも無く晒された腕にはぎょっとするような傷の痕。もう痛くないのだろうか。眺めていると「かあさんも手伝うんすよ」とマリの服の袖をぐいっと上げた。その手を、ホムラが掴む。

「あー……、なに?」

 割り込むように間に入って、ホムラを睨む。シマの方が体ががっしりしているが、背はホムラの方が若干高い。

「気安く触るな」

「あ?」

 一触即発な二人の後ろで、セイコが静かに盛りあがっている。あからさまな野次は飛ばさないが、よくやった、とガッツポーズを作って、ホムラに見せた。

「だ、大丈夫だから。セイコとホムラは座ってて。シマ、手伝うよ」

「マリ、」

「大丈夫。本当に、大丈夫」

 別段取りに行くものもないが蛇口から水を流し、手を洗いながら話をする。先にマリが流水に手をつけた。

「ごめんね」

「かあさんが謝ることじゃねえでしょ」

「いつもは、あんなんじゃないよ」

「どうかな。特に、ホムラでしたっけ。俺ああいつとは仲良くなれねっす」

 ふん、とシマは鬱陶しそうに鼻を鳴らす。マリがシマに場所を譲ると、今度はシマが手を洗いはじめる。

「ごめんね」

「こら」

 冷水で洗ったばかりの手のひらで、シマは、マリの頬を抓った。むに、と形が変わる程度の力だ。

「だから、かあさんが謝ることじゃねえんすよ。あいつらは俺が気に入らねえんだから。俺が調子ん乗って余計なことしたってだけの話で、っていうかええ? かあさんほっぺた柔らかすぎねえか? なんつーの? 生地が違う?」

 痣になっている自分の頬と感触の違いを確かめ始めた。「なんだこれ? こうも違いが出るんすか?」ずっとそうして遊んでいるので、マリも、ついに擽ったくなって身を捩った。

「あはは、あんまり触ってるとまた手洗わないといけなくなっちゃうよ」

「いやあこれ、いやあ……」

「ふふ、」ついに両手で頬をいじり始めたので逃げられなくなった。こうなれば気が済むまでやらせておくかと大人しくしていると、だん、と何かが落下したような音がした。

 音は、ホムラが立てたものだった。炬燵を拳で思い切り叩いて、今も関節部が軋む音が微かにしている。

「ホムラ?」

 マリは慌ててホムラのそばに寄ったが、ホムラはマリから離れて行った。背を向けて、「悪いけど」と、声を絞り出す。

「僕は帰る」

「ホムラ……!」

 涼やかな目元に暗く影を落とし、射殺すような冷たい視線だった。マリは、ホムラにこんな目で見られたのははじめてで視線を受けただけで体が固まった。

「ついてこないでくれ」

 ホムラは靴の踵を踏んだまま歩きだし、バタン、と強く扉を閉めた。「あーあ……」そう首を振ったのはセイコで、シマは「めんどくせえ男」と舌打ちをした。

「かあさん。あんなもん放っておけばいいっすから」

 また、セイコが「あーあー……」と、今度は肩を落とした。シマは「ほっときゃいいのに」と頭をかいた。

 マリは、すぐにホムラの後を追いかけた。そして、二十分後、一人で帰ってきた。


「ごめんね」

 息を切らしたマリはそう言い続けていた。ホムラから言うべき言葉は見つからない。幼稚なことをしてしまったと自分でわかっているが、マリは、何が癇に障ってホムラがあの空間から飛び出したのかよくわかっていない。勝手なこととわかっているが、それがひどく腹立たしい。

 マリは、とても漠然とした気持ちで謝っている。

「ついてくるなって言っただろ」

「でも、荷物とか」

「明日取りに行くよ。今日はもうあいつの顔を見たくない」

「ホムラ、止まって」

「君の顔も、今日は見たくない」

 ホムラは振り向けなかった。マリは、傷付いているに違いないからだ。「そっか。ごめんね」声は震えていた。マリが追いかけてくることはもう無かったが、ホムラの背中が見えなくなるまでずっとそこに佇んでいた。

「ごめん」

 言わなければならない言葉と、取るべき態度はわかっているのに、無理だった。マリがいなくなると、ようやく彼女のいた方を振り返ることが出来た。「ごめん」だけど。

「君のそんな笑顔は、久しぶりに見たんだよ」

 自分や、セイコの、どこが駄目だったのだろうか。

 マリは、あのシマはという男と随分親しい様子だった。シマもマリを大切にしている風で、マリは、大抵誰にでも親切にするけれど、あの男だけは特別だったりするのだろうか。ヤクザの下っ端のようなことをしている、あの男をどう思っているのだろう。

 繁華街の方へ歩いて行く。このあたりであればもう、マリの家よりも自分の家の方が近い。繁華街を抜けたところ、町のはずれにある、今にも崩れそうなアパートの一室に古田ホムラは母と二人で住んでいる。あの家に帰る時、昔から、まるで町から追われたような気持ちになる。

 実際、近隣住民からの嫌がらせは時々ある。玄関に「出ていけ」と書かれた捻りのない張り紙や、ポストに「呪いをかけた」と書かれた頭の悪い手紙。部屋の前にゴミを撒かれたこともあった。最近はそこまでのものは無いが、引っ越してきてすぐの頃が一番酷く、一体どこから漏れるのか、学校でも古田一家のことはすっかり知られてしまっていた。

 古田一家のかつての家長、ホムラの父親は、自らの愛人を殺し続けた殺人鬼であった。わかっているだけで五人。最後の一人とは心中であった。と、言われている。

 そんな風には見えなかった。と、誰もが言った。ホムラも昔はそう思っていた。母だけは、察していたものがあったのか、父の訃報に安堵していたように見えた。ホムラが小学校の五年生の時である。夏休みのはじめだった。盆には、父にキャンプへ連れて行ってもらう約束をしていた。

 母が安堵できたのもその一瞬だけだった。

 それからは住む場所を転々として、ようやく落ち着いて長くいられたのがここだった。母の就職が決まったということが何よりの理由ではあったが、母は、自分の就職が決まった時よりも、ホムラが連れてきた友達を見た時の方が喜んでいた。その友達が早瀬マリである。三ヶ月ほど遅れて、黒川セイコだ。中学二年の中頃から、同性の友達も何人かでき始めた。

 殺人鬼の息子であるホムラは、クラスメイトや教員の反応にもすっかり慣れていた。別段期待はしていなかった。教科書やノートに被害がなければ楽でいいと思う程度だった。

 飽きないな、と呆れていた。

 噂を流すと金が入る人間がいるとしか思えないくらい、情報が早かった。

 溜息を吐きながら席に着いた。

 休み時間になっても話しかけてくる奴はいない。

 怖いのか、眺めているのが面白いのか。誰も。誰も。誰も――。

「嫌だったらそう言ってくれていいから」

 それが第一声だった。

 早瀬マリは正面の机を勝手に借りて動かし、向かい合わせになるように合わせて、ホムラの前で弁当を広げ始めた。

 ホムラが動けないでいると、マリは改めて聞いてきた。

「ここで食べてもいいかな」

 真顔だった。ニコリともせずに目の前に来て、弁当を食べると昼休みが終わるギリギリまで正面にいて、宿題をしたり本を読んだりしていた。

 この生徒も一人なのだろうかと思ったが、彼女は普通にクラスメイトと話をするし、一緒に帰ってもいる。

 一週間が経過した時、ようやくホムラはマリに言った。

「なんで」

「ん?」

「なんで、そこで食べるんだ」

 マリは黙ってじっと考えていた。

「ここで食べたいから」

 あとから、「正しくはお母さんの助言に従っただけなんだけどね」と笑ったが、その助言に従うことを選んだのは彼女自身であった。

「駄目かな」マリはやっぱり、挑むような顔をしていた。哀れみだとか悲しみだとか、そんなものではなく、教室の中央で二人きりでいることは、彼女にとっての戦いなのだと、そんな気がした。

「駄目じゃない」

「それならよかった」

 ホムラが自分の意思を伝えた時に、彼女ははじめてにっこりと笑った。その表情がとても頼もしかった。きっと、一生忘れないだろう。

 それからは、朝会えば挨拶をするし、昼の時間も色々と話をするようになった。マリの友人は何人か減ったようであったが、マリが気にした様子はなかった。

 マリはいつでも何かに挑むように立っていて、真っ直ぐ、自分の思う通りに進んでいく。

 しかし今は、いつ見てもどこか寂しげで、頼もしかった背中が小さく見える。当然だ、と、ホムラは思う。マリを支えていた家族が、家庭が一気に壊れてしまったのだから、ぐらついて迷って、弱くなるのは当然のことだ。

 そんなマリを何としてでも支えよう、マリだけは壊れてしまわないように頑張ろう。そうセイコと話し合ったのは、まだ、半年前のことである。

「なんで、昨日今日はじめて会ったような奴なんかに」

 なんでもいい。マリが元気になるのなら。そう思っていたはずなのに、その要因が自分たちでないことに腹を立てている。

 まだまだ家に帰る気にはならなくて、ふらりと路地に入り込んだ。奥に人がいるようで、話し声が聞こえてきた。このあたりの治安はあまりよくないので、引き返そうかとも思ったが、苦しげな呻き声が聞こえた気がしてゆっくり進んだ。

 慎重に、路地の奥を覗き込む。

 暗いせいで詳細は分からないが、三人の男が、一人の男を痛ぶっているように見えた。体格の良い派手な柄のシャツの男が二人に、一番奥でふんぞり返っているのは、ひょろりと細長いスーツの男。ぞっとした。あれは、花見シイナだ。会話までは聞こえてこないが、一人の男を囲んで愉快そうにしている。あんなものが、マリの生命線である現実が、上手く受け入れられない。

 荒くなった呼吸で居場所がバレないように手のひらで口を塞ぐ。意識的にゆっくりと息を吸い、そして吐き出した。

 それを数度繰り返して、じっとシイナの様子を伺う。体を低くして、足に力を入れる。呼吸を整えて、今からやろうとしていることを頭の中で反芻する。咄嗟に考えたことは、マリならどうするかという事だった。

 マリはきっと見捨てない。ただし普通に喧嘩を挑んでも勝てないから、なんとか、殴られている人を助ける方法を考えるだろう。

 もう一度息を吸って吐いて、止める。

 次の瞬間全速力で走り出した。丁度全員が背を向けている。痛めつけられていたオトコは左側の体を下にしていたので、ホムラは右から回り込み、右側の一人を突進で突き飛ばすと、ぶつかった衝撃を使って反転。転がっている男の脇腹に腕を突っ込んで持ち上げ、そして来た道を走った。

「何しやがる!」「あいつの仲間か!」声を荒らげる二人の間で、シイナは一人で首を傾げた。さっきの少年には見覚えがある。

「あのボーヤは確か……」

 ホムラは力いっぱい走り、とにかく距離を稼いだ。どの道もあまり人気はないが、普段一番人通りの多い場所を選んで運んで来た男を道路に降ろした。傷が痛むのか「うう」と体を丸めている。できれば自分で走って欲しいが可能だろうか。

「すいません、立てますか」

「お前は」

「逃げないと、あいつらが追ってくるかも」

「あいつら、ああ、クソ、あいつら……!」

 男は頭を抱えてアスファルトの上で「クソ、クソ、こんなはずじゃなかったてのに」と悪態をつくばかりで、一向に立ち上がろうとしない。様子を見る限りでは歩く力くらいはありそうなものだが。

「あの、」

「なあ、あんた! あんた、わざわざ俺を助けてくれたんだろう!?」

 肩を叩くと、男はホムラの腰に縋りついて来た。無精ひげに白髪の混じった髪、殴られたせいなのか元々歪んでいるのか、右目と左目の大きさが違う。息は荒くて、錯乱している。「落ち着いて」ホムラの声は聞こえてないようで、返事ではなく、自分の主張をホムラにぶつける。

「俺は悪くねえんだ! 俺は悪くねえ! なあ、わかんだろあんた。俺が悪人にみえるか!? あいつらのほうがよっぽど極悪人だ、だからあんた、助けてくれたんだろう!?」

「そんなこと聞いてるんじゃなくて、自分で立てって僕は」

「お前も俺から逃げる気なんだろ! あいつと同じだ! なあ! そうなんだろうが!」

 声を張り上げ、唾を飛ばしてくる男を押し返す。まだ、他に人は通らない。「逃げなきゃいけないのは貴方だろ」ぐちゃぐちゃに握り込まれている服を離して貰おうと手を掴むが、男の力は緩まらない。ぶんぶんと首を左右に振って、ホムラに向かって叫ぶ。

「俺を助けてくれ!」

 助けろ、と言われてもこれ以上はどうしようもない。ホムラは困り果てて男の必死な形相を見つめる。目を逸らしたくなるが、男が吐き出す「助けてくれ」を聞き続けていた。ホムラは、助けたつもりだった。こんな時に、マリならば。彼女ならば。

「助けてくれ! 助けてくれるんだろう! なあ!?」

「僕は、」

 男がホムラを烈しく揺らす。ホムラは何も答えれない。「僕には」続きの言葉は、男の後方から聞こえて来た。

「そんなつもりじゃなかった、かい?」

 煙草を持っていないが、煙草の煙を吐き出すように長く長く息を吐く「フー……」じわじわと街灯に照らされたその人間は細長く、黒く。

 暗闇に浮かぶ月のように、花見シイナの笑顔が浮かぶ。

「あるいは、自分には何も出来ない、なのかな」

「お前は……」

「こいつあ返してもらうぜ」

 男はホムラを盾にするようにホムラの後ろに回り込んだが、そこには既にさっきの二人の男が控えていて、いとも簡単に拘束されていた。「助けてくれるんじゃねえのか! あんた! 無駄に期待させやがって! なあ! 何とか言ったらどうなんだ! ええ!? さっきまでの威勢はどうしたんだよ! おい!」ホムラへの恨み言を叫び続ける男に「うるせえよ」と拳が振り下ろされた。一撃で、男はだらりと力を失う。

「痛え。なんだよ。クソ。ぬか喜びさせやがってよお……クソ……」

 ぶつぶつと言い続ける男はシイナの部下らしき二人に連れて行かれた。シイナとホムラだけが、街灯の下に残っている。

「まあ、半端なことはするもんじゃねえや」

「あの人は、何を?」

「んー、簡単に言うと、女に騙されて文無しになったってところかね。詳細はいろいろ適当に想像してくれや。大体当たるから」

「これからどうなるんだ」

「それは企業秘密」

 にんまりとした笑い顔の前に人差し指を一本立てる。ホムラは顔に付いた唾を袖で拭うが、気分はまったく晴れなかった。もやがかかったみたいに、ずっと曇っている。

「あれを助けたいと思うのかい?」

「助けられるのか」

「そりゃあもちろん。ボーヤがあれのかわりになるならね」

 そこまでする義理はない、シイナも、ホムラはそこまで首を突っ込んではこないと確信して話をしている。試すような言葉ではあったが、ホムラが言葉を失う姿を見ても、ホムラを否定することはなかった。

「まあ。家族だとか友達だとか、恋人だとかね。そういう大事なものの為にってんなら稀にあるが、赤の他人にそこまでするやつはただの馬鹿だな。そんなことしてちゃ体がいくつあっても足りねえしよ。助けてくれと言われたって、助けてやれねえ時も、助けたくねえ時もあるわけで」

 ゆっくりと糸を手繰るような話し方だ。シイナはゆらりと長い体を揺らして暗い夜空を仰ぎ見た。このあたりは明かりが少ないので、よく星が見える。

「俺にゃ、ボーヤがあれの身代わりになったところで、あれが助かるとは思えねえな」

「マリは父親の身代わりになっただろ」

「そういやそうだ」

「マリの父親も助かってないのか」

「助かる助からない。助けた助けられなかった。そんなもん、当事者以外がわかるかよ」

 マリは、父の作った負債を背負った。マリの自由はシイナが握っている。住む場所も変わって、監視が常についている。だというのに、その監視とすっかり仲良くなって、母親が健在だった時と同じように笑えるようになっていた。助けたのは誰で。助けられたのは誰か。ホムラには、マリが助かっているように見える。助けたのは、シイナ。いいや、シマかもしれない。

 本当のところどうなのかは、わかりようがない。なんならそれら全ては現時点での話であって、明日どう転ぶかという話になれば、とうとう当事者以外は知りようがない。

「ボーヤはさっきあれを助けたが、助けられていない。仮にあれの身代わりになっていても、きっと助けられない。根本的なものがなにも解決していないからだ。そういうのは、先延ばしにしただとか、一時的に逃れただとか、そういう言葉を使ったほうがわかりいいよな。ああ、いや、もしかしたらボーヤの献身に心を打たれて改心する可能性ってのもなくはないか。そんなことがもしあれば、それは根本的な解決になり得る、のかな」

「……随分、よく喋るな」

「うちの連中はあんまり深く考える奴がいねえからなあ。小難しいことは、小難しい奴に喋っておかねえと」

「結局、何が言いたいんだ」

「ありゃ。わからねえかい?」

「わかるわけないだろ」

 シイナは、ホムラの肩にぽん、と手を置いた。

「あれが、マリさんじゃなくてよかったなあ」

「……え?」

 手に力は入っていない。それでも、ホムラは足から力が抜けてがくりと膝が折れた。途端に呼吸がしずらくなって「は、は」と声を出さないと息が吐けない。シイナはわざわざホムラの前にしゃがみ込んだ。足を畳んで、長い腕をまっすぐ前に伸ばしている。

「マリさんに言われてたら、もっとしんどいぜ」

 想像したら、身体の震えが止まらなくなって、自分の腕で自分を抱いた。

 マリがもし「なんとかしてくれ」「助けてくれ」と言っていたら。自分は果たしてどうしただろうか。マリが望むなら、マリの父親を殺すくらいのことは平気でやったかもしれない。けれど、その後は? 天涯孤独となったマリに「助けて」と縋られたら?「あ、あ」できることなんてなにもなかったのではないか。いいやそれはわかっていて、だからこそどうにか傍にいるだけでも、楽しい時間を過ごしてもらうだけでも、何かの足しになればと思っていて「ああ、あああ」マリは。ひょっとしたらマリは、「助けて」と言いたくても、言えなかったのではないだろうか。ホムラやセイコに助けを求めることなんてできなかった。

 何故ならば、マリの望む助け船を、ホムラもセイコも出せないとわかっていたから。だから、マリは――。

「ああああああああ!」

 助けるどころか、マリを追いつめていた。気丈に振舞わせなければならない状況に追い込んでいた。

 だから、自分ではマリを笑わせられなかった。楽にしてやることができなかった。マリの為に必死になることで、マリを助けている気になっていただけだ。挙句、思う通りにいかないことに腹を立てて、マリを傷付けた。こんな自分が助けになろうなどと、烏滸がましいにもほどがある。

 あの人を助けられないように、マリを助けることも、自分にはできない。

 こんな自分ならばいっそ、マリの傍に居ない方が。

「な、しんどいだろ」

 シイナはホムラの頭を数度叩いて、夜に溶けるように去って行った。


 古田ホムラと幾度となく重ねて来た、早瀬マリを支えていこう大作戦の計画の中で、ホムラは何度か真剣な顔で「おじさんがいなくなれば、マリは楽になるんじゃないか」と物騒なことを口走っていた。冗談で話を詰めたら実行しそうな勢いを感じたので、黒川セイコは「できるわけないでしょ」と立案自体を切り捨ててきた。そんなことをしたところで、万が一にできてしまったとして、マリが喜ばないことなど考えなくてもわかる。

 ホムラは嘘のように顔が整っていて優しい友人だが、そういう、危なっかしいところがあった。マリが不安定になるとより顕著になり、セイコとしては、マリも、ホムラも心配であった。自分は、マリやホムラのように、普通に生活していて痛い思いをすることはない。だから、しっかりしなければと言い聞かせ、暗い背中を思い切り叩いた。

「おはよう!」

「ああ、おはよう」

 思い切り叩いたことに文句もない。これは重症かもしれないとセイコは思いながら、反撃する力が戻ることを願いつつホムラの額を指で弾いた。

「ああじゃないわよ、なあにその顔。マリと仲直りする気あるの?」

 ホムラは微かに頭を揺らしただけで、セイコと目を合わせることもしない。ここまで露骨に落ち込まれるとセイコも苛々してくる。元々そう気が長い方ではない。それでもどうにか良い方向へ持って行けないものかと背を叩き続ける。五回を超えたところでホムラがセイコの手を掴んで止める。

 疲れ切ったような笑顔だった。

「もういいんだ」

「はあ!? なに、もういいって」

「もういい。マリの傍には君がいてやってくれ」

 シマが用意したたこ焼きを三人で食べて、マリとは寝る前に話をした。「顔、見たくないって」一発顔を殴ってやろう。マリを責めてどうするのか。セイコも思うところがないわけではない。しかし、シマの料理(たこ焼きの後にデザートもよかったら、とプリンが出てきた)は普通に美味しいし、シマはマリを丁寧に丁寧に扱うのである。マリが「ごちそうさま」と言えば「美味かったすか」と聞いて「おやすみ」と言えば「おやすみなさい、あ、明日の弁当のおかず、なんかリクエストは」なんて返して、今朝も「いってらっしゃい」「いってきます」と言い合っていた。マリには、そういうのが必要だったのかもしれない、と、見ていて思った。

 母が亡くなってから、そういうやりとりは死んでしまっていただろうから。

 けれどそれは、それだけだ。

 そうじゃない。

 何故、よりにもよってこの男から「もういい」なんて言葉が出るのか。セイコは感情のまま無理矢理ホムラを引っ張って正面から向かい合った。悔しい気持ちは自分にだってある。だが、それは。

「馬鹿じゃないの!? あんたマリを傷付けたままいなくなろうっていうわけ!?」

「そうだ」

 思わず、暗い影を落とす頬を張った。通学途中の学生、通勤途中の社会人、母に手を引かれた子どもまでもがホムラとセイコを注目した。

「ばーか! ばかばかばか! ばかホムラ! 折角応援してやってたのに! ちょっと好きな子が他の男と仲良くしたくらいでなによ! ばーーーーか! 一生落ち込んでろ! 意気地なし! 唐変木!」

 セイコは力の限りに叫んで走り出す。三十メートルほど全力で走って、走るだけでは収まらなくてもう一度振り返り、体の中に燻ぶる感情をぶちまける。

「ばかーーー!」

 恩知らずめ! 心の中で罵れるだけ罵った後、教室へ入る前にトイレに入って涙を拭った。今まで、マリと遊びたかったけれど、仕方がないから譲ってやったことが何度あったと思っているんだ。何度、気を使って二人きりにしてやったことがあったと。何度誕生日プレゼント選びに付き合ってやったと思っているんだ。諦めるにしても、ちゃんと告白してから諦めろ。と言うか何故今諦めるんだ。マリは笑っていたけれど、あのヤクザ男のことは何も解決していない! どうせ、下らないことをぐるぐる考え込んでいるに違いない。ホムラはいつもそうだ。

 セイコはトイレから出て、教室で待っているマリに近付いて行った。マリは、窓際で外を見ていた。何を見ているのかと思えば、丁度、校門のあたりをホムラが歩いているのが見えた。マリに余計な心配をかけている。思わず舌打ちしそうになった。「マリ」声をかけると、マリは一瞬言葉に詰まった。セイコが見るからに苛立っているからだ。

「……どうだった?」

「駄目だったわよ。今日は無理そう。あれは落ち着くまでにちょっと時間がかかるかも」

「そう」あんな態度を取られたら、誰だって寂しく思うし、言葉が届いていないとわかれば悲しくもなる。「ったく、美女を二人も悲しませた罪は重いわよ」

「ホムラ、昨日より調子悪そうだね。あの後なにかあったかな」

 セイコは先ほどのホムラの様子について思い出す。そういう見方もできるかもしれない。誰かになにかを言われたか、心境が変化してしまうようなものを見たか。言われてみればその可能性は高いように思えた。

「ま、ちゃんと布団で寝なかったらあんなもんでしょ」

 ここで深刻になっても仕方がないと、ただの寝不足であろうと言っておく。何も言わなくとも、マリはホムラを心配しているので「布団か……」と部屋に置き去りにされた荷物一式をどうするかについて考え始めた。

「布団と荷物、本当に今日取りに来るかな。来にくいようなら、家まで持ってってあげたほうがいいよね」

「そうね。あの様子だと多分来ない。手伝いたいけど、私も荷物すごいから無理よ」

「うーん……」

 本当は、ずっと泊っているつもりだったのだが、シマとマリの様子を見たら自分は邪魔であるように感じたし、マリには余計に気を使わせている風でもあった。帰宅のタイミングがいつも同じなわけではないし、不都合なことも多い。結局セイコも、今日布団を引き上げて家に帰ることにした。

「そうだ。シマに手伝って貰おうか」

 セイコはぎょっとマリを見た。マリはひょっとして、何故ホムラが突然帰ると言い出したのか、全く心当たりがないのではないか。マリに限ってそんなことはと思うが、恐る恐る「本気?」と聞いた。

「シマに、セイコの荷物をセイコの家に届けて貰って、私たちはシマの家にってこと。セイコが嫌じゃなければお願いしてみるよ」

「ああ。そういうこと。いいわよ。それなら私も行ける」

「ありがとう」

 ほっとした。それならば自然だし、火に油を注ぐようなことにはならないだろう。

 マリはシマに頼っている。信頼している。早速メールを打っているようだった。返事はすぐに来たらしく「いいって」家族に無理を言うような気安さだ。荷物を届ける、しかも布団を背負ってなんて、結構な手間のはずだが、マリは全然深刻に思っていない。

 この場合は、これが一番良い形だ。

 しかし。セイコは考える。

「お願い、か」

「ん、なに?」

「ううん。なんでもない」

 自分がそんな風に、マリに何かを頼まれたのは、一体いつが最後だった?


 数日経ったが、ホムラは相変わらずマリを避け続けている。一人で居ると言うわけではなく、男友達とにこやかに話しをしたり、他クラスの女子に声をかけられたりしている。彼も噂の多い男ではあるが、見た目が良いので、特に女子生徒が放っておかない。セイコは何度か話しかけたが毎日毎日「もういいんだ」としか言わなくて、だんだんホムラへと向かう足取りも重くなった。

 教科書を机に立てて、隠れるようにノートに額を押し付けた。歴史の授業が右から左へ抜けていく。

 セイコの席は窓際の最後列。三つ前の席に座るマリは姿勢よく座って話を聞いており、右斜め前の席のホムラはそんなマリを時々見ている。気になるんだったら距離を取るなばか。「はあ」また溜息が出た。

「そんなに簡単に諦めちゃうんだ」

 黒川セイコが二人の存在を強烈に認識したのは、殺人鬼の息子古田ホムラが同じクラスに転入してきた、その日のことだった。その頃のホムラは根暗を地に構築したじっとりとした前髪で顔を隠していた。それでも肌は白いし、綺麗な顔立ちをしていて、セイコの友人たちは全員ホムラを気にしていた。しかし、殺人鬼の息子、という肩書がある。騒ぐだけ騒いで誰も近付かないだろう、とセイコは予想していた。かわいそうだ、とも思った。それだけだった。

「早瀬さん、どういうつもりなんだろう」

 同じグループの誰かが言った。誰もホムラと仲良くしようとしない教室の中でただ一人、ホムラと二人で昼食を食べるその姿に、セイコは大層衝撃を受けた。「あんな奴もいるんだ」セイコとマリは当時ただのクラスメイトという関係だったので、動機までは読めなかった。友人の中には「よっぽど顔が好みなんでしょう」と笑う奴もいた。

 あんな奴もいるんだ。セイコは毎日、そう思っていた。

「ねえ、あなた古田ホムラが好きなの?」

 体育の授業中だった。バトミントンでペアになったので、マリにそう聞いてみた。マリはきょとんと眼を丸くして「すごく優しいよ」と言った。思っていたどの答えとも違っていて、セイコはむっとし、次のコートへ向かう足を止めた。

「そんなこと聞いてんじゃなくて、付き合ってんのかって聞いてんのよ」

「友達だよ」

「そうじゃなくて」

「黒川さんも、今度一緒に遊ぶ?」

「はあ?」

 何故そうなるのか。意味が分からない。思い切り片側の眉を上げる。失礼なことにマリはセイコの顔をみて「はは」と笑った。はっきりした答えは得られなかったが、あの二人は恋人関係ではないのだということだけ直感した。マリが頑なに言明しなかった理由も、今はわかる。中学の時には何度か言及したけれど、今はもうしなくなった。

 ラケットをくるくると回した後、シャトルを打面でこーん、こーんと跳ね上げた。器用なものだと思った後に、そのくらいは自分にもできると、隣に並んで同じことをやってみせた。マリはそのまま話しはじめる。

「ホムラが、身なりくらいはちゃんとしたいって言うから、色々買い出し。黒川さんはセンスいいし。よかったら、付き合ってくれると助かる」

 何故自分が。何故あなた達と。そんな風にちょっと褒められたくらいでのこのこと付いて行くような安い女ではない。第一リスキーなのだ。クラスで二人がどれだけ浮いているのかわかっていないのか。下手をすればいじめの標的である。

「……いつ?」

 殴る蹴るはなかったとしても、もうヤっただの、やばいことをやっているだの、不良のだれそれと喧嘩をして舎弟にしただの、あることないこと好き勝手言われることは確定している。普段マリと親しくしている女の子でも、裏ではこそこそと二人合わせて異常者のように扱っているのを聞いたこともあった。

「明後日。日曜日」

 そんな連中と関わるなんて、中学生生活が台無しになったら誰が責任を取ってくれるというのだろう。友達は選んでいる。平穏無事に過ごせるグループに所属している。第一、グループをはしごするなんて浮気者のようなことをした時点で弾かれることだってある。

「何時から?」

 経験者が言うのだから、間違いない。

「朝十時」

 方々に良い顔をするのは、良くないことだ。

「どこに集合?」

「大砂橋」

「ああ。あそこ」

 マリは知らない。誰も知らないことだ。中学に上がる前に引っ越して来たし、セイコが一人で過ごした一年間のことなど、誰も。学校へ行かないでずっと家に籠っていた一年間のことなど、誰も。誰も。

「待ってるね」

「まだ、行くなんて言ってないけど」

「三十分くらいは遅れて来ても待ってるよ」

「遅刻なんてしないっての。失礼ね」

 あの日のホムラが、自分と重なった。しかし、セイコは動けなかった。足が竦んで、手が震えて、一歩も動けなかったのに、マリはホムラと友達になってしまった。ホムラの気持ちが痛いほどわかる。マリがそばにいる。それだけのことが、どれだけ彼を勇気づけたか。セイコにはわかる。

 もちろん、ホムラとマリが仲良くなったことについて、最初はそんな風に割り切れず、冷静でいられない日もあった。自分のふがいなさを自覚したり、やりたかったことをやられて悔しく思ったり、不当に二人を見下すグループに身を置いている自分をぶん殴りたくなったり。ただ単純に羨ましくもあった。あの時にマリがいてくれたら、とホムラを羨ましく思い、あんな綺麗な男の子の一番最初の友達になったマリを羨ましく思った。

 ごちゃごちゃと悩んだけれど、結局セイコは、マリと、ホムラと友達になってみたくて、待ち合わせの大砂橋に行った。川に沿って歩いて行くと、二人はもう待っていた。ホムラはやや緊張したような、落胆したような顔で「よろしく」と言った。

 邪魔して悪かったな、と思ったのも束の間、ショッピングモールに入ってあれこれアドバイスをしていると、心の底から感心したという顔で、ホムラが言ったのだ。

「黒川はすごいんだな」

「は? 普通でしょ」

「いいや、僕にはできない。そんなにうまく立ち回れないし、声をかけられると話をきかなきゃいけないような気になって。早瀬だって、ほら、あそこで店員に掴まってるし。だから君に来て欲しかったんだろうな」

 見れば、押しの強そうな女性の定員に試着室に連れて行かれそうになっていた。「ああもう」セイコが間に入ると、助かった、とマリは笑った。そうこうしている間に、ホムラは逆ナンに遭っているという具合で、セイコはいつの間にか、マリとホムラを引き摺って先頭に立っていた。

 次の日、昼食を三人で食べると、セイコは元居たグループから強制的に退去させられた。清々した。マリとホムラと一緒の時は、楽しく日々を過ごすこと以外に考えなきゃいけないことは何もない。同じ高校に入る為にマリに勉強を教わり、半泣きになりながら受験勉強をしたのも、今ではいい思い出だ。合格発表の時には一番泣いた。

 一生モノの友達、とはこの二人のような人のことを言うのだと、セイコは信じていた。時間の流れゆく途中で、例えばマリとホムラの関係の名前が、友人から恋人になっても大丈夫だと、信じていた。

「はあー……」

 このまま、関係が修復されることはないのだろうか。ホムラはいじけているし、マリも、今は積極的に関係を修復する気はないようだ。気にはしているが、ホムラが決めたことならばと尊重しているようにも見えた。今回のことはホムラが勝手に拗ねているだけなので、マリにはどうしようもないとも言える。

「駄目だ、明るい話題、明るい話題……」

 部屋のベッドから飛び起きて、スマートフォンに届いているメールを確認する。ここ最近、マリに付き合って良い働き口を探しているので求人広告のメールが山のように入って来ている。一応中身を確認して、それから削除する。

 そうしているうちに、一件、親戚から『冬休みのアルバイトの件』という件名でメールが届いていた。飛びつくようにして開く。内容を確認していくと、暗い気持ちが吹き飛んだ。ホムラは来るかわからないが、一応声をかけてみよう。ゆっくり話がしたいから、明日、学校の帰りに知らせよう。わかりやすいように資料を印刷しておいた方がいいかもしれない。

 これを聞いたら、マリはきっと喜んでくれるだろう。


 マリは大抵は早く学校についていて、スマートフォンの画面をやたらと良い姿勢で見つめている。マリの噂はまだまだ聞くが、マリはホムラとセイコ以外には「そんな事実はない」と否定しているので、噂の勢いは弱まりつつある。それでも、各段に一人でいることが多くなってしまっている。

 そんなマリの横に、そうっと寄って行って、普段よりも高い声で話しかける。今にも雨が降りそうな天気などお構いなしに、できうる限りに明るくした。

「おほほほ、マリさん。本日の放課後時間ありまして?」

 至近距離からいきなり声をかけたせいで、マリは驚いてがたりと椅子を鳴らしていたが、すぐにセイコだと気が付いて、「今日は」と。出てきた声は若干困った様子だった。毎日のようにバイトの面接を入れているから、それかもしれない。

「今日、は、ちょっとなら」

「なによ、ノリが悪いわね。同じノリで返しなさい。ちょっとってどのくらい?」

「一時間くらいかな」

「なにがあるの? バイトの面接?」

「うーん」言葉を選ぶための時間稼ぎ、セイコはここで既にピンと来た。これはシマかシイナ絡みだろう。いや、シマとのことは余程やましいことがないらしく包み隠さず教えてくれるので、これはシイナ関連だ。

「いや、呼ばれてて。迎えに来るまでの時間は暇だよ」

 やっぱり。とセイコは細い腕を折りたたんで、コンパクトに腕を組む。

「……あいつね」

 シマのことは大体わかった。マリにとって実害はなさそうだ。シイナの部下であることはこの際考えない。わからないのはシイナである。マリの話を聞いていると、シイナは、ただマリを連れ出して遊んでいるだけに思えるのだが、そんなことがあるのだろうか。

 セイコが難しい顔をしていたからだろう。「ごめん」マリは笑って「なんだった?」と首を傾げた。

「ふふふ、聞いて驚きなさい」

 言いながら、用意して来た資料をマリの机の上に叩きつけた。綺麗にファイリングしてマリが気にしそうな情報をピックアップしてきた。

「私たち二人まとめて面倒見てくれるバイト先がみつかったわよ!」

「おお!」

 マリは早速その資料を取り出して、一枚一枚を確認しはじめた。見るスピードがとても速い。がんばって作って来たのでもっとゆっくり堪能して欲しいのだが、マリはものの数秒で大体目を通してしまった。

「海が近いんだ」

「そうなの。いいでしょ?」

 教室にホムラが入って来たのがちらりと見えた。一秒に満たない時間、ホムラはマリを見ていたけれど、卑屈な暗い顔をして、すぐに自分の席へと座った。女子生徒に取り囲まれている。

「と言っても。冬休みの間だけね。親戚のその更に知り合いの知り合いが旅館をやってるらしくて」

「もうほとんど他人だね」

「いいのよなんでも」

 セイコは得意気に、そしていつもよりも明るく元気に、ぴ、と指を立てて続ける。

「そこでね、従業員の一人が入院しちゃってて、もう猫でもいいから来て欲しいって状況みたい。詳しい話は三日後に聞きに行くんだけど」

「どこに? この場所?」

「お昼頃、駅前の喫茶店まで来てくれるって。親切よね」

「へえ。よっぽど困ってるんだね」

 ベテラン一人の穴が新人二人で埋まるのかはわからないし、まだ決定してはいないけれど、マリは胸に手を当てて「ふう」と少しだけ、肩の荷が降りたようだった。

「ありがとう。セイコ」

「どういたしまして」

「それで?」

「なによ?」

「放課後も何か用事があるんじゃないの?」

「あっ」

 しまった。放課後に話そうとしたことを全て話してしまった。「ああ、それは、それはあれよ」急いで用事を考える。一時間だけ余裕があるらしい。一時間。ちょっとお茶をしていたらすぐである。

「ちょっとね、今の彼氏について話がしたくて」

「ああ。そういうこと」

 今のマリに話さなければいけないことなど一つもないのだが、そういうことにしておいた。

 学校まで迎えに来てもらうとまた噂になるからと、二人並んで傘をさして、少し歩いて公園に入った。屋根のあるベンチを陣取って適当に話をしはじめる。適当と言っても、あまり、自分の親のことや、今の彼氏が物足りなくなってきたというような話は選ばない。マリはどんな時でもマリであり、ちょっとしたことでも自分よりも深刻になっている。今はマリが一番大変なのだから、そう言う話はしないでおこうとは、マリをなんとか支えていき隊の条約その三である。

 偉そうに十個も決まりを作ったくせにあの野郎、とセイコはぐっと拳を握った。

「セイコ?」

「ああ、ごめん。でね、今の彼氏が、私が持ってるスタンガン見て、改造してくれたのね」

「改造?」

「うん。当たったらちょっと起き上がれない程度にしてくれたんだって。ほら」

 セイコは通学鞄の体側に押し当てているほうのポケットから黒い手のひら大の機械を取り出した。「こうやって使うの」ばち、と目で確認できる稲妻が走り、すぐに消えた。

「……危なくない?」

「当たらなければ危なくないわよ。それで、マリもよかったらどう? いざとなったらスタンガンを押し当てて逃げるのよ」

「ええ、い、いいよ私は」

「なんでよ」

「大丈夫。危なくなったらちゃんと全速力で逃げるし」

「あったらあったで心強いのに」

 マリはスタンガンを触ろうともしないので、鞄の中に仕舞い込んだ。「本当にいらない?」しつこく聞くと、その話題はもう終わりだと違う話に変えられてしまった。

「セイコが見つけてくれたみたいなの、リゾートバイトって言うんでしょ」

「ああ、まあ、冬の海なんてリゾートって感じしないと思うけど、まあ名前はそうね」

「そう? 冬の海いいと思うけど」

 雪が降ったらもっといい、と続けたマリは、今回のバイトを楽しみにしている様子だった。何を提案しても、どんな時でも大抵楽しそうにしていたが、ここ最近では一番わくわくしているように見えた。

 本来は斡旋してくれるリゾートバイト専門の派遣会社があるようで、条件に合った宿や土地を探して、求人票を見せてくれるのだそうだ。だから、リゾートバイトからリゾートバイトを渡り歩き続けて、日本中を旅する、なんて人もいるのだと、セイコが調べたホームページに書かれていた。

 その派遣会社に登録できれば、自分にもそんな生活ができるのだろうか。

 例えばこの冬休みの間に登録して、次の働き口を紹介してもらって、時期が来たらその次に行く。

「ねえ、マリ」

「ん?」

「このまま逃げちゃわない?」

「ええ?」

 セイコは自分用に作った資料を取り出した。「ここ」宿の写真を指差して続ける。

「人が倒れたってことは、今だって絶賛人不足ってことでしょ? きっと雇ってくれるわよ。それで、見つかる前に次のバイトを探して、今度はそこに行くの。それをずっと繰り返してたら、逃げられると思わない?」

「逃げるって、何から?」

「花見シイナに決まってるでしょ」

 あるいは、マリに暴力を振るっていた父親から。不愉快な噂話から。具体性に欠ける話だが、マリやホムラも計画に加わってくれればきっと実現できる。稼ぎながら逃げられたら、三人揃って逃げられたら、逃げるのだって楽しいはずだ。今のところは大丈夫、なんて言っていないで、絶対に大丈夫などこかへ逃げる。「マリ」

「私と逃げよう」

 言葉にすると、頭の中で考えていた時よりずっと頼りない響きになってしまったけれど、これはセイコが提案できる精一杯のことだった。「私は」マリは資料の上で震えているセイコの手に自分の手のひらを重ねた。風が吹いて、雨が吹きこみ、身体に雫がぶつかってくる。

「セイコがそうして欲しいっていうなら、逃げてもいいよ」

「……どういう意味?」

「セイコやホムラが、そうして欲しいって言うなら、逃げてもいい」

「どういう意味って聞いてんだけど」

「私に気を使ったり心配するのが辛いなら、そう言ってくれていい」

 こんなに短期間に二度も人を殴ることになるとは思わなかった。しかも、二度とも大好きな人だ。本当は殴りたくなんてない。傷つけたくない。大切に大切にしたいのに。止める間もなく振りぬいてしまった。

 ああこれじゃああのヘタレ男と同じである。そうじゃない。そんな言葉が欲しいわけじゃない。その言葉を引き出せない自分が情けなくて、言ってくれないマリが憎らしい。

「そんなこと言ってないでしょ!」

「うん。言われてない」

「ならなんでそんなこと言うのよ!」

「私を見てるのがしんどそうだから」

「しんどいに決まってるでしょ! マリが暴力振るわれたり、疲れた顔で学校来たり! ヤクザに囲われたり! しんどくないわけないでしょうが!」

「うん」

 セイコの言葉を一つも否定せず、飲み込むように頷いた。

「だから、二人がそうしてくれって言うなら、私は一人で逃げてもいい」

 二発目が入った。マリは怒らない。静かにセイコを見つめている。

「それが苦しいの! アンタのそういうところが許せない! どうして!? どうしてそうなるの!? 私たちを絶対一人にしなかったくせに、なんでアンタは一人になろうとするの!? どうして何も言ってくれないの!」

「大丈夫だからだよ。二人にそんなに気を使って貰わなくても、私は」

「嘘よ!」

 頬を流れるのは雨粒ではない。

「そんなの、嘘よ」

 マリはマリだ。だからきっと、一緒に逃げようと言った時、(現状だと来てくれるかわからないが)ホムラやセイコの、親兄弟の顔も思い浮かべていただろう。全員が全員は納得してくれないだろうと判断した。だから一人で逃げるなんて言う。

 マリの言葉は正しい。その通りだ。その通りだが、そんなことをマリに気にされたくはない。

「嘘に決まってるじゃない」

 大丈夫であったことなんて、一度もないくせに。

「いつもいつも、大丈夫大丈夫って、嘘ばっかり」

 一人で泣いていた日もあったくせに。

「私たちには、何を言ってもいいのに」

 マリは何も言わずに、遠い夢でも見つめるような目でセイコを見上げている。

「苦しい時は苦しいって言ってくれたらいいのに」

 何故、とセイコは思う。

「痛い時は痛いって言ってくれたらいいのに」

 何故、自分がマリへの想いを爆発させてしまっているのだろう。

「なにもできないかもしれないけど、一緒にしんどい思いをすることはできるのに」

 何故、いつも、マリのようにできないのだろう。

「どうしてそれすら拒否するの? 私たちは、マリが一言言ってくれれば、きっとなんだってできるのに」

 ただ傍に居たいと思っただけなのに。

「なんだってしてみせるのに」

 辛い思いをしてほしくないのに。今まさに、マリに形のない暴力を振るっている。こうして欲しかった、なんて、最悪だ。その言葉を引き出せなかったのは、自分たちのくせに。

「もう知らない。馬鹿。阿呆。友達甲斐ゼロ女。勝手にヤクザに飼われてろ」

 マリは悪くない。自分も、たぶん、悪くない。

 セイコはマリの視線に耐えられなくなって逃げ出した。

 ごめん。マリに背を向けながらそう思う。明日はちゃんと、今日のことを謝って、一緒にいるから、どうか許して。


 気付くと、自分の部屋で眠っていた。新しい方の自分の部屋だ。頭がぼうっとしていて、目が上手く開かない。熱いような冷たいような、確かめようと腕を持ち上げようとすると、「マリさん?」声がした。

 声のした方へ顔を向けると、シイナがこちらを覗き込んでいた。

「……どうして?」

「そりゃこっちの台詞ですよ。迎えに行ったらぼうっと雨に打たれてんですから。ひょっとして、高校生って突然そういうことしたくなるもんですかい?」

「雨?」

「そう。雨」

 あめ、と呟く。

 セイコが、高校の合格発表の時以上に感情を剥き出しにして泣いていて、セイコに、もう知らない、と言われてしまって、公園に一人だけになった。言われてようやく、そういえばシイナとの約束があってあの場所で待っていたんだったと思い出す。シイナと会った記憶がないが、ここにシイナがいるということは、あの場所からここまで運んでくれたのだろう。スーツのジャケットを着ていないのは、濡れてしまったからだろうか。

 会う度に迷惑をかけている。今回の約束も駄目にしたのに、シイナは怒るどころかマリのすぐ隣に座って、頭の上の熱を吸い取るシートを替えている。

「それにこれ、どうしたんです? 派手にやられちゃって」

「なんですか……?」

「ここ。腫れて真っ赤ですよ。喧嘩ですかい? やんちゃだなあ」

 腫れている、と彼が言う箇所には湿布が貼られた。ひやりとするのは一瞬で、すぐに熱くなる。熱があるらしい。体もだるくて、動くのはかなり億劫だ。

「まあ、いいですけどね。友達と喧嘩するくらい」

「でも、すごく、怒らせて」

「こんなになるまでぶん殴るくらいですからねえ、そりゃあ怒ってたんでしょうけども」

 シイナはからからと笑っていた。

 マリの視界がじわりとぼやける。「けどねマリさん」湿布を貼っていない方の頬に、シイナの指先がそっと触れる。風邪を引くと、母や父に必ずこうして顔を触られ「冷たくて気持ちいいでしょ」と言われたことを思い出す。

「大丈夫ですよ。マリさんは、絶対に大丈夫」

 花見シイナはゆっくりと、マリの体に染み込ませるように言う。

「良くなったら、謝りにいきゃいいんですから。ね」

 シイナの腕の、時計のバックルが大きく見える。シャツの袖は捲られていて、シマと同じようにいくつも傷跡があった。

「だから今は、なーんも難しいこと考えないで寝てていいんです」

 シイナの手のひらがマリの両目をすっぽりと覆う。何も見えなくなる。真っ暗だ。しかし、不安な感じはしない。

「俺が全部。全部なんとかしますから。おやじさんのことも、マリさんのことも」

 大丈夫だよ。母の声が聞こえた。自分に何度も言い聞かせた言葉だった。大丈夫。自分は大丈夫。本当に? 本当に。平気だ。ちょっと痛かったり苦しかったりしても、生きてる。それに、一人じゃなかった。ぱっと脳裏を過るのは、ホムラの後ろ姿と、セイコの後ろ姿。――一人じゃなかった。さっきまでは。でも、今は?

「大丈夫ですからね」

 今も、一人ではない。


 母のユキには、ほとんどなんでも話をしてきた。楽しいことも嬉しいことも、困ったことも全てだ。せっせと家事をする母の隣に立つと、母はすぐにマリに気付いて「どうしたの」と言った。「なにかあった?」話をする時は大抵、車の中か、家のリビングだった。鍋で二人分のミルクティーを煮出してくれて、作業を中断させて、聞いてくれていた。

 その日の相談は、ある、噂についてだった。

「殺人鬼の息子?」

「鈴木さんがそう話してた。明日、クラスメイトになるんだって」

「それって、ちょっと前までニュースでやってた古田さん?」

「たぶんそう」

 普通ならば、一年もしない内に思い出すこともなくなってしまうだろうけれど、注目の人物の、その家族がクラスメイトとなると、忘れることはないだろう。マリははちみつが多めに入ったミルクティーをこくりと飲んで、部屋の中がうつり込んだ、テレビの画面を見つめていた。

「それで?」

「森さんやクラスの皆は来なきゃいいにって言ってた」

「うん」

「でも、噂が本当なら、来る」

「そうだね」

「……皆は怖がってる。クラスの皆だけじゃなくて、帰る途中で何度も同じ話を聞いた。町の人たちまで怖がってる」

「マリは? 怖い?」

 母の声は優しい。母は、転校生の古田ホムラについて何も言わない。危ないとも、関わるなとも言わなかった。マリの意志だけを順番に確認していく。

「私は、わからない。ううん。少しだけ、怖いかも。だけどそれは、まだ、会ったことがないからで、本当は、怖くないかもしれない」

 喋ったことも見たこともない男の子を怖がって遠ざけようとしたり、嫌悪感を露わにしたり、そういうことはしたくなかった。嫌ったり怖がったりするなら、もっとちゃんとした理由が欲しい。

「どうしたら、いいかな」

「さあ。私にもわからないけど。マリがしたいようにしたら大丈夫だよ」

「お母さんは怖くない?」

「私も、マリと同じ意見です。見たことない知らない人だからちょっと怖いけど、それ以上のことはまだなーんにもわからない」

「私、おかしくない?」

「おかしくないよ」

 おかしくない。母はそう繰り返した。マリは母の方を見る。母は微笑んでいた。何もかも包み込むような、柔らかい微笑みだった。

「私はマリの話聞いてて、マリなら絶対大丈夫だなって思ったから、やりたいようにしておいで」

 いつだって、母の言葉に勇気を貰っていた。母は必ずマリに「大丈夫」と言った。マリならば大丈夫。絶対に大丈夫。マリは母からその言葉を聞くのが大好きだった。「うん」今はもう、二度と聞くことができない言葉。

「あ、でも」

「ん?」

「もし、何かひどいことがあって、一週間くらい学校休んだら、ごめん」

「あははは! そしたら二人でディズニーランドにでも行きましょうかね!」

 セイコもホムラも、あの日のマリは格好良かったと言ってくれたが、本当は手が震えていた。足も震えて、声なんかろくに出せなかったせいで、何の話もできなかった。あれは考えがあったわけではなくて、一杯一杯だっただけなのだ。

 それを話すと二人は「それでもすごい」とそれぞれが持っていた甘味をくれた。

 二人を母に紹介したこともある。揃って「いいお母さん」だと言って貰えたのが嬉しかった。「なるほどって感じ」セイコは言った。「どこまでも等身大って感じで羨ましい」とも。セイコの母親は常に忙しくしていて、世界中を飛び回っているような人だった。何度か会ったこともあるが、いつも綺麗にしていて、電話中だって満点の笑顔であった。家事は苦手だったみたいだが、その分、セイコの主婦力が鍛えられた。何より「外でいつもちゃんとしてるのってとても大変なことだから、すごいよ」だから、一目見た時から、マリはセイコを尊敬していた。

 流行りのものは大抵押さえているし、いつも、グループが上手くいくように立ち回っているように見えた。雰囲気が悪くなりそうだったら話題を変えたり、誰よりも大きく感情表現をする姿を見て「仲良くなれたらいいのに」と思っていた。しかし、彼女は頑なに、一つのグループに居ることに拘っており、今年は無理かもしれないと諦めていた。

 母に相談すると「いいんじゃない? 隙があったら遊びに誘っちゃえ」と軽く言って貰えて、体育の授業の時に遊びに誘った。ホムラには事後承諾になってしまって申し訳なかったが、結果としてホムラとセイコ、マリは友達になれたのだった。

 母の助言があったから。母の存在があったから。母に「大丈夫」と言って貰えさえしたら良かった。父も、きっと同じだったのだろう。「あなたなら大丈夫だよ」と母に言われるのが好きだったに違いない。

 母が、柱だったのだ。

 それがなくなって、崩れ始めた。

 母との思い出の写真を「見ていると思い出すから」と全て焼いた父。焼いた写真の破片を拾い集める父。母に貰ったものを全て捨てた父。母にもらったあれがないこれがないと探す父。「お前がやったんだろう!」と、近くのものを投げつける父。茶碗だったり、花瓶だったり。当たったり、当たらなかったり。当たらなかったら、直接殴られたり。蹴られたり。そうでもしていなければ、父も、生きていられなかったのだろう。嫌われたわけではないのはわかっていた。

 ただ、母の存在が大きすぎたのだろう。

 それだけだ。マリも父も、母が大好きだった。

 それだけだった。


 シイナのスマートフォンが鳴り続けている。しかし、シイナはそれに見向きもせずに、ずっとマリの傍を離れない。シマが「俺がいるからいいすよ」と言っても、マリの隣を譲ろうとしない。

「シイナの兄貴」

「あ?」

「スマホ、ずっと鳴ってますよ」

「ほっとけ。どうせ大した用じゃあねえよ」

 シイナがマリを抱えて帰って来た時には驚いたが、シマが状況を把握する頃には医者にも見せて、薬も貰って来ていた。着替えさせて濡れた体を拭いて、ベッドに寝かせる。淡々と事務的にそれらを済ませ、その後は、マリに願を掛けるみたいに強い瞳で見下ろしている。今はサングラスを外しているので、シイナが気にしている、実年齢より大分若く見られる目元がよく見える。

 シイナの両目は今、マリしか見ていない。

「……こっちのほうが、大変なことすか」

 花見シイナに拾われてからは、随分とこの人と一緒に居た。年が近いというだけではなく、それなりに信頼されているからこそ、マリの監視役を任されてもいるのだろう。自分の前ではシイナも気を抜いていることが多く、現状の報告と、羨ましがったら愉快だと嫌がらせを兼ねて送ったマリとの写真を眺めているところを随分と見る。

 マリとシイナが仲良くなったらきっと面白いだろうとシマは思うが、マリはともかく、シイナのほうで色々と折り合いの付かないことがあるらしく、シイナは空回りを続けている。しかし、如何ともしがたい何かに突き動かされ、今はこうして、マリの傍にいるのだろう。組の仕事を放り出して、マリの傍に。

 マリは眠っていて、そして、泣いていた。

「風邪なんて久しく引いてねえんだが、こんな風に、ずっと、涙が出るもんだっけか」

 必要以上に距離を詰めるべきではないと考えながら、時間を作って会いに来る。考えと行動がちぐはぐで、そんなことならいっそなにもしない方がいいくらいだ。シイナもわかっているからだろう。だからこんな風に、勝手に苦しんでいる。

 シイナのスマホが静かになったと思ったら、ポケットに入れていた自分のスマホが大音量で鳴った。何年も前からずっと聞いているバンドだ。ハードロックである。ボーカルのシャウトが場違いに響き、慌てて音量を落とすが、シイナには思い切り睨まれた。

 画面を確認すると、組の人間からだった。

「とうとう俺のスマホにまで連絡きやしたよ。やっぱそろそろまずいんじゃねえすか」

 シイナは煙草を吸っていないのに「フー……」と煙を吐くように長く息を吐いて、すぱん、と膝を叩いて立ち上がった。

「シマ」

「へい」

「マリさんの傍にいてやってくれ」

「俺あ、今までだってこの人の傍にいましたよ」

「今まで以上にだ」

 願ってもないことではある。シマもマリのことは気に入っている。ただ、これ以上だと、どうしたらいいのだろうか。朝食を作って誘ってみようか。そうすると一応、今よりも時間は増える。

 考えながら、シイナと同じようにマリの隣に来る。

 マリは夢でも見ているのか、時折微かに唇を動かす。声は聞こえない。ただ、つう、と目尻から顔の横を通って耳の方へと涙が落ちていく。寂しいのか悲しいのか、もっと別の感情なのか、溜めていたものが溢れるように、涙を流している。

「本当に、ずっと泣いてますね」

「ああ」

「びっくりするくらい、静かに、泣いてますね」

「ああ」

 シイナは後ろ髪を引かれるようで何度か振り返りながら部屋を出て行った。シイナが座っていたところに腰を降ろす。ゆっくり手を伸ばして、マリの髪に指を埋めた。自分のとは全く違っている。細くて、さらさらしていて気持ちいい。

「かあさん。シイナの兄貴は行っちまったけど、今度は俺が一緒ですから」

 マリの唇は「おかあさん」と動いたようだった。「それは、用意できねえけど、元気になったら美味いもの作りますから」どうにもならないことはどうにもならない。それはずっと昔から知っている。

 しかし、ましにはなるのだ。少しなら楽になることもある。だから、何かの足しになればいいと思う。マリがこの先も、あるいはどうにか明日生きて行くために、使って貰えればいい。

 涙をすくうように怪我をしていない方の頬を撫でる。ここも自分とは全く違う。

「大丈夫ですよ。かあさんは大丈夫。だってこんなに、がんばってんすから」

 きっと聞こえていないだろうけれど、布団の上からぽんぽんと叩いて「大丈夫」と呪文のように繰り返した。マリがよく自分に言い聞かせている言葉だから、きっと、誰かにそう言って貰いたいのだろう。そう思って、自分も眠ってしまうまで、ずっと、同じ言葉を呟き続けた。

「かあさんは、絶対、大丈夫」


 目を覚ますと、すぐ目の前で男の子が眠っていた。

「……シマ?」

 驚いて叫びそうになったが、よくよく見れば知った顔が、気持ちよさそうに眠っている。どうしてこんなことになっているのだろう。起こさないようにそっとベッドから出ると、頭痛がした。断片的にだが思い出してきた。シイナとの約束をまた体調不良ですっぽかしてしまった。

 そのはずだが、記憶にあるシイナはひたすらに優しく、マリの看病をしていた。それを、シマが引き継いだという形なのだろうか。どちらかが気を使ってやっておいてくれたのだろう。充電器に繋がれているスマートフォンを確認すると、土曜日の朝であった。

「土曜日の朝!?」

 もう一度見る。土曜日の朝だ。十二月十一日土曜日、八時三十三分。セイコと会ったのは水曜日だったはず。もう学校を二日も休んで、いいやそれより、いくら熱を出したからと言って三日も眠りこけるものだろうか。この頭痛は風邪のせいなのか、寝すぎたせいなのか、判断が付かない。

 メールのアプリを開いたが、友人からの連絡はなかった。ぺたぺたと歩いて隣の部屋に移動する。あまり動きたくはないが、何かを腹に入れた方がいいという気がした。冷蔵庫を開けると、二段目をゼリーや栄養ドリンクが埋め尽くしていて圧倒されてしまう。シマか、シイナか、自分ではない誰かが用意してくれたことは確かだった。

 お湯を沸かしながら、何なら食べられるか考える。「うーん」上から順番に開けていくと、野菜室にはリンゴが切って入っており、冷凍庫には簡単に食べられるものが大量に増えていた。しばらくは食べる物に困らない。と言っても、ほとんど毎日シマが作ってくれているのでここに来てから困ったことなどないのだけれど。

「ああああああ!?」

 雄叫びのような声が聞こえた。声を出したのはシマだろうが、一体何があったのだろう。「し、シマ……?」少し遅れて、扉を吹き飛ばしそうな勢いでシマがこちらに移動してきた。部屋をぐるりと見回して、マリを見つけると目をカッと見開いた。

「いたあ!」

「い、いるよ」

 マリがいなかったので驚いて叫んで、すごい勢いで寝室から飛び出て来たらしい。マリの傍にくると「はあ」と安堵の息を吐いた。

「ったく、黙っていなくなんないで下さいよ」

「ちょっと起きてただけだよ」

「俺達みたいな人間は、隣にいた奴に黙っていなくなられたら、拉致されたと思っちまうんすから」

「ごめんね」

「いいすよ」

 シマは大分落ち着きを取り戻し、マリの顔色を改めて確認した。「顔色は」額にぴとりと手のひらを当てる。

「大分良さそうか。体の調子はどうすか?」

「ちょっとだるいかな、くらい」

「他には? 喉乾いた?」

「それもあるけど、ちょっとお腹空いた、かも」

「そいつあいいや。得意分野だ。何が食いたいすか?」

 マリも寝起きだが、シマだって寝起きのはずだ。それにひどく慌てさせた直後だし、この上に何か作ってもらうのは申し訳ない。ぶんぶんと首を振ると眩暈がしたが、立っていられないほどではない。

「い、いいよ。適当なもの食べておくし。シマも疲れてるでしょ?」

「俺あ別になんもしてねえんで。えーっと、栄養がつくやつ、で、消化が良くて、重くないやつがいいっつってたな。ったく。メニューを言っていきやがれ兄貴め……」

「けど」

「いいからいいから。なんか食いたいもんねえすか。俺あ風邪ひいたことねえんでわかんねえんですが、おかゆとかがいいのか?」

 聞きながら、風邪をひいた時に食べる物、で検索しはじめた。「おかゆは定番で、うどん、野菜……? やわらかいもの……? あ、いや、あれなら、」マリが答えなくてもこのまま作ってくれそうな勢いだ。スマホの画面の後は冷蔵庫の中身を見ている。「よし」と立ち上がった時に、マリは、シマの服の裾を軽く掴んだ。「シマ」

「ん?」

「あの」

「……かあさん?」

 眠っていた時、いろんな夢を見た気がする。昔の夢だったり、最近の夢だったり。見たことのない雪国の景色だったり。一貫性はないように思えたが、すべてに母が出てきていた。「あのね」マリは恐る恐るシマを見上げて、言う。

「雑炊がいい。いつも、風邪引くとそれだったから」

 言ってから、途端に恥ずかしくなった。シマからの反応がないのも恥ずかしさを増幅させた。マリは急いでシマの服から手を離し、数歩後ろに下がって距離を取った。

「ご、ごめん。なんでもいいよ。作って貰えるだけでいつも嬉し、」

 シマはマリが三歩かけて取った距離を一歩で詰めて、腕を伸ばして、マリを抱き締めた。ほんの少しの煙草のにおいと、和風の、だしのようなにおいがした。ぎゅう、とだんだん力が強くなり、マリの踵が浮き上がる。

「シマ?」

 声をかけると、シマははっとして、腕の中に閉じ込めたマリを見た。

「あれ……?」

 自分が、何故こんなことをしたのかわからない、という顔で、マリを見つめた。マリもまた、何故抱き締められたのかわからない、という顔で視線を受け止める。「んー」シマはがりがりと頭をかいた。

「すんません。なんか、つい。えーっと、雑炊すか。どんなやつだったか説明してもらえればできるだけ近いやつを作れると思うんすけど」

「なんだろう、普通に卵とか入ってた……気がするけど……」

「卵か。それだけじゃわかんねえな……、ま、俺オリジナルでいきやしょう。かあさんは座って待っててください。軽く果物なんか食っててもいいすけど」

 作るものが決まればシマの行動は早かった。手を洗って、タオルで拭って、さっさと材料を選び出していく。

「ううん。雑炊を楽しみにしとく」

「へへ、ちゃちゃっと作っちまいますね」

 素直に甘えて待っていることにした。テーブルの傍に座ってスマートフォンを触る。

 ぼうっと待っていると、セイコを泣かせてしまった日のことを思い出してしまって、やはりなにか手伝えばよかったかと後悔した。

 自分の為にバイト先まで探してくれていたセイコ。ふと思い出して通学鞄を引き寄せ、中に入っている資料を引っ張り出す。これも、セイコがマリにと作ってくれたものだった。なんとも手作り感の溢れるホームページの写真と、周辺の観光地などが載っている。ほとんど他人みたいな人から紹介されたと言っていた。マリは改めて一枚ずつ眺めていく。ホッチキスで留められた紙を捲っていくと、やがて表紙に戻ってくる。

 表紙は旅館の概要だ。名前と、責任者の名前、それから電話番号。ふと、元のホームページに行ってみようという気持ちになってスマートフォンを操作する。すると、資料の通りのページが現れた。

 実物は余計に手作り感で溢れていて、写真もなんだか浮いている。「んん?」特に電話番号が貼りつられているところなど、とってつけたような感じがそのまま残っていて、もっとうまくなじませることはできなかったのか。

 三日後の昼頃、話をしにわざわざ来てくれる、と話していた。話を聞いた時点では一緒に行こうと思っていた。

 今からでも間に合うだろうか。あと二時間程だ。

 けれどそもそも、セイコはどうするつもりなのだろう。アルバイトは有難いが、この件は、なかったことにした方がいいのでは。セイコには言っていないが、冬休みに、おせちを作る工場でのバイトは決まりそうだった。たった五日間だが、家からも通えるし結構お金にもなる。

 こういうことははやく決めておいた方がいいだろう。セイコは結構せっかちだ。

 マリはセイコに電話をかける。「あれ?」セイコに繋がる様子は全くない。何度コールしてもコール音だけが繰り返されている。出る気がないならすぐに切るはず。気が付いたら折り返してくれるだろうか。セイコの性格ではその可能性は低いように思われた。彼女は電話やメールでの告白が許せないタイプの女の子だ。謝らせてもらうにしても、セイコが謝るにしても、電話はあり得ない。

「うーん」

 やや非常識かもしれないが、この旅館に問い合わせれば今日の予定について詳しく聞けるかもしれない。試すだけ試してみようと電話をかける。が、記載されている電話番号はどこにも繋がらなかった・

 ホームページに不自然に立っているくまのキャラクターの笑顔と目が合い、ぞくりとする。

 マリはがたりと立ち上がり、コートだけを掴んで外に出ようとした。

「かあさん? どうしたんすか?」

「シマ」

 わざわざキッチンからマリの傍に寄ってきて、マリの顔を覗き込んだ。それだけで、きゅ、と声が引き締まる。「かあさん、なにかありましたか」マリはこくりと頷いた。確信はない。杞憂であればいい。けれど最悪の場面を想像してしまった。

「セイコが、危ないかもしれない」

「なんですって?」

「行かなきゃ」

 セイコにとっては他人も同然の人間から紹介されたアルバイト先。わざわざこちらまで説明をするためだけに会いに来る従業員。手作り感溢れるホームページ。使われていない電話番号。ちゃんと調べれば、もっといろいろ怪しい点を探せるかもしれないが、今は時間がない。スマートフォンだけを握りしめて、外に出ようとした。

 シマを乗り越えるように行こうとしたマリを、シマは当然掴んで止める。

「いやいや、あんたまだ体調万全じゃないんですから、家で大人しく」

「ごめん。雑炊はあとで食べる」

「えっ、ちょっと、こら!」

「大丈夫そうだったらちゃんとすぐ戻るから」

「行かせられるわけないでしょうが! ったく。どこ行くんすか? 俺が行くからあんたはそこで待って、」

 待っててくれ。言いかけて、マリの視線に気付く。友人が心配で慌てている。しかし、静かにきらきら光っていて、挑むような目をしていた。我を失っているようには見えない。かと言って、言うことを聞いてくれそうでもない。

「る、わけねえ、か」

 マリは次に自分が何をするべきか、めまぐるしく思考している。シマはきっと協力してくれるだろう。ならば、どうするか。

「行きましょ。俺あ危ないことも得意ですから」

 セイコに連絡が取れるか、セイコに直接会うことができればそれでいい。マリは近くの紙にセイコの電話番号をメモして、シマに渡した。

「ありがとう。じゃあ、まずは」

「って、ええ!? 早速別々に行動するんすか!? いや、行きます、行きますけど、もう、あとからシイナの兄貴にぜってえ怒られんなあ……!」

 言いつつ、シマの口元は楽し気に緩んでいた。


 マリが、二日間学校を休んでいる。

 母親が亡くなっても葬儀やもろもろは土日に終わり、しっかり出席していた彼女が、体調不良で休んでいるそうだ。同時期からセイコの元気が全くないので、二人の間になにかあったのかもしれない。「一緒にいてやって欲しいって言ったのにな」手に文庫本を持ってはいるが全く読み進めることができないまま、数時間が経過した。

 午前十一時十二分。少し早いが昼食でも食べたら気分が変わるだろうか。考えていると、スマートフォンが机の上で小刻みに震えはじめた。着信らしい。早瀬マリ、と表示されている。マリ。

 なんの用事だろうか。いつもなら飛びつくように出るけれど、今は、ちゃんと受け答えをする自信がない。指は通話開始のボタンに合っているが、ディスプレイに触れられない。スマートフォンは一度切れて、間髪入れずに再度、急かす様に震えはじめる。マリだ。

 結局、三度もその表示を見守って、四回目で、強制的に電話を切った。これで諦めてくれるだろうか。

 しばらく通知だけが表示されたロック画面を見つめていた。なにもない。ようやく諦めてくれたようだ。

 ベッドに戻ろうとすると、今度は短く二回震えた。メールだろう。今度もマリで、件名は。

 ホムラはコートも着ずに家を飛び出した。「出かけるの」という母の声に「ごめん、あとで」と返事になっていない返事をして、もう一度画面を確認した。

 差出人は早瀬マリ。

 本文はなし。

 件名は、「たすけて。セイコが危ない」


 セイコの家に向かってもらったシマから連絡があった。セイコは朝の早い時間から家を出ていて帰っていないと言う。マリは駅前のカフェに向かったが、セイコの姿はない。十一時四十分だ。まだ来ていないのかと思ったが、胸のざわつきが収まらずに店に入って確認した。高校生くらいの女の子と、待ち合わせをしていたらしい男の客はすぐに出て行ってもういないとのことだった。ついさっき出て行ったばかりだから、まだ近くにはいるはずだ、と。

 マリは真っ先に近辺に停まっている車と、駅の駐車場を確認した。車の中まで覗き込んで見たがセイコの姿はない。

 定期的にセイコに連絡を取っているが相変わらず出ない。あまり頻繁にかけるのも、相手に着信がバレていれば行動を急がせる要因になるかもと、やや感覚をあけているが、連絡が取れていないので、気持ちは逸るばかりである。

 シマにはこちらに来てもらうように頼んで、ホムラも急いできてくれると言った。それでもたった三人である。闇雲に探して見つかるものだろうか。不穏な思考を打ち消しながら考える。カフェを出て、左側は駅に続いている。ふと上を見ると隣の本屋の看板の横に監視カメラがあった。左の道を真っすぐ通ると写り込むだろう。

「マリ!」

「ホムラ、ここに来るまでにセイコを見た?」

「見てないが、どういうことなんだ。セイコが危ないって」

「ごめん、説明してる暇がない。ちょっと付き合って」

 ホムラの腕を掴んで右へ走って、すぐに路地に入った。しばらくは直進だ。日当たりの悪い地面が続く。大人一人と女の子が一人、もしかしたらこのあたりで仲間と合流していたら大人の数は増えているかもしれない。あまり狭すぎる道は自分たちの不利になるから選ばないだろう。人目にさらされるのも、カメラに映るのも嫌なはず。

 駅から一本ずれた大きい道に出る。それなりに人通りがあるせいで、見通しが悪い。左か右か。「マリ」ホムラが声をかけてくる。ぱしゃ、と蒸発せずに残った水溜りを踏んでマリに近付く。

「――こっちだ」

 路地から出て来る人は多くない。いたとしても、水溜りを避けるだろう。今、ホムラが踏んだのは、マリが彼の腕を引いているからだ。

 水の付いた靴はわずかに足跡を残している。たった数歩だが、左に向かっているように見えた。マリは再び走り出す。そして、更に走り、横断歩道を渡る。こちら側の通路を抜けようとすると交番があるからだ。飛び込まれたらまずいだろう。故に、こちら側は選ばない。ホムラは大人しくマリについてく。マリは常にぶつぶつと何やら呟きながら走っている。ホムラもセイコの姿を探す。

 マリが弾かれるように顔を上げた。

 視線の先のある看板に視線が釘付けになる。「目的地は、あそこかもしれない」「え?」マリが速度を上げると、ホムラも続く。そして、マリは走りながらシマに電話をかける。「いま、どこにいる?」「うん。わかったかも」「今から地図送るから――」

「マリ!」

 ホムラが、ぎゅ、とマリの腕を引いて無理やり足を止めさせる。「見ろ! あそこだ!」マリがまさしく向かおうとしている場所へ、若干遠回りにはなるが人目につかない裏通りを歩いている、三人の男に連れられたセイコを見つけた。

 マリの思考はすぐに切り替わり、シマに伝える指示を変更する。「見つけた。相手は今のところ三人」「わかってる。大丈夫。ギリギリまで待つよ」マリは無理やり呼吸を整えて、ホムラを伴って路地に入る。

「マリ、ここからは僕が。君は、危ないから」

「待って。今、シマが間に合わなかった時のことを考えてる」

「間に合わなかった時って」

「駅の反対側を探してくれてたって言ってた。建物に入るまでになんとか、いや、もう一人人が増えたら、私たちじゃあ対処できないかもしれない」

 マリは一定の距離を保ち、じっと前だけを見つめている。ホムラはマリを無理やりに置いていくということができなかった。大人しく、マリの後ろを付いて行く。マリがスマホの電源を切ったので、ホムラもそれに倣った。

「ホムラ、合図したら一緒に走って。ホムラは右の人」

「まさか君は左なんて言うんじゃないだろうな」

「あっちのほうが細くて小さいし、消去法で」

「真ん中の奴はどうするんだ」

「大丈夫。なんとかする」

「なんとかするって君なあ……!」

「とにかく、合図で突進」

「その後は?」

「大丈夫」

「その大事な時に全然何も説明しないの君の悪い癖だぞ」

「セイコもホムラも、わかってくれるから大丈夫」

「……説教は後で」

「うん。聞く」

 そこから会話はなかった、ただ無言で周囲の気配に気を配りながら、後をつける。二つ角を曲がったところで、「駄目だ」マリがコートを放り投げて姿勢を落とす。「道の先のほう、四人目がいる」二人揃って、ぐっと両足に力を入れる。「ホムラ」会話は最低限だ。行くぞ、とは目で言われた。カウントがはじまる。「三、二、一、」声は出さない。無言で突進する。その後のことはなんとかする、とマリは言った。

 路地に、人間が三人並んで歩いている。前方にいる仲間らしい男にはマリとホムラは見えていないようで、呑気に煙草を吸っている。しかし、声は出さなくても足音はする。突如、こちらに向かってくる二つの足元に、横並びになった男三人が振り返り、左右の男に、マリとホムラがそれぞれ全身をかけて突進する。「は……!?」困惑の声を打ち消し、不穏な気配を吹き飛ばすように、マリが叫ぶ。

「セイコ!」

 セイコは口をぱくぱくとさせて男の手から離れた。町を歩いて来たから拘束はされていない。

「鞄を開け!」

 言いながら、マリは下敷きにした男を足蹴にしてセイコのほうへ走る。残った男が「こいつ」手を振り上げるが、マリと同じようにして動いていたホムラが掴みかかって止める。セイコがマリに言われた通り大きく鞄を開くと、果たしてマリの想像通りのものが中にあった。彼女のお守り、護身用の改造スタンガンだ。

 セイコとマリは一瞬目を合わせて、二人でそれを持ち、まだ立っている男に押し当て、スイッチを入れる。「が、あッ!」結果一番重症を負わせることになったが構っていられない。もう一人の仲間から逃げなければならない。マリは右手でそのままセイコを、左手にホムラを掴んで元来た道を走り出す。

「逃げろ!」

 追ってくる男が叫ぶ声が聞こえる。しかしかなり距離があるし、人目のあるところまで出れば向こうが不利になる。

「はあ、はっ……」

「マリ、あんた、なんで部屋着……?」

「それより、その顔の腫れたのはどうしたんだ?」

「あ、それは私……」

「はあ!? 君、女の子になんてことを!」

「私も女なんですけど」

 マリの足が重くなる。がく、と倒れそうになったところを二人が左右から支えたので倒れることはなかったが、スピードが落ちる、このままでは追いつかれそうだ。「がんばれ」ホムラが言う。

「がんばれ、マリ、もう少しで広い道に出るから」

「支えてあげるから、ほら、もうちょっと……!」

 マリ、と、ホムラとセイコが口々に呼ぶ。マリはどうにか前を見て足を動かし続ける。視界が霞む。けれど、がんばらなければいけない。二人が支えてくれているから、まだ、前を向ける。

 視界が白く染まっていく途中、どん、と何かに受け止められた。ひょっとして奴らの仲間かと思うが、息を吸い込むと、無条件に力が抜けた。もう大丈夫だ。

「よく頑張りやしたね。マリさん」

 煙草のにおいがする。やっぱり、周りの人は皆吸っているんじゃないのか。やめたら都合が悪いのでは。「シマ」「へい。ちゃんとかあさん持っててくださいね」「誰に言ってる」追って来た一人は、シマが撃退してくれたようだ。もう、まったく見えないし、顔も上がらないが、たぶんそうだ。

「マリ、ちょっと、マリ!?」

「熱があるんじゃないのか!? すぐに病院に行かないと……!」

 ホムラとセイコの手のひらが額と頬に触れている。走っていたから冷たくはない。最後の力を振り絞って、マリは二人の手に自分の手を重ねた。

「よかった」

 それだけ言うと、意識を放り投げるように眠った。今度はその日の内に目を覚ました。病院ではなく、家の寝室だ。夜中だった。ゆっくりカーテンをあけて光を入れると、見えてきた光景に思わず笑ってしまった。

 寝室にぎっしり布団が敷かれていて、ホムラとセイコ、シマが揃って眠っていた。


「転校生の、花見シマくんです」

 と、担任の森山は言った。若干距離があるのは、シマの人相が悪く、見るからに素行が悪そうに見えるからであろう。当のシマは「よろしく」と言いながら、マリとホムラ、セイコを見つけてひらひらと手を振った。

 冬休みが終わって、始業式の後、最初のホームルームでの出来事だ。

 シイナがマリの見舞に来た時、シマが「俺も学校、行きてえなあ」とぼやいたところ、「行きゃいいだろ。高校くらい出とけ」とシイナがすぐに転入の手続きを取った。「また、この間みてえなことがないとも限らねえ」とも。

 学校は、昼前には終了したが、シマが気合を入れて弁当を作ってきたので、それを四人でつつきながらだらだらと話をする。マリの体調が悪い間に、四人で食卓を囲むことにはすっかり慣れているので、四人にしてみれば違和感はない。ただ、クラスメイト達は一体何事が起きているのかわからずとじろじろと見て、しかし突撃してくる程気になっているわけではなく、そのままそっと帰って行った。クラスに四人だけになった時に、セイコが言った。

「あんた、苗字花見だったの?」

「シイナの兄貴が養子にしてくれたんで。実際には親父なんすよ」

「へえ。親父って呼ばないの?」

「嫌がるんで。たまに呼ぶけど。あと俺の界隈だとその呼び方まぎらわしいんす」

 マリの熱は次の日には引いたが、咳やら鼻水やら本格的にこじらせて、結局一週間ほど家から出ることを許されなかった。それでも、マリが決めていたアルバイトにはきっちり前日出勤し、年末年始はたこ焼きと蕎麦を食べる為に、セイコとホムラがマリの家にやって来た。

 マリの看病と見舞に代わる代わるやってくるので、すっかり四人は仲良くなっていた。

「ねえかあさん。俺あ常々あれに行きたいと思ってたんすよ」

「あれ?」

「スイーツビュッフェ。流石に野郎一人じゃいけなくて」

「行きたい店があるの?」

「うーん。セイコちゃんのオススメの店は?」

「あんたね、スイーツビュッフェって言ってもいろいろあんのよ。ケーキなのかクレープなのか、フルーツ、アイス、チョコレート、ケンタッキーフライドチキン……」

「あれ? 最後のってスイーツすか?」

「まあ似たようなもんよ」

「絶対違うだろ」

「中学の時皆で行ったあそこは? スイーツ天国」

「ああ。マリがクリームブリュレを時間一杯まで食べてたあそこね。店員さん迷惑してたわよ」

「お前は始終ぶつぶつ恨み言言いながらケーキとカレーを交互に食たべてただろ。店員さん怖がってたぞ」

「自棄食いの基本というのを見せてやったのよ」

「セイコちゃんそん時男にフラれでもしたんすか」

「うるっさいわね正解してんじゃないわよ」

 弁当を食べ終わったので片付けて、各々が荷物を持って教室から出る。男女二ずつでバランスがよくなった、とマリは思う。シマはホムラとは仲良くできないなどと言ったが、シマの方から懐っこく話かけるので、ホムラも邪険にもしきれないようだ。

「ホムラくんの好物は?」

「なんで君に僕の好物を教えなきゃいけないんだ?」

「ホムラは草ばっか食べてるわよ。焼肉行っても八割草」

「言い方があるだろ」

「でも野菜美味しいとテンションあがるね」

「ほら、マリはわかってる」

「あ、あとはあれもいいなあと思ってるんすよね。タピオカ」

「タピオカだったら今日にでも飲めるよ」

「ホムラ奢ってあげたら? 最初のタコパの時雰囲気悪くしたし」

「謝っただろ!」

「ならセイコちゃんはかあさんに奢んないと。顔ぶん殴ったし」

「謝ったでしょ!」

 その日は話の流れのまま、時間があるからという理由でわざわざ行列のできているタピオカ屋に並び、各々一つずつ買って飲んで帰った。はじめてのタピオカに圧倒されたシマは「これは、飲むっつうか、食うっつうか」と唸っていた。

 じゃあまた明日、と別れると、シマは「かあさん」と上機嫌にマリに声をかけた。楽しそうだ。マリも嬉しくなる。

「晩飯食ったら勉強おせーてくだせえ。俺、小学校くらいからろくに学校行ってないんで、たぶん、授業に全くついていけねえ!」

「小学校の、いつから?」

「ギリ掛け算割り算はできやすぜ。スーパーで買い物すっから」

「三年……いや、二年か……?」

 それはきっと参考書が追加で必要だ。マリは方向転換して本屋へ向かい、小学生用の参考書をいくつか購入した。それならついでにと食料品の買い出しにも行った。「今日は水曜日だから、和菓子バイキングやってやすぜ」いろんな種類の和菓子を買うのかと見ていたら、パックの十割を桜餅で埋めていた。好きなのだろう。

「毎回この時間にこれりゃいいんすが」

「バイキングやってるから?」

「いや、三時から四時頃が狙い目で、この時間から半額になるんでさ。ただでさえ一個四十円とかなのに。桜餅一個二十円。かといってあんまり遅いと売り切れてて」

「本気だねえ」

 値段の割にしっかり桜餅なんすよ。と、シマは真顔で言った。相当に好物のようだ。認識を改めておく。桜の葉の匂いがした。香りに導かれるように、そう言えば、母も桜餅が好きだったと思い出す。自分もよく食べていた。忘れていたわけではないが、今まであまり余裕がなくて、考えなかった。目の前にすると、途端に食べたくなってくる。

「かあさんも桜餅食うっすか」

「いいの? ありがとう。私も桜餅好き。小さい頃、お母さんと、家の裏手にある和菓子屋さん手伝って、花見シーズンに公園とか川辺とかに桜餅売りに行ったりしてたんだよ」

「へえ。その店、今もありやすか?」

「今はもうやってない」

「死んじゃった?」

 シマはきょとんと首を傾げた。普通はそんな聞き方をしないけれど、シマの言葉は緩く気安い様子が、心地よい。

「まだ元気だけど、店をやるほどじゃないって。時々、おすそ分けで貰ったりしたけどね」

「ふーん。俺にもくれねえかなあ」

 言われて、かつての家のことを思い出す。シイナは「心配いりませんよ」と言っていたが、果たして同じ場所に現在も残っているのだろうか。売ればそれなりのお金にはなると思うが、一度見にいってみるのもいいかもしれない。

「そうだね。久しぶりに挨拶に行ってみようかな。気にしてくれてたのに、なんの報告もできてないから、心配してるかも」

「夕飯の時間にゃ早いですし、今日行きますか?」

「うーん。でも、本とか食料品とか重いでしょう」

「こんくらい、なんてことねえっすよ。行きましょ。善は急げってね」

 本当にどこまで歩いてもシマはけろりとしていた。毎日通った通学路、やたらと高い鉄棒のある公園。その前の自販機にはそこにしかない炭酸飲料があって、これが結構美味しい。犬を五匹も飼っている家があって、その隣は毎年冬になると気合のはいったイルミネーションをしていた。毎年見るのが楽しみだったのを思い出す。シマには申し訳なかったが、マリはだんだんと足取りが重くなっていく。

「かあさん? 調子悪いすか? おぶさる?」

「ごめん、そうじゃなくて」

「やっぱ行かねえ?」

「ううん。行くよ。ごめんね」

 完全に止まってしまったところで、シマにそう言われ、また歩き出した。見るのをやめたところで、あるものはあるし、ないものはないのだ。マリは深呼吸をしながら意識的に大股で歩く。

 少し斜めになったミラーのある交差点を曲がると、もう家が見える。

「……ある」

「ないと思ってたんすか?」

 今度は小走りで家の前まで行く。門は固く閉ざされているが、表札は早瀬のままだし、庭も、思ったほどは荒れていない。家の周りにゴミが落ちている、なんてこともなくて、今でも中に誰かが住んでいそうだった。

 久しぶりに帰って来た、という気がしてじわりと視界が滲む。はっとして目を擦ろうとしたら、シマに手を掴まれて止められた。

「いいっすよ」

 押し込める為に蓋をしたのに、破壊されてしまった。

「いいっすよ、泣いても」

 マリはゆっくり家を見上げて一筋だけ涙を流した。「ただいま」シマはそれを見てにっと笑う。「さて」

「挨拶に行こう」

「え、もういいんすか? もっとこう、なんだ……、いいんすか?」

「うん」

「いいなら、いいんすけど」

 シマはマリから手を離すと、自分も一度マリの生家を見上げた。そんなことをしている間にすっかり元気になって、軽快に進んで行ってしまったマリに「シマ」と呼ばれた。来た道を少し戻り、家の裏側の道に出ると、一階が何かの店になっていたと思われる、古い家を見つけた。

 マリは迷う事なくインターホンを鳴らす。鳴らすとすぐに、「はあい」と高い声がした。

 程なく玄関のドアは開けられて、来訪者を確認すると「あら!」と口元に手を添え驚いていた。

「おばさん。お久しぶりです」

「あらあらマリちゃん。本当に久しぶりねえ。あがって、お茶でも飲んで行って。そっちは新しいお友達? 紹介してちょうだいね。若い知り合いは何人いても嬉しいわ」

「うっす」

 転がされるように二人は家にあげてもらうと、炬燵のある和室に通されて、「お茶を出すから待っててね」と、元和菓子屋の店主、佐倉チヨはにこにこと部屋を出て行った。すかさずマリは手伝いに行って、出遅れたシマは一人で部屋で待たされた。

「お待たせ。シマ、見て」

「ん?」

 お盆に湯呑が三つと茶菓子が三つ。茶菓子は、桜餅、ではなかったが白いうさぎの姿をした菓子が三つ皿に盛られていた。

「かわいい」

「これは、あれっすね」

「うん?」

「目が合うと、食いずらい」

「あら」

 チヨはそれを聞くと花が咲いたように笑った。「それ、小さい頃にマリちゃんも言ってたわねえ」「そ、そうだっけ」シイナはしばらく上から見たり横からみたりしていたが、マリが美味そうにしているのを見て一口でいった。

「美味い。これ、一口でいったの勿体なかったな……」

「ならこれもどうぞ。こっちは貰いものだけど」

 チヨは来客が嬉しいのか、いろんな棚から菓子を持って来た。元々菓子が好きで職人になったとは聞いたが、出て来る菓子は和菓子に限らず、チョコレートや、ポテトチップスなど多岐に渡った。

「あれ? これ」

「ああ、それはね。最近、マリちゃんを引き取ってくれた親戚のお兄さんが持ってきてくれたのよ」

 シイナ、だろうか。マリはチヨが差し出して来た饅頭の箱を引き寄せる。かりんとう饅頭が並んでいるこれは、何度か家で見たことがある。母イチオシのお取り寄せグルメで、何か事があれば取りよせて食べていた。カテゴリが和菓子である為チヨには内緒で、と、こそこそと食べていたような気がする。

「マリちゃんは元気にやってるって言われたけど、今日会いに来てくれて、ほんとにそうなんだってわかったから安心したわ」

「うん」

「セイコちゃんやホムラちゃんも元気?」

「元気。今度四人で来るよ。あったかくなったら」

「まあまあ。じゃあ久しぶりにうちの名物、桜餅作って待ってるわね」

「桜餅!」

「よかったね、シマ」

 楽しみがまた増えた、とシマはかりんとう饅頭を齧っていた。

「二人は最近友達になったの? なんだか兄弟みたいねえ」

「そうかな。でも、そうかも。同じ家にお世話になってるし」

「セイコちゃんとホムラちゃんが嫉妬しなかった?」

「それは、されやした」

 シマがすかさず頷いた。「やっぱり」とチヨは声を上げて笑う。最近の暮らしぶりを当たり障りのない程度に話したり、チヨの近況を聞いたりした。そのうちシマが立ち上がって「菓子のお礼に飯作りますよ」と言い出した。「おばちゃん食いたいもんは?」チヨは大層感激して「中華かしら」と言った。買って来たものを確認して、佐倉家の台所を確認して「すぐ戻ります」と買い物に行き、出てきたものは天津炒飯とエビチリだった。チヨは更に感動していろいろと菓子を持たせてくれたので、帰りは大変な荷物になった。流石にシマだけでは持ちきれなくなって、軽い菓子をマリが持って、新しい方の家に帰った。


 二人だけではどうにもならない量の菓子を、セイコ用、ホムラ用、更にシイナ用に分けた。シマが事務所に行くついでにシイナに渡す、と言ったのだが、マリが「私が渡してみてもいいかな」と手を挙げたので、マリに任された。

 今日は実に一か月ぶりに、シイナと出かける予定であった。

 いつかのように前日に眠れない、ということはなく、割合に気持ちよく朝を迎えた。顔を洗って、髪を梳いて、一つずつ準備をしているとだんだん緊張しはじめた。怖い、とは違う。ただ緊張である。

 気を紛らわせる為にシマの部屋に行くとシマはきょとんとしてから「大丈夫ですよ」と笑った。

「かあさんは、かわいいから大丈夫」

「かわいいかどうかはわからないけど、シマも、そう言ってくれるんだね」

「そう? どれです?」

「私は大丈夫だって」

「ああ」

 それか、とシマは手を打って、力が抜けたような笑顔を作った。

「だって、大丈夫でしょ」

 玄関先でそんなやりとりをしている間、廊下の先にシイナがひょこりと現れた。「お、シイナの兄貴」シマが手を振って、それからマリの肩を掴み反転させた。

「さ、いってらっしゃい」

「うん。いってきます」

 背を押されるまま一歩進むと、すぐにくっと腕を引かれた。「かあさん、悪い忘れてた」サンダルを履いて近付いて、マリの耳に顔を寄せた。口元に手を添えて、こっそりと言う。

「なんか困ったら、手でも握ってやったらいいすよ。きっとおもしれえもんが見れる」

「……怒られない?」

「かあさん、なんで兄貴にだけそんなに怒られるの気にするんすか? いつも怒られたら怒られた時って割り切ってるくせに」

 シマに言われて確かにそうかもしれないと目を丸くした。「ほら、行った行った!」またぐいぐいと背中を押されて、シイナの方へ歩き出す。シイナは離れたところで止まって、マリとシマのやりとりが終わるのを待っていてくれたようだった。

 近くまで行くと、にんまりと笑って「おはようございます」と言う。

 風邪を引いて、看病してくれていた時や、セイコを助けてくれた時の笑顔とは別物だ。別人なのでは、と思うが、間違いなく同じ人だ。

「おはようございます」

「今日は顔色も良さそうですねえ」

「はい。今日は大丈夫です」

「じゃあ、行きましょうか」

 マリはシイナをじっと見上げていた。サングラスのせいで目が合っているかイマイチ自信がないが、今日は自分から目を逸らすことはしないようにしようと決めていた。花見シイナのことをもっとよく知る為に、気付けることには、全て気付きたいと考えていた。


 シイナは、マリが車酔いで体調を悪くしたことを気にしているらしく、今日乗せられた車は禁煙の印の入ったレンタカーであった。シイナは車が変わっていることを自分では話題にせず、前の車の時と同じようにマリを助手席に乗せて、自分は運転席側に座った。

「よし、しゅっぱーつ」

 何もなかったみたいに振舞うのが上手い人なのだろう。マリはしばらく、シイナからなにか話してくれないものかと待ってみたが、視線が痛かったのだろう「今日はなんでそんなに、熱烈にこっちを見てくれてるんですかい」と聞かれてしまった。

「あ、すいません。話をするタイミングを計ってて」

「俺と?」

「シイナさんしかいません」

「んんっ」咳払いをしそこなった、みたいな声だった。「ああ、いや、すいませんね。それで、俺と話ってのは?」喉の調子が良くないのだろうかと心配だったが、調子がよくないのならわざわざ今日、出て来る必要はないだろうと、気にしないことにした。シイナは、必ず今日、マリを連れ出さなければならない理由はないはずだからだ。

「シマ、毎日楽しそうに学生してます。体育の授業以外はいつも寝てますけど、それ以外は大抵楽しそうです」

「ああ。勉強教えて貰ってるそうで」

「私はお弁当作って貰ってますから」

 いつかと同じ道を行く。このまま高速道路に乗るのだろう。今日は、あの日たどり着けなかった場所に行くのかもしれない。

「……話ってのは、シマのことで?」

「共通の話題が、とりあえず、シマのことなので」

「共通の話題? そんなもん探して、まるで俺と楽しく話がしたいみたいじゃねえですか」

「はい」

「んぐっ、ああ、はい、はい? じゃあ、続けて下さい?」

「シマは年、本当は十八なんですか? 免許証がニセモノなんですか?」

「はは、あいつあニセモノの免許書一杯持ってますよ。――さて、ここでクイズです。シマは船舶免許を持ってますがこれはニセモノでしょうか本物でしょうか?」

「その聞き方はたぶん本物です」

「正解。免許証がニセモノだろうと本物だろうと、あいつはああ見えて器用ですから。なんでも乗りこなしますがねえ」

 二級の小型船舶免許は十五歳九ヶ月以降ならば取得可能である。免許を実際に手にできるのが、十六からだ。本物だと言うのなら年齢的にその資格であろうとマリは考えた。帰ったらどうやって取ったのか聞いてみることにしよう。

 シイナとしては、あまりシマの話を自分からしようとは思わないのだろう。会話がまたぷつりと途切れる。マリは構わず次の質問をしてみることにした。聞きたいことを、全部聞いてみたい。

「シイナさん、その顔のやつどうしたんですか」

「顔? 俺の顔になにか?」

「ちょっと腫れてるように見えて。喧嘩ですか?」

「へえ? マリさんじゃないんですから。そんなもんしませんよ」

「じゃあ、気のせいですか」

「ええ。俺は元々ちょっと顔が歪んでるんです」

 マリは、今までちゃんとシイナを見ていなかったことを後悔しはじめていた。腫れているように見えるのだが、そうはっきりと否定されてしまうと気のせいであるような気もしてくる。ただ、なんとなく、見覚えのある凹凸であるように思えてくる。

「触っていいですか」

「さわっ、ても、何も面白いことなんてありやせんぜ」

 助手席から手を伸ばして、ぴとりと指の裏側で触れる。見た目よりも熱をもっている。

「痛くないですか」

「痛くねえですよ。元々ですからね」

 マリはそっと手を離した。「そうですか。失礼しました」次は、辛い物が苦手というのは本当か聞いてみようか。考えていると、鞄の中にシイナに渡す用のお菓子があったことを思い出した。

「シイナさん」

「マリさん」

 声が思い切り被さった。

「……マリさんからどうぞ」

「あ、はい」シイナに言われて、マリが鞄から菓子を取り出す。「これ」少しでも見やすいようにカーナビのあたりに一度置く。

「知り合いのおばさんがくれたんです。シイナさん、よかったら貰ってください。ずっと迷惑かけっぱなしなので、せめて」

「ああ。まあ、後ろの席にでもおいといてください。今なら車にほっといても痛まねえでしょう」

 マリは「はい」と返事をして、言われた通りに後部座席に菓子を置いた。それから体の向きを直して「シイナさん、なんでしたか」と聞いた。改まって促されると話しづらいのか、「ああ、そうでしたね」丁寧に間を取っている。

「今日は、なんでまたそんなに俺に構ってくれるんですか」

「駄目でしたか。迷惑ならすぐやめます」

「駄目とか、迷惑とかではないんですが、あまりにも、前と態度が違うもんで」

「私が風邪引いてた時のシイナさんも相当でしたよ」

「相当ですか」

「あんなことをされたら、普通の人は、この人は優しいんじゃないかって思います。私もそう思って、今、調子に乗っていろいろ話してるんです」

「あけすけだなあ」

 シイナは困ったように、運転しながら肩をすくめた。驚いている風でもあるが、納得している風でもあった。「よし」シマがよくするように、そう小さく気合を入れて、マリに向かってにこりと笑う。サングラスで目元の印象が見えないのでわからないが、シマとよく似た笑顔だと思った。

「マリさんがそう来るのなら、俺も今日はそういう感じでいきましょうかね」

 ゆっくりと息を吸い、そして吐き出す音がした。マリはやりたいようにやっている。シイナは自分もそうする為に準備が必要らしかった。マリには、どうにか色々理由を用意して、ようやくそうあることを許しているようにも見えた。

「マリさん、今まで黙ってましたけどね、これは俺と貴女とのデートなんです。だからマリさんは、どうかあんまり余計なことは考えないで、頭あ空っぽにして楽しんで下さい」

「……頭が空っぽの女を連れて歩くのは楽しいですか?」

「ええ……?」

 マリは真面目な顔でそう聞いた。本気で、そんな女ではシイナが楽しめないのでは、と疑問に思って、しかし、そうした方がいいのならそのように努力しようという、そんな意志のある真顔だった。

 うっかり、シイナはその顔を直視してしまい、ぷつ、と何かが途切れた。途切れた音はマリにも聞こえていて、「ふは、」マリも雰囲気に任せてへらりと笑う。

「ぶっはは、く、ま、マリさん、はははは! そりゃそうだ、その通りですね。じゃあ、どうしてもらおうかね」

「なんでもしますよ。だって私は、元々シイナさんの言うことには全部従うように言われて付いて行ったんだから」

「そうでしたねえ。ったく。しょうがない人だな。んー、そうだな、それならここは一つデートらしくいきやしょう」

「デートらしくってどんなですか」

 簡単ですよ。シイナは言う。

「マリさんはその調子で、俺の事で頭一杯にしといてください」

 俺も同じようにしますから。


 一時間ごとの休憩は、シイナの為というよりは、マリの為に設けられたものだった。降りる度に「酔ってねえですか」と聞かれ、車に乗ってる間も、会話が途切れるとマリを気づかう言葉がシイナから出てきた。あまりに何度も言うので、マリは面白くなって笑ってしまった。セイコやホムラ、シマだって、そんなに心配したりはしない。

 三時間ほど車に揺られて辿り着いたのは、やはり海だった。最初から決めていたのだろう。燈台の近くの駐車場に車を停めて、並んで道路を横切って、堤防から砂浜に降りた。

「海」

「そう。海ですよ」

「わあ」

「ただの海ですけど、なかなかいいでしょ。このあたりをちょっと歩きましょう」

 冬の海だ。ほとんど人は見かけないが、犬の散歩や、カップルとすれ違った。仲睦まじく二人きりの世界を作り上げ歩いて行った彼女たちを見つめて、シマの助言を思い出す。「手でも繋いでみたら、おもしれえことになる」マリは少し後ろを歩いていたシイナを振り返った。

「シイナさん」

「なんですか?」

「私もあれ、やりたい」

「えーっと、あれ、あれ、……あれ? あれっつうと、あれですかい?」

 マリはそっとシイナに手を差し出した。海風にさらされて、指先が冷たい。シイナは立ち止まって考えていたが、マリがいつまでも手を差し出したまま風に吹かれているので、マリとは反対側の手をコートのポケットから取り出して、赤くなりはじめた指先に触れた。歩きながら、適切な形にしていく。手を握り合うだけのつなぎ方だ。彼女達はそうではなかったが、マリは満足したようで、赤い頬を隠しもせずににっこりと笑った。

「ありがとうございます」

「ありがとう、って、言いますけどね。こんなとこ見られたら、きっと怒られますよ」

「誰にですか?」

「そりゃ、貴女の友達ですよ。こんな男と、手なんか繋いじまって」

「でも、シイナさん。私を助けてくれましたよ」

 わからないことは、予測で補って、考えてみたことがある。根拠もある。あながちはずれでもないと確信している。正確には、確信しつつある。シイナの反応を見て、選ぶ言葉を聞いて、すると、考えて来た仮説はどんどん確かなものになっていく。

「考えてみたんです。シイナさんがどうして、私を助けてくれたのか」

 波の音がしている。風が吹くと、荒々しく音が大きくなり、飛沫も少し飛んでくる。マリはシイナをじっと見上げて、シイナはマリを見下ろしている。繋がった手に力が入る。マリは願う。この人がどうか、不快な気持ちになりませんように。「シイナさんは」

「シイナさんはね」

 シイナはマリの言葉を遮って、マリを思い切り自分の方へ引き寄せた。すっぽりと覆い隠すように、閉じ込めるように抱きしめる。

「その話は、今日の最後に聞かせて下さい。今はまだ。ね。お願いします」

 この話はしない方がいいのかもしれない。気付かないフリをして、シイナの望むように振舞う方がいいのかもしれない。ぎゅ、と力を込めて目を閉じる。そして自分からも、シイナの背に腕を回した。

「わかりました」

 マリがそう言って離れると、今度はシイナが、マリの方へ手を差し出した。

「行きましょう。そろそろ腹、減る頃でしょ」

 デートはまだまだこれからですよ、シイナはいつものようににんまりと笑ったし、マリも友人たちにするのと同じように笑い返したが、お互いに同じタイミングで、一瞬だけお互いから目を逸らし、ぎゅっと浮き上がってきた涙を押さえ込んだ。

 このデートが終わったら、シイナは自分に会ってくれなくなる。そんな気がしてならなかった。


 食の好みはシマに聞いたのだろう。昼食にと連れて来られたのは、海辺の小さなレストランで、パスタやピザを出す店だった。旬の海鮮素材を使った限定メニューが特に人気があるようだ。マリは蟹クリームソースのパスタを頼み、シイナはピザを頼んでいた。チーズのたっぷりのったスタンダードなマルゲリータピザだ。

 シイナははじめから、マリにも分けるつもりだったようで、すっとマリの方へ皿を移動させて「よかったら一枚どうぞ。お嬢様」と恭しく言った。マリも、パスタの皿をシイナに差し出し「これも美味しいですよ。お兄さん」と返す。すぐ後にお互いにそんな柄ではないと笑って、季節の果物を使ったロールケーキを土産に買って店を出た。

 そこから車に戻って移動して、連れて来られたのは室伏水族館であった。

 マリはともかく、シイナの格好は大変に目立ったが、手を繋いだまま館内を回った。

「シイナさん、写真撮っていいですか」

「えっ、俺じゃなくて、ほら、その魚とか撮った方がいいですって」

「はい、チーズ」

 無理矢理にフレームに収めると、顔を隠される前にシャッターを押した。慌ててポーズを取ろうとしたような、顔を逸らそうとしたような、半端な姿勢のシイナが写っている。マリはすぐに保存して眺めて「ふふ」と笑った。そこで、かしゃり、と音がする。

「撮ったら、撮られる覚悟もしなきゃなんねえと思いませんか?」

「いや、そもそもピンで撮り合うのはおかしいですよ。あ、あそこで二人で撮りましょう」

「だから、俺の写真は別に……」

「シイナさん、カメラここですよ」

「しょうがねえ人だなあ」

 思い切り、にっと笑ってピースサインまで決めた。後ろの水槽ではフンボルトペンギンが二羽、丁度首を傾げいているところが撮れていて、なかなかいい写真だとマリは思った。結婚式のスライドショーで使われそうだ。そこまで考えて、一人で照れてへらりと笑った。この恥ずかしさを一人で抱えているのに耐えられず、保存済みの自撮り写真を見せて言う。

「こういう写真、結婚式とかで使えそうですよね」

 う、とシイナはうめき声をあげて仰け反った後に、がくりと肩を落とす。

「まあたそういう恥ずかしいことをさらっと言って」

 全然さらっとではない。とんでもなく恥ずかしいことを言っている自覚がある。気付かれなかったのでむっとして、とても今更なことを一つ聞いてみる。

「シイナさんは結婚してないんですか?」

「おいおいおい、してたらこの状況は完全にまずいですけど?」

 ったく、とちょっとむくれたようなシイナは、反撃とばかりにこちらもわかりきったことを質問してきた。

「そう言うマリさんも恋人の一人や二人いねえんですか?」

「私はたぶん……、恋人を二人も持てるほど器用ではないので……」

「マジレス……」

 それからも何枚か、展示されたものそっちのけでシイナの写真を撮った。対抗するようにシイナもマリを撮っていたので、二人の写真フォルダに真っ青な一帯が出来上がった。

 水族館を出る頃にはすっかり夕方だった。シイナは「少し早いですが」とマリの手を引いて回らない寿司屋に連れて行き、マリが落ち着かずにきょろきょろしているところを喉の奥で笑って面白がっていた。マリは度々「どうするのが正解ですか」とシイナに聞くが「さあどうするのが正解でしょうねえ」と答えないので、遂には板前にそのまま「どう食べるのが失礼じゃないですか」と聞いていた。「美味そうに食ってくれればそれで」という言葉に救われ、安心して食べきっていた。それはそれで、シイナには微笑ましい姿だったのか、ずっと口元が笑っていた。

「最初からそのくらい美味そうに食ってくれたら良かったのに」

「美味しかったですけど無理ですよ、あの時はこれを食べ終わったら腕とか内蔵とか切られて売られるんじゃないかくらいのこと思ってたので」

「そうするつもりならすぐそうしてます」

「あの時はごちそうさまでした」マリが深深と頭を下げると「いえいえ、楽しんで貰えなくて残念でした」とシイナも頭を下げた。

「そんなこと言いますけど、実際私が手放しに楽しんだり喜んだりしたらめちゃくちゃ怖い思いをしてたのはシイナさんですよ」

「ははは、確かに怖えや」

 温かいほうじ茶を啜ると、お茶を継ぎ足しに女将がやってきた。

「あん時はマリさんも、疲れ果ててましたしねえ」

「疲れてたように見えましたか?」

「ええ。そりゃあもう。だってそうでなければマリさんはあの時俺に、」

「えっ、ユキ?」

 マリの母親の名を口にすると、その女性は、目を丸くしてまじまじとマリを見ている。いかにも大胆で仕事が出来そうな女将だ。上品な薄桜の着物を着ていて、マリを見る目が潤んでいた。

「え?」

 マリがきょとんとした顔で視線に答えると、女将ははっとして、ひょいと右手で空をかいた。

「あ、ああ、ごめんなさい。幼馴染にそっくりだったから」

 幼馴染。

 マリは慌てて、「ユキは私の母の名前です」と言ってみた。

 マリの予想は的中して、女将はマリの肩を掴み更に至近距離でマリを見つめた。

「ええっ!? じゃあ貴女がマリちゃん!? やだ、どうしよ、あ、お、お小遣いいる? それともお菓子!?」

「え、あ、あの、お気づかいなく」

 女将が騒ぐので店の視線が集まりだした。マリが首を横に振ってそんなの必要ないとアピールしても、なかなか女将の熱は収まらない。シイナはどちらの行動を遮るでも後押しするでもなく、ゆるゆると寿司を食べながらマリと女将のやりとりを眺めている。

「マリちゃん、うちのもので良かったら出すけど、なにか食べたいのある?」

「わ、私は特に、もう大分食べさせて貰ったので……シイナさん食べたいものあります?」

「俺じゃなくてマリさんに聞いてんですよ」

「うーん……本当に……お気づかいなく……」

「あ、そうだ! お父さんアレ出してアレ! 私がこの後食べようと思ってたけどマリちゃんにあげちゃう!」

 板前はこくりと頷いて冷蔵庫からなにやら取り出し、カラッと揚げてくれた。皿に持って女将に渡すと、それをマリの前に置いた。「はい、どうぞ!」蟹の爪の部分が衣から飛び出ている。五つもある。

「蟹!」

「ええ、蟹ですねえ」

「岩塩添えておいたから、お好みでつけて食べてね」

「ありがとうございます。頂きます!」

 マリは言われた通りに口に入れる。飲み込むと「美味しいです」とすぐに言って、それからシイナに「美味しいですよ」と蟹を押し付けた。「いや、マリさんが全部食べた方が」「美味しいですよ」マリが適当に塩を付けて口元まで持って来たので、観念して口を開けた。

「ところでマリちゃん、こちらの男前は?」

「んん、デートです」

 ごふ、と噎せる音がした。

「いいわねえ、お金もってそうな彼氏!」

「はい」

「お姉さま方、ホントに初対面で?」

 女将はマリに「お夜食だったんですよね」とシイナと同じように蟹爪の天ぷらを口に放り込まれていた。彼女はシイナより素直に食べさせられて「うん」と満足そうに頷いた。自分の持って来たお茶を、板前が無言で置いていった湯呑に入れて飲み始める。カウンター席に、シイナ、マリ、女将の順で並んだ。

「ごめんね、お葬式行けなくて」

「いえ、そんな。大丈夫です」

 母の葬式は、おばさんが手伝ってくれてどうにかなったようなもので、父はずっと母に棺の前から動かなかったし、手続きや何やらでてんやわんやになっていた。そんな時に来てもらっても大してもてなせなかったに違いない。どうせ来てくれるならもっと別のタイミングの方がいい。マリはにこりと笑って提案する。

「折角知り合いになれたので、よければ、余裕がある時に遊びに来て下さい」

「あら、こんなおばさんと遊んでくれるの?」

「友達集めてタコパとか」

「ええ〜っ! 高校生にまざっていいの!?」

「大丈夫。シイナさんや、近所のおばちゃんも呼ぶので」

「こらこらこら、勝手に出席にしないで下さい。俺は結構忙しいんですからね?」

「シイナさんは来てくれます」

「なんですその自信……」

 にっ、と悪戯をしかけた子供のような笑顔でシイナに笑いかけると、女将がぎゅっとマリを抱き寄せた。「わっ」てんぷらの、やわらかい油のにおいがする。

「ユキの言ってた通りね」

 声が震えていた。泣いているのかもしれない、とマリは顔を上げようとするが、ぎゅっと抱きしめられていて動けない。見られたくないのだろうと判断して、抵抗するのをやめて重くない程度に体重を預ける。

「お母さん、何か言ってました?」

 女将が顔を見られたくなくてしたのかと思ったが、すぐに、そうではないと気付く。

「前に会った時、貴方が高校に上がる時だったかなあ。私の全部、いや、それ以上をマリは受け継いでるから安心していられるって。何があっても、マリなら絶対に大丈夫だって、言ってたわ」

「……それを、お母さんが?」

「うん。自慢の娘だって」

 マリは、自分の中の何かが満たされていくのを感じていた。母が死んでしまってから、どうにか形を保っていただけの器に、潤いが戻って来た。セイコやホムラが足してくれる時もあれば、おばあちゃんが足してくれた時もあった。アルバイトをがんばっていたら、事情を知らないお客さんに足して貰ったこともある。シイナやシマと知り合ってからは、彼らも。そして今、最後の一滴が足されたような感覚で、すっと体から力が抜けていく。

「そう、ですか」

 そうですか。着物を汚してしまうのは心苦しかったが、この為に抱き寄せられているのだと、遠慮なく涙を流した。「そうよ」と「私もそう思う。貴方もよね?」と、女将はシイナに同意を求めた。

「ええ。もちろん」

 しばらくそうして抱き締められ、頭を撫でられていた。しかし、さっき上げて貰った蟹爪がまだ残っていることを思い出し、すっと離れた。冷める前に食べてしまいたい。カウンター席にいつの間にか置かれていたおしぼりで、女将が涙を拭いてくれた。

「ありがとうございます、今日、声掛けてくれて」

「ううん。こちらこそ来てくれてありがとう。連れてきてくれてありがとう、なのかもしれないけど」

 マリはちらりとシイナを見た。シイナはにんまりと笑うばかりで、何も言わない。

「また来ます」

「うん。待ってます。私もきっと会いに行くわね」

 残りの料理を残さず食べきって、マリは板前と女将に丁寧に頭を下げた。シイナと女将は何やらお金を押し付け合っていて、最終的にはシイナが押し負け、女将が奢ってくれた、という形に落ち着いたようだ。

 店を出ると、ふと、マリはシイナを振り返って聞いた。

「お酒飲まなくて良かったんですか? ああいう料理には日本酒が合うってお母さん言ってましたよ」

「飲酒運転って知ってますかい。飲んだら帰れなくなりますぜ。ん、もしかして、その方が都合がよかった? 今からでもどこか探しましょうか?」

「え、いいんですか?」

「これだよなあ……マリさんには危機感が足りねえんですよ危機感が……」

 はあ、と溜息を吐いてがくりと項垂れる。「勝てねえや」シイナが少し足を止めていた間に、マリは店の前の石段を軽快に降りて、駐車場でシイナを待つ。

 声はかけなかった。急かしたくなくて、じっと待つ。まだ車で三時間かけて帰るわけだが、後はもうそれだけだ。その三時間はきっとあっという間だろうとマリは小さく息を吐いた。目の前にシイナがいるけれどスマホを開いて、水族館で撮った写真を見る。これを見ていれば、どうにか笑顔でいられる。

 しかし足掻くくらいは許されたい。「シイナさん、私」アイスが食べたいです。そんなことを言ってみようとした、その時だった。

「ああああああっ!」

 突然、隣の車の陰から、何かがこちらに向かってきた。マリは「えっ」と小さく声を出すのが精一杯でそれ以上は一歩も動くことができなかった。向かってくるのは人。雄叫びを上げて真っすぐに走ってくる。かなり距離が近付いたところで、その人が体の中心あたりに固定しているものが鈍く光る。

「マリさんっ!」

 シイナはマリの腕を思い切り引いて後ろに庇い、マリを攻撃する為に身体を開いたその人間の顎を蹴り上げた。持っていた刃物は手から零れ落ち、蹴られたその人は仰向けに倒れた。頭を強く打っているような気がして、マリが近寄ろうとすると、シイナがそれを止め、マリを車の中に放り込んで、即座に発進させた。

 そして、少し移動したところで、マリの両肩を掴んで言う。

「怪我はねえですよね!?」

 仲間が潜んでいる可能性を考慮したのだろう。だから移動を優先した。考え事をしていたせいで返事が遅れた。それを、何か異常があるのではと考えたシイナはマリの頬を両手の手のひらで包む。

「マリさん!? どこか痛みますか!?」

「ご、めんなさい。大丈夫。シイナさんは、どこも怪我してませんか」

「俺はあんなもんに遅れは取りませんよ」

「なら、あの、あの人」

「怪我はしてるでしょうけど、死んじゃいません。ったく。どこの奴だ? いや、一人だったところを見ると一般人か……?」

 なんにせよ、とシイナはマリに視線を合わせて、余程安心したのだろう。こつりと額をぶつけて微かに笑う。

「マリさんに怪我がないなら、よかった」

 マリはぎゅ、と重ねた手のひらに力を込める。「マリさん? やっぱどっか痛むんじゃ」痛む場所はある。最近、ずっと様子がおかしいところはある。「シイナさん」彼の名前を、シイナにだけ聞こえる声で繰り返す。

 シイナは、マリの呼びかけには答えなかった。

「駄目ですよ、マリさん。もしこれがはじめてだったら、申し訳ねえですから」

 かわりに、泣きそうな声でマリに言う。

「ね。離して下さい」

 いっそのこと、自分の考えがすべて間違っていてくれることを祈りながら、そっとシイナの手を離した。


 車が高速道路を走り出すと、マリは昼間、海辺で止められた言葉の先を口にした。

 運転席でひたすらに前を見続けるシイナを見つめて、意を決して答え合わせだ。

「シイナさんは、母の、知り合いだったんでしょう?」

 返事に間がある理由が、自分と同じであればいい。マリは膝の上に乗せている手に力を込めた。窓の外の景色が、来た時よりもゆっくり流れていくのもどうか、同じ理由であってほしい。

「……どうしてそう思うんですか」

 マリはゆっくりと記憶を遡る。

 はじめから、やっていることと言っていることが食い違っていると思っていた。ただ、どこがどう食い違ったらこうなるのかを予測することができなかった。だから、漠然と何が起こるかわからない恐怖を感じていた。

 それが払拭された理由はひとつだが、シイナが早瀬家と関りがあった可能性について根拠となる出来事はいくつかあった。それらを踏まえて、特にシイナは、母、早瀬ユキに何か大変な恩を感じていたのではないかとそう思っている。シイナとユキはそれなりに親しい関係、もちろん恋人ではないと思っているが、親子関係に近い親しさだったのではと想像している。

 一つは、シイナの時計。あれは父の時計と色違いの同じブランドのものだった。そういうこともあるかもしれない。けれど、販売店もそう多くないマニアックな時計だった。確率はぐっと下がる。加えて母の気に入りのブランドであったことも間違いがなく、何かの折にプレゼントした可能性はある。

 二つ目は、マリが少し前まで住んでいた家。あんなにきれいに保存しておく必要があるのだろうか。見るからに人の手が入っている。これも、その方が買い手が付きやすいからとか、そんな理由の可能性はある。しかしこれも、結果、家が綺麗に残っているので、意識的に綺麗に保存しておいてくれているように見える。

 三つ目、シイナが佐倉チヨに持っていた菓子は、母がよく取り寄せて食べていたものだった。そもそも、チヨに挨拶に行くのがおかしい。チヨは早瀬家と一番深く関りがあったご近所さんではあるが、他人であることに違いはない。しかし、もし、父とマリが家に戻ればまた世話になることになっただろう。そういう理由でか、あるいは、チヨがおかしな噂を鵜呑みにして早瀬家の行く末を心配してそのまま寝込む、なんてことが無いように挨拶に行ったのかもしれない。

 四つ目、マリがセイコとホムラと仲直りをした後に、シマが作ってくれた雑炊が、母の作ったものによく似ていた。シマは「昔こんなんを、兄貴が作ってくれたんすよね。今となっては俺が作ったほうがうまいけど」と言っていた。かなりたくさん野菜の入ったオリジナリティあふれる雑炊で、偶然で片付けるにはあまりに苦しい。

 五つ目、ユキの幼馴染のやっている店に連れて行ってくれた。女将の登場に驚いた様子はなかったし、ほぼ確実に、わかっていてマリを連れて行った。

 六つ目、これは理由にならないかもしれないが、あえて挙げる。花見シイナが、頻繁に早瀬ユキに重なった。わかっている。これは感覚の話で、マリの希望も多分に含まれている。それでも、シイナとユキが何度も何度も重なって見えた。

 ここまで話すと、シイナは困ったように「ふっ」と笑った。

「だから、俺がマリさんを助けたと、そう思ってるんですか? 最初にマリさんのオヤジさんを賭け麻雀でコテンパンにしたのはどう説明します?」

「それも、……それは」

 マリは目を伏せて考える。そんなことは、どうでもいい。

 ごちゃごちゃと理屈を並べなくても、確実に言えることが一つある。どうして助けてくれたのか。どうして今日のような日が数日設けられたのか。これが一番重要で、一番大きな要因だ。

「シイナさんは、私が好きなんです」

 父のはただ仕組まれていただけだ。母と関りがあったのなら、マリの交友関係だって知っていたかもしれない。母に聞かされなくたって、少し調べればすぐにわかる。だから、父をあの場所へ移動させる時、狙って古田ホムラの母に目撃させることはそう難しいことではなかったはずだ。古田ホムラはマリに報告するし、マリは、それを聞けば真っすぐあの場所へやってくるしかない。

 父からお金を巻き上げるつもりははじめからなく、父に危害を加えるつもりもはじめからなく、ただ、それっぽく、マリを窮地から助ける為の、儀式のようなものだったのではないかと考えている。

 まるで極悪人のように振舞ったのは、シイナが、自分をいい人だと思ってほしくなかったからだ。シイナは戦っている。マリへの好意と、自分という人間への自己評価の狭間で。マリに手放しに好意を伝えたい彼と、マリには嫌われた方がいいと思う彼がいる。しかし、前者の方がおそらく優勢で、本当は、いつでも、今日したようにしたかったのではないだろうか。今日、シイナがこんなにもマリの言うことを聞いてくれるのは、こうして二人で会うのは今日で最後にしようと思っているからだ。

 マリはぎゅっと自分の胸の前で手を握った。

「違いますか」

「俺は、マリさんが好きだなんて一言も言ってませんが」

「それは無理がありますよ。車酔い程度であんなに狼狽えて、煙草も本当にやめて、シマがいるのにわざわざ看病をして、シマがいるのに、わざわざ一緒にセイコを助けに来てくれて、今日だって、前回のこと気にしてレンタカーだし、私の感覚に合わせて遊ぶ場所を選んでくれて、さっきは、あんなに必死に私を守ってくれましたよ」

 マリはゆっくり繰り返す。

「シイナさんは、私が好きなんですよ」

「そんでマリさんは、俺を好きになっちまったんですね」

 マリはゆっくり体を正面に向ける。一定の車間距離を保って走り続けている。ラジオはかかっていない。無言になると、車のエンジン音だけが聞こえてくる。

 体を動かすと、服が摺れる音もした。

 その中に、鼻を啜り、息を詰める音が混ざった。握った拳に、ぽつぽつと雫が落ちる。

「どうして泣くんですか」

「ごめんなさい」

「どうして、謝るんですか」

 シイナはマリの頬に指を添えて、涙の落ちる位置を少しずらした。マリの頬と、シイナの指でできた溝を、涙が流れていく。

「正解です。びっくりするほど正解だ。そんなにいろいろ気付いちまうと、大変なこともあるでしょう? 例えばほら、マリさんの友達の、あの、綺麗な顔のボーヤとか」

「……今、ホムラの話はしてません」

「怒りました?」

「怒ってません」

 嘘だ。本当はずっと怒っている。行き場がなくて悲しんでいる。シイナの手のひらに自分の手を重ねて擦り寄ると、シイナはするりと指を絡めて、マリの太腿の上に置いた。マリは、もう一方の手も重ねた。

「泣かないでください。家に着くまでは、こうしていてあげますから」

「違いますよ、私が捕まえておいてあげてるんです」

「ははは、なるほど。そっちのほうが正しいか。貴女が離せば、俺はもうどうしようもない」

 マリは改めて、自分の足の上に置かれた手を眺める。浮き出た血管をなぞってみたり、骨ばった部分を撫でてみたりする。「マリさん、くすぐったいですよ」とは言うが、手を離そうとはしない。

「シイナさんから特に言うことがないなら、もう少し話をしててもいいですか」

「おっ、いいですね。なんの話しをしますか?」

「父は元気ですか?」

「マリさんも心配性ですねえ、そんだけ分かってりゃ無事だって確信してるでしょう?」

「違いますよ。シイナさん、最近父に会ったでしょう?」

「へえ?」

 間の抜けたような、やや上擦った声で驚かれる。マリは片手を離して、朝やったようにシイナの腫れた頬を指で押す。押すと言っても痛まない程度に、ほんの少しだけだ。

「これ、見覚えがある気がしたんです。どこで見たのかとずっと考えてたんですが、そういえば、私もよくここにそういう怪我をしてました」

 目を閉じて思い出す。「横向きに寝転がっている父を、こう、覗き込むようにすると、丁度後ろに手を振り抜いた時、その辺の位置にぶつかるんですよね」だから、シイナはどこかに居る父に会っていたのではないかと推測した。今回だけか、何度かあったのかはわからないが。恐らく一度や二度ではないと、マリは思っていた。

「恐れ入りやした……。マリさん、探偵になれるんじゃないですか?」

「すいません。父は本当は、ああじゃないんです」

「知ってますよ。で、まあ、さっきの質問の答えですが、俺は嫌われちまったみたいでして。いまいち経過はわかりません。悪くはない、と聞いてますがね、社会復帰となるとどうだか」

「施設みたいなところにいるんですか? それとも、私と同じように?」

「施設です。我々と繋がりがあるので融通も効く。あ、でもちゃんとしたところですよ。ただ、経営者がうちと知り合いってだけで」

 シイナが強くマリの手を握る。

「だからね、マリさん」

 涙が、再び溢れて来る。満たされた器から、感情がぽたぽたと零れている。一つも逃してくはないのに、指から滑り落ちていく。シイナの手を握り、自分の額にぎゅっと押し当てる。

「安心してください。マリさんは安心して、このまま毎日楽しく過ごすことだけを考えていればいい」

「それは、けど、シイナさんは?」

「俺あかわりません。シマもかわらない。あいつには組の仕事も手伝って貰ってましたがね、このまま真面目に高校通ってれば、貴女が行くなら大学にも行きたがるでしょうから。これからどんなこともできるでしょう」

「シイナさんは、それでいいの?」

「いいんです。俺はこれで。むしろ、これ以上のことはもうねえよ。これでようやく、恩が返せる」

 だから、泣かないで下さいよ。と泣きそうな声でシイナが言った。泣かなかったら暴れますけど、と返すと、そりゃあいいですねえ、とシイナが笑う。少年のような横顔だと、じっと見つめていた。

 家に着くまで、シイナと手を握っていた。片手が塞がっていても運転に支障はない様子で、マリは、過去にもこうして誰かに手を貸したまま運転をしたことがあるのだろうかと、下らないことを考えた。それが過去でなく、これからの出来事だったら。自分が目撃してしまったら、一秒でもはやくそこからいなくなりたいと思うだろう。ふと、ホムラのことを思い出す。自分は、ホムラにタピオカを奢るべきだったのかもしれない。

 部屋の前まで大切に送り届けられ、最後に頭を撫でられた。頭の形にそって手を滑らせ、指に髪を絡ませて、頬まで降りて来ると、くっと顔をあげさせられた。触れてくる指先が、あまりに名残惜しそうなので、また、涙が出そうになる。

「マリさん、どうかお元気で。と言っても、マリさんの様子はシマに聞きゃわかるんですけどね」

「私も、シマに聞けば、シイナさんのことわかりますよ」

「俺のことはいいんです」

 シイナはサングラスを外して、実年齢より若く見えると気にしている瞳を、愛おしそうに細めた。一癖も二癖もありそうな鋭い形をしている。目元が少し赤くなっていた。

「幸せに、なってくださいね」

 それだけ言うと、マリを部屋の中へ押し込んで、扉を閉めた。

 靴を履いたまま、扉に背をくっつけて天井を仰ぐ。

「勝手だなあ……」

 マリは、ぎゅっと自分の胸を押さえて、その場にずるずると座り込んだ。

「本当に、勝手」


 朝、マリは似合わない眼鏡をしていた。どうしたんだと聞くと「目が、腫れてて、ちょっとでも隠そうと思って」と笑っていた。シイナの兄貴と何かあったに違いない。ぼうっとしていることも多いし、名前を呼んでも返事が遅い。時折耐えるように唇を噛んでいる。

 シマは学校でセイコとホムラに質問責めにあった。シマは何も知らされていないので知らないとしか言いようがなく「責任持って何があったか聞いて来い」とセイコに言われ、言われるままに「なにか、あったすか」と聞くも「なにも?」と明らかに嘘である返事しかもらえず二人には大層怒られた。お前らも行け、とキレ返すと、それぞれ別のタイミングで行って、全員同じ返事しかして貰えず、ホムラとセイコはお通夜のような雰囲気で「マリのばかばかばかばか……」と溜息を吐いていた。

 昼に、なんとか元気になってもらおうと遊びに誘うが断られ、しかし、マリは気を使わせていることに気付いているので「そのうち、たぶん話せる。今日はごめん」と頭を下げた。そんなことを言われたら、引き下がらないわけにはいかない。セイコは「絶対よ」とむくれていた。

 二人はそこまでが限界だが、シマにはもう一人質問責めに出来る人間がいる。マリが駄目なら、シイナに聞けばいい。事務所で休憩中のシイナに背後から近寄り、ぼそりと言う。

「かあさんの元気がねえんすけど」

「腹でも痛いんじゃねえか」

「かあさんが何も話してくれねえんすけど」

「話したくねえことくらいあらあな」

 話したくない、と言うよりは、どう話せばいいかわからない、という風だった。そして、遠くを見て、溜息を吐く姿は。

「かあさんが、泣いてるんすけど」

 シマにはそう見えた。シイナは、この状況を作ったくせに、マリと同じ顔で溜息を吐いている。泣かせたのは自分のくせに、自分も被害者のような顔をしやがって。シマはだんだん苛々してくる。

「一過性のもんだよ」

「かわいそうだとおもわねえんですか」

「思わねえなあ」

「この、」

 マリの代わりに、いや、親衛隊を代表して一発、いや、五発くらいぶん殴ってやろう。そう思って胸ぐらを掴み腕を振り上げるが、結局一発も殴ることはできなかった。

「あんなに好かれると思わねえだろ」

 シイナは頭を抱えて首を振る。「あんな風に真っすぐに好意を向けて来るなんて、思わねえだろうが」シマはシイナを離して、考える。何故、こんなことになってしまったのか。シイナが勝手にマリと仲良くなれなくて困っている時は面白かった。しかし、マリから気持ちが向いた途端に、何も面白くなくなった。

「……よく言う。兄貴が、好かれるようなことしてきたんじゃねえか」

「本当に参ったよ」

「それがマリさんだって、あんたは誰より知ってたっすよね」

 好かれたいとは思っていたはずだ。だが、実際に、そんな風に好かれると困ってしまう。だから遠ざけて、自分自身に言い聞かせるみたいに言う。

「一過性のもんだ。嵐みたいなもんで、その内、マリさんも元気になるし、なんなら、もっととんでもねえ出会いをするだろうぜ」

「兄貴のも、一過性のもんなんすか」

 早瀬マリのことは、シイナから何度か聞いていた。十個年下の、自分と同じ年の女の子。頭が良くて、優しくて、ああいう奴は誰か、ちょっと怖いくらいの奴が守ってやるくらいで丁度いい。シイナはマリのことをそう表現した。

「シイナの兄貴じゃねえんすか」

「俺はちょっと怖すぎるな。そうさな、お前くらいがちょうどいいだろうな」

 本心からの言葉だったのだろう。シマならばちょうどいい。シマが好きになるにも、マリが好きになるにもちょうどいい。年も離れていないし、シマならばまだ、どうにでもなるから。

 しかしマリは、花見シイナを選んだのだ。花見シイナを好きになった。

「一方的に切るなあずりいですよ」

 他にやりようはなかったのか。マリが泣かなくても済むような。シイナが我慢しなくても済むような。これでいいわけがない。マリもシイナも泣いているじゃないか。「兄貴、聞いてますか」シイナは答えない。「なあって」

「花見さん」

 もう一度胸ぐらを掴み上げたところで、事務所に人が入って来た。焦った様子で、いかにも緊急という風だ。シイナはシマの腕を簡単に振り払い、そしてジャケットの位置を直すと事務所を出て行こうとしていた。

「どうした」

「兄貴、話はまだ、」

 シマが追い付いてくるより早く外に出て、ドアを閉めて物理的に分断させる。

「兄貴!」

 逃げられた。


 そっちがその気ならこっちにだって考えがある。

 マリの部屋に勇んで押し掛けると、マリは「とりあえずお茶でも」と紅茶を淹れてくれた。丁度気晴らしに作っていたというクッキーに舌鼓を打っていたら目的を忘れかけたが、どうにか途中で思い出し、ずい、とマリに詰め寄った。

「このままでいいんすか!」

「……うん? 紅茶もっと甘くする?」

「わかっててそうやって誤魔化して……! 今日それを一回やるごとに頭を撫でますからね!」

「う、うーん……? うん。どうぞ」

 シマはマリの真横に立って一度頭を撫でる。マリは大人しく撫でられている。

「で、このままでいいんすか」

「シイナさんは、いいってね」

「兄貴の話はしてねえ!」

 シマはまたマリの頭を撫でた。だんだん髪がぐちゃぐちゃになっていく。

「かあさんは! このままで! いいんすか!」

「私は」

 マリは紅茶を一口飲み、テーブルに肘をついて、手の上に顎を乗せた。

「どうだろう」

「もおおお!」

「うわっ、今のは別に誤魔化したわけじゃないよ」

「俺だって今のは別に撫でたわけじゃねえっすよ」

 両手でマリの髪をぐちゃぐちゃにすると、今度はマリの座っている椅子を揺すりはじめた。がたがたとフローリングが鳴って、マリの体も左右に揺れる。「俺は」ああ、しまった、自分の話になってしまった。しかし、このままマリに同じ質問を続けても進展しない。

「俺は、嫌だ。かあさんの元気がないのも。兄貴の元気がないのも。兄貴は自業自得ってやつっすが」

「私も、シイナさんが元気ないのは嫌だな」

 シマはより大きく椅子を揺らす。「下の階の人に怒られるよ」何かをしていなければ大人しく話が聞けない。シマはマリを持ち上げてその場でぐるりぐるりと二回転する。

「かあさんの! 元気ないのも! 嫌だっつってんだ!」

「最近感情表現がセイコに似て来たね」

「うわあああもおおおお」

 これはこれで煩いに違いない。そのまま何回転かして、目が回ったのでマリを離して、自分は床に倒れ込んだ。

「俺は今、ホムラくんが怒った理由も、セイコちゃんがかあさんをぶん殴った理由もわかる……!」

 あの二人は、それでも、マリと一緒にいることを選んだ。そして今もまた、マリになにも相談されない寂しさのなかにいるのだと、身をもってわかってしまってシマは頭を抱えた。同年代の友達というのも面倒なものだ。いや、マリが取り分け頑固なだけかもしれない。

 マリが一言「シイナさんに会いたい」と言えば、いくらでも会わせることは出来るし、「シイナさんどうしてる?」と聞いてくれれば写真でもなんでも撮ってきて見せることもできる。それなのに、マリは何も言わないで一人で抱え込んでいる。セイコが友達甲斐がないと言ったのは、本当にその通りだ。

「かあさん」

「ん?」

「俺あ頭が悪いから、言ってくれなきゃ助けてやれねえすよ」

「そう? シマには何度も何度も助けてもらったよ」

「いやです俺あ今かあさんを助けたい」

「私は、シマにも、シイナさんにも迷惑をかけたくないよ」

「どこがどう迷惑なんすか。わかりやすく教えてくだせえ」

「例えばだけどね。私が今、シイナさんに会いたい、なんて言ったとして、それを実現させるためにさ」

 シマはばっと体を起こして弾かれたように立ち上がり、マリの手を掴んだ。

「そういうわけなら事務所行きやしょう!」

「え、いや、待って、これは例え話で……」

「シイナの兄貴は毎日決まった時間に休憩いれますから! そん時にコーヒーでも持ってきゃ驚きやすよ!」

「待ってってば、シマ、シマ? おーい?」

「ったく、最初からそう言ってくれたらいいんだよなあ!」

 マリは大人しく引き摺られながら、シマの頭を一度だけ撫でた。わかってて無理矢理動いていることはすっかりバレているらしい。


 マリを伴って事務所へ行くとほとんどみんな出払っているようだった。高見組の動きが活発だとかで、見回りを強化するという話は聞いていたので、たぶんそれだ。

 シイナにも最近物騒だから特に注意しろ、と言われている。それはつまり、ちゃんとマリを守れと、それだけの意味だとシマは解釈した。

 なんにせよ、こいつは都合がいい。給湯室でコーヒーを作ってマリに持たせた。誰とも擦れ違うことなく廊下を歩き、休憩室を開ける。

「兄貴、おつかれさんです」

 シイナは、ノックもせずに入ってきたのが誰であるかわかっていたらしく、背を向けたまま「おう」とひらひら手を振った。逆の手ではスマートフォンを構っている。マリがシイナを前にコーヒーを持ったまま固まっている。シイナはそんなマリに片目を閉じて合図をする。マリはコーヒーに視線を落とし、シイナの肩のあたりを見て、最後にシマと目を合わせると、こくりと頷いた。

 マリはそろそろと歩いて行って、腰を曲げて、腕を伸ばして「シイナさん、コーヒーどうぞ」とテーブルの上に置いた。

「ああ」

 シイナは考え事をしているんだか、よく聞いていなかったんだかぼうっとしており、まだマリには気付いていない。そのままカップを掴み、一口流し込むと、はたと顔をあげ、マリの方を振り返る。「は!?」

「ま、マリさん!? な、なん、あっ!? てめえかシマァ!」

「かあさんほら行け! 押し倒せ!」

「え、いや、私もう割と満足で」

「こんなことで満足してどうするんすか!」

「シマ! 堅気のお嬢さんをこんなとこまで連れてくるたあどういう了見だ!? さっさと送って差し上げろ!」

「シイナの兄貴が送って差し上げたらいかがですかー!?」

「ああ!?」

「嬉しいくせに!」と煽りながらも、捕まらないようにばたばたと休憩室を走り回る。シイナも追いかけて男二人で追いかけっこをしている姿を、マリは壁に背をついて隅っこで見つめていた。

 その内シマがマリを盾にして、マリを挟んでの攻防がはじまった。マリはくるりとシマの方を振り返って、宥めるようにぽんぽんと肩を叩く。

「シマ、シマ。もういい。もういいから、ね?」

「けど、かあさん」

「すいません、お邪魔しました」

 シマを出口の方へ押しながら、マリはそう言った。シイナは何も言わなかったが、後から一人で見に行くとコーヒーは全部飲んであった。

 マリもマリで嬉しかったと言ったその口で「やっぱり事務所まで押しかけるのは迷惑だよ」とシマに言い聞かせた。「休憩中は休憩しないと」 それはそうかもしれないが。なにやら煮えきれない気持ちで頭を掻きむしっていたが、次の日にシイナにコーヒーをいれて持っていくと「昨日のと味が違わねえか」などと首を傾げていた。「昨日のはただマリさんがいれてくれただけっすよ。他はなんもかわってねっす」シイナはシマのいれたコーヒーを居心地が悪そうに一口飲んで、半分飲んだら残りは捨てていた。

 計画は全く無意味でないとわかり、シマは上機嫌で次の計画を練った。事務所は駄目となるとあとはなにがあるか。授業中にでも考えることにしよう。


「なんですって?」

 マリがトイレに行ったその隙に、セイコに相談をもちかけた。

「だからあ、セイコちゃん。かあさんの新しい服と、あとは簡単なメイク? 教えて欲しいんすけど」

「それをなんであんたが言うのよ」

「今度、シイナさん家に乗り込んで、二人で料理作って待ってようかなーって思ってんですよ。ほら、バレンタインも近いでしょ?」

 セイコは「ああ」と納得したようなしないような声を出して、机の上に座って足を組み直した。

「それ、マリは了承してんの?」

「もちろん。事後承諾っす」

「それ、花見シイナは了承してんの?」

「もちろん。不法侵入っす」

「……面白いからいっか!」

「いいわけないだろ」

 セイコは話がわかるな。うんうん頷いていると、ホムラが鋭く短くツッコミを入れた。ホムラの言葉はそのままシマとセイコの間を抜けて行き、セイコは自分のスケジュール帳を開いた。指を添えて確認しながら言う。

「じゃあ、そうね。今度の土曜日にショッピング。行ける?」

「行けるっす」

「ホムラは?」

「僕は行かない」

「なんで?」

 ホムラは開いていた文庫本を音を立てて閉じると、ぎろりと二人を睨んだ。

「花見シイナの為に着飾るマリを見るとか、どんな拷問だ」

「馬鹿ね。ついてきたらあんな服やこんな服を試すマリが見られるわよ」

「花見シイナの為にな?」

「際どい服も着るかもよ?」

「着せるなそんなもの」

「メイクしたマリ見たくないの?」

「メイクなんかしなくてもマリは……」

「メイクしたマリを最初に見れるのは私たちだけよ?」

「だからそれは全部……」

 頑なな態度をとるホムラの背後にシマが回り込み、がっと肩を組んだ。「お前なにを、」抵抗するホムラに向けて「しーっ」と指を立てて静かにさせる。そして一本だけ立てたその指を折り曲げ、それから再び順番に立たせていく。

「ホムラくん、ホムラくんいいですか、想像してくださいね。はい、ここは服屋。かあさんの隣にはセイコちゃん。その後ろに俺とホムラくん。とりあえずいつもとテイストを変えて大人っぽいオフホワイトのニットワンピにボリュームのあるマフラー、アウターは丈が短めのダウンジャケットを持たせて試着室に押し込みます。しばらくすると恐々出て来て、不安そうに体を捻るかあさん。腰とか足とかのラインがわかって大変に扇情的。かあさんが照れながら「変かな……?」って言うんすよ。それに俺達は声を合わせて「かわいい」って頷くわけです。こんな役得そうそうねえのに、本当に行かないっすか?」

「あんた勝手に私のファッション雑誌見たわね」

「……」

 一体何を想像しているのかホムラの顔はみるみるピンクになっていき、顔を隠すように俯いた。見た目で勘違いされないようにしている彼には珍しく、机に突っ伏し、そして一言。

「…………、行く」

 その言葉を待っていた。

「よっしゃ」

 そこで丁度マリが帰ってきて「楽しそうだね」と話に混ざった。「バレンタインにシイナの兄貴の家に遊びに行ましょ」「えっ?」「で、土曜日は勝負服見に行きましょ、みんなで。みんなは良いって言ってるっす」「ええ?」「行くでしょ」強引か、とセイコは言って、ホムラは少しだけ顔を上げてマリの様子を見つめていた。

「あー、ええ……?」

「行きましょーよ。大丈夫。俺も一緒に行くから」

「うーん」

 ホムラと同じように徐々に頬を染めて、そしてその内はにかんで「うん、行きたい」と頷いた。ホムラは机と至近距離で向き合って隠れて溜息を吐いた。やっぱり行かないとは言い出さなかった。


 果たしてシマが予測した通りの展開は何度もあったが、最初は純粋に楽しめていたホムラがすっかり肩を落として疲れきっていた。マリとセイコは一緒にいて、メイク品の前であれこれ話し合っていたけれど、マリは一人の店員に連れて行かれた。どうやら、セイコとは知り合いらしく、セイコは彼女を信頼しているらしかった。疲れきっているホムラを見て顔を顰めながら歩いてくる。

「お通夜かってくらい暗くて重いわよここの空気」

「ホムラくんが限界そうなもんで」

「はあ? 何自分は無関係みたいに言ってんの? あんたも大概よ」

「えっ俺も?」

「嫌なら引き合わせなきゃいいのに。難儀な男ねあんたも」

「俺も?」

 今度はホムラに確かめると、ホムラは「ああ」と頷いた。「俺もかあ」あちゃあと額に手を当てる。通りでさっきから息がしずらいと思った。

「いいの? マリと花見シイナが上手くいっても」

「んー、けどさセイコちゃん。俺あ最初から二人が面白いことになりゃいいなって思ってたから」

「最初の話でしょそれ。今はしんどいんじゃないかって聞いてんのよ」

「今は、どうかな。でも、やっぱり二人が一緒にいるのはおもしれーと思うんすけどね」

 ホムラがゆらりと立ち上がり、先日の仕返しとばかりにシマの肩を組んだ。「うわ、なんすか」シマがしたのと同じように指を立てて静かにさせる。

「いいか。想像しろ。あれが全部、自分のためだったらどう思う? かわいい服を選ぶのも、がんばって化粧を習うのも、全部、自分の為で、いざ目の前に来た時に「変かな」って笑うマリに「似合ってる」って言うのが、世界で自分一人だけだったら?」

 セイコは「あんた、なんかぼーっとしてるところあるわよね」呆れたように首を振った。シマは言われた通りに想像してみる。

 もしもマリが、自分のことを好きになってくれていたら。コーヒーを美味しくいれてくれたり、菓子を差し入れてくれたり、デートの時にめいっぱいお洒落をしてくれたら。マリにとっての特別な一人が自分なら。

「それは、なんつーか」

 カウンターに座って楽しげに笑うマリを見る。あの人が、もし、自分を選んでくれたなら。

「とんでもなく幸せだろうとは思うけど、かあさんが兄貴を選んでるのに、兄貴もかあさんを選んでるのに、俺が邪魔するみたいになるのは、嫌だなあ」

「要は横取りして幸せにする自信が無いって?」

「ホムラくん、ある?」

「そんなもの……横取りできた時点で死ぬ気で幸せにするに決まってるだろ……」

「おお……」

 嫌ならやめたらいい、という言葉を飲み込んできた。シイナを怖がるマリに「体調悪いって言っときましょうか」と言いかけてやめていた。子供みたいにマリと繋がりを持ちたがるシイナを知っていたので、そんなことは提案できなかった。今ではもっとできない。二人揃って世界で一番幸せそうに笑うのだから。

「そうしてみたい気もするんすけど、ね。うーん。ホムラくんとはその内二人で飲みに行かねえと」

「おい、未成年」

「スイーツビュッフェに」

「どうしても行きたいんだな……」

「駄目?」

「いいよ。付き合うさ。存分にやってやろう」

「あ、マリ戻ってきた」

 ホムラとシマはぱっと顔を上げて立ち上がり、わざわざ歩いてマリを迎えに行った。マリが落ち着かない様子で頬をかいて、二人は勢いよく首を振った。

「似合ってる」

「これなら兄貴もイチコロっすね」


 シマは七年前に花見シイナの養子になった。両親は育児放棄で行方不明、親戚にはろくなやつがいない。施設に入ったが周囲と馴染めず、脱走を繰り返して方方を走り回っていた。そんな時だ。余程施設の人間にとってシマは厄介な存在であったのだろう。別の施設に売り渡された。正確には売り渡されそうになっただけだ。そのタイミングで、好き勝手ばかりやるシマを引き受けたのがシイナである。

 シイナのところに来てからもしばらくは脱走を繰り返していたが、ある日、風邪をひいて倒れた時に食った雑炊が美味くて、異様に感動してからは、シイナの言うことを聞いている。

 シイナが度々組の構成員にも秘密でどこかへ出かけているのは知っていたが、隠しているのならと無理に知ろうとはしなかった。シイナにも後ろめたい事の一つや二つはあるだろうと思ったからだ。いや、時々、今の自分の地位について、後悔しているように見える時があったので、自負としての誇らしい事などひとつもないのかもしれなかった。

 シマにさえ秘密だったものが、二年前のある日、突然明かされた。

 夜中、シイナが、やたらと綺麗な紙袋を持って帰ってきた。

「兄貴、また堅気の女と会ってたんすか」

「まあな。今回も金は断られちまったが」

「菓子折りも突き返されたんすか」

「いや、これは逆に貰ったやつだ」

「はあ?」

 何をそんな。花見シイナともあろう男が。シイナ本人はどこか嬉しそうにしているので始末が悪い。シマはよくその呑気さに呆れたものだが、シイナにマリとその母親の写真を見せられると呆れられなくなった。シマは、マリに視線が釘付けになった。マリ。早瀬マリ。

「なんだ? お前、こういう女がタイプか?」

「いや、タイプとかそんな話じゃねえよ」

 タイプとか、そんな話ではない。マリ。早瀬マリ。そうか。そんな名前だったのか。

「あ? 知ってんのか?」

「俺あこの人が居なかったら、多分生きてねえ」

 シマは食入るように写真を見ていた。この写真、自分にもくれないか。あるいは、マリと会っているのなら、自分も連れて行ってくれないか。あの日の礼が言いたいのだが。捲し立てるように言うと、シイナはぐしゃぐしゃとシマの頭を撫でた。

「奇遇だな」

 にっ、と誇らしげな笑顔で、シマはシイナのこんな笑顔を始めてみた。なんだ、と思う。あるじゃないか。誇らしくて堪らないもの。

「俺もだよ」

 結局、シイナが会っていたのはマリではなくユキであり、その恩とやらを返せるタイミングを伺っていたようなのだが、そうこうしている間にユキにも大層世話になり、これはもうちょっと金を出したくらいじゃ返しきれねえ、とシイナはにやにや笑いながらシマに話した。

「恩が返せるって時に、俺もこの人に会えるんすか」

「そうだな。俺たちみたいなのは、不用意にこういうもんに触れちゃいけねえ」

 シイナはその後「お前は、今からでも普通に学校でりゃ堂々と会いに行けるだろ」と言ったが、シマはシイナを差し置いてそんなことをするべきでは無いような、奇妙な連帯意識を感じて首を振った。学校になじめる自信もない。今思えば、マリの通う学校に行きたいと言えばよかったのだろうが、シマはそれを選ばなかった。

 暗い橋の下、誰にも見つけられなければこのまま死ねると思っていたあの日、マリがひょこりと顔を出して、太陽みたいに笑ったのだ。食べていた菓子をまるごと分けてもくれた。シマはたったそれだけのことで、一生分のエネルギーを貰ったような気になって、家に帰ってゴミだらけの家で眠った。橋の下よりは生きていられるという気がした。

 久し振りに会ったマリは随分疲れていて、シマは心を痛めたけれど、あの時の自分と同じような状態なのだとしたら、やることは決まっていた。マリの傍で、へらへら笑って見せればいい。

 皆の努力が実を結び、マリはすっかり元気を取り戻して学校に通い、友達と笑い合い、毎日シマに勉強を教え、シイナに恋をしている。

 シイナだ。

 やはり、伝わるものがあるのだろうか。ずっと、馬鹿みたいに一途に想って、気にして来た。一緒にいる時間や、優しくした回数なんかではないのだろう。それはそうかもしれない。なんと言っても自分だって、たった一回菓子を貰っただけでマリを大好きになったのだから。マリがシイナを好きになった理由を、いつか聞いてみたい。きっと、些細なことだったに違いない。


 百貨店で色々試着させたけれど、いざどれにするかという話になるとマリであれば派手なものより清楚系だろうと満場一致で決定した。マリはいまいち、ならば何故あんなに時間がかかったのかわからず、しきりに首を傾げていた。

「……」

「……」

 決戦の日、シイナのスケジュールもしっかり把握して狙い済まして家までやってきた。シマが鍵を持っているのでマリを伴って入り、そしてマリと一緒に三人分の夕飯を作った。出来上がる頃にちょうど帰ってくる計算だったのだが、何時間経ってもシイナが帰ってくる気配がない。

「いるのバレちゃったかな」

「いや、俺はたまに転がり込んでるし、電気がついてるくらいじゃ怪しまないと思うんですが」

 痺れを切らしてシマがシイナに連絡を取るが、電話は繋がらない。「何してんだあの人?」と、今度は組の人間に適当に連絡を取るも、さっき帰ったと言われてしまった。ならば馴染みの飲み屋だろうかと、マリを伴って迎えに行こうとしたが、そこにもおらず。もう一度連絡をしてみてもやっぱり繋がらない。

「かあさん。これちょっとやばいかも知んねえっす」

「やばいって?」

「シイナの兄貴になんかあったかも……、」

 シマは、マリに不用意に心配をかける事は無いかもしれないと思ったが、同時に、これは絶対にマリに言わなければならないという気がした。

「急いで一緒に事務所に。すぐ組長に報告して、兄貴を探してもらわねえと」

 マリは体を強張らせて、青い顔をしていた。シマは床と平行に頭をさげる。頼むべきではないのかもしれない。それでも、こうせずにはいられなかった。

「頼みます。シイナの兄貴になんかあったんだとしたら、多分、助けられるのはかあさんしかいねえ」

 ぐっと拳を握って、小さく何かを呟いたようだった。「シイナさん」あるいは「おかあさん」だろうか。開いた手のひらでシマの肩を叩き、力強く頷いた。

「行こう」

 昔、シマがシイナに見せられた、早瀬ユキと早瀬マリの写真。今、マリの瞳は、その二人を足し合わせたような輝きで、真っ直ぐ前を見据えていた。


 事務所は混乱を極めていた。

 シマがマリを連れて行くと、まず、マリに注目が集まった。「シマあ、こんな時に女連れたあどういう了見だ?」近くに居た若い男がマリに詰め寄って来た。シマはそれを庇おうと前に出るが、マリが片手でそれを制した。

 男はマリの胸ぐらを掴み上げ、ぐっと上にあげる。ゆらゆらと何人かが集まってきている。今にも場違いだと叩きだされそうな雰囲気であった。

「お嬢ちゃん、ここがどこだかわかってんのか?」

 マリは自分を掴む手を両手で掴み、目の前の男を真っすぐに見る。

「シイナさんは、一人で、いなくなったんですか?」

「はあ!? 誰かついてりゃこんなに大騒ぎになってねえだろうが! バカかてめえは!」

「何故? シイナさんはなんで一人で行ったんです?」

「ああ!?」

「一人で来い、と言われたとして、誰にも告げずに一人で行くような人ですか?」

「お前、若頭の何を知ってんだ? ああ!?」

 距離を詰められていること、怒鳴られていること、身体を持ち上げられていること、それらを越えて、マリは思考を続けている。

「シマ。貴方はどういう理由があれば、一人で来いという要求を呑む?」

「え、俺。うーん、そうっすね、例えば、人質を取られてる、とか?」

「なるほど。お兄さん。シイナさんが見捨てない人質に心当たりは?」

「んなもん、ある、わきゃ……、いや、待て、若頭は確か熱心に女囲い始めたって噂だったな……。そいつならどうだ?」

 目の前の男がマリの言葉に巻き込まれた。周囲を見れば、二、三人は同じように考え込んでいる男もいる。マリは続ける。考えるとはこうするのだと、手本を見せるように、順番に言葉にしていく。

「つまり、構成員でシイナさん以外に居なくなった人はいない? 組長さんとか」

「組長が拉致られてたら戦争じゃボケが!」

 目の前の男はついにマリから手を離した。マリは一度俯いて、今度は周囲をぐるりと見る。

「その噂の女の人はたぶん私です。だから、それは違う。他にシイナさんの弱味は?」

「んー、俺?」

「シマよお、お前がそんなタマか?」

「つってもよ。兄貴の弱味になり得る人間なんて、かあさん関連しかいねえすよ。親兄弟の話聞いたことねえし。何年も会ってねえって。かあさん、セイコちゃんとホムラくんは無事なんすか?」

「さっきどっちとも連絡取れたよ。となると」

 マリを威嚇している人間はもう一人もいない。マリはこつこつと事務所の中央まで歩いて行き、一つの心当たりを口にする。

「お父さん、かもしれない」

「は? 若頭のか?」

「いえ。私のです。施設にいるらしい私の父によく会っていたようなので、そこが人質に取られたと考えるとどうですか」

「それなら、ありえる、のか?」

 下手をしたら、マリに会いに来るより頻繁に会っていた可能性もある。組の若頭であるシイナが頻繁に会いに行く男。関係性はどうであれ、シイナにとって捨て置ける存在ではないのでは、と認識されたのかもしれない。内情を知っていれば、真っ先にマリを狙ったであろうが、マリにはシマが四六時中ついていた。だから、父。

「若頭は、人質を助けるために一人で行ったってか?」

 助ける為に、というところにマリは引っ掛かりを感じたし、他にもやりようはありそうだと思ったが、その違和感は横に置き、頷いた後、先に進んだ。

「シイナさんは、父がいるのはこの組と関わりのあった人が経営している施設だと言っていました。誰か、心当たりは?」

「この組に関わってた奴の施設……?」

「んなもんあんのか?」

「いや、聞いたことあるような、ないような」

 ざわざわとマリを中心に情報が集まる。「あっ」トラ柄のシャツを着た男が手を打った。

「おい、ひょっとして、堀さんとこじゃねえか? 組長の息子も世話になってたことあったろ」

「ああ、あそこか」

「そこの連絡先は? わかりますか? わかるんだったら、早瀬アキヒロが無事か聞いて下さい」

「よっしゃ」

 シマはぽかんと口を開けて「かあさん、すげー」と現状への感想を口にした。部外者なのについに構成員を使ってしまった。

 凶悪な顔をしたパンダの描かれたスカジャンの男が電話をはじめて、マリの父の安否はすぐに明らかになる。

「あんたの親父さんは無事だそうだ。最近は調子も良さそうで、犬の散歩行ったり、近所の子供と遊んだりしてるってよ。ただ、最近施設の周りを張ってる連中がいて鬱陶しいつってる」

 マリは、思いがけず聞けた父の近況に気が緩みそうになるが、あえてそこには触れずに、シイナの情報を集めることにだけに集中する。

「その人たちが、シイナさんを呼び出した組の人間の可能性は高いと思います。捕まえて話しを聞くことはできますか」

「堀さんはこの稼業から足洗ってるが、そういうのは一番得意だったぜ」

「お願いします」

 電話は繋がったままだ。男の表情から察するに、快い返事を貰えたようである。ならば少し待ち時間だ。

「シマ、この時間に私にもう少し基本的な情報を頂戴」

「基本的な情報っつーと?」

「勢力図とか、この組と他の組との関わりとか。今回の件に関係がありそうなことはなんでもいいから教えて」

「なら、地図もってくっか。おい、隣の部屋に貼ってある地図持って来い!」

 適当な事務机の上を片付けて地図を広げる。「今いる場所がここだね」近寄って来た男はこのあたりの裏の勢力関係に詳しい男なのだろう、「このゲーセンはうちのシマで」「はい?」「シマあ、お前今はマジで紛らわしいからそのネタやめろ」マリは頷きながら聞いている。どの情報がどう役に立つのかは不明であったが、地図を囲む人間は一人二人と増えていき、ついにはシマが輪の中からはじき出された。

 マリは常に右手の第二関節が顎に押し当てている。部屋の中央で競うようにマリに情報を提供し、マリはそれを静かに頷き、聞いている。


 シマは部屋の入口でその異様な光景を眺めている。女子高生を中央に置いて、いかつい男達がああでもないこうでもないと言い合っている。ヒートアップしすぎて殴り合いの乱闘になりかけるが、マリが「落ち着いて、その体力は残しておいてください」と言うと全員冷静になって地図と向かい合った。

 なんて面白い、と手を打って喜びたいような気持ちを堪えて、じっと見ていた。

「何の騒ぎだ」

 シマの横に、紋付き袴姿の恰幅の良い男が立つ。髪は白髪が混ざっており、顔には貫禄のある皺がいくつも刻まれている。それを裂くように、右目から頬にかけて大きな傷跡が残っていた。

「あ、組長」

「なんだあ、あのお嬢さんは?」

「早瀬マリさんです」

 組の異様な雰囲気に眉をしかめるが、シマがそう言うと納得したように力を抜いた。

「ああ。例の。お前は混ざらなくていいのか」

「俺あ馬鹿だし、あんま他所の組のことに興味ねえから、あそこで役に立てなくて」

 組長、喜島ジュウキチは改めて自分の組の人間の顔を見渡す。完全にマリの持つ、燃え立つ強さに巻き込まれて、全員が同じような顔をしている。マリは誰のどんな言葉も否定はしない。「ははは」見ていると、シイナが失踪中であるということを忘れて笑顔になってしまう程に、面白い光景だった。

「シイナは、とんでもねえ女に惚れてたってことか」

「ホントに! ノリで連れて来たんですが、まさか全員巻き込んで味方にしちまうとは」

「ノリで堅気の嬢ちゃん連れてくんな」

「兄貴にもこの光景見せてえなあ」

 言いながら、スマホを取り出して写真を撮った。「動画のほうがいいかな」設定画面を開いていると、喜島が声を潜めて言った。

「シマよ」

「はい?」

「お前、あのお嬢さんを連れて来ねえほうがよかったんじゃねえのか」

「ええ?」

 そんな馬鹿なことが。マリがいなければこうも効率よく進んでいないし、人質の見当もつかなかったことだろう。実際、マリとシマの住むアパートの傍にもちょこちょこ不審な人物の陰をみており、あまりにしつこいようであればシマがこっそり追い返す、ということをここ数日随分していた。今マリを一人にするのも大概に危険だ。

 ひょっとしたら、それを狙っていた可能性もある。シイナがいなくなって組が混乱すれば、マリから注意が逸れるのでは、と。シマは我ながら冴えた考えだと一人で感心した。まるでマリのようだと嬉しくなる。

「いや、やっぱりマリさんは連れて来なきゃ駄目でしたよ」

「そういう意味じゃねえよ。お前もあのお嬢さんに惚れてんだろうが」

「ああ」

 言い方が悪いが、放っておけばライバルが一人減ったと、そういう話だと気が付いた。だが、それはないだろう。あまりにもひどすぎる。「とんでもねえこと考えるんすね」だが、こんな状況でなければ考えたことはある。もし、シイナがいなければ。と。だが、考えるだけだ。それ以上でも以下でもない。

「うーん。組長の言いたいこと、なんとなくわかりますけど、組長が言うようにシイナさんはあの人に長いことベタ惚れで……、弟分としては、いや、家族としては? なんとか幸せになってほしいっつーか」

「だから自分は身を引く、か?」

「ええ。あの人を先に好きになったのは、シイナの兄貴です」

 シイナは組長に拾われて組の仕事を手伝い始めたと言っていた。シマの年くらいにはよく他の組の連中と喧嘩をして、傷だらけになって帰って来たり、帰ってこないので組長が迎えに行ったりしたそうだ。破竹の勢いで組織の内外で名を挙げて、今の地位につくに至った。

 喜島は「はあ」と大きく溜息を吐いた。「どうしてお前たちは揃いも揃って」呆れた声は「まあいいか」と自分で留めて、重たい瞼を一度閉じて、ゆっくり開くとシマを見つめる。

「お前さん、五歳くれえの時に、同じ年くらいの女に助けられたって言ってなかったか。生きる希望を貰った、とかなんとか。いつだかの新年会の時言ってたろ。だから、自分に菓子くれる女がタイプだとか、頭悪いことをよ」

「いいえ? 俺を助けてくれたのは、シイナの兄貴っすよ」

 焼き付いて消えない女の子が一人いる。こういうやつもいるのだと、途端に、世界は生きる価値があるようなものに思えて来た。もう一度会う為に、それだけの為に生きていた時間が確かにあった。今は、その出会いに寄り掛からなくても、生きていける。

「……そうかい。ま、お前がそう言うんなら、これ以上は何も言わねえが」

「うっす。助かりやす」

 喜島はきっと、マリに協力してくれるだろう。シマはそう確信して、喜島の後ろにさがった。二人でマリが作った輪を眩しく思いながら見つめて、自分から一歩足を進める。


 一通りの情報を交換しきった頃、待機時間に耐えかねた一人が声を上げる。

「おい、俺達も探しに出るぞ」

 声に応えて「よし」「商店街の方が怪しくねえか」「いや、中田が喧嘩売られたっつーゲーセンの前はどうだ」数人が卓から離れようとすると、マリが静かに中心になっている男に問いかけた。

「どこを?」

「どこって、分からねえ以上怪しい場所は全部に決まってんだろ」

「怪しい場所とは?」

「さっき一通り出たが、最近よく喧嘩売ってくる高見組、このあたりに進出してこようとしてる千有会、そいつらが所有してるビルに倉庫、とにかく全部改めてやる」

 マリの表情は険しい。その作戦は効果があるかどうかを、考えながら話す。揃いも揃って気が短いので、あまり待たせると飛び出してしまう。声を上げるかぶん殴るか。そのどちらもできないマリは、ただ強い瞳で行動の核となった男を見つめた。「例えば」

「例えば貴方が憎い組の憎い相手を一人呼び出したとします。どうしますか」

「どうするもなにも、さっさとぶっ殺してやるに決まってんだろ」

「さっさと? 本当に?」

「まあ、憎い相手だったら楽には殺さんかもしれねえが」

 そんなことはどうでもいい、と言い出す人間はいない、マリの言葉を待っているか「そりゃたしかにそうだ。憎くてたまんねえ相手ならできるだけ長く苦しんでから死んでもらわなきゃな」「だな」と、マリの例え話について真剣に考えている。「うん」

「方法はいろいろあるんでしょうが、その甚振っている最中に、どうやら呼び出した彼の仲間が血眼になって探してるとわかったらどうします?」

「そりゃ、見つかる前にさくっとやっちまうに決まって……あ」

 言いながら、自分のやろうとしていることが及ぼす影響について気が付いたようで、ポケットから取り出していた車の鍵をもう一度ポケットに押し込んだ。

「ある程度の目星がつかない内は動くべきではないと思います。掴める尻尾も掴めなくなるかもしれない」

「目星つったってよお……」

 情けない声でマリに言う男の弱気を塗り替えるように、堀からの連絡があった。電話に出た男がすぐに叫ぶ。

「堀さんから連絡来たぜ! やったのは高見組だ!」

 部屋を揺らすほどの雄叫びがあがる。

「お前ら準備はいいか、高見組にカチコミじゃ!」

 マリは地図に顔を落とす。

「高見組の事務所って確か、ここと、ここでしたね」

「おう。そうだ。ご苦労だったな、お嬢、」

 バラバラと散って行こうとする構成員を止める為に、マリは手のひらで思い切り机を叩いた。浮きたった空気に冷や水が浴びせられたように、緊張感が戻る。マリの調子は変わらない。「まだ、まだ絞り込める」

「高見組はシイナさんに何をするつもりですか?」

 高見組と花見シイナについて。先ほどいくつか情報が出ていた。喧嘩をした口論になったという小さいものから、お互いの縄張りを荒らす荒らさないという話、「若頭に勝てる奴なんてそうそういねえよ」と、自慢話に収束した。

 負けない、ということは、花見シイナへの憎しみや鬱憤は、どこへも発散できないということ。

「そりゃあもちろん、殺しちまうつもりだろうなあ」

 本人に憎しみを返す方法の一つに、本人を追いつめ痛めつけることがある。

「高見の連中に限って、話し合いはねえだろ。血の気が多いくせに狡猾な連中だ」

 声のした方を全員が見る。マリ以外がぎょっと体を強張らせて頭を下げた。

「く、組長! すいやせん、部外者はすぐに追い出しますから!」

「おいおい、俺あ追い出せなんて言ってねえよ」

 マリは、組長と呼ばれた男と正面から向かい合う。シマが組長の後ろでぱちりとウインクをした。

「お嬢さん。続けてくれ」

 頷いてから、地図の前から少しずれた。

「高見組はシイナさんを殺すつもり、とするならば」

 組長、それからシマがマリが作ったスペースに立ち、一緒になって地図を見る。シマは、マリの指先が震えているのを、見てみぬふりをした。

「その後の処理が手っ取り早いのはどこですか?」

「そうさな。俺なら、人目につかねえ、森、さっさと死体を流しちまえる海、ってところか」

 構成員達は再び指針を失って呆然と立ち尽くす。マリはそれを叱咤するように一瞥し、続ける。

「事務所にいるとは限らない」

「となると、さっきと同じ理由で、むやみに動くのは危険って事っすね」

「うん」

 マリは自分に言い聞かせる。誰よりも冷静であれと、意識をして深く、ゆっくりと呼吸をする。

「堀さんが捕まえた高見組の人は、何の情報も持ってないんですか?」

「ん、あ、ああ、そうみてえだな。具体的なことは何も」

「高見組の人を何人か捕まえて話を聞くことは可能ですか。できるだけ目立たないように」

「そういうことならあいつらがたまり場にしてるスナックがある。そこ行きゃ一人か二人はなんとかなるだろ」

「他に、捕まえられそうなところがあればそこにも行って下さい。こちらがシイナさんを探していることはバレたくないので、できるだけこっそり、他の仲間に知られないように。シイナさんの居場所を知っている人がもしかしたらいるかもしれない」

 部屋全体が。組織全体が、ぎゅっと引き締まる。

「おい! お前ら聞こえたか! 聞こえてたならさっさと動きやがれ!」

 喜島が一喝したことで、先ほどよりも数段でかい雄叫びが上がった。そしてそれぞれが思い当たる場所に散って行く。「くれぐれも目立ちすぎんなよ!」「お前もな!」「若頭に恩売ったるぞコラァ!」マリ、シマ、喜島はそれを眺めていた。出て行った男の一人がひょこりと戻ってきて言う。最初に掴みかかってきた男であった。

「嬢ちゃん! 何かわかったらシマに連絡でいいか!」

「お願いします」

 シマはこくりと頷いて、親指を立てた。そして、人気のなくなった事務所で、マリは再び、喜島と向かい合った。

「俺あ喜島ジュウキチってモンだ。お嬢さんは」

「早瀬マリです」

「まあ、知ってんだけどな。あんたの口から名前を聞きたくてよ」

 まあ座んな、と言われて、マリは椅子を引いたが、その場に崩れるように膝を折った。「かあさん!」シマがすかさず支えて、どうにか椅子に座る。手だけではなく、足も震えている。シマは、マリの肩に手を乗せる。その手にマリの指が触れ、指は、氷のように冷たかった。緊張している。「はあ」

「すいません。これは、たぶん私のせいなのに」

「そんなこたあねえよ。俺にゃどうも、あいつが死にに行ったようにも見えるしよ」

 そこは、マリも引っ掛かっているところであった。拉致されたにせよ、呼び出されたにせよ、誰にも告げずに一人で行くようなことをするのだろうか。

「はい。それは私も思ってました。父は無事で、高見組の人に拘束されていたって訳でもない。なら、そんなに急いで、誰にも告げずに行く必要はない」

「ったく、あの馬鹿息子は、一体何を考えてんだか」

 マリはじっと自分の震える指先を見つめた。

「……もしかしたら、それを含めて、私のせい、なのかもしれないけど」

 零した弱音を蹴り飛ばす様に、シマがマリの背を撫でる。さっきまではぴんと伸ばされていたが、今は少し丸くなっている。

「んなことねえっすよ。従わなければ今すぐかあさんの親父さん狙撃するって話になりゃ、どうしようもねえ。特に、一人で居る時狙われたら、連絡しようもねえ」

 セットした髪が崩れないようにぽんぽんと叩く。マリの表情は晴れない。あやすように持ち上げて、ぐるぐる回るが表情が変わらない。「やめねえか」喜島がシマの頭を殴った。マリはシマに地面に降ろされながら言う。

「なら、やっぱり拉致、なのかな。呼び出された、わけじゃなくて」

「同じでしょ?」

「拉致だとしたら、この状況に納得はできるけど場所まで特定するのは難しいかもしれない」

「へえ。呼び出しなら?」

「行くまでの間、シイナさんが何かヒントを残してくれてる可能性はあるけど、誰にも連絡を取らなかったのはどうしてかなって、疑問が残る」

「うーん……」

 シマもマリに倣って考えているような仕草をするが「わかんねえ」とすぐに思考を放り投げた。マリは投げられたものを文句も言わずに受け止めて、再び顎に手を当てて、地図の前に立った。左手で、高見組の事務所の位置を確認した。「ははは」重くなりかけた空気を震わせ、喜島が笑う。

「試されてんなあ、お嬢ちゃん」

「えっ」

「そんなつもりはねえかもしれんが、シイナはきっとあんたに助けてもらいたがってるぜ。期待していない。死ぬつもりで行ったかもしれない。だが、心の底ではあんたが助けに来てくれるんじゃねえかと思ってんのさ。助けられなきゃそれで死ぬだけ。それならそれだと、思ってんのさ」

 シマは溜息をついて頭を振った。

「なんて迷惑な……。けど組長の言う通りだ。兄貴には確かにそういうところがあるし、だとしたら、かあさんが自分のせいなんて気に病む必要はとうとうねえすよ」

 シマと喜島がマリににっと笑いかける。

「度肝抜いてやんな」

 マリはぱん。と頬を叩いて、背筋を伸ばす。

「はい」

 とは言え報告を待つしかないので、今の内に一息入れるかと、シマがコーヒーを用意し、喜島が適当な茶菓子を持って来た。マリは遠慮したが二人に「いいから」と菓子を握らされたので「頂きます」と口に入れた。

 丁度その時、事務所の入り口が騒がしくなってきた。シマは最初に立ち上がったが、窓を開けて、下を見ると戦闘態勢を解いて「あ、そうだった」と手を打った。

「おい、お前らなにしてる、ここはお前らみてえなガキが来るところじゃ」

「マリ! マリ! 無事か!? いたら返事しろ!」

「マリ! あんたまた無茶してたら絶対に承知しないから!」

 手招きするシマが下を見ろと指を指すので、窓から出入口を見る。見張りは手薄で、一人だけである。その一人が、必死にセイコとホムラを抑え込む姿が見えた。

「え、セイコとホムラ……? なんで?」

 シマが自分のスマホをひらひらと振った。

「呼んじゃった」


 マリは仕方なく現在の状況を説明した。セイコもホムラも黙って聞いていたが最終的には「なんでアンタが指揮ってんの?」と呆れていた。それはマリにもわからないが、そうしなければならないような気がして、そうしている。それに、ついさきほど、喜島にも後押しされたところだ。

 コーヒーと茶菓子を二人分増やして近頃の高校生はどういう遊びをするのかという話で一頻り盛り上がっていたところ、不意に、シマの携帯電話が震えた。

「あ、電話」

「もしもーし」シマは気の抜けた声で応答すると、スピーカーにしているわけでもないのに、電話越しの声が聞こえた。

「若頭は室伏埠頭の倉庫だ! 若頭は室伏埠頭の倉庫に呼び出された!」

 シマがあまりの騒音に耳からスマホを離した。そこにすかさず、マリが飛びつく。

「室伏埠頭の倉庫……? どの倉庫かは?」

「そこはやつら徹底しててよ、現地行ってる奴らしか知らねえらしい。どうする、嬢ちゃん!」

「もう何人かから情報を聞きだせませんか。特に、呼び出されたのか、拉致したのかを明確にしたい。もちろん、どの倉庫かわかればそれも」

「おう! 任せときな!」

 電話はそこまでで切れた。連絡網がしっかりしているのか、立て続けに何人かから連絡があった。花見シイナを、呼び出す、室伏埠頭、倉庫。この作戦が成功すりゃあ俺達は随分と楽になる、と馴染みの店の中央でそれはもう大声で話していた構成員もいたようだ。「シマ」

「……シイナさんの車はある? シイナさんは車に乗って行ってるかな?」

「そうっすね。家の車庫にも、こっちの車庫にもなかったし、乗ってってるはずっすよ」

「……」

 考える。室伏埠頭は確定だろう。ただ、室伏埠頭を地図アプリで見てみると、コンテナや倉庫がいくつもあって、一つに絞るのは難しい。

「マリ?」

 ――大丈夫。マリさんなら。絶対に。何があっても。

 ――マリが全部を、それ以上を受け継いでいるから。

 祈る様に手を組んだ。

「車を探そう」

 スピード勝負で全ての倉庫をあたるのもいいかもしれない。しかし、相手がシイナを適当に苦しめた後殺すことさえできれば満足なのだとしたら、それだけが勝利条件にあたるのだとしたら、その勝負はこちらが不利だった。

「室伏埠頭近隣の車を停められる場所、全部調べよう」

「車なんか見つけてどうすんすか?」

「たぶん、自分不利な戦いをしようって時に、スマートフォンは持って行きません。万が一そこから組の大事な情報が洩れたら大変でしょう。車には、シイナさんのスマートフォンが残ってるかもしれない」

 残っていないかもしれない。見つけても、何も分からないかもしれない。けれど、そうする。倉庫に一斉に乗り込むのは、それで成果があがらなければだ。真っすぐ目的地にたどり着くために、賭けをする。

「よし、わかった。それあ俺から連絡しておこう。嬢ちゃんはこれからどうすんだ」

「私も行きます。シマ」

「よっしゃ。それじゃ行きましょ、セイコちゃんとホムラくんも来るっすよね?」

「当たり前!」

「おい、セイコ、僕たちは彼女を止めに……」

「馬鹿ね、こんな面白いこと生きててそうそうないわよ!?」

「はあ……」

「俺も混ぜてくれや。お嬢ちゃんがなにをするのか、全部見届けさせてくれ」

 それに、いざって時に俺の顔があるほうが動きやすいだろうぜ。マリは全員の顔を見まわして「ありがとう」と微かに笑った。手も足も、もう震えていない。


 室伏埠頭は、先日の水族館の程近くに存在する工業埠頭である。写真で調べるとやはり広く大きく、いくら人がいたとしてもこれを順番に調べていくのは得策とは思えなかった。むしろ、順番に調べるのなら隠密に、バレないようにしなければいけないだろう。

 マリは移動の間、後部座席の真ん中で、ずっと紙の地図と、スマホの地図アプリから航空写真を出して見比べていた。航空写真には沖を行きかう巡視船がうつり込んでいた。

「それで、俺達はどこから攻める?」

「地図で言うとこのあたりになると思うんですが、高速降りたら案内できると思います」

「ひょっとして、兄貴とデートで行った?」

 にやりと笑うシマに合わせてマリは、同じようににやりと笑った。「そうだよ」

「もしデートで使った時と同じ場所に車あ停めてたら、嬢ちゃん本格的に試されてんなあ」

「マリ、あんた大変な男を好きになったわね」

「今からでもやめておいた方がいいんじゃないか?」

「ううん」

 マリは地図を眺めながら短く言った。

「やめない」

 数週間前に訪れて、一番最初に海辺を歩いた時に車を停めた場所に、花見シイナの車が放置されていた。喜島は豪快に笑い、セイコとホムラは頭を抱えた。マリの予測通りであった。シマは迷うことなく輪留め様に置かれているブロックを持ち上げ、窓ガラスを叩き割った。運転席の座席の上にぽん、とそのままにされたスマホを掴み上げ、シマが電源ボタンを押した。

「クソッ、電源切れてやがる」

「マリ、モバイルバッテリー買ってたわよね」

「うん」

 ガラスの破片が付いてて危ないから、とシマはマリには触らせず、急いでモバイルバッテリーを繋ぎ、電源を入れた。

 PINコードを入力してください。と出る。

「パスワード!」

 シマがわっと叫んで慌てている。シマが慌てたので、セイコ、ホムラにも伝播して「た、誕生日とかじゃないの?」「兄貴の誕生日いつだっけ……」「馬鹿、あいつがそんな単純な番号にしとくわけないだろ」マリはセイコに揺すられても、彼らの焦燥に呑まれずに言う。彼女の周りだけ、別の空気が流れているようだった。

「0、5、2、1」

「は?」

「0521、入れてみて」

 シマは落ち着きを取り戻し、言われた四桁をそのまま入れる。ロックが解除された。見ていた喜島は「ほお」と声をあげる。

「何の番号だ?」

「私の誕生日です」

 セイコとホムラはまた溜息を吐いた。「はあ」「あいつこれで大したピンチじゃなかったら私たちでぶん殴ってやりましょ」「いや、元気に帰って来ても何か奢らせるべきだろ」二人は絶対にそうしてもらおうと頷き合っている。

「そうなんすか? 誕生日?」

「うん。私の誕生日。五月二十一日」

 覚えておこう、とすぐ自分のスマートフォンにメモをしはじめるシマに「別にいいよ」と笑うマリ。絶対に何かしらの大きなダメージを与えようと物騒な相談をするセイコとホムラ、喜島は、豪快に笑っていた。

 電源が完全に入り、待ち受け画面の情報が修復されると、付箋アプリでメモが貼り付けてある。

 全員でそれを覗き込んだ。

「室伏埠頭の五番倉庫」

「一番端の倉庫だ。海にも面してる」

 マリは地図を広げて場所を確認し、シマと喜島は電話をかけはじめる。たった今得た情報と、次の指示を伝える為である。

「よく知ってたな」

「この前後ろからみてて、見えたから」

「本当は?」

「……勘。めちゃくちゃ自意識過剰な勘」

「何言ってんの。当たってんだから正常な勘でしょ」

 それぞれ電話がつながると、マリの近くに集まってくる。

「お嬢ちゃん。のろけてる場合じゃねえぞ。これからの動きは」

「はい」

 マリはぎゅ、と両手を組んで、三秒後に話しはじめる。この時点で時刻は二十三時を回っていた。

「ジュウキチさん。船、用意できますか。できれば二隻。クルーザーくらいのやつと、モーターがついただけの、ええっと、屋根みたいなやつがない、モーターボート」

「おっ、かあさん。それ俺操縦できますぜ」

「うん。知ってるよ。頼むね」

「よっしゃ」

「それ以外の人は――」

 マリの言葉は淀みなく、喜島組の幹部たちに伝わっていく。


 マリの推測は正解だが、一つ間違っている。要素が一つ欠けていて、結果、間違った答えが導きだされていた。

 シイナは早瀬ユキに恩があるわけではない。恩があるのは、早瀬マリに対してであった。

 十年前、マリがまだランドセルを背負い始めたばかりの時だ。マリは突然、シイナの前に現れた。子供特有の好奇心がその道を選ばせ、丁度そこにシイナが居合わせた。

 当時既に喜島組に身を置いていたシイナは、一仕事終えて、その帰りであった。敵対していた組の若い連中に囲まれ、どうにか逃げ出したはいいものの、深手を負って動けなくなった。時間を稼ぐために路地に逃げたが、そこはどこにもつながっていない袋小路であった。

「い、痛い?」

「痛えに決まってんだろ」

 マリはシイナを見つけると隣に座り込み、涙目で、肩に深く突き刺さったナイフを見た。

「救急車?」

「呼ぶなよ。病院は絶対駄目だ」

「ど、どうして?」

「追われてっから」

 下手をしたら、彼女が今生最後に会話をした人間になるかもしれない、と思っていたからか、素直ににぺらぺらと話をした。

「悪い人に?」

「そうだよ」

「お兄さんは、じゃあ、どうしたら助かるの?」

「まあ、仲間が来てくれりゃ、助かるかな」

「仲間? お兄さんの仲間はいいひとたち?」

「たりめーだ」

「どのくらいできてくれる?」

「さあなあ。電話で位置は伝えたが、仲間が来るのが先か、悪い奴らがくるのが先かもな」

「悪い人がきたらお兄さんはどうなるの?」

 一目見て、なんだガキかとそう思った。話している内に、随分利口そうだと思った。お前はいまからどうなるのか。そう問いかけて来る彼女ともう一度目を合わせると、彼女は、自分まで何かと戦っているような、そんな瞳でシイナを見ていた。

「殺されちまう、だろうなあ」

 マリは周囲を確認した。ぐるぐると見回し、たかたかと走って、この先に道がないことを確認したようだった。ビルの非常階段はあるが、それ以外にここに入ってくる道は、大通りか繋がる一本だけである。

「お兄さん、ここ、ふくろこうじ、だね」

「んん? 難しい言葉知ってんな。俺あ最近覚えたんだが」

 マリは一度シイナの隣に座って、そっと血の付いた頭に触れた。大人が子供にするようにゆっくり撫でられる。

「わかった。なんとかしてみるね」

「はあ?」

 マリはにこりと笑って、路地を出て行った。一体なにをするつもりなのかと陰にかくれつつ見ていると、数度、深呼吸をしたらしかった。それから、誰もが振り返ってしまうような大声で。

「わああああああぁぁっ」

 泣いた。

 路地の入口で、座り込んで、涙を流して泣き始めた。

 小学生の女の子が一人、座り込んで泣いている。まずは近くに居た高校生が走り寄り、次に子供を連れた女性、老夫婦、連れている犬が役立つのではと犬を連れた男。人だかりができると、実際には一人いれば充分なのに、どんどん人が集まって来た。何事かと見に来てすぐに去って行く人もいたが、あまりにもマリが強烈に泣くものだから、なにか体に異常があるのではと救急車が呼ばれ、警察も呼ばれ、事情を一切説明せずに泣き続ける彼女は最終的に電柱にしがみ付いて、悲痛なくらいに泣いていた。警察は彼女を無理やりに動かすべきではないと判断し、ランドセルを開き、連絡帳に記載されていた電話番号に電話をした。

「おかあさああああぁん」と泣き続ける彼女は、警察官がもつ電話から母の声が聞こえると、「はやくむかえにきて」と叫んだ。

 警察がいればこの路地には近付くことすらできない。悪い人は入って来られない。シイナはとんでもないものを見ている気持ちになって、身体の痛みを忘れて見入っていた。

 そして後からユキに聞いた話だが、この時、ユキはマリが意味もなくそんなことをするはずはないと思っていて、わざとごちゃごちゃ言い訳をつけて、結局彼女が現れたのは三時間も後の事だった。人だかりはなくなったが、警察官とマリがずっといた。

 マリが時間稼ぎをはじめた二時間後に、非常階段から喜島ジュウキチが現れて、シイナを回収した。

 もう粘らなくてもいい、と伝えたかったが、その時はそのまま逃げた。

 よりにもよってあの道に警察が立ってたのは何事かと喜島が詰め寄ってくるので、信じて貰えるか不安に思いながら事情を説明した。

 喜島は半信半疑と言った様子だったが最終的には信用して「その子は将来大物になるな」と笑った。それはそれとして礼はするべきだ、と喜島とシイナは後日、早瀬家へと赴いたのだが、応対したユキはマリがしたことを聞くなり「あははは! そういうこと!」と笑っていた。

「お金はいりません。かわりに、どうか、娘が自分の力だけではどうしようもないことが起きたら、たすけてあげてください」

 喜島はそういうわけにはと何度も言ったが、結局逆に菓子折りを持たされて帰らされた。

「シイナくん。また遊びに来てね。マリの話をしてあげるから」

 ユキは、当時十九だったシイナに言った。喜島も、それはシイナの為になると判断したようで、いつか適切な時に恩を返すと、そういう約束で収まった。シイナがユキを尋ねるのは不定期であったが、ユキは必ずマリの写真を見せながら、彼女の成長について嬉しそうに話した。

 ある時、ユキが持って来たマリの成績表には、三重の丸が並んでいて、驚いたが、まあ彼女ならばそうかと納得した。

「マリさん、勉強できるんですね」

「そこはお父さん譲りね」

「……そうですか?」

 どちらかと言えば、マリは、この母親によく似ていると感じたが、母の方は勉強はからきしだったらしい。猪みたいに真っすぐにしか進めない。直感に頼ることしかできない。だから自分とは違う視点でものごとを考えられる人と結婚した、と語った。おかげで。

「おかげでマリは、私よりも、もちろん、お父さんより柔軟よ」

 冷静で、けれど大胆。真っすぐ真ん中を揺れながらでも歩いて行ける。ユキは胸を押さえて「本当に、宝物なの」とよく言っていた。

 一年、二年、五年経っても命を救われた恩を返すような出来事は起こらず、マリは中学生になり、活動範囲も随分増えたようで、町を歩いていても彼女を見かけるようになった。大抵は女友達と一緒だった。

「あっ」

 ――マリさん。

 時間を潰す為にカフェでぼんやり町行く人間を眺めていると、マリが友人を連れて歩いているところを発見した。連れは、手入れをしていないのか不揃いな髪型をしていて、ちゃんと食べているのか怪しくなるくらい細い奴だった。女かと思ったが、学生服が男のもので、シイナは一瞬頭の中が真っ白になった。

 持っていたアイスコーヒーのグラスを割った。内側に割れたので、破片が刺さって、コーヒーと血液とが混ざる。

 店員がタオルを持って走ってくる。

「嘘だろ。俺、今」

 マリのことを気にしているのは、恩を返すタイミングを計っていたからだ。時々母親に様子を聞きに行っているのだって、それだけの意味合いでしかない。シマが熱を出した時などに逆に知恵を借りたり、自分が若頭になった時に時計をプレゼントされたりしたが、それだけだ。

 だと言うのに、マリの隣に男がいることに、どうしようもなく狼狽えた。

「いいじゃん。十二歳差くらい私は気にしないけど」

 からりとユキは笑っていたし、そういう同僚もいないではないが、だが、自分がマリに向けている感情に気付いて、やはり、金だけ受け取って貰う方がいいのではと何度も言った。やはり、ユキは首を縦には振らなかった。

「今日もマリとは会わないの? 会っていったらいいのに」

 ――私がお金を預かってもいい。けれど、貴方が恩を受けたと思うのなら、その恩はやっぱりマリに直接返すべきよ。私が使い込んだり、お金が夫に行ったら夫が使い込んだりするかもしれない。だからきっと、マリが困った時に、助けてあげて。

 ユキは何度も同じ言葉を繰り返した。どうか、マリを。自分が助けられない時に、誰も助けられない時に、貴方の存在はマリにとって大きな盾になる。そんな大層なものではないとその度言ったが、ユキはやはり、何度も何度も、やわらかく首を振るのであった。

「そんな軽くいいますけどねえ、こんな男がいきなり現れたらドン引きでしょ」

「サングラス取って普通の格好したら大丈夫よ」

「とにかく、今年も会うつもりはねえんで」

「もう。仲良くなって欲しいのに」

 彼女が交通事故で死んだ日は、直前までユキと飲んでいた。「今日は外で飲もう」とユキに誘われて、居酒屋へ行った。ユキはマリが作った素晴らしい友達が二人についても詳しくシイナに話し、その友達とどう過ごしているかをマリに聴いた通りに教えてくれた。写真も見せられた。マリはいつも笑っている。

 じっと見ていると、ユキは決まって「大丈夫。ホムラくんとマリは付き合ってないから」と肘でシイナを小突いた。「ち、違いますよ。俺のは別に、そんなんじゃない」「またまたあ」そんなものではないと言い続けて、会わないと言い続けて、でなければ。

 でなければ。

 会ってしまったらきっと。

 ――シイナさん

 自分なんかのどこを気に入ったのか、マリはあの日、見たことがない笑顔で笑っていた。抱きしめると顔を赤くして、距離を取ろうとすると泣いて、幸せになれと言ったのに、シマと事務所まで来たりした。

 マリもシマも気付いていないに違いない。

 一度コーヒーを持ってそこに来てくれたという理由だけで、あれから毎日、もしかしたらまた来てくれるかもしれないと期待していた。

 助けたことになったのか。わからない。マリのことはわからないが、自分のことならばわかる。どれだけ、自分があさましく、マリのことを女として見ていたか、思い知らされる日々だった。

 もう、恩だとか、義理だとか、そんなものはどうだっていい。

 二人きりで過ごした時間は全てが夢のようで、二人で撮った写真を眺めてはもう死んでもいいなと思っていた。こんな日が来ることを、本当はずっと望んでいた。彼女の隣で、彼女の為に何かしたいとずっと思っていた。

「ちょっと、幸せすぎたんだよなあ……」

 だからこれくらいがちょうどよいのだと、シマはむしろ安心していた。

 目の前の男は顎と、頭に包帯をしている。そう言えば最近、顎を思い切り蹴った男が居たような。全然一般人なんかじゃなかったなと笑う。復讐はなかなかにねちっこく、腹を蹴られて転がされた。

「なにをごちゃごちゃ言ってやがる」

「なにって、明日の晩メシについてでさ。何食おうかってね」

 肩のあたりを鉄パイプで殴られる。

 両手は縛られていて手は出せない。足に拘束はないけれど、一本反対方向に曲がっているので立つことはできない。

 陰湿なことで、その折れた部分を思い切り押される「ぐ、ああぁっ」あの日、デートの締めに訪れたあの場所でマリに向かって行ったこの男は、相手がマリだと確認してから突撃した。マリはあの時スマートフォンを構っていて、顔は明かりで照らされていた。今日のことを見ればただの通り魔ではない。シイナには敵わないかもしれないとマリを狙ったのだろう。少しでも精神的な傷をつけてやろうと、そういうことに違いなかった。

 ――やっぱり、俺みたいな奴とは関わらねえほうがいい。

 関われば、これからもこういうことが起こるだろう。シマは今のところ四六時中べったりだが、そうじゃない時だってある。そういう時を狙われたら、マリはひとたまりもない。自分が生きている限り、マリは花見シイナの最大の弱味として存在し続けることになる。解消するためにはどうするのが一番か。

「花見シイナが、死ぬことだ」

 後の事は、組長が取り計らってくれるに違いない。だから大丈夫だ。自分の仕事はもう終わった。後は、マリが自由に生きてくれることを祈るだけである。

「聞こえねえっつってんだ! もっとハキハキ喋りやがれ!」

「がっ、あー、そもそも、お前とは話してねえんでね」

 時折、幸せな回想に激痛を混ぜて来るのをやめて欲しいし、殺すのであればさっさと錘をつけて海にでも沈めてくれればいい。だからこんなところに呼び出したんだろうに。シイナは溜息を吐いて。ついでに口の中に溜まった血を吐いた。

 ――い、痛い?

 マリの指は、あの頃と比べたら頼もしく大きくなったけれど、自分と比べたら随分と小さい。声が混ざる。今のマリの声とかつての、七歳のマリの声。

 ――痛くねえよ、大丈夫。

 あの時はどんな気持ちであそこでああして寝ていたんだったか、思い出すのが難しい。マリと出会ってしまって、それ以降は、いつもどこかで彼女に恩を返すまでは死ねないと思っていた。それまでは、どうやって生きていたのか、思い出せない。

 ――シイナさんは、どうしたら助かるの?

 今のマリの声で聞こえた。

 ――もう俺あ、助からなくていいんですよ。誰にも何も言わずに来たし、こんな場所にゃ誰もたどり着けねえ。外の警備だってそれなりに厳重ですから。

 ――シイナさんは、どうなるの?

 ――海に沈んで、魚の餌でさあ。

 包帯を巻いた男は、シイナの反応がイマイチであることが気に入らないらしく、何度も何度もシイナを蹴り飛ばしている。倉庫の正面のシャッターが半分ほど開いていて、そこを越えると、すぐに海だ。少しずつ、少しずつそちらに移動させられる。

 ――シイナさん。

 多く、そう呼ばれたわけではなかったが、今、マリがここにいるかのように、声がしている。蹴られ過ぎておかしくなったのかもしれない。

 ――なら、どうして、ここのメモを残しておいたの。

 ――そりゃ、決まってるでしょ。

「ああああっ、涼しい顔しやがって! お前のせいで! お前のせいで俺がどんな目にあったと思ってる!? 畜生! その薄ら笑いをやめやがれ!」

 サングラスはとっくの昔にどこかに飛んで行っている。時計は、まだ無事だろうか。

 ――マリさんが来てくれるんじゃねえかと。本当は思っているからですよ。

 自分の天邪鬼にも困ったものだ。

 笑うしかない。

 とうとう、倉庫の外に出た。月の出てない、暗い夜だ。長年そうしてきた癖で、つい、周囲を確認してしまった。闇ばかりで人影は見えないが、やはり何人か、ここの外を守っている人間はいそうな気配だ。

「もういい、さっさと死ね」

 包帯の男は部下に指示をして、錘を付けるように言う。三人ほどがシイナを囲って、それがまた面白くて笑ってしまった。大の男が三人がかりで、瀕死の男の体に重りをつけようとしている。滑稽だ。「はっ、」笑うと、また蹴られた。

 ぐったりとしたまま見た水平線で、何かがちかちか光っている。こんな夜中に働いている船があるのだろうか。

 きっとそれだけのことなのに、まるで希望の光のように見えて。

 声がした。

 ――わかった。なんとかしてみるね。

 聞こえてくるのは、見えて来るのはあの日のマリの眼差しと声。とてもわざと泣いているようには見えなかった。

 光が瞬く。

 船が見える。

 船が真っすぐこちらに向かっていて、その船は、大音量でハードロックを流し続けていた。聞き慣れた、シマが着信音に設定している音楽だ。

 シャウトと一緒に叫ぶので聞き取りずらいが、声は、確かに。

「シイナさーーーーん!」

 シイナは、ぐっと体を持ち上げて、腕だけで海の方へ進んだ。マリさん。船主に二人立っている。一人はスカートをはためかせて、もう一人は気づかわし気にそれを押さえて、じっとこちらを見つめていた。


 ここからだ、とマリは思う。

 できることは全てやった。

「若、見て下せえあれ……!」

「なんだありゃ……」

 包帯を巻いた男には見覚えがある。彼がこの場を取り仕切っているらしく、今、彼に情報が集まっている。

「あの船、後ろ、海保の巡視船連れてるんすよ」

「連れてるってよりゃあれは、あいつらが追われてんだろ……」

 巡視船に見つかったのは予想外だったが、人が増えるのはいい。民間の警備の船だけでも何隻か追いかけてくれれば威嚇に丁度良いと思ったのあが、少し増えすぎてしまった。操縦してくれている構成員は涙目である。

「若! 表、サツが来てます!」

「ああ!?」

 匿名で通報した。来てくれるかは賭けだったし、来なければスピーカーからサイレンの音で混乱させるつもりだった。しかしそこは、喜島が「まかせな」とウインクした。警察に知り合いがいたのかもしれない。

 主犯を含め全員が狼狽えていた。

「なんでここが、」

「さっさと逃げねえとまずいですよ!」

 言いながら、もう何人かは逃げ始めている。包帯の男は報告に来た男二人を振り払い、胸から拳銃を取り出した。

「せめて花見シイナだけでも始末して……」

 花見シイナは既にこちらで回収している。存分に注目を集めてくれた、セイコとホムラが船主に立ったクルーザーは追ってきている船を撒く為に走りだした。

「くそ、何処に!?」

 ぐるり、ぐるりと周囲を見回して、シイナの血の跡が、海の方へ続いていることに気付いたのだろう。包帯の男はこちらに近付いて来て、防波堤から下を覗き込む。そこに、貧相なモーターボートに、二人の人間。シマと、マリである。

 それから、男は、真ん中に横たわる、黒いシートに銃を向けた。

「こざかしい真似しやがってええ!」

 銃口とシートの間に割って入り、にやりと笑う。

 どん、と音を立ててマリが立ち上がる。

 右手を、振り払うようにかざして言った。

「今だ! 逃げろ!」

 マリが示した方向には、人影が三つ。中央に足を引き摺っている長身の影が一つ、如何にも怪我人らしきその一人を、左右の二つの影が担いで走り去って行くところだった。

「な、め、や、が、ってええええ!」

 包帯の男の視線から外れると、船はすぐに走り出す。銃弾は誰にも当たらなかったようで、包帯の男は悔しそうに叫んでいる。そして逃げなければと傍に来た部下を殴りつけている。マリは船にしがみ付いて、そっと黒いシートをめくる。

「シイナさん、ちゃんと、生きてますか」

 シイナはきつく目を閉じている。息はしているが、話をする元気はないようだ。防波堤から引きずり下ろした時の衝撃が大きかったようで、身体が痛むのかもしれない。

「にしても、いい位置にいてくれたっすね」

「その為に、セイコとホムラにはあそこに立って貰ったんだよ」

 マリはハンカチで、シイナの汗を拭った。暗くて怪我の具合はわからないが、足が曲がってはいけない方向に曲がっていたのは見た。

「なるほど。兄貴は俺とかあさんが大好きだから、きっと、誰が来たのか確かめるために、ギリギリまで寄って来てくれたってことすか」

「それもあるし、シイナさんなら、あれが私たちじゃないってわかった時、本物はどこにいるのか考えてくれるかと思って。なんにせよ、うまくいってよかった。あとはみんな、上手く逃げきれてるといいけど」

「大丈夫。ちょっとくらい捕まっても、今回俺達はなんにも悪いことはしてねえっすから」

「そういうものかな」

「そういうもんすよ」

 シマは、マリが何度も船を掴み直しているのをちらりと見た。手が震えている。その震えた手で、シイナを受け止め、助けてしまった。「ほんと、すげえや」ふと、逃げて来た倉庫の方を見る。もうあんな小さな拳銃ではここまで届かない。そもそも、走っている船にぶつけるなんてそんなことがあの男にできるとも思えなかった。

 しかし、シマは、包帯の男がさっきまでとは違う銃を構えているのが見えた。長い銃身、スコープを覗き、狙いを定めているのは。

「かあさん伏せろ!」

 シマの位置からでは手が届かない。「えっ」マリはきょとんとシマの方を見ていたが、シマの声に反応したシイナがマリを思い切り引き寄せた。右腕に抱きこんで、姿勢を低くさせる。

 何かが焼けた臭いがする。シイナは慌ててマリを見るが、怪我はなさそうである。髪を掠めた程度で済んだようだ。気持ちを引き締めて、自分も姿勢を低くして、波に隠れるように遠ざかった。

「あ、の、もう大丈夫です。ありがとうございました」

「ありがとう、ってねえ……」

「シイナさん?」

 シイナはマリに引っ掛けた腕を少しだけ緩める。マリはシイナの顔色を見る為に身体をずらして、至近距離で見つめ合う形になった。

「俺あ今、血生臭いですよねえ」

「え、まあ、血の臭いはします」

「しかたねえかあ。俺あ生来、血生臭え人間ですし」

「へ」

 もう一度、引っかけた腕に力を込める。

 マリに抵抗する力はない。

 鮮血が付いたままの唇と、マリの、数時間前から引き結び続けたせいで若干荒れた唇がぴたりとくっつく。

「――愛してます。マリさん」

 に、と吹っ切れたように笑って、もう一度マリを唇を合わせた。シマはこちらを見ない。シイナは自分の気力が続く限りにマリとの口づけを楽しんだ後、ずるずると沈むように腕から力を抜いていく。

「続きは、きっとまた今度」

 ばたりと船底に腕を打ちつけて言う。

「もう、限界、なんで」

 勝手だなあ、とは、マリの代わりに、シマが言った。


 セイコとホムラは「義理で」とぶっきらぼうに言った。「ここまで関わったらとりあえず生きてるの見なきゃ帰れないでしょ」シイナは喜島組と繋がりの深い病院で目を覚ますなり、高校生二人に悪態をつかれていた。

「焼肉。高級なところね」

「へいへい。わかったから帰れよ、うるせえなあ」

「そんな態度だとマリとシマも一緒に連れて帰るぞ」

「……マリさんは?」

「疲れて寝てるわよ。そこ」

 指で示されたのはシイナの腹の辺りで、見れば、確かにマリが突っ伏してぴくりとも動かない。「い、生きてるかこれ」「生きてるわよ。死んでたら今ごろアンタも生きてないから」吐き捨てるように言うと、セイコとホムラは席を立った。

 二人は本当にそれだけ言うと「じゃあ帰る」「シマ、また学校で」「へい。スイーツビュッフェの金も兄貴からせしめるんで楽しみにしてといて下さい」シマとだけ挨拶をして、組の人間を数人連れて帰って行った。あの二人を家まで送るよう言われているのだろう。

 残ったのはシマと、眠っているマリ。それから、喜島に、シイナである。

「えーっと、すんません。組長」

「今回のことはこのお嬢さんに免じてお咎めなしだ。ちょっと海保の連中に注意されたぐれえで、こちら側の怪我人はゼロだしな。全く大したお嬢さんだよ」

「かあさん起こしましょうか」

 シマがマリの肩を数回叩くと、マリは薄く目を開けた。「シマ……?」「シマっすよ」目を擦りながら上半身を持ち上げて、固まった体を伸ばしたところで、シイナに気が付く。シイナはといえば、マリにどう声をかけるか迷って、右手が宙を彷徨っていた。「あ」

「ど、どうも、マリさん」

「ああ。よかった。先生は命に別状はないって言ってましたけど、心配で。――あんなに血を流してる人を見るのは、人生で二度目です」

「へえ? あ、あの、それって」

「シマ、帰ろう」

「もういいんすか?」

「うん。元気そうな顔見られたから、満足。それにいつまでもいたら邪魔だと思うし、ゆっくり休めないよね」

「え、いや、あの、」

「ジュウキチさん。今回はお世話になりました」

「なんのなんの。表の世界で困ったことがありゃ、また頼ってくれや。腕のいい弁護士とか紹介してやるからよ」

「ありがとうございます」

「え、ええ? なん、え?」

 マリが、「それでは」と言うのと、シイナが「待って下さい」とマリの腕を掴むのは同時だった。マリはきょとんとシイナを見る。シマと喜島は揃ってにやにやしていた。

「マリさん……?」

「はい。あ、何か飲み物持ってきます?」

「いや、そうじゃなくて、」

 そうではない。シマと喜島は腹を抱えて笑いを堪えている。

「も、もう、帰っちまうんで?」

「え?」

「ははははははっ!」

 遂にシマが指をさして爆笑した。ここが個室でなければ大層な迷惑になっている。時刻は朝の五時である。「笑うんじゃねえよ……!」シマに向かう声も覇気がない。それがまた面白かったようで、シマは病室の床に転がって、ひいひい言いながら笑っている。

 喜島はどうにかくつくつと笑いを押さえながら、マリの頭に手を置いた。喜島に撫でられながら、マリは言う。

「どうかしました?」

「い、いや? えっと、だから、もうちょっと、ここに、いてもいいんじゃないですか」

「けど、先生が絶対安静って」

「うーーーん…………」

 シマの笑い声は留まるところを知らず、遂に涙を流しはじめた。「おもしろすぎる」と途切れ途切れに言うシマを睨み付けてから、シイナは力なくマリを見る。

 マリはこんなに察しが悪い女ではない。悪気はなさそうに見えるが、表には出てきていないだけでこれは、嫌がらせの類なのでは。

 今にも泣きだしそうな目でマリを見つめて「だから、その」「安静っつったって」「そんなにすぐに」と縋るように声を出した。マリを掴む腕から何度も力が抜けかけるが、これを離したら帰ってしまうと思うと離せない。離しそうになる度にぎゅっと掴み直す。

「……マ、マリさんは」

「はい」

「ひょっとして、俺のことが嫌いになったんじゃ……?」

「……」

 シマが、這うようにしてやってきて、がばりとマリに抱き付いた。「わあ」シマは壊れたように笑っている。「あってめえシマ」

「いやいや、兄貴、俺あ今日人生で一番笑いましたけどね、もうこれ以上は腹が捩じ切れそうなんで勘弁してもらえますか」

「そうだな、あんまり老体の心臓に負担かけねえでくれや」

「なんですか、組長まで」

「いいか、シイナ。お前、誰のおかげで今そうして情けねえことできてると思ってんだ? まずは言うことがあるだろうが」

 シイナははっと姿勢を正し、どうにかこうにかマリから手を離すと、足を吊っているので不格好だが、マリに深々と頭を下げた。

「この度は、大変なご迷惑をおかけしやした。この恩は、必ずお返しいたします」

「成功したのは、皆さんのおかげですよ」

「もちろん、迷惑かけた連中にも、きっちり礼させて頂きます。ですが、マリさんにはどうか格別にお礼がしたく……」

「だってよ。嬢ちゃん。どうする? 反省文でも書かせるかい?」

「そりゃあもう、何百枚でも、何千枚でも」

 シマはまた噴き出して「読みてえ!」と言うが、今回は喜島が「シマ」と諫めた。決定権はすべてマリにゆだねられた。シイナは今更になって、ここで一切の縁を切って欲しいと言われたらどうしようかと怖くなる。重りをつけて海に放り込まれるよりずっと恐怖だ。そんなことになったら、生き延びた意味があるだろうかとすら。

「早瀬マリ殿。俺からも正式に礼を言わせて頂く。うちの馬鹿息子の命を二度も拾って貰って、感謝してもしきれねえ。俺にできることがあれば、なんでも言ってくれ」

 さっきまで散々情けない顔で見つめていたマリの目を見るのが怖くて顔をあげられない。マリはじっと黙って、それから「じゃあ」と口を開いた。

「ジュウキチさんさえよければ、時々、シイナさんを貸して下さい」

「こんなもんでよければ、いつでも使ってやってくれ」

 シイナはぱっと顔を上げる、やはり嫌われたわけではなかったとわかり、それだけで全身から力が抜けるような気持ちだった。

「家具の組み立てるの手伝って貰ったり、荷物持って貰ったりしようと思います」

「下僕じゃないですか……」

「ちなみに、時々ってのはどのくらいの頻度すか?」

「え、そっか。でも、決めておいた方がいいよね。組の仕事があるだろうし。私たちも来年は受験だし」

 ううん、とマリは顎に指を添えて、じっと悩む。それから、妥当と思える数字を提案した。

「三か月に一回とか……?」

「えっ!? そんだけ!?」

 シイナの反応を受けて、シマがまた笑い始めてしまった。シイナは咄嗟に自分の口から出た言葉を省みて顔を赤くしている。耳から、首まで赤い。

「お前がそんなんでどうすんだ……、まあいいか。ならば三か月に一度、花見シイナを好きにしてくれ。粗相したら遠慮なく連絡をくれ。ほれ、連絡先だ」

「え、け、決定なんですか? さ、三か月で? 三日とかじゃなくて?」

「いい加減にしねえか!」

「いてっ」

 喜島は怪我人の頭をげんこつで殴り、シマは流石に哀れに思ったのか、シイナの頭を撫でに行った。「やめろ」とすぐに振り払われていた。どうせならばマリにされたい。とは言わなかったが、視線が言外に訴えていた。

「三か月に一回で」

「怒ってますか? っていうか、よければその内、見舞、とか……」

「三か月に一回で」

「そんな馬鹿な……!?」

 そんな馬鹿なことが。と項垂れる。シマと喜島は「それじゃあ帰るか」と言いながら、先に二人で病室を出て行った。残ったマリが、一歩、シイナに近付く。

「シイナさん」

「はい!? やっぱり週一にしますか!?」

 顔を上げたシイナに泣きそうな顔でにこりと笑いかけた。

「また、会いましょう」

 その言葉を使えるのが嬉しくて堪らないという風に彼女は笑っている。

 シイナはマリの腕をもう一度掴んで、自分の方へ引き寄せる。ぎゅう、と両手でしっかり抱き締めて、それだけでは足りなくて、擦り寄るように頭を寄せた。

「……はい。マリさん。また今度」

 喜島の手を上書きするように頭を撫でて、シマのにおいを打ち消すように体をくっつけた。外ではシマと喜島が待っているだろう。シマはともかく喜島を待たせるのはまずい。

「……」

「……あの、シイナさん」

 マリが困ったように言う。この程度では揺れてくれない。シイナは仕方なく、恥も外聞も捨てて本音を叫んだ。

「駄目だっ、離したくねえ! ねえ本当に帰るんですか? 帰ったら三か月も会えねえんでしょ!? 今日は泊まって行きませんか!? 泊まって行ってくださいお願いします!」

「ええ……」

「今日くらい、今日くらいいいじゃねえですか!」と駄々を捏ねるシイナは、なかなか出てこないマリを心配して戻って来た喜島にもう一度殴られ、マリを奪われ、二人はさっさと病室から出て行った。ドアが閉められ、病室に一人取り残される。

「はあ……。まあ、罰、だよなあ」

 頭が異常に痛むし、動悸も激しいので、眠ってしまうことにした。

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CRY OUT アサリ @asari_o_w

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