第一章 殺人

 二〇〇五年六月三日金曜日午後九時。東和銀行東新宿支店支店長の高原政信は疲れた表情で自宅への道を歩いていた。現在五十三歳。数年前に妻を病気で亡くして以来、娘の恵と二人暮らしであり、仕事が忙しいため、娘と話をする機会も少なくなっている。

 とはいえ、帰宅してから数時間は顔を合わせるので娘の近況くらいは知っているつもりだ。何より、帰りが遅い事もあって夕食は恵が作る事になっていて、政信が帰ってからそのご飯を一緒に食べるのがこの高原家における唯一の一家団欒であり、なおかつ政信にとってもっとも心休まる時間であった。

「今日は確か春巻とか言ってたな」

 政信はそう呟きながら家路へと急いでいた。春巻は政信の大好物である。ここのところ重要な取引が多く、それだけにストレスが多くなっている政信に対して、恵が気を使って好物である春巻を作ってくれると言ってくれたのである。それだけに、政信は内心嬉しい思いで一杯だった。今日は久々にビールでも飲みながら、娘と二人でじっくり話すか。そんな事を考えながら、彼は家に急いだ。

「ん?」

 だが、家に着いてみるとどうも様子がおかしかった。普段なら電気がついているはずの家が、いまだに真っ暗だったのだ。

 政信は首をひねる。この時間なら恵が帰っていなければおかしい。まして、自分に春巻を作ってくれると言ってくれた昨日の今日である。政信は不審に思ったが、このときはもしかしたら疲れて寝ているのかもしれないなどと考え、特に何か思う事もなくドアに手をかけた。

 が、開かない。鍵がかかっている様子だ。仕方がないので自分の鍵でドアを開けるが、家の中には人気らしいものはない。

「おーい、恵?」

 そう呼びかけながら、政信は家の中に入った。キッチンを覗くが、約束してあったはずの夕食の支度もできていない。不気味な静けさだけが、家の中を支配していた。

「恵、いるのか?」

 そう言いながら、二階にある恵の部屋を覗く。が、そこにも誰もいない。というよりも、学校に持っていっているはずの鞄さえ見当たらなかった。

「……恵?」

 ここに至って、初めて政信の胸中に不安がよぎった。何かがおかしい。政信は無意識に鞄を落とすと、玄関から飛び出して車庫に回った。帰っているなら、ここに自転車が駐輪してあるはずである。が、その自転車の姿もない。どうやら、恵はまだ帰っていないようであった。

 だが、遅くなるなら昨日のうちに自分に言っているはずである。急な用事だったとしても携帯に連絡があるはずだ。夕食の約束をしていた以上、そうでなくてはおかしいのである。

 ドクンと政信の心臓が鼓動を打った。不安に胸が押し潰されそうになりながらも、携帯電話を取り出して恵の番号にかける。が、電源が切られているのかつながらない。ますます不安が大きくなる。

 もしかしたら、連絡できないだけで友達と羽目をはずして遊んでいるのかもしれない。政信は一瞬そう考えた。いや、そう考えたかったというのが正しいだろう。だが、胸の中に生まれた不安は消え去る事はない。何か、とんでもない事が起こっている。そんな予感が嫌でも浮かんでくるのだ。

 政信が一一〇番の番号を押したのは、それからさらに一時間待った後だった。

「あの……娘が帰ってこないんですが……」

 それが、後に警視庁有数の難事件と呼ばれる事になった「荻窪女子高生失踪事件」の始まりであった。


『警視庁から各局、警視庁から各局。杉並区荻窪において女子高生が帰宅しないとの通報あり。先行した警察官の報告によると、事件性が非常に高いと思われる。付近所轄、及び周辺パトロール中の警察車両は、失踪者の捜索に当たれ。失踪者氏名は高原恵。中谷高校二年。服装は中谷高校のセーラー服。現住所は杉並区荻窪……』

 杉並区内にある荻窪中央署に警視庁通信司令室から入ったのは、午後十時半頃の事だった。荻窪中央署刑事課に詰めていた刑事たちは、その知らせに思わず顔を見合わせた。同時に、前のドアから刑事課長が飛び込んでくる。

「全員出動だ! 本件を現状における最優先事項とする。現場周辺の捜索と聞き込み、頼むぞ」

 その言葉に、刑事たちは一斉に立ち上がる。刑事課主任である落合礼三警部もその一人だった。今年五十歳。荻窪中央署一筋のベテラン刑事である。

「おい、蓮! さっさと用意して出て来い!」

「は、はい! ただ今!」

 落合の声に、部屋の奥から慌てた様子の若い女性が出てくる。尼子蓮。四月からこの荻窪中央署に配属になった新米の女性刑事である。文学少女のような黒縁フレームのメガネをかけ、どこか気弱そうな風貌をした長髪の女性であるが、それでも入庁からわずか二年程度で警察の花形部署である刑事課に配属されただけあって、見た目に反して地域課の交番時代の検挙率はかなりものもだったらしい。今は落合が教育係を勤めていた。

「遅いぞ」

「すみません。以後、気をつけますので……」

 フンと鼻を鳴らすと、落合は謝る蓮に目もくれずに入口へと向かった。蓮も後に続く。

「被害者の情報は頭に入っているか?」

「はい。中谷高校二年の高原恵さん、ですよね」

「これ、写真だ。よく見とけ」

 落合は出るときに課長からもらった被害者の写真を蓮に手渡した。

「いいか、今回はもしかしたらがありうるぞ。覚悟はしておけよ」

「は、はい」

 緊張した表情ながらも、蓮は頷く。それを確認すると、落合は歩く速度を速めた。

 警察の動きがここまで迅速なのにはわけがある。実は、ここ数日荻窪中央署管内では不審者情報が多数寄せられ、実際に女性が暴行されそうになるなどの被害が発生していたからだった。落合たちが恵の失踪をこの暴行事件の延長線だと考えたのも、ある意味やむを得ない事である。

 落合と蓮は覆面パトカーに乗り込み、落合の運転で署を出発した。落合たちの役目は現場周辺の捜索である。パトカーに乗った直後、それを補足するような無線が入った。

『本部から各捜査員へ。捜索対象は被害者の通う中谷高校、及び中谷高校から被害者自宅までの通学路近辺。通学路の詳細については……』

 本部から読み上げられる地名を、蓮は必死に地図を見ながら確認する。

『……なお、被害者は通学に自転車を使用。捜査員はこの自転車の捜索も視野に入れたし。以上』

 無線が終わると、落合は黙ってパトカーのハンドルを切り、割り当てられた担当区域へとパトカーを走らせた。しばらく、車内を無言が支配する。

「……そういえば、お前の出身高校も中谷高校だったか?」

 不意に、落合は助手席の蓮にそう尋ねた。

「はい。覚えておられたんですか?」

「部下の言った事を忘れるようじゃ、刑事なんかやってられないからな。それに、確か妹さんが同じ学校に通っているとも言っていた」

 落合の言葉に、蓮は一瞬黙った後、

「その通りです」

「妹さん、確か凛さんとかいったな」

「ええ。もしかしたら、失踪したこの子とも知り合いかもしれません」

「かもしれませんって、随分曖昧だな」

「最近はあまり話もしないものでして……」

 蓮の言葉に、落合は考え込む仕草を見せた。と、そのとき再びパトカーの無線が鳴った。

『本部より八〇三号車、応答願います』

 落合が目で合図し、蓮が無線に出る。

「八〇三号車、どうぞ」

『本庁の誘拐特別捜査班が被害者の自宅に到着。その補助及び被害者の親族への聞き込みをお願いしたし。被害者の自宅へ向かってください』

「了解しました」

 蓮が無線を切ると、落合は黙ってパトカーの行き先を恵の自宅へと変更した。

「本庁の誘拐特別捜査班……」

「ま、営利目的の誘拐事件の可能性も捨てきれないって事だな。妥当な処置だよ。ちょうどいい、俺も被害者の情報は知りたかったところだ」

 誘拐の可能性がある以上、覆面とはいえ自宅横にパトカーを乗りつけるわけにもいかない。落合は近くのコインパーキングに覆面パトカーを駐車すると、その後は蓮と二人で歩いて高原家に向かった。ドアをノックすると、中から厳しい表情の男が姿を見せる。一目見て自分たちと同類……警察関係者だと蓮は気づいた。

「荻窪中央署の落合です。こっちは尼子」

 蓮は小さく頭を下げる。それを聞いて、男は無言で二人を中に招き入れる。二人が中に入ると、男はそこで初めて声を発した。

「急にお呼びたてして申し訳ありません。警視庁刑事部捜査一課誘拐特別捜査班の真鍋です」

「状況はどうなっていますか?」

「とりあえずマスコミとは報道協定を結び、電話の逆探知装置などは設置しましたが、はっきり言って望み薄です。電話どころか犯人からのアクションは一切なし。営利目的の誘拐の線はかなり低いと思われます」

 真鍋は厳しい表情を崩さない。

「すぐに事件性ありと判断されたのはなぜなんですか?」

「最初の通報の後、先行して到着した交番の警察官が被害者の友人たちに電話で聞いたところ、部活を終えて校門の前で別れるまではまったく変わったところはなかったとの事です。それどころか『これからご飯を作らないといけないから、早く帰らないと』とまで言っていたそうです。学校から家まで自転車で二十分程度。にもかかわらず被害者はその後三時間経っても帰宅をしていない。何かあったと考えるのが妥当です」

 真鍋と落合は互いに情報を共有し、蓮はそれを必死に手帳に書きとめる。

「ご家族は誰がいるんですか?」

「父親だけです。母親はすでに亡くなっているようで。通報したのも父親でした」

 そう言うと、真鍋は二人を奥へと案内する。捜査員たちが逆探知捜査などをセッティングしている横で、憔悴しきった男性が一人頭を抱えて座り込んでいる。

「父親の高原政信さんです。対応、お願いしてもいいですか? 私は向こうの指揮を執らなくてはいけないので」

 真鍋の言葉に、落合は頷く。二人が近づくと、政信は顔を上げた。

「荻窪中央署の者です。高原政信さん、ですね?」

 政信は黙ったまま小さく頷き、かすれた声でこう尋ねた。

「娘は……無事なんでしょうか?」

「……今、警察が総力を挙げて捜索しています。それで、いくつかお尋ねしたい事が」

「何でしょうか?」

「恵さんの行きそうなところに心当たりはないでしょうか? 現在は学校から通学路を中心に捜索していますが、それ以外にあるようでしたらぜひご指摘願いたいのです」

 丁寧に尋ねる落合に対し、しかし政信は力なく首を振った。

「わかりません。今日は私の好物の春巻を作ってくれると昨日から約束していたんです。その約束を破ってまで行く所なんか、想像もできません」

「その春巻の材料は普段どこで?」

「通学路の途中にあるスーパーマーケットです。でも、材料自体は昨日のうちに買い込んでいたみたいなので、今日寄ったとは考えにくくて……」

「そうですか……」

 落合は小さく頷くと、蓮の方を見た。何か聞くことはないかと促す。

「え、ええっと。特には……」

 蓮が口ごもったそのときだった。不意に部屋の戸口から真鍋が厳しい表情で顔を出した。落合たちは政信に一礼して戸口に向かう。

「捜索中の捜査員から連絡です。通学路を一通り調べたそうですが、それらしい人物は発見できなかったと。それと、念のために中谷高校の敷地内も無理を言って調べたそうですが、こちらも収穫なしだとか。ただ、校内の自転車庫に彼女の自転車はなく、彼女が帰宅したのは間違いないようです」

「そうですか……」

「範囲をさらに広げて捜索が行われるようです。それと本部としては、朝まで待って犯人からの連絡がない場合、公開捜査に踏み切るつもりのようです。一応、その旨の許可を高原さんからもらっていただけませんか?」

「わかりました」

 落合が再び政信の前に立ち、事情を説明する。

「公開捜査、ですか?」

「ええ。朝になった段階で犯人から何の連絡もなかった場合、ですが」

「それで娘は……娘は助かるんですか?」

 すがるように言う政信に対し、落合は言葉を濁すしかなかった。

「わかりません、としか現状では言えません。とにかく、我々も全力を尽くしますので、何とか許可していただけないでしょうか?」

「……考えさせてください」

 政信は振り絞るようにそう言うのが精一杯だった。落合としても、それ以上は強く言えない様子で、ただ黙って頷くしかなかった。

 それから長い時間が流れた。警察関係者たちは夜を徹して恵の捜索に当たる。だが、一向に彼女が発見されたという連絡は入らない。犯人からの連絡も入る気配は一切ない。次第に、捜査員たちの間にも焦りの色が滲み出てきた。

 やがて日付が変わり、そのまま何も進展しないまま時間だけが過ぎていく。そして、午前七時になろうかというところで真鍋が決断した。

「ここまでです。落合警部、これより公開捜査の申請を行いたいと思います」

 重い決断だった。仮にこれが誘拐事件だった場合、犯人が逆上するリスクが出てくる。しかし、事態はもはやそんなことを言っていられるような段階ではなくなっていた。落合も重苦しく頷き、政信の元へ向かった。政信には蓮が付きっ切りで対応していたが、緊迫した様子の落合に蓮も不安そうな表情をする。

「政信さん、ご決断をしていただけませんか?」

 その言葉に、政信は空ろな視線を落合に向けた。

「公開捜査、ですか?」

「はい。残念ですが、これ以上は警察だけでは限界があります。一般市民からの情報を求めるのが得策かと」

 落合はあえて感情を殺して迫った。だが、それで政信にはすべてが伝わったようだった。

「……決めなければいけないんですね」

「はい」

 そう言われて政信はなおもしばらく迷っているようだったが、やがてゆっくり立ち上がって口を開いた。

「……よろしく、お願い……」

 まさにそのときだった。警察無線から緊急連絡が響き渡った。

『警視庁から各局、警視庁から各局。杉並区荻窪の女子高生失踪事件に関して緊急報告。杉並区荻窪の中谷高校横の廃工場にて中谷高校の制服を着た女性の遺体が発見されたとの通報あり。容姿及び所持していた学生証から本事案被害者の可能性が高い。捜査員は至急現場に急行せよ。繰り返す……』

 その瞬間、政信は顔面蒼白となってその場に崩れ落ちた。

 事件発覚から約九時間後、事態は唐突に最悪の結末を迎えたのだった。


 六月四日土曜日午前八時半。すでに日は昇り、中谷高校の前には部活のために登校してきたと思しき生徒たちの姿が何人か見える。が、そんな生徒たちも校門前に陣取る警察関係者の姿に、何事が起こったのかと怪訝な表情をしている。

 警察関係者が慌しく出入りしているのは、中谷高校そのものの敷地内ではなく、中谷高校の隣にある小さな廃工場であった。数ヶ月前に経営不振で破産し、近々取り壊しも決まっていて人気がなくなっていたこの工場であるが、その敷地は今また多くの人々でにぎわっていた。もっとも、その大半は警察関係者だったわけであるが。

 政信を乗せた落合たちのパトカーがこの現場にやってきたとき、すでに現場周辺には何人かのマスコミ関係者の姿も見えた。政信の姿を見るといっせいに駆け寄ってくるが、それを刑事たちが押しとどめ、その隙に落合と蓮がそのまま政信を現場に連れ込む。

 政信は昨晩から立て続けに起こった出来事にほとんど放心状態であったが、それでもまだ恵が生きているかもしれないという希望でここまで持ち堪えてきた。

 だが、もはやそれも折れかけている。落合たちに先導されて工場の中に案内される政信の足取りはもはやおぼつかない状態で、壁に手をつきながらよろよろと足を進める状態である。廃工場は最近つぶれたにしては瓦礫だらけで、雨ざらしになっていたせいか置かれている機械類もほとんどが錆びついている。おそらくは不良か何かのたまり場になっていたのだろう。あちこちに落書きのようなものも見える。

 そんな工場の一番奥、おそらくは事務室か何かだったと思われる部屋の床に、それは横たわっていた。

「め、恵……」

 一目見てわかった。わからないはずがなかった。会話が少なくなったとはいえ、妻が死んだ後かわいがって育てた我が子である。だが、その我が子は硬く目をつぶり、青白い表情で冷たくなっていた。衣服などに乱れはなく、一見するとまるで眠っているかのようにも見える。しかし、首に残った絞殺痕が、彼女の死を明確に証明していた。

「う、うわぁぁぁぁ!」

 政信は絶叫しながら床に突っ伏し、頭を抱えてうずくまった。警察にとっては、それで充分だった。政信が連れて行かれた後、落合が遺体を見ながら厳しい表情をする。

「最悪の事態だ」

 落合はそう言って上を見上げた。そこには工場の鉄骨に結び付けられるように、一本のロープがぶら下がり、その先端が大きな輪になっている。発見当時、恵はこのロープに首を吊ってぶら下がっている状態で発見されていたのだ。近くには踏み台にしたと思しき椅子まで転がっており、その傍らに首を吊ったロープの余りらしきものが落ちている。どうやら、このロープは元々この工場に破棄されていたものらしい。

「自殺、ですか?」

 蓮が口を押さえて青ざめながらそう尋ねる。だが、落合はその問いには答えず、逆に近くで作業している馴染みの鑑識員にこう尋ねた。

「自殺……じゃないよな」

「ああ」

 鑑識の簡単な答えに、蓮はギョッとした表情をする。続けて、鑑識ははっきり言った。

「偽装はしてあるようだが、あんたの予想通り、殺しだろうな」

 その言葉に落合は頷く。蓮はわけがわからず鑑識に尋ねた。

「何でそんな事がわかるんですか?」

「少し見ただけではわからないが、索状痕が二本ある。一つはあのロープのものだが、これはおそらくは死後のもの。もう一つ別の痕があって、鬱血の具合からするとこちらが本命だ。ご丁寧にも被害者が抵抗した際につける引っかき傷まである。自殺ならこうはならない。一応踏み台の椅子を置いてはいるようだが、その椅子の上からは被害者の靴跡は検出されていない。明らかに自殺に偽装した殺人だ」

 その説明に相変わらず青ざめながらも納得した様子の蓮を尻目に、落合の視線は床に横たえられている少女へと向く。ここから先は、本格的な殺人事件の捜査となる。だが、現場にいる刑事たちの間にはなぜか重苦しい雰囲気が漂っていた。

「これは長引くかもしれないな」

「え?」

 その言葉に蓮が思わず聞き返そうとしたときだった。不意に、蓮の携帯電話が鳴った。表示を見ると、ディスプレイには馴染みのある名前が浮かんでいる。

「……妹さんか?」

 背後から落合に呼びかけられて、蓮はビクリと体を震わせた。

「どうして……」

「被害者は中谷高校の生徒だ。しかも学校の隣でこの騒ぎ。同じ学校に通っている妹さんが気にしないわけがないだろう」

 そう言うと、落合は出るように促す。

「いいんですか?」

「あぁ。どのみちすぐに被害者の素性は公開される。それに、こうなったら学校の生徒たちに聞きたい事もある」

 その言葉に蓮は小さく頭を下げると、現場の隅で電話に出た。

「もしもし」

『お姉ちゃん!』

 電話口からは……中谷高校新聞部二年の尼子凛の切迫した声が聞こえてきた。

「どうしたの? 今こっちは立て込んでいるんだけど……」

『恵が行方不明になったって本当?』

 ずばり核心を突いてくる。蓮は押し黙った。

「……どうしてそれを?」

『もう学校中で噂になってる。しかも、学校の近くが騒がしいって……』

「あなたは今どこに?」

『学校にいるよ。朝から部活だったから。今は部室で待機してる』

「そう……」

『それで、恵は……』

 蓮は一瞬黙って逆に尋ね返した。

「凛ちゃん、あなた高原恵さんとは知り合いなの?」

『うん。同じ部活』

 悪い予想が当たってしまった。まさか凛の友人だったとは。

『ねぇ、まさか恵……』

 その言葉に、蓮は迷うように落合を見た。落合はそれで会話の内容を悟ったらしく、黙って頷いた。それで蓮も決心がつく。

「ここだけの話にしてね。今朝、学校の横にある廃工場から遺体が見つかったの。恵さんのお父さんが確認したわ。……高原恵さんで間違いないと思う」

 その瞬間、電話の向こうで凛は絶句した。

『嘘……』

「これから捜査が始まるの。多分、凛ちゃんにも話を聞く事になると思う」

 その瞬間、電話口の向こうから電話を落としたような音が聞こえ、そのまま電話は切れてしまった。蓮は悲しそうな表情で自分の携帯電話を見下ろすしかなかった。


 事件の発覚の翌日、すなわち六月五日日曜日。荻窪中央署に正式に捜査本部が設置され、この「荻窪女子高生殺人事件」は本格的な捜査が始まった。警視庁刑事部捜査一課からは、誘拐担当の真鍋が撤収した代わりに殺人担当の捜査班が派遣され、さらに捜査本部長として本庁刑事部捜査一課管理官が臨席するという物々しい体制が形成されつつあった。

「えー、それではこれより第一回目の捜査会議を行う」

 管理官の指示で、本部がおかれた会議室内に緊張が走る。それと同時に、本庁捜査一課から派遣されてきた初老で痩身の警部が立ち上がった。

「改めまして、この事件の指揮を採らせていただきます、警視庁刑事部捜査一課第一係係長の国友純一郎です。よろしくお願いします」

 丁寧な国友の挨拶に、居並ぶ刑事たちがざわめく。警視庁刑事部捜査一課には十二の殺人担当の捜査班が存在し、捜査に精通した十二人の腕利きの警部がそれぞれの係長として各捜査班を率いているが、国友率いる第一係……通称「国友班」はその中でも検挙率が高い捜査班の一つとして所轄の間でも有名だった。係長の国友純一郎は『捜査一課の生き字引』ともされる存在で、丁寧な物腰とは裏腹に犯罪者を容赦なく追い詰める姿勢から、犯罪者の間では『黒紳士』の異名で呼ばれているらしい。

「国友警部が出てくるなんて……」

「つまり、本庁もそれだけ本気って事だ」

 会議室の中頃の辺りで、捜査会議に参加していた落合と蓮が小声で言葉を交わした。

「では、事件の詳しい説明をお願いします」

 その言葉に、所轄署を代表して落合が立ち上がって報告する。

「被害者は中谷高校二年生の高原恵、十七歳。六月三日午後六時頃、普段通りに部活を終え校門前で友人と別れた後で行方がわからなくなり、帰宅した父親が午後十時頃に警察に通報しました。翌日、すなわち六月四日午前七時頃、中谷高校横の廃工場の中で中谷高校のセーラー服を着た女性が首を吊っているのを、警察の要請を受けて敷地を確認しに来た不動産会社の社員が発見。所持していた学生証及び被害者の父親による確認から、この遺体が被害者・高原恵である事が確認されました。なお、失踪中に犯人等からの自宅への連絡は一切なく、営利目的の誘拐殺人事件とは考えにくいと思われます」

 落合が発言を終えると、続いて鑑識が立ち上がった。

「司法解剖の結果、死亡推定時刻は六月三日午後六時から午後七時の間と推測されます。死因は頚部圧迫による窒息死、いわゆる絞殺です。遺体は現場の鉄骨に結び付けられたロープに吊るされた状態で発見されていますが、首に残された索状痕が二種類あり、このうちロープによる絞め跡が明らかに死後のものである点、また、踏み台にしたと思われる椅子から靴跡等が検出されなかった点から、これらは自殺に見せかけるための偽装工作であると判断します。直接的な死因になったのはもう一方の絞め跡で、こちらは遺体が吊るされていたロープよりも細いもので絞められています。実際の凶器が何なのかは不明です。また、この絞め跡には被害者が抵抗した際にできる傷跡、いわゆる吉川線が確認できました。以上の点から、本件は自殺ではなく何者かによる他殺である可能性が高いと考えられます。なお、遺体の着衣に乱れはなく、暴行の痕跡も確認できませんでした。また、遺体の抵抗の具合などから、殺害には最低でも十分程度の時間は必要であると判断します」

 続いて、蓮が立ち上がってたどたどしい口調ではあるものの事件の情報を読み上げる。

「え、えーっと……被害者の事件当日の行動について説明します。被害者は学校では新聞部に所属していて、事件当日も午後六時までは部活に参加していました。これは同じ部活の友人たちの証言で間違いありません。部活終了後、被害者はその友人たちとともに帰宅を始め、学校の自転車庫から自分の自転車を持ってきた後、午後六時十分頃に校門前でその友人たちと別れています。これが現段階における被害者の最後の目撃証言です」

 蓮は手元の資料をあさりながら、報告を続けていく。

「えっと、学校から被害者の自宅まで自転車で二十分程度かかります。当日、被害者は父親に夕食を作る約束をしていて、友人たちにも寄り道をせずにまっすぐ帰る旨を喋っています。にもかかわらず、被害者は結局帰宅せず、午後九時頃に父親が帰宅して事態が発覚しました。以上から、現時点では校門で友人たちと別れて以降の被害者の足取りがつかめない状態です」

 そこまで言い終えると、今度は再び落合が立ち上がって蓮の報告を補足した。

「現段階では遺体を現場に運び込む不審者等の目撃情報等は一切確認されていません。同時に、犯人がわざわざ遠距離から工場に遺体を運び込むメリットもなく、また遺体に遠距離を動かされた痕跡も確認されていません。これらの情報を総合すると、被害者の実際の死亡場所は現場もしくは現場周辺である可能性が非常に高いと考えられます。すなわち、被害者は自身の意思なのか強制なのかはわかりませんが、死ぬ直前に現場周辺へ戻っていた可能性が高いと思われるのです。ただし、その理由は不明です。普通に考えて可能性として考えられるのは、学校に忘れ物を取りに帰った、というものくらいですが……その辺りは調査が必要です。一応、学校の彼女の机や、所属している新聞部の彼女のデスクも一通り調べてはいますが、これといったものは発見されていません」

 その事実に室内がざわめく。落合は言葉を続けた。

「なお、被害者が乗っていた自転車は遺体発見現場の工場の片隅に放置されているのが見つかりました。ただし、自転車のかごに乗せられていたはずの被害者の鞄の行方は現在もわかっていません。犯人が持ち去ったものと見て間違いないと思われます。現場からは被害者のポケットの中に入っていた携帯電話と財布のみが発見されており、財布の現金は手付かずの状態でした。ちなみに、身元確認に使った学生証はこの財布の中に入っていたものです。携帯電話は電源が入っておらず、怪しい着信等は確認できません。そもそも、履歴を見る限りは昼過ぎにクラスの友人と通話したのを最後に携帯は一切使用されていない様子です。詳しい事に関しては今後電話会社に問い合わせる必要があります」

 国友は頷くと、今度は自分からいくつか質問を加えた。

「被害者の行動ですが、通学路に設置されている防犯カメラ類の確認はどうですか?」

 その言葉に、別の刑事が立ち上がって答える。

「確認はしていますが、何しろ帰宅時間だけあって同じ中谷高校のセーラー服を着た自転車に乗る生徒の姿も多く、特定はかなり困難です。一応、科捜研に回すつもりではありますが、あまり期待はできないかと」

 あまり芳しくない報告だったが、国友はある程度覚悟していたらしく、幻滅する様子もなく話を進める。

「では、現時点における容疑者等の情報に関しては?」

 これには再び落合が立ち上がった。

「実は、最近この荻窪管内では不審者の目撃情報が相次いでいました。中には暴行寸前に至ったケースもあり、署内でも警戒を強めようとしていた矢先の出来事だったのです。まず考えられる可能性としては、この連続暴行犯による犯行がエスカレートしたのではないかというものです」

「暴行犯の目星は?」

「何人かにまで絞り込めてはいますが、これから更なる検証が必要です」

「なるほど。では、被害者の身近な人間に関しては?」

 これについては蓮が立ち上がった。

「えっと、まず被害者の父親ですが、死亡推定時刻に勤務先の銀行で仕事をしていたというアリバイが確認されました。被害者との仲も良好で、容疑者圏外と考えても問題ないかと思われます。。また、軽く話を聞いた限りですが、最後の目撃者である新聞部の友人たちにも一応のアリバイがあるようでした。それ以外の人間に関してはこれから聴取を進めていきますが、現段階では被害者を殺害するほどの動機を持った人間は見当たりません」

「動機の解明……これも重要ですね」

 国友はそう言ってしばし考えていたが、やがてこう告げた。

「まずは被害者の動向の徹底的な捜査。それと被害者に対する動機の解明です。合わせて問題の不審者や周囲の人間に対する捜査もお願いします。必ず解決しましょう」

 その言葉に会議室内の刑事たちがいっせいに頷くと、そのまま立ち上がってそれぞれの捜査に取り掛かった。落合と蓮も部屋を出て捜査に向かう。

「あの、聞いてもいいですか?」

 と、蓮がおずおずと落合に声をかけた。

「どうした?」

「落合さんは、現場で『これは長引くかもしれない』とおっしゃっていましたが、それはどういう意味だったんですか?」

「何だ、まだ覚えていたのか」

「えぇ、まぁ」

 落合は小さくため息をつくと、新米刑事の質問に答えた。

「今回みたいな帰宅中の女性が何の前触れもなく襲われて殺害される事件は、捜査が長期化して犯人の特定に手間取るケースが多い。それでちょっとな」

「そ、そうなんですか?」

「あぁ。この手の事件は犯人の特定のしやすい怨恨動機の殺人と違って、被害者個人に対して特定の動機のない通り魔的な犯罪が多い。だから、犯人の特定が困難を極めることが多いんだ。しかも目撃者もほとんどいない上に証拠も乏しいから、犯人が特定できても裁判の維持が難しい事が多い」

 そう言いながら、落合は鋭い視線を蓮に向ける。蓮はその視線を受け止めながらも、しっかりと返事を返した。

「という事は、今回も?」

「現段階では被害者に恨みを持つ人間は浮上していない。そもそも、ごく普通の女子高生に恨みを持つ人間がいるとも思えない。こうなると、さっき言った不審者を筆頭に、通り魔的な殺人を疑わないとならない……」

 落合の視線はいつも以上に厳しかった。

「この事件、相当長引くと覚悟しておけ」

 落合の言葉に、蓮は黙って小さく頷いた。


 そして、この落合の懸念は、やがて現実のものとなる。

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