6

 全身が震えるほど寒い。「ぅ……」とどこか遠く自分の声を聴いた。

 目を開けると眩しい。ザワザワと人だかりができて、マスクの背の高い人たちに囲まれていた。

 太陽の光が目に痛く頭がぐらぐらする。顔の半分が道路についてザラリと冷たい。どうやら朝まで、道路で寝ていたようだった。

 逆光で顔が見えない一人、警察官の男がしゃがみこんで繭に目線を合わせ、聞く。

「大丈夫?立てる?こんなところで寝ていると危ないからね。氏名年齢住所、言えるかな?」



『花乃園神社』と書かれた石の鳥居は、倒れた繭のすぐ後ろに立っていた。

 朝日が境内を照らし、葉のない木々に囲まれて参道が続く。提灯の明かりは消え、ゴミをくわえたカラスがポンポン跳ねていた。



 繭はそのまま、最寄りの交番に保護された。必死の抵抗や黙秘にも関わらず、お母さんは電話一本で呼ばれて電車で迎えに来た。


 お母さんは仕事の後そのままだったのか、濃い化粧で目の下まで黒かった。ボロボロの赤いGUCCIの鞄を持って、飾りのパワーストーンがジャラジャラ鳴る。それで交番に来るや否や、顔を真っ赤にして半泣きで叫んだ。

「バカ!このクソガキ何やってんだ!心配させんなブス!!」


 お母さんからは染み込んだ酒の匂いがした。警察官が奥からも出てきて増えて、「まぁお母さん、落ち着いて」となだめる。


「お母さん、もうちょっと穏やかに。あとそれはないでしょう、この位の年の子供はどんなことも、周りの大人から吸収しますから」

「は?じゃあお前アタシの育て方が悪いって言いたいのかよ、どいつもこいつも何もしねぇで、口だけ達者に出しやがって。じゃあお前一人で仕事して家事して子育て全部完璧にやってみろや、ああ?できんのかよカス!」

「お母さん、もうちょっと声を小さくして。娘さん見てますからね」


 警察官は壁のように並んで、迷惑そうな困ったような顔で、上から下までお母さんを見て、繭を見た。


 繭はパイプ椅子に座って下を向いてリュックを抱きしめた。それでも交番の中でアイスピックは役に立たない。

 繭はアイスピックではなく言葉で、戦わないといけないと思った。ここでは言葉を使って、繭とお母さんを全部から守らないといけない。


 リュックを抱えたまま警察官の人たちの話をよく聞いて、表情を順番に見た。

 一人の中年の警察官が、少しタカギに似ていると思った。

 タカギより痩せていて背も低い、ただどことなく雰囲気が似ている。それは多分、早く去ってほしい面倒に遭った大人が、でも礼儀正しさを装った、きっと冷たい顔なんだと思った。


 繭は恐る恐る、でもじっとその警察官を見上げる。警察官はすぐに気づいて、目付きをそのままに口の両端だけ持ち上げて静かに言った。

「繭ちゃん」

「……」

「どうして一人で来ちゃったの?誰かと待ち合わせして会ったりした?」


「……うざ」

「うん?」


 中年警官は表情を変えず、聞こえないふりをしてくれた。もう一度助け舟をくれる。

「どうしてここまで来たの?理由を教えて」

「…………う、ざくて、じゃなくて、ストレスで!」

「うん」

「が、学校とか、家とか、コロナ怖いし、全部ストレスで、どっか違うとこ行きたいって思って……でも、ご飯食べて神社行って、気付いたら寝てた」


 お母さんが傷ついたような顔をして振り向いた。呻いて、泣きながらその場に座り込む。お兄さんの警察官が、ティッシュを箱で渡そうとして、受け取ってもらえずにオロオロした。



 その後は「変な人に会わなかったか、変なことをされなかったか」と何度も確認するように聞かれた。

 繭は神社で会った変な志貴の話をして、警察官は微妙な顔をした。

 タカギは親切だったし、トモヤには繭の方が変なことをしたので、それは黙っておくことにした。


「う~ん……繭ちゃんとっても怖かったから、悪い夢でも見たんじゃないかな。これからはもうお母さんに心配かけないで、仲良くやっていくんだよ。今後都心には必ず、昼に大人と一緒に来ること。世の中には良い人もいて怖い人もいるからね。怖い場所だって少しある」


 繭は険しい顔をしてうなずく。お母さんは鞄のパワーストーンを一つ外して、繭に渡して握らせた。



 新宿駅に向かう帰り道、お母さんは無言だった。

 寝不足のせいか酷く陽の光が眩しい。顔のはっきりしない通行人が、今日も蠢くように流れていく。


 駅前ALTAビルの上に付いたスクリーンでは、ニュースキャスターが不倫した芸能人の悪口を言っていた。

 下にはホームレスのお爺さんが段ボールと落ちている。まだお爺さんの仲間は迎えに来ないんだと繭は思った。冬の夜は寒かったから、早く来てあげてほしい。



 JR東口から地下に入ると、一気に人が増えぎゅうぎゅうになった。お母さんは慣れない様子で繭の手を掴む。サイゼリアのラテン系の店員さんと比べて、すぐにほどけるような遠慮がちな握り方だ。

 駅構内はもう眩しくないのに、目の奥が熱くなった。


「お母さん……」

「あ?」

「……新宿、空眩しい」


 振り返ったお母さんも、不思議と眩しそうな顔をしていた。

「……バーカ、どこも変わんねぇよ。今までお前の目が開いてなかったんじゃねぇの。いつも眠そうな顔しやがって」

 お前は父親似だからなぁ、お母さんは穏やかに言って、下手くそに口元を歪ませた。笑ったように見えた。


 帰り道の駅のトイレでアイスピックを捨てた。アイスピックは先端がケチャップのような何かで赤黒く、コートを突き破って飛び出ていた。ポケットには結局、小さな穴が残った。カッターは持って帰って、学校用の筆箱にしまった。


 ◆


 火曜日はいつも通り学校に行った。久しぶりに来ても勉強は難しいし、友達の話はダラダラと好奇心ばかりが刺さって不愉快だった。

「ね。繭ちゃん昨日何で休んだの?」

「さぼり?風邪?コロナ?熱ある?」

「膝の傷どうしたの?繭ちゃんのお母さんまた何かしたの?」


 繭は気を付けて相手の言葉を聞いて、表情を見る癖がついた。

 結局、足立区も繁華街の臭いも何も変わらず、人目と反応が過敏に気になって、言いたいことが言えなくなった。繭がビクビク言葉に詰まるほど、不思議と周りの人は優しくなった。人間関係が表面上は、随分波風が立たなくなった。



 しばらくして改めて、新宿で会った人たちについて考えた。沢山の人と話したり話さなかったりして、一番優しかったのはサイゼリアのラテン系のお姉さんだったと思った。

 お姉さんは何もお母さんにチクらなかったし逃がしてくれた。多分わざとではなかったけれど一番繭を助けてくれた。それに笑うと急に可愛かった、今でも思い出すとホッとするような、珍しい表裏のなさそうな笑顔。日本語は変だったけど。

 英語の勉強が前より、少しだけ楽しくなった。




 思い出しながら鏡の前で練習して、桜が咲きだす頃には繭はクシャっとした笑顔が身に着いた。目が消えてなくなるような、美人ではないが愛嬌のある顔だ。


 同じ頃、学校で妙な噂が流行った。それはすぐに有名な話になって、繭の好きな色んなYoutuberも噂についての動画を出した。


『新宿の花乃園神社で、花桃の下から男のすすり泣く声が聞こえる。昼でも夜でも所在不明な鈴の音が響いて、たまに『恨めし……マユ……』と女の名を呼ぶらしい』


 繭は噂を聞くたび嫌な気分になった。思えば志貴の話を全然聞かないで、びっくりして酷い悪口だけ言った覚えがある。

 この頃には、言葉や物で人を傷つける事とその結果が、どんな子供や大人を作るのか、おぼろげながら繭にもわかってきていた。玄関の盛り塩を取り換えるのが日課になって、お母さんとの喧嘩の原因が一つ減った。


 団地の周りで桜が満開になった頃、繭は罪悪感と興味に勝てなくなって花乃園神社に行った。元々考え込むより後先考えずに動く方が得意だし。

 人の多い時間になるべく怖い目に遭わず、できたら志貴に謝ろうと思った。若干美化された記憶の中で、志貴は一生懸命ゆっくり話をしてくれていた。



 新宿の大通りを、マスクの通行人をよけながら進む。

 スイスイとまではいかなくても迷わずに神社の前まで着いて、繭ははっきりと志貴のすすり泣く声を聞いた。


 想像よりずっと悲痛な響きで、驚いてそのまま立ち尽くす。

 のち深呼吸で勇気を出して、懐かしい石の鳥居をくぐった。



 参道に入ると、ぴたりと泣く声が止んだ。

 参拝客がぽつりぽつりと揺れている。どこからともなく鈴の音が響く。

 繭は志貴に会った雑木林を歩いて、トイレの裏から参道や社の裏まで探して、どうしてもあの大きな木が見つからない。

 広くもない境内を歩き回って時間だけが過ぎた。

 お守りや熊手を売るアルバイトの巫女が、「大丈夫ですか?」と声を掛けるまで、繭は必死に境内を歩いた。


 結局、繭はその後何年たっても二度と、志貴の大きな木を見つけることはできなかった。

 今日も境内では、男のすすり泣く声と鈴の音だけが響いている。



 ―――――――

 借りたお題:空

 リスペクト・万葉集まんいぇぷ/岩波古語辞典/古代言語系Youtuberの先生方

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

通学路一方通行、道端で雑草枯れてる なんようはぎぎょ @frogflag

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ