第47話 魔剣(2)

 人狼。それはかつてとある呪術師が魔法へ至る探求の結果として生み出した、感染する魔女の成りそこない。

 彼らの牙には強力な呪いが残留し、一度でも彼らに噛まれた者は、彼らと同じ呪いに侵される。

 人狼となった者は一定間隔で肉体と精神が変異する発作に苦しむことになり、呪いの進行が進めば進むほどその衝動は増してゆく。

 感染した初期であれば祈祷術による治療も可能ではあるが、末期まで症状を進行させた者はもはや禍獣と同等の討伐対象として扱われ、本人の意思がどうであろうと問答無用で殺される。

 彼らと遭遇するということは、自身も人狼へと転化させられる危険を孕むと言うこと。たった一人の人狼のせいで一夜にして村の全員が人狼化させられたという事例も珍しくはない。

 ゆえに平穏に生きる多くの者にとって、人狼は二重の意味で最大級の脅威と言えるのだ。

 喉を回転させるような低い唸り声。

 呪いを開放し人狼化した男が飛び掛かった。イーダとヨハンが何とかそれを回避すると、人狼は倉庫の木箱へぶつかり体を回転させた。倉庫が激しく揺れ天井から埃が落ちた。出入口を塞がれた格好となったイーダは僅かに焦りを覚えたが、すぐに心を落ち着かせた。

 受けに回っていては勝ち目が無い。やらなければやられると、長年の経験で培った感が叫んでいた。

 人狼の前に飛び出し、手に持った斧を全力で叩きつけるも、人狼は片手を振るいそれを弾いた。

 個人の戦闘能力で言えばロズヴェリアの兵士は世界最高位の練度を持つが、さすがにろくな防具も武器もない状況で人狼と戦うのは分が悪かった。まだ未成熟なヨハンを庇う必要もあって、何度も吹き飛ばされては壁に背をぶつけた。

 地面に膝をつき立ち上がろとしているイーダを前に、人狼は耳障りな唸り声を上げて飛び掛かった。間一髪のところで斧を持ち上げ牙を防いだものの、土台の筋肉が違い過ぎるためすぐに力負けしていった。

「母さん!」

 ヨハンが倉庫の中に置いてあった薪を掴み人狼に殴りかかるも、あっさりと殴り飛ばされ備品の中に転がった。

 目の前に湿り気のある牙が迫り、イーダは血潮を冷え上がらせた。

 このまま噛まれれば自分も人狼の呪いを受けることになってしまう。そうなれば、もう夫やヨハンと生活することは出来ない。

 筋力の差で斧が押され、鉄さびのような臭いが鼻についた。噛まれるとそう思った瞬間、何者かが人狼の背に飛び掛かり、剣を振り下ろした。

 不揃いな顎髭にりりしい眉。ロズヴェリア国民特有の大きな体。それが夫であることはすぐに気が付いた。

 騒ぎを聞きつけ様子を見に来たのだろう。倉庫の扉は開け放たれ鋭い寒気が流れ込んできたが、夫は全身から蒸気を出すかのように剣にしがみつき、人狼の背を何度も突いた。

 甲高い悲鳴。人狼は激しくもがいたが、夫は決して手を離さなかった。イーダは人狼の体が浮いたすきに立ち上がり、渾身の力を込めて斧を叩きつけ続けた。

 人狼は血まみれになりながらも、後ろ手で夫の腹に爪を差し込んだ。うめき声と共に夫の表情が苦悶に染まり血が床に飛び散った。人狼は夫を投げ捨てるとイーダの斧を掴んで受け止めた。イーダが咄嗟に手を離すと同時に斧を壁に投げ捨て、武器を失ったイーダの頭に食らいつこうとした。しかし直前で夫が横から体当たりを食らわせ、人狼の腹部に剣を差し込んだ。

 幾度も引っかかれ血を流しつつも、夫は決して手を離さなかった。差し込んだ剣を横へ引き、深く人狼の腹部を切り裂いた。

 人狼と夫が倒れたのは、ほとんど同時だった。

 イーダが駆け寄ると、夫は首から血を流しもはや虫の息のような状態だった。

 ――ああ。死んでしまう。私の愛した人が。大切な人が。

 戦場で仲間の死は何度も見てきた。それが助かる傷かどうかは一目でわかった。イーダが夫の手を取ると、彼は悲し気に、それでいてどこか満足げにほほ笑み、それっきり動かなくなった。

 寒気がイーダの全身を包み込み温度を奪っていったが、イーダはまるで氷づけにされたように動くことが出来なかった。

「お母さん……? 倒したの?」

 肩を抑えながら瓦礫の中からヨハンが近寄ってきた。彼は死んでいる夫を見て驚いた表情を見せ、そしてすぐに声を震わせた。

「お父さん? そんな……――嘘だ……」

「……泣くな。ロズヴェリアの戦士は決して涙を見せない。涙は弱さにつながる。父を思うなら涙は見せるな」

 体の内側に溢れ出る思いを必死にこらえ、そう息子に呼びかけた。誰よりも泣きたい気持ちを押し殺して。

 遠くの方から人の声が近づいてきた。先ほどの人狼の雄たけびを聞きつけて、聖騎士や村人たちがやってきたようだった。

 彼らの前でこんな情けない姿を見せるわけにはいかない。イーダは立ち上がり身なりを整えようとして、そこで突然、人狼の上半身が起き上がった。

 ――今でもたまに夢に見る。もう顔も思い出せなくなった息子だけれど、その刹那の光景だけは、脳裏に焼き付いて消えてくれないのだ。

 最後の力で噛みつこうとした人狼。イーダを押し飛ばし、強い瞳でこちらを見据えたヨハン。そして、そのヨハンの肩に突き刺さる醜い牙。

 全てがまるで絵画のように鮮明に止まって見えた。

 無意識のうちにイーダは叫んでいた。夫の落とした剣を拾い上げ、人狼の体に振り下ろした。何度も、何度も何度も。

 気が付いた時、イーダの体は聖騎士たちに掴まれていた。何が起きているのか自分でもよくわからなかった。

 剣を奪われ後ろへと倒された。視界の端に肩から血を流し倒れたヨハンと、それを見下ろす聖騎士ビクター・クレランスの姿が見えた。

 ああヨハン。私の愛する息子。たった一人の大事な……――。

 激しい心理的な動揺のせいかそれとも血を流したせいか。イーダの意識は一端そこで途切れた。

 

 

 それからの日々はまさに地獄のようだった。

 人狼に噛まれてしまった以上、ヨハンもいずれ人狼となる。

 聖騎士たちはすぐにヨハンの治療に努めたが、初期の初期とは言え人狼が強力な呪いであることには変わりがない。その治療は難航を極め、ヨハンの容体は日を追うごとに悪化していった。

「祈祷術で何とか進行を遅らせてはいるものの、やはりここでは限度がある。私は人狼の専門家では無いし、道具も設備も足りない。呪いを祓うには都市部の教会で集中的な治療を施す必要があるでしょう」

 ヨハンを診てくれた神官が残念そうにそう言った。

「息子が助かるのなら、私はどこへでもついていきます。お願いです。助けて下さい」

 ベッドに横たわったヨハンは全身から汗を流し苦悶の表情を浮かべていた。彼が頑張っているのに自分が諦めるわけにはいかない。イーダは必死に聖騎士たちへ呼びかけた。

 しばらくして、一歩離れた位置から二人を見下ろしていた聖騎士、ビクター・クレランスが、同情するように口を開いた。

「ご子息を助けたい気持ちは我々も同じです。かなりの長旅になりますが、耐えられますか」

「息子が助かるのなら二度とここに戻れなくたって構いません。お願いです。助けて下さい」

 そう言うと、何故か一瞬ビクターの表情に安堵の色が見えた。

「わかりました。馬車を一台用意しましよう。安心してください。我々は決してあなたたちを見捨てはしません」

 そうしてイーダとヨハンは聖騎士たちの旅に同行することになった。

 生まれ育った故郷を、夫と過ごした村を後にすることは辛かったが、息子の命を助けるためであれば仕方がない。

 イーダは毎日必死にヨハンを看病しながら馬車を走らせ、時には彼らと一緒に禍獣や盗賊と戦った。

 助かると思っていた。絶対に助けると思っていた。けれどその思いは、あっさりと裏切られることになった。

「そろそろいいでしょう」

 村を出てから数週間後。王都メギドレイクへ近づいてきた頃だった。休憩していた林の中で、ビクターは突然そう仲間に呼びかけた。

 初めは何が起きているのかわからなかったが、彼らの目を見て兵士としての勘が警鐘を鳴らした。あの視線には何度も覚えがあった。――殺意だ。

 聖騎士たちは剣を抜くと、イーダと焚火の前で暖を取っていたヨハンを取り囲んだ。

「何のつもりだ……!」

 イーダが睨み返すと、ビクターは冷静そのものといった調子で答えた。

「あなたが同行を申し出てくれて助かりました。人狼は確かに治療が可能な呪いです。ですが、その完治には多くの時間と労力がかかる。私は一か月後にとある貴族の令嬢との結婚が控えていましてね。各界の著名人に招待状を出していたので、あのちんけな村で何か月もご子息につきっきりになるわけにはいかなかった」

「……王都はもう目と鼻の先だぞ。そこの神官に預ければ、あんたらは関わらずに済むじゃないか」

「もちろんそれも考えましたが、一つ問題があったのです。

 我々は北部に逃げた新種の人狼を確保するためにロズヴェリアを訪れていました。その人狼があなたたちに殺されてしまった以上、人員と費用を費やしてわざわざここまできた苦労が無意味になってしまった。結婚前の成果づくりの旅だったのに、何の成果もなく凱旋したとあっては、私の名に傷がつく。

 しかし幸いにも、ヨハン君は人狼に感染しています。感染段階は初期の初期ですが、まあ結婚式が無事に終わるまでの代用品としては何とか一役買ってくれるだろうと、そう思ったのです」

 この男は本当に三神教に仕える聖騎士なのだろうか。それとも三神教徒というのはこういう奴らの集まりなのか?

 イーダはあまりの怒りに我を忘れかけたが、背後でヨハンが苦しむ声を聞き、何とか踏みとどまった。

 今この時にビクターが真意を見せたのは、村から遠く離れたこの地であれば事実を隠蔽できると思ったからだろう。祝福地の外では誰がどんな要因で死んでもおかしくはない。母子の二人が村を出たきり帰らなくなることは、ありふれた日常。ビクターは村人からの報復を避けるためにも、ここまで二人を同行させる必要があったのだ。

「……後悔することになるぞ」

 夫の形見である剣を抜き威嚇するも、勝ち目が無いことは目に見えていた。多勢に無勢。それも自分にはヨハンという守らなければならない弱点がある。

 この状況を打破する方法は一つしかない。相手が攻撃できない状況を作り出すのだ。

 先ほどビクターはヨハンを連れていくといった。ならばこの場でヨハンを殺すような真似はしないだろう。

 にじり寄る兵士たちを見据えると、イーダは足元の雪を焚火に向かって蹴り上げた。一瞬白い煙が吹き上がり、聖騎士たちの視界を隠した。その隙にビクターへと接近し、人質に取ろうとあがいたのだが、その試みは完全にビクターに読まれてしまっていた。

 振り下ろした剣はビクターの側近の聖騎士たちに阻まれ、代わりに側面から無数の斬撃が押し寄せた。イーダは何とか身をかわしたものの、いくつかの刃は肌をかすめ、鋭い痛みが全身に走った。

 いくら腕に自信があったところで、ここまで人数差があればどうしようもない。イーダは瞬く間に血にまみれ、地面へと倒された。

 滑らかに、聖騎士を名乗る悪人どもの剣がイーダの顔に向けられた。

「これでも残念に思っているのですよ。あなたの夫が人狼を殺しさえしなければ、こんなことにはならなかった。恨むのなら、あの時人狼に立ち向かった自分たちの蛮勇さを呪いなさい。まったく、戦士などという古臭い理想を妄信するからこんなことになるのです」

 ビクターが顎で合図を送り、聖騎士たちが剣を振り上げた。死を覚悟したその直後、地を裂くような咆哮が彼らの背後から響き渡った。

 何かが後列の聖騎士の首元に噛みついた。雪の上に真っ赤な花が咲き、聖騎士の足が崩れ落ちた。

 人狼。しかしその顔には覚えがあった。半身をいびつに変化させたヨハンが、血だまりの中に立っていたのだ。

 絶叫を上げ次々に聖騎士たちに襲い掛かったヨハン。完全に虚をつかれた聖騎士たちは、次々にヨハンの爪によって傷を受けていった。

「何だと――!?」

 ビクターの驚く声がその場に響いた。

 ヨハンはビクターに飛び掛かると、その顔に大きな爪痕を刻み付けた。ビクターは痛みと恐怖で悲鳴を上げヨハンを突き飛ばした。

 聖騎士たちの包囲が崩れた。逃げるのなら今しかない。イーダは起き上がったヨハンの腕を掴み、素早く林の中へと逃げ込んだ。半人狼となったヨハンに噛まれる覚悟もしていたのだが、まだ辛うじて意識が残っているのか、唸り声は上げつつも、ヨハンは抵抗しなかった。

「に、逃がすな! 追えぇ!」

 切り裂かれた顔の半分を手で押さえながら半狂乱に叫んだビクター。

 イーダとヨハンは一心不乱に走り続け、必死に彼らから逃げようとあがいた。

 いつしか切り立った崖の前に出た。反対側への幅は広く、とても徒歩では渡れなかった。視線を動かすと、崖底には激しく流れる川が見えた。

 どこからともなく飛んできた矢が肩に突き刺さった。痛みに苦しむ間もなく、聖騎士たちが姿を見せた。

「近づくな! 噛まれたら感染するぞ。矢で動きを止めろ!」

 複数の矢がイーダとヨハンに向かって放たれた。イーダはヨハンを抱きかかえようとして――その前にヨハンが前に飛び出た。

 祈祷術の祝福を受けた矢が次々にヨハンの肉体へ突き刺さった。呪いと祈祷術が衝突した証である白い煙が弾け、ヨハンの体から鮮血が吹き出た。

 矢に押されるようにイーダへ寄り掛かったヨハン。顔の半分は灰色の毛に覆われ醜く歪んでいたけれど、もう一方の顔には確かに彼の優しい目が見えた。

 足元の雪が崩れた。それに釣られなすすべもなく体がずれた。

 ――絶対に離すものか。

 イーダは強くヨハンを抱き留めた。

 深く深く、溶け込むように、二人の体は冷たい闇の中へと沈み込んでいった。


 ある程度流されたところで、イーダは突き出た枝を掴んだ。

 水を吸い込み体はずっしりと重くなっていたが、構わずにヨハンの体を持ち上げ川辺に乗せた。

 真っ黒な夜空と振り注ぐ雪の中、穏やかな表情で目を瞑っているヨハンの姿が見えた。

 その表情を見て、イーダは既に息子の命が無いことを悟った。

 勇敢に、勇猛に、彼は二度も身を挺して自分を救ったのだ。

 涙を流すのは戦士として恥ずべき行為。だが今は自分と彼以外に誰の姿もない。この日、イーダは生まれて初めて声を上げた。声を上げて泣いた。それは、彼女の積み上げてきた人生が音を立てて崩れ去った瞬間だった。





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