第45話






「クリスっ!?クリスなのっ!?」


 部屋の外から聞こえてきた猫の鳴き声に私は慌ててドアに駆け寄ろうとする。だが、この数日ベッドで無気力に寝ていた私の足はもつれ、私の身体はドアにたどり着く前に床にたたきつけられてしまった。


「いたっ……。」


「にゃあーーーーー!?んみゃぁー!!」


 ドテッという鈍い音が響くと、クリスが驚いたように声を上げた。


 いけない。私ったら、またクリスを驚かせてしまったわ。どうしましょう。ただでさえクリスにストレスをかけてしまっているというのに。


 私は泣きたくなった。大好きなクリスに負担をかけてしまうことが辛くて。


「にゃあ……。」


「……アンジェリカお嬢様。」


 床に倒れたまま、悲しくて涙を流していると、頬にザラッとした感触があった。優しい暖かさが秘められているその感触はとても覚えのあるものだった。


「クリスっ……。」


 真っ黒な尻尾がひょいと目の前に現れる。次いでまん丸な金色の瞳が私の顔を覗き込んできた。


 愛しい愛しいクリスだ。


 大好きで大好きで会いたくて仕方のなかったクリスが目の前にいる。


 なのに、どうしてだろう。


 次から次へと溢れてくる涙で前が良く見えない。クリスの姿がよく見えない。


「にゃあう。」


 クリスが私をいたわるようにそのザラザラとした舌で私の涙をぬぐう。


 そして、私に寄り添うように私の側にクリスは寝そべった。その長く黒い尻尾で私をなだめるように、ポンポンと手を軽く叩きながら。


 どのくらいそうしていただろうか、


「アンジェリカお嬢様。クリス様がいらして嬉しいのはわかります。感動で動けないのも、お食事をとっていらっしゃらなくて身体が衰弱しているのもわかります。ですが、そのまま床に倒れこんでいると身体に悪いですわ。ベッドにお戻りください。」


 と言うロザリーの手で私はベッドに戻ることになった。もちろん久々に会えたクリスを放すまいと私はギュッとクリスを抱きしめながらだが。


 でも……クリスはこうやって抱きしめられるのは嫌なのだろうか。


 また不安に胸が押しつぶされそうになった。


 その瞬間、私の不安を察知したのか、クリスが私の身体にクリスのしなやかな身体を擦り付けてきた。まるで、「不安にならないで、僕はここにいるよ。」とでも言っているように思えた。


「クリス……。」


 おかしい。涙腺が壊れたのだろうか。先ほどからずっと涙が止まらない。


 おかしい。クリスに会えて嬉しいはずなのに、どうしてか涙が止まらない。


 ロザリーに支えられてベッドに戻る。その間、クリスは心配そうに私を見つめていた。そして、ベッドに向かって歩く私の後ろを優雅についてきた。


「クリス……。ごめんね、私のせいで、クリスに辛い思いをさせてしまっていたのに……。クリスはこうしてまた私に会いにきてくれたのね。とても、嬉しい。嬉しいのよ……。なのに、涙がでてしまいますの。私、クリスに迷惑をかけていないかしら?クリスの邪魔になっていないかしら?ああ、クリス。クリス……。」


 クリスに会えたことが嬉しくて涙腺が崩壊してしまったかのように、涙が止まらない。止めようとしても後から後から涙がこぼれ落ちる。


 涙と共に不安もこぼれ落ちる。


「にゃあ。」


 クリスは安心させるかのように私に寄り添っていてくれたけれど、どこかクリスも不安そうに私を見ていた。まるで、私のそばにいてもいいのか迷っているみたいにも見えた。


 また私がクリスに負担をかけてしまわないか警戒しているのだろうか。


「アンジェリカお嬢様。クリス様が来てくださって安心なされたのですね。今度はクリス様を安心させるためにもアンジェリカお嬢様はお早く元気にならなければなりません。今、アンジェリカお嬢様のお食事をお持ちいたしますので、少しでもお食べくださいませ。」


 ロザリーはそう言って、私とクリスを交互に見ながら部屋を出た。


 私はクリスと二人っきりになる。


 恐る恐るクリスの艶やかなキューティクルが輝く頭に触れる。そのままそっと撫でれば、いつもの感触と違うことに気が付く。


「クリス……毛艶が悪くなった?どこか、具合でも悪いのかしら?私が、クリスに負担をかけたせい?でも、私がクリスから離れたから少しはよくなったのでしょう?でも、最後にクリスに触れたときよりも毛艶が悪いような気がするの。」


「……にゃあ。にゃにゃにゃあう。なぁう。」


 クリスは私に何かを伝えたいようで必死に鳴きだす。だけれども、私にはクリスが何を言っているのか理解できない。


 多分、心配しないでと言っているような気はするのだが、それは私の妄想かもしれない。クリスにこう言って欲しいと思ってることなのかもしれない。


「どうして……どうして、私はクリスと話すことができないのでしょう。侯爵様は、クリスと話すことができるみたいなのに。どうして、私にはできないのかしら。」


「にゃう。にゃうにゃにゃ。」


 クリスは私の言うことを理解しているみたいなのに。私はクリスが何を言いたいのかわからないなんて……。なんて情けないのだろうか。


 落ち込んでいる私に、クリスはずっと寄り添っていた。寄り添って私を慰めるように、時折頬や、手をペロペロと舐めてくる。それがとてもくすぐったかった。


 それと同時に、なぜ侯爵様みたいに私もクリスと意思疎通ができないのかと悩ましく思う。


「そうだわっ!侯爵様に通訳してもらえばいいのよ!そうよ。そうだわ。ロザリー!ロザリーいるかしら!」


 侯爵様はクリスと意思疎通ができる。私はクリスと意思疎通ができない。ならば、侯爵様のお力をお借りすれば良いのではないかと思ったのだ。


 侯爵様が嫌な顔をするかもしれないが、クリスと意思疎通をとりたい私にはそれが唯一の希望のように思えたのだった。


「アンジェリカお嬢様。いかがなさいましたか?」


 ロザリーの名前を呼ぶと、ちょうど食事を運んできたロザリーが部屋に入ってくるところだった。


 ロザリーはベッドの脇にある猫脚テーブルの上に食事を並べながら問いかけてくる。


「あのね、ロザリー。私、いいことを思いついたの。クリスが何を思っているかわからない。クリスは私に対してなにか不満があるのかもしれない。でも、それが私にはわからない。だから、侯爵様に通訳してもらおうかと思って。今から、侯爵家に行こうかと思うの。」


 思い立ったら即行動。くよくよしてたって仕方ないわ。


 クリスに会ったことで、クリスと触れ合えたことで私には気力が戻ってきた。きっと今ならなんでもできるような気がするわ。


 そう思って、ロザリーに私の決心を伝えると、ロザリーはポカンと口を開けて固まっていた。


 どうやらとても驚いているようだ。


 今までクリスに会えないからなにもやる気が起きなかったのに、クリスに会ったとたんやる気を出したことに唖然としているのだろうか。


「あ、あの……ロザリー?」


 私は不思議に思ってロザリーに問いかける。


「あの……お嬢様?同じことを以前にもおっしゃってたのですが……。覚えていらっしゃらないのでしょうか?確か侯爵様の呪いを解いた後におっしゃってたと私は記憶をしております。」


「えっ?」


「あ、あれ?わたし、そんなこと言ったかしら?記憶にないわ。」


 私は困惑しながらロザリーに確認する。


 すると、ロザリーは目を大きく瞠った。それから小さくため息をついた。


「では、侯爵様の呪いをアンジェリカお嬢様が解かれたことは覚えておいでですか?」


「えっ……。わたしが……侯爵様の、呪いを、解いたの?」


 侯爵様の呪いを私が、解いた?


 そう言えば、さきほど聞き流してしまったけれども、ロザリーがそんなことを言っていたような気がする。


 あ、あれ?おかしいわ。記憶が……。


 そこまで思い出して、私の顔は夕焼けのように真っ赤に染まった。


「あ……。あぅ……あうぅ……。」


 言葉が上手く口にできない。


 侯爵様の呪いを解いた時の記憶が徐々に蘇ってきて、頭の中が真っ白になる。


 いくら切羽詰まっていたとしても、わたしから、侯爵様に……その、く、口づけるだなんて……。そんな、はしたないこと……。


「ぅそ……。」


「本当でございます。侯爵様は大変お喜びでございましたよ。アンジェリカお嬢様が侯爵様の女性を見ると発情してしまう呪いを解いたおかげで夜は普通に過ごせると。夜会にも出席することができるのでアンジェリカお嬢様の着飾った姿も見れるだろうと、それはそれはとてもお喜びの様子でございました。きっと、侯爵様は次の夜会に向けてアンジェリカお嬢様にお似合いのドレスを作ることでしょう。ねぇ、クリス様。」


「にゃ、にゃぅ……。」

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