第二章 花曇り

       一


現在――。

「桜井さん、血刀男けっとうおとこの検死結果が出ましたよ」

「ずいぶん早く出たな」

「仮報告ですけどね」

 如月は紘彬に報告書を渡した。紘彬は渡された報告書にじっくりと目を通した。

 まだ早い時間で、紘彬と如月以外は誰も来ていなかった。

 二人は血刀男が死んだと言うことが気になって早く出てきてたのだ。

 別に申し合わせたわけではないのに、玄関のところで鉢合わせした。

 とはいえ、まさかこんなに早く結果が出るとは思っても見なかった。


「薬物中毒? 薬物中毒の検査結果がこんなに早く出たのか?」

「今、新種のドラッグが出回ってるんですよ。遺体の状態が、その新種のドラッグで死亡した人の特徴と酷似していたので、優先的にそれを検査したようです。勿論、他の原因がないかまだ検査中だそうですけど」

「そうか」

「歌舞伎町だけで出回ってるそうです」

「よく知ってんな」

「同期のものと情報交換しあってますから」

 如月は警察学校のときの友人達とメールで情報のやりとりをしていた。

「Heって言うドラッグなんですけど……」

 中毒性が強く、何度も使うと脳の一部を損傷、がりがりに痩せ細り、凶暴になって暴れた後心不全で死亡するという。

「He? ヘリウムか?」

「ヘリウム?」

「元素記号だろ、ヘリウムの」

「ヘリウムは関係ないと思いますが、Heでもう何人も被害者が出てるんです」

 このHeはそこらに出回ってるデザイナーズドラッグとは根本的に違うらしい。

 デザイナーズドラッグというのは、麻薬などの違法薬物の分子構造を少し変えて規制をすり抜ける薬物だ。ネットなどを中心に出回っている。

 如月が紘彬に説明していると、

「化学組成が従来のデザイナーズドラッグと全然違うんですよ。だから規制をすり抜けていたんです」


 いつの間にか横に来ていた制服姿の婦警がHeの細かい化学組成を解説した。

 紘彬は頷いていたが、如月にはさっぱり分からなかった。

 女性警官はボブカットの似合う少し幼さが残る顔立ちの女性だった。

 まだ未成年のように見える。二十歳を超えたとしても一つか二つだろう。少し頭を動かす度に、艶やかな黒髪がさらさらと揺れる。

 二人は一瞬、婦警に見とれてしまった。


「……君は?」

 我に返った如月が訊ねた。

「失礼しました! 立花桐子とうこ巡査です。よろしくお願いします」

 立花は敬礼をした。

「桐子ちゃんか。よろしくな」

 紘彬が言った。

 紘彬と如月は返礼をすると、自己紹介をしてからHeのことを訊ねた。

 Heはその出回り方などから、どうも国内で作られているのではないかと考えられているらしい。

「普通、デザイナーズドラッグは海外で作られるものなんです。ドラッグに関しては海外の方が技術力が高いですから」

「作れる場所も限られてくるしな」

 紘彬が言った。

「そうなんですか?」

 如月の問いに、

「ドラッグは作る過程で有害物質が出ますし、大量の熱も出ますから、そういうものを処理する必要がありますので」

 立花が応えた。

「じゃあ、都市部では難しいね」

「そうでもない。クリーニング屋とか隠れ蓑に出来る施設がないわけじゃないからな」

「そもそもそういうものを隠すという知恵を働かせないで作ってしまう者もいますし。まぁ、そういうのは小物なので大規模な商売はしませんが」

「それにしてもよく知ってるね」

 如月が立花の知識に感心しながら答えた。

 同期同士で情報交換している如月の知らないことまで知っている。


「兄が麻薬捜査官ですので」

「じゃあ、君も麻薬捜査官志望?」

「勿論です。ホントは薬剤師の資格を取れれば良かったんですけど……」

「なんか取れない事情があったのか?」

 紘彬が訊ねた。

「少しでも早く警察官になりたかったんです」

「あ、俺と同じだね」

 如月が言った。

 如月も早く警官になりたかった。もっとも、如月の場合、経済的な事情で大学へは行かれなかったというのもある。

「でも、やっぱり大学で薬剤師の資格を取ってから国家公務員試験を受けた方が良かったかなって今はちょっと後悔してるんです。そうすればすぐに刑事になれましたから」

「それは俺と同じだな。俺もすぐに刑事になりたかったから国家公務員試験受けたんだ」

「一般の刑事になりたかったんですか?」


 国家公務員試験を受けて入ってきたなら警部補でいるのは一年間だけである。その後、自動的に昇進して警部になる。

 警部になれば、現場の刑事ではなく、それなりに責任のある地位に就くことになる。

 もっとも、紘彬の場合はキャリアから外れてるので二年たった今も昇進はしていない。


「一般の刑事? 俺、あんまり警察の仕組みとか知らないから」

 紘彬はそう言ってから立花の方を向いた。

「麻薬捜査官には薬剤師の資格がなくてもなれるんだろ」

「はい」

「なくてもなれるんなら、後は気合いと根性だ」

 一見勝手なことを言っているようだが紘彬自身今までずっと努力してきたことは想像に難くない。

 医大に入るのも、卒業するのも、国家公務員試験に受かるのも簡単にできることではない。ずっと努力してきた結果なのだ。

 立花は笑顔で、

「はい! 頑張ります!」

 と答えた。


「ところで、立花巡査、何か用があったんじゃない?」

 如月が思い出したように訊ねると、

「あ! そうでした」

 立花は慌てて抱えていた書類を差し出した。

「例の事件の加害者と被害者の身元の確認が出来たそうです」

 紘彬は差し出された書類を受け取った。


 血刀男は現場の家に住んでいた金沢裕一郎となっていた。

 被害者は、裕一郎の妻康子、娘の涼子、康子の母亮子、それに遊びに来ていた武田良子とその息子の悟である。

 ざっと目を通してから如月に手渡した。


「やっぱり、あの家の家族だったんですね」

 如月は書類に目を通しながら言った。といっても、これは聞き込みで分かっていたことだ。

「プラス子供の友達の武田悟とその母親か。金沢一家に近しい親戚がいないのは不幸中の幸いだな。葬式で武田家の遺族に責められなくてすむからな」

 昨日、紘彬の祖母や、そのほか近所の住人などから金沢家に親戚がいないと聞いていた。

「その代わり、武田家の遺族は責める相手がいなくてつらいでしょうね」

「そうだな」

「被疑者は日本刀を振り回してたんですよね?」

 立花は遠慮がちに訊ねた。露骨に好奇心を剥き出しにするのははばかられるが、それでも興味があるというところか。


「すごかったんだよ。桜井さんが鉄パイプで刀を右に左に捌いて、最後なんか目にも止まらない速さで……」

「それ、大げさすぎ」

 紘彬が苦笑した。

「……こう刀を跳ね上げてから太股を打って……」

 如月が身振りを交えて説明する。

「すごいですね。私も拝見したかったです」

 立花は尊敬の眼差しで紘彬を見た。

「そんな大したものじゃないよ」

 紘彬は苦笑いしながら手を振った。

「そんなことないです。桜井警部補が剣道の試合に出てらしたのを拝見したことがありましたがすごかったです」

 立花が身を乗り出して言った。

「試合?」

「この前桜井さんが出た剣道の全国選手権じゃないですか?」

 紘彬は警察に入ってから一度剣道の全国選手権に出ている。


「いえ、高校の時です。そのとき兄も試合に出てたんです。私は兄の応援に行ってて……」

「へぇ」

「兄も県大会では優勝する程強かったのに、全国大会の決勝戦で当たった桜井警部補に苦もなくひねられて」

「ああ、あのときの。覚えてるよ。結構手強くて負けるかと思ったから」

「そうなんですか。見たかったなぁ」

 如月が感心したように言った。

「兄は強いと思ってたのにあっという間に勝負がついちゃって、びっくりしたので覚えてたんです」

「そんなに前から桜井さんのこと知ってたんだ」

「兄はホントはこの前の選手権で雪辱を果たしたいって言ってたんですけど、出張中で出られなくて」

 そのとき、がやがやと声がして、団藤や長野トリオ達が入ってきた。

 立花は素早く敬礼をすると、

「それでは失礼します」

 と言って出て行った。


       二


 その日の捜査会議は長引いていた。

「今夜は遅くなりそうだな」

 終電に間に合わなかったときは皆、署の柔剣道場に泊まる。

 紘彬は徒歩通勤なので何時に終わっても帰れるのだが、皆が帰らないときは一緒に泊まっていた。

 机の一番下の引き出しを開けてみた。もう着替えの予備がない。

 紘彬は自宅に電話して着替えを持ってきてくれるように頼んだ。


 一時間ほどたった頃、刑事部屋のドアがノックされて立花が入ってきた。

「桜井警部補にお客様です」

 立花の後から花耶が入ってきた。白いブラウスにピンクのカーディガンとスカート。シンプルな服装だが、よく似合っていて可愛かった。

「花耶ちゃん。わざわざごめんな」

 紘彬は立ち上がって花耶のそばに行った。

「ちょうど夜食を作ってたの。皆さんで食べて」

 そう言うと紙袋を二つ差し出した。夜食の匂いが付かないように、着替えと分けて入れてきたようだ。

「ありがとな。もう夜遅いけど一人で大丈夫か? 送っていこうか?」

 もっとも、花耶はこう見えても剣道と合気道の有段者だ。

「大丈夫。紘一も一緒に来てるから」

 その言葉に、花耶の後ろにいた紘一が顔を覗かせた。紘一も柔道と剣道の有段者である。

「そうか。二人とも気をつけて帰れよ」


 花耶が帰ると早速大きなタッパーに入った夜食を取り出した。タッパーは二つあった。どちらも中には肉じゃがが入っていた。

 紘彬は全員に割り箸を回した。

「花耶ちゃんの手作り料理っておいしいよな」

 飯田が嬉しそうに言って、早速手を伸ばした。

「花耶ちゃんが夜食作ってきてくれるなら、毎晩捜査会議があってもいいな」

 会議は夜中まで続いた。


 翌朝、紘彬達は届きたてのビデオを見ていた。

 防犯カメラに写った人物は、野球帽に眼鏡、マスクをしていた。ジャンパーもファスナーを首のところまで上げていて、下に何を来ているのかすら分からない。スラックスとスニーカーもこれと言って特徴はなかった。

 映像には野球帽を被り、マスクとメガネで顔を隠したジャンパーの男が店員にナイフのようなものを突きつけ、レジを開かせて金を奪い、走ってドアから出て行くところまでが写っていた。


「これじゃあ、顔は全然分かりませんね」

 如月はTVに写された防犯カメラの映像を見ながら顔をしかめた。

「昔なら怪しい格好なんだろうが……」

 団藤がうなった。

「今、花粉の季節だからな」

 紘彬が答えるように言った。

「こんな格好でも誰も不審には思わないでしょうね」

 如月が付け加えた。

 紘彬と如月、上田、佐久はコンビニ強盗の聞き込みに回ることになった。団藤と飯田はマンションの管理人が刺された事件の捜査だ。


「ストーカー男がさぁ、女性に会うのを邪魔した管理人を刺したって言うからさぁ、どんな美女かと思って期待して行ったら、これが六十過ぎた婆あなんだよ」

 飯田が椅子にだらしなく座って話していた。紘彬達が聞き込みから帰ると、待ちかねたように喋り出したのだ。

「六十過ぎてたって魅力的な女性はいるだろ。俺の祖父ちゃん、森光子のファンだったぜ。草笛光子とどっちがいいかな、なんて言ってたくらいだし」

 紘彬が答えた。

「いやいやいや、あれはただの婆さんでした」

 飯田が手を振った。

「でも、五十とか六十とかの男が若い女の子追いかけ回す方が気持ち悪いだろ」

「まぁ、その婆さまが無事だったから犯人がすぐに割れたんだけどな」

 団藤が調書を確認しながら言った。

 ストーカーはすぐに逮捕された。

 紘彬達はこれから、コンビニ強盗の聞き込みの結果を突き合わせて、今後の捜査方針を話し合うことになっていた。


 数日後、強盗犯の目星は全くつかないまま、紘彬と如月は聞き込みから帰ってきた。

「……だから、言ってるでしょ!」

 紺色のスーツ姿の女性が受付のカウンターを叩きながらヒステリックに叫んでいた。

 セミロングの髪を神経質そうに繰り返しかき上げている。

 周囲の警官達は、女性の対応をしている警官に同情の目を向けながらも、自分ではなくて良かったという顔をしている。

「どうした?」

 紘彬は受付の警察官に声をかけた。

「あ、桜井警部補」

 受付の警官がほっとしたように紘彬を見た。

 その声に女性が振り返った。少し化粧は濃いめだが、美人と言えないこともない。元からそうなのか、苛ついているからなのか、目がつり上がり気味だった。


「あなた、責任者?」

 女性は詰問する口調で訊ねた。

「いや、ただの刑事だけど」

 女の剣幕に、紘彬は後退った。

「でも、この人よりは偉いのよね?」

 女は受付の警官を指さした。紘彬を上から下まで値踏みするように見ている。

「まぁ、階級上は」

「訊いてよ!」


 女性は紘彬の言葉に、いきなりまくし立て始めた。

 色々言っていたが、要は数日前から不審な人物につけ回されてるというのだ。

 二、三度、マンションのドアをあけようとノブを回されたこともあったらしい。

「絶対、ストーカーよ!」

 ストーカーが流行ってるのか?

「手紙が来るとか電話が来るとかは?」

「それはないけど、会社の帰りとかに後をつけられてるのよ!」

「それならパトロールの巡回ルートに彼女の通勤経路入れてやれよ」

 紘彬は受付の警官に言った。

「それはもうやったの!」

 女性はカウンターを思いきり叩いた。カウンターの端に置かれた、造花の入った花瓶が驚いたように飛び上がった。

「でも、警官が来ると隠れて、いなくなるとまた戻ってくるのよ! 警察でしょ! なんとかしてよ!」

 特に実害がなければ警察に出来ることはたかが知れている。


 紘彬が考え込んでいる間、如月は窓辺によって外の様子を窺っていた。

「もう二度も襲われかけたのよ!」

「襲われかけた?」

「人気のないところを通っているとき、近付いてくる足音が聞こえたのよ」

「それで? 何かされたの?」

「二度とも人が通りかかったらどこか行っちゃったわ」

 紘彬は、とりあえず女性の名前を聞くと――片山紀子と名乗った――、自分のスマホの番号を教えてお引き取り願った。

「如月、誰かいたか?」

「いえ、それらしい人物は特に」

「念のためだ。あの女性を家までつけてみろ。尾行してるやつがいたらとりあえず職務質問だ。課長には俺から言っておく」

「はい」

 如月は素早く出て行った。


 三十分ほどで如月が戻ってきた。

 刑事部屋にいた全員が如月の方を振り返った。

 団藤はホワイトボードを背に事件の捜査方針を話していた。

 強盗事件は未だに解決していなかった。

 コンビニ強盗が連続して起きており、上からは早く解決しろとせっつかれている。

 もっともここしばらくは起きてないのだが。

「どうだった?」

 紘彬の問いに首を振った。

「警察に来たことで警戒したのか、それらしい人物はいませんでした」

「そうか。じゃあ、席に着け。先を続けるぞ」

 団藤はそう言うとホワイトボードに向き直った。


       三


「紘兄、如月さん、紘一、ご飯よ」

 いつものように紘一の部屋でゲームをしていると、花耶が呼びに来た。三人はコントローラーを置いて立ち上がった。


 如月が初めて藤崎家に来た日、紘彬、紘一とともにゲームをやっていると、

「ご飯できたわよ」

 花耶がドアを開けて顔を出した。

「あ、じゃあ、自分はこれで」

 如月は慌ててコントローラーを置くと腰を上げた。

「如月さんの分も用意してあるから大丈夫よ」

 花耶は微笑みながら言った。

「いえ、お邪魔した上にご馳走にまでなるわけには……」

 如月は手を振った。

「遠慮しないで食ってけよ。ここんちの飯うまいぜ」

「しかし……」

「いいからいいから」

「如月さん、まだ俺との勝負ついてないし、食っていきなよ」

「如月さん、もう用意してあるから食べていって」


 紘彬は遠慮している如月を引っ張るようにしてダイニングルームへと向かった。

 テーブルの上には六人分の料理が用意されていた。

 今日はハンバーグらしい。ソースと肉汁の混じった匂いがおいしそうで、如月は改めて腹が空いていたことに気付いた。


「すみません、お邪魔した上に……」

「気にすんなって」

「そうよ。五人も六人も手間は同じなんだから」

「有難うございます」

 如月は恐縮したように肩をすぼめて頭を下げた。


 如月が勧められて席に着くと、紘彬、紘一と花耶、その両親がそれぞれの席に着いた。

 紘彬はいつもここで食べてるのか、当たり前のような顔をして座っていた。

 食事の席は和やかだった。

「如月君だったね.紘一にはもう会ったね」

「お父さん、如月さんは紘一と遊んでくれてたのよ」

「紘一は高一って知ってたかい?」

「は、はい」

「紘一は高一なんだよ」

 紘一の父晃治はもう一度そう言うと、面白くてたまらないというように大きな声で笑った。

 その様子が微笑ましくて如月は思わず微笑みを浮かべた。


「お父さん、それやめてよ」

 花耶が顔を赤らめて言った。

「そうだぜ、叔父さん。笑えない親父ギャグはやめろって」

「親父、如月さんがあきれてるだろ」

「いえ、そんな事は……」

 如月は慌てて箸を持ってない方の手を振った。

「笑えないかなぁ」

 晃治は頭をかきながら言った。

「如月さん、ごめんなさいね」

 蒼沙子が笑いながら謝った。

「いえ……」


 まるで絵に描いたような家族団欒の図である。

 赤ん坊の頃から祖母と二人暮らしだった如月にとっては憧れていた世界と言ってもいい。


「如月さん、口に合わなかった?」

「え?」

「箸が止まってるけど……」

「あ! すみません! おいしいですよ、ホントにすごく。洋食って家で食べたことなかったものですから」

 如月は慌ててハンバーグを一口サイズに切った。

「焦って食べて喉に詰まらす、なんてお約束するなよ」

 紘彬が言った。

「はい」

「そう言えば、如月さんの嫌いなもの訊いてなかったわね.食べられないものはなかった?」

「大丈夫ですよ」

「アレルギーとかは?」

「ありません」

「そう、なら良かった」

「これからもこいつ連れてくるから夕食よろしくな」

「え!?」

「なんだ、嫌か?」

「そうじゃないですけど、毎回ご馳走になるなんて……」

「だから気にすんなって」

「ちゃんと如月さんの食器も用意するから大丈夫よ」

「そんな、自分は……」

 戸惑っている如月をよそに花耶はどんどん話を進めていった。

「如月さん、お皿は花柄とハート柄、どっちがいい?」

「え……」


 花柄とハート柄。

 究極の選択のような気がする。


「花柄なら、バラの柄とチューリップの柄と……」

「花耶ちゃん、武士の情けだ。せめて葉っぱ柄にしてやれ」

「じゃあ、クローバー柄でいい?」

「はい」

 恐縮しつつも、初めて家族団欒に加われると思うと胸の奥が暖かくなってきた。

 それ以来、如月は紘彬とともに紘一の家に行くとご馳走になるようになった。


 今日はカレーだった。

「あ、花耶ちゃんこれ」

「あ、俺も」

 紘彬と如月は花耶に食費を入れた封筒を差し出した。

「はい、確かに。さ、座って」

 全員が席に着くと、晃治が早速、

「華麗なカレーは辛ぇなぁ……なんてどうかな、如月君」

 駄洒落を披露した。

「えっと……」

「この像は象だぞう」

「うわ、親父ギャグ」

「しかもベタ。親父、それ、昔からあったから」

「そうかぁ」

 晃治が頭をかいた。

「如月さん、早く食って勝負の続きしようぜ」

「紘一、せかしちゃダメでしょ」

 花耶が注意する。

「いいんですよ」

 藤崎家の夕食はいつも通りの家族団欒だった。

 この平和を守るためなら何でも出来る、と如月は思った。きっと紘彬もそう思っているに違いない。


 数日後、件の女性から電話がかかってきた。窓をこじ開けようとしたのか、ガラスが割れていたそうだ。

 ストーカーがいなかったのは女性が警察に来た日だけで、その後は相変わらずつきまとっているらしい。

 とりあえず、被害届を出すように言って電話を切った。


「窓が割られたとなると穏やかじゃないな」

「この前のストーカーみたいに、誰かを傷つける前に何とかした方がいいですね」

 そのとき、

「失礼します!」

 制服警官が刑事部屋に入ってきた。どこかで見たことのある顔だったが、紘彬は思い出せなかった。年齢は二十代半ばくらいか。どこにでもいそうな平凡な顔立ちである。

「何か用か?」

 団藤が訊ねた。

「桜井警部補にお話がありまして」

『桜井警部補』という言葉で思い出した。血刀男を発見した警官だ。

「中澤だっけ」

「中山です。覚えていただけて光栄であります」

 中山は頬を紅潮させて敬礼した。

「覚えてないだろ。名前間違えたんだから」

「あ、そ、そうですね」

「それで? 俺に用って?」

「この前の事件のことで警視総監賞を受けることになったんですが……」

 中山は言いにくそうに切り出した。


「良かったじゃないか」

 紘彬は明るく言って肩を叩いた。

「辞退した方がいいでしょうか?」

 中山は恐る恐ると言った様子で訊ねた。

「なんで?」

 紘彬は不思議そうな顔で訊いた。

「自分は見てただけですから……」

「報告書書くの大変だったろ」

「それは、まぁ……」

「じゃ、手間賃だと思って受け取れよ」

「手間賃!?」


 警視総監賞が手間賃!?


 中山が、この人は正気なのかという目で紘彬を見た。

 黙ってやりとりを聞いていた如月は、閃いたという表情で紘彬を見上げた。


「桜井さん、例の女性のこと、中山巡査に頼んではどうでしょうか」

「そうか。ちょうどいいな」

 紘彬と如月は、片山紀子という女性がストーカーにつきまとわれていることと住所を教え、パトロールの時には特に注意するように頼んだ。

 中山はその女性のことは既に知っていたが、今後はより注意深く見回ってくれるとのことだった。


       四


「如月、今日もうち来るだろ?」

 うちと言っても実際は従弟の家である。

「はい。いつもお邪魔してすみません」

「いいって、いいって。紘一も楽しみにしてるしさ」


 紘彬と如月はいつものように藤崎家につくと、紘一の部屋で遊び始めた。

 紘一の操るロボットが立て続けに銃撃してくる。

 紘彬のロボットは戦闘機形態に変形して上へ逃げた。

「なぁ、兄ちゃん」

「なんだ?」

「新聞で読んだんだけどさ、あいつ、ヤクやってたんだって?」

 あいつというのは血刀男のことだ。

「そうなんだ」

「それってHeってドラッグ?」

「なんで知ってるんだ?」

 Heのことは新聞に出てなかったはずである。

「俺のクラスにやったことがあるって自慢してるやつがいるんだよ」

「高校生が買える値段で売ってるのか?」

 紘彬は訊ねるように如月の方を向いた。

 その瞬間、紘彬のロボットは撃墜された。


 如月は知らないというように首を振った。同期の間の情報網にも引っかかってないようだ。

「値段は知らないよ。何でも兄貴が歌舞伎町でホストやってるとかで、ヤクは一通り試したって言ってた。その中でもHeが一番すごかったって。虚勢張ってるだけかもしれないけど」

「そのヤク、高校生の間で出回ってたりしないよな?」

「俺の友達の間ではない。あいつの取り巻きはどうか分からないけど」

「そうか」

「紘一君はそう言うの、興味ある?」

「あるよ」

 紘一はあっさり答えた。

「でも、やらないよね?」

 如月は恐る恐る訊ねた。

「たとえ勧められてもやらないよ。多分ね。でも、興味はある」


「あーーーーー!」

 刑事部屋に如月の悲鳴が響き渡った。

「どうした?」

 紘彬が振り返った。

「カツ丼に納豆が乗ってる」

 如月は恨めしそうに長野トリオの方を見た。


 如月が納豆嫌いなのを知っていてわざと乗せたのだ。

 西日本出身だからか、如月は納豆が食べられない。

 何が面白いのか、長野トリオは隙あらば如月に意地悪してやろうと狙っていた。

 嫌がらせのためだけに職場に納豆を持ってくると言うのもある意味すごい。

 しかもきちんと練ってあった。

 ちゃんと長く糸を引くようにと、わざわざ練ってから載せたようだ。

 その情熱を捜査に向ければ出世も早まるだろうになぜ間違った方向に向けるのか。

 以前、如月が席を外した隙にパソコンにロックをかけたことがあるのだが、あっさり解除されてしまって以来、パソコンには手を出さなくなった。


「納豆食えないのかよ」

「花耶ちゃんだって納豆食うんだぜ」

 飯田達がはやし立てる。

「お前ら小学生かよ」

 紘彬はあきれ顔で長野トリオを見た。

「しょうがないな、俺の蕎麦食え」

 紘彬の言葉に如月は蕎麦をのぞき込んだ。

「つゆが真っ黒……」

 如月が悲しそうに言った。

「なんだ、蕎麦もダメか。そう言えば一緒に立ち食い蕎麦の店に入ったことなかったな」

「すみません。どうしても黒いつゆって苦手で」

「それじゃあ、お前の故郷じゃつけ麺は食べないのか?」

 紘彬は不思議そうに訊ねた。

「食べますよ。でも、うちの方は蕎麦よりうどんですから、つけ麺のつゆは黒くないんです」

 同じ日本なのに出身地によってずいぶん食文化は違うものだと紘彬は感心した。


「まどかちゃんは何?」

「まどかちゃんはやめろ。俺は天丼だ」

「じゃあ、変えてやってくれよ。まどかちゃんは納豆平気だろ」

「蕎麦にしてくれ。今朝歯ブラシが壊れたから納豆は食いたくない」

「力入れすぎだって。歯がすり減ってなくなっちゃうぞ」

 紘彬はそう言いながら団藤に蕎麦を渡した。

「すみません」

 団藤から天丼を受け取りながら如月は恐縮して頭を下げた。

「気にすんな」

 紘彬は納豆を端によけながら答えた。


 如月は子供の頃からいじめられっ子だった。

 そして、正義感の強い友達にいつも助けてもらっていた。

 その友達とは高校は別になってしまったが、如月は小学校から柔道を習い始め、高一の時、絡んできたいじめっ子を投げ飛ばした。

 それ以来、高校ではいじめられなくなった。

 しかし、警察学校へ入ってまたいじめられるようになった。

 警察学校を出て派出所勤務になってからはいじめはなくなった。

 派出所で一緒になった人はベテランの警官で、優しい人だった。

 だが、刑事になって今の署に転属になったらまたいじめられ、そして紘彬がかばってくれている。


 如月の経験から言っていじめられやすい人間はいる。

 しかし、それは紘彬には分からないに違いない。

 紘彬は誰かに悪意など持ったことはないだろう。

 だからいじめる側の気持ちなど理解できないだろうし、かといっていじめられる側になることもない。

 紘彬は誰からも好かれるタイプの人間だ。

 彼の周りには自然と人が集まってくる。如月自身も含めて。


「あの、花耶ちゃんが納豆食べるって本当ですか?」

「食うよ。さすがに昼飯では食わないけどな」

 紘彬は雑誌の開いたページに目をやりながらカツ丼を口に運んだ。

 腹部を血まみれにして倒れている男性の写真が載っていた。

 死後時間がたっているのか、血は黒く変色していた。

「それ、法医学の雑誌ですよね。なんの記事ですか?」

「遺体になってからどれくらいでハエが来て卵を産むかとかそういうこと。ハエが肉の塊に大量の卵を産むと丁度ミートソースにパルメザンチーズかけたみたいになるんだ」

 コンビニで買ってきたミートソーススパゲッティにパルメザンチーズをかけていた飯田が嫌そうな顔をしながら容器をデスクに置いた。

「よく食事中に読む気になるな」

 団藤が呆れたように言った。

「大学じゃウジの群れが握り飯の米粒が動いてるみたいなの見ながら飯食ってたからな」

 上田が食べていた塩握りをゴミ箱に捨てた。

 佐久はコンビニ弁当を掴むと慌てて刑事部屋から出て行った。


 そういえば、桜井さんってCSI:見て法医学者目指した人だったっけ。


 大学時代は暇さえあれば法医学部の教授にくっついて歩いて、ありとあらゆるグロい死体を見て回っていたと言っていた。

 大塚の監察医務院にもしょっちゅう顔を出していたから、内定もかなり早い段階で決まっていたらしい。


 定時を回り、それぞれが帰り支度をしていると、刑事部屋がノックされ中山が入ってきた。

「失礼します!」

 中山は敬礼した。

「よう、中村だっけ? どうした?」

「桜井さん、中山ですよ」

 如月が小声で正した。

「例の女性につきまとっていた男ですが」

「どうした?」

「女性に襲いかかっていたところを逮捕しました!」

「お手柄じゃないか」

 紘彬が中山の肩を叩いた。

「有難うございます!」

 中山が頬を紅潮させて敬礼した。

「あの女性は? 片桐だっけ?」

「片山です」

 如月が訂正した。

「首を絞められて意識を失っていたので救急車で病院に運びました」


 団藤と上田は、早速男を取調室に入れた。

 男はがりがりに痩せ、頬はこけ、肌は土気色をしていた。落ち着かない様子でしきりに貧乏揺すりをしている。

「まず、名前と住所は?」

 男は名乗らなかったが、身体検査の時出てきた免許証から、土田慎司という名だと分かった。


 同時に、如月は飯田とともに病院へ向かい片山紀子から話を聞いていた。


 土田の言い分によると、片山が自分にラブレターをくれたから話しかけようとしていただけだと主張していた。

「お前は話をするとき相手の首を絞めるのか!」

 上田が机を叩いて怒鳴りつけた。


 一方、ラブレターを渡したのかと片山に聞くと、

「知らないわよ! 大体この年でラブレターなんて出すと思う!?」

 と最初は答えていたのだが、土田の名前を聞くと、そう言えば中学二年の時に渡した記憶がある、と言った。

「でも、もう十年以上も前の話よ! あのとき結局返事はもらえなかったし!」

 確かに片山も土田も二十八歳だから中学二年の時と言ったら十四年も前の話だ。

「なんにせよ、殺人未遂だ。桜井、令状取って土田の家を家宅捜索してくれ。何か他の動機が見つかるかもしれん」

「了解」


       五


 土田の家は、地下鉄東西線の早稲田駅から五分程のところにあった。

 細い路地を入ったところに建つ、古くて今にも倒れそうなぼろアパートの二階だった。

 一階、二階とも二部屋ずつ、上の階へは外側に着いている階段を上がる。

 長年風雨に晒されるまま、手入れもされてなかったのだろう、外壁はなんとも言えない色をしていた。元が何色だったのか想像もつかない。

 ブロック塀がアパートと道路を隔てていて、その塀に郵便受けがついていた。

 郵便受けの扉の一つは取れかかっている。

 土田の郵便受けを覗いてみると、請求書がたまっていた。

 二階へ上がる階段の登り口で風に揺れているぺんぺん草が侘びしさを誘う。

 階段は足を乗せて体重をかける度に、悲鳴のような甲高い軋み音を響かせた。


「この階段、取れて落ちたりしないよな」

「いや、これは、その、申し訳ない」

 大家が顔を赤らめて謝った。

「一人ずつ上がりますか?」

 紘彬の言葉に佐久が訊ねた。

「ま、仮に落ちても二階からならそんなに大ケガにはならないだろ」

 紘彬はそう言うと無造作に階段を上り始めた。口で心配そうなことを言っていた割に行動は大雑把だ。

 佐久が慎重な足取りで続く。足下で階段が悲鳴を上げた。


 大家が合鍵を使って土田の部屋の鍵を開けた。

 部屋は四畳半二部屋で、外廊下に面したところに狭いシンクがあってそこにコンロが置かれていた。一応流しも付いていた。扉を開けると変な臭いがした。何かが腐った臭いだ。玄関は汚れてざらざらしていた。


 この分じゃ部屋の中も汚いだろうな。


 足を踏み出してみると、案の定畳の上もざらついていた。

 きっと靴下は汚れで真っ黒になるだろう。

 帰るときにそんな汚れた足で靴を履かなければならないのかと思うとうんざりした。

 紘彬は、今度どこかに家宅捜索に入るときは替えの靴下を持っていこうと心に決めた。

 今日のところは帰りに新しいインソールを買うことにした。

 家具が殆どなく、服などは部屋の隅に積まれていた。入ってすぐの部屋に置かれているコーヒーテーブルの上には食べ終わったカップ麺や菓子パンの袋が散らかっていた。カップ麺に残った汁が腐って異臭を放っていた。


「これならそんなに散らからないっスね」

「家宅捜索って散らかるものなのか?」

 紘彬は初めての家宅捜索だった。

「やる側が言うのもおかしいかもしれないっスけど、家宅捜索が終わった後って結構悲惨な状態なんスよ」

「片付け大変そうだな、とか思っちゃうんだ」

「そっス。ま、この部屋はそんな心配ないっスけどね」


 一応二部屋あるので二人は手分けして捜索し始めた。

 紘彬は奥の部屋を、佐久は玄関側の部屋を探し始めた。

 部屋の片隅に積み上げられた服の山からは汗臭い饐えた臭いがした。着た後洗わずに放り出してあるらしい。

 ポケットを点検しながら一枚一枚どけていった。どれも高田馬場辺りの安い服屋で百円から数百円くらいで買えそうなものばかりだ。

 紘彬がジャンパーをつまみ上げたとき、小さな袋に入った白い粉がポケットから落ちてきた。


「おい」

 佐久に声をかけながらそれを拾い上げたとき、

「桜井警部補、これ……」

 指を指された方を見ると、しわくちゃになった茶色い紙袋から一万札や千円札が十枚以上出てきた。

「あ、あいつ、家賃滞納してるくせにこんなに貯め込んでやがったのか!」

 佐久の指さす方を覗き込んだ大家が憤慨した口調で言った。

「警部補、よく見てください、この紙幣」

 紙幣はくしゃくしゃだった。

「変なしわが寄ってるな」

「ちょうど鷲掴みにするとこうなるっスよね」

 佐久が手袋をした手で握る真似をした。

 紘彬はジャンパーと野球帽を改めてつまみ上げた。

「コンビニ強盗がこんなの着てなかったか?」

「そういえば似てるっスね」


 土田慎司の部屋から見つかった白い粉はHeだった。

 また、押収された紙幣から強盗にあったコンビニの店員の指紋が出た。勿論土田の指紋も出た。

「お前がコンビニ襲ったんだな!」

 土田の取り調べをしていた団藤が断定するように言った。

「ち、違う!」

 土田は首を振って否定した。

「じゃあ、なんでコンビニの店員の指紋が出たんだ!」

「指紋ってどこから……」

「お前の部屋にあった紙幣からだよ!」

「紙から指紋なんて……」

「今は採れるんだよ!」

「それにしたってコンビニの店員の指紋なんてコンビニを使ったって証拠にしか……」

「一万円札を釣りでもらうわけないだろ! それに強盗にあったコンビニの店員のほとんどの指紋が採れたんだぞ!」

「…………」

「否定したって無駄だぞ。どっちにしろ殺人未遂で起訴できるんだからな」


 それでもしばらくは白を切っていたが、結局土田は白状した。

 土田は連続強盗犯であることと、片山を襲ったことを認めた。ヤクを買う金ほしさに強盗していたらしい。

 土田が最後にコンビニを襲ったとき、店を出たところで片山紀子とばったり会った。

 土田はすぐに片山だと分かったが、彼女の方はきれいに忘れていた。しかし、土田の方はしっかり覚えていて気付かれたと思い、口を封じようとしていたのだ。


「普通、ラブレターくれた相手なんて覚えてるもんかねぇ」

 刑事部屋で、団藤から土田の話を聞いた紘彬が言った。

「覚えてないんですか!?」

 如月は思わず声を上げた。

「渡した相手ならともかく、貰った相手はなぁ。まぁ、渡したことはないけど」

 紘彬は首をかしげた。

「ていうか、貰ったことあるんだ」

「それも覚えてられないほど」

 飯田と上田はそう言ってからハッとした。


 紘彬は医大に行けるほど頭がいい上に、剣道や柔道も有段者だ。顔も悪くない。

 というか、認めたくないが整った顔立ちでむしろいい方である。

 性格も明るく気さくで気取ったところもなく誰にでも親切だ。

 これでモテない方がおかしい。


「貰ったラブレター、取ってあります?」

 如月が訊ねた。

「便箋と封筒で渡されたのは机のどっかの引き出しに入ってるだろうけど、スマホとかにメールで来たのはもうないな。買い換えたとき廃棄しちゃったから」

「どっかの引き出しって……」

 ラブレターをその辺の引き出しに適当に放り込むなんて信じられないと言う顔で飯田が紘彬を見た。

「俺だったらそのスマホ、家宝っスよ」

 佐久が言った。

「俺、忘れてないぜ」

 上田が胸を張って言った。

「貰ったことがなければ忘れることも出来ないだろうが」

 団藤が茶々を入れた。

「あ、ひでぇ」

「しかし、一度も貰ったことがないより、十年以上も前にたった一度もらったラブレターのことをしっかり覚えてる方が哀れっスよね」

「なんか、そのときが人生のピークって感じだよな」

「中二が人生のピークって言うのは確かに同情するよな」


 片山紀子は団藤からコンビニ強盗の話を聞くと、そういえばコンビニに入ろうとしたとき出てきた男とすれ違った、と言った。

「でも、マスクして眼鏡かけて野球帽をかぶってたから顔なんて見てません」

 と言うわけで、コンビニ強盗の証人にはなれそうもなかった。

「何で片山紀子はコンビニ強盗の時に事情聴取されなかったんだ?」

 記録が残っていれば、もっと早い段階でコンビニ強盗とストーカーを結びつけていたかもしれない。

「店員が強盗だと言って警察に電話してるのを聞いて、すぐに店を出てしまったそうです」

「犯人見たなら残ってくれよな」

 そうすればもっと早く解決できたかもしれないのに、と言いたげな団藤の言葉に、

「一般人はそんなものですよ」

 如月は慰めるように答えた。

 終わった事件にいつまでもこだわってはいられない。

 次の事件が待っているのだ。空き巣に通り魔、それに明け方は放火もあった。

 紘彬達は次の事件の聞き込みのために刑事部屋を後にした。


「なぁ、聞いたか?」

 紘一が教室に入ろうとするとクラスメイトの青山に引き留められた。

「何を?」

「内藤だよ。万引きしてるの見たって、女子が噂してた」

「まさか。内藤んちって親父さんもお兄さんもお祖父さんも検事って言う検事一家だぜ」

 青山の言葉を一笑に付した。

「赤坂だって見たって言ってたぜ」

「あり得ないって」

 紘一には信じられなかった。


 内藤は紘一が何となく気にかけてる存在だった。境遇が自分に似てる気がするのだ。

 もっとも、紘一の父は零細企業の社長に過ぎないから、似てるなんて言われたら内藤は気を悪くするかもしれないが。

 内藤の家が代々検事の家柄のように、紘一の家も落合で江戸時代から続く染色工場をしていた。

 だから、父方の祖父は当然紘一が染色工場を継ぐと思い込んでいる。


「別に親が検事だからって万引きしないとは限らないだろ。警官だって万引きや盗撮してるじゃねぇか」

 青山とのやりとりを聞いていたらしい石川信雄が口を挟んできた。


 石川信雄というのは、以前紘彬や如月に言った、Heをやったことがあるとうそぶいていたというクラスメイトである。

 兄が歌舞伎町でホストをやっていると言うが、その兄に似てないのか、それともその兄も大したことないのか、信雄はジャガイモに目鼻を付けたような顔で、しかも顔中にニキビがある。


「お前の従兄だって何やってるか分からないぜ」

 石川が嘲るように言った。

「なんだと!」

 紘一と石川が睨み合った。数秒後、二人は反対方向に離れていった。

 二人はお互い手を出す気はなかった。

 紘一は剣道と柔道の練習と試合以外での私闘は禁じられている。


 だから喧嘩になったら一方的に殴られることになる。

 わざわざ痛い思いをする気はない。それに、今は敵わないと思ってるから何もしてこない連中も、紘一がやり返せないと知れば手を出してくるのは目に見えている。

 石川の方にしても、殴り合いになったら勝ち目はないのは分かっている。

 紘一が私闘を禁止されてることは知らないから、喧嘩になったら投げ飛ばされると思っていた。

 もし紘一に投げ飛ばされて面子を潰されたら、取り巻きに示しがつかなくなる。

 石川にくっついているのは喧嘩が強いからではなく、違法な薬物のおこぼれに預かれるからだというのは分かっているが、それでも紘一に負ければ陰でバカにされるのは目に見えている。

 だから二人は仲が悪いが殴り合いはしたことがなかった。

「おう、お前ら、今日歌舞伎町行こうぜ」

 石川は取り巻きにそう言って教室から離れていった。

「とにかくさ、何かの間違いだからそんなこと言いふらすなよ」

 紘一は青山にそう言うと教室に入った。

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