花のように

月夜野すみれ

第一章 花吹雪

       一


 暖かい春風が花の香りを乗せて通り過ぎていく。

 満開の桜からは花びらが、空に輝く太陽からは日差しが降り注いでいた。アスファルトの道路も花弁で桜色に染まっている。

 桜の根元では黄色い菜の花や紫色の花大根が競うように咲いていた。

 その中から紫の花菖蒲が一輪、飛び出していた。ここまで来る途中で、白い花菖蒲が何輪か咲いているのを見かけたから、季節外れというわけではないようだ。

 花から花へ、蝶や蜂が飛んでいる。


 花耶かやちゃんの嫌いな虫の季節になったな。


 桜井紘彬ひろあきは蜂を目で追いながら思った。

 紘彬は従弟の藤崎紘一こういちと映画の試写会へ行くために早稲田駅へ向かっていた。そこから地下鉄東西線で九段下へ行くのだ。

 紘彬は紺色のジャケットに、同じ色のスラックスを身につけていた。時折通り過ぎる風がジャケットの裾を揺らす。

「映画、花耶ちゃんとじゃなくて良かったのか?」

 紘彬は紘一に訊ねた。


 紘一は紘彬より八歳ほど年下の十七歳だが、身長はほぼ同じくらいである。顔つきももう大人に近い。青いジャンパーを着て紺色のスラックスをはいていた。

「この年になって姉ちゃんなんかと出掛けられるかよ」

 花耶は黒髪の美少女である。さらさらのまっすぐな髪を胸の辺りまで伸ばしている。

 従兄の目から見てもかなり可愛い。

「そうか。見終わったら神保町へ行こうな。おいしいコーヒーの店知ってるんだ」

 道の左手は戸山公園から伸びてきた幅一メートルほどの地面が続いていて、桜のほかに山桃や山茱萸さんしゅゆなどが植えられている。

 山桃も今は満開で濃いピンクや白い花を咲かせている。

 その向こう側は少し小高くなっていて、その上にも木々が植えられていた。この辺りは戸山公園の箱根山地区だ。

 右手は民家が続いている。今歩いている右側の民家は改装工事が終わったばかりで鉄パイプなどが敷地と道路との境に置かれていた。


 紘彬がのんびりと桜を見上げたとき、

「桜井警部補!」

 誰かが声を潜めて呼びかけてきた。警部補と呼ばれたと言うことは確実に仕事がらみだ。

 紘彬は顔をしかめた。

「兄ちゃん、あそこ」


 紘一が物陰に立っている制服警官を指した。

 二十代半ばくらいだろうか。紘彬より一つか二つ年下らしき警官が手招きをしていた。どこと言って特徴のない平凡な顔つきだ。制服警官の群れに紛れてしまえば見分けはつかなくなるだろう。


 今日はせっかくの休みである。

 出来れば関わりたくないと思いながらも、知らん顔をすることも出来ず、仕方なく警官の元へ向かった。

 警官が乗ってきたらしい自転車が民家の塀に立てかけてあった。

「どうした?」

「あれを」

 警官が十メートルほど離れた場所を指した。


 指された方向を見た紘雪は思わず目を見張った。

 そこには一人の男が立っていた。男は全身が赤黒く染まっていて服装も分からないほどだった。

 手にはやはり暗赤色の日本刀らしきものをひっげている。

 服が張り付いた身体は信じられないほど細かった。やせているなんてものではない。

 男と刀を染め上げているのは返り血だろう。抜き身の刃からは赤い雫が滴っている。


 桜吹雪の中に立つ、血まみれで日本刀を手にした男。

 とても現実とは思えなかった。


「なんだ、あれは」

「自分もたった今発見したばかりで……」

 春の日差しの下、満開の桜からは雨のように花びらが散っている。

 そんなのどかな住宅街に血まみれの男が立っているのである。しかも手に持っているのは日本刀だ。

 警官が戸惑うのも無理はない。まだ拳銃でも持っててくれた方が分かりやすい。

 男は虚ろな目で虚空を見つめていた。目が充血している。身体をわずかに前後に揺らしながら歩いていた。


「えっと……?」

 紘彬は警官を見た。

「中山敬吾巡査であります」

「応援は?」

 訊ねながら時計に目を落として時間を確かめた。

「今、署の方へ連絡を入れました」

 紘彬は男を見ながら考え込んだ。


 今日は休みの日だ。

 見なかったことにして行ってしまおうか。

 しかし、そのことがマスコミにバレたら叩かれるのは必至だ。

 きっとワイドショーのレポーター辺りがしたり顔で「職務怠慢」とか何とか言うに決まっている。

 マスコミは警察の悪いところばかり報じて良いところは黙殺する。

 人の悪いところをあげつらっていればいいのだから気楽な商売だ。

 この辺りをバックにレポーターに囲まれて質問攻めにされる自分が目に浮かぶようだ。

 顔が写されず、声が変えられたとしても紘彬を知ってる人ならすぐに分かるだろう。

 いや、顔を隠したり声を変えたりなんて配慮をしてもらえるかどうか……。

 マスコミは公務員ならいくら叩いてもいいと思っている。


 花耶ちゃんはがっかりするだろうか。

 紘一はどう思うだろう。

 でも、せっかくの休みなのに……。


 あの血刀男けっとうおとこに関わったら間違いなく報告書を書くために署に行かざるを得なくなる。そうなったら休みはお終いだ。


 紘彬は渋々もう一度男に目を向けた。

 刀は血まみれだ。あれだけ血にまみれていたらもう切れ味は鈍っているはずである。

「あんだけ血を浴びてるってことは、斬ったのは一人二人じゃないな」

「現場はどこでしょうね」

「そうだなぁ」

 不意に男が三人の方を見た。紘彬達を見つけると、ゆらりとこちらに足を踏み出した。

 刀が振り上げられる。

「やばい! 気付かれた!」

 そう言っている間にもゆっくり男が近付いてくる。リアルホラーだ。

 このままでは次の犠牲者は自分達になる。


「紘一、逃げろ! 家に帰って通報するんだ!」

「分かった」

 紘一が駆けていくのを見送ると、紘彬は男の方へと向き直った。

 男はもうすぐそこまで来ていた。刀を振りかぶっている。

「銃を向けて警告しろ! 早く!」

 中山は拳銃を抜くと構えた。

「動くな! 撃つぞ!」

 男はまるで聞いてない様子で近付いてくる。

「巡査、撃て!」

「しかし……」

 中山は完全に腰が引けている。これでは当たるものも当たらないだろう。

「警告はした! 腕か足を狙え! 早く! 万が一あいつが死んでも正当防衛だって証言してやる! さっさと撃て!」

 あと少しで男の間合いに入ってしまう。

「それが……自分は射撃が苦手でして……。桜井警部補、代わりに撃っていただけませんか」

 中山が情けない顔で紘彬の方に顔を向けた。

「俺、拳銃なんか持ってないぜ」

 紘彬はジャケットの前を開けてホルスターがないことを示した。

「自分のをお貸しします」

「冗談だろ。人の拳銃を撃ったりしたら報告書何枚書かされると思ってるんだ」


 一発発砲するごとに報告書を書くのに忙殺されるのである。他人の拳銃を使ったとなれば、報告書の枚数は更に増えるだろう。

 いや、それ以前に二人とも処分されるに違いない。


「威嚇射撃なら腕は関係ないだろ」

「そうですが……」

 警官が躊躇うのも無理はなかった。

 紘彬達がいる道の脇の斜面の上には高校があるのだ。

 今は春休み中のはずだが校庭には運動部の生徒達がいるらしく、時折掛け声や歓声が聞こえてくる。

 歌舞伎町辺りならともかく、ここは住宅街だ。銃撃事件など皆無に近い。

 そんなところで拳銃をぶっ放せば大騒ぎになるだろう。

 もっとも、銃声を聞いたことがないから車のバックファイアと勘違いしてくれるかもしれないが。


 紘彬と中山は近付いてくる男にあわせて後ずさっていた。

 紘彬は左右に目を配って何かないか探した。

 右側の家の作りかけの塀のそばに鉄パイプが落ちていた。


 男の背は百七十センチくらいか。がりがりに痩せている。手にした刀からは血が滴っていた。刀身は七十センチくらいだろう。

 地面に散った桜の花びらが風に飛ばされて男の方から紘彬達の方へと流されてくる。花弁の中には血の付いているものもあった。


 中山は拳銃を抜いてはいるものの撃てないでいた。銃を上に向けて、迷うように左右に揺らしている。

 威嚇射撃と言っても、実弾を発砲するのだから落ちてきた弾が当たればケガをする。

 弾が落ちても大丈夫そうなところを探しているのだ。

 もう応援は呼んであるし、紘一も警察に電話したはずだ。


 あと少し待てば……。


       二


 そのとき、紘彬達と男の中間くらいで金属のきしむ音がして民家の門が開いた。中から幼稚園児くらいの子供が出てきた。

「優ちゃん、待ってちょうだい」

 家の中から母親らしき女性の声が聞こえてきた。

 男が刀を振り上げたまま子供の方に身体を向けた。


「やばい!」

 紘彬はとっさに近くに落ちていた鉄パイプを拾うと男と子供の間に入った。

 振り下ろされた刀を間一髪で受け止めた。

 男は予想外に強い力で押してくる。

 背後で中山が子供を連れ去った足音を聞くと後ろに飛びさすった。

 紘彬が鉄パイプを青眼に構えたのと、男が再び刀を振り下ろすのは同時だった。

 刀を右に弾く。

 刀についた血が紘彬に跳ねかかる。

 男は立て続けに刀を打ち込んできた。

 それを右に左にと弾いていく。


 安物の日本刀ならとっくに折れているはずである。相当な業物なのだろう。

 刀と鉄パイプがぶつかる度に金属音が住宅街に響く。その都度、刀についた血が紘彬に降りかかってくる。

 男に剣道の心得はないようだ。ただめちゃくちゃに振り回しているだけである。

 すぐに男の動きは見切れた。

 紘彬は男の振り下ろした刀を体を開いてよけると、すれ違いざまに小手を打った。

 手加減したつもりだったが、手の甲の骨が折れる音が聞こえた。

 紘彬はすぐに体を反転して男に向き直った。

 男は何事もなかったかのように振り返り、紘彬を見るとにたりと笑った。

 薬物のせいだろう。痛みを感じなくなってるらしい。

 しかし、そうなると応援が来るまでこのまま打ち合っていなければならないのだろうか。

 まだまだ息が上がったりはしないが、春の陽気に、ジャケットの下のシャツが汗で素肌に張り付いている。

 男は馬鹿の一つ覚えのように刀を振りかぶると、打ち下ろしてきた。

 それを鉄パイプで弾く。

 鉄パイプを握る手が汗ばんで滑りやすくなってきたが汗を拭いてる暇はない。

 しかし、鉄パイプを落としたりしたら男の兇刃にかかってしまうのは間違いない。

 これだけ血にまみれていれば、斬られる心配はないだろうが、この力で刀を叩き付けられたら確実に骨が砕ける。刀さえなければこちらは二人だ。中山と二人で押さえ込めるだろう。だが、手の骨を折っても刀を放さないのだ。


 となれば……。


 男が振り下ろした刀をわずかな体捌きでよけると、裂帛の気合いを発して渾身の力で下段から刀を跳ね上げ、返す二の太刀で太ももを打った。一瞬の出来事だった。

 男が尻餅をつきながら後ろに倒れた。

 手から刀が離れた。

 次の瞬間、どこから湧いてきたのか、制服警官が次々と男の上に覆い被さっていった。

 同時に拍手が聞こえてきた。周りを見てみると、いつの間にか野次馬に囲まれていた。


 そう言えば、巡査が警告したんだっけ。


 巡査の声は静かな住宅地に響いただろう。

 随分沢山の警官がいたように感じたが、数えてみたら三人だった。

 警官達は次々と起き上がって、もがいている血刀男を改めて押さえつけた。

紘兄ひろにい!」

「兄ちゃん!」

 花耶と紘一が駆け寄ってきた。

「大丈夫?」

「平気平気」

 紘彬が袖で顔をぬぐっていると、花耶がハンカチを差し出した。隅にピンク色の花が刺繍してある真っ白できれいなハンカチだ。


 紘彬が使っていいのか躊躇っていると、

「桜井さん、ご無事ですか?」

 如月風太巡査部長が駆け寄ってきた。

 如月は刑事なので私服だった。警官としては小柄な方だし童顔で実際より若く見える。紘彬と並んでいると、如月の方が何歳も年下に見えるが実際は二歳しか違わない。

「血が……」

「これはあいつの刀の血がかかっただけだ。それより、あの刀の血が何かの感染症に冒されてないか忘れずに検査させろよ。こんなことで肝炎やHIVに感染したらシャレにならないからな」

 刀の血は目にも入ってしまった。

 手術用のゴーグルをしていたかった。それとマスク。そうすれば体液による感染はなくなる。幸い手に傷はないし。

「必ず検査するように言っておきます」

「もしこれでHIVに感染してエイズで死んだら労災認定降りるかな」

「難しいケースですねぇ」

 如月は本気とも冗談ともつかない表情で首をかしげた。

 紘彬は腕の時計に目を落とした。もう十分以上たっていた。


「遅かったじゃないか」

「桜井さんの剣技に見とれてまして」

「俺が二階級特進したがってるように見えたか?」

「今日は休みですから二階級特進はないんじゃないかと」

「やっぱりバっくれればよかった」

「冗談ですよ」

 如月は笑って言った。

「で、遅れたホントの理由は?」

「刃物を持っているという報告を受けたので指叉を探してまして」

 その言葉に警官達や、その周りを見たが指叉はなかった。

「ちょうど近所の学校の安全教室で指叉を貸し出しててありませんでした」

 紘彬の視線に気づいた如月が言った。

「意味ねぇ」

 紘彬は思いきり脱力した。

 そんなものを探すより早く来てくれた方がどれだけ有難かったか。

「如月巡部長」

 男を立たせた警官の一人が如月に声をかけた。

「桜井さん、これを。警視総監賞確実ですよ」

 如月が手錠を差し出した。

「警視総監賞?」

 きっと報告書を山程書かせられるだろう。

 紘彬はさっきの警官の方を振り返った。


「中沢」

「中山です」

「お前が手錠かけろ」

「いえ、自分は見てただけですから」

 中山は慌てて手を振った。

「見つけたのも子供を助けたのもお前だ。お前が逮捕しろ。こんな住宅街しかない管轄で手柄を立てるのは大変だろ。俺は手柄なんていらないから」

 うっかり手柄を立てて昇進でもすることになったら大変だ。

 出世したらよそへ栄転と言うことになってしまうし、より責任の重い地位に就かされるだろう。

 それに何より大量の報告書を書くのが面倒だ。

「しかし……」

「巡査、桜井さんのご厚意を受けとけ」

 紘彬の考えを読み取った如月は中山に手錠を渡した。それから紘彬に向き直った。

「桜井さん、お手数ですが、今回のことを報告書に……」

「やっぱり書かなきゃダメか」

 紘彬はため息をついた。

「どうせあいつがケガさせたか殺したかした被害者の捜査があるよな」

「まぁまぁ」

 如月は宥めるように笑った。

「逮捕はしませんでしたから警視総監賞は無理でも、署長から表彰されるかもしれませんよ」

「賞状貰ってもなぁ……」

 あんまり嬉しくない。


 警察に入ってからはともかく、学生時代は表彰されるのは珍しくなかったから賞状の類は腐るほどある。

 両親も慣れてしまったせいか高校に入る頃にはもう貰ってきてもその辺の引き出しに放り込んでいた。

「金一封は出るかな」

「無理じゃないかと。どちらにしろそんな大金じゃないですよ」

 如月は二十代前半という若さで巡査部長になっただけあって、警視総監賞を貰ったことがある。

 金一封を貰ったのも一度や二度ではないのだろう。

「金一封か、振替休日でももらえないかなぁ」

「どっちも無理でしょうねぇ」

「やっぱりなぁ。せめてクリーニング代くらい経費で落ちないかな」

「それも無理かと」

「せっかく呼び出されないようにスマホの電源切ってたのに」

 紘彬は上着の胸ポケットからスマホを出すと電源を入れた。

「それ規則違反ですよ」

 如月は苦笑した。

「マスコミに叩かれてもいいから逃げれば良かった」

 紘彬は、いつものように本気とも冗談ともつかない口調で言った。

 それを如月は笑って聞き流しながら、初めて会った二年前のことを思い出していた。


       三


二年前――。

 その日、如月は刑事になった初日で、配属先の刑事課課長のオフィスへと出向いた。

 如月が大して広くないオフィスへ入っていくと先客がいた。


 身長百七十センチの自分よりさらに十センチ以上背の高い男性で、整った顔立ちをしていた。

 それが桜井紘彬だった。ぱっと見はすらりとして細身に見えるが、胸板は厚く、ワイシャツの首回りやスーツに隠れている二の腕はきつそうだった。

 紘彬は大卒で国家公務員試験を受けて刑事になったので、一見頭脳派に見えるが柔道と剣道の有段者だ。高校時代、剣道の全国大会で優勝したこともあるらしい。

 紘彬のことは聞いていた。

 と言うか、東京の警官で知らない人間はいないのではないかと言うくらい噂になっていた。

 紘彬と同じ署に配属になるというのも同期のものがメールで知らせてくれていたからすぐに分かった。


「桜井警部補でありますか? 自分は……」

 如月が直立して敬礼をしながら話しかけると、

「呼び捨てでいいよ。そっちの方が先輩だろ。俺、警官になったばっかだぜ」

 紘彬は如月の言葉を遮った。

「存じております」

「だから、敬語はいいって。そっちは何年目?」

「五年目です」

「叩き上げじゃないか」

「叩き上げなんて恐れ多い。自分はまだ若輩者でありますから……」

 如月は慌てて手を振った。

「どっちにしろ先輩先輩」

 紘彬は気にした様子もなく、如月の背中をばんばん叩きながら明るく言った。

 上下関係の厳しい警察組織で何年も過ごしてきた如月は戸惑って紘彬を見上げた。

「しかし、階級が……」

「階級ねぇ。あんまり有難くないんだけどな。警部補って国家公務員だからな」

「国家公務員試験を受けたんですから当然かと……」

「そうなんだけどさ。何か失敗して降格にならないかな」

 一つ下なら地方公務員だろ、などと言っている。


 この人は正気なんだろうか。


 如月は自分より背の高い紘彬の顔を見上げながら思った。

「降格したら給料も減るんですよ」


 殉職すると二階級特進するのは退職金などの額を増やすためである。

 給料にしろ退職金にしろ階級が上がるほど上がるから、階級を上げて遺族に支払われる額を増やすのだ。


「それに降格するほどの不祥事起こしたら普通はクビですし」

「けどなぁ……。とんでもない田舎に転勤させられたらどうするよ。俺んち江戸時代から東京――昔は江戸だけど――に住んでるから田舎なんて旅行とかでしか行ったことないんだよな」

「東京都の場合、絶海の孤島がいくつもありますから地方公務員でもあまり変わらないんじゃないかと」

「そうだよなぁ。空港が無くて船は週一便なんてとこも珍しくないしなぁ」

 紘彬は誰にともなく頷いた。

「まぁ、島嶼部とうしょぶに飛ばされることになったら辞めるけどな」

 紘彬は明るい顔で言った。

 早く警部補になって故郷に転属したい如月としてみれば贅沢な話なのだが、不思議と腹は立たなかった。


 そもそもこの人はこんなところにいるのが何かの間違いなのだ。


 卒業した大学からして医大である。

 大塚の監察医務院への就職も内定していた。

 それが何をとち狂ったか、突然国家公務員試験を受けて警官になったと思ったら、今度は何やら不祥事を起こしたらしく、速攻でキャリアから外れたという変わり種だ。

 不祥事の原因は誰も知らないらしい。ホントに不祥事を起こしたのかどうかさえ定かではない。

 ただ、キャリアを外れたのは確かのようだった。


 課長から辞令を受けた紘彬と如月は同僚の刑事達と引き合わされた。

「俺は団藤まどか警部補だ」

 黒っぽい背広を着た、彫りの深い顔立ちの男が自己紹介した。刑事課のリーダー的存在のようだ。

「まどかちゃんって言うんだ」

 三十代半ばの団藤は紘彬にとって先輩のはずなのにタメ口で言った。

「ダンと呼んでくれ」

 団藤の方も気にした様子もなく答えた。

「だんどうだん? ミサイルみたいだな」

「いいじゃないか、男らしくて」

「よろしくな、まどかちゃん」

 紘彬は明るく団藤の肩を叩いた。

「ダンだ」


「まどかちゃんだって」

 団藤の隣に立っていた三人組がにやにやしながら肘で突きあっていた。

 三人も団藤と同じく三十代くらいに見える。

「そっちの三人が長野トリオ」

 むっとした団藤が三人を一纏めにして言った。

「佐久健二巡査部長であります」

「上田猛巡査部長であります」

「飯田洋一巡査部長であります」

 三人が並んで敬礼をしながら自己紹介した。

「長野トリオって、名字が長野の地名だからか?」

「三人とも長野県出身で、よくローカルな話で盛り上がってるからだ」

「へぇ」

「よし! 顔合わせがすんだら事件の話に移るぞ」

 団藤が手を叩いて注意を集めた。

「おい、新入りのパンダ、茶、入れてこい」

 長野トリオの一人、飯田が言った。

「はい」

 如月はすぐに給湯室に向かった。


 給湯室の場所は訊いてなかったが、さっき通り過ぎたときにチェックはしていた。

 自分が一番の下っ端なのは分かっている。当然お茶くみは自分がやることになるのだ。

 狭くて薄暗い給湯室に入ったとき、人の気配がして振り返ると紘彬がついてきていた。

「桜井警部補、どうされたんですか?」

 如月は電気を付けながら訊ねた。

「新入り、茶、入れてこいって言われただろ」

「あれは自分のことです。桜井警部補はパンダなんてあだ名ついてないですし」

「なんでパンダなんてあだ名がついてるんだ? 捕り物で殴られてパンダにでもなったか?」

「いえ、自分の名前は風太なんです。昔、例のアライグマが立ち上がって話題になったのを覚えてる人がいて……」

「レッサーパンダだろ。……それでパンダか」

 紘彬は納得したように頷いた。

「でも、俺も新入りには変わらないし」

「桜井警部補はいいんですよ。警部補なんですから」

 如月はそう言いながらやかんに水を入れ火にかけると、戸棚から急須とお茶っぱの入った缶を探し始めた。


「俺、これでもお茶入れるの得意なんだぜ。花耶ちゃんに教わったからな」

「花耶ちゃん?」

「俺の従妹だ。写真見るか?」

 紘彬はそう言うと胸ポケットからスマホを出した。

「これが俺の従妹弟の花耶ちゃんと紘一」

 紘彬はスマホのアルバムの中から一枚を選ぶとそれをタップして表示し、さも自慢そうに写真を見せた。

 写真には紘彬に面差しが似ている少年が一人と、高校生くらいのきれいな女の子が一人、それに二十代後半くらいのすごい美女が写っていた。

 三人とも頭が良さそうに見えるのは紘彬の血縁という色眼鏡で見てるからだろうか。

「こっちが花耶ちゃんで、こっちが紘一な」

 紘彬は女の子を指し、次に少年を指すと胸を張った。


 従妹弟の写真をこんなに自慢げに見せる人も珍しいな。


「このきれいな方はどなたですか?」

 如月は女性を指さした。

「それは俺の姉ちゃん。花穂かほって言うんだ」

「美形一家なんですね」

 戸棚からお盆を取り出し、人数分の湯飲みを乗せながら言った。

「美形ってほどじゃないだろ」

 紘彬は茶筒の蓋を開けて中を覗くと、なんだ番茶か、と言って蓋を閉めて元のところに戻した。

「美人ですよ、花耶さんもお姉さんも」

「ちなみに紘一は今高校一年。花耶ちゃんが大学一年。姉ちゃんは結婚して家出た」

「高一と大学一年ですか」

 如月は紘彬が戻した茶筒を取ると、茶葉を急須に入れた。

「お前まで言うなよ」

「何をですか?」

「紘一が高一って駄洒落」

「どういうことですか?」

「俺の親父や紘一の叔父さんが会社で言ってるらしいんだよ。『紘一が高一』って親父ギャグ。それが言えるのは高校一年の一年間だけだからって何度も言ってるらしいんだ」

「はぁ」

「どん引きするだろ。ただでさえ寒い親父ギャグを繰り返すなんてさぁ」

 自分より階級が上の人の家族をけなすのに同意するわけにはいかない。答えを探しあぐねてると、ちょうどお湯が沸いた。

 お茶を入れたお盆を持って刑事部屋に戻ると捜査会議が始まった。


       四


現在――。

 紘彬は、血刀男との戦いでジャケットには返り血がついてしまった。

 ハンカチで顔をぬぐいながら野次馬をかき分けて自分の家に向かった。

 紘彬の家はここから歩いて二分程度だ。

 野次馬の大半は近所の知り合いだったから、口々に「大丈夫だった?」などと声をかけられた。

 それを適当に受け流しながら家に帰った。


 どうせ犯行現場は近所だろうから署に着く前に分かるに違いない。

 だったら行くだけ無駄だ。

 紘彬の勤務先である警察署へは家から徒歩十五分程だから、警察の寮に入らず自宅から通勤している。

「紘一、ごめんな。試写会は友達と行ってくれ」

「分かった。気にしなくていいから」

 シャワーを浴びて着替え、玄関に行くと如月が待っていた。

 犯行現場が分かったのだろう。紘彬は如月と共に家を出た。


 案の定、犯行現場は男がいた場所のすぐ近くの家だった。

 つまり紘彬の家の近所でもある。

「桜井さん、あの男のこと知らなかったんですか?」

「見たことないなぁ」

 近所と言っても紘彬は昼間は仕事でいない。

 警察に入る前は学校へ行っていた。

 だから近所の人のことは余りよく知らないのだ。それに、あの男に限って言えば、顔に大量の血がついていた。


 家の周囲には人が大勢集まっていた。もちろん、マスコミも来ていた。

 如月と上田、佐久は聞き込みに回った。

 これだけ大勢いるとなるとかなり時間がかかるだろう。

 犯行現場の家に入るとき、

ひろ君、どうなってるの?」

 近所のおばさんに声をかけられた。


 きっと警察官の自分が近所に住んでいながら事件が防げなかったとか言って後ろ指指されるんだろうなぁ。


 紘彬は密かにため息をついた。

 初老の女性が台所近くの廊下に、台所で二十代半ばと思われる女性二人と二、三歳くらいの子供二人が血まみれで死んでいた。

 現場と思われる台所は血の海だった。床は勿論のこと、壁や天井からも血が滴っている。

 五人ともいくつもの刀傷があった。めちゃくちゃに振り回した刀に斬り付けられたのだろう。

 血まみれで分かりづらかったが、大人の女性の一人と子供の一人は知ってる顔だった。

 家はここではなかったはずだ。多分遊びに来ていたのだろう。

 残りの三人には見覚えがなかった。


 後で祖母ちゃんに訊いてみよう。


 紘彬の家の家族構成は母方の祖父母と両親、それに紘彬の五人である。

 姉の花穂は結婚して家を出ている。

 祖母は町内会の理事をしているから近所の人達には詳しい。

 ちなみに祖父は剣道の元道場主である。

 バブルの前までは早稲田で道場を開いていた。だが、地価が上がると地上げ屋に散々嫌がらせを受けた。チンピラに殴り込まれ――祖父にあっさりつまみ出された――、トラックに突っ込まれ、放火され、これ以上粘ると近所に迷惑がかかるからと、仕方なく売り払ったのはバブルがはじける直前だった。

 そのときには最高値が付いていた。

 バブル崩壊後、銀行は祖父に土地の買い戻しを打診してきた。

 バブル崩壊前の地価で。

 祖父はそれを蹴った。

 その後、売った土地の買い戻しを銀行に申し出た。

 最安値まで下落した地価の値段で。

 当然断られた。

 そのため、道場のあった場所は不良債権と化し、現在は駐車場になっている。

 祖父は今、近所にある新宿区のスポーツセンターで剣道を教えていた。


「全部の部屋を見回りましたが被害者はこの五人だけのようです」

 この現場を発見した制服警官の一人が報告してきた。

「まぁ、家を出てすぐに桜井達に見つかったのは不幸中の幸いだったな」

 団藤が言った。

 確かに、他の通行人に斬りかかる前に取り押さえることが出来たのは僥倖だったといえるだろう。被害者は五人に抑えられた。

「家の中で殺されてるな」

 団藤が呟いた。

 玄関口でさえない。

 つまり、

「あの男はこの家の人間だったのか?」

 と言う疑問が沸いてくる。

「身元の割り出しを急がせます」

 飯田が言った。

 周囲では鑑識官達が指紋採取用の粉を振りかけたり写真を撮ったりしている。

 検死が終わった遺体を紘彬達も検めた。


 子供二人と女性二人は滅多斬りにされていて、斬られた順番などは司法解剖で詳しく調べるまでは分かりそうにない。

 初老の女性は血は付いているが、それは刀に付いた血が飛び散ったものがほとんどで大半は打撲傷だった。

 多分、子供や女性を切ったせいで刃こぼれしてあまり切れなかったのだろう。

 だが、日本刀というのは鋼の棒のようなものだ。それで滅多打ちにされれば打撲で命を落とす。

「鞘はこちらの部屋です」

 飯田が台所の向かいの部屋から呼びかけてきた。

 鑑識の粉が振りかけられた鞘が部屋の床の間の前に放り出されていた。

 床の間には刀掛けが置かれていた。

 上の段には何もなく、下段に脇差が置かれていた。

 わざわざ床の間に刀掛けを置いて飾っていたことや、鉄パイプとさんざん打ち合っても折れなかったところを見ても、相当な業物わざものなのだろう。

 放り出された鞘も、指紋採取の粉を振りかけられて悲惨な状態だが、細工の凝ったもので相当良い物であることは想像に難くない。

 投げ出されている鞘は、刀掛けに掛かっている脇差しと同じ黒漆塗だった。

 脇差の鍔は透かし彫りで小柄は金箔で細工が施されていた。


 あんな使われ方さえしなければ一財産だっただろうな。

 勿体ない。


 確認は必要だが、この家の殺しを血刀男がやったのは間違いないようだ。

 表札によると、この家には夫婦とその子供、そして夫の母親が住んでいたらしい。被害者は血刀男の妻子と母親、それに遊びに来ていた友達親子と言ったところか。

 鑑識が必要な仕事を終えると、被害者達が運び出されていった。


 捜査は遅くまで続いた。

 聞き込みに特に時間がかかったのだ。

 紘彬は署に着くと刑事部屋にある自分の椅子に座り込んだ。

 思わず深いため息が漏れる。

「桜井、ご苦労だったな」

 課長が言った。

「早速だが、記憶が新しいうちに報告書を頼む」

「はい」

 紘彬は自分のパソコンを立ち上げた。

 パソコンの壁紙は以前如月に見せた紘一達の写った写真だ。

 如月が壁紙にしてくれたのである。


 如月はパソコンオタクだった。寮には自作のパソコンがあるらしい。今手に入る中で一番のハイスペックなのが自慢らしい。


 血刀男や死んだ五人の身元はすぐに割れた。犯行現場とその近所に住んでいたので知っている人間が何人もいたのである。

 ただ、何故男が五人も斬り殺したかは不明だという。

「あの男は黙秘してるんでしょうか」

 如月が訊ねた。

 課長はちらっと紘彬を見た後、

「あの男は死んだ」

 と言った。

「え!」

 紘彬は驚いて顔を上げた。

 思わず如月と顔を見合わせた。

「俺のせいですか!?」

 紘彬が立ち上がって訊いた。

「でも、あの男、取り押さえられた後、立ち上がりましたよ」

 如月が庇うように言った。

「死因は不明だ。今急いで検死解剖しているところだ」

「俺、ちゃんと足打ったぜ。叩く瞬間、力を抜いたし」


 鉄パイプで力任せに胴を殴られたら普通の人間だって死んでしまう可能性がある。

 ましてヤク中なら内臓はぼろぼろだろう。

 だから足を狙ったのだし、それだって力を加減して骨が折れないように気を遣った。

 ひびくらいは入ったかもしれないが死ぬような傷は負わせてないはずだ。


「倒れたときに頭でも打ったのか?」

「だとしても桜井さんのせいじゃないですよ。相手は刀を振り回してたんですから」

「でもきっとマスコミには叩かれるだろうなぁ」

 紘彬は肩を落とすと椅子に座り込んだ。

 捜査会議が終わったときには深夜を過ぎていた。


「今日は紘一んとこによれないな」

「もう深夜ですからね」

 如月や団藤、長野トリオなどはもう終電が出てしまったのでこのまま署の柔剣道場に泊まることになる。そういうときは紘彬も一緒に泊まっていた。

「新しいゲーム買ったんだ。今度早く終わったときに来いよ。一緒にやろうぜ」

「楽しみにしてます」

 社交辞令ではなく、本心からそう言った。

 如月が紘彬と一緒に紘一の家に行くようになったのは知り合ってすぐだった。


       五


二年前――。

 給湯室で写真を見せられた翌日、仕事は定時に終わった。

「よ、途中まで一緒に帰ろうぜ」

 紘彬は如月の背中をぽんと叩いて言った。

「自分とですか?」

 如月が驚いて紘彬の顔を見た。

「なんだ、不満か?」

「とんでもない!」

 如月は慌てて手を振った。

「ただ、警部補と自分のような下っ端が……」

 別に卑下しているわけではないが、警察は上下関係に厳しい。

「関係ないって、そう言うのはさ」

 紘彬は快活に言った。

「はぁ」

「今日は紘一とゲームするんだ」

「どんなゲームですか?」

 如月は昨日見せられた写真を思い浮かべながら訊ねた。

「今日はアクション。最近面白いのが出てさ、紘一と二人してハマってるんだ。お前は? なんかやってる?」

「自分は警察の寮ですから」

「ゲームは好きか?」

「はい」

「じゃあさ、俺んち来いよ。一緒にやろうぜ」

「いいんですか?」

「遠慮するなって」


 紘彬に連れて行かれた家の表札には、藤崎晃治こうじ、蒼沙子、花耶、紘一と書いてあった。

 紘彬の従弟の家のようだ。

 都心のど真ん中なのに一戸建てである。

 もっとも、新宿といっても繁華街や超高層ビル街はごく一部で後は住宅地である。

 新宿西口の超高層ビル群のすぐそばの住宅地も、大通りに面しているところを除けば一戸建てばかりだ。都心の一戸建てはそれほど珍しくない。


「警部補の叔母さま、ですよね? なんてお読みするんですか? 自分は学がないもので……」

 如月は『蒼沙子』と書かれたところを指しながら訊ねた。

「あれは読めないのが普通。あれで『あさこ』って読ませるんだぜ。強引だろ」

「はぁ、まぁ」

 如月は曖昧に答えた。

「祖母ちゃんが桜緋沙子ひさこって宝塚スターのファンでさ、それで俺の母さんが緋沙子、叔母さんが蒼沙子って名前になったんだってさ」

「きれいな名前ですね」

「まぁね」


 塀と家の間には数十センチの間が開いていて、そこに二本の木が植えられていた。

 高さは二階に届くくらいだが、まだ細い木だった。


「これ、桜ですか?」

「ああ、花耶ちゃんと紘一が生まれたときにに植えたんだ」

「花が咲くの、楽しみですね」

「いや、これ、全然花が咲かないんだよ」

「そうなんですか?」

「苗ってさ、接ぎ木か何かしてから何年間かたったものだろ。それじゃ、産まれてくる子供と同い年じゃないだろ」

「そう言われてみればそうですね」

「だから俺、叔母さんが妊娠したって訊いたとき、桜の種を拾ってきて植えたんだよ。芽が出たときは嬉しかったけどさ、その後何年たっても花が咲かないんだよな」

「あれ? ソメイヨシノって繁殖力がないんじゃ……」

「ソメイヨシノじゃないよ。近所に白い桜が生えてたからそれの種拾ってきた。でも葉っぱは出るけど花は全然ダメ。やっぱり素直に植樹するべきだったのかなぁ」


 少年だった紘彬が、生まれてくる従妹弟のために桜の種を拾ってきて植えたところを想像すると微笑ましい。

 写真を持ち歩くくらい可愛がっている従妹弟である。

 叔母夫婦もその気持ちを汲んで、あえて植樹はしなかったのだろう。


「ま、女の子の場合、桐の木を植えるって言うけど、こんな狭い庭に桐はちょっと無理そうだったからな」

「肥料をやってみたりとかしました?」

「一応やってはいるんだけどな……」

 紘彬は家に入ると如月を二階にある紘一の部屋へ連れていった。


 途中で紘彬は台所に顔を突っ込んで、

「花耶ちゃん、ジュース三人分、お願い」

 と頼んだ。


 紘一の家は一階が台所と居間と日本間二部屋、それに洗面所とお風呂場、二階が花耶と紘一の部屋、それに納戸だった。

「紘一、入るぞ」

 紘彬はそういってドアを開けた。


 部屋に入ると机に向かっていた紘一が振り返った。写真で見るよりも紘彬に似ている。これなら兄弟でも通りそうだ。

「兄ちゃん、その人は?」

「俺の先輩」

「そんな、とんでもないです! 自分の方が階級が下なんですから」

 如月は慌てて否定した。

「階級と勤続年数は関係ないんじゃない」

 紘一は冷めた口調で言った。

「それはそうなんだけど」

「分からないことは訊くからさ、これからよろしくな」

「はい。自分に分かることでしたらお答えします」

「で、こいつが紘一」

 紘彬が紘一を紹介すると、二人は互いに自己紹介しあった。

「紘一君って桜井警部補によく似てますね」

「うちの母さんと紘一の叔母さんは一卵性双生児だからな。遺伝学的には異父兄弟だよ」


 そのとき、ドアが開いて紘彬に見せられた写真に写っていた女の子が入ってきた。

 いや、写真よりもずっときれいだった。

「いらっしゃいませ」

「お、お邪魔してます」

「藤崎花耶です」

 花耶は優雅に頭を下げた。顔だけではなく、所作もきれいだった。

「き、如月風太です」

 如月も慌てて頭を下げた。

「如月の風? きれいな名前ですね。どうぞごゆっくり」

 花耶はそう言うと部屋を出ていった。

「桜井警部補、自分は初めて風太って言う名前で良かったって思いました」

 如月は感動した面持ちで言った。

「今までは違ったのか?」

「なんかダサいなって思ってて……。しかもあのレッサーパンダのせいでパンダパンダってからかわれるし」

「そうか。俺は自分の名前にコンプレックス持ったことなかったな」

「そりゃ、桜井警部補の名前はきれいな字ですから。自分はあれでレッサーパンダが嫌いになりましたよ」

「そっかぁ。レッサーパンダ、花耶ちゃんは小さい頃すごく好きだったんだよな。どこに行くにもレッサーパンダのぬいぐるみ持ってたっけ」

 紘彬が懐かしそうに言った。

「え! そうなんですか?」

「だって女の子が好きになりそうな動物だろ。小さくて可愛くて」

「そ、そうですね」

「ま、いいや、ゲームやろう。紘一、コントローラー、もう一個どこだ?」


 紘彬はテレビの前に置かれた小物入れを引っかき回した。

 テレビは薄型の三十二インチで、その台の下には各種のゲーム機が置かれていた。

 テレビの隣には本棚があり、下の方にはいくつものゲームソフトが並べられていた。


「紘一君って高校生だよね。これだけ沢山のゲーム機持ってるなんてすごいね」

「全部兄ちゃんが買ったんだよ。テレビも含めて」

「そうなんだ」

「俺が学生の頃はゲーム機なんて買ってもらえなかったからな」

 紘彬が振り返って言った。

「その分、今買ってるんだ」

「兄ちゃん、予備のコントローラーはこっち」

 紘一が机の引き出しからコントローラーを取り出した。

 紘彬はそれを受け取ると、ゲーム機に挿してからスイッチを入れた。


 如月もゲームは好きだった。

 しかし、高校を出るまではゲーム機を買うような経済的余裕は家にはなく、卒業後はすぐに警察学校に入ってしまい、ずっと警察の寮暮らしでゲームは出来なかった。

 だから紘彬と会うまでは暇があればゲームセンターに行くくらいだった。


「お前、上手いな」

 次々と敵を倒していく如月を見て感心したように言った。

「ホントに寮にゲーム機ないのか?」

「ありませんよ。でも、ゲームセンターには通ってますからシューティングやレーシングゲームならなんとか」

 その日は遅くまで三人でゲームをして過ごした。

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