ふたり寄り添って

@tunataro

1話(完)

 ねえ、昨日はよく眠れた?

 ぼく? ぼくはまあまあ。二日ぶりに畳の上で眠れたんだもの。虫食いだらけだったけど布団も見つかったし、蜂とか蛾の死骸がたくさん転がってるのも慣れればそんなに気にならなかったし。枕はなかったけど、この麦わら帽子を敷いておいたから少しはましだったかな。形が変わっちゃう? 大丈夫だよ。おばあちゃんが丹精込めて編んでくれたんだもの。

 でも、そっか。きみの家は布団じゃないんだもんな。おっきくてふかふか、いつでも新品みたいに真っ白いベッド。覚えてる? きみの家に遊びに行ったとき、ぼくがあのベッドにどかっと腰を下ろしたら、林檎のジュースを運んできてくれたお手伝いさんの顔がみるみる険しくなってったよね。そんな汚いなりでお嬢様のベッドに座るんじゃありません! そのときは別にいいじゃん、ケチって思ったんだけど、あとで確認してみたら、泥がべっとりくっついてたんだ。たしか、あの日はきみの家に行く前に、池で釣りをしてたんだっけな。きっと、池の淵にしゃがみこんだりしたときについちゃったんだろうなあ。――そういえばきみ、釣りってしたことあったっけ? 向こうではやらなかった? 都会の子は釣りなんてしないのかな。今度連れていってあげるね。

 それで、なんの話だったっけ? ああ、そうか。昨日はあんまり眠れなかったよね。しかたないよ、あんなにふかふかで暖かいベッドを毎日使ってたんだもの。虫の欠片がたくさん散らばってる畳じゃ、そりゃ寝れないよ。

 ううん、別に怒ってるわけじゃなくてさ。ぼくが言いたいのは、あんまり眠れてないなら、無理は禁物だよってこと。食事だって……昨日は昼にチョコレートを一かけ食べて、夜はベーコンを二切れだったっけ? ベーコンって生で食べて良かったのかな。そんなに変な味はしなかったと思うけど。ぼくは今のところ大丈夫そうだけど、もしもお腹が痛くなったらすぐに言ってね。

 とにかくさ、無理はしないで進んでいこうよ。こわい獣は追ってこない。少なくとも、しばらくは。食糧だってちょっとぐらいは残ってる。こっちの道からでも麓に降りることはできるはずだし、上手いこと麓の町まで辿りつければ、後はもうこっちのもの。

 怖い? そうだよね。ぼくも怖い。村に入ってきた獣はみんな死んだけど、ぼくたち以外のみんなも死んじゃった。

 でも、ぼくらはひとりじゃない。きみにはぼくがいて、ぼくにはきみがいる。ふたりの力で必ず生き延びよう。それでふたり寄り添って、幸せになろう。

 ……ちょっとクサイ台詞だったかな。下手な芝居みたいだったかも。でも、本気で言ってるよ。少なくとも、きみを幸せにしたいっていうのは嘘じゃない。


 まずはゆっくり深呼吸。すーはーすーはー。

 落ち着いた? それじゃあぼくが先に行くから、きみは後ろをついてきて。草の先っぽが鋭くなってるから気をつけて。

 でもこうやって森の中を歩いてると、きみと初めて会った日のことを思い出すね。

 前も話したけどきみの家、きみが引っ越してくる前は荒れ放題だったんだよ。昔は外国の偉い人が住んでたらしいけど、今では門に蔦が絡まっててガラスも割れまくりみたいな。よく友達と一緒にこっそり忍び込んで、肝試ししたりしてたんだ。

 そしたらいきなり改装工事が始まって、みるみるうちに新築にしか見えない立派なお屋敷ができあがった。一体どんな家族がこのお屋敷に住むんだろうって、毎日ずっとどきどきしてたよ。

 きみが引っ越してきた日、ぼくは風邪を引いちゃってたからきみには会えなかった。だけどお見舞いに来た勇太が、引っ越してきた家の子は女の子だって教えてくれたんだ。

 今だから言うけど、最初それを聞いたとき、がっかりしたんだよね。男の子だったら、一緒に遊ぶ友達がひとり増えるのに、やっとサッカーのチーム分けが綺麗にできるようになると思ったのにってさ。

 じゃあ、なんでわざわざきみの家まで挨拶しに行ったのかって? そこは単純な好奇心。都会の男の子だって未知の存在なのに、それが女の子ときたら、いよいよわけがわからないもの。

 やたら豪華な呼び鈴を鳴らすとむすっとしたお手伝いさんが出てきて、きみはお母さんと学校に挨拶しに行ったって教えてくれた。だけど学校に行くときみはもういなくて、きみのお母さんだっていう綺麗な女の人が、きみはひとりで遊びに行ったって教えてくれた。

 ぼくはその時点で、引っ越してきた女の子への興味をすっかり失ってた。どうせそのうち会うことになるだろうし、無理に今日挨拶しなくたっていい。そんなことよりもっと重要なことがある。たとえば虫採りとか、魚釣りとか。

 誰とも約束はしてなかったけど、ぼくは裏の林へ歩いていった。誰かいるならその誰かと遊べばいいし、誰もいなければひとりで遊ぶ。クワガタを捕まえた数で競争してたから、今日がんばってみんなに差をつけるのも悪くない。

 そんなことを考えながら歩いていると、林の奥のほうから、か細くて頼りない声が聞こえてきた。あの妙な調子の鳴き声は、間違いなく高橋さんちの子猫だ。だけど、なんとなく、普段よりも切実さがあるような気がする。

 呼ばれるような気持ちで声の方向に進んでいったら、突然夏の雲みたいに混じりけのない白が視界に飛び込んできた。表現がキザ? でも、そのときのぼくには本当にそんな風に見えたんだ。青い海にぽつりと浮かんだ小島みたいな、周りと決して混じり合わない色。

 しばらくぼけーっと見とれた後、ようやく真っ白の正体が都会からやってきた女の子、正確に言うならその子の着てるワンピースだって気がついた。なんで一目でわかったかっていうと、まず第一に見ない顔だったっていうのはあるけど、それ以上にきみの雰囲気があんまりにぼくのイメージする都会そのものだったから。垢ぬけてて、田舎っぽくなくて、とびきりお洒落。冗談抜きで、この子はぼくとは違う生き物だって感じた。

 猫を抱えたきみは戸惑ったような怯えたような顔をして、崖ってほどでもないけど周囲より一段高くなってる場所にいた。動物を追っていったら、いつのまにか身動きが取れなくなってたような感じ。

 ぼくがおずおずと近寄っていくと、きみは初めびくっと体を震わせたけど、すぐにまっすぐこっちを向いて、ねえ、ってぼくに声をかけた。ぼくは何も言わずに手を伸ばして、まずは猫を受け取った。猫をその場に放した後でもう一度、両手をぱっと広げて差し出した。きみはまた怯えたような顔をしたけれど、ぼくは自分にできる限りの優しい声で、大丈夫だよ、って頷いてみせた。そんなにたいした段差じゃないし、万一足を滑らせたらぼくが受け止めてあげる。だから、思い切って飛んでごらん。

 ほんとのこと言えば、あのときはぼくもちょっと怖かった。だってあの頃はまだ、きみのほうが背が高かったしさ。でも、そんなそぶりを見せたらきみがもっと怖がるだろうし、ぼくは精一杯大丈夫、何の心配もないよって顔をしてた。

 だから、今だって大丈夫。怖いことは何にもない。きみが足を踏み外しそうになったら、ぼくが受け止めてあげる。またあいつらがやってきたら、ぼくが追っ払ってあげる。

 そんなことできるのかって? できるよ。ぼくは力もないし、喧嘩だって強くないけど、きみのためならなんだってできる。きみを守るためなら、この命を捨てたっていい。

 ……昨日も同じような話を聞いたって? そうだっけ。あはは、怒らないで。それだけ、きみへの気持ちが真剣ってことだよ。


 結構寒くなってきたね。

 ほら、これ羽織りなよ。夏物だから薄いけど、ちょっとはましになると思う。あっちの木陰に移ろう。あっちのほうが、葉っぱがたくさん茂ってるもの。

 朝までには止んでくれるといいんだけど。止んでても、足元がぬかるんで歩きづらいだろうけどさ。ぼくはいいけど、きみは泥だらけになって遊んだりしないから嫌だよね。

 ……ねえ、あれ歌ってよ。きみが家のピアノでよく弾いてる曲。タララータラララーってやつ。メロディーはわかるんだから、歌えるでしょ。ぼく、きみの歌好きなんだ。小鳥が晴れた朝、気持ちよさそうに囀ってるみたいでさ。また表現がキザ? そんなことない。きみの歌は、本当にそんな感じだもの。いつもこっそり歌ってたけど、ほんとなら村のみんなに聴かせてあげるべきだったよ。

 大丈夫、こんだけ雨が強いんだし、あいつらが近くにいたって気づきやしないよ。

 ……わかった、それならぼくが代わりに歌っちゃおう。へたっぴだけど、我慢して聴いてね。

 タララータラララー。タラララタラララー。

 ……自分で言うのもなんだけど、結構良かったと思わない? きみの真似して毎日歌ってた甲斐があったかな。でも、これまではもっとへたくそだったし、土壇場で秘められた才能が開花したってやつなのかも。

 ……土壇場って言葉は良くなかったかな。そうだね、ぼくたちはこんなこと軽々と乗り越えて、ふたりで幸せに暮らすんだもんね。

 そんな都合の良い話、信じられない? ぼくたちはただの子どもだし、あんな怖い獣から無事に逃げられるわけがないって? 

 そうかもね。ぼくが命を懸けて戦ったって、あいつらには全然かなわなくて、無残に噛み千切られるだけなのかも。

 それでもぼくは、きみを守ってみせる。

 ねえ。もしあいつらがまたやってきたら、きみは全力で逃げてよ。たとえぼくが目の前で血を流して倒れたって、気にせずそのまま走っていって。

 そんなことできるわけがない? そうだよね。ぼくだって、きみから同じようなことを言われたら、絶対嫌だって言い返すと思う。だけど、こればっかりは譲れない。ぼくはきみを守る。ぼくが死んだって、それできみが悲しむことになったって、こればっかりは駄目。

 ……そんな顔しないで、とは言えないか。ぼくがきみにそんな顔をさせてるんだもんな。悪いのはぼく。そりゃそうだよ。ぼくを見捨てて、代わりに生き残ってほしいとか、身勝手にもほどがある。ぼくは好きな子を守れた気分で、満足しながら死んでくかもしれないけど、残されたきみの気持ちも考えてみろって話だ。

 だから、わかってほしいとは言わないよ。これはぼくのわがままだから。きみが死んじゃった世界で生きていくのなんて耐えられない、心の弱いぼくのわがままだから。

 ……違うよ。きみはひとりでも生きていける。薄情って言いたいわけじゃなくて、きみはぼくなんかよりずっと強いから。そのことを、ぼくはきみよりも、世界の誰よりもよく知ってるんだよ。信じられない? そうだよね。きみって時々びっくりするくらい、自分のことを低く見てるものね。だけど、たとえ人見知りの恥ずかしがり屋でも、きみはほんとはとっても強い女の子なんだよ。

 一個だけ、ささやかなお願いをさせてもらえばさ。

 この帽子は、きみが持っていってくれないかな。おばあちゃんが編んでくれた、ぼくの世界で二番目の宝物なんだ。こんな山奥で土になってくよりも、きみが被ってくれてたほうがずっと良い。ちょっと汗臭いし、ここんとこほつれてるけどね。

 そうだ、今ここでちょっとかぶってみせてよ。つばが広いから雨も少しは防げるし、何よりきっとすごく似合う。ほら、恥ずかしがらないで。


 ――駄目。そんなことしたら、悲しいことが溢れだしちゃう――。

 

 ……あれ? やっぱりかぶってくれないの? 意外とケチなとこあるよね、きみって。あはは、冗談冗談。でも、ちょっとだけ元気になってくれたみたいで良かったよ。その調子で、明日はもうひと踏ん張りしてみようか。


 へえ、こんなところもあったんだね。生まれてからずっとこの山に住んでるのに知らなかったよ。ちょびっと怖い眺めだけど、風が気持ちいいや。

 なんだか、歌でも歌いたい気分かも。……うん、もちろん秘められた才能がわかってしまったっていうのもあるんだけど、こんなに天気が良くて、きみが隣にいてくれて、なんだかこれ以上ないくらい素敵な気分なんだよね。

 そんなはずがないだろうって? そんなことないよ。ぼくさ、空が青くて、小鳥が囀ってて、それから好きな子がそばにいてくれたなら、もうそれで百点なんじゃないかって気がするんだ。それ以外の世界がどんなにひどいことになってたとしても、百点。

 現実から逃げてるだけ? ぼくたちは村のたったふたりの生き残りで、服は汚れてしわしわで、体は痛くて痒くて、お腹はぺこぺこで、ひょっとしたら今日にも命を落とすかもしれない? 

 うん、そうだね。それくらいのことは、ぼくだってわかってるよ。だけど、それとこれとは別っていうか……いや、違うかな。むしろ、だからこそなのかもしれない。あとちょっとで終わっちゃうのがわかってるからこそ……。

 ……ううん、そういう意味じゃないよ。きみは死なせない。……それじゃ安心できない? そりゃそうだよね。馬鹿だな、ぼくは。

 だからさ、何が言いたいかっていうと、とにかく一緒に歌おうよ。

 いきなりじゃないよ。ぼく、ずっときみと一緒に歌ってみたかったんだ。こっそりひとりで練習してたのも、そのためだよ。きみがどれだけ綺麗な声で歌ったって、ぼくがひどい音痴じゃあ台無しだからね。

 頼むよ。一生のお願い。

 へへへ、ありがとう。それじゃ、いち、にの、さん!

 タラータラララー。タラララタラララー。

 ……こんなこと言うと怒られるかもだけど、ぼくらの声って結構似てない? ふたりで歌ってるのに、ひとりで歌ってるみたいに聞こえたもの。だけど、当然っちゃ当然なのかな。ぼくの歌の師匠は、いってみればきみなんだし。

 ……うん、満足したよ。夢がひとつ叶ったんだもの。いや、ふたつかな。ひとつは、きみと一緒に歌うこと。もうひとつは、きみみたいに歌うこと。最初のやつはともかく、二番目のは絶対叶いっこないと思ってたから、すっごくうれしい。あ、きみと歌えたのももちろんすっごくうれしいよ。適当なフォローするなって? あはは、ごめん。

 だけど、なんだかほんとに清々しい気分だなあ。あとはもう、麓まで下りるだけ。それが大変なんだろうけど、なんとかなるような気がしてきた。きみとぼくなら、どこへだって行ける。きみだけでも、ぼくだけでもない。ふたりの力で、麓まで辿りつこう。


 左の道は、このままずっと細い道を下っていく感じかな。右のほうは……崖の上に見えるのって、一昨日泊まったお屋敷だよね? 

 ひょっとして、あのお屋敷の真下を通るのかな。

 いや、何も問題ないけどね。ただ、よくあんなところに家を建てようと思ったなあって。庭に崖が面してたけど、柵も何もついてなかったし、よっぽど変わった人が住んでたのかな。どうでもいいけどさ、別に。

 左の道のほうが麓まで早く着きそうだけど、どんどん道が細くなっていって通れなくなったりしたら嫌だよね。右の道はそういう危険はない気がするけど、森を突っ切る感じになりそうだから、うっかりしてると迷いそうだよね。

 どうする? きみはどっちに行きたい? 

 ……あのお屋敷の近くは通りたくない?

 やっぱりきみもそう思うんだ。ぼくもなんとなく、そんな風に感じるんだ。上手く言えないけど、なんか不吉な感じがするもんね。

 じゃあ、こうしようか。一旦左の道を進んでみて、途中で進めなくなったら引き返して右に行く。あんまり右は使いたくないからね。ちょっと危険かもしれないけど、思い切って進んでみよう。


 大丈夫? まだ歩けそう? 

 駄目だと思ったら、すぐに言ってね。ぼくだって怖いもん。きみだって怖くて当たり前だよ。

 手、繋ごうか? かえって怖い? あはは、たしかにそうかも。こういう場所で手が自由になってないのは嫌だよね。だけど、体勢を崩しそうになったらすぐに手を伸ばして。約束だよ。あ、あの辺りは少し幅に余裕があるね。ちょっと一休みしようか。

 はい。昨日の雨水だけど、味は全然問題ない。知ってた? 雨って案外美味しいんだよ。

 だけど、なんだか不思議な感じだね。きみと、こんな危ない場所を一緒に歩いてるなんて。

 だってさ、ぼくが一緒に断崖絶壁まで行こうって誘ったって、きみ絶対来ないでしょ。……普通来ない? そうかな。勇太や剛なら乗ってくれそうな気がするけど。

 でも、勇太や剛と一緒にここまで来たとしても、多分こんな気持ちにはならなかったよ。それはそれで、楽しかっただろうけど。

 何が言いたいかっていうと、やっぱりあの夜、夜中に目が覚めて真っ先に起こしに行ったのがきみで良かったなって。きみが生き残ってくれて良かったなって。

 こんな言い方は嫌かもしれないけどさ。きみの代わりに、誰かが生き残ることができたかもって言ってるわけだし。

 だけどきみの代わりに誰かが死んだとしても、その責任は全部ぼくにある。ぼくがきみを起こしに行ったからきみは生き残って、ぼくが違う誰かを起こしに行ってたら、きみはきっと死んでた。

 その選択を、ぼくは少しも後悔しちゃいない。友達が死んじゃったのは悲しいけど、それでもきみが死ぬよりはマシ。我ながら嫌なやつだけど、これがぼくの正直な気持ち。あの夜、ぼくは選んだんだよ。きみを守ってみせる。そのためなら、友達を犠牲にしたって構わない。

 だから、安心して。何が起こっても、ぼくがきみを守ってみせる。ぼくが見捨てたあいつらのためにもさ。きみが嫌だって言ったって、守ってみせる。

 ……そろそろ正午かな。暗くなる前に抜けたいし、行こうか。

 だいぶ下りてきた気がするし、上手くいけば今日中に麓に着くかもね。そこから町への行き方も考えないといけないけど、そこはきっとどうにかなるよ。ふたりでここまでやってこれたんだから、その先だって大丈夫。

 ……あれ? 

 ……戻ろうか。どうせなら、もっと上のほうで崩れてくれてれば良かったのにね。


 こっち来て。背の高い木が並んでる。

 ……ここで少しはしのげるかな。これ以上強くならないといいんだけど。

 夏は、時々こういう天気になるんだよね。大抵は二、三時間もすれば収まるんだけど。

 あ、そうだ。上着。ちょっと待ってて、すぐに出すから。こんなに降られるなら、雨合羽ぐらい持ってくれば良かったな。

 ……今、光ったね。だいぶ遠そうだし、この辺りは大丈夫だと思うけど。

 でも、やっぱり不安だよね。暗いし、冷たいし。

 ……お腹、空いたよね。まだ何かあったかな。

 ……一番底に、キャンディーあったよ。溶けてまた固まったみたいな感じだけど、あるだけ良かったよね。はい、どうぞ。

 ぼくはいいよ。まだ大丈夫だから。きみこそ、一昨日から全然食べてないんじゃない? ベーコンだって結局ぼくがほとんどもらっちゃったし、チョコレートだって。

 遠慮しないでよ。きみが飢え死んじゃったら、ぼくよりきみが悲しいよ。きみだけは守りたかったのに、きみすら守れなかったら、それこそ情けなくて死んじゃうよ。

……それとも、本当にそうなっちゃうのかな。ぼくの力なんてほんとにちっぽけで、一番大事なものを守ることすらできずに全部が終わっちゃうのかな。……やだな、そんなのは。

 ……え? あのお屋敷?

 今は何にも見えないけど、あっちの方角じゃなかったかな。あのお屋敷がどうかした?

 ……ちょっと待って。どこ行く気? こんな嵐の中、危ないよ。焦る気持ちはわかるけど、今はじっとしてるしかないって。

 だからこそ? こんな嵐の中、放っておくことなんてできない? きみ、一体何言って……あ、待ってってば!


 ねえ、戻ろう! 危ないよ! どんどん雨の勢いが強くなってるし、雷だって近くなってる! じっとしてないと、ほんとに死んじゃうよ! 

 ……構わない? 何言ってるんだよ!

 たとえきみが良くたって、ぼくが良くない! きみを死なせるくらいなら、ぼくが死ぬ! 嘘じゃない! ぼくはほんとにそういう気持ちなんだ!

 それくらい知ってる? だったら止まってよ!

 ……知ってるからこそ、行かなきゃならない? 何だよ。どういう意味だよ、それ。全然わかんないよ。

 ……駄目だよ。これ以上は絶対に駄目だ。きみだってわかってるんだろう? あのお屋敷にこれ以上近づいちゃいけない。そんなことをしたら、きみはきっとこれ以上進めなくなる。だってきみは、とびきり優しい子なんだから。そっちのほうには……優しいきみに付け込もうとしてる、悪魔がいるんだ。

 ……ねえ、お願いだよ。そっちに進んでいかないで。ぼくとこのまま、この森を抜けて。それできみは麓の町まで無事辿りついて、平和な暮らしを始めるんだ。それだけが、ぼくの唯一の望みなんだよ。

 ……ぼくは。……ぼくのことは、気にしないで。ぼくはぼくで、どうにかするから。きみはそんなこと、気にしなくていい。この山を下りたら、ぼくのことなんか綺麗さっぱり忘れて、新しい暮らしを始めてくれればいい。

 きみが生きていてくれさえすれば、ぼくはどうなったっていいんだよ。


 きみはそうかも。だけど、あたしはそうじゃないの。

 きみを置いて、ひとりだけ生き延びることなんてできないよ。


 もう少しだけ待ってて。今、これを返しに行くから。


 ひどい雨。辺り一面、ほとんど何にも見えないや。

 だけど、ちゃんと覚えてる。忘れられるはずないよ。今でもはっきり目に焼きついてるもの。その一瞬が永遠に続いてるみたいに、崖から飛び出て空中でぴたりと静止したふたつのシルエット。ひとつはあいつらの生き残りで、もうひとつはきみ。あたしの代わりにあいつらの前に飛び出していった、村一番の弱虫で、村一番勇敢なきみ。

 きみとあいつは空中でくるくる回って、あっという間に崖の下まで落ちてった。きみの麦わら帽子も宙をくるくる回って、あたしの手元にぽすりと落ちた。

 そっから先は、よくわからない。きみの忘れものを抱いて眠って、気がついたら朝になってて、あたしはあたしにおはようって声をかけた。

 その後もずっと、あたしはあたしとお喋りを続けた。きみを守る、きみを守るって、今思い返すと願望丸出しで気持ち悪い。

 だけど、そんなごっこ遊びはもうおしまい。きみの帽子、実はずっと被ってみたかったから嬉しかったけど、持ち物はちゃんと持ち主に返さないと。

 うん、やっぱりこの辺だったね。お待たせ。

 ごめんね。あたしなんかのために死んでくれて。ありがとう。きみがこれを貸してくれたから、ずっと寂しくなかったよ。

 ひとりにしてごめんね。これからはずっと一緒だよ。あたしもすぐにそっちに行くから、もしも許してもらえるなら、また一緒に遊んでね。

 ……子守歌でも歌おうか。あたしの歌、好きなんだよね。あ、でもこれもあたしの妄想か。そうだよね。あたしのへたっぴな歌なんて、いくらきみだって聴きたくないよね。

 そんなことない。大好きだよ。

 ……今のもあたしが言ったのかな? そうだよね。でももう、なんだっていいや。ごめんね、聴き苦しいだろうけど、ちょっとだけ歌わせて。あたし本当は、歌うの結構好きなんだ。

 ルルルールルルルルー。

 やっぱりきみの歌は素敵だなあ。テレビに出てるスターの歌よりずっと良い。

 本当? なんだか照れちゃうな。じゃあもう一曲だけ歌わせて。

 うん、あともう一曲だけ聴かせて。それでもう、十分だから。歌い終わったら、きみはまっすぐ麓を目指して。ほら、もうすぐ雨が上がるよ。


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