花とチョコレート

水無月薫

花とチョコレート

風が強い春の日。

「オモイカネの書? 哲学とか倫理学の本ですか?」

「ちがうちがう。知恵を持った成長する本だ。ちゃんと育てれば、欲しいものを手に入れる方法を教えてくれるようになる」

 とにかくそれを図書館司書から受け取ってくればいいんですね。そうだ、司書には話してあるからよろしく頼むよ。

 ナムヂ先生から図書カードを受け取り、先生の家を出た。ここから図書館まではスクーターで十分もかからない。スクナが住む山の下層、通称「中の国なかのくに」では入館に必要な図書カードを持っている人は限られている。先生はいつも何も言わず、快くスクナに貸してくれるのだが、今日は珍しく仕事を頼まれたというわけだ。仕事といっても本を受け取るだけだが。

 中の国では、小説や詩、映画や演劇といった芸術は、需要はあるものの昔に比べれば親しむ人は減ってきている。親しむ人が減れば自然と新しく生み出される作品の数も減る。物語に飢えていたスクナ少年に、ある時ナムヂ先生は、図書館に行ってみることを勧めた。行ってみて驚愕した。図書館には、一生かかっても読みきれない量の本があった。以来スクナはヒマを見つけては、図書館に通うようになっていた。

 スクーターで緩やかな坂道を進むと、山頂から流れる白い河にまたがるように建てられた巨大な建造物が見えてくる。これがこの世界で一番大きな大学附属図書館である。そして「中の国」と山の上層「天の国てんのくに」とを結ぶ唯一の出入り口であり、両国の唯一の共有地でもある。

「天の国」は高い壁で取り囲まれており、それがそのまま「中の国」との境界線となっている。そして図書館がその壁の「門」を兼ねている構造になっている。壁の上では、絶えず「天の国」の警備隊が見回っている。壁の向こう側に広がる「天の国」は、面積も人口も「中の国」よりずっと少ない。自然が豊かな地域だというけれど、壁の向こうは雲がかかっていて見えない。一体どんなところなんだろう。

 図書館の敷地は広く、敷地の入り口には注連縄しめなわが張られた鳥居がある。鳥居をくぐって敷地内に入り、エントランスに向かう途中のことだった。壁の向こうから羽がついた巨大な生き物が、ヨロヨロとバランスを崩しながら落ちてきた。スクナのスクーターより大きい。あの形、本で見たことがある。トンボ、という虫だ。

 頭上を横切った巨大なトンボには、驚いたことに人間が乗っている。トンボはゆっくりと白い河に不時着した。乗っていた人が陸に上がろうと水の中でもがいている。我にかえったスクナは慌てて助けに行き、陸に引き上げようとその人の手を掴んだ。引き上げると、その人は同い年くらいの少女だった。それから巨大なトンボも頑張って陸に引き上げた。トンボは見た目に反して軽かった。少女はしばらく震えていたが、やがて落ち着きを取り戻すと、スクナを見た。大きくて綺麗な目だ。

「助けてくださってありがとうございます。力持ちなんですね」

 コノハという名前だった。あなたは、ここの大学の人? 大学生にしてはずいぶん若そうだけど。中の国の高校生だと言うと、少女は驚いたようだ。彼女は天の国の人間だった。試作品のバイオグライダー(トンボ型の乗り物はそういう名前だった)で風の様子を探っていたら、運悪く上昇気流に巻き込まれたあげくコントロールもきかなくなってしまい、河の上に不時着せざるを得なくなったのだ。


 *


 一つ年上のコノハは、中の国の人間と話すのははじめてだった。

「スクナは何をしに図書館に来たの?」

 スクナは図書館に来ている理由を話した。だけど、コノハはピンと来ていないようだ。

「小説や漫画を読んだり、映画を見たりすることで、私たちの世界はどう良くなるの?」

 スクナは困ってしまった。そんなことは考えたこともないからだ。天の国では芸術とは、建築物や工芸品など、暮らしに必要なものに施される造形のことだったのだ。スクナは説明する代わりに、自分のお気に入りの物語を話した。遥か遠くの国の魔法使いとお姫様の話を。そこには不思議な道具の数々が出てくる。はじめは訝しんでいたコノハだが、次第に興味を持って聞いてくれるようになった。スクナはじっくりと時間をかけて丁寧に話した。

「スクナはお話するのが上手ね」

「もともとの話が面白いんだよ」

 コノハは、この場面が好き、この登場人物の気持ちが分かる、など感想を述べてくれた。これまで好きな本や映画について誰かと分かち合う機会はなかったので、スクナはとても楽しかった。あっという間に時間が過ぎて、図書館が閉館する時刻になってしまった。

「あ、もうこんな時間、バイオグライダーを修理に出さなくちゃ」

 大学の中の研究所で直せるらしい。大学は中の国からみて図書館の背後、天の国の領域にある。二人でトンボ型の機械を図書館の天の国側の出口まで運んだ。出口が見えるとスクナは急に切ない気持ちになった。中の国の住人が入れるのは図書館まで。特別な許可証がないと大学にはいけない。ここでお別れしたら、もうこの子には会えないのだろうか。

「私、春の間は頻繁に図書館に調べ物に来るの。だからまた会えたら、お話聞かせてくれる?」

 飛び上がるほど嬉しかった。ナムヂ先生に図書カードを返しにいく道すがら、ようやくお使いを果たせなかったことを思い出した。


 それからの春休みの期間、スクナは毎日のように図書館に通い、コノハに会えた時は色々な物語を聞かせた。コノハはいつも楽しそうに聞いてくれた。特に、物語に異国の甘いお菓子が出てくると目がキラキラ輝いた。スクナはコノハと一緒に過ごすこと以外に興味を持てなくなってしまった。本当はコノハと一緒にご飯を食べに行きたいけど、彼女は中の国の食べ物を食べることは禁じられていた。それから毎日でも連絡を取り合いたいのに、天の国の人間とは連絡を取り合う手段はない。どうしてなんだろう。スクナはもどかしかったし、悲しかった。

 ある時コノハから、プレゼントをもらった。

「花は好き?」

 分からなかった。花というものについて、これまで好きかなんて考えたことはなく、道端の石と同じように、ただそこにあるものだった。

「私がつくってみたの。星の光を編みこんだバラの花よ。暗いところで水にさしてみて」スクナはバラという花を、初めてみた。綺麗だなあ。なんだかコノハみたいだなあ、と妙なことを思った。スクナは翌日、お礼に、学校の研究で友達と一緒に作った自動音楽再生装置をプレゼントしようとした。自分の聴きたい音楽をすぐに探り当てて、流してくれる機械だ。だけどスクナは申し訳なさそうな顔で断った。

「ありがとう。だけどごめんなさい。中の国のものを受け取ってはいけないの」

 ショックだった。その日、図書カードを返しにナムヂ先生にところに戻った時に、話してみた。

「その子を責めてはいけないよ」

 天の国は、自然共生社会の維持を何よりも優先させており、少しでもほころびが入る可能性は徹底して排除する。ナムヂ先生が天の国に詳しいのは、先生のおじいさんが天の国でもかなり偉い人だったから、という噂がある。

「自動音楽再生装置を持って帰ることの、一体どこがほころびなんですか?」

 スクナは納得できなかったが、ナムヂ先生はそれには直接は答えなかった。

「もらった花を大事にしなさい。本当は、中の国の人に天の国のものを与えることもダメなんだよ」

 スクナの気分は沈んだまま、次の日から図書館に行かなくなってしまった。春休みが終わる頃、スクナはナムヂ先生に呼ばれた。

「昨日図書館に行ったら馴染みの司書から伝言をもらった。コノハが会いたがっているようだよ」

 スクナは躊躇した。行きたい気持ちもあるが、心の中のモヤモヤが晴れない。

「春休みが終わるともう図書館には来ないそうだ。行ってあげたらどうかね? 後から後悔しても知らないよ」

 それでも意固地になっていたスクナは行かなかった。所詮、あの子にとって自分はただの「ほころび」なのだ。


 *


 日差しが強くなり夏の気配が近づく頃、学校の帰りに久しぶりに図書館に行こうと思い、ナムヂ先生の家に寄った。先生は白い横長の封筒を差し出した。表面に「スクナ様へ」と書いてある。あまり綺麗な字ではない。文字を書くことに慣れていない人の筆跡だろう。裏返すと、花模様の蝋みたいなもので閉じてある。シーリングスタンプだねと先生が教えてくれた。同じ筆跡で「コノハ」と署名がしてある。手書きの手紙をもらうなんて初めての経験だった。

「二重の封筒になっていたのだよ。一つ目の封筒の宛名は私宛だった。スクナ宛と書いたら渡してもらえないと思ったのだろう」

 図書館の職員はみな天の国の住人なのだ。スクナは封筒をあけて手紙を取り出す。


 スクナへ

  元気にしていますか。いきなりで驚かせたかしら。私は生まれて初めて手紙というものを書いています。文字を書いたこともほとんどないので、たったこれだけ書くのにひと月以上かかりました。字も汚くてごめんなさい。スクナが話してくれた物語にあった、手紙で思っていることを伝える、というのがすごく素敵だな、と思ったので、どうしても書き上げたいと思ってしまいました。

  この春私は学校を卒業して、風の司のご子息と結婚します。そうしたら、もう一人で図書館に行くことも、中の国の人と話すこともできなくなります。最後に一目会って話したかった。だけど叶わなかった。私が傷つけてしまったせいで。


  あの日、スクナの贈り物を受け取れずごめんなさい。心がこもったものだということは分かっていたのに。話した通り、中の国で作られたものは受け取ってはいけないのがルールなの。だけど本当はとっても嬉しかった。もっとちゃんとその気持ちと、感謝を伝えないといけなかった。今はルールを破ってでも、受け取っておきたかったと後悔しています。そうしたら私の運命も変わっていたかも知れない。

  スクナには最初から感謝ばかり。バイオグライダーが故障して助けてもらったこと、私に物語の面白さを教えてくれたこと。とても素敵な思い出です。これまで当たり前だと思っていた私の世界が変わって見えました。本当はもっとあなたと話したかった。あなたの目で世界を見たかった。私の世界のことも知って欲しかった。だけど過ぎたことばかり言ってもあなたに嫌な思いをさせてしまうわね。だから、もう一回だけ心を込めて感謝を伝えさせて。あなたと過ごせたこの春はとっても楽しかった。本当にほんとうにありがとう。

 それじゃあね。どうかお幸せに。


 コノハ


 やっぱり上手な字ではないけれど、スクナはその字が好きだった。機械でタイプした文字よりもずっと好きだった。紙はところどころ水滴が垂れたようにたわんでいる。それが涙の跡だということは、スクナにも分かった。薄れていたコノハに関する記憶が鮮明に蘇り、後悔の念がわき起こった。

「先生、相談があります」

 僕が天の国に入る方法はないのでしょうか。ナムヂ先生は、自分の助言を無下にしたスクナを責めることはしなかったけれど、渋い表情になっている。

「中の国の一般人が、天の国に入るのは至難の技だ。しかも風の司の神殿は至高の聖所。天の国の住民でさえも、おいそれと立ち入ることはできないと聞く」

 それでもスクナは諦めるつもりはない。

「そもそもお前は会ってどうしたいというのかね」

「僕はコノハの気持ちを受け取りました。贈り物ももらいました。それなのに何一つ返せていません。だから自分の気持ちと贈り物を届けにいきます」

 スクナの意思が固いとみると、先生はため息をついて奥の部屋に入っていった。戻ってきた時、古びた紙を持っていた。スクナが知らない文字と樹形図みたいなものが記されている。

「私の祖父は昔、まだ世界が二つに分かれていなかった頃、最上位の風の司だった。これはその血筋を記した家系図と文章だ。お前が私の遠い血縁であることを示せば、大学の守衛も通してくれるだろう。ただし通るには条件が二つあったはずだ。一つは中の国で作られたものは持ち込まないこと」

 服とカバンくらいは見逃してもらえるだろう、と付け加えた。

「もう一つは天の国のものを保有していること。ただ、私がもともと持っていたものは古すぎて、証明は難しいかも知れん」

 ならば一つしかない。あの星の光を編み込んだバラならば。

「先生、図書館の資料は中の国のものでしょうか」

「違う。あれは数少ない、二つの国の共有物だ」

「ではもう一つお願いがあります。オモイカネの書を貸していただけないでしょうか」


 *


「それでは行ってきます」

 先生からは三つ助言をもらった。一つ目は、天の国についたら目的を果たすまで、極力食べたり飲んだりしないこと。天の国の飲食物に馴染んでしまうと、身も心も天の国の住人と同化してしまう。二つ目は、大学の研究所には近づかないこと。あそこの研究員の多くは実は天の国の人間ではない。山の地下「根の国ねのくに」の者たちである。お前は彼らとあまり関わるべきではない。スクナは根の国について聞こうとしたが、「もしお前が戻って来ることがあればその時に話そう」と今は教えてくれなかった。三つ目は、オモイカネの書についてである。

「初期化してお前を所有者にしよう。最初は頼りないが、たくさん話して情報を与えていくと、すぐに賢い助言ができるようになる。ただし、お前の助けにはなるが、決して導いてはくれない。お前が何かの弾みで進む道を誤ったり、意思が挫けた時に、それを修正するような能力はない」

 そういう力を持った物も古代にはあったが、人類滅亡の原因になりかねなかったので処分されてしまい、今はこれしか残っていないのだそうだ。

「すみません、そんな貴重なものを。きっと戻ってきてお返しします」

 なに、構わんよ。もともと私自身も使う予定はなかった。ただ、図書館にあるのが怖くなってきてな。天の国や根の国の人間の手元に置いておきたくなかったのだ。

「それにやっぱりお前に使ってもらえて良かったと思うよ」

 それから先生は、今まで見たことがない真剣な表情でスクナを見た。

「理想を追求するのは素晴らしいことだ。行きすぎた人間中心主義に歯止めをかけ、自然共生社会圏をつくりあげることで、人類の進歩と自然の復元を両立させた」

 天の国の話をしているということはすぐに分かった。

「しかしその維持を何よりも優先するが故に、そこに包摂されない人々と関係を持つことを頑なに拒み続けている。そして自分たちだけが正当な神の子であると信じて疑わない。そんな状態が永遠に続いて良いはずがない」

 スクナの肩に手をかける。

「お前とコノハとの交流を私は嬉しく思うよ。潮目が変わる予兆かも知れないね」

 胸が高鳴る。

「行けスクナ、知恵と勇気を示してこい」


 *


 雲の上に築かれた超都市である天の国は、中の国とはまるで違う。建造物よりも植物の方が多く目に入る。それでいて生活の快適性はちっとも損なわれていない、計算し尽くされた設計だ。時折みかける車のような移動手段は、それ自体が一つの生物のような動きをし、乗車している人は運転せずに目的地までたどり着けるみたいだ。すれ違う人は、同じ人間のはずなのに顔つきも体型もスクナたちとは違っているように感じた。顔つきは穏やかで不安や焦燥感がほとんど感じられない。体型も全体的にすらっとしており、動きも軽やかだ。これが人間の本来あるべき姿なのだろうか。

 それから奇妙な取引をみた。通貨ではなく、工芸品を渡すと代わりに日用品が提供される、ということが普通に行われていた。学校で習った古代の物々交換みたいなものだろうか。だけどその時々で、渡すものと受け取るものが違っていた。一体どうやって価値を瞬時に判断するのだろう。いずれにしろ、この国ではお金だけが買い物をする方法ではなさそうだ。

 天の国をもっとじっくり観察してみたいという好奇心を抑え、風の司の神殿を目指す。スクーターは持ち込めなかったので歩いていくしかない。山の上層にある天の国はそれほど広くはなく、頂上の神殿もなんとか目で捉えることができる。頑張れば徒歩でも二日はかからずに辿りつけそうだ。けれどもどうやったら神殿に入れるのか、そしてコノハに会えるのか、その方法がまだ分からない。

 オモイカネに聞いてもまだほとんど反応してくれない。情報量が足りないようだ。日が暮れかかると、どっと疲れが出てきた。どこか休める場所はないだろうか。公園でもあれば良いのだが。そう思って歩いていると、寺院があった。境内で休ませてもらおう。長いベンチがあったので、スクナは横になった。ベンチからは木の良い香りがした。それに見た目よりずっと身体に馴染み、快適だった。

 早朝、お寺の人に声をかけられて目を覚ました。スクナは詫びた。お金がなく、泊まるところがなかったのだというと、境内にある簡素な建物の中に案内され、客間と思しき部屋でお茶を出してくれた。

「朝のお勤めを果たしてきますので、お待ちください」

 一時間くらい待っていると、別の人間が朝食を持ってきてくれた。スクナは昨日からほとんど何も食べていなかった。食事は普段食べる量に比べると少なく、薄味だった。物足りなかったが文句は言えない。食べ終わり、また出されたお茶を飲んでいると、だんだんとこれまで感じたことのない心地よさを覚えた。自然豊かで空気が澄んでいる天の国で一晩眠ったからだろうか。無駄な装飾がないこの部屋も、窓から見える緑が綺麗に整えられた中庭や、日の光と調和して、美しく感じられてきた。足りないと思っていた食事もちょうど良い量に感じられてきた。

 くつろいだ気分でいると、先ほど建物に案内してくれた人がやってきた。ここの住職だという。スクナは迷った末、話せる範囲で正直に事情を説明することにした。自分は天の国に来たばかりで、国のことが全く分からない。お金もない。けれど、どうしても風の司の神殿に行きたいのである。神殿に入る方法はないのだろうか。住職はスクナが何者かは追求せず、聞かれたことに答えた。それはとても難しい。この国では行動の自由は「信用力」によって決まる。風の司の神殿には信用力の高い人しか入れない。信用力とはお金で決まるのでしょうか? いや、違う。信用力はその人の行動や言動、人間関係などあらゆる要素をもとに国のシステムが算出している。お金を持っていても信用力が高いとは限らないし、反対に信用力が高ければお金がなくても生活できる。その時に必要なものを、不要なものと簡単に交換してもらえたりするのだ。

「どうすれば信用力を高めることができるでしょうか」

 あなたはまだ天の国の住人ではない。天の国の住人になるためには、信用力の高い人間とある程度の期間一緒に過ごし、天の国に適応できる人間だと証明される必要がある。

 スクナは焦った。時間は貴重だし、そもそもそんなツテなどない。住職は、良かったらここで修行しないか、と提案してくれた。僧侶と一緒に過ごして認められれば、最初から高い信用力が付与されるだろう。他に方法が思いつかず、スクナは提案にのった。


 *


 山の夏は短い。中の国では残暑が厳しいこの時期、天の国ではすでに涼しい。寺院に来てから二ヶ月、スクナは心穏やかに過ごしていた。よく規則を守り、頭の回転も早く、物覚えも良かったので、住職をはじめ寺院の僧侶たちは、思ったよりも早く天の国の住人になれるだろうと言ってくれている。

 風の司のご子息が再来月に結婚する、ということを近所に住む人から聞いた。コノハに会いに行ける見通しは未だ立っていなかった。彼女に会うことはすでに諦めはじめていた。それも今のスクナにとっては悲しいことではなくなっていた。風の司のご子息と結婚して、コノハは幸せに過ごすだろう。今、自分が会いに行っても良いことは何もないではないか。スクナも今の生活で満足していた。このまま天の国の住人として、一生を送ることが幸せに思えていた。中の国での暮らしも、今となっては夢の中の出来事に思える。

 晴れた秋の日。二日間の休暇をもらったスクナは何をしようか考えていた。オモイカネの書に話しかけると、久しぶりに図書館に行くことを勧められた。それはとても素敵な提案に思えた。お寺には哲学や宗教、歴史に関する本はたくさんあったが、小説や漫画はほとんどなかったのだ。

 二ヶ月ぶりの図書館は懐かしかった。天の国側からの入り口、つまり大学側からの入り口で、図書カードをかざして中に入ろうとすると、司書の一人に呼び止められた。預かりものがあるというのだ。そうか、これはナムヂ先生のカードだったな。先生宛ての荷物だったら、どうしようか。そう思ったが杞憂だった。差出人が先生だったからだ。手渡されたのは、白い封筒だった。竜の模様の蝋で閉じてあった。たしかシーリングスタンプと言ったっけ。

 封を切ると、中にはいつかコノハからもらった手紙が封筒ごと入っていた。コノハが苦労して書き上げた手紙。決して上手ではない字、真心のこもった言葉たち、涙の跡。

 スクナは一度、外に出た。天の国は綺麗だ。自然に溶け込んだ景色。手元にあるもので満足し心穏やかに生きる人々。それらを守る社会システム。ここでこのまま暮らしていけたらきっと幸せな人生を送れるだろう。

 スクナはもう一度封筒を取り出す。先ほどは気がつかなかったが、封筒の中にはもう一つ白い小さな紙片が入っていた。そこにはナムヂ先生の力強い筆跡でこう書いてあった。

「スクナ、知恵と勇気を示せ」

 スクナは身のうちに乱暴な衝動がたぎるのを感じた。大学に引き返し、生物研究室に向かう。

 研究室の主席研究員は、天の国の住人ではないと一目で分かった。中の国の住人とも違った。顔つきが違い、禍々しい雰囲気を醸し出している。ナムヂ先生が関わるなと言ったのも理解できる。しかし今はそういう人の方が良い。

「何の用か?」

「風の司の神殿に、上空から侵入するための乗り物が欲しい」

 開発にはカネがかかる。カネはあるのか? ない? では無理だ。見たところ君は天の国の住人ではないから、信用もないだろう。信用力のない人からもらったものは、価値が低いのでね。

「これはどうでしょうか? これはもともと僕のものじゃない」

 これだけは手放したくなかったが、やむをえない。星の光を編み込んだバラを見せる。なるほど、若き風の司の婚約者の。これは逸品だ。しかしこれでもまだ君の望みには足りない。

「天の国では、動物や植物といった自然の力が全ての技術(テクノロジー)のベースになっているのでしょう? ここはその研究開発をしているところのはずだ。研究に直接使える生物の素材では取引できませんか?」

「ほう、そういう取引か。天の国の住人にはない強引な発想だ。しかし嫌いではない。君は天の国の住人ではないな。むしろ我々根の国の人間に近い資質を感じるよ。しかし一体、何を差し出すというのかね」

 どんな生物でも材料として使えるのか? 例外はない。

「では、これです」


 スクナは新型のバイオグライダーに乗って、風の司の神殿の境内に忍び込み、枝と葉が豊かに茂る樹々の上に乗り物とともに身を潜めている。バイオグライダーにはカメレオン機能が搭載されており、樹々の中に溶け込んでいる。月が浮かぶ頃、従者に付き添われ、境内に戻ってきたコノハの姿を捉えることができた。住居らしい建物に入るのを見届ける。スクナは少し時間をおいて建物の扉を叩く。出てきたのは先ほど見た従者と思しき女性だった。

「大学の生物研究室からの使いで、これをコノハ様に渡すように言われました。扉の外におりますので、ご本人にご確認いただけますでしょうか」

 コノハからもらった、花模様のシーリングスタンプを破った痕がある封筒を渡す。待っている間、リーリーという澄んだ鳴き声が聞こえた。これはコオロギではなくスズムシだな。天の国で生活するうちに、虫の声も聞き分けられるようになってきていた。


 建物からコノハが飛び出してきた。息が乱れている。スクナの顔を認め、目が大きく見開かれる。

「スクナ、目が!」

 いいんだ。少しでも僕の見ている世界を知って欲しいからコノハにあげたんだ。スクナは懐から秋桜コスモスを模したお菓子を取り出す。それはコノハがたまにお茶と一緒にいただく柔らかい主菓子とも干菓子とも違っていた。これは天の国に来てから作ったんだ。オモイカネの力を借りてね。こっちで作ったものなら受け取ってくれるだろ? いつか目を輝かせていた異国のお菓子さ。

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