経済学とのど飴と生霊

犬丸寛太

第1話経済学とのど飴と生霊

 近頃、私は経済学を勉強している。何のことは無い。私がなぜ貧乏なのか。それを知るためだ。

 経済学の父と名高いアダム・スミス曰く「価値は労働によって決まる」という事らしい。

 例えば、私の手元に一万円があった時、この一万円をくれてやるから私の為に有意義な労働をしなさいと万人に問いかけたとしよう。

 しかし、問いかけに対して誰一人手を挙げなかったならば私の手元の一万円は只の紙切れとなる。という具合らしい。

 いまいちピンと来ないが、一万円を一万円足らしめているのは、そこに価値ある労働が発生しているからという事だ。

 結論を急ぐならば、私が貧乏なのは価値の低い労働を行っているからだ。

 というかそもそも私は労働をしていない。アダム・スミスの著書も図書館で読んでいる。何を隠そう私はニートである。名前はヒロシ。

 閉館のアナウンスが流れる中、私は一つ悟った。なるほど、本など読まず働けば良いのだ。

 話は変わるが私の母は少し特殊な能力を持っている。なんと母は私にのみ生霊を放つ事ができるのだ。

 私が風呂を済ませ、寝床に付こうと居間を通るその一瞬に、決まって母は私をジロと見つめる。哀愁とも憤怒と諦念ともつかないその視線を浴びたが最後私は母の生霊に取りつかれてしまう。そしてその生霊は私に一言告げるのだ。


 いい加減働け


 閑話休題、私が仰ぐべきは、アダム・スミスではなく寺山修二だったか。流石に書を捨てるわけにもいかず本を元あった場所に戻し私は図書館を後にした。

 梅雨が明けた町は夕暮れとはいえどこか賑やかだ。

 長く重苦しい日々が過ぎ去りいよいよ生命が溢れる夏への期待に満ち満ちている。

 久しく家から出ていなかった私とてその例外ではなくどこか心がソワソワして落ち着かない。なんとなくスキップなぞをしてみたりする。梅雨の名残であろう茜空を映す水たまりを蹴りパシャリと小気味良い音が耳に響く。

 私の周囲を歩く人々は水しぶきを避けてか水たまりに近づこうとしない。世界はこんなにも美しく輝き色や音を満ち溢れさせているというのに。彼らはそれを感じる余裕が無いのだ。ニート最高である。

 前を見ると街頭で飴を配っている。私はすかさず飴を受け取り、口に放り込む。

 柑橘系の香りが鼻を抜け、のどがひんやりと心地よい。初夏を迎えた季節にピタリと合う。どうやら近く開店するドラッグストアがのど飴を配っているようだ。

 どれ、母の分ともう一度家で味わう用と頂いていこう。三回目辺りで背後からチッと音が聞こえた。小鳥の囀りにしては鈍い。恐らくは火打ち式のライターの音だろうか。この辺りでの路上喫煙は禁止されているはずだ。

 やれやれ、マナーのなっていない人間だ。関わるのは得策ではない。私は再びスキップをしながら通りを進む。

 初夏の夕暮れ、茜色が濃い藍色へと変わる頃私はようよう自宅へと着いた。

 体は汗をかいている。ここは一先ず早めの風呂を浴び、冷えた麦茶をぐいと流し込もう。想像するだけで心が晴れる。

 そうと決まれば善は急げ、私は玄関を上がるや否や、衣服を辺りに脱ぎ散らかし熱めの風呂を堪能する。一番風呂の肌にぴりりと来る感覚がまた堪らない。ニート最高。

 風呂から上がり、纏わりつく水気をさっとふき取り下着一丁で私は冷蔵庫へと猛進した。

 私は冷蔵庫の扉を思い切り開き、冷気を一身に浴びる。体表の熱が奪われわずかに残った水気もさっぱりだ。

 冷蔵庫の扉を開け放したまま私は麦茶をごくりと威勢よく喉を鳴らしながら飲み干す。

 まさに至福。極楽はここにある。今日一日図書館で頭を動かし、帰りは大層な運動をした私の体は極楽体験によってすっかりほぐれ切ってしまった。

 夕飯まで少しある。贅沢だが一つ夕寝をしよう。時間に縛られない日々のなんと素晴らしい事か。ニート最高。

 開け放したままの冷蔵庫の扉を勢いよく閉め私は自室へ向かう為に居間を通り過ぎる。

 刹那、私は母と目が合ってしまった。不味い。生霊が飛んでくる。と思ったが何やらおかしい。母は生霊を飛ばさず、卓に着けと手招きをしている。

 他でもない母の頼みだ。無下にはできない。私は夕寝へと向かう体を無理やりに卓へ着かせた。

 しばしの無言。夏へと向かう風が二人の間を抜けていく。

 独特の甘く、気怠い、夏の暮れの匂い。

 私ははたと思い出した。今日は母に土産を持って来ている。この夏の暮れによく合う品だ。

 私は一旦玄関へと戻り、脱ぎ捨てた下履きからのど飴を取り出す。

 母にも一足早い夏をくれてやろうと私は足早に居間へ向かい、母に飴を差し出す。

 得意げな私の顔を見て、母は何やら決意を固めたような顔をしている。次の瞬間だった。それはまさに、夏の嵐とも言うべき混乱を私の胸中に巻き起こした。

「家を出て働きなさい。」

 アダム・スミスの言に倣い、労働によって私の価値を母に認めさせなければ。

「肩でも揉もうか。」

  私は母の背後に向かい、肩を揉む。今日の生霊は随分と激しい。

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