安土桃山 短編集

久乃

茶々と江

「……そう、ですか。」


慶長20年の5月半ば。大阪落城、淀殿と秀頼様はご自害……その報を受けた江は、それだけ呟き、少し黙った。悲しくはない。ずいぶんと前から、茶々の自害は予想できていた。ただ。


(茶々さま、なんとも情のこわい)……


濃い緑が美しい庭に目をやりつつ、江はそう独りごちた。


---

「お初には、黙っていてください。」


天正15年の初秋、聚楽第の茶々の部屋に呼び出され、何かを決意した口調の茶々におもむろにそう切り出されて、江は困惑したものだった。茶々は長女の故か仕切り屋で、自分がこうと決めたらあとは周りは従うもの、と心得ているところがある。江はその頃佐治の家から戻されていまだ半年ほど。何のかのと姫様扱いはされていても、まだ現実として離縁を受け入れ難い。いまの生活は日々を暮らしていくので精一杯で、茶々の意向を汲みながら何かをする、といった役回りをこなす気力はないと言ってよかった。


「は……」


曖昧に返事をして、とりあえず先を促す。全てを語らねば話しやまない姉の気性は、十分に心得ていた。


「お初は京極さまへの嫁入りが決まっています。あれはおとなしやかで逆らわぬ気性、嫁ぎ先も浅井の主筋で何の憂いもない。この話は持ち重りがするでしょうし、幸せに水を差すようなことはしたくありません。」


私は違うのか、と、続きを話す前に茶を喫する茶々をみながらなんとなく思う。母譲りの色白で鼻筋の通ったかんばせは、憂いを帯びて艶やかだった。茶々もそろそろ二十歳になるのに、そういえば嫁入りの話もない。秀吉が度々持ってくる縁談をことごとく断っているのだと、そんな噂だけは聞いたことがある。


「そなたには、秀勝との縁談があると聞き及んでいます。」

「は?」


いきなりの爆弾に江は声が裏返り、茶々はそんなこちらを見て、口の端で笑った。


「秀吉が、よくここに来ていろいろと話しかけてくるのです。」


それで知ったのだということだろう。そういう茶々は、嘲笑するような、情けないような、それでいて得意気なような、複雑な笑みを口の端に浮かべている。


「言うまでもないことながら、秀吉も、その縁に繋がる秀勝も、浅井を倒し、柴田を倒し、信長さまが1つにするのにあんなに苦労されたやまとのお国を濡れ手で粟で掠め取った、我等がかたきであり、そもそもを言えば我等のほうが主筋にあたる。」

「あね様……」


それは、母であるお市の方からもずっと聞かされてきた話であった。幼い頃は素直にそれを信じていた江であったが、少しの間佐治の家に嫁ぎ、主君のいる夫の辛さを垣間見、少なくとも表側は意地と意気で立っているような武家のありようをわずかながらも感じとれば、秀吉が浅井や柴田を倒さねばならなかった事情もわかる。前者は織田家家臣として、後者は天下取りに必要な道程として。


秀吉はもともと流れ者だ。織田家に仕えたのも信長個人に惚れ込んだからに過ぎず、その血筋だからと信長の子孫を立てて自らを家臣の枠に留めておくような男ではない。そもそも、信長が血筋なぞ糞食らえ、を地で行っていたような質で、子飼いたる秀吉はそれに倣うことに何の疑問も感じないだろう。まだ斯波家のように潰されていないことに感謝してもよいくらいだ。


江が納得していないことに気づいたかどうか、茶々は少し目線を迷わせてから続けた。


「無論、そなたの縁談も、秀吉が自らの血筋と我等が縁を結ぶことを求めて企んだもの。佐治の家から戻したのもその目論見があったからではないか。」

「それは……」


不自然な離縁。努めて考えないようにしてきたその理由を推測でさらりと口にする茶々に、江は内心で多少の怒りを覚えた。茶々が江に秀吉を、ひいては羽柴家を嫌わせようとしてそう言っているのは明確である。いまだ血を流している傷を、戯れで抉られたようなものだ。


そんなことはありません、と言えたらよかったと思う。佐治の家から出る日、伯母であり姑であるお犬の方からは、織田の血が1つの城に固まることが秀吉には許せぬのでしょう、と言われた。何が正解か、何が違うのか、一手で一体いくつの成果を狙っているのか、はたまたただの気まぐれか、秀吉の考えることなど推測するほうが無理だと、自らに言い聞かせている。


「まぁ、よい。秀勝に嫁ぐのももう止められないでしょう。それでよいと、私は思っています。」

「はい。」

「ただ、できることならお子をなしてはなりません。」

「は?」

「そなたの身体が一番のこと、出来てしまった子をおろせとは言いませんが……」


そういいながら、茶々は薬包をいくつも盆に乗せてこちらに押しやった。唖然として茶々の口元から目が離せない江に、茶々は淡々と告げた。


「子を成しづらくする薬です。出来てしまっても多くが流れるとか。」

「何故、そんな……」

「江、よく聞きなさい。」


茶々は目と言葉に力を込めた。江は、それまで茶々が何かを言い澱んでいたことと、これからそれを口に出すこと、そしていったん口に出せば茶々がもう引けなくなることを察し、何か別のことばを口に出そうとした。それを遮って、茶々は低い声で告げた。


「茶々は……私は、秀吉の妻になります。あの男に子種は無いし、いまは私に執着している。だから、私は秀吉の妻になって、あの男ではなく、織田に連なる他の男の子を産み、秀吉の血筋を絶ちます。だから、秀勝に嫁ぐそなたは男子を成してはならぬ。万が一にも、羽柴の血筋を後世に残すようなことは。」


---

その後、どうやって退出したかは覚えていない。後日珍しく江の部屋にやってきた秀吉はやはり秀勝に嫁げと言い、江はその後秀勝と10年余りの夫婦生活を送った。茶々はいつの間にか秀吉の側室となっており、お捨、秀頼の二児を産んだが、江はあえて茶々にその父を問うことはしなかった。


ただ、茶々に言われたからという訳ではないが、自分が秀勝と子を成すことには拒絶感があって、留守がちな夫とたまに会えたときなどは茶々の持たせてくれた薬を使うこともあった。夫婦仲は悪くなかったが、幼少期から聞かされてきた羽柴憎しの思いは、心のどこかに残っていたらしい。結果的に女子ひとりを産むことにはなったが、男子を成す前に秀勝が亡くなり離縁になったことに、江は少しほっとした。


その後、徳川に嫁いだのは茶々の意向が強かったらしい。徳川さまなら安堵して子が成せますな、と嫁ぐ前の挨拶に行った江に告げた茶々は、江が退出する素振りを見せるとそれを止め、江を近くに呼び寄せて小さく、しかし尖った声で囁いた。


「お拾は、もしやすると秀吉の血かもしれません。」


はっとして茶々の顔を見返す。茶々は江を厳しい顔で見つめて続けた。


「血だけの問題ではない。豊臣の名を後世に残してはならぬと考えるようになりました。次代は、徳川さまに。それはそなたに任せます。豊臣は、私が片付けます。」

「片付け……」


何のことだか、分かるような分からないような心持ちでおうむ返しをする江に茶々はただ頷き、侍女を呼んで江の退出を告げたのだった。


---

茶々と家康の間に密約があったかどうかは知らない。ただ、茶々はかたきと定めた男に嫁ぎ、寵愛を受け入れ、そして、豊臣を城ごと、我が子ごと葬って逝った。


ただ我が子を弑するだけならいつでも出来たろう。しかし、それでは豊臣の名は残ると、養子や猶子を量産し続ける秀吉を見て茶々はそう考えたのだろうと江は思った。腹を痛めて産んだ子はみな愛しい、とはいわない。江にしても、秀勝との子であるも秀忠との子である竹千代も江の手元から離れて育った子で、大した感慨はない。しかし、自らの手で、側で育てた我が子を使って、婚家をその我が子ももろともに滅ぼす、というのはまた別の次元の話だ。流石あね様、という思いや、そこまでして、という思いが次々と浮かんで消えた。茶々の、秀吉に嫁ぐと話したときの決意の顔がしきりに思い出された。


「やっと、本懐を果たされましたか。」


そう呟く。葉の先から水が滴ったか、池の水がわずかに揺れた。

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安土桃山 短編集 久乃 @Hisa_no

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