神様、女神様に恋をして。そして、トランスファーの君に!

@maetaka

第1話

 トランスファーの季節が、はじまった。

 あのころ、思春期という、何かに恋心を覚えはじめる時期としての言葉は、聞きしに勝っていた。

 高校生となった今でも、忘れられない、不思議な恋の挑戦がはじまった。

 「カナメ?どうだ?好きな何かが、できたか?父さんは、ベーシック・インカムが、好きになった。お前は、どうだ?好きに、ならないか?その制度を考えた、老人もな」

 大いなる、不安定なアドバイスだった。

 「何を、言いだしたかと思えば…」

 また、何か飲んでいるっぽいなあと、呆れてきていた。

 「この新型ウイルスの社会では、皆を、どう愛すべきなのか?わかるか?」

 父親の言葉は、無責任な愛だった。

 「トランスファーっていう言葉は、知っているか?お前の、愛すべき人だ。そして、愛するための方法として、ベーシック・インカムというものがある。ベーシック・インカムは、お前が、女神さまを作る良き方法だ」

 「お父さん、女神様って?」

 「神様の、さらに上の存在だと考えよう」

 「神様?」

 「ああ、神様だ。神様は、老人。老人は、神様。女神様は、その老人たちを束ねる、素敵な人なんだぞ?女神様だから、人じゃないがな。まあ、良いか。ハハハ。ああっ、女神様。って、案外、ばあさんだったりしてな。ハハハ。移り気だ、移り気だ」

 「あなた?やめなさいよう」

 「お父さん、何を言っているの?」

 「老人は、神様なんだ。高齢者って、偉いだろう?俺たちのような、愛からこぼれた世代には、何でも、できるんだよ」

 「ふうん」

 「恋をしろ。恋をしろ」

 「ふうん」

 「憧れちゃうよなあ。女神様の考えた、ベーシック・インカム。美しいよ」

 「ふうん」

 いつの間にやら、お勉強の話にすり替わっていたものだ。小学生相手にムキになっていた父親が、もどかしかった。

 ベーシック・インカムの言葉は強烈で、小学生時代の、新型ウイルスに脅かされていた社会では、神様のような気高き言葉だった。

 「トランスファーっていう言葉は、知っていたか?、か。懐かしいな…」

 女神様との出会いのはじまり、小学生時代を思い出していた。

 「やった、トイレだ!」

 小学生のカナメは、トイレを見るたびに、興奮した。

 ベーシック・インカムに、神様、女神様、トランスファーを追った恋物語は、このときから、はじまっていたのだ。

 「トイレは、素敵だ!」

 トイレは、彼の不思議物語だった。

 神様のような存在でも、あった。

 彼の父親は、トイレにたいする彼のその思いを、深く受けとった。

 「トイレって、お前の通過儀礼の場だな」

 父親の言葉は、未知との出会いだった。

 「ツーカギレイ?」

 「ああ。心を磨くスタイルってこと、さ」

 父親は、哲学的に返してきた。

 家族も、唱和してきた。

 「トイレでは、神様との美しい出会いがあるものよ。それが、人の成長に、役立つの」

 「そうよ、おにいちゃん」

 「そうじゃよ」

 家族全体が、後押ししていた。

 「成長、かあ…」

 そういえば、小学生になったころまでは、ずいぶん、成長不足だった。自分のほほに、コンビニおにぎりのご飯粒をつけて歩いていたことがあった。

 「カナメは、子どもねえ」

 「おにいちゃんは、せーちょーぶそく!」

 「ほれ、ほれ」

 おばあちゃんが、彼のほほに付いていたご飯粒に、気が付いた。

 「お弁当つけて、どこいくんじゃ?」

 笑われ、優しく、カナメのほほをきれいにしてくれたものだった。

 「いつかまた、こんなふうに、優しくご飯粒をとってもらいたいなあ」

 負け惜しみ、だった。

 その負け惜しみが、トランスファーの謎に引っかかっていくとは、知らずに…。

 「小学生にもなって、まだまだじゃのう」

 「…え?」

 「お弁当つけて、どこいくんじゃ?」

 「あちゃあ…。また、やっちゃった」

 おばあちゃんの言ったお弁当言葉の意味を知っていた彼は、恥ずかしさ満点だった。

 「ほれ、カナメ?こっちを、向くんじゃ」

 おばあちゃんは、優しかった。

 「おばあちゃんが、また、お弁当をとってあげよう」

 「うん」

 ドキドキした。

 恥ずかしさの嵐の中、その言葉の再来を、願っていた。

 彼は、まだまだ、子どもだった。

 「トイレに、いってくる!」

 「おや、またかい?」

 彼は、相変わらずトイレ好きの、変わった子どもだった。

 彼は、トイレを選ばない男だった。どのトイレであっても、心の成長は図れたのだ。

 「ああ、トイレの女神様…か」

 成長は、せつなかった。

 今は高校生となった彼は、トイレを見るたびに、その、小学生のころのトイレ事件のことが、何度となく頭をよぎった。

 「思い出すなあ…」

 思い出が、暴走。

 高校生となってから起きてしまった、あの新事件につながってきてしまうから、奇妙なものだった。

 「女神様、か…」

 トイレを見ると、変に甘く思い出された。

 「懐かしいよなあ…」

 深く目を閉じると、クラスの皆が、笑い出した。

 「カナメが、また、瞑想を始めたぞ?」

 「昔を、懐かしむな」

 「老人かよ!」

 「神の修行だ!」

 彼は、さらに、目を閉じた。

 「あの、淡い思い出…」

 彼が、小学生5年生の頃のことだった。

 「懐かしいなあ、あの事件」

 5年生になったインパクトは、強かった。

 「ついに僕は、上級生」

 レベルアップしたのだった!

 彼は、5年生になれた記念に、こんな計画を立てた。

 「社会の秘密を、探してみよう」

 それはそれは、小学生らしい、無邪気な計画だった。

 社会には、秘密がたくさんあったらしく、それを解く旅ができると、楽しみだった。

 そんな旅をするため、当時の彼が注目したものとは、何か?

 それこそが…。

 結局は、トイレだった!

 高校の授業は、気だるかった。

 「子ども時代の俺にとっては、トイレだって、トランスファーだった」

 トランスファー…。

 それは、転校生という意味をもった、魔法の言葉だった。トイレは、彼の心の中に急に訪れた、転校生のような存在だった。

 「そのトランスファーが、まさか、高校生になって、本格的に動きだすなんてな」

 もやもやした心の中、小さな頃の自身が、踊っていた。

 クラス内の笑いは、無視した。

 「よみがえれ。子ども時代の、俺!」

 笑う声たちの横で、つぶやいていた。

 「トイレは、神秘的だ」

 トイレを思うと、自分が、誇らしかった。

 彼の心は、ふくらんでいった。

 新年度は、斬新だった。

 彼には、旅の始まりが、とてつもなく素敵に思えてならなかった。

 家族の言っていた言葉を、思い出した。

 「トイレは、通過儀礼の場になるだろう」

 「心を磨くスタイル」

 「トイレで、神様との出会いがある」

 忘れられなかった。

 「神様、か…」

 トイレとは、まるで、神の神殿。

 「ああ、女神様…」

 トイレにたいする彼の感覚は、心の中でビミョーに、くすぶり続けていた。それはまるで、空をあがり損ねたシャボン玉のような、感覚だった。

 彼の空想は、果てしなかった。高校生になってからでも、その空想は、生きた。

 「僕たちの社会には、それと似たようなセツナサがあるんだろう。だから、僕は、その社会に、何かの答えを見つけにいかなくっちゃ、いけなかったんだろう」

 口から、謎の空気が漏れた。

 「あの頃は、忙しかったなあ。これが、成長のため息という奴か」

 成長は、忙しさの象徴だった。

 小学生も5年生になってからは、彼のやらなければならないことも増えていった。

 まず、もっと、勉強をやらなければならなくなった。ゆるやかな教育生活は終わり、いつの間にか、教科書のページ数が増えた。

 それは、おかしな変化だった。

 「言われていたこととは、違ったな」

 成長するにつれて、神様の存在も言葉も、良くわからなくなってきたものだ。

 5年生となった彼は、がんばろうと思っていた。

 がんばればがんばるだけ、立派な大人になって、これから出会う予定の女神様にも、再会できるような気がしたからだ。

 が、予定は外れた。

 学校の先生は、新しい忙しさに狂いだし、心の余裕が、おかしくなってきた。そんなとき。父親が、こんなことを言ってきた。

 「この先の社会は楽だから、遊んでいれば良いんだ」

 これには、唖然とさせられた。

 「もう…俺たちの味わった氷河期じゃあ、なくなったんだ。遊んでいれば、良い。就職マニュアルを暗記できれば、就社ができるんだ。就社先ののおじさんたちなんて、寝ていても、就社できたんだ。就職じゃなくて、就社だがな。ははは。お前たちだって、楽々。努力なんか、いらない」

 不思議な、不思議な呪文だった。

 それなのに…?

 予定が狂った。

 教科書が、重くなった。

 「楽になるんじゃ、なかったの?」

 なぜなのかは、わからなかった。

 「さては、秘密結社の、陰謀か?」

 5年生は、複雑だったのだ。

 授業の数も、いつの間にか、増えていた。

 新年度は、大きな革命の季節だった。

 「あの頃の俺は、政府のコントロールにあらがおうと、もがいていた。かわいかったなあ。女神様に会うことを目標に、生きていけたからなのか?」

 当時の彼は、学校から家に帰った後も、忙しくなっていった。

 謎の革命は、そろりそろりと、いろいろなところに、忍び寄ってきていたのだ。

 「これが、上級生なんだ!」

 新年度で、彼の仕事は、増加していた。

 その中には、例えば、家のトイレ掃除というものがあった。

 彼は、5年生になるということで、トイレに入ろうとするたびに、励まされた。

 「新年度で成長した、お兄ちゃん!格好いい、お兄ちゃん!」

 そう言われた彼は、心を強くもてた。

 何度も彼に降ってきたその声は、彼を良い気分にさせる、豊かな薬だった。やはり、5年生は、素晴らしいのだった。

 「新年度で成長した、素敵なお兄様ー!」

 妹に言われるたびに、うれしかった。

 「はい、はい、はーい!」

 彼は、簡単に、応じていた。

 その、安易で危ない条件反射が、命取りとなった。

 「超格好良い、お兄ちゃーん!」

 「はーい!」

 「格好良い、お兄ちゃーん!」

 「はい、はーい!」

 「今度、家族会議を開きまーす!」

 「はーい!」

 「そこで決まったことは、絶対に、文句なく、やってくださーい!」

 「はーい!」

 「うふ…」

 ついつい、反応していた。

 「あれは、夏の初めあたりだったっ…」

 記憶の弱音を、悔し涙と共に吐いていた。

 「おい、聞いたか?」

 「聞いた、聞いた」

 「青春だねえ」

 「カナメらしいよ」

 「良い夢であることを、願う」

 高校では、クラスメイトらに、笑われ真っ最中だった。

 「夏の初め…」

 思い出が、戻ってきた。

 「カナメが、何か言ったぞ?」

 「子どもの頃を、思い出しているんだな」

 「カナメらしいや」

 新たな事件の、幕開けとなった。

 小学5年生、夏の終わり、彼の肩が、妹によって温かく叩かれた。

 「格好良い、お兄ちゃん」

 「何かな?」

 その日も彼は、簡単に応じて、すぐに振り向いていた。それは、それは、恐ろしい条件反射だった。

 その日の午後、彼を交えた家族会議が、開かれた。

 彼の家には、彼を入れて、5人が住んでいた。その5人皆で、家の、いろいろな談合が開かれることになっていた。

 5人というのは、父親、母親、祖母、妹、そして、カナメ。

 インコのマイケルは、含めないで。

 そのうち、父親だけは、お仕事で遠い所に出かけてしまっていたのでいない。だから、そのときは4人。

 家族会議は、フンワカとした、恐怖のイベントだった。

 家族のメンバーが招集され、狂おしい時間の流れが、訪れた。その日におこなわれたイベントは、これだった!

 「謎の公平なくじ引き会」

 それについて思い出すと、高校生となった今でも、もやもやとした空気に襲われていくことになるのだった。

 「ねえ。お兄ちゃん」

 妹が、いつになく彼に優しく話しかけてきたことが、恐怖の幕開けだった。

 「なんだよう」

 「お兄ちゃんは、何が好きなんだっけ?」

 甘い声が、してきた。

 彼は、妹のその甘い語りかけにたいして、素直に、応じていた。

 「カニが好きだなあ」

 あっさりと、はまった。

 すんなりと釣られた、彼…。

 それは、大いなる失言だった。

 妹は、呆れていた。

 「そうじゃないのよ!お兄ちゃん。野球が好きとか、サッカーが好きとか、TV番組を見るのが好きとか、そういうことを聞いていたの!」

 怒られた。

 だから、のんびりと、反発していた。

 「良いじゃないか。カニが、すきなんだもの。カニは、おいしいよ?」

 「あっ、そう…」

 妹は、呆れを深めていた。

 「じゃあ、すてきなお兄ちゃんをそんけいして、カニにけってい!」

 妹は、なお、優しく言ってきた。

 「まるで、かみさまだ」

 ふと、トイレのことを思った。

 妹の優しい言い方も、悪くなかった。

 …が、失敗したか?

 「うふふ」

 妹とおばあちゃんが、微笑んだ。

 彼は、トイレに立った。

 そして、彼がトイレから戻るのを合図に、家族会議が本格的に開かれた。父親を除いた家族4人が、食卓の丸テーブルに集まった。

 「始めます」

 テーブルの上に、4枚の紙が置かれた。

 「今日は、この飽きからの家のトイレそうじとうばんを、きめます」

 皆が、ニコニコし出した。

 「これから、あいのくじびきゲームをはじめるよ!」

 特に妹は、楽しそうだった。

 おばあちゃんも、楽しそうだった。

 「うしししし」

 すでに彼は、破滅への道を、歩んでいた。

 「いいですかあ?」

 妹は、ニヤニヤし続けていた。

 「いま、テーブルの上に、4まいのかみをおきましたー!」

 「神?」

 「ちがいます。かみです」

 このふざけは、まずかった。

 おばあちゃんも、ぐっと、ニヤニヤしていた。

 妹いわく愛のくじ引きゲームは、こんなルールだった。

 「テーブルに広げられた4枚の紙のうち3枚に、この家の神様のような、素敵な兄が好むという、カニの絵が描かれていた。1人1枚ずつ、紙を取る。紙を取ったら、それを裏返す。そこに何も書かれていなかった人が、負け。この秋からその人に、しばらくの間、家のトイレ掃除が任せられる」

 妹は、ニコニコしたままだった。

 本当に、楽しそうだった。

 おばあちゃんも、ウキウキしていた。

 母親は、鼻歌を歌い出した。

 「そうじゃ。カナメは、5年生になるんじゃ。偉いんじゃねえ」

 おばあちゃんが、わかりきったことを言い出した。

 「そうよ。成長したのよね?偉くなったのよ!これからカナメは、しっかり、やらなきゃいけないわよね!」

 母親が、続いた。

 「そうよ。すてきな、お兄ちゃん」

 重ね重ね、優しいほめ言葉をもらえたものだ。確実に、いばらの道を進んでいた。

 妹が、立ち上がった。

 「では。わたしたちの、かみさま。えらくなったおにいちゃんから、どうぞ」

 彼は、ますます、うれしかった。

 妹は、エレガントだった。

 「1まいだけ、かみをとってください」

 「神を、とっちゃうの?」

 「ちがいます」

 「ちぇっ」

 「へんなこというのは、やめてください」

 「わかったよう」

 まったく、脳天気なやり取りだった。大きな落とし穴に、あふれていた。

 彼は、言われるがままに、動かされた。

 「やったわ」

 妹が、にやりとした。

 テーブルの上の紙を、1枚、自然と手に取っていた。

 「はい!すてきなおにいちゃん、それをうらがえしてみて!」

 彼の頭の中は、完全に、コントロールされていた。彼の手は、妹の指示通り動かされ、破滅に向かって、紙を裏返していた。

 結果…。

 紙の裏には、何も描かれてはいなかった。

 「ぎゃっ!」

 彼は、負けたのだった。

 「みんな、はやく!」

 妹が、叫んだ。

 そして、すぐに、テーブルの上に置かれていた他の紙を回収していた。

 妹は、がっくりとする兄とは対照的に、なぜか、すごく楽しそうだった。

 「ハッ!」

 気の抜けた炭酸飲料の心が、弾けた。

 「ちょっと、これって、おかしいじゃないか!どうして、こんな簡単に、決まっちゃうんだ!やり直そうよ!」

 けれども、彼による抗議も、撃沈。

 「もう、お兄ちゃんなんだから…みっともないでしょ。神様のように偉くなった5年生なんだから…文句言わないの!」

 母の一言によって、崩壊。

 妹は、ニコニコしていた。

 「そうよ。そうよ」

 おばあちゃんに向かって、ウィンクをしてみせていた。

 おばあちゃんは、無言でうなずいて、妹の手を握りしめていた。

 「やられた…」

 彼は、震え出した。

 上手い具合に、はめられたのだった。

 これが、成長したことによるワナというものに、違いなかった。大きくなったことで浮かれていたのが、いけなかったのか?

 「神様に、なったようだ」

 そんな言葉は、罠だった。

 神様なんて、本当は偉いのかどうか、わかったものじゃなかった。

 その日は、ゆっくりと心休まるはずの日曜日だったけれども、彼の心は、無残な時間経過になってしまっていた。

 「ちえっ」

 その日の午後、近くのコンビニへ、しぶしぶトイレ用ブラシを買いにいった。

 そして、9月に入った。家族談合で決められた、トイレ掃除が始まる季節になった。

 彼は、コンビニに、今度は、トイレ用の洗剤を買いにいった。

 すると…。

 「ワー!ワー!ポポー!」

 家の近くにあった高校から、楽しそうな音が聞こえてきた。

 「良いなあ」

 彼は、頬杖をついていた。

 「スポーツ大会が、開催されていたか?」

 歓声が、続いた。

 そんな楽しそうな声を聞いてしまうと、その高校に、嫉妬した。

 「僕も、大きくなって、あんな楽しい学校に入学したいな」

 小学校の教室で、つぶやいていた。

 「これって、あの高校への初恋というものなのかなあ?なんちゃって」

 この初恋が、後々、わけのわからない神の事件を引き起こしていくことになるとは、彼はまだ、気付きもしなかった。

 「もう、9月なんだなあ」

 彼の高校片思いが、進んだ。

 秋風が、優しくそよいでいた。

 思いなんて、そんなもの。

 夏休みが始まったときは、期待感が、いっぱいだったのに。

 …それなのに、夏休みのあの期待感は、逃げるように過ぎていってしまった。

 「それでは、皆さん。元気で、過ごしましょう」

 校長先生たちのあいさつがそれなりに終わると、彼ら小学生たちは、それぞれ、家路につくことになっていた。

 何だか複雑な、帰宅だった。帰ったところで、夏のようなワクワク感は、見つけられそうになかったからだ。

 彼は、学校からの帰り道、ずっと、トイレ掃除のことを考えていた。

 「面倒だなあ」

 また、頬杖をついていた。

 「次は、どんな洗剤を試そうか」

 そんなことを思いながら、彼の目は、あの高校のほうを向いていた。

 「あの高校は、今、どんなことをしているのかなあ?将来、あの高校に、進んでみたいなあ。努力して、みようかなあ…」

 その高校は、まぶしかった。 

 帰宅後、心を落ち着かせながら、家のトイレのドアを開けた。トイレの便器は、いつもと同じようだった。

 「…トイレが何も言わなかったのは、当たり前か」

 彼は、便器の中を覗いた。

 すると…!

 彼の身体に、ピリカララと、電流が走ったような気がしてきた。彼は、便器に、魔法をかけられてしまったのだった。

 カナメ流のトイレの旅が、始まった。

 「うわ」

 彼の身体は、便器という名のブラックホールに、ダイブしていた。

 とんでもないアトラクションだった。

 「何だよ、これ!」

 彼の頭が、うなった。

 便器というブラックホールの中での彼は、荒波にさらわれ、迷い人と化していた。

 10秒、いや、20秒は回転していたんじゃないだろうか?

 「ぐるぐる、とああ」

 気付くと彼は、どこかのトイレの便器の中から、外に向かって身体を乗り出していたようだった。

 「ひどい回転だった…」

 彼の顔には、陽が射してきていた。

 それほどいやな感じはしなかった。何となく、見慣れた暗さがあったからだ。初めてではなかったような感じ、だった。

 見慣れさせられた、風景…。

 「そうだ!」

 そこは、まさに今、彼らが通っている、小学校のトイレの中だったのだ。

 「そうそう、静かな、この感じ」

 それは、さわやかな心の風だった。

 トイレには、人の気配はなかった。あったのは、少し残念な臭いくらいだった。

 「うーん…」

 これも、大きくなったことへの試練だったのか?

 成長は、難しいものなのだった。

 「これからも僕は、こんな気味の悪い成長を続けていかなければならないのか?大きくなるって、どういうことなんだろう?」

 先が思いやられる思いだった。

 「しっかり大きくなって、あの高校で生活できるか、心配になっていた」

 彼は、便器から完全に身体を出した。

 そのこじんまりとした個室を出るために、そっと、ドアを開けた。

 「うわ!」

 やっぱり…。

 そこは、彼の思った通り、学校のトイレの中だった。

 いくつかの個室が、並んでいた。

 ただ、静かに。

 部屋の中の壁には、紙が貼ってあった。

 「トイレは、きれいに使いましょう!掃除当番表・チェックポイント」

 ペンでこう太く書かれた紙が、憎かった。

 「5年生・担任サイン」

 それは、彼らの学年。

 成長への思いは、時空をも超えるということだったのだろうか?

 常に、悩まされた。

 「こうなったら、トイレルーム全体の出入り口を開けてしまおうか」

 新たな理想を、思い始めていた。

 そうすれば、そこから、5学年のある教室等に出られるはずだったからだ。そこまでくれば、学校の校舎外までは、すぐだった。

 「校舎内にあるどこかの鍵を、開けてしまえば良い」

 学校の先生には、怒られるだろうけど。

 「帰ろう」

 そうして、彼が、トイレルームから出ていこうとしたときだった。

 「待ちなさい」

 彼の背後から、声がした。

 「…え?」

 遅れた帰還を憂えて、恐る恐る、振り返ってみた。

 そこには、赤いレインコートのようなものまとった人が、立っていた。

 「誰?」

 相手の背は、それほど高くない人だった。

 たぶん、彼のおばあちゃんくらいの人だった。何だか、ファンタジーに出てくる魔道士みたいで、不気味に、強そうなものだった。

 その小さな魔道士は、彼に向かって、こう言った。

 「私は、トイレの女神様じゃ」

 「え?」

 すぐには信じられなかったが、本人がそう言ったのだから、納得するしかなかった。

 「トイレの女神様じゃ」

 「なんだか、汚い女神様だなあ…」

 子ども心にも、残念だった。

 「でも…あれ?」

 何となく、どこかで聞いたことのあるような声だったのだ。

 「あ、あのう」

 「はて?」

 「本当に女神様なら、僕の願い事とか、叶えちゃってくれたりしますか?ねえ、どうなんですか?」

 聞くと、女神様に笑われたように見えた。

 「ほう。願いごとかね。わかった。わかったよ。ただし、宿題を教えてください、というような願いごとは、ダメじゃぞ」

 「言うなあ…」

 女神様は、なかなか、厳しかった。

 次に彼は、こう言ってみた。

 「女神様…。お願いがあるんです」

 「そうかい。何かね…」

 優しく優しく、応じてくれた。

 「お父さんを、ここに、呼んでほしいんです。そんな願いごとは、どうですか?そういう願いごとなら、良いんでしょう?」

 「うーん。そうきたか」

 女神様が、悩み出した。

 「僕のお父さん、今お仕事で、どこか遠い所に出かけてしまっているんです。僕、帰ってきてほしいんです」

 「そうか。さみしかったかい。やっぱり、何だかんだいっても、子どもだものな。さみしかったじゃろうなあ」

 そんな、変な前置きをしてくれた。

 「5年生になったと言ってもなあ…さみしいものは、さみしいのじゃ…」

 勇気ある言葉を届けてくれた、力強い女神様だったようだ…。

 「僕が小学5年生になったことが、知られていた。さすがは、神様。女神様」

 この女神様は、侮れなかった。

 「他に、何か聞きたいことはあるかい?」

 急かされたように、もどかしかった。

 「小学5年生になると、寂しくなるのは、ダメなことなの?心の成長には、さみしさが邪魔になっちゃうの?」

 すると女神様は、ほほ笑んだ声を返した。

 「いや、それもありかもなあ、ふふふ」

 「これは、本物の女神様なのかも!さみしさは、心の成長の邪魔をするものなんかじゃなかった」

 少し、ホッとしていた。

 「ただし。お父さんに会うためには、トイレの儀式が必要じゃ」

 「トイレの儀式?」

 トイレの女神様は、条件付きだった。

 女神様によれば、トイレをきれいにみがくことが、素敵なトイレの儀式になるのだそうだった。

 「トイレをきれいにすればするほど、願いごとは叶う。それって、本当?」

 「本当?」

 「ああ」

 女神様は、自信ありそうに言っていた。ますます、美しかった。

 彼は、決心がついた。

 「いつかは、この女神様を超えなければならないかもね」

 成長は、怪奇。

 女神様も、怪奇。

 5年生にもなれば、たくさんの儀式が、待っていた。

 しかし、文句は言わなかった。

 女神様も、納得していた。

 「この部屋にはな。見ればわかるように、いくつもの個室が並んでおる。その、それぞれの個室にある便器には、ある秘密がある。聞きたいかい?」

 「もちろんです」

 素直に、応じていた。

 すると、女神様は、言った。

 「実はな…それぞれの個室の便器は、それぞれ、どこか別の世界へと続いておる」

 それはまた、謎の言葉だった。

 「それぞれの世界?」

 ファンタジーな言葉、だった。

 「そうじゃ」

 「へえ」

 「たくさんの世界が、開ける」

 「女神様は、すごいなあ」

 「神様じゃからな」

 女神様は、便器の1つを指差した。

 「便器を、覗いて見てみるがいい。この先に、お前の求めている世界がある。きっと、お父さんに会えるようになるじゃろう」

 「そうだったんだ」

 女神様は、いつだって、美しかった。

 もしかしたら、好きになれるタイプの人なのかも知れなかった。迷っている暇なんて、なかった。

 「成長して偉くなるっていうのは、こういうことだったの?」

 彼は、トイレルームの中にある個室の1つを、もう一度開けてみることにした。

 「よし。きれいに磨くぞ」

 そう言って彼は、個室の1つを開け、便器の中を覗いてみた。

 「あ!」

 すると、どうしたことか…?

 彼の身体は、便器の中に吸い込まれ、渦潮の中に放り込まれたようになって、素早く回転させられてしまったのだった。

 目の回るスピードは、母親の説教のように、恐ろしいものだった。彼は、目が回り、頭が回る中で、トイレの女神様のことを、懐かしく思い出していた。

 そして、叫んでいた。

 「ああっ、女神様!」

 目を、開けてみた。

 そこは、弱い光のどこかだった。便器の中では、なかったようだ。

 どこかのトイレの中の便器の外へと放り出されてしまっていた。いつも見るものとは違って、変わった形をした便器だった。

 「変な形の、便器…あ、そうだ!」

 あることを、思い出せていた。

 「これは、たしか、学校の社会科の教科書に載っていたトイレだ。夏休みにミタライ君の家に遊びにいったときにも、見たことがあったな。たしか…ええと…たしか、和式トイレ…という名前だったはずだ」

 懐かしき、思い出か。

 「やばい」

 どこかから、音が、聞こえてきたのだ。

 こんな声が、聞こえてきた。

 「…わが国も、新しきショウワの時代の門を、叩いた。我々は、新しき時代を作る段階に、立たされておる。この、大切な時に。どう、思うかね?君。レッキョウににらまれたままでは…うむ…戦うべきか、否か…」

 その声が、近付いてきた。

 「コツコツコツ…」

 足音と共に、彼に迫ってきた。

 「どうしよう!」

 恐れた彼は、便器を見ながら、こう、祈っていた。

 「ああ、女神様!」

 彼の身体は、再び、回転を始めた。

 何秒が、過ぎたか…。

 彼は、目を開けてみた。

 新たな世界が、開けてきていた。

 「あれ?」

 何だろう、この便器は?

 またもや、見慣れない便器の登場だった。そこから外に放り出された彼は、不思議な気持ちで、放り出した便器を眺めていた。

 「これは…?」

 いつも見ているものとは、違いすぎて、やばかった。

 しかし、本当に注意すべきなのは、外の方だったのかも、しれなかった。

 部屋の窓の外から、何十人、ひょっとしたら、何百人もの人の声が聞こえてきた。

 彼は、こっそりと、窓から外を見てみた。

 人が、大勢、集まっていた。

 誰かを中心に、たくさんの人が囲んで、声がガンガン重なっている感じだった。

 「あれ?」

 しかし、彼には何を言っているのかが、よくわからなかった。聞いたことのない言葉ばかり、だったのだ。

 「何を、言っているのだろう?」

 ただ、皆の声に囲まれて中心にいた人の顔には、何となくだけれども見覚えがあった。

 異国の顔だった。

 「お父さんが、歴史の面白い図鑑をもっていて、去年、宿題用に見せてくれたことがあったな。その図鑑に載っていた人、なんじゃないか?」

 異国の人だ。

 名前は、忘れてしまったけれど。

 …ええと。

 「パンが無ければ、ケーキを食べればいいでしょう」

 たしか、そんなことを言っていた人だ。

 きっと、ケーキが大好きだったのだ。

 「…ああ。良く、思い出せない」

 とにかく、まわりの皆が何を言っていたのか、わからなかった。

 世界は、残酷だったのだ。

 「トイレのあの女神様とは、大きく違う」

 彼はまた、成長の美しさを思い浮かべてしまっていた。

 「ああ、女神様!」

 祈って、ゆっくりと、目を開けてみた。

 「ふう…」

 どうやら、そこもまた、どこかのトイレの中だった。

 今度は、あまり変な気分には、ならなかった。なんていうのか、懐かしく、いとおしい感じの便器が、目の前にあったのだから。

 「これって…!」

 そこは、彼の家のトイレだった。

 「ついに、ついにここへ、帰ってくることができた!」

 便器を見つめながら、旅の疲れと、成長する厳しさに、涙が出そうになっていた。

 これでついに…。

 旅は、終わったのだろうか?

 彼は、見慣れたトイレの中にある便器の前で、ため息をつき始めていた。

 「トイレは、僕を裏切らない」

 根拠もなく、そう言えていた。

 「とりあえず、この部屋から外に出よう」

 彼は、トイレの出入り口のドアを開けた。

 「当たり…!」

 彼の思った通りだった。

 そこは、あまりにも見慣れた場所。やっぱり、彼の家の中だったのだ。

 足は、軽かった。

 彼は、自身をもって、廊下を歩いていた。

 その足は、安心感を増して、優雅でさえあった。

 …気配に、気付けなかった。

 「どうだったかい?」

 背後から声をかけてきたのは、久しぶりの父親だった。父親は、彼を、そっと見つめてくれていた。

 「お父さん…?」

 彼の顔は赤くなり、魔法のような、出来事だった。久しぶりに会えた彼の父親は、いくぶんか、小さくなっていた感じがした。

 「お父さん、小さくなったんじゃない?」

 彼が小声で言うと、笑われた。

 「それは、違うよ」

 父親は、不思議なダンスを踊ってきた。

 「何を、やっているの?」

 「これか?」

 「うん」

 「うれしくてなあ」

 「お父さんも、うれしくなったの?」

 「久しぶり。久しぶりに、会えたからな。お前も、大きくなった。今なら、お父さんの方が、小さく見えるはずじゃ」

 何だか、おばあちゃんのような、トイレの女神様のような、温かい話し方だった。彼には、その話し方が心地良かった。

 「これからは、成長できたことの意味を、よーく考えることじゃな。成長した中で、変わったこと。変わらなかったこと。変わってはいけなかったこと。そうしたたくさんの思いを、将来に、どうつなげるべきなのか。そうしたことを感じることが、心の、成長になっていくんじゃな」

 自信をもった声で、世界のたくさんの真実を、話してくれたのだった。そのときの彼には、少し、難しい話だった。

 彼は、秋からスタートした家のトイレ掃除のことを、父親に話していた。

 父親は、笑いながら、こう言った。

 「トイレ掃除によって、何が変わったのかを、感じてみなさい」

 彼は、そんな父親に、教えてあげた。

 「トイレは皆、不思議体験で満たされていたんだよ!」

 「そうかい」

 父親は、満足そうだった。

 「それも、人生経験、良い経験。成長のための、大切な儀式になったはずだ」

 「うーん…」

 彼は、悩んだ。

 「悩んでいるのか?それも、良いことだ」

 「うーん…」

 「そうか、そうか」

 「…」

 「成長したな」

 父親は、自信たっぷりの声で、言った。

 「女神様、かあ…」

 最後に、父親は言った。

 「お父さんはな。お前にな。渡したいものが、あるんだよ。ほれ、目をつむってみなさい。もっともっと大きくなっていくための、秘密の力を授けてやろう。ほれ、目をつむったままで、手の平を前に出しなさい」

 彼は、目をつむることにした。

 うれしかった。

 うれしすぎて、すぐに、父親の言った通りに目をつむっていた。

 たぶん、10秒くらいが経った。

 なぜか、ドキドキしていた。手の平の上には、一体、何が乗せられるのだろうか?

 たぶん、10秒くらいが経った。

 「お父さん、もういい?」

 声は、返ってこなかった。

 「目を、開けるよ!」

 彼は、目を開けた。

 …。

 「あれ?」

 そこに、父親はいなかった。まるで、トイレ掃除のときに体験したことのように、妙な出来事になってしまっていたのだった。

 不思議なことが、あるものだった。

 気を落として、歩き始めていた。

 今度ばかりは、ためらった足踏みだった。

 廊下を、左に曲がった。

 居間に入ると、妹が、ソファーに寝そべりながら占いの本を読んでいるところだった。妹の隣りでは、母親が、鼻歌まじり。

 「インスタ映え、人肉食」

 そんな変わったタイトルの本を、開いていた。母親に、報告。

 「さっき、お父さんに会ったよ」

 母親は、半信半疑。

 「やだわ。お父さんは今、仕事で出かけていて、いないじゃないの」

 そう言って、笑ってきた。

 妹が、それに続いた。

 「もう!お兄ちゃんは、わかってない!2年生になった私でも、そんなこと言わないのに!今、お父さんは、お仕事でいないの。おばあちゃんにでも、きいてみたら?」

 生意気な妹、だった。

 「…あ、そうだ!」

 おばあちゃんに聞いてみることを、思い立っていた。

 「老人は、神様だった!」

 神なるおばあちゃんに聞けば、良いはずだった。神の不思議な魅力で、何かを知っていただろう。

 「よし。おばあちゃんに、聞いてみよう」

 …が、祖母の姿は見えなかった。

 「お母さん?」

「あら、なあに?」

 「おばあちゃんは、どこにいったの?」

 おねだりをする子のような、感覚だった。

 「さあ?おばあちゃんなら、戦いにでもいったんじゃないかしら?」

 そう、言われた。

 「戦い?」

 「うん。そう。昨日、格闘技のD VDを熱心に見ていたから…。何かと戦うために見ていたんじゃ、ないのかしら?」

 「えー?」

 「がまんしてよ」

 「おばあちゃん、いないの?」

 「もうすぐ、帰ってくるんじゃない?」

 「そうかなあ」

 「もう。5年生になったんだから、しっかりしなさいね」

 そんな言葉が、突き付けられた。

 成長して大きくなるのも、けっこう、つらいものなのだった。

 外は、充分、暗くなった。

 結局、おばあちゃんが帰宅したのは、夕食になる30分くらい前のことだった。インコのマイケルも、一緒だった。

 「勝った、勝った」

 おばあちゃんは、うれしそうだった。そうして、謎の袋を1つ、肩に担いでいた。

 たすき掛けで抱えていた少し小さな鞄には、野草のような物が入った袋、何かのスパイスのような物が入った袋に、薬が入っているような瓶が、いくつか押し込まれていたようだった。

 「あら、あら」

 母親は、興味津々になっていた。

 「あら、あら。重そうな袋を担いでいるのですね。何ですか?また、何かの実験に使うのですか?」

 「まあね」

 おばあちゃんの口が、にこやかに、横に広がった。ゆっくりと、自分の部屋のほうへ歩いていくのだった。

 「うふふ」

 本当に、うれしそうだった。

 母親によれば、おばあちゃんは、実は、偉大な黒魔術師なのだという。いろいろな幻を見せてくれたりもでき、その気になれば、世界を滅ぼすこともできるらしかった。

 「おばあちゃんって…一体…」

 社会は、まだまだ、彼の知らないことばかりなのだった。

 彼は、自分の部屋にゆっくりと戻っていこうとしていたおばあちゃんに向かって、恐る恐る、声をかけてみた。

 「あのねえ、おばあちゃん」

 「おや。どうしたい」

 興味をもってくれた。それが、妙に、心地良かった。

 「今日は、いろいろあってね」

 「そうかい」

 「お父さんにも、会えたんだよ」

 「そうかい」

 「そうなんだよ!」

 彼は、絶妙なニコニコ返しができ、うれしかった。

 「そうかい、そうかい。会えて、良かったじゃないかい。それなら、トイレの女神様にも、会えたんだろうね?」

 彼は、疑問だった。

 「おばあちゃんは、どうしてトイレの女神様のことを知っていたんだろう?」

 さすがは、偉い老人だった。

 でも、それももう、どうでも良くなってきてしまっていた。

 何といっても久しぶりに父親に会えたことで、彼の心は、幸せ一杯になってきてしまっていたのだから。

 おばあちゃんは、背中に担いだ袋を、優しくさすっていた。

 「ふふふふふ」

 さすりながら、笑い続けていた。

 社会は、複雑怪奇なのだった。

 その日から、家のトイレ掃除は、当番制ではなくなった。

 毎日、彼がやることにしたからだった。

 「トイレ掃除のこのドキドキ感とときめき感は、他の誰にも、渡せない」

 それからというもの、彼には理由がわからなかったが、トイレの女神様には、なかなか会えなくなっていた。

 彼は、うろたえた。

 女神様に会えず、どこか遠くの世界へ旅することは、できなくなっていた。

 「このトイレ掃除の体験は、他の人には、渡さない!」

 屈折した気持ちに、燃えていた。

 仕事で遠い所に出かけてしまっていた父親だったが、母親によれば、たまに、連絡があったらしかった。

 いつも、彼と妹が学校にいっている頃に、電話がかかってきたらしかった。

 父親は、元気なのだそうだ。

 彼は、胸を張って学校に通い、胸を張って帰宅し、胸を張ってトイレ掃除に向かうことができたのだった。

 当初はやりたくなかったトイレ掃除も、今や、完全に彼のマイブームになってきてしまった。学校でも、彼は、率先してトイレをきれいにしようとした。

 学校の先生からは、笑われたが。

 「これからは、専門の大人がトイレ掃除をやってくれるのだから、カナメ君は、掃除をやらなくてもいいんだよ?努力なんて、格好が悪いしさ」

 学校トイレ掃除の旅は、ひとまず、終焉を迎えた。代わりに彼は、家のトイレ掃除に、精を出した。

 母親には、こう言われた。

 「あなたのトイレ掃除って、アブナイ条件反射よね」

 妹には、こう言われた。

 「病的な情熱」

 一週間が、過ぎた。

 彼が学校から家に帰ると、母親が興奮しながら、寄ってきた。

 「ねえ!聞いて、聞いて!」

 「お母さん、どうしたの?」

 「聞いてよ!」

 母親は、言った。

 「お父さんがね!もう少ししたら、帰ってくるらしいわよ!」

 「本当?」

 「本当よう。お昼頃、連絡があったの。お父さんね、今、地球の裏側あたりにいるらしいわよ。それでね、お土産もって、帰ってきてくれるそうよ!なかなか良い呪術人形が見つかったから、もってきてくれるって!」

 母親の声にに、女神様に相応しい喜びが宿っていた。それほど、素晴らしいニュースだったのだ。

 どこからか、おばあちゃんのクスクス笑うような声も、聞こえてきた。

 平和な日常が、戻ってきたのだった。

 彼は、その日も、トイレをしっかり掃除することにした。

 「あれ?そういえば…」

 ふと、女神様とトイレに関するある出来事を、思い出していた。

 以前、父親は、こんなことを言っていたものだった。

 「渡したいものがある」

 無性に、気になった。

 「渡したいもの?何だったんだろう?」

 5年生にまで成長した彼には、その渡したかったものが何なのかが、ちょっぴり、わかってきたような気がしていた。

 「それは、呪術人形なんかじゃなくって。本当は…」

 そう考えながら、彼はまた、家のトイレ掃除に魂を注いでいた。

 その日の、夕方。

 「ただいま」

 「おかえりなさーい」

 幸せな声が、家の中を駆けた。

 「よし、勝った、勝った」

 おばあちゃんが、また、得体の知れない物を抱えて帰ってきた。

 「ああ、女神様!また、出てきて!」

 そして彼は、神によって、社会が変なことにならないようにと、祈ってもいた。小学5年生にもなると、自分のことだけじゃなく、社会のことまで心配できてしまうのだった!

 彼は、成長した。

 新たに悩まされたのは、次の年だった。

 小学6年生も、危うい予感。

 それまでは、6年生になることを目指し、がんばってこられた。お兄さんやお姉さんたちを追って、必死になれた気がした。

 上を目指した切磋琢磨は、りりしかった。

 けれども、いざ、最高学年となってしまえば、責任感が増すばかりとなった。

 きつかった。

 下の学年から押し寄せてくる圧力をなだめる日々に、なっていた。

 いろいろな意味で、面倒な学年にきてしまったのだ。

 心の成長は、難しいことだったのだ。

 それは、彼が、トイレ掃除から得ていた教訓でも、あった…。

 彼は、6年生になれた記念に、こんな計画を立てていた。

 「これからの社会の秘密を探そう」

 その計画は、格好良かった。

 計画は、すぐに、実行された。

 ある日、校内パソコンの、カナメのホームページが動揺。

 「カナメ君へ。トランスファーの謎を追いなさい」

 そんな変なメールが、訪れたのだ。

 それが、その後起こされた、神をめぐる連続事件の、始まりだった。

 もちろん、通常なら、そんなことも起らなかっただろう。

 小学校のパソコンで、個人のメールアドレスをもつことは、御法度だったからだ。個人ページをもったばかりに、児童生徒が危険な出来事に巻き込まれてしまうことが、考えられていたからだ。

 だが、担任のキサラギ先生は、その危険性を、より良く捉えようとした。

 「これも、勉強だから」

 ちゃっかり、クラスの一人一人に、メールアドレスをもたせた。

 交流の幅を、広げたかったのだろう。

 「なんて、教師だ…」

 キサラギ先生のことを、こう呼んだ。

 「危ないウーマン」

 それにしても…。

 「トランスファーの謎」

 それは、どういう意味?

 とりあえず、その文面を、小学校のパソコン室でおこなわれたパソコン教室授業で、キサラギ先生に見せていた。

 「誰からかしら?」

 先生は、不思議がった。

 不思議なのは、彼も同じだった。

 先生はまた、こうも言った。

 「カナメ君へ、か。はっきりとあて先が書いてあるわけだし…。単なる不特定の相手への一斉ばらまきチェーンメールとは、考えにくいわね」

 彼は、もう一度、先生に見てもらった。

 「先生、良く見てください」

 「何かな?」

 「これですよ、これ」

 「追いなさいって、ところ?」

 「はい」

 「これが、どうしたの?」

 「女の人っぽい、言い方ですよね?」

 「そうねえ」

 「嫌な、言われ方。命令されちゃって、いますし」

 「そうねえ。カナメ君よりも年上の人からでしょうね。変わったメールねえ」

 「はい」

 小学6年生も、楽じゃなかったのだ。

 大型連休も終わり、毎日が、平和に過ぎていくこととなった。

 学校集会が、開かれた。

 校長先生が、言った。

 「皆さん、これから中学生になるんですから、将来のことを考えて動いてください。中学受験を経験する子も多いでしょうから、先のことを考えて、生活してください。老後のことも考えて、しっかりと、悔いのない小学校生活を送ってください」

 「うっそ…」

 「困ったなあ…」

 「嫌だねえ」

 穏やかでは、なかった。

 「皆さんは、小学生なんです。将来のこととかあまり深く考えずに、楽しく遊んでしまいましょう」

 そう、言っていたのに…。

 「ローゴ、かあ」

 今からローゴのことを考えていかなければならないのは、ユーウツだった。

 「良いですか?」

 良くなかったけれど、聞いた。

 「皆さんは、子どもです。老人では、ありません。気を抜いた生活は、いけません。老人は、神様ですけれどね」

 「神様?」

 校長先生は、大切なことを言っていた。

 「老人は、神様です!まわりから、自動的に支えてもらえます。若いころには、シューショクナンというものなんかなくって、怖いものなしでした。もちろん、老人の全員が全員、そうじゃありませんけれどね。生活が大変な人も、います。しかし、皆さんに比べれば、神様です。皆さんも、そんな神様になれるように、生きていきましょう!」

 先生仲間の何人かが、大きく、納得いた。

 「うん、うん」

 何も考えずに、うなだれていた。

 「呪いの人形のようだ」

 クラスメイトの誰かが、言った。

 努力をしてきた世代の先生たちは、不可思議な顔をしていた。

 キサラギ先生は、集会の後で、うろたえていた。

 「私たちは、何なのかしら?若い教員も、何?若い子って、私たちより学歴が高い人も多いのに、私たちの下で働いている。怖くって、仕方がないわ。下を見れば、私たちが消されるほどの勢いで、這い上がってくる若い子ばかり。疲れる」

 少なくとも、先生たちには、物わかりの良い神様なんて、いたのだろうか?

 社会には、数々の秘密があった。

 「…校長先生も、老人。老人は、神様」

 教室では、キサラギ先生が、まだ、ぶつぶつ言っていた。

 「キサラギ先生は、ジョーキンさんですよね?なのに、何か、かわいそう。ヒジョーキンさんよりも、偉いはずなのに。それでいて神様になれないなんて、だっさい」

 クラスメイトの、優秀な女の子軍団が、余計なことを言い出した。

 キサラギ先生を、激怒させていた。

 「私たちは、神様じゃないわよ。偉くなんか、ないわよ!冗談じゃ、ないわよ!ヒジョーキンの人のほうが、私たちなんかより、レベルが高いのよ!私たちジョーキンは、毎日のように、職員会議とかで、怒られているのよ!君らジョーキンは、ヒジョーキンより劣るね、ですって?君らも、負けないように努力しなさい、ですって?ふざけてるんじゃ、ないわよ!こういうことになるなんて、誰も思わないわよ!」

 先生は、わめき始めた。

 よせば良いのに、ある男子生徒が、こう口を開いた。

 「先生たちって、どうして、努力しなくても、良かったんですか?」

 これは、まずかった。

 キサラギ先生の顔が、さらなる怒りで、崩れた。

 他の男子が、こう言った。

 「勝ち組って、良いよな?」

 別の男子が、こうも言った。

 「仕方ないよ」

 「仕方がないって、何ですか?」

 「神様だものな」

 「神様、ですって?」

 先生が反撃してきたので、その生徒は、受けて立った。

 「だって、そうじゃないですか。あきらめてください。あなた方先生の知性は、低いんです。これが、先生たちのレベルなんです」

 何を思ってか、条件反射的に、そう言ってしまっていた。

 「何ですって?」

 これで、先生は、完全にキレた。

 「今、何と言いましたか?」

 先生は、鬼と化し、教室を暴れ回った。

 その男子生徒の腹に、数回、蹴りを入れていた。

 男子生徒が、泣いた。

 キサラギ先生は、教頭先生らに呼ばれた。

 「かわいそうに」

 「俺たちのこと、か?」

 「いや。先生のほう」

 「これって、神様になれなかった人の、なれの果てなのか?」

 「何を言っているんだよ、カナメ?」

 教頭先生は、怒った。

 「皆さんは、たくさん勉強して、私たち聖職者のような神になることを目指してください。私や校長先生は、もうちょっとだけ我慢すれば、退職金というものをがっぽりいただいて、ドロン。この学校とは、サヨウナラです。皆さんは、頑張ってくださいね。ふん」

 明らかに、怒っていた。

 社会ねえ…。

 こんな社会じゃ、どうしようか…。

 彼は、悩んだ揚げ句、こう思い立った。

 「小学校のトイレで出会った女神様に、聞いてみようじゃないか」

 トイレには、社会の謎を解く鍵があると、わかってきていた。

 「いってみるか」

 あのトイレに忍び込む計画を、思いついたのだった。

が…。やめた。

 そんなことをしたとしても、この先生社会は劇的に変わらないだろうということが、そのときの彼には、もう、わかってきていたからだった。学校の先生という生き物はもう、尊敬すべき教育者ではなかったのだ。それで公務員の身分をもらっていたというのが、恥ずかしいくらいだった。

「女神様かあ…」

 そして、すぐに、前を向いた。

 「もう…神様は、いないんだ」

 社会は、変わったのだ。

帰宅後、父親に何か聞こうとして、無駄だとわかってきたのでやめた。

 するとなぜか、父親のほうから、こう言ってきた。

 「努力なんて、無駄。無駄。努力をしたって、神様なんかにはなれないんだからな」

 当時の彼には、難しすぎた言い方だった。

 「社会に出るときには、皆そろって、氷河に会って、ドボンだったんだろうから」

 父親の顔が、曇った。

 父親に、反論していた。

 「何で、努力しちゃいけないの?」

 「いけなくはないが、ださい」

 「ださい?」

 「そりゃあ、ださいだろう」

 「何で?」

 「金をとったようなやつに、さらにまた、仕事をとられるんだぞ?努力が皆、パアになるんだぞ?ださい、ださい」

 「ひどいな…」

 「ひどいだろう?」

 「そんなことができるなら、神だ」

 「もしくは、悪魔だな。ハハハ…」

 父親が、憎くもなっていた。

 「この父を超えなければ、今後は、やっていけない」

 そんな気が、したものだった。

 彼は、こう言ってみた。

 「でも、おばあちゃんは、誰かから金をもらって、ゆっくり家で、生活できていたじゃないか。おばあちゃんは、どうなの?おばあちゃんも、神様だったの?」

 「ああ。そうだ」

 「やっぱり…」

 「というか、女神様だな」

 「やっぱり…」

 「やっぱり?」

 「いや、何でもないよ。お父さん、ごめんなさい。ああ、皆が神様になれたら、良かったのになあ」

 すると父親は、限界を感じとったかのようにして、首を振った。神様になる道は、険しかったのだ。

 「お父さん?おばあちゃんは、どう?」

 「おばあちゃん?おばあちゃんは、無条件に、神様だろ。そして、女神様だったんじゃ、ないのか?ははは」

 また、笑っていた。

 神様の秘密は、想像以上に、深いものだったようだ。

 秘密を知りたい子どもの欲求は底知れず、なおさら、神様、女神様を追っていきたくなっていた。

 「お父さん?」

 「今度は、何だ?」

 「やっぱり、おばあちゃんは、偉かったんだねえ。女神様だったんだから」

 苦し紛れの、弁解のようになっていた。

 「納得、できてきたのか。おばあちゃんたちは、特別だったんだよなあ」

 「おばあちゃん、たち?」

 言うと、苦笑いされただけだった。

 父親による女神像の解説は、こうだった。

 「良いか、カナメ?」

 「うん」

 「おばあちゃんたちは、戦争を経験した世代だ。初めは、苦労の連続だった。でもな、その後は、ものすごく良い成長社会の中で、生きられたのさ。だから、神様のようなものだったんだよ。ギンコーギャンブルもして、稼げたしな」

 ややこしい解説が、押し寄せてきた。

 自信たっぷりの、父親。

 うらやましかった。

 「あ。でも、そんなこと、おばあちゃんには、言うんじゃないぞ!病人なんだからな。静かに、しておくんだぞ!」

 今度は、怒られた。

 「ギンコーギャンブル、か。懐かしいな」

 「父さん?それ、何?」

 「ギンコーギャンブル、か?」

 「うん」

 より詳しい解説を、願っていた。

 「おばあちゃんが若かったころは、ギンコーっていうところのリリツが、楽々、5パーセント越えだったんだよ。それで、良いことができた。神様の、特権だよな。仕事でたくさんもらえた給料を、その、ギンコーに預けちゃえだろう?するとその預けた金が、大きく増えて戻ってきたのさ。働いて、金をたくさんもらって、ギンコーにたくさん預けて、また、たくさんもらって。その繰り返しだけで、生活できた。だから、ギンコーギャンブルって言ったのさ」

 言われたほうは良くわからず、半ば、呆れて聞かされていた。

 言っていたほうは、もっともっと、呆れた感じだった。

 「老人は、神様なのさ」

 「ふうん」

 「おばちゃんだから、女神様っていうところ、何だろうけれどな」

 「ふうん」

 「神様が、うらやましいだろう?」

 「ふうん」

 だが、神様にも、いろいろあったという。

 「すべての老人が裕福とは、限らない。そんなことは、絶対にあり得ない。そうした理解も、大切なんだからな」

 そうも、聞かされていた。

 神様や女神様の謎を解く作業は、思いの外、困難だったようだ。

 「ある意味、老人が神様であることは、たしかなんだがな…」

 父親は、遠くを見ていた。

 「神様かあ…」

 父親のその言葉を、忘れたくなかった。

 「どうしたら、神様に会えるのかな?」

 そうしてカナメは、気付けば、中学生になっていた。

 私立中学への受験は、しなかった。

 何となく、地元にあった公立の中学校に通うことにしていた。

 「努力して進学なんかしても、無駄」

 父親は、それを言い続けていた。

 その影響もあり、努力をしてまで進学することに、当初はためらっていた。中学受験をしてまで進学しようとしていたクラスメイトの姿を、哀れむようにもなっていたものだ。

 「中学受験には、神様はいないのか?」

 「どうしたの、カナメ君?」

 「何でもない…」

 悩んだ。

 「これからの生活、どうしよう?中学校のトイレに、神様はいるんだろうか?女神様は、どうなんだ…?」

 女神様の姿を見ることが、確実になくなりそうだと思い、怖くもなっていた。ややもすれば、女神様を作らなければならない、屈折した責任にも陥ろうとしていたものだった。

 「カナメ、いるか…?」

 「ちょっと、きて…」

 ある日、両親が、あわただしくなった。妹が、市民会館で開かれる何かのコンサートを見にいっていたときだった。

 「カナメ?今から、病院にいくぞ」

 「病院?」

 彼が中学生になったころに、祖母が、亡くなった。

 「良いか、カナメ?お前はもう、中学生になる。その年齢になってまで、他人の前で、僕のおばあちゃんはとか、言うなよ?言葉に、知性がない。良識がない。おばあちゃんじゃなくって、祖母と、言いなさい。わかったか?」

 親にそう言われ、まさか、はじめて、祖母という言い方を意識して使ったのがそのときになるとは、まるで、驚きの経験だった。

 祖母は、数々の格闘で、疲れがたまっていたのだろうか?神様、女神様の抜けた家庭は、寂しい容れ物となった。

 彼がトイレの女神様に会うことは、なくなった。女神様を失った状況は、彼にとって、大ピンチになっていた。

 「お母さん?祖母、いなくなっちゃったね」

 「カナメ?友だちや家族の前では、祖母じゃなくて、おばあちゃんって言って良いのよ?」

  「女神様に、怒られないかなあ?」

 「あんた、何を言ってんのよ?」

 母親には、難しいことを、言われてしまった。

 母親は、せつなそうに返してきた。

 「そうね。我が家の神様だったのにね」

 それだけだった。

 祖母の遺影を拝み、女神様の尊さを、感じ続けていた。女神様への恋心は揺れ動き、たくさんの考え方が、おかしくなってきた。

 「老人は、神様なんだ。偉いんだ。いつか僕も、尊敬の眼差しでもって、神様の老人を、天国に送ってやりたいなあ。なんて、怖いことを言っちゃったりしてな。神様は、天国に住んでいるんだものなあ。女神様だって、そうなんだろうなあ。皆、皆、美しいよなあ」

 病んだ恋心すら、芽生えはじめていた。

 中学生らしからぬ思い、だったろうか?

 「これから、クラス会議を、始めます」

 クラス委員長のトシユキ君が、立った。

 「今、老人のあれこれが、話題になっています。老人は、偉いですよね。まるで、神様です。いつまでもいつまでも、社会の前線に立とうとしています。今日は、そのことについて、話し合いたいと思います」

 力強い演説、だった。

 「たしかに」

 「老人は、偉いよな」

 「神様よねえ」

 「ホント…神様だわ」

 「父さんが、うらやましがってた」

 「ああ、それなら、俺の父さんも」

 「神様を、何とかしようよ」

 「神様を、美しい天国にでも、送ってげるの?」

 「ちょっと、そこ!カナメ君?そういうこと言うの、やめなさいよう」

 「冗談だよ、冗談」

 「まったく…。カナメは、スプラッタな冗談を言ってんじゃないぞ?」

 「恋心だよ、恋心!」

 「カナメは、何を、言っているんだか…」

 クラスで、あらぬ議論が、はじまっていた。

 「俺の兄貴なんか、泣いていたぜ」

 誰かが、カナメ以外にも不穏な内容も、言っていた。

 「あら、泣いていたの?」

 「どうして?」

 クラスの女の子たちが、哀れんでいた。

 「これから、ずっと、老人に金を出さなけりゃいけないからって、さ」

 そう言われると、空気が、凍り付いた。勤勉で敏感な女の子らが、明らかに、動揺していた。

 「何よ、それ?」

 「どういうこと?」

 「そうよ!」

 皆が、疑問風。

 「そういうルールだったんだって、さ」

 その誰かが、辛そうに言っていた。

 これに、女の子らが、猛反論。

 「やだあ。なあに、それ?」

 「ますます、わからないわ」

 「いやあねえ」

 かえって、気味悪がってしまった。

 「老人って、金持ちでしょう?」

 「神様は、金持ちよ?」

 「金持ちの老人を悪く言っちゃあ、いけないんじゃなの?」

 「ちぇっ…。女子は、格好の良いことを言うんだな」

 クラス中が、神様クーデターに踊っていた。

 すると、こんな声が上がった。

 「信じてくれ!神様にも、事情があったんだ!金がない老人も、いたんだ」

 責任感あるトシユキの声、だった。女子に負けず劣らずの格好の良い熱意が、伝わってきた。

 そこで、女子連中が反発。

 「ふーん。意味、わかんない」

 「何で?」

 「何で、金のない老人がいたっていうの?」

 「そうよ!」

 「タイショク、タイショク。花のタイショクっていうのが、あったでしょう?そうしたら、ネンキンっていう金をもらって、神様生活ができたんでしょう?」

 「どうなの?」

 「意味、わかんない」

 反感色の意見が、高まっていた。

 「でも今は、それもらうの、先延ばしにされているんですって」

 「じゃあ。ネンキンっていうお金、もらえないの?」

 「まじか」

 「俺のじいちゃん、だから、まだ働いているのかあ」

 …。

 「それまでの蓄えが、あったでしょう?」

 「金なら、いっぱいいっぱい、もらっていたんじゃなかったの?私たちと違って、たくさんたくさん、仕事があったんでしょう?」

 「じゃあ、何で?」

 「何で、苦しいの?」

 収集が、つかなくなってきた。皆が、頭を抱え始めた。すると、それを見計らったかのようにして立ち上がった男がいた。

 「静かに、してください!」

 さすがは、クラス委員長。華あるトシユキ、だった。

 「君たち。聞いてほしい!」

 皆を、一喝。

 「ちょっと、話題を変えよう!老人が働き続けるのは。良いかも知れない。けれど、そのぶん、僕らの働く場所がなくなっちゃうらしい。それは、何となく、わかるよね?皆は、そういうことについては、どう思うの?」

 怖い話題を、振ってきた。

 「なあに?どうして私たち、仕事ができなくなっちゃうの?」

 「ああ。それ、兄貴たちも、怒っていた」

 「シューショクが奪われたって、やつ?」

 「特に社会の泡おじさんたちには、頭にくるって…」

 それを聞いて、皆が、嫌な気分だった。

 「老人は、神様のはずだったのになあ。神様への愛情も、変わっていっちゃうのかな。わけが、わかんないよなあ」

 カナメは、誰かの言ったその言葉を聞いて、つらかった。疲れ気味に、こうぼやいていた。

 「神様への愛情も、変わるのかなあ…?ああ、女神様…」

 嫌だった。

 「あら、カナメ君…」

 「え?」

 「それって、愛情転移じゃないの?」

 誰かが、そう言ってきた気がした。

 「空耳か…?参ったな」

 土曜日に、なった。

 社会は、変わった。

 午前は学校の授業があり、午後は、放課。

 それぞれが、それぞれ気ままに過ごせる時間となっていた。

 「これも、神様の力か?」

 誰かが、うそぶいていた。

 「休みなんて、ないよ」

 「神様の、意地悪」

 習い事や塾にいかなければならない生徒にとっては、午後も、授業の延長のようなものだった。彼も、その一人だった。

 ゆるゆるな教育が終了させられようとしていた頃は、ちっともゆるゆる気分になれず、楽じゃなかった日々を押し付けられていた。

 「何なんだよ、この教育…。ゆるくなったと思えば、猛批判で、戻っちゃった。気が変わるのって困るよな。女神様への愛情ゲームじゃ、ないんだぞ?」

 学習塾に通わなければ、ならなかった。

 「僕は、今、努力しようとしている。これじゃあ、神様の罰が下っちゃうな。女神様に、嫌われちゃうんじゃないのか?何てね」

 複雑な日々が、続いた。

 「努力なんて、無駄、無駄。塾通いなんて、要らない。努力しても、シューショク1つできないんだ」

 父親は、相変わらず、そう言った。

 「父さんは、何を言っていたんだ?」

 彼は、塾に通い続けた。

 「努力なんて、無駄、無駄」

 父親は、そう言い続けた。

 が、彼は負けなかった。

 「努力をすれば、死んだおばあちゃんのように神様になれるんじゃないのか?それか、女神様に…」

 そう、信じていたからだった。

 近所に住んでいたお兄さんたちは、土曜日も学校にいって勉強をしていた彼らを見て、笑い顔を見せていた。

 「あの子たちは、土曜日も、学校にいっちゃっているぜ。かわいそうにな」

 その言われ方が、辛かった。

 ムッときた。

 「俺たちのころは、毎週、休みだったんだぜ。その教育が終わっちゃって、今の子たちは、うらやましいだろうな」

 「ああ。しかも、努力をさせられるのに、結果が見えない。とんでもない社会に、生まれちゃったわけだ。かわいそうになあ」

 お兄さんたちは、ずっと、そういうことを言っていた。

 「…ウソだ。あのお兄さんたちは、毎週、休みだったのか?何、その、バラ色ウイークエンドの予感は?」

 不都合な事実、だった。

 「そんな、ばかな」

 信じられなかった。お兄さんたちは、自信たっぷり。

 「ああ、参っちゃったよなあ。土曜日は休みだったから、塾にいかなければならなくなって、メンドーだったよなあ」

 ついには、そんなわけのわからないことまで言っていた。

 「休みだったなら、休めば良いじゃないか」

 お兄さんたちを、憎んでいた。

 あるいは神様を、憎んでいた。

 ひょっとしたら、どこかにいるかも知れない女神様も、憎んでいた。

 「どうして、休みの日にまで塾にいかなければならなかったのか?」

 彼自身、どうにも、理解ができなかった。父親にそれを言うと、こんなことばかりだった。

 「わかったか?それだけ勉強したとしても、結局は、大きくなって、シューショクナンで泣くんだ。努力なんて、無駄、無駄。あのお兄さんたちは、そういうことを言おうとしていたわけだ」

 大人の社会は、難しかった。神様や女神様の社会も、難しかったのかも知れなかったが。

老人は、国のトップであり続けた。

 当然だ。

 あの人たちは、神様だったのだから。

 「当然だよな…ああ、女神様は、どこにいるんだろう?」

 そんなことばかり、考えていた。

 そんな、土曜日。

 学校の先生たちは、急激に、忙しくなったと聞いた。

 「勉強会」

 そういう予定で学校に集まってきて、授業の準備やテストの採点に、明け暮れていたらしかった。大人になっても、居残り学習をしなければならなかったのだ。

 でも、老人になれば、土曜日は、家で過ごせた。

 「さすがは、神様だ…」

 老人が神様だというのは、世界でも、共通の考え方らしかった。

 「ミンゾクガク」

 父親は、そういうものを例に出してきて、こう言っていたものだ。

 「良いか、カナメ?社会的共同体の危機も、神なる老人の力で乗り越えられるかも知れないと考えられていたんだぞ?」

 「…」

 「老人は、素晴らしいんだぞ?」

 「…ふーん」

 「わかるか?カナメ?」

 「わからない」

 「そうか」

 父親の主張は、変わらなかった。

 「老人は、神様なんだ。とっても知恵のある、大切な存在なんだよ。だから、たとえば我が家では、おばあちゃんを、もっと、拝まなければならないんだよ。なあ、わかるか?」

 土曜日の、午後。

 家の近くにあった憧れの素敵な高校を、見にきていた。家で昼食を済ませ、その高校にきて、伝統的な高校の風を、感じていた。

 「良いねえ、この感じ」

 ぼんやりと、校舎を眺めていた。

 その高校は、スポーツでも文化活動でも優れていて、地元では、憧れの高校の1つだった。

 「この高校へ、いきたいなあ」

 憧れだった。

 「この高校で、生活してみたいな。女神様は、こういうところにいるんだろう。って、何を言っているんだか。1人突っ込み」

 家に、帰りはじめた。

 すると、彼が帰り道を歩きはじめた瞬間、自転車にまたがったロングヘアーの女性が、そばを通り過ぎていくのがわかった。

 「この高校の、生徒かな?」

 秋風で寒かったということもあって、その女性は、オーバージャケットらしきものを、羽織っていた。

 学生服でなかったことが、また、神秘的で良かった。

 「良いなあ」

 りりしい人、だった。

 「やっぱり女神様は、こういうところにいたんだなあ」

 心が、揺れ動いていた。

 「ああ、また。そういうのって、愛情転移よ?」

 いつかの声が聞こえたような気が、した。

 「あ…」

 1度彼のそばを通り過ぎていったその自転車が、戻ってきた。そのとき、自転車に乗っていた女性と、目が合った。

 女性は、彼のほうを見て、クスッと笑っていた。

 「…どこいくの?」

 たしかに、そう言っていたはずだ。

 「…どこいくの?」

 その言葉のはじめのほうは、よく、聞こえなかった。

 不思議が、増えた。

 一体、何と言っていたのだろうか?

 そんなどうでも良さそうなことが、彼女の、女神様的な神秘さに惹かれて、くすぶり続けていた。

 「あのときあの人は、何と言っていたのだろう…?」

 あと数週で、今の学校も卒業…か。

 そこで彼は、謎の行動をとった。

 翌週の土曜日の午後に、こっそりと、小学校のトイレにいってみることにしたのだ。

 神様、女神様に、会いたかったのか?

 「トイレの女神様にでも聞いてみれば、あのとき彼女の言いたかったことがはっきりとわかるんじゃないだろうか?」

 またもや、うそぶいていた。

 小学校に、向かった。父兄の見学を名目として、校舎内に潜入した。しかしトイレには、何も変化がなかった。

 成長すると、神様、女神様は、逃げていってしまうのだろうか?

 「じゃあね」

 小学校のトイレに、別れを告げた。




 中学校生活は、緩やかだった。

 「あのとき…。あの人は、何と、言っていたのかなあ?」

 謎解きに、震えていた。

 生活は、充実していた。

 「あれは、本当だったんだなあ…」

 父親の言っていた通りの展開と、なった。

 一生懸命に何かに打ち込まなくても、良くなったからだ。

 「そうか…。努力はいらないって、本当だったのかも知れないな」

 教科書通りの勉強もまた、がんばるのは、ちょっとはずかしいことになっていた。

 「社会は、充分に、変わったよ」

 父親は、いつだって、そう言っていたものだった。

 「移り気、だよな?」

 いつしか彼自身、変わったことを、言っていた。

 部活動が、忙しくなってきた。

 「中学生らしく、部活動くらいは、がんばりなさい」

 クラス担任のキサラギ先生が、面白いことを言いはじめたからだ。

 「あの先生は、何を、言っているんだ?がんばっちゃって、どうするんだよ?まあ、良いか…」

 彼が入部したのは、ハイカラ部。そのハイカラ部の練習や勉強にそこそこ押され、中学生活は、飛ぶように過ぎていった。

 気付けば彼は、高校受験生に、なっていた。

 緩やかな流れも、変わったのか?気付けば、あっという間だった。

 活動比重の重点は、受験勉強に、置かれていった。

 が、その比重は、軽々しいままだった。

 少子化の中、高校受験は、それほど苦労しなかったからだ。

 よほど、たとえば、世界的にウイルスが広められたとかいった事件が起こらない限り、未来は、都合良く見えていた気がした。父親の言っていた言葉の真相が、どんどんと、わかりかけていた。

 「父さんたちと違って、楽になったよ」

 父親の言ったその意味が、わかった気がした。

 「良いよなあ、お前たちは」

 ただその言い方は、鼻に付いたが。

 「がんばって、どうするの?」

 友人の誰かも、そう言っていたものだ。

 が…、そう楽々気分ではいられなかった人も、いたらしい。複雑だった。

 「移り気、よ」

 心の中の声が、復活していた。

 そんな中、楽々気分ではいられなかった人たちがいた。中学校のおじさん先生、おばさん先生たちだった。

 「若い先生が、怖い。私たちジョーキン教師よりも、ヒジョーキンの若い教師たちのほうが優秀なんだから。ああ、どうしよう。どうしよう」

 何かに、おびえていた。

 そして、焦っていた。

 先生社会は、不可思議なものだった。校長先生たちは、こんなことを言っていたのだから。

 「ああ、気持ちが良い。我々は、もうすぐ退職だ。退職金をたんまりせしめて、逃げられるぞ。我々は、神様だよ。ふはははは」

 老人は、いつだって、偉大だった。

 「老人は神様、か…」

 高校への進学を真剣に考える日が、迫ってきた。

 「努力なんて、無駄、無駄」

 父親は、まだ、言っていた。

 「努力したって、良いじゃないか」

 父親に、反抗したかった。

 「父さん?俺、努力しちゃうからね?」

 高校受験には、胸を張って、臨んだ。

 「君の成績なら、問題ないよ」

 塾の先生には、良い知らせをもらえていた。

 「良し!」

 憧れの高校に進学することが、できた。

 彼にとって、思い出の高校だ。

 小学生のとき、土曜日の午後に見にきたことがあった、あの高校だった。そこでは、自転車に乗った不思議な女性が、彼を見て、謎の言葉を投げかけてきたものだった。この高校にこれたことで、あの秘密を知る自信がもてていた。

 「これで、あの言葉の謎が解けるぞ…!」

 信念を、もっていた。

 「ここにくることができて、良かった…」

 先が、楽しみになっていた。

  そんなときに限って、父親の幻影が、浮かんだものだ。

 「努力なんか、無駄、無駄」

 頭を、振った。

 「移り気、よ…」

 何かの声も、した。

 たくさんのことを否定する作業で、いっぱいになった。

 「…どこいくの、か。何て、言っていたんだろうなあ?」

 高校生活も、順調に過ぎていった。

 「あのころが、懐かしいなあ…。なんて、昔を懐かしむ俺。これじゃあ、老人みたいだな」

 恥ずかしくなってきた。

 「また、カナメが、何か言っているぞ?」

 「カナメは、老人だな」

 「そうだ、老人だ」

 「神だ」

 「ははは」

 クラスメイトたちが、笑っていた。

 「高校生、か」

 いつしか、自分が、かつて自転車に乗りながら謎の聞き取れない言葉をかけてくれた女性の年齢くらいになっていたことに、気が付いた。

 「早いものだよ…」

 高校では、3年生にもなれば、こう言われたものだ。

 「勉強しなさい、勉強しなさい」

 「将来のためだ」

 「勉強してこそ、未来がある」

 新しく担任になった女性教師が、クラスの皆に、言っていた。

 が、クラスの皆の心には、担任教師の言葉は、まったく響いてこなかった。

 なぜか?

 高校生になった彼らは、勉強し努力することが明るい未来には必ずしもつながらないという不都合な事実を、もう、知っていたからだ。

 高校生は、最先端だったのだ。

 「努力しなければ、ダメじゃないの」

 そう言われても、その努力が役に立たないということは、暗黙の了解のように、すり込まれ済みだった。

 「努力したって、ドボン。わけのわからん悲劇を味わって、氷河に閉ざされた人たちがいたんだ。赤ちゃんのような上司に囲まれて、高学歴の猛者が、働かされていたんだぜ?信じられるか?」

 父親には、よく言われたことだ。

 父親は、いつも、敵だった。

 わけのわからないことばかり、言ってきたからだ。

 「キサラギ先生は、わかっていないなあ」

 「ああ。父さんもな…」

 「カナメ?何か、言った?」

 「ううん。何でも、ない」

 「先生たちは、努力しろばっかりだ」

 「ああ」

 「先生たちのようには、なりたくないよな。いろんな意味で…」

 「ああ。同じ名前だし…」

 「カナメ、同じ名前?お前、何を言ってんの?何だよ、それ」

 「実はな?」

 「何だ。カナメ?」

 「あの先生さ…。小学生だった頃の担任教師と、同じ名前なんだよ」

 「ああ、そういうことか」

 「小学生時代も、キサラギ先生だった」

 「そういえば、お前、キサラギ先生に教わっていたもんな」

 「うん」

 「そりゃ、難儀だな」

 「性別だって、同じだ」

 「そりゃ、ますます、難儀だな」

 「そうだろう?」

 「揺れる思いだな」

 「バカ」

 「悪い、悪い」

 神を忘れたかのような目で、トシユキを見ていた。

 「で、何だ?」

 不審がった、トシユキ。

 「だって、そうじゃないか」

 「だから、何がさ」

 「キサラギ先生たちは、努力しなくても、人生楽勝だったと言っていたんだろう?それなのに、生徒たちには、努力を強要していたわけだ」

 「ああ」

 「それって、おかしいじゃないか」

 「ああ、それか」

 2人の心は、存分に、おかしくなっていった。

 「おかしな話だな」

 「うん」

 「教員は、いつだって、おかしいんだな」

 「絶対に、恋したくないよな」

 「カナメは、言うなあ」

 「キサラギ先生たちの社会は、ゆるゆるだったんだよね?」

 「らしいな」

 「キサラギ先生たちは、努力しなくても良かった学生時代を、楽しく楽しく、送れたんだろうね。まわりの人が、どれだけ迷惑をしたとしても、さ」

 「でも、カナメ。それって、大学っていうところでの、話なんだろう?」

 「うん」

 彼は、ずっと、うらやまし顔だった。

 「キサラギ先生たちって、うらやましいなあ」

 「お。恋してる」

 トシユキは、大いに、笑っていた。

 「してないって」

 「でも、憧れていたんだろう?」

 「うん。憧れちゃってた。トシユキと違ってね」

 トシユキに、敵対心で返していた。

 「言ってくれたなあ」

 「まあね」

 「また、言ってくれたなあ」

 「キサラギっていう名前は、神様だ」

 「そうかあ?」

 「神様は、憧れだよ。そして、女神様かもな。トシユキも、そう思うだろう?」

 「カナメは、面白いことを言うんだな」

 「おかしな話だよ」

 「まったくだ」

 「先生たちのほうこそ、努力しなければいけなかったはずなのにな?教育者のレベルでもないくせに、よく言うよ。教師も、難儀。あれが、地方公務員なんだぜ?絶対に、恋したくないよな」

 「まあ、そう言うな」

 そんな2人の話がクラス内に伝染して、空気がぶつかり合い、同調もしたり。

 しばしば、ざわついていた。

 「あーあ。私も、神様になりたいなあ」

 「そうよねえ」

 「ほんと」

 クラスの誰かが、言った。

 彼だけは、それを聞いて、ニヤニヤしてしまっていた。彼は、神様が何であるのか、少しは、何となく程度にわかりはじめていたつもりだったのだから。

 「神様、か…」

 彼は、高校に入学してからは、部活動をしなかった。

 高校にも、中学校と同じくハイカラ部があったのだが、断念。

 「もう、ハイカラじゃないからな」

 苦笑いして、限界を感じてしまっていたのだった。

 そんなとき。

 事件の幕が、開けた。

 高校も3年次の後半に、1人の女の子が転校してきたのだ。ここから、話は、急加速をしていった!

 彼女は、すんなりと、彼らのクラスに入ってきた。それにしても、おかしなタイミングだった。

 「なぜ、こんな時期に転校…」

 そう、誰もが思ったに、違いなかった。

 「どうして、今ころ?」

 「この時期に、転校生かよ」

 「特別な理由でも、あったんじゃないか?」

 クラス内でも、疑問が浮かんでいた。

 なぜかまた、昨年と同じく担任となってしまったキサラギ先生が、言った。

 「じゃあ、タマキさん」

 「はい」

 彼女を、教室の後ろのほうに促した。

 「タマキさん?」

 「タマキっていう、名前の子なのか」

 「緊急転校か」

 「不思議な子」

 「キサラギ先生だって、不思議な人だけれどな」

 「不思議な、話だよな。また、同じ先生が担任になるわけだ」

 「カナメ?」

 「ん?」

 「呪われていたんじゃないのか?」

 「かもな」

 「神様の、呪いだ!」

 「おい、おい」

 タマキさんが、ほほ笑んだ。キサラギ先生が、面倒くさそうに笑んだ。

 「今日からは、そこの席で」

 「はい」

 「それじゃあ、よろしく~」

 キサラギ先生は、ずいぶんと軽々しく、言っていた。そしてまた、あわてはじめた。

 「しまった。自己紹介してもらうのを、忘れてた。タマキさん、お願い。皆に、挨拶してちょうだい」

 「ひどい担任だな」

 クラス内が、笑った。

 彼女が、歩みを止めた。

 「エレガントだなあ。カナメ?」

 「バカ」

 皆に向かって、再度、頭を下げた。

 「タマキです。よろしくお願いします」

 「はい、お願いね」

 キサラギ先生が、黒板に、彼女の名前を書いた。

 「ダメな教師だ」

 「かわいそうに」

 彼女が、教室の後ろのほうに進んだ。

 そうして、たまたま彼のそばを通ったときに、彼のほうをちらりと見た。

「お久しぶり」

 小さすぎて、他の人には、聞こえなかったろう。

 「…え?」

少しにこやかにされてしまった彼は、ドキドキものだった。

 「お前に、気があるんじゃないのか?」

 誰かが、茶化していた。

 「カナメ、良かったなあ」

 トシユキが、それに同調して言った。

 「バカ言うなよ」

 「良かったじゃないか」

 「バカ、言うなって」

 「カナメ、良かったなあ」

 「いいから…。黙って、前を向いてくれ」

 「良いじゃないかよ、カナメ」

 「良くない」

 クラスのごく一部のエリアで、謎の冷やかし合いが、続いていた。

 「冷やかし合い?」

 それとも、それは…。

 「冷やかし愛」…?

 高校生の心は、すべて、移り気だったようだ。

 「おい、カナメ?お前、何を、見ているんだよ」

 「良いじゃないか」

 「嫌だねえ、ちらちら」

 「うるさいなあ」

 彼は、日に何度も、彼女のほうを見ていたようだ。

 彼女が転校してきた日、彼女にチラリと見られて、心がバズった。だから、彼のほうからも、彼女を見てやることにしていたのか?

 「カナメ、何をやっているんだよ」

 「ちらり返し」

 「カナメ…。何、言っているんだか」

 「良いじゃないか」

 「高校生活が、疲れたか」

 「そんなんじゃ、ないよ」

 「嫌だねえ」

 また、クラスの一部分だけが、沸き立っていた。彼女は、彼の視線に気付いていたのかいなかったのか、ずっと、何かの本を読んでいただけだった。

 「また、チラ見だ」

 「え?」

 「お前、タマキさんに、気があるのか?」

 トシユキが、笑っていた。

 トシユキは、彼とは同じ中学校出身の生徒だった。金持ちは鼻についたが、なかなかの責任者で、何度かクラス委員長を任されていた男だった。

 トシユキには、良く、世話になっていた。

 中学生時代は、クラス委員長としてクラス会議を開いて、こんなことを言った。

 「老人の偉大さについて話します」

 当時は、歯がゆかった。

 クラス内が、ぼんやりしていた。

 「老人は神様、か…」

 「何か、言ったか?カナメ?」

 「何でも、ない」

 「そうか」

 「神様という老人の本当の姿は、何なんだろうなあ。本当は、半世紀後のトシユキなんじゃないのか?」

 「何か、言ったか?」

 「何でも、ない」

 「トシユキみたいな奴が、高齢者の中の裕福組になるんだろうな…」

 「はあ?」

 老人の偉大さは、謎のままだった。

 「おい、カナメ。聞いているのか?」

 トシユキが、また言ってきた。

 「やっぱり、お前」

 「何?」

 「転校生のタマキさん。気になるのか?」

 クラスの一部の空気が、なおも、暗闇の雲のように、彼にたたみかけ続けていた。そう言われてしまった彼は、反論。

 「そんなんじゃ、ないよ!」

 紋切り型のロボットのようになって、焦るしかなかった。

 「…何度も、見ていたみたいだからさ」

 「見ていない」

 「なあ、カナメ?」

 「違うよ」

 ただ、彼は、そう言い張ったものの、彼女のことが気になっていたことは間違いなかった。そこで彼は、トシユキに、こう一言。

 「あの人って、家、遠いのかな?」

 何となく、そう聞いてしまっていた。

 「お、なんだ、なんだ」

 「いや…、だからさ…」

 「お前。やっぱり、気になっていたんじゃないか」

 「…」

 「彼女のことなんだろう?」

 「うん」

 「ほら」

 「タマキさん…、だったっけ?」

 「カナメ。名前くらい、覚えてあげろよ」

 「ごめん」

 彼の顔が、赤くなった。

 そこですかさずトシユキが、攻めた。

 「どうして、彼女のことが、そんなに、気になっちゃったんだよ?」

 「だってさあ…」

 「何だよ、カナメ」

 「だから、その…」

 「良いから、言ってみろよ」

 「ああ…」

 「何でお前は、見ていたんだ?」

 「えっと」

 彼は、焦り放しになってしまった。

 「何だ?」

 「まあ、その…。だから…。彼女、放課後は、すぐに帰っているみたいだからさ。そこがちょっと、気になっちゃって。話しかけられずに、ソーリー」

 「お前は、何を言っているんだ?」

 そうなのだった。

 彼女は、部活動やらを何もしないで、まっすぐに、帰宅していた感じだったのだ。

 放課後になれば、彼女は、すぐに高校の自転車置き場から自転車を出して、どこかにいってしまっていた。

 一途に、帰宅?

 もっともその高校では、部活動をやるのもやらないのも、自由だった。決まりなどは、なかった。

 進学を目指す高校の生徒としたなら、すぐにでも帰宅して、自主勉強などに取り組むのは、何ら、おかしなことでもなかった。

 事実、その高校でも、部活動などはやらずにすぐに帰宅する生徒は、3割近くに、上っていた。

 だがそのデータは、彼女を見つめる彼にとっては、邪魔でしかなかった。

 「すぐに帰宅、か」

 「うん」

 「用事があるんだろうなあ?」

 「わからない」

 「タマキさん。部活とか、やっていないのかな?」

 「たぶんね」

 「帰宅して、勉強か?」

 「わからないってば」

 「教えろよう」

 「だから…。わからないってば」

 彼は、納得できない顔だった。

 彼女のことを清楚なお嬢様とでも捉えたかった彼にとっては、彼女が、華道、茶道、書道、はたまた、バレエなどのお稽古事でもしていてくれていなければ、具合が悪かったことだろう。

 しかし、どうも、彼女イコールお嬢様という見方は、正確ではなかったようだった。クラスの女子に聞けば、こうだった。

 「タマキさん?お嬢様じゃないと思うわ」

 「おてんば娘よう」

 「じゃじゃ馬って、感じかな?」

 「体育の時間は、荒馬アスリートなのよ」

 そんなことばかり、言っていた。

 「お嬢様じゃないと、思うわ」

 一致した見解、だった。

 「じゃあ、何で、すぐに帰宅していたのかなあ?」

 「知らないわよう」

 結局、皆には、そう言われただけ。

 「家で、茶道や華道のお稽古に、励んでいたのかな?」

 「そんなの、私にも、わからないわよ」

 「そんなにも、気になっていたんだ」

 「違うよ」

 「アオハルだねえ」

 「違うだろ」

 突っ張っていた。

 「どうして彼女は、早く帰宅しちゃうんだろうか…?」

 迷っていた。

 すると、丁度良いタイミングで、トシユキが、こんなことを言ってきた。

 「お嬢様ならすぐに帰宅でお稽古事っていうのも、偏見なんじゃないのか?」

 このトシユキの注意が、カナメらクラスメイトの頭を覚まさせるのに、役立った。トシユキは、呆れながら、また言った。

 「そう考えているのなら、それは、お前の願望だ」

 「そうよう」

 クラスメイトのソラも、呆れていた。

 「そうだ、そうだ」

 ついには、同じくクラスメイトのタカミまでが、加わってきた。

 追い込まれた彼は、惨めだった。

 「根拠が、まるで、なっていない」

 「そうだぞ」

 「ホント、ホント」

 「青春だな」

 「やっぱり、アオハルね」

 最後には、とどめの一撃。

 「彼女がお嬢様かどうかなんて、誰にも、わからないだろ。そんな確証が、あるわけないじゃないか。もう、どうでもいいだろう?カナメ。しっかりしろって」

 トシユキに、刺される始末だった。

 どうして良いものやら、わからなくなってきた。

 「願望、願望」

 「そうか?」

 「そうだよ」

 「願望だったのかなあ…?」

 「そうだよ」

 こうして、会話は流れた。

 「彼女イコールお嬢様論」

 「彼女イコール女神様論」

 その公式は、無残にも、破綻しようとしてきたのだった。

 するとそのとき、流れが、変わった。

 「ああ、そういえば」

 ソラが手を打ち、言ったのだ。

 「でもそれって、おかしくはない見方なのかもね」

 「え?」

 「何?」

 「何だって?」

 「やっぱり、正しかったんだ」

 クラス内の一角が、どよめいた。

 「カナメ。良いから、良く聞けって」

 「そうねえ。あの子がお嬢様、か」

 「まあ、カナメ推論からすればな」

 「カナメ推論、かよ」

 「ひどいなあ」

 「で、ソラには、どうして、そのカナメ推論がおかしくはないって、言えるんだ?」

 トシユキが、不思議がって突っ込んだ。

 「そうねえ…」

 前置きしてから、ソラが、こう言った。

 「だって、見ちゃったんだもん。だからカナメ推論は、あながち、おかしくはない見方なのかもよ?」

 「見ちゃった?」

 「何を?」

 「何?」

 「どういうこと?」

 「ソラ、教えてくれよ」

 クラスメイトらが、食い付いてきた。

 「だって、私。見ちゃったんだから」

 ソラは、そう言うばかりだった。

 「で、何をだ?」

 「何を、見たんだ?」

 「うん。私、放課後の真実を見たのよ」

 「放課後の真実?」

 「何だよ。それって…」

 「放課後の魔術師、か?」

 「違います!」

 「で、何?放課後の魔術師さん?」

 「えーっと、ねえ…って、違う!」

 ソラが、本格的に、語り出した。

 「放課後、転校生タマキさんを、学校から自転車で20分くらい走らせた場所にあった駅の裏あたりで見ちゃった」

 不穏な、目撃談だ。

 駅の裏側には、商店街のメインロードが、山側に伸びて広がっていた。

 好景気華やかなりし頃の姿と比べて、ずいぶんと落ち着いてはいたようだが、買い物客などがまばらに行き交う、そこそこ、美しい場所だった。

 そのメインロードの入口、いや、出口?

 そこをさらに山側に進んだ場所に、やや古びた洋館が、建っていた。

 「その洋館に彼女が入っていくのを、見ちゃったの」

 ソラの声は、高かった。

 「そして、びっくり」

 その洋館に入ったきり、転校生は出てこなかったようなのだった。

 「だから」

 「だから?」

 「何だよ」

 「…」

 「気になるなあ」

 「だからきっと、その洋館が、彼女の家なのよ」

 「お前も、推論にすぎないじゃないか」

 「…」

 「それが、お前の見たことなんだな」

 「そうね。だからあの子は、そこの、お嬢様なんじゃないの?」

 ソラは、自信に満ちあふれていた。

 その話を聞いていたクラスの一部には、あまり根拠のないような話にも思えたものだ。が、ソラは、確信気味。

 「不思議な転校生が不思議な洋館に入っていったのだから、それが彼女の家に間違いないじゃない」

 そんな推論を、述べただけだった。

 得意げに。

 するとタカミが、ソラに聞いた。

 「でもお前は、どうして、駅裏の商店街までいったんだ?」

 「たしかに」

 「そうだなあ」

 「そうだよなあ」

 「もっともな、疑問」

 皆が、疑問に思ったことだろう。

 ただソラは、なおも、自身顔。

 「私がそこにいったのは、当然じゃないのよ」

 ソラは、機械いじりが好きな少女だった。

 この高校でも、モーター部というところに所属して、何かの電機修理やらに、精を出していた。

 それに使うためか、月に何度かは、商店街にあったネジ屋に、備品調達のため足を運んでいたのだという。

 そのときに、転校生を見たのだろう。

商店街ロードを、奥へ奥へと進んだ、転校生。その転校生を、同じく自転車でそっと追いかけていった、ソラ。おそらく、逃げるように走っていった、転校生。

 ストーカー風の、ソラ。

 転校生。

 ソラ。

 転校生。

 確実に、怪しい2人だったろう。

 ソラが追いかけること、数十秒か。転校生が商店街先の洋館に入っていったのを、はきりと、見てしまったわけだ。

 洋館の、少女…。

 「お。カナメが気になってきたな」

 「うるさい」

 いつも調子の、会話。

 「あんなにも立派な洋館に住んでいるとなれば、やっぱり、そうよ。間違いなく、お嬢様じゃないの」

 ソラは、そう言い張り続けた。

 「スパイみたいなことを、したんだな」

 「そうですよ」

 「そうだぞ」

 「嫌だねえ」

 「女スパイだ」

 「そうなのかな?」

 「スパイだよ」

 「スパイだって」

 「そうですよ」

 「女スパイ」

 「転校生のことが、心配になっちゃっただけじゃない」

 「ストーカーだ」

 「ストーカー」

 「違うわよ」

 「ふーん」

 「まあ、いいか」

 「ストーカーなんだよ」

 「ストーカー、か」

 「やめてよ。カナメ君まで」

 「いやあ…」

 結局は、トシユキが早々にあきらめて、呆れたように締めくくるのだった。

 ただ、スパイというのなら、横で、他人の話を盗み聞きするかのようなクラスメイトのほうこそ、スパイだったのでは?

 彼女と洋館に関するうわさ話は、日々、続いていった。

 「もしかしたら」

 また、ソラ。

 「今度は、何だ?」

 「そうだ、そうだ」

 まったく、うわさ好きの少女だった。

 ソラは、こんなことを言い出した。

 「あの洋館ってさ。個人宅なんかじゃなくって、アトラクションだったのかも?」

 「アトラクション?」

 ソラの新しい推論に、皆が、怪訝な顔つきになってきた。

 「私、商店街の不動産屋に、洋館のことを聞いてきちゃった」

 ソラは、続けた。

 「はあ?」

 「そんなことまで、やったのか?」

 「やるなあ」

 「やっぱり、女スパイだよ」

 「違うわよ」

 「女スパイか」

 「スパイ、決定」

 「ちょっと!聞きなさいって」

 ソラが、自信ありげに周りを見渡した。

 「でね、そうしたら、面白いのよ?」

 ソラが、煽ってきた。

 「え?」

 「何が?」

 「何だよ」

 「何が、面白いんだ?」

 不動産屋によれば、その洋館は、今でこそは、賃貸物件で使われている建物。が、元は本当にアトラクションだったのだそうだ。

 「ほら」

 「何です?」

 「得意気に、なっちゃって」

 「女スパイ…」

 「何だよ、女スパイ」

 「だから、私の、想像通りだったわけよ」

 ソラは、さらに自己納得するように言ってみせた。

 「アトラクション?」

 「へえ…」

 「アトラクション、か」

 「なるほど」

 「で、何のアトラクション?」

 「えっと、ね」

 「おばけ屋敷、とか?」

 「あ。正解」

 「予想通り」

 「あの洋館って、おばけ屋敷のアトラクションで使われていた建物だったわけよ」

 「…」

 「本当か?」

 「うん。本当らしい」

 「ああ」

 「やっぱり、好景気時代の、遺産だったわけか」

 「遺産か」 

 「遺産ね」

 「払い下げだな」

 「遺産かよ」

 「払い下げっぽい」

 「ほら、払い下げ」

 「それで?」

 「うん。やっぱり、不思議な転校生には、相応しいわ」

 「また、それか」

 転校生のタマキさんがクラスにきてから、3週間が過ぎようと、していた。そのころになると、話題は、確実に変わっていた。

 「あの子は、どこからきたんだ?」

 そんな、タマキさん個人へのうわさ話は、ほとんどなくなっていた。

 ほとんど、は…。

 皆の関心は、もう、他のことに移っていたのだ。

 「まるで、愛情転移みたいね」

 新委員長のカオルコが、言った。

 「ふん…」

 「どうした、カナメ。強がるなよ」

 「カオルコの前で」

 「愛情転移だなんて、いうからさ」

 「だって、愛情転移じゃないか」

 「それって、たしか…」

 「移り気、だな」

 「移り気…?どこかで、聞いていた言葉だったな」

 「そうなのか?」

 「うーん…」

 「カオルコは、偉いぞ。トシユキから、クラス委員長の座を奪った女なんだからな。まるで、神だよ」

 タカミが、意地悪そうに言った。

 「そういう言い方は、やめてよ」

 カオルコが、気丈に言った。

 今度は、ソラの声が弾けた。

 「新ニュース。新ニュース!」

 「何だ?」

 「ニュース?」

 「また、ソラだ」

 「女スパイ」

 「今度は、どうしたんだよ」

 「だから、新ニュースよ」

 商店街いきをしていたというソラが、ずいぶんと、興奮していた。

 「いい?」

 これで、話は、新たな方向へと広がってきてしまったことになる。

 ソラは、そうして、待ちきれなくなった狩猟旅行者のように、話し出した。

 「良いも悪くも、話したかったくせに…」

 「で、何だ?」

 「さあ、女スパイ」

 「だから、違うでしょ」

 「ふふふ…」

 「女スパイが、新しい論を展開します」

 「だから、そういうんじゃないってば」

 「カナメも、何とか言えよなあ…」

 「うん」

 彼は、あまりしゃべらず、まわりの話を聞いていただけだった。余計な口出しをして、雰囲気が悪くなってしまったら、最悪だったからだ。

 新ニュースが、舞い込んできた。

 「老人、つまりは高齢者の駅前失踪ファンタジー」

 ソラの話によれば、最近、高齢者が失踪する謎の事件が起きたと、いう。

 「高齢者?」

 「老人?」

 厳密に言えば、老人と高齢者は、多少定義が違うのかも知れなかった。が、そこは、今はどうでも良かった。

 とにかく、そんな危険な失踪事件が、知らないところで起きてしまっていたと、いうのだった。

 ソラも、たまにはまともなニュースをもってきてくれるものだった。気になったのは、その事件の発生場所だ。

 「駅前、だって…?」

 彼とトシユキは、つい、顔を見合わせてしまっていた。

 「駅前だってよ、カナメ」

 「ああ。彼女の家のほうだ」

 「商店街が、あったな。怪しいよな」

 「そうだな」

 どうやら、駅前の商店街がらみの事件のようだった。

 その近くには、転校生のタマキさんが住んでいるであろう洋館が、建っていた。そしてその事件は、彼女が転校してきた今になって起こされた…。

 「嫌な、偶然だな。カナメ?」

 「偶然だったのかな?」

 「偶然だったんだろうなあ?」

 「そう願いたいな」

 「ああ」

 洋館の名前は、こうだった。

 「トランスファー」

 トランスファーとは、こんな意味だった。

 「転校生」

 奇妙な一致の名前、だった。

 「偶然じゃない」

 「かもね」

 「といっても…」

 「奇妙よね」

 「うん」

 「出来すぎていた名前だよな」

 「うん」

 クラスメイトは、出来すぎた話に、出来すぎた恐れを抱いていた。

 「これは、事件だぜ。カナメ」

 「そうだね」

 「困ったもんだな」

 「そうだな」

 「参ったって、感じだ」

 「だよな」

 その事件は、確実に、怪しそうだった。

 高齢者が、駅前商店街ロードの奥にある洋館「トランスファー」に招かれていっては戻ってこないと、いうのだ…。

 本当だったのか…?

 その日カナメは、放課後、タマキさんを追って商店街を抜けてみようとみようかと思った。抜けると、たしかに、家はあった。

 「ここが、タマキさんの家、トランスファーか…」

 というのは、早とちりも、ちりじり。

 家はあるにはあったが、1つの独立したものではなかった。2つでも3つでもなく、飽きもせずに、徒党を組んでいた。

 「これは、家の群れだ。もはや、広場を作り、展示会場のようになっているな。根拠はないけれど、トランスファーではない。…ような気がしてきた」

 その、いくつもの建物が折り重なって作られた群れは、楽しそうなテンポのラテン系音楽まで、放出していた。

 「これはもはや、テーマパークだ」

 焦りに、焦らされていた。

 「いつもの高校を出て、商店街の通りを抜けて、一直線に進め!」

 想像以上に、真面目でひたむきにたどり着けると思われていた建物。それが、トランスファーだったはずだ。そこにいるべき、強き女神様のすみかは、おとぎの国の愛狂おしさも、誘っていたはずだった。

 が…。

 何か、様子が違っていた。

 「今どきの子は、就職氷河期世代という勤勉だった子たちをはるかに超えられる力、そして、入社した素振りさえ見せられれば、テーマパークに連れていってもらえる権利を握れるようになった」

 そう、聞かされていたものだった。

 実際に、TV番組で見ていた限りでは、何人もの小学生っぽい大人たちが、ニコニコと楽しくテーマパークで遊び、仕事をするのは格好が悪いから嫌だと、真顔で答えていたものだった。

 「大人は、格好が良いなあ」

 たぐいまれなる憧れを、抱えたものだ。

 「あのな、カナメ?これが、父さんたちを裏切った、素敵な世代だ。いいか?お前にはまだわからないことだろうが、努力なんか、無駄だからな?どちらにせよ、新しい子たちに、つぶされるんだ。理解、してくれよ。って、そのうち、嫌でも、理解できるようになるだろうけれどな」父親などは、今になっても、かつてと変わらない内容のことを言っていた。聞かされたほうは辛かったが、カナメも、少しは、父親の言っていたことがわかるようになっていた。

 「いいぞ、カナメ。お前は、確実に、成長してきているんだ。神様のように、偉くなっているのかも知れないぞ?神様だ、神様だ。お前は、神様のようになれ。父さんたちが歩めなかった道を、目指してみろ。しかも、努力なんかしないで、突き進んでみろ。より一層、格好良いと思うぞ?」

 父親の目に、ほんのちょっぴりと、涙が流れていたように見えた。

 今でなら、カナメも、理解できたような気がしてきた。

 「…そうか。父さんの言っていたテーマパークっていうのは、このことだったのかも知れないな」

 つまらないことを、つぶやいていた。

 タマキランドと勝手に名付けてしまったそのテーマパークは、優しかった。敷地全体を囲った無人入口ゲートには、何枚もの案内パンフレットが、いくつもいくつも、無造作に置かれていた。

 「いつでもあなたを、待っていました」

 そう言われていたようで、気分は、悪くなかった。

 色とりどりの、華やかなパンフレットだった。

 パンフレットに書かれていたものでぱっと目に付いたのは、鳥瞰図、吹き抜け屋台を思わせた、味気のない構造の地図だった。

 「ああ。タマキランドの全体マップと、いうわけか」

 イラスト付きで、どのエリアにいけば何が遊べるのかなどが、丁寧に案内されていた。

 「これは…見事だ」

などと言っている場合では、なかった。

 「見事というよりも、奇々怪々。タマキさんって、テーマパークに住んでいたのか?」

 高校から伸びていた商店街以上に気取られていた、メインストリート。

 噴水広場に、墳墓のような埋葬施設らしきものもあったことも確認できた。

 「巨大な墓、だよなあ…?」

 その施設の外側から見る限り、古代のドーム型をした墓のようにはっきりと認識できたのだから、墓という認識でしか、信じられなくなっていた。

 「うわあ…。タマキさんは、こんなわけのわからないテーマパークに、住んでいたっていうことなのか?タマキさんは、女神さまをいくつも重ねた美しさの人で、最高のトランスファーなんだろうなあ」

 よくわからないことを、口走っていた。

 そんなタマキさんと手をつないでそのテーマパーク内を歩いている自身の姿を夢想し、満足に、強がっていた。男という生き物は、いつだって、身勝手極まりないものだった。

 相手の都合など、構わなかった。

 タマキランドは、最高の、テーマパークだった。案内パンフレットに描かれていた全体マップの中央部分には、城のような建造物があったのが、わかった。

 「ここは、すごく、目に付くな。ここが、トランスファー、タマキさんのいるところと考えて、間違いなさそうだな。こちらの、勝手な妄想だけれど」

 そこまで考えて、目を、案内パンフレットの夢想から上げて、タマキランドの現実に戻していた。

 「いけない。また、見てしまったな…」

 再び、墳墓の施設が、目に入ってきた。

 あまり見たくはなかったその施設が、さらに見たくなくなる姿を、披露していたところだった。

 「うそだろう?」

 いけない風景、だった。

 墳墓の周辺には、身体をズタズタにされ、いくつもの部分を切り取られた人形たちが、無造作に転がされていたのだ。

 「あ…。これも、ひどいな」

 首を切られた人形たちが、覆い重なっていた。その人形たちの横には、監督者気取りなのか、少し大きめのサイズの人形が居座っていた。その人形の胸には、こう書かれたワッペンが、付けられていた。

 「正規の労働者」

 その少し大きめの人形の下に転がされていたのが、先ほどの、首を切られた人形たちだった。そちらの人形たちの胸に付けられていたワッペンには、こう書かれていた。

 「非正規の労働者」

 その人形たちの悲しげな眼といったら、なかった。

 「何なんだ…?ひどいな…。まだまだ、輝けそうな人形たちなのになあ。この人形たちは、疲れちゃったんだろうか?もしかして、より新しい人形たちが入ってきたから、居場所がなくなって、追いやられちゃったんじゃないだろうか?なんて、まさかな…」

 一瞬の寒気がして、人形たちからは目をそらし、パンフレットを見返すことにした。

 「トランスファー、か…。タマキさん…。タマキさんを、外のこのテーマパークに呼び出して、一緒に歩けたら、幸せなのになあ。ああっ、女神様!」

 哀れにも感じはじめていた墳墓人形たちのことが、どうでも良くなりかけていた。

 どうしたって、身勝手になってしまうものなのだった。

 「このテーマパークは、良くわからない場所だけれど、そのわからなさが良いじゃないか。好きに、なれそう。かも、知れん。何もしなくても良くて、楽だということを考えれば、幸せ色だよ。タマキさん…」

 大雑把でやせ我慢の心理的合理化に、みっともないかも知れないなとは、どこかで薄々感じていた。それでも、努力のいらない楽な空気におもねっていたのだった。

 タマキランドは、謎の城、洋館トランスファーを中心として、いくつものエリアに分かれていたようだ。

 「小学生の国」

 「中学生の国」

 「高校生の国」

 「女神様と老人の国」など…。

 小学生の国だけでも6つの階層に分かれて広がっていると、案内にあった。

 「ウソだあ…」

 トランスファー、女神様のところに行き着くまでに、小学生からの段階を1つずつ上がっていかなければならないとする。そうなれば、いき着くまでには、どれだけの努力をしていかなければならないことか。

 「あの言葉は、ウソだったのか?努力は、必要じゃないか」

 思わず、圧倒されそうになっていた。

 すると、そういうときに限って、タマキランドのどこかから、フンワカ楽しそうな曲が流れてきたものだった。

 「いや、いや。そうじゃなかったんだな。やっぱり、努力なんていらなかったんだ。こんなにも楽しい楽園にくることが、できたんだから」

 そうなればもう、自己満足に陥っていくしかなかった。タマキランドは、充分に、恋すべき楽園だったというわけだ。

 「小学生からはじまって…、トランスファー、タマキさんに会えるまで、先は、長そうだな」

 楽しくもあり、うんざりとさせられそうになっていたものであった。

 「お、マジか…!」

 このようなエリアもあったことがわかり、うんざりは、深まった。

 「トイレの国」

 小学生だった頃の彼は、決して、うんざりなどしなかったのに…。

 「女神様に出会うには、トイレをきれいにすることが条件だ。トイレ掃除は、なんて、やりがいのある仕事なんだ!」

 そう、思っていたというのに…。 

 トイレとの遭遇は、女神様に会い、自分自身も神になれるという、愛ある1ステップとして、重宝されていたはずだった。が、そのときには、そのステップが怖くなっていた。

 それもまた、身勝手なことだった。

 タマキランドは、試練の連続だった。

 「女神様への道、神への道は、どんだけ遠いんだ?」

 老人が神だと仮定した場合、女神様の元にすんなりと近づけるのは、老人そのものだとも考えられ、変わった嫉妬まで、覚えてしまっていた。こんな姿を誰に見せられるものでもなかったが、仮に、妹にでも見られれば、こう冷やかされたはずだ。

 「やーい、やーい!お兄ちゃんは、変わったものに、恋しはじめちゃったみたいだね。なんて、移り気。ああ、嫌だわあ」

 とりあえず、小学生の国と書かれた看板に吸い寄せられ、ドーム状の施設に、入っていこうとした。入口と思われたその無人ゲートに足を踏み入れたとき、プロジェクションマッピングの光が射してきた。ついでに、こんな音声まで流れてきた。

 「カナメ様?あなたはもう、小学生の国も中学生の国も、高校生の国は2段階まで後略済みのものと、みなします。あなたの目指す場所にいくまでに経験しなければならない国は、高校生の国、その1段階のみで結構とします」

 思ってもみなかった、愛の言葉だった。

 ただ、こう叫んでいた。

 「ああっ、女神様!ありがとう!ねえ、女神様なんでしょう?ありがとう!」

 ただし、声は出さなかった。出さなかったというよりも、出せなかった。

その心の叫びが受け入れられたのは、偶然だったか?こんな言葉のプレゼントが、返ってきたものだった。

 「カナメ?これが、女神様の力じゃぞ?お前も、神になれるように、このエリアを、勇気をもって進んでみることじゃ。お前が、トイレをきれいにしてくれた礼じゃな」

 ハッと、顔を前に向けた。

 今度は、こう書かれた看板付きのドーム状施設が、目の前に立ちはだかっていた。

 「ザ・ワールド」

 理解しがたいネーミングだったが、とりあえず、目の前にきた試練は突破しなければ女神様には会えないと覚悟し、中に、足を踏み入れていた。

 「あれ?また、無人の施設か…。こんな幻の中ばかりをさまよって、本当に、トランスファーにいって、タマキさんに会えるんだろうか?」

 ザ・ワールドの中は、薄暗がりだった。

 が、少しすると、通路などまわりの設備が見通せてきた。目が、慣れてきたのだ。

 薄暗がり通路を進むと、人工水路にボートが浮かべられた場所に、いき当たった。2、3人が乗れるほどの大きさのボートだった。

 「あ!ボート乗り場、か?」

 監視員は、いなかった。気持ちの良さそうな音楽が流されていたことだけが、印象的だった。

 「ここに乗るしか、ないんだろうなあ…。監視員がいなくて、ここで、何か事故でも起きたら、どうするっていうんだよ」

 声にならなかった文句を残したままに、ちゃっかりと、ボートに乗り込んでいた。

 ちゃっかりしていたのは、音声も、同じだったか。

 「カナメ様?今、ここで事故でも起きたらどうするのかと、思いませんでしたか?」

 見透かされていた。

 「よろしいですか?そのときにはですね?取り換えれば、良いのですよ。代わりなら、いくらでもいるのでから」

 ボートは、不気味なままに、自動的な流れに付き添いはじめていた。

 「一体、どこに、連れていってくれるっていうんだ?」

 不安は、増す一方だった。が、うれしくもあった。楽だったのだから。

 「これは、良いかも知れないな。何もしなくても、コースに乗れて、素敵な世界を見ていけるようになるんだからな。なるほど。ザ・ワールドとは、良く言ったものだ」

 努力の要らなかった身勝手さは、どんどんと、加速していった。父親の言っていたことの意味が、さめざめと、理解できてきた気になった。

 「努力なんて、無駄、無駄」

 父親は、正しかったのだ。

 コースに乗れれば、何もしなくても、世界を見渡せる権利を得られるようになった。

 「…カナメ?父さんの言っていたことが、わかってきただろう?今、とっても、楽だろう?これを、新卒一括採用のコースっていうんだ。父さんたちは乗れなかった、素敵なコースだ。たくさんの努力が殺される、素敵な素敵な仕組みなのさ」

 さすがは、父親だった。

 ザ・ワールドの流れにも恋をしそうになってしまい、それでも、心のどこかでは、何かに踏みつけられたような気もしてきてしまって、もどかしくもあった。

 「…どうじゃ、カナメ?気持ちが、良いかな?これが、女神様の力でもあったんじゃな。カナメは、お父さんことを、どう思ったんじゃな?お前のお父さんは、正しかったろう?まあ、この女神様の子どもじゃから、当然ということじゃな。しかしなあ、カナメよ?」

 決定的なことを言われるかも知れないと覚悟して、神妙に、言葉を待った。

 「しかし…あの子は、お前のお父さんは、女神様に近付けるどころか、神になる資格を持てなかった。なぜだか、わかるか?わかるかのう?神の罰、じゃな」

 ボートは、勇気をもって、進んでいった。

 「さあ、カナメよ?トイレの女神様から、質問じゃ」

 「質問?」

 「このまま、お父さんの教えてくれたコースを、ゆるりと、進んでいくのかい?その先に、何があろうともな」

 「…」

 「それとも、このコースに疑問を感じて、お父さんに反抗してみるかい?お前のお父さんは、神様にはなれん。お前には、戦うこともできるじゃろうなあ。神様にはなれないお前のお父さんを超えてみるかい?」

 「…わかんないよ、そんなの」

 ザ・ワールドは、一見して楽で、実は、面倒なエリアだったようだ。

 「トランスファーと、そして、女神様と、会えるんだろうか?タマキさーん…」

 楽は、楽で間違いなかった。何もしなくても、ゴールが近付いてきた気がした。

 水路の両岸には、様々な民族衣装をまとった様々な人々が、魔法にかけられたかのようになって人形化され、挨拶をしてくれたものだった。

 踊りを踊る人形もあれば、歌を歌う人形に…。

 「おお」

 現実社会での会社風景もあった。フロアの隅にデスクを構え、そこでパソコンを広げ、トランプゲームをしていたおじさん人形たちの姿が、妙なノスタルジックを、醸し出していた。

 「かわいらしい人形たち、だなあ。お父さんたちほど努力して生きなくたって、権力が握れるんだよな。神様、だなあ」

 必死にまわりから逃げて遊んでいた、おじさん人形たち。そこではまた、こんな疑問ももたされた。

 「かわいいなあ。けれど、こういう人形たちを作った人たちや、何らかのプログラミングでここの人形たちを動かしている人たちって、どういう人なんだろうか?それこそ、神様の指示なんだろうか…?」

 そのとき、彼の身体が、硬直したかのようになった。

 「カクン」

順調に流れていたボートが、止まった。たったそれだけのことだったが、たったそれだけのために、寂しくなっていた。かわいい人形たちは、踊り、歌い続けていた。

 「表舞台に出て活躍できるていうのは、格好の良いことなんだなあ…」

一抹の不安が、懐かしかった。

 「バックヤードには、表舞台に上がりたくてもあがれなかった人形たちが、いたはずだよな。こんなにも、ぴったりの距離感覚で皆が楽しめていたのも、不自然だからな。泣いている人形たちだって、いただろうに。その裏舞台は、どこにいったんだろうか?」

 一向に進まなくなっていたボートの上で、不安は、増していくばかりとなった。

 「バックヤードにいるかも知れない人形たちって、この新しい人形たちにポストを奪われて、引っ込められちゃったのかな?ひょっとして、だけれどな…。バックヤードにいるかも知れない人形たちが輝けるようであってほしいものだろうけれどな。そうは、上手くいかないものなのかな…?おっ!」

 止まっていたボートが、突然、動きはじめた。踊ったり歌ったりしていた人形たちは、頭を下げたり、インクをして見せたり、それぞれの独自のやり方で挨拶を終えると、暗がりの中に消えていった。

 新しい社会の余興が、おこなわれた。そうして、新しい人形たちとの入れ替わりがおこなわれたのだ。

 「へえ…。人形の社会も、入れ替わりが激しいんだな。本物の社会もこんなものだって聞いていたけれど、どうなのかな?働いてみたときに、わかるだろうか?結構、結構」

 何も知らずに、呑気に、強がっていた。

 「不安は、身勝手の製造工場だよな」

 強がりついでに、混乱した言い方になっていた。

 挨拶を終え、薄暗がりの中に追いやられていった人形たちは、タマキランド内の墳墓施設に連れていかれて、実は、そこで何度も切り刻まれ、埋葬されていたのだった。そのとき、カナメが知ることではなかった。

「楽で、きれいな流れだなあ…。早く、女神様のところにつかないものかなあ?こういう流れに乗れた人が、神様になるんだろう。流れにのれなかったら、どうなるものか。って、怖いところだけれど…」

 仮に、流れに乗れても、どうなるものか?

 もちろんカナメには、それも知らなくて良いことだった。

 ボートは進み続け、川の流れに同調した明るく楽しい曲も流され、メルヘンチックな風が、存分に演出されていった。

 新しい人形たちの胸には、一体一体に、ワッペンが縫い付けられていた。

 もっとも、ワッペンに何が書かれていたのかまでは良くわからなかった。薄暗がりの中ということでは、大切な何かが隠されてしまうちぐはぐさがあったことを、知った。

 「パッ」

 誰かが見張っていたとしか思われないようなグッドタイミングで、人形たちに、スポットライトが当てられた。

 「これで、見やすくなった…」

 ワッペンの文字が、読みとれた。

 「光が当てられると、見透かされる。そんな感じ、だな…。しっかし、悪趣味な色のサインペンを、使ったんだなあ」

 真っ赤な血の色で、数字が、大きく書き込まれていた。たとえば、こんな数字だった。

 「21」

 どうにも、意味深な数字に感じられた。

 「21?21世紀と、いうことか?」

 確証など、何一つなかった。

 人形それぞれに付けられていた、ワッペンの数字は、バラエティに富んでいた。

 …かに見えたが、そうではなく、書かれていた数字は、一定の種類に固まっていた。

 「17、18、19、20、21…」

 ほとんどが、そのような数字だった。

 ときには、27や28の数字もあった。が、それらの数字の入ったワッペンは汚れ、華やかさはなく、残念な感じでしかなかった。

 根拠なく、嫌な配列にしか思えなかった。

 それ以外の数字が記されたワッペンもあったように記憶したが、少なすぎたということもあって、記憶には残らなかった。総合的に見れば、若い数字ばかりだった。

 「何の数字、なんだろうなあ…?」

 新しい人形たちは、無残だった。

 初めて見たときは華やかさであふれてはいたものの、より新しい人形たちがくれば、一気に色あせて感じられてしまったからだ。その人形たちは、一定の時間が経てば、裏側のどこかへと追いやられていったようだ。より新しい人形たちと、交代をさせられていったわけだ。

 カナメは知らなかったが、より新しい人形たちにポストを奪われた人形たちは、バックヤードで切り刻まれて、埋葬施設に送られ続けていった。

 ザ・ワールドというアトラクション施設の趣向は新鮮かつシビアで、現実的な美しさに溢れすぎていた。単なるアトラクションとは思われないほど、凝りに、凝らされていたのだった。

 流れを包んでいた楽しい曲は、常に、人形たちやその周りの環境に、充分すぎたほどの多様性を与え続けていた。養分をもらい続けて、終身働けることを約束されていた人形たちは、勇ましかった。本当に、終身、死ぬまで働かされていたように見えた。美しくて、ならなかった。

 「なるほど。ザ・ワールド…。ここは、こんなにも、美しいアトラクションなのか…。タマキさんと一緒に、きてみたいよなあ…。恋だなあ…。って、おい、おい。何を、考えていたんだ?こんなんじゃあ、トランスファーに、笑われそうだ。神様にだって、なれやしないぞ」

 カナメの顔が、赤くなっていた。

 とはいえ、薄暗がりの中だ。

 誰にも顔の赤みを暴かれることもないだろうと、安心できていた。そしてそのまま、その都合の良い安心にこそ、また、顔を赤らめてしまうのだった。

 「新しいって、良いことだよな。努力なんて、必要ないんだよ。うん。父さんは、正しかったんだなあ。このアトラクションでも、良く、わかってきたぞ」

 思えば思うほど、苦しかった。

 カナメは、次のことに気付けたからだ。

 「新しいのは、良いことだ。けれど、どれだけ努力をしても、その努力した分、時間が経ってしまったことで、より新しい人形と入れ替えられる。何かに、似ていたよな」

 TV番組のドキュメンタリー特番で見た光景を、思い出していた。

 「そうだ。これは、新卒ゲームと同じだ。ははは…」

 笑えない趣向に、心侵されていた。

 実に良くできた社会的アトラクションの仕掛けに恋焦がされて、タマキランドにさえくれば、父親の言葉をかみしめられ、本当に神様のようになれるのだということが、はっきりとしてきた。

 「ザ・ワールドは、すごいよな…」

 ある不信感とともに、感心していた。

 不信も、不信…。

 「どれだけ努力をしても、21や22の数字を割り振られなくなった人形は用済みであり、トランスファーへの道を阻まれる。美しき女神様に近付くなんて、もっての外」

 ザ・ワールドのルール上の厳しさに、どきどきとさせられたものだった。

 「このドキドキも、恋何だろうか…」

 バカな言葉に、勝手に、酔っていた。

 新しいと思われた人形が、さらに新しい人形の登場によって、次ぐ次に、バックヤードに引っ込められていった。

 「かわいそうに…」

 引っ込められていった人形たちが、憐れでならなくなってきていた。

 「ザ・ワールド、か。大きな大きな名前だけに期待しても、内容は、実は小さな戦争であって、残酷だったんだな」

 大きな名前には、期待を裏切られた。

 「それほど大きな名前であったのなら、もっともっと、世界の多様ある生き方が見られるような人形が踊れて、もっともっと新たな日常を作っていても良かったのに」

 なぜだか、悔しかった。

 実際に踊っていられたのは、日常を出られない人形たちだった。

 「日常を出られない、人形なのか?それって、非日常的ってことじゃないのか?」

 クラスメイによる指摘が、聞こえたような気になった。

 「トシユキたちは、わかっていないんだよな。日常を出られないからこそ日常で、美しいんじゃないか」

 いよいよ、自分自身が壊れてきたように、迷わされていた。

 意味が、分からなくなっていた。

 「女神様の誘惑で、大混乱だ。そういうことに、しておこう」

 何にせよ、そう考えてしまうのだった。

 「…カナメ様。お疲れ様です。このエリアは、すべて経験し、攻略が済んだものとみなします。では、この施設から外に出て、トランスファーを目指してください。あなたの、地図で」

 新たな音声と恋心に、悶えていた。

 「あなたの地図、だって?疲れたなあ。努力すれば、こうなっちゃうのか?参ったなあ…。頭が、ぐーるぐる。今、自分自身がどこにいるのかさえ、わからなくなってきちゃった感じだ。今ここには、地図はない。どうしたら、良いんだ?この気持ち…」

 気分が悪くなってきてしまい、タマキランドの案内パンフレットを開いていた。

 「地図を確認して、落ち着くしかない。目には、目を。歯には、歯を。地図には、地図をだ」

 すると、疲れも作用していたからか、時空が変わったような無抵抗の衝撃に、襲われてきた。

 タマキランドの地図を確認しようとすればするほど、判断力を吸い取られる感覚に、陥ってきたのだ。案内パンフレットにあった地図では、物足りなすぎた気になってきた。その地図では、トランスファーや女神様にたいするどういった思いがどこに根付いていて、どのようなアトラクションを作って、そのそれぞれのアトラクションがどういった位置関係にあったのかの判断力が、何者かに吸い上げられる感じでしかなくなってきていた。

 「そんな、カナメの思い込みだろう?」

 トシユキたちにはそう言われるであろうことを覚悟して、さらに、抵抗ができなくなっていった。

 「参ったなあ…。地図を見れば見るほど、自分をとりまく環境のすべてが、わからなくなっていくぞ?こんなんじゃあ、トランスファーとの駆け引きをする資格も、ないのかも知れない。努力をしても良いなんて思っちゃうから、こうなっちゃったんだろうか?自分自身の場所がわからなくなるっていうのは、案外、怖いことだったんだな。案内パンフレットに巻き込まれた地図上の混乱は、アイデンティティの確立の失敗っていうのにも、似ていたようだ」

 なおさら、混乱してきていた。

 トランスファーや女神様に近付くための感覚が、折れそうになっていた。不安で、どうしようもなくなっていた。

 タマキランドは、愛もなければ恋もない無味乾燥の荒野を、見えない力で次々と回される趣向になっていたというのか。

 そこで重要だったのは、あくまで、物語の線的な展開のみだった気がした。人形という名の点は、現実を演じていたようには見えても、本当のところは、幻でしかなかった。だから、線的な展開でしかなかったのだ。

 そこではまた、ドラマチックな展開など、何一つなかったような気もした。

 「こんなので、近付きたいものに、近付けるのか…?」

 どう転んでもそう思ってしまうところは、トランスファーやタマキさんを望んだ恋心の破綻であり、心の弱さの証明だった。

 「17、18、19、20…」

 逆カウントダウンが、嫌だった。

 それらの数字の最先端をいっていたはずの優秀な数字、30や31、あるいはさらに上に上の数字たちを失った社会感覚も、怖くてならなかった。ちぐはぐな社会になっていたことが心配されてきて、先ほどの逆カウントダウンの数字たちは、その失われた社会感覚を穴埋めするために仕方なく用意されたフェイクにさえ、感じられていた。

 「嫌だなあ…。何だか、人間哲学だよ」

 タマキランドのアトラクションは、危険すぎていたのかも知れなかった。

 「危ない、危ない。父さんの言っていたような努力の要らない空間が、期限付きの人形たちを、無理矢理にでも線に結び付けようとしていたんだな」

 一瞬の悪意すら、感じていた。

 「女神様への恋は、一直線だ…。一直線コース、か…。そのコースから外れれば、恋なんてできなくなりそうだし、どこかに引っ込められていくしか、なくなっちゃうんだろうなあ。嫌だなあ。秘密裏コースだよな」

 辛かった。

 そのつらい状況を冷静に楽しんでいられた自身の心根の存在は、もっと、辛かった。

 「新しい人形の登場によって、どれだけ他の人形たちが、泣かされることか。しかし、そのコースを進めなければ、何もつかめないような気がしてきた。不純、だな。これは、絶対に、カオルコに怒られるぞ。もどかしいなあ…」

 新しい絶望感にも、悶えていた。

 「あの人形たちを動かすほうは、大変だろうな。全体が一望できなければならないアトラクション空間を管理するには、全体と部分を明らかにする愛が、試されるんだろうからな。一体誰が、ここを管理していたんだろうなあ?」

 トランスファーと女神様にたいして描いた思いは、揺れ動いたままだった。

 「ゆれる、心…。遠いなあ。どうすれば、こちらなりの地図を作って、近付けるんだろうか?」

 と、ここで、新たな不安を感じた。

 「そういえば、今、何時なんだろうか?」

 腕時計を、確認してみた。

 「ああ、これは、まずいな…」

 タマキランドの施設内は論外だったが、外が明るかったことで、それほど時間は経っていなかったように感じていたものだ。時間が経っていたとしても、1時間近く、だったはずだ。

 が、1時間は、軽く過ぎていた。

 「まずいぞ…。いろいろと、怒られそうだな。自習室が解放されていたことだし、下校後も、2時間くらいは、校舎内にいられたはずだ。けれど、何かと、まずいだろうな…。掃除も、さぼっちゃったしな」

 このタマキランドの謎をもう少しだけのぞいてみて、すぐに帰ろうと、思っていた。

 「もう、ちょっとだけ…」

 いつだって、身勝手なのだった。

 「案内をもとに、見知らぬ場所を歩いてみる、か…」

 このときは、周りが明るければ、好都合だった。何らかの建物、道の分岐点、地形の特徴を確認しながら歩くことによって、不安も打ち消せただろう。ただし、これが暗い中であったなら、最悪だった。暗ければ、建物が確認できず、道、地形の特徴まで上手く捉えることは、難しかった。

 「空の星で、確認すれば良い」

 それは、もっともなことだ。

 が、あいにくの天候で星が見えなければ、その策も、破綻だった。

 神様の視点をもって悠々と眺められることが、望まれた。

 「神様の視点、か…。それが、地図っていうものなんだろうけれどな。おっと、着いたみたいだ」

 一軒のどでかい洋館が、建っていた。

 「エントランスの門付、か…。トランスファーは、金もちだったんだな」

 するとまた、不可解なことが起きた。門を見るなり、丁度良すぎたタイミングで、ベルの音が聞こえてきたのだ。「キンコン、リンコン」と思ったら、門の裏手かどこかから、こんなアナウンスが流れてきた。

 「…カナメ様?女神様の許可が、下りました。先ほどのボート乗り場まで、お戻りください。そこに、本物のトランスファーが、待っております」

 ずいぶんな言いよう、だった。

 「何?じゃあ、この建物は、フェイクだったのか?女神様も、いじわるなんだな」

 渋々、従った。

 そうするしか道はなく、ボート乗り場のあった施設まで戻っていた。

 「これは、何だ?」

 乗り場には、こう書かれた封書が、落ちていた。

 「トランスファーを探す、君へ」

 封書の雰囲気は、ただ事ではなかった。赤い染め上げられたリボンがつけられて、いかにも、絶対に気付いてくださいと、いっていたようだった。

 「用意周到、なんだな…?」

 丁度拾い上げたタイミングで、また、変化が起きた。館内アナウンスが、されたのだ。絶対に誰かが見ていたんじゃないのかと、勘繰っていた。

 「…カナメ様?その封書をもって、あなたの望む方向に歩んでみてください。その先にトランスファーが建ち、あなたの会いたい女神様が、待っています。カナメ様には、これから、小学生の国、中学生の国、高校生の国と、それぞれの段階を経験し抜けていただこうと思っておりました。が、それらの国は、途中までパスしたものとするよう、特別の許可が下ろされたのです。高校3年生までの段階は、パスしたものとみなします。それではファストパスを認め、ここから、トランスファーに、女神様に会ってみてください」

 これには、困惑させられていた。

 「ちょっと、待ってくれ!今、何時だと思っているんだ!おっと!一旦、高校に帰らせてくれよ!明日、出直してやる!」

 その日最大の経験は、タマキランドから逃げかえること、だった。

 「遅いよ!」

 「心配、しちゃったじゃないの!」

 「皆で、待っていたのよ?」

 「ほら。お前のカバンだ。取っておいてやったんだぜ?感謝、してくれよ?」

 「まったく、お前は。仕方が、ないんだからなあ。先生には上手く言っておいたから、安心してくれ」

 タマキランドへの再戦を誓い、その日は、おとなしく帰宅した。

高校に戻ってからは、はしゃぎすぎのカナメだった。

 「高校2年までは、パスできるのか。ラッキー!」

 そうも思えば思うほどに、得体の知れない香りも漂ってきたと感じられた。

 「今度は、何だろうか?この、胸騒ぎ…」

 女神様の力強さと美しさが、一層、際立っていた。懐かしい香りにも、変わってきていた。

 翌日、タマキさんは、学校を休んだ。

 タマキさんへの心配を自分自身への口実に、たくさんの気持ちを含めながら自転車を飛ばして、商店街のアーケードを抜けた。

 先日と同じように、大いなるテーマパークが広がっていた。

 その日の入り口ゲートのアナウンスも、絶妙だった。

 「…これ、カナメ!はしゃぎすぎるで、ないぞ!トイレの女神様を、何だと思っておったんじゃ?」

 「ごめんなさい」

 「ま、良い」

 「良いの?」

 「仕方が、ないじゃろうが…」

 老人と孫の、暖かなやりとりだった。

 「トイレをきれいにしてくれた、礼…」

 「トイレの女神様、ありがとう!」

 もちろん、これで、話は終わらなかった。トイレの女神様は、いじわるだった。

 「おお、忘れとった。老人たる神様は、忘れっぽくていかん」

 「ええ?老人って、神様なんでしょう?」

 「済まん、済まん」

 「しっかり、してよう」

 「済まん、済まん。移り気じゃな。気が、変わったんじゃよ」

 トイレの女神様は、意外なことを告げてきた。

 小学生の国も、やっぱり気が変わって、低学年は再試験を受けなければならないと、いうのだった。女神様の声は、おしとやかさを着飾っていて、面倒だった。

 「忘れておったんじゃよ。これも、女神さまの可愛さじゃ。良いじゃろうが。再試験の制度があったのを、忘れておったな。女神様も、万能ではなかったのう」

 カナメなりの地図を、描くこと。それが、再試験なのだという。これができなければ、トランスファーにはもちろんのこと、本当に求める女神様には、近付けなかったのだという。不可思議が、続いた。

 「そういう決まりに、なっておった」

 わかったようなわからない言葉、だった。

 「トイレの神様は、子どもが大好きじゃ」

 話が、それてきたような気がしていた。 

 子ども、特に小学生も低学年くらいの子どもは、大人とは違う地図を描く能力をもっていたらしく、それが、神様、女神様にはお気に入りだったという。その能力を見せてくれれば、トランスファーにも、本当の女神様に近付くための道がやってくると、確約してくれた。

 「何、それ…?」

 子どもと地図というものは、意外と、無意識に、早くから出会っているものだったという。その純粋な心が神様と引き合わせる力になるというのだが、本当だったのだろうか?

 トイレの女神様は、世界中のだれもが同じようなことを思っているんだよと、無意識共同体といったものを引き合いに出して、何らかの新しいアトラクションを作ってしまおうと、目論んでいたのだろうか?

 神様というものは、まことに、気まぐれだったようだ。

 「でも、子どもが地図を描いて、神様に近付けるようになることはなんとなくわかったとしても、小学生が、地図というものをどこまで知っていたっていうの?」

 気まぐれだったのは、カナメも、同じだったか。

 が、トイレの女神様は、その上をいっていた。

 「地図帳が、あるじゃろうが!」

 怒られた。

 疑問だらけの、叱責だった。

 「でも、どうして、女神様に近付くのに、地図を描く技術が必要なの?」

 聞いてから、無駄だったとわかった。

 「ああ。そうか…」

 いくつかの要素が、カナメの力で、整理されていた。

 地図には、前にも考えられていたように、鳥瞰図や吹き抜け屋台構造の、いわば、神的な視点の存在が欠かせなかった。

 「そうか…。女神様に近付くためには、神様、女神様と同じような神様視点をもつ地図の解読が欠かせないのも、うなずけるよな。納得、納得。神様視点をもつには、充分に大切な要素になるよな」

 素直に、おとしめられていた。

 「でも、なあ。地図、地図、地図帳か…」

 地図帳というものは、たしかに、小学生にも広く知られていた、偉大な教育ツールだった。子どもの地図ということでなら、神様に近付ける技術として、義務教育上、いくつも出版がされていた。

 それは、子どもが手にすることのできた、大いなる武器だった。

 「その武器を、こちらで鍛えなさいっていうこと、なのか…?神様になるのは、面倒なことばっかりだ」

 カナメなりの新しい地図を描く、新アトラクションが、作られていた。

 「あ、小学生…」

 そこまできて、ようやく、客観的になれた気がした。

 タマキランド内のどこかキラキラした場所に自らの姿を反射させると、子どもの姿になっていたカナメが、発見できたのだった。子どもの国にきたからなのかどうかは良くわからなかったが、自身の身体は、明らかに、子どものように小さくなっていた。

 「子ども…そして、トランスファーまでの地図、か。高校も3年生になれたとしても、まだまだ、子ども。女神様は、そういうことを言いたかったんだろうか?地図っていうのは、その、子どもが書かなければならないものだったのか?なぜ?あやふやだから?」

 カナメの推測も、良い線をいっていた。

 以前いわれていた通りに、トランスファーに近付くには、あやふやで不完全、揺れ動く心がなければならなかったのだ。

 子どもとは違い、大人の描く地図というものは、何の移り気もなく、揺れ動く心なく、正確であり得た。見た人のだれもが納得できるような投影法と地図記号が加わったレベルの、大人が描くような地図は、一定の座標をもった、移り気ない存在だった。平面図や鳥瞰図のように、揺れ動きのない思いに満たされていたものだ。文句なしに、立派なものだったろう。

 ただし、そうした地図は、トイレの女神様に言わせれば、面白くない心ということになったのだろう。

 またも、女神様は言った。

 「大人の描く地図には、トランスファーを求める揺れ動きがない。正確で真っ直ぐなのは良いのじゃが、面白みに欠ける。神様は、気まぐれを好まないと言った人もいたが、そんなことはない。気まぐれでも、良いんじゃよ」

 なぜなのか、考えた。

 「わかるか、カナメ?」

 わからなかった。

 「仕方が、ないのう…」

 結局、女神様は、こう言った。

 「移り気がないのは、ドラマチックな恋には欠けると、いうこと。それがさみしいと、トランスファーは悲しんでおったわけなんじゃよ」

 意味深な言葉すぎて、正確に捉えようがなかった。

 「ほれ、カナメ」

 空から、ペンとノートが、降ってきた。それを使って、カナメ思うトランスファーまでの地図を書けと、いうのだった。

 子どもの姿になったカナメは、何でもできるような気がしてきた。

 「描くぞ!」

 トイレの女神様に感謝しつつ、自宅のトイレを出発点として、タマキさんがいると思われたトランスファーまでの道順を、地図として描き起こしていた。

 高校を出てからの道は、大雑把ながらも、特に気を遣って描いたつもりだった。

 商店街のアーケードを抜ける道を線状に伸ばし、その線を中心軸に、商店をはじめ、休憩所、老人クラブなどを位置付けていった。それらの施設の大きさや場所は正確でなく、カナメの記憶の中を、ぐちゃぐちゃにバランスを欠いたまま泳ぎ、移り気を装い続けていた。建物はすべて、夢のような姿だった。

 大人だったら、注意されるところだ。

 「君、君?なんという地図を、描いているんだよ?地図に出てくるものは、単なる丸や三角、四角上の記号で済まされているじゃないか。かと思えば、動物の顔そのものであったりだ。アンバランスなんだな」

 子どもの描く地図というものは、客観性で保障されていたとは言い難く、描いた本人が住み慣れていた場所を中心に、ほぼほぼ、自分中心の主観で構成されていた。

 「そうじゃ、そうじゃ…。このアンバランスさが、移り気で、良いんじゃよ…」

 トイレの女神様なら、絶対に、そう言ったはずだ。

 子どもの描く地図には、犬や猫の顔なども描き込まれたものだ。まさに、カナメの描いた地図と同じように。大人には近付けない、トランスファーを目指して揺れ動く心の視点が、神様視点のように美しくなって…。

 「大人の視点から見れば、子どもの描いた地図なんて、雑すぎてダメ」

 それは、このタマキランドでは、通用しない概念だったのか。

 「これで、良い?」

 自分自身が思うトランスファーまでの地図を書き終えて、天に、ノートを広げた。

 「ま、良いじゃろう」

 トイレの女神様は、カナメに、描いた道を進むよう押してくれた。

 「いくんじゃ」

 「今、いくの?」

 「いくのは、今ではない。今は、無理じゃな」

 「そうなの?」

 「いけるときになったら、いける。それだけじゃ」

 「ふうん」 

 「この先、神様のどんな姿を見ようとも、進め。そのときに、トランスファーも、女神様も、見えてくるじゃろう」

 「うん」

 「お前の恋の結末を、祈ろう」

 「うん」

 最後に、トイレの女神様は、こんなことを付け加えた。衝撃的な記憶が、思い出されそうになったものだ。

 「カナメよ?」

 「何?」

 「ベーシック・インカムというものを知っておったか?」

 「ベーシック・インカム?」

 「そうじゃ。皆の、共通の愛の制度じゃ。そんなところかな。上手く使えれば、じゃがな…」

 「たしか…。お父さんが、そんなこと言っていたっけなあ」

 「思い出せ。そして、進め」

 トイレの女神様の声は、そこで途絶えた。タマキランドの奇妙な経験は、終わった。

 「もう、夕方か…。昨日ほど遅い時間になったわけではないけれど、今、トランスファーを目指しても、暗くなるだけだろう。昨日と、同じことになるのは嫌だな。高校に、戻るか」

 タマキさんのことを考えつつ、戻っていった。

 相変わらずのクラスメイトたち、だった。

 「嫌だなあ。俺も、この土地でじいさんに成長するのかも知れないのになあ」

 トシユキが、怖いことを言っていた。

 トランスファーを巡る高齢者失踪事件のことが、クラスメイト間で気になって気になって、ならなくなっていた。そのクラスには、トランスファーの主、いや、トランスファーそのものが住んでいたと思われていたのだから、当然だった。

 「でもどうして、事件があったって、わかったんだ?」

 「ああ。老人クラブの名簿で、わかったらしいぜ」

 「老人クラブの、名簿?」

 「老人クラブだ。トランスファーに続く、お前の恋い焦がれた道のな」

 まだ、いじられていた。

 「もしかしたら、だけれど…」

 「もしかしたら?何だよ、カナメ?」

 「ごめんね、タマキさん…。疑っています…」

 彼の心は、きわどかった。

 彼は、当初は、彼女が女神様か何かではないかと思っていたこともあった。が、ここまでくると、もう、彼女が、死神か何かにでも思えてきてならなかった。

 彼の気持ちは、揺れ動き続けていた。

 「そして、移り気カナメ」

 「やめてくれって…」

 トシユキと、言い合っていた。

 高齢者が、駅前商店街付近で、いなくなってしまった…。

 駅前商店街…その先にあったのは…。

 その先には…洋館トランスファー…

 怪しすぎた…。

 彼らクラスの一部の区画が、軽い道路工事を受けたようになって、震えていた。

 高齢者の失踪事件は、商店街にある老人クラブの訴えがあったことで、明らかになっていた。

 町の広報紙に、こんな文が書かれたのだそうだ。

 「当老人クラブの名簿にある高齢者の何人かと、連絡がつかないケースが、出てきてしまっています。どういうことなのか、詳細知る方、求む。情報を、求む。当クラブに幸あれ。恵あれ。メグミ」

 翌日、クラスメイトの誰かがその回覧をもってきて、見せた。

 「これだ」

 「何だよ、これは?」

 クラスでは、不審一杯だった。

 「商店街は、救うべき!老人クラブを、助けなければならないな」

 町の広報を広げていたトシユキが、顔をしかめていた。

 「そうだなあ」

 「変な、事件ねえ」

 「老人を、助けよう」

 「そうだな」

 「老人は、神様なんだからな」

 「神様に、恵を」

 「いや。俺たちにも神様の恵みをが、正しいのか?」

 「俺にも、恵あれ」

 「私にも」

 「神様の力が、欲しいよ」

 この町では、65歳以上の高齢者になると、駅前通りにあった老人クラブに加入することとなっていた。

 加入すれば、衣食住に関する様々な補助制度が受けられるのはもちろん、その人個人の連絡先がわかることで、安否確認にもつなげられることになっており、喜ばれたものだった。

 ある意味、生活上の、保険クラブだった1人暮らしの高齢者は、連絡を取りあえて、特に、救われた。

 が、ここ数日は、クラブのその存在意義があいまいになっていた。名簿にあった高齢者たちと全然連絡がとれないと、いうのだったから。

 トシユキが、携帯電話を取った。

 授業の休み時間に、クラスを代表してなのか何なのかわからなかったが、老人クラブに電話をしてくれたのだった。

 「頼むぞ、トシユキ」

 プルルルル…。

 「…はい、こちら、老人クラブですが」

 女性の声が、したようだった。

 「広報で見ました」

 トシユキがそう言うや否や、相手が食い付いてきたようだ。

 「私です!メグミと、いいます!」

 携帯電話の外にも、天を刺すような声が聞こえていた。

 「はい。…メグミさんですよね?」

 「ええ。広報の文責者、メグミです!」

 老人クラブは、必死なのだった。

 「広報を、見ましたよ。連絡が取れないのは、この町の方なんですよね?名前を教えて頂ければ、助かるのですが。僕らでも、何かわかるかも知れませんし」

 トシユキは真面目で、こうも言った。

 「あ、しかしそれは、個人情報か。それはさすがに、教えてはくれないですよねえ。失礼致しました

 相手のメグミという人も、彼女なりに、真面目だった。

 「教えます。教えます!」

 その危機的状況では、個人情報云々などということも、言ってはいられなかったのだ。

 「連絡がつかない方が、6人いるんです!何か知っていることがあったら、どうか、教えてください!必死なんです!」

 当初は、1人暮らしをしていた高齢者ばかり連絡がつかなくなっていたそうだ。そこから、こう思われた。

 「独り身ということもあって、仕方ないか」

 もしくは、こうだ。

 「これって、たまたまなのだろうか?」

 しかしそんなことは飛ばして、老人クラブは、焦りに焦っていた。

 「緊急ですので、名前は、伝えます。連絡がつかなくなってしまった方々の名前を、伝えます!何かわかりましたら、老人クラブまで、教えてください!お願いします!」

 「助かった人は、無事なんですか?」

 「そりゃあまあ、助かったから、無事なわけですけれど」

 「ですよね…」

 トシユキが、横にいソラから、足蹴りをもらっていた。

 「失踪しないで残されたのは、2人です」

 「2人?」

 「ええ」

 「それ、どういう人でした?」

 「まあ、それは後で話しますけれど…」

 「わかりました」

 「すみません」

 「とりあえず、失踪してしまったっていう人だけ、教えてください!」

 「はい。80歳以上の人たちばかり…。変ねえ。どうしてこんなに足並みそろえて、これから神様になっていく年齢の方が、襲われちゃったのかしら?」

 少し前から連絡がつかなくなっていたというのは、この人たち。

 「ルリコさん」

 「アヤネさん」

 「ナツヨさん」

 「ミナさん」

 「ヨウコさん」

 「ケイコさん」

 その6人だと、いうのだった。

 「そうですか…」

 「お願いします。お願いします」

 「でもこんな、個人名まで…」

 「仕方が、ないんです!」

 「そうですか」

 「状況が、状況なんですから!今は、個人情報とか、そういうことは、言っていられないんです!といっても、6人の名字はふせちゃいますけれど。それよりも、老人クラブを助けてください!」

 「は、はい」

 トシアキも、慌てて言った。慌てたまま、携帯電話を、机の引き出しの中にしまった。

 「トシユキ?」

 「何だ、カナメ?」

 「なぜ、携帯電話をしまうんだ?」

 「何?」

 「もう、連絡はこないと、知っていたみたいじゃないか?」

 「気が、動転していただけだよ…」

 「ふん。どうだか…」

 携帯電話を、取り出した。

 「どうだった?失踪老人は」

 「そうよ」

 「どうだったんだ?」

 「女性ばかり、だった」

 「女性?」

 「ああ。この、6人らしい」

 トシユキが、メモした紙を広げた。

念のための、再確認だった。

 「ルリコ」

 「アヤネ」

 「ナツヨ」

 「ミナ」

 「ヨウコ」

 「ケイコ」

 …。

 「なるほど」

 トシユキが、うなった。

 「ちなみに、ルリコさんとアヤネさん、ミナさんは、マンションの、賃貸住まい。他の人は、持ち家に、1人暮らしだそうだ」

 「そうか」

 それ以降、どこからも連絡が入ることはなかった。

 「良かったな、トシユキ?」

 「何?」

 「予定通り、だったじゃないか?」

 「そういう言い方は、止めろ」

 「どうだか」

 「カナメ…。お前って、やつは!」

 ソラが、良いタイミングで、こうつぶやいた。

 「でもその持ち家状況とかって、役に立つ情報だったのかしら?何かの参考やヒントにでもなれば、良いけれど」

 これで、場が、やや冷静に収まった。

 「へえ…。女性ばかりですね?」

 「みたいね」

 「でも、ナツヨさんていう人だけは、どうなんだろうって、言っていたが」

 「え?」

 「どうなんだろうって?何だ?」

 「何、何?」

 トシユキは、肩をすくめた。

 「やれやれ」

 「どうした。トシユキ?」

 「ナツヨさんっていう人は、老人クラブの山岳会で、今、山にいっていて、それでたまたま連絡がつかなくなっているだけなのかもって、さ」

 「そうか」

 「そういうことか」

 「わかったよ」

 「この6人が、問題なのか」

 「そうか…」

 「この、6人」

 神様になってみたかった皆が団結して、老人クラブを何とかしてあげたくなっていた。

 「うーん」

 トシユキは、うなった。

 次の授業の休み時間にも、老人クラブに電話をしてみた。

 さきほどのトシユキ会話のときと同じく、メグミという人が出た。

 「ああ、さきほどの」

 神様の道を知る連絡交換が、始まった。

 「もう少し、教えてください」

 「はい。参ったわあ。共通点でも、あったのかしら?」

 「共通点?」

 「事件には共通点がつきものだって、いうじゃないの」

 「そうですかねえ」

 「どうしましょう、どうしましょう」

 メグミの声は、オロオロしっ放しだった。

 「6人の住所は、教えていただけるんですか?」

 そこでトシユキは、優しく聞いてみた。

 「ごめんなさい。6人からは、住所までは聞いていませんでした」

 困ったことだった。

 「住所が、わからない?」

 「ええ」

 「どうして」

 「その人たち、もともと、教えてくれなかったんです」

 「そんな!老人クラブがしっかり管理しなければ、ダメじゃないですか!」

 「…第三者に住所を知られでもして危ないことに巻き込まれたくないって、教えてもらえなかったんですよ」

 「それは、困ったな」

 トシユキもまた、困惑していた。

 「危機管理が、できていたんだか。できていなかったんだか」

 「ごめんなさい」

 「まったく」

 「反省します。大失敗でした」

 トシユキは、呆れていた。

 老人という神様も放任主義に陥ると、そういう危機感のない環境の中に入っていくだけなのかも、知れなかった。

 「トシユキ。もう、良いの?」

 通話が終わったようだと、確認しあえた。

 「だめねえ」

 「その人たちって、住所も、わからないのか?」

 「わかるのは電話番号くらい、だってさ。人によってはメールアドレスを聞いていただけらしいぜ」

 「神様も、見放されたもんだな」

 「神様も、いい加減だな」

 「まあ、そう言うなって」

 「本当に、事件を解決してもらいたいっていう気が、あったのか?」

 本当に、事件だったのか?

 神様は、どう関わっていた?

 …女神様は?

 思い起こせば、5日前。

 老人クラブには、アヤネさんから、連絡が入ったという。

 「ルリコさんたちが、2人の男性から、親切にしてもらっているそうです。良い人たちみたいですよ。私も、ルリコさんたちのところに、出かけてみようかしらねえ」

 それを聞いた老人クラブは、変な感覚だった。

 それなら、普通は、こう思っただろう。

 「知り合いの人に、親切にしてもらっているってこと?」

 「ホームヘルパーの人かな?」

 「ボランティアの人かな?」

 「それなら、問題ないのでは?」

 老人クラブは、ただ、そう思っていただろう。

 が…。

 そんな安易な考えが、悪かったというのだろうか?

 「とても、気分良く生活させてもらっているそうです。私も、ルリコさんたちのいるところに、出かけてみようかしら」

 アヤネさんの言葉は、怖すぎた。

 危機感がなかったのは、神様の特徴だった。

 町の老人クラブに加入している人は、多かった。

 その中で、1人暮らしの人は、限られていた。

 クラブの加入者で1人暮らしの人は、すでにあげた女性6人に加えて、男性2人の、計8人だった。

 老人クラブは、その男性2人を、徹底的に怪しんだ。

 この2人とは、事件以前からも、連絡がつかなかったそうだ。

 2人は、何者だったのだろうか?

「カナメは、どう思う?」

 トシユキにそう言われて、彼は、振り返って考えてみた。

 たしかあれは…。

 そうだ。

 …高校2年の春、だ。

 彼は、老人クラブとの接点を思い出した。

 「俺もまた、老人クラブには関わっていたわけか」

 昨年、彼は、その老人クラブにいってボランティア活動を経験していた。

 「それならこちらも、容疑者か?」

 彼は、気が気でならなかった。

 「いやいや、あのときはたしか、トシユキもいたはずだ。ソラだって…。いや、クラスの大半が、手伝いにいっていたはずだ

 心の底では、皆が、高齢者思いの優しさであふれていたはずなのだ。

 今は、高齢者が厄介でならなかったか?

 「とにかく、あの2人だ」

 「うん」

 「カナメ、いってこいよ」

 「うん」

彼は、商店街の老人クラブにいってみた。

 着くと、事務局長をしているチヒロさんという女性が、対応してくれた。

 「カナメ君、お久しぶりね」

 「お久しぶりです、チヒロさん」

 「ボランティアでは、世話になったわね」

 「あのときは、ありがとうございました」

 「こちらこそ」

 「いいえ、こちらこそ」

 「事件のことは、知っていたわよね?」

 「はい」

 「やっぱり」

 「失踪高齢者って、この、6人ですか?」

 彼は、ちゃっかり、チヒロの広げていた名簿をチラリと見て、そう言っていた。

 「あ。しまった!見られちゃった」

 名簿を広げたまま受付デスクに出していたチヒロが悪いので、何とも言えなかったが、厄介なことになってしまった。

 「まずいなあ…」

 チヒロが、言った。 

 「チヒロさんが、見えるところに出すから、いけなかったんですよ」

 彼は、情けないものを見る目つきで、そう言った。

 「そりゃあ、そうかもしれないけれど」

 「チヒロさんたちは、危機管理能力が、なさ過ぎですよ」

 「そういう教育で育っちゃったんだから、仕方ないじゃない」

 「あ…。教育制度のせいにするのは、ダメですよ」

 「だって」

 「いいわけは、卒業してください」

 「でもさあ、情報を、早く読み取りすぎよう」

 「パッと見てパッと覚える訓練をしてこなかったチヒロさんたちの、弱さですよ」

言われてチヒロは、ムッときた。

 「だって、仕方ないじゃない!」

 「ほら。また、言い訳しているし」

 「もう」

 「そういうところ、チヒロさん世代の、弱さですよ」

 「弱さじゃないわ」

 「弱さですよ」

 「弱さじゃない」

 「弱さです」

 「…」

 「それから…」

 「テイゾウさん」

 「シイスケさん」

 「マコトさん」

 「アキヒロさん」

 「ヒデユキさん」

 「ノブオさん」

 ついに、彼の口に出ていた。

 「ちょ、ちょっと…」

 「この人たちも、ですよね?」

彼は、名簿をちらっと見ただけで、すぐに彼らの名前を読んでしまっていた。見られていたチヒロは、呆れた。

 「今の子は、素早いのねえ」

 頭を、かいた。

 「はい」

 「仕方ないなあ…。私が、悪いんだし」

 「はい」

 「はい、じゃないわよ」

 「まあ、まあ」

 「あのね。もう…。こちらの人は、老人クラブに加入している、電話で話があった失踪高齢女性よりも、ずっと若い人たち。男性高齢者たち」

 明らかに怒っている感じの声、だった。

 彼は、追及した。

 「そうなんですか?その名簿では、1人暮らしの老人は、女性のほうが格段に多いみたいですけれどね」

 チヒロは、静かになった。

 「それは、まあ。一般的には、女性のほうが長生きするからね」

 口ごもりながら、言っていた。

 「ふーん」

 「そういうことよ」

 彼は、すぐに、納得がいった。

 が、彼女だけは、納得いかずの様子。

 「まあ、このことは、見なかったことにしてほしいな

 「ごめんなさい」

 今度は彼のほうが、チヒロさんに謝っていた。

 「良いかしら?私たち老人クラブが怪しんでいるのは、この2人」

 彼は、再度、リストに目をやった

 「この2人が、怪しいのよ…」

 「この、2人ですか?」

 「ええ。トライチに、ヒコザエモン」

 「…」

 その2人とは、なぜか、連絡がまったくとれないと、いうのだった。

 老人クラブは、どうしても、こう考えていたようだった。

 「絶対に、この2人が今回の高齢者失踪事件に関わっている」

彼は、うなった。

 「連絡が、まったく、つかないのよ。怪しいわ」

 「なるほど」

 彼は、なだめるように、付け加えていた。

 「しかし…。事件化は、チヒロさんの思い過ごしの可能性は、ないんですか?」

「そうかしら?」

 「うーん…」

 彼は、その事件の話に、確実に乗せられてきてしまったのだった。

 「そりゃ、私だって、思い過ごしのほうがありがたいけれど…」

 「ですよねえ…」

 「トライチに…ヒコザエモン」

 「トライチに、ヒコザエモンですか…」

 翌日彼は、高校のクラスで、それらを、トシユキに話した。

 「そうか…」

 「何とかならないのかな?トシユキ…?」

 彼は、もう完全に、乗せられていた。

 「失踪しちゃった人たちには、共通点があったのかな?」

 トシユキが、天を仰ぎ、カナメのほうを見ていた。

 「あんまり、じろじろ見ないでくれよ」

 「悪かったな、カナメ」

 「それでトシユキは、何に引っかかったんだ?共通点が、どうしたの、こうしたの言っちゃってさあ」

 あんまりにも不憫だったので、トシユキの小言に、付き合ってあげることにしたのだった。

 トシユキは、かまってもらえて、安堵したようだっ

 「考え中」

 「だろうな」

 「事件だよな?カナメ?」

 「ああ。事件だよ。トシユキ?」

 「それが、どうにも、わからないな」

 トシユキが、真顔で、軽い声を上げた。

 お互い、一息ついた。

 「共通点か…。トシユキ?皆が、高齢者だったが共通して…。。おっと。それは、老人クラブで起きた事件なんだから、当たり前。みたいな…」

 「つれないな」

 たしかに、失踪した8人が8人とも、高齢者だった。

 それも、神になれるほどの権利をもったような人たちだった。

 ターゲットは、8人。

 「…そして、残された男性高齢者が、2人。その2人は、なぜ、失踪しなかったのかな?」

 「わからん」

 …?

 何かが、違ったのか?

 その2人とは、なぜか今は、連絡とれずの状態になってしまっていたという…。

 「トシユキ?」

 「何だ?」

 「すべてが、怪しかったな」

 「ああ。神様も、怪しいものだったな」

 トシユキの声は、疲れていた。

 「どうして?」

 「それは、お前が、良く知っていたはずじゃないのか?」

 トシユキの、鋭い指摘。

 老人クラブも怪しんだというその2人の高齢者男性は、1人暮らしの男性とは、聞いていなかった。

 「誰かと一緒に住んでいる人っぽい」

 考えていた共通項が外されて、苦しかった。

 「老人クラブかあ…」

そのクラブでは、70歳、75歳、80歳と、5歳刻みで、老人ランクが上がっていく仕組みになっていた。

 「困った事件、だ」

 「まったくだ」

 ランクが上がれば、公的年金の他、この町でのみ通用する、秘密の老人補助金が出されることになっていた。

 1 00歳にもなれば、その老人は神として崇められ、様々な援助を受けることができていた。

 神様なる老人は、まぶしかった。町の皆が、その老人とすれ違えば、ひれ伏していった。

 もっとも、老人クラブへの入会条件は、甘くなかった。この町に50年以上暮らした時間があるかどうかなどが、クラブによって、精査されていた。

 50年以上とは、実際に、この町で暮らしていた期間のこと。

 その期間に、他の自治体で暮らしていた期間は、含まれなかった。海外で暮らしていた期間などは、対象外…。

 なかなか、シビアだった。

 それは、警察事件でいわれたような、いわゆる時効制度というものに、近かった。老人も、複雑なものだったのだ。

 それでも老人は、やはり、神に違いなかった

 「老人は、神様だ」

 「そうだな」

 「女神様だ…」

 「カナメ?何か言ったか?」

 「何でもない」

 クラスメイトらは、探偵にでもなったかのように、頭をかいていた。

「トライチに…。ヒコザエモン…。神様。女神様」

数学の公式のように、唱えていた。

 クラスメイトには、大いに笑われた。

 「カナメ?」

 「何?トシユキ?」

 「また、その名前なのか?」

 「良いじゃないか」

 「良くないだろ」

 話が、盛り上がってきた。

「6人の男性高齢者が失踪したっていうことだったけれど、その人たちって、税金を払うのが苦しくなっちゃったからかなあ?」

「それって、どういうことだ?」

 「新しく、嫌な話だよなあ…」

 クラスの一角が、ほんのりと、暗くなってしまっていた。

 「だって、そうじゃないか。苦しいよ」

 「だから、どうしてなのよ?」

 「社会保障費を負担しなくっちゃ、いけないからだよ」

 「社会保障費?」

 「何、それ?」

老人、神様、社会の謎は、深くあり続けていた。


















 本格的に、謎を追わされていた。

 「老人と言えば?」

 「神様、じゃないか?」

 「社会保障」

 「そう、きたか」

 「年金とか、さ」

 「ああ」

 「わかってきた?」

 教室の一角の賑わいが、復活した。

 「高齢者になっても、税金を出さなくっちゃ、いけないんだぜ?神様も、苦しいよな」

 「それはわかったけど、じゃあ何で、年金とかをもらえる側の人も、苦しくなっちゃうんだよ?」

 「そうだよ」

 「そうよ」

 「もっと、説明してくれよな」

 「そうだ。神様…っていうか、女神様に憧れ中のカナメに、説明してもらおうか」

 「はあ?」

 げんなりしていた。

 「だってさあ…」

 「うん」

 「がんばれ、カナメ!」

 「やっぱりあの人たちって、神様だったのかな?」

 「らしいよ?」

 「だから、何で?」

 「わかったよ。話すよ」

 結局は、ちゃっかりと、説明をしてしまうのだった。

 「あの高齢者の人たちは、神様。まずは、その点を抑えよう。皆が苦しい中でやっともらえた給料を、税金、年金なんかに変えて、それを基に、生きていくんだ。だから、神様なんだよ」

 「まあ…。そういうことになるんだろうなあ」

 「そうよねえ?」

 「神様は、すごいよな」

 「だから、何なんだ?」

 「今は、いろんな要因があって、支えてもらうために支払われる額が、減っているらしいんだ。高齢者の数は、増えているっていうのにさ。だから、そのバランスが上手くとれなくなってきて、壊滅気味。高齢者の生活もまた、苦しくなっているってさ」

 「そんな話、聞いたことがあったわ」

 「神様なのに、なあ」

 「本当に、神様なのか?」

 その金話は、ニュース、新聞などで、日々強調されていたことだ。彼らのおしゃべりグループを含めたその世代は、皆、勉強していなければならないことだった。

 「勉強なんて、無駄だ」

 そう言えた人が、憎かった。

 「俺たちだって、同じだ。将来すぐ、その苦しさを味わうことになるんだろうな。他人事じゃあ、いられない」

 皆の心の奥では、恐怖だったことだろう。

 「なんか、暗くなっちゃうよな」

 「まあな」

 「社会保障費、ねえ…」

 「嫌なひびきだ」

 「老人は、神様なんだろう?問題は、解決できないのか?神様の名が、泣くぞ?」

 トシユキが、まともなことを言った。

 「そう、言うなって」

 「解決できなくても金をもらえるから、神様なんじゃないか」

 「きゃあ。言うわねえ」

 「言うよ!」

 「あたしも、苦しくなっちゃいそう」

 「何で?」

 「皆、どう思う?」

 トシユキが、ディスカッションを、上手く進行させていた。

 話が、飛んできた。

「金はもらえても、いろいろな手続きが必要になって、面倒っぽい」

 誰かが、わけのわからないことを言い出した。

 「社会保障費の支給には、細かいチェックが、されたようだ」

 トシユキが、真面目に、解説していた。

 「まず、人をチェックする」

 「人?」

 「この人は、支給に適しているのだろうかとか、だよ?皆の大切な税金をわけてしまっても、良い人なのだろうか?ってね」

 行政側は、その通り、まずはその点を、厳しくチェックするのだ。

 それによって、手続きは、どんどん複雑に面倒になっていったようだ。

 チェックは、必要だ。

 たしかに、支給の眼差しは厳しくしなければ、割に合いそうもなかった。

 「チェックは、厳しいぜ。そりゃあまあ、皆の金が動くんだからな」

 「チェックは、厳しく」

 「そこは、当然」

 皆の、共有意識となった。

 「それは、そうよ」

 ソラが、追及しだはじめた。

 「私たち皆が苦労して支払った金が、支給される必要のない裕福な人のところに回ってしまったなら、非常に、まずいことになってしまうじゃないの」

 「だから、神様なんじゃないか」

 「そんなものかなあ…」

 「そういうことだろう」

 「そうかなあ」

 割に合わない議論、だった。

 「金持ちにさらに金を与えてしまい、庶民の生活がきつくなってしまってどうするというのか!」

 「そんな神様なら、消しちゃえば、良いじゃないか」

 誰かが、そうつぶやいたような気がしていた。

 「注意したいことは、他にある」

 「そうなのか?」

 「その支給チェックには、また別の税金が投入される点だ」

 トシユキは、相変わらず、真面目だった。

 「そういうチェックって、無駄なんだけれどな」

 「そうそう」

 「税金の使い方が、おかしなことになる」

 「努力の、無駄」

 「何のためのチェックなのか、わからなくなっちゃう」

 皆が悩み始めると、トシユキが、上手くフォローした。

 「人件費がかかることを考えれば、チェック無しの社会保障費支給だって、ありなのになあ。皆は、どう思う?」

 「それ、良いねえ」

 「でも、そういうのはあるのか?」

 「あるのかなあ?」

 すると、カオルコが、すぐに返した。

 「あるわよ」

 皆が、今度は、カオルコのほうを見た。

 「え?マジ?」

 話が、面白くなってきていた。

 「チェック無しの支給、かあ…」

 たしかに、それができれば楽だった。

 「無駄が、省けたはずよなあ。努力をしろって、いうんだよな」

 その、通り。

 余計な手間暇がかからない点でも、効率的になれたはずだった。

 「でもさあ…トシユキ?」

 「ちょっと、やばくない?」

 「お!気付いたか」

 だがそこには、落とし穴も考えられた。

 話が、面白くなってきた。

 その落とし穴は、ジェネレーション・ギャップ。

 「でも…。落とし穴があるって、カオルコにも、わかったはずだ。それなのにカオルコは、あるわよって、即答。何を、考えていたんだろうなあ?」

 彼の感じた落とし穴は、何だった?

 やはり、ジェネレーション・ギャップ。世代ごとに、考え方が異なっていただろう。

 年金を例にとれば、わかりやすかったか?

 高齢者に年金を支給しなければならない若い世代は、こう考えたものだ。

 「簡単なチェックで、誰にでも金を支給するなんて、ダメだろう!」

 その思いの根拠は、こうだった。

 「この社会には、超好景気の中を、ゆるりゆるりと楽しく、がんがん働き口があって働けて、がんがん金もらって生きてこられた世代がいるんだぞ?その人にも、簡単に金を支給しちゃうのって、おかしい。良く考えて、金を回せ!だからこそ、厳しいチェックが、必要なんだ!」

 これに対して、受給側では、意見が異なった。

 年金をもらう高齢者の側は、こう考えた。

 そして、主張した。

 「おい、おい!どうしてだ!どうして、俺たちにチェックがかけられるんだよ!そんなの、失礼じゃないのか?年功序列という言葉を、知らなかったのか?俺たちが、どんなに働いてきたと思っていたんだ!チェックなんか、不要だ!早く俺たちに、もっと多くの金をもってくるべきなんじゃないのか?俺たち高齢者様たちを、何だと思っていたんだ!俺たちは、神様なんだぞ?誰のおかげで、今の幸せな生活が送れたと思っていたんだ!わかってんのか?」

 言いがち。

 クラス内議論が、進んだ。

 「無チェックの、社会保障システム」

 だが現実には、カオルコの言っていたようなものは、実行可能だったのだろうか?

 それを実行するには、壁があった。

 神様の壁、だ。

 「本当に、平等なシステムなのか?」

 「意志決定のための票は、国民すべてに、平等に配布されていたのか?」

 「考えさせられるなあ」

 「まったくよね」

 高齢者、老人は、神様だった。

 とすれば、神様政治は、平等だったのか?

 いや、そうとは言えなかった。

 票数や政策実行の権限は、国の人口比の多くを占めていた高齢者の手のほうにこそ、あったのだ。

 政治では、高齢者こそが、大切にされた。

 「他の努力は、無駄」

 どこかで聞いた言葉が、復活した。

 「高齢者は、神様」

 その通りに、その人たちの中には、今の若い世代の財源や権限を一掃できてしまうほどの力が秘められていたのだ。

 莫大な退職金、さらには、年金等にかかる社会保障費をふんだんに手にすることが約束されていた超好景気組が、いたのだ。

 気に入らないことがあれば、社会に、ありったけの暴力をたれた。

 どう考えても、神様だったろう。

 その神様世代なら、こう言っただろう。

 「もっと、金をもってこい。我々は、若い世代と同じ額の金をもらうのか?おかしいじゃないか!なぜ、仕事もしないで生きている若い奴らに、我々と同額の金を支給してあげなくっちゃ、ならなかったんだ!ああ?我々を、誰だと思っていたんだ!我々は、この国を作ってきた神様だったんだぞ!誰のおかげで、暮らせるんだ!こうして神様が、定年退職をして、家庭に降りたってやったんだぞ!感謝しろよ!一生懸命に働いてきた我々こそ、救うべきだ!お前たち若い奴らは、死んでも構わないがなあ!」

 そんな神様の意見も、わかりたくはなかったが、少しは、わからないでもなかった。

 「努力できた人こそ、救われるべきだって、言いたくもなるよな」

 しかし、その考え方は、ちょっとストップだ。

 「ああ、何度も、考えさせられるな。本当に、その考え方で、正しかったのか?今の社会に、合っていたのか?」

 社会は、変わった。

 変化を嫌う神様は、厄介だった。

 今は、神様が現役でバリバリ働けたころとは、ずいぶんと、変わってきた。

 高齢者の意見は、そぐわなくなってきていたのだ。

 「社会には、どうがんばってもはい上がれそうにない人が出たみたいだものな。その人たちを救うのが、生活保護であって…。えっと…。ベーシック・インカムっていうのも、そうだったものな。親に、教えてもらっていたことが、役だった」

 社会は、複雑だった。

 「懸命に働いてこられた者こそ、救うべき」

 本当にそれは、正論だったのか?

 もう一度、考えてみて欲しかった。

 今の社会は、雇用情勢からして異なった。

 高齢者、神様の社会は変わった。

 それまで当然のように考えてきた完全雇用が達成されない社会へと、移ってしまっていたのだ。

 「働いて得られた金から社会保険料を出して、満足に、福祉給付の資格を得る」

 そういったメカニズムが、成立しにくくなった。

 働いて得られた金で生活基盤を作るということなど、社会の勝ち組でもない限りは、ユートピアなのでは…?

 「若い奴らが働かないから、俺たち高齢者が、金をもらえなくなったんだぞ!」

 そう言ってしまう神様も、いたようだ。

 が、それが無理解のポンポコリンであることを、どうか神様には、理解してもらいたいものだった。

 働きたくても働けない人は、たくさんいたのだ。

 社会の流れを、感じてもらいたかった。

 かつては、こんな人も、いただろう。

 「夫が会社に働きにいっていたので、その妻である私は、保険料を納めなくても良かった。ラッキー。ラッキー」

 そんな制度など、どう考えても、時代や社会の流れに合わなくなった。

 「複雑だなあ…」

 彼らは、ため息をついた。

 「所得と労働を切り離して考えられる新社会保障のシステムなんて、あったか?」

「そうだよ」

 「これからの社会は、どうなるものか…、暗黒」

 「だよね」

 「俺たち、仕事ができるかも、わからないもんな」

 トシユキも、ため息をついていた。

 「そこなんだよなあ…」

 「何か、ないの?」

 「何かって?」

 「無チェックシステム」

 「俺たち、高齢化したら、どうなっちゃうんだろうな?」

 しばしの沈黙が続いた後で、カオルコが、クスクスと、笑っていた。

 「だからあ…。そういうシステムがあるって、言ったじゃないの」

 皆の視線が、一気に、カオルコに注がれた。

 「何だって?」

 「あるのか?」

 カオルコが、満を持して、言った。

 「ベーシック・インカムよ」

 「ついにきたぞ!その、言葉!」

 カナメの心が、踊った。

 「ベーシック・インカム?」

 「何、それ?」

 「教えてくれよ、カオルコ」

 「そうだ、そうだ」

 「そうよう」

 「ふふ…。皆、甘いな」

 カナメにはなんとなくわかっていたので、自己満足の嵐だった。

 皆に見られたカオルコの顔つきが、険しくなった。

 「もう、不勉強ねえ。ベーシック・インカム。所得なんかに関係なく、皆に、最低限の金を平等に支給しちゃうシステムのことよ」

 「皆に、無条件で、金を支給しちゃうっていうのか?」

 「そういうことに、なるわね」

 カオルコは、勉強家だった。

 「皆に、金を配る…。ってことは、金持ちにも、金を配っちゃうわけか?」

 「そうよ。だって、そういうシステムなんですもの」

 「まじか」

 「そうなの?」

 「でもそれって、問題出ちゃうだろ?」

 トシユキに言われたカオルコが、想定内とばかりに、顔をほほ笑ませた。

 「当たり」

 …。

 「ベーシック・インカムには、問題が多いわ」

 カオルコの言葉には、闇がつきまとっていた。

 神様についての話が、変わった方向へと、向かっていた。

 ベーシック・インカムのシステムが働けば、社会には、もしかしたらこれまで以上の不満が起きそうだったというそれは、こんな不満だった。

 「長年、真面目に、コツコツ年金を納めてきた人が気の毒だ。その人たちの年金受給額よりも、理由はどうあれ、年金を納めていなかった人の受給額のほうが多くなってしまうことがあるんでしょう?それって、冗談じゃないぞ!」

 それに、納得ができたか?

 そこが、ベーシック・インカムというシステムを進める上での問題点となってくるはずだった。

 カオルコは、良くわかっていたようだった

 彼らが喜んでいると、カオルコは、厳しい目を向けてきた。

 「皆に、平等に金を支給かあ…良いなあって、思ったでしょう?でも、そんなに、簡単なことじゃないのよ?」

 クラスメイトに、その忠告は届いたのか?

いつか父親に言われていた言葉が、再来した。

 「努力なんて、無駄、無駄」

 ものすごく、嫌な感じだった。

 「トシユキ?不都合な未来予想図が、見えたな」

 「カナメも、言うなあ」

 「言うさ」

 無条件に、皆に、給付する…。

 それは、努力しなくても良いと、いうことだ。

 父親の言葉は、正しかったのか?

 企業ベーシック・インカムなんてものがあれば、より、不都合。

 そうした現場では、こんな求人が、出されただろう。

 「お願いです!どうかここで、働いてください!あなたの社会経験に見合った賃金は、平等に、たっぷり出しますから。さあ。運良く、勝ち抜きましょう!どうか、働きにきてください!今、新卒一括採用コースに乗っていられる身分の人は、入社してくれれば、テーマパークに連れていってあげます!」

 しかし、新卒求職者は、なかなか動けなかった。

 なぜか?

 「運良く、勝ち抜きましょう!」

 そうは、言われても…。

 新卒の彼らは、努力する生き方をしてこなかったのだから。

 そこで、こう、条件が変えられた。

 「お願いです!誰でも、良いんです!人手が、足りなくなったんです!どうか、あなたの力を貸してください!社会経験は、必要ありません!入社してくれれば、とりあえず、企業ベーシック・インカムを支給しちゃいますよ!」

 それを聞いた新卒世代は、目を見開いて、立ち上がっただろう。

 「やったぞ!働かなくても、入社さえすれば、企業のベーシック・インカムがもらえるんだ!」

 社会経験不問の、引く手あまたの就職社会だ。

 ベーシック・インカムとは、良き言葉だった。

 優秀組の採用を抑制しほったらかしにしてしまったことの大弊害を、さらに、推し進めてしまったのだった。企業ベーシック・インカムの社会が訪れれば、そんなしっぺ返しが繰り返されるのだという。

 「カオルコってば」

 「もっとわかりやすく、話してくれよ」

 「わかったわ」

 解説が、深まった。

 「あなた方にも、ベーシック・インカムを支給します。皆に、平等に、金を出します。問題は、ここ!」

 「人が、働かなくなるからか?」

 「働かなくても、金がもらえるんだものなあ…」

 「もう少し、聞いてよ」

 他人から金を出してもらったゆるゆる生活に慣れきってしまった世代が、大暴走。就職練習を重ねてまで入った新卒の仕事場を、すぐに、退職。

 するとまた、職場のポストに、欠員。

 そこで、さらにさらに、こんな求人が出されることになる。

 「お願いです!どうか、ここで、働いてください!人手が、足りないんです!氷河期以外の若い人なら、誰でも良いんです。金は、平等に出しますから!」

 ベーシック・インカムを、追加支給いてくれるのだという。

 一旦入社した、新卒一括採用世代。

 その世代が、新たに欠員が出た条件の良い職場に、再入社。

 ちょっと、働く。

 ベーシック・インカムを、支給される。

 そして、支給されたら、すぐに退社。

 入社。

 ベーシック・インカムを、支給される。

 そうしたら即、退社。

 それを、繰り返す。 

 入社の証として支給された企業ベーシック・インカムは、どんどんと、増えていく。

彼らが新卒扱いされる期間中は、そういうことが、続いていく。

 真面目な氷河期世代には、物理的にもできない裏技、だった。人は彼らを、こう呼ぶだろうか。

 「新卒渡り鳥」

 金の、荒稼ぎ。

 だが、犯罪にはならなかった。

 社会制度を、有効活用しただけだったのだから。

 クラスメイトらは、皆、そんな未来予想図を頭に描いて、うんざりとして、うっとりしていた。

 新卒世代は、強かった。

 かつての就職氷河期組とはほぼほぼ真逆、大きな努力がなしのゆるゆる生活で、生きられたのだ。

 「努力なんて、無駄、無駄」

 父親の言葉の意味が、より良く、わかってきた。

 「ベーシック・インカムの社会」

 それはそれは、美しい未来だった。

 その社会になれば、友達同士仲良く生活できれば、想像以上に幸せになれる気がした。

 「ベーシック・インカムって、危険なのよね?」

 カオルコの忠告も、薄れてきていた。

 ベーシック・インカムの夢を、見ていた。

 「いってみるか」

 彼やトシユキはじめ、クラスメイトが、失踪したという1人暮らし高齢者ルリコの家を目指して、歩いていた。

 「何か、はじめるの?」

 「私も、ついていく」

 隣りのクラスにいたカオリとサクラも、一緒にきた。

 カオルコは、ついてこなかった。

 神様への詮索は、嫌だったのだろう。

 「お前だろう?しゃべったのは」

 「何で、カオルコにいっちゃうんだよ」

 「仕方がないじゃない。クラスメイトなんだし」

 「カオリとサクラに声をかけたのも、お前か?」

 「だって…。友達なんですもの」

 ルリコが失踪したことで、ルリコが住んでいた家は、一方的には、空き屋と捉えられたことになった。

 その闇情報をもとに、家に着いた。

 「ここに、住んで良いですよ」

 まるで、その家が、手招きしていたように感じられた。

 神様への道を自覚していた彼らの世代に、躊躇はなかった。

 「俺たちのために、家が空けられたようだ

 皆が、家の中を物色した。

 「あれ?」

 玄関の鍵は、開いていた。

 「何で、開いていたんだ?」

 「さあな」

 「失踪しちゃったんで、管理人が調べにきたんでしょう」

 「でも、いなかったんでしょう?」

 「そりゃあ、失踪なんだからね」

 「管理人は、どうして、鍵が閉めなかったのかしら?」

 「…深く考えるのは、ストップ!」

 ソラが、陽気な声を上げた。

 「入ろうか」

 トシユキが、迷いなく、不法侵入を開始していた。

 そして、携帯電話をとり出した。

 「ちょっと、何をしようっていうの?」

 「クラスの男連中に、声をかけてみるんだよ」

 「男?」

 「タカミとか、さ」

 「秘密なんじゃ、なかったの?」

 「そうよ、そうよう」

 そこでトシユキが、もっともなことを言った。

 「この空き家で、誰かが、企業ベーシック・インカムの共同生活ごっこを、楽しんでいたんじゃないのか?」

 まわりは、不安だった。

 「良いのかあ?」

 「ここって、まだ、空き家じゃないんじゃない?」

 「良いんだよ。空き家と考える。ここは、俺たちのために高齢者が提供してくれた、良きスペースだ」

 トシユキは、自信たっぷりだった。

 ちなみに、その高齢者ハウスは、2部屋。1部屋がルリコの部屋で、もう1部屋が、アヤネのものだったと聞いていた。

 「不法進侵入?」

 「いいや。俺たちの場合は、言わないよ」

 「どうして?」

 「そうよ」

 「だって、俺たちは、社会の主人公世代の後輩たちなんだぜ?何したって、良いじゃないか」

 「ああ、そういうことか」

 「オンリーワン!」

 「準!」

 納得していた。

 トシユキは、常に真面目で、こうも言っていた。

 「ただし、プライバシーは、問題だからなあ。さすがに、男と女が共同生活をすることは、できないだろう。そこは、忘れずにいよう」

 ソラたちは、クラスの女子生徒を数名呼んだ。

 「俺たちも、やってみよう」

 「やるって?」

 「企業ベーシック・インカムの、共同生活だ」

 「わかったわよ」

 新たなライフスタイルが、はじまった。

 男性グループは、ルリコの部屋へ。

 女性グループは、アヤネの部屋へ。

 「あれ?」

 不思議が、増えた。

 「何か、落ちてるぜ?」

 ルリコのいた部屋の中には、どういうことか、部屋の鍵が落ちていた。

 「ってことは、女性陣のいった部屋にも、落ちているかもな」

 その通り…。

 アヤネの部屋にも、鍵が落ちていた。

 「これは、良い…」

 鍵のかかっていない部屋に侵入していたソラたちは、上機嫌となった。

 何事も、コツだった。

 良い社会に生まれれば、努力なんかしなくても、即、就職。それと同じような社会的コツを手に入れられたようで、誇らしくもあった。

 「将来を見据えて努力をするための、集団長期実習」

 そういった名目で、カオルコ経由で先生たちに出された届けは、無事に受理された。

 高校に残されたカオルコは、ちょっぴり、感心していた。

 「そうか。社会人になるための実習に、いったのか。しっかり、していたじゃないの。安心した。ベーシック・インカムを悪用した生活でも始めたのかと、思った」

 カオリとサクラの届けも、受理された。

 安心して、新生活に入ることができたのだった。

同性の集まりなら、ほぼほぼ、何でもできるような気がしてきた。

 何事も、コツだった。

 ある程度生活をすれば、同居人の生活スタイルもわかってきた。

 生活のパターンが、読めた。

 ここが、重要。

 ベーシック・インカムの生活に、可能性を感じずには、いられなかった。

 が、同性生活といえども、すべてがすべて我慢できるわけではなかった。

その点は、注意。朝早い時間などは、困ったものだ。

 カナメたちは、何度か、こんなことを叫んでいた。

 「早くー!」

 「トイレー!」

 静かにしたり、部屋の明かりを消したり。

 スマホから漏れる光を、抑えたり。

 強大に気を遣いながらの共同生活時間が、面倒に、増えていった。TV番組も、好きなタイミングと時間に観ることが難しくなった。深夜に大音量で映画鑑賞をしていれば、怒られた。

 努力せずに、オンリーワンの生活しかしてこなかった人には、すべてが、不可解な事実となったろう。

 「ベーシック・インカムで神に近付く生活も、楽じゃないなあ。カナメ?」

 勉強の毎日、だった。

 あまりまわりは気にしないなどと揶揄されがちな男だけの生活も、意外にハードルが高かった。

 そのころ、女性陣は、高齢者アヤネの部屋で共同生活をしていた。

 「そうだ!」

 何人かが、気付いた。

 「働く時間帯を、入居人ごとに分けよう!もしくは、公共の図書館なんかに出かけて、なるべく同居人同士で会わないように工夫して、時間をつぶすようにすれば良い。よし。こうすれば、プライバシーも守れると、いうものだ!」

 企業ベーシック・インカムの生活には、コツが必要不可欠だった。

 「上手くやれば、毎日働かなくても良くなったよな?」

 「ベーシック・インカムは危険だって、カオルコが言っていたはずだ。その意味が、わかってきたよな」

 神の制度を悪用する怖さを、知った。

 ベーシック・インカムの怖さは、まさに、ここだ。

 「悪用ができる」

 どういうことか?

 ベーシック・インカムは、まず、家賃のその問題を、軽くクリアできた。

 ルリコは、風呂やキッチンを除いた8畳ほどの間に、住んでいた。S NSで調べると、家賃、月15万円の部屋らしかったそこに、男5人が集まったわけだ。

 さて、彼ら5人には、それぞれ、月5万円のベーシック・インカムが、無条件で支給されていた。

 「1人、月5万円?それしか、支給されないのか?」

 そう、文句を言う人もいただろう。

 が、実は、それで充分だった。

1つの部屋に住んで、5人の男グループ。

 部屋には、1ヶ月で25万円の金が、無条件で集まっていた計算だった。

 その25万円の蓄えの中から、家賃が支払われた。

 1人3万円も出せば、5人で15 ,0 00円だ。これで、家賃が完済できた。

 残りの金は、10 0, 00 0円。

 10 0, 00 0円あれば、男同士5人の部屋は、それだけで満足だった。

 「5人で、10 0, 00 0円?それだけで、1ヶ月間、食費をまかなうのか?そんなんじゃあ、少なくないか?」

 そう思う人も、いただろう。

 だがそう思ってしまうのは、好景気社会を生きた人たちだ。就職氷河期を経験した男性なら、そうした心配は少なかった。

 「俺たち若い男の食費は、1日5 00円もあれば、文句なし!」

 そう考えることが、できたからだ。

 1日5 00円の数字で、計算。

 1ヶ月の食費代は、15 ,0 00円や15 ,5 00円ほどで済む計算になった。

 若い人であればの話だが、医療機関にかかることも、少なくなった。

 仮に、身体の具合が悪くなってしまったとしても、何とかできた。若い人なら、我慢が利いた。

 男同士のグループだけで生活すれば、5人

で10 0, 00円の貯蓄から、5人分の食費75 ,0 00

円や75,500円が引かれるのみ。

 そうすると、ルリコ部屋では、何もしなくても、金が残った。

 25 ,0 00円や22 ,5 00円が、貯蓄された。

 この貯蓄から、水道費や光熱費を引く。

 携帯電話などの通信費も、引く。

 それでも、10 ,0 00円は残った。

 これで、OK。

 これだけ金が残れば、毎日はきついが、パチンコやゲームセンター通いが、可能になった。

 漫画も、買えた。

 これが、ベーシック・インカムの罠。カオルコの言っていたような、ベーシック・インカムの怖さというもの、だった。ベーシック・インカムの共同生活が、望ましい者であれば良かった。が、悪用生活は、本当に怖かったのだ。

 「でも、もう少し金がほしい」

 そう思ったなら、ちょこっと、アルバイトでもすれば済んだ。

 ベーシック・インカムによって得られた給付金に、努力した労働で得られた賃金を加えたとする。すると、金持ち生活ができたようにも感じられてしまうのだ。

 その労働だが、努力してフルタイムで働く必要などなかった。

 アルバイトで、週に1日だけ働けば、充分だった。

 部屋には、5人もいたのだ。

 「今日は、俺」

 「明日は、君」

 「その次は、君」

 そうしてローテーションで回せば、毎日働いたのと、同じ。充分な貯蓄が、できていった。

 「ベーシック・インカムのシステムが働くと、勤労意欲が落ちる」

 そんな指摘が、あった。

 それは、その通りだったろう。

 「いいか、カナメ?これが、ベーシック・インカムの罠だ」

 父親の声がしたような気がした。

 注意すべきは、同居人との、時間調整か。

 タイミングの感じ方に留意できるのであれば、企業ベーシック・インカム生活は、充分すぎるほどに、成立したのだった!

 そのときトシユキは、老人クラブのメグミが教えてくれたことを、思い出していた。

 「ルリコとアヤネとミナ以外は、持ち家住まい」

 ここで、その情報が、役立ちそうだった。

 仮に、1ヶ月しても、ルリコが見つからなかった場合…。

 「渡り鳥に、なってみよう!」

 1ヶ月後は、家賃や光熱費の振込用紙が届くころだ。

 「この部屋を、乗っ取ってしまえば良いんだよ」

 ベーシック・インカムの悪い新計画が、立っていた。

 「神様の、思し召しだな。高校を卒業したら、ここで、5人の生活をすれば良い」

 ちゃっかり、ルリコの通帳を見て、にんまりしていた。

 「おお、このルリコさんは、光熱費などの支払いを、金融機関の自動引き落とし設定にはしていなかったみたいだな」

 好都合なことを、確認しあっていた。

 「コンビニ支払いに、なっていたみたいだな…」

 支払い方法が、わかった。

 「しかし…。マンションの他の住人に、これ以上見られるのも、嫌だな。誰がどこに住んでいるのかわからない世の中になったといっても、女性高齢者の部屋から頻繁に出ていくのは、嫌だな」

 5人は、あまり問題が出ないよう、家賃等のその支払いが終了してから、生活の場所を移そうと計画した。いつの間にか、カナメまで、計画に乗せられていた。

 「早く、卒業したいもんだ」

 「そうだな」

 「良い夢を、見たいよな」

 「卒業後は、神の生活だ。情報を得ておいて、良かった」

 「そうだな」

 「これが本当の、空き屋活用だ」

「俺たちは、良いことをしようとしているんだ」

 「あるいはな」

 それから、3日後。

 怪しまれないよう、一旦、長期休暇を中断して学校に戻ったカナメたちは、嫌な事実を知った。

 転校生のタマキさんが、3日前から、学校を休んだいたというのだった。

 「病気で、休校なのかな?」

 他人の休みはとやかく言えなかったはずのカナメたちも、驚いた。

 そして…!

 それと同時に、また新たな事件が、起こされた。

 「なぜ、このタイミングなんだ?」

 トシユキは、助けを求めるように、口をゆがめていた。

 トシユキの話によれば、駅前の商店街通りを入ってすぐ右側にあった空き家に、こんな怪しい施設ができたとのことだった。

 「蜂一号・シルバー斡旋所」

 新たな事件の、はじまりか…?

 「トシユキ?新事件かもな。空き屋活用にでも、なるのかな?」

 「たぶん、な」

 「良いことじゃないか」

 「カナメ?何の、斡旋所なんだろうな?」

 「またか。だから、シルバー人材斡旋なんだろう?」

 「それはそうだろうけれど、なあ…」

 「不気味な、ネーミングだよな」

 「トシユキ?そんなに、不気味か?」

 カナメの言葉に、トシユキは、恐れた。

 「その斡旋所の事務所で働いていたっていう人も、高齢者ばかりなんだそうだ。それってかなり、不気味じゃないか?若い人がいても、良いはずなのにさ」

 「そういうこと、だったのか」

 「カナメ。ぼんやりするな。良く、聞いてくれって」

 トシユキに、手を合わせられてしまう始末だった。

 「ああ」

 「謎の斡旋所なんだぜ、カナメ?怪しさ満点の、施設だ。新しい事件の始まりに、なったんじゃないのか?」

 声が、上ずっていた。

 「え?」

 「だからきっと、事件なんだよ。あのさ、カナメ…。その、何一号だっけ」

 「蜂一号」

 「ああ。怖くて、怪しすぎるんだよな」

 「そんなにも、怪しいのか?」

 「施設の運営内容からして、不明だ」

 「運営内容、か?」

 「そうだ。夜、近くを通ったときには、中で、明かりが灯っていた」

 「そりゃあ、じゃない結構じゃないか」

 「だがな、カナメ」

 「何?」

 「それが、怪奇現象なんだ」

 「だから、何が」

 「その斡旋所の明かりが、ロウソクの火のように、ゆらゆらと、ゆらめいていたんだ。危険な香りが、ぷんぷんだぜ」

 「そうか…」

 いい加減な怪談をする少年のようになっていた。

 「あのさ?そこの事務所には、どういう人が働いていたのかな?」

 恐る恐る、聞いていた。

 「そんなにも、あそこで働いている人を、知りたいのか?」

 トシユキが、念を押すように言ってきた。

 「うん」

 「実際にそこにいったわけじゃないから、良くわからないが」

 「良くわからないが?って、トシユキ?何だよ、それ?」

 「良くわからんものは、わからん。広報には、所長エモトとあって、怖かった。それだけだ」

 「それで、わからないくらいに、怖かったのか?」

 「ああ。あそこには、たしか、受付の女性はいたけれど、所長なんて人は見たことなかったからな」

 「それは、怖いな」

 「普通、斡旋所を開くときには、斡旋所の入口で所長がビラでも配っていたりしても、良さそうなのにな」

 「偏見だろ。トシユキ?」

 「そうか?」

 トシユキが、言葉を溜めた。

 「本当に、所長さんなんて人が、いたのかなあ?広報にも、顔写真すら、出ていなかった」

 トシユキの話は、どんどんと、怪談に陥っていった

 「ああ。それでな、カナメ?その所長の他に、トライチ、ヒコザエモンっていう名前も、あったぜ」

 「何だって?今の、名前…。トライチに、ヒコザエモン?」

 「そうだ」

 「それって、本当なのか?」

 「ああ。それって、お前が言っていた、名前だよな?」

 「そうだ」

 「その名前が、はっきりと、書いてあったんだ。これは絶対に、偶然なんかじゃない気がするぞ!」

 「そうだ。偶然なんかじゃあ、なかったんだ!」

 立ち上がって叫んでいた。

 カナメは、高校の昼休み時間、持参していた弁当には手をつけずに、すぐに、その斡旋所へと向かった。

 さすがは、優雅な昼どき。幸い、人通りは少なかった。

 斡旋所にいくのに、自転車で、それほど時間はかからなかった。

 「しかし戻ったときには、確実に、遅刻だな…」

 が、仕方なかった。それよりも彼は、この奇妙な事件の謎を解きたい衝動に、駆られていた。

 「解いてやるんだ!振り払ってやるんだ!この、謎。この、もやもやを」

 自転車をこぐ足は、止まらなかった。

 「いくぞ!」

 この謎が解けなければ、転校生タマキさんの元へ、神様、女神様の元へ、本当のトランスファーの元へ、そして小学生の頃に聞きたかった言葉の秘密へと、たどり着けないような気がしてきた。

 「負けないぞ!努力してやるんだ!」

 蜂一号・シルバー斡旋所に着くと、新人OLかと思ってしまいほど若い、ユウカという名前の受付女性と会った。

 「ああ。あのお2人でしたら、洋館に、向かわれたようですよ」

 優しく、教えてくれた。

「洋館?」

 「ええ。そうみたいですけれど」

 「洋館トランスファー、ですよね?」

「え?さあ。洋館の名前までは、私、わかりませんけれど」

 「そうですか」

 「ごめんなさい」

 「いえ。もう、何となく、わかりましたから」

 「そう?」

 「はい」

 そう言うなり、自転車を飛ばしていた。

 ユウカという名の受付の子は、どこの洋館のことなのかは詳しく言っていなかった。が、この近所で洋館といえば、あの洋館のことに違いないと、確信が出た。

 「あれ?あのときとは、違うぞ?」

 そのときは、商店街を抜けたところには、何も広がっていなかった。

 「タマキランドは、どこにいっちゃったんだ?まあ、良いか…」

 消えたテーマパークに、愛情は感じられなかった。目の前には、もう、洋館トランスファーが立ちはだかっていた。

 「タマキさんは、ここにいるのだよな?」

 入口門に、息を切らして、目をやった。

 「ピンポン」

 返事が、なかった。

 「ピンポン、ピンポン」

 …。

 無言卓球とは、このことだったか。

 …。

 反応が、まるで、なかった。

 洋館の入口門を、よく見てみた。

 「あ」

 門の下部、彼の膝あたりに、パソコンか何かの機械的な文字で何かが書かれ紙が貼ってあったのに、気が付いた。そこには、こう書かれていた。

 「ルリコさんは、神なる老人として崇められるために、川沿いにある空き家へと、お帰りになりました。もう少しすれば、確実に、神となられます。老人は、ご高齢者様は、神なのでございます」

 読んだ途端、寒気が走った。

 「うわあ」

 どういうことだったのだろうか?

 「やはり、老人は、神だったのか?」。

 しかし…。

 そのときは、そんなことを言っている場合では、なかった。

 とにかく、川沿いだ。

 「川に、いくぞ」

 川沿いにあった空き家へと、急いだ。

 そこは、カナメもの良く知っていた場所だった。

 去年の夏、高校の友人らと集まってキャンプファイヤーをしたときに、訪れていた場所だったのだ。

 その空き家には、調理道具などをしまうために、何度も、入っていた。

 「今回も、入るのか…」

 今回は、気が引けた。

 「不法侵入のようだな…」

 近隣への迷惑とならないようにだけ、祈っていた。

 「ガラガラガラ…」

 一軒家のような空き家の入口扉を、勝手に開けていた。

 思った通りだった…。

 鍵は、かけられていなかった。

 「うん、良いぞ…」

 去年の夏のときと、同じだった。

 空き家の中は、思っていたよりも、狭かった。

 というよりも、空き家の外壁が、分厚かっただけなのか。

 6畳一間が、中心にあった。

 その部屋のまわりには、薪置き場やら、かまどやら、五右衛門風呂やら…。

 「相変わらず、汚いな」

 呆れた。

 「今どきの若い世代の子が見たら、カルチャー・ショックを、起こすんじゃないかなあ…」

 とりあえず彼は、6畳間に上がってみることにした。

 もう、完全に、午後の高校授業放棄時間だった。

 「こ、これ!」

 部屋の中を、見渡した。

 「おお」

 …ひるんでしまっていた。

 部屋には、祭壇らしきものが置かれ、かわいい猫のぬいぐるみが、その際壇上に、ちょこんと座らされていたからだ。

 「何だよ…これ…?」

 猫、か…。

 「え?」

 猫のぬいぐるみの胸には、ワッペンが付けられていた。

 「ルリコ」

 そう、赤い字で書かれ…。

 「おい、おい」

 ワッペンには、赤いインクのようなものまで、べっとりと、付けられていた。

 「ルリコ、さん…?」

 猫が、不憫だった。

 「悪趣味だなあ」

 頭が、クラクラしてきた。

 とりあえず、高校へ戻っていった。

 午後の授業は、遅刻の上、クラスメイトの顔を見るのが怖い時間を過ごした。

 そして、放課後。

 彼は、再び、商店街の先の洋館トランスファーへと、いってみた。

 すると次は、入口の門に、こう書かれた紙が貼ってあったのに気付いた。

 「これから、空き家アプリケーション制度をはじめることにします。社会は、残酷。空き家活用は良いのですが、高齢者と若い世代を一緒に生活させることには、危険が伴いかねないからです。そこで、空き家アプリケーション制度をはじめるのですね。空き家アプリケーション制度は、世代差の生活危険を回避させる対策です。神様の空き家生活の怖さを、理解してもらいたい」

 そんなわけのわからない字が、絶妙に踊っていた。

 長文だった。

 こう、続いていた。

 「注意してください。絶対的に、注意してください。空き家の持ち主である神なる高齢者と、それを活用する、若い世代サイド…。注意してください!その両者の間には、少なからず、心の葛藤やせめぎ合いが、起こっていたということを!」

 それを読んで、しばし、考えさせられていた。

 「たしかに、そうかもなあ」

 まだ、続きがあった。

 怨念の長さにも、感じられた。

 「高齢者たちは、若い人たちに、こんな疑問を抱きがちでした。何もしないで金を受けとって暮らせた若者は、弱い心の持ち主ではないのか、と。それにたいしてあなた方若い世代は、そういう高齢者にたいして、こんな疑問を抱きがちでした。空き家という不良債権を生んでおきながら、それをほったらかしにして、次世代に押し付けた。あなたがたこそ、弱い心の持ち主であって、浅ましい心の持ち主だ。そんな神様に、言えたことか。神である高齢者など、いらない。消えてもらわなければならない、と」

 何も、言えなくなってきていた。

 「心の、対立。高齢者世代と若い世代を一緒に生活させることは、危険なのです。どうです?おわかりでしょうか?このままでは、双方の世代で、殺し合いになりかねません」

 …おお。

 ド直球…。

 「そこまで、言うか?」

 まだ、続いていた。

 「さあ、今こそ、空き家アプリケーション制度を開始しなければなりません!」

 こそばゆかった。

 「高齢者も若者も、どちらの世代も、友達という言葉が、良く似合います。友達ありきの世代。知らない人には関われなくても、友達となら、仲良くできます。若者は、神に近付ける権利をもちました。これは、その性格を利用した、なかなか、良き制度ではないでしょうか?」

 …。

 「この紙が、契約書です」

 …?

 紙を、注意して見た。

 「あ!ここだ!」

 その紙の下部には、サインを書き入れる欄があった。

 「契約書にサインをした後で、この門の横に設置されているはずのポストに、投函してください。お助けBI事務所まで、こちらが、責任をもって送ります」

お助けBI事務所…?

 聞いたことのない、事務所名だった。

 「まさか…変な通販に丸め込まれたんじゃないだろうな?」

 ただならぬ、不審感。

 「これから共同生活を始める、高齢者に、若い人…。心の行き違いにより、必ずや、いがみ合いが起こされます。最悪は、殺し合いが起こされるでしょう。それによって、どちらかの世代の命が消えてしまうことも、あるでしょう」

 …!

 「そこで、どちらかの命が消えたら、また、新しい気持ちで、新しく契約をしてください。契約のやり直しのため、あなたが新たな気持ちを取り戻せたときには、この門に、新たな契約書が貼られることでしょう。その手続きを、忘れずに。それが、この空き家ベーシック・インカム生活を続けるための、条件です。1つの命が消えてから、3日以内に再契約していただけなければ、空き家ベーシック・インカム生活は破棄されたものと、見なされます。あなた方若い世代の友達が、1人、消えます。ただし、失踪通告を受けていた高齢者を1人1人発見できれば、ベーシック・インカム生活は、継続可能とします」

 恐怖でしか、なかった。

 「特に、この紙を見ているあなたの、最高の友が、消えるでしょう」

 身体のすべてが、凍ってきた。

 その貼り紙を見た、翌日。

 恐ろしいことが、起こった。

 「トシユキ?急いで、どこにいくんだ?」

 「トイレだよ」

 他愛のなかった高校生会話の、すぐ後だった。

 トシユキが、トイレに入ったきり、出てこなくなったのだ。

 「どうしたんだ?」

 高校のトイレの中に、人の気配は、まるでなかった。

 「トシユキ…?」

 姿は、どこにもなかった。

 消えてしまったのだ!

 「トシユキ!」

 神隠し、高齢者隠し高齢者の如きで、大失踪だった。

 それと同時に、カナメの携帯電話に、老人クラブから連絡が入った。

 「…電話番号、教えていたっけ?まあ、良いか」

 「大変です!」

 「メグミさんですか?」

 「はい。老人クラブの、メグミです」

 「カナメといいます。何が、あったんですか?」

 「いなくなっていた高齢者男性のシイスケさんが、遺体で発見されたそうです!警察からの連絡で、わかりました!」

 「いつもの警察のウソじゃあ、ないんですか?」

 「いえ、本当のようです」

 「ええ?」

 「警察も、本当のことを言うことがあったんです!」

 「隠ぺいじゃあ、ないんですか?」

 「でも、今は、信じるしかありません」

 まわりは、失踪したトシユキを捜したり、シイスケさんの葬儀をおこなったりで、大慌てとなった。

 忙しき高校生活と、なっていた。

 空き家の規定を、思い出した。

 「1つの命が消えてから、3日以内に再契約していただけなければ、空き家ベーシック・インカム生活は破棄されたものと、見なされます。あなた方若い世代の友達が、1人、消えます。ただし、失踪通告を受けていた高齢者を1人1人発見できれば、ベーシック・インカム生活は、継続可能とします」

 その規定の後半は、救いだった。

 「まるで、ベーシック・インカムじゃないか?って、今はやめよう」

 老人クラブと、連携した。失踪していた高齢者の捜索に、熱を上げた。

 3日以内の再契約期間は、すぐに、過ぎてしまった。

 「どうしよう!」

 「何?」

 「再契約の期間は、過ぎていたぞ!」

 プルルルル。

 老人クラブから、連絡が入った。

 「カナメー!今度は、マコトさんが見つかったそうだ!」

 なぜか、タカミに連絡が入ったようだ。

 また、3日が経ち…。

 「今度は、どういうことだ?」

 マコトさんは、またも、いなくなってしまったという。

 「な、なぜなんだ!」

 プルルルル。

 「な、何だよ?」

 着信が、怖くなってきていた。

 「カナメー!今度は、アキヒロさんが見つかったらしいよ!」

 ソラが言って、恐るべきことが続いた。

 高齢者専門のどこかのTV番組のレポーターが、謎の事故死を遂げたというのだ。

 「高齢者と、関わったからだ!」

 「触らぬ神に、何とやら!」

 わけが、わからなかった。

 「なぜなんだー!」

 メグミさんによれば、老人クラブでは、こんな不満がたまっていたそうだった。

 「若い奴らがしっかりしてくれないから、わしら高齢者は、消えていくしかなくなったんじゃ!」

 「そうだ!」

 「若い奴らなんか、死んでしまえば良いんだ!」

 若者は、これに、猛反論。

 「高齢者の、暴挙だ!」

 「病的思想だ!」

 両世代の言動は、ゆれ続けた。

 「勘弁してくれんかね?年金の受給額が、少なくなっていく。冗談じゃない!若い奴らは死んでも構わんが、わしらだけは殺すな!誰が、この平和な国を作ってやったと、思っておったんじゃ!」

 そう言われてしまった若者世代に、怒りの灯がともった。

 「高齢者ども、め…。これが、神様の本音か!」

 殺意が、芽生えていった。

 が、何もできなかった。

 高齢者は、数が少なく何もできなかった若者を見て、憐れんだ。

 「困ったのう。我々を何とかしようと、無駄な努力を、したからじゃよ。そんなことだから、満足に、就職もできなくなったんじゃよ。かわいそうに。ははは。かわいそうに。ああ、かわいそうじゃ」

 どちらの世代も、焦り出した。

 「そうか…!」

 ここでカナメは、頭を働かせた。

 悪魔通販というネットサイトまで、新社会人男性に似せたかわいいぬいぐるみを発注して、それを、自らの友達と見なしたのだ。

 「死亡」

 そう書かれたワッペンを付けて、ぬいぐるみ部屋に置いた。

 「友達が、死にまし。神様!!これで、許して!」

 そういうことにして、ぬいぐるみ部屋の中を、落ち着かせていた。

 「今度は、何だ?」

 翌日、予想外の光景を見た。

 「テイゾウから、かわいい子どもたちへ」

 赤い字でそう書かれたワッペン付きのぬいぐるみが、加わっていたのだ。

 「…どういうことだ?テイゾウっていう人も、この方法に、気付いたとか…。そういうことなのか?」

 実は、それは、戒めのぬいぐるみだった気付けたその方法は、神の領域を侵犯した、やってはならないことだったのだ。

 「トシユキは、永遠に、戻さない」

 そのぬいぐるみが、しゃべった気がした。

 「もう、嫌だ」

 洋館トランスファーに、戻った。

 入り口門には、何の紙も張られていなかった。

 佇む彼の前に、子どもたちが現れた。

 「俺は、ユウタ」

 「俺は、ショウ」

 「私は、マホ」

 「…?」

 3人が、自己紹介をしてきた。

 「あなたがやったことは、ルール違反だから」

 「…?」

 「何が、ルール違反だったんだい?」

 そう聞くなり子どもたちは、すぐに、どこかにいってしまった。

 「誰だったんだ…?」

 ルール違反行為とは、何だったのか?

 「やめよう」

 友だちに見立てたぬいぐるみを置くような考えを、放棄した。

 だが、老人クラブに残された他の高齢者らは、それを、やめなかったようだ。人間を模したぬいぐるみが、増えていた。

 「何?こういうのは、やっちゃダメなんだろう?神様?」

 答えが返ってくることは、なかった。

 プルルルル。

 そのとき、老人クラブから、彼の携帯電話に連絡が入った。

 「私です!メグミです」

 「はい…?」

 「失踪したと思われていた男性グループの人のうち、1人が見つかりました!」

 「それって、本当ですか?」

 見つかった男性は、テイゾウ。

 「良かったですね!」

 「でも、大けがよ」

 「けが?」

 困ったことにテイゾウは、顔に、大きな傷を創っていたらしかった。

 「メグミさん?何が、あったんですか?」

 「それが、聞いても、答えてくれなくって…」

 「どういうことです?」

 「高齢者って、教えてくれないのよ。面倒…」

 「まあ、気まぐれな神ですからね」

 「たぶん…テイゾウさんは、記憶喪失よ」

 「記憶喪失?」

 カナメは、一旦通話を終了させて、洋館トランスファーへ走った。

 「着いた…」

 入り口の門に、新しくこう書かれた紙が貼ってあった。

 「アヤネさんも、神なる老人として祀られるため、川沿いの空き家に戻られました」

 まただ…。

 暗くなっていた中、携帯電話の出す明かりを頼りに、川沿いの空き家へと、向かった。

 自転車に乗って商店街ロードを、抜けようとした。

 「あら?」

 そのとき、蜂一号・シルバー斡旋所の受付女性と、目が合った。

 「ユウカさんと、言ったっけ…」

 女性は、たまたま、外に出て、出入り口をほうきで掃いていたところだった。

 「何か、お探しものでしたか?」

 「いえ」

 「気を付けてね」

 交わした言葉は、それだけだった。

 それどころではないと感じて、彼女を無視して、自転車の速度を上げた。

 「まさか…!」

 その、まさかだった。

 空き家の祭壇部屋の潤いが、増していた。

 「アヤネ」

 また、赤い字でそう書かれたワッペンを胸に付けられた犬のぬいぐるみが、置かれていた。足が、ガクガクしてきた。

 ただ今回は、明らかに、前回と違うことが起こっていた。

 祭壇の、どこかから…。こんな声が、してきたのだ。

 「老人は、神様なのです。神様は、祀りましょう」

 「誰だ?そこに、誰かいるのか?」

 アヤネのぬいぐるみ祭壇の足元にかぶせられていた赤い布を、はぎ取った。が、誰もいなかった。

 「…これは!」

 遠隔操作が可能なテープレコーダーが、仕掛けられ、回っていた。

 「タイミングが、合いすぎだろ!」

 すると、また、声がした。テープレコーダーが、回り出したのだ。

 「老人、高齢者様は、私たちのために、一生懸命に働いてくださいました。今、私たちを蹴落とせる権力をもったあの方々は、神です。神なのです。ですから、祀らなければなりません」

 まさか…。

 「ひょっとしたら、ぬいぐるみ自体に、何かが仕掛けられていたんじゃないか?」

 声を出さずに、近付いた。

 「そこか?あ…!」

 ぬいぐるみの背中側に、電極とセンサーが見つかった。

 「これは…!携帯電話と共鳴させて仕掛けるという、あの装置か!」

 以前、高校のどこかでそれと似た装置を見たことがあったので、すぐにわかったのだった。

 「間違いないな」

 それは、携帯電話の電波と共鳴させる装置だった。

 携帯電話は、今のこの時代、この国なら、ほとんどの高校生がもっていた。特に、カナメのように学校を抜け出して走るような生徒は、何らかの連絡が入ることを予期してか、それを手放さずにはいられなかった。

 その状況では、カナメが、携帯電話をすぐにわかる場所にもっていることは、予想できていたはず。案の定、カナメは、制服のポケットに、それを入れていた。それが予想できたうえで仕込まれた、携帯電話タイマーだったのだ。

 「これって…」

 それはいつだったか、誰かに、高校で見せてもらったことがあった物…。

 「そうだ!」

 ある人物のことを、思い出せた。

 「あいつか!」

 震えた。

 「こんなことができたのは、機械いじりの好きな、あいつしかいないじゃないか!」

 プルルルル…。

 すぐに、電話をかけた。

 幸い、クラスメイトの連絡先は、アドレス帳に保存しておいた。

 「はい」

 ソラは、すぐに出てくれた。

 「何、カナメ?携帯で…」

 「…お前。ぬいぐるみに、細工をしただろう?」

 「はあ?ちょっと、何?何を、言っているのよ」

 「あの老人…。老人、高齢者…まあ、どちらでも良い!」

 「カナメ、何?」

 「お前!」

 「だから、何よ?」

 「老人は神だとか、言って…!」

 「そりゃあ、まあ、老人は神に違いないけれどさあ」

 「そういうことを聞いていたんじゃあ、ない!」

 「じゃあ、何?」

 「だから、ほら、転校生の…」

 「タマキさんのこと?」

 「ああ、そうそう」

 「名前くらい、覚えてあげなさいよう」

 通話は、そこで切れてしまった。

 少し、考えていた。

 電話の向こう側では、ソラが、変な詐欺にかかってしまったかのように思っていて、頭を悩ませていた。

 「…とりあえず今は、洋館にいってみるしかない!」

 彼はまた、洋館まで自転車を飛ばした。

 はあ。

 洋館の入口に、着いた。

 今度は、門に、こう書かれた紙が貼ってあった。

 「次は、ミナ様を祀ります。当然のことです。あの方々は、神なのですから」

 状況は、芳しくなかった。

 「高校まで、戻ろう!けど…あれ?」

 何だろう、この気持ち。

 高校に戻った後、肩すかしを食らったようになった。

 「そうだ。タマキさんは、高校を休んでいたんだったよな」

 転校生のタマキさんは、はじめにルリコおばあさんが神として祀られた日から、姿を見せていなかったわけだが…?

 「タマキさんが、心配だな…」

 案じるしか、なかった。

 その日の放課後、また、洋館に向かってみた。

 「ピンポン、ピンポン」

 …返答が、なかった。

 「タマキさーん?あ!」

 洋館の入口門に貼ってあった紙の言葉が、また変わっていたのに、気付かされた。ずいぶん、長く書き足されていた感じだった…。書かれていたことを、読んでみた。

 「さあ。高齢者様、老人を、神として祀っていきましょう。神である老人を、祀りましょう。さあ、祀りましょう。祀りましょう。ナツヨ様も、祀りましょう。彼女は、山で待っております」

 そうして、続いていた。

 「あの方々は、偉いのです。神なのですから。祀られるのは、当然なのです。これらはすべて、みなが仕組んだことです。さあ、もっと、もっと、敬ってあげてください。もっと、もっと、あの方々に、年金を出してさし上げてください。たとえ若い世代が苦しくて死んでいったとしても、神であるあの方々には、若者を蹴落としてまで生きる権利があるのです。老人は、偉いのです。神なのですから」

 まだ、続いていた。

 「あなたは、やってはならないことを、やってしまいました。ルール違反の罰として、友達を、いただきました。お大事に」

 震えが、きた。

 「まさか!トシユキのこと、か?」

 楽しかったはずのベーシック・インカム生活を懐かしみ、一方的に、終わりを告げられた感じになった。

 「…トシユキ」

 泣いた。

 「…トシユキ」

 涙が、止まらなかった。

 顔を上げると、変化が見られた。

 「言葉が、成長しているぞ!」

 新たな文は、こう結ばれていた。

 「あの方々を、神として祀り続けてください。高齢者を敬い続けられれば、あなたが失った友達は、復活するかも知れません。ですが、空き家は、満杯になってしまいます。そうすれば、祀る場所を変えなければ、なりません」

 何だ、これは…。

 「トシユキは、復活するのか?祀る場所を変える、だって?」

 その紙は、本当は、何を伝えようとしていたのか…?

 「ちょっと、これって!」

 さらに先を、読んでみた。

 「仮に今の場所がいっぱいになってしまえば、祀る場所を、替えていかなければなりません。ただし、祀るのは、空き家でなければなりません」

 …何?

 「やっぱり、空き家で祀らなければならないのか?これから、新しい空き家を探すと、いうのか…?」

 新しく、恐れた。

 が、すぐに、我に返った。もう、高校に戻らないといけなかったからだ。

 「…やばいな。これは、怒られるぞ」

 学校に戻ろうと、振り向いた。

 「最後に、あの祭壇部屋を確認してから、帰ろう!」

 祭壇部屋にいくと、変なものが、視界に入った。

 「あ、何だ?何かが、増えている気がする…!」

 空き家の祭壇部屋に、今度は、クマのぬいぐるみが、置かれていたのだった。

黒い麦わら帽子をちょこんとかぶり、胸には、今度は黒い字でこう書かれたワッペンが付けられていた。

 「ナツヨ」

 ずいぶんと、強い意志の、付けられ方だった。

 「これは、ひどいな…」

 ナツヨのぬいぐるみの目は、つぶれかけていた。

 ワッペンが付けられていた部分からは、赤い何かの液体が、力強く流れ出ていた。

 「こんなの、いつ…?」

 不憫に思いながら、流れ出ていた赤い液体を、触ってみた。

 「ペンキか?」

 その場所を手で、こすってみた。

 カチカチだった。

 その様子から、ぬいぐるみが置かれて、そこそこ時間が経過していたとわかった。

 「時間が、経ちすぎたのか…?」

 手が、萎えた。

 「いや…。そうとは、限らない」

 かぶりを、振った。別の場所でぬいぐるみにペンキを付けて、それが固まったあとで、ここに運んだ可能性もあったからだった。

 「しかしなあ…気味が、悪い」

 そのアリバイ崩しは、あたかも、未熟なる小さな小さな探偵少年を揶揄していた。

 「これは、いつ、ここに運ばれたんだ…」

 すると、彼の背後で、音がした。

 「ピシ」

 …?

 「誰か、いるのか?」

 が、それきり、音はしなかった。

 「気のせい、か?何だ?」

 彼の足下を、カエルか何かが跳ねて、走っていった。

 木々が、構ってもらいたいかのように、ゆらめいた。

 「マジか…」

 風が、強さを増した。木々が、うねりを上げてゆらめくような、大雨になってきた。

 カエルがいたのも、当然なのかもしれなかった。

 風と雨が、怒り狂っていた。

老人クラブのある商店街も、大変だったろう。アーケード看板が倒れてきても、おかしくはなかった。アーケードの天井も、古かったはず。古い建物であったなら、天井の崩落も、考えられたはずだった。

 商店街の老人クラブには、被害が出なかったのか。

 不安で、ならなかった。

 そこで事務局長をしていたチヒロさんのことを、思い出してしまっていた。

 なんだか、複雑だった。

 「こんなときに…」

 こんなときに、向けるべき愛情が、タマキさんからチヒロさんに変わってしまったかのように思い、情けなくなってしまった。

 「こんな愛情転移をしている自分自身が、情けなくなっちゃうな…」

 眼差しを、無理矢理にでも変えてみた。

 「クマのぬいぐるみ、だったよな。クマといえば、山。山にいった高齢者がいたと、言っていたっけ…」

 老人クラブの1人、ナツヨさんのことを、思った。

 「山で、クマに襲われなければ、良いがな…?」

 …怖くなった。

 それから、高校に戻った。

 「カナメ!お前は、どこにいっていたんだよ。遅刻、遅刻」

 「放課後に、出かけすぎよ!」

 「放課後の魔術師、か!」

 帰宅せず残っていたクラスメイトには、散々に、言われた。

 分の悪い思いで、帰宅した。

 「ただいま」

 「お兄ちゃん、遅い。今日は、私のほうが、速かったわね」

 「放課後の魔術なんて、言われちゃった…成長して、遅くなったんだよ!」

 「さあ、どうだか?」

 「成長への道も、多難だな」

 「山登りにでも、いったみたいな、言い方ね」

 「お前…。なぜ、それを?」

 「クマにでも、殺されなかった?」

 「ちょっと、お前…!」

 「何でも、ないよ」

 中学生になったばかりの妹も、怖かった。

 妹は、中高一貫校に入学していた。

 「しっかり生活していれば高校受験は無いに等しくなるので、プレッシャーもなく、楽しく中学生生活を送ることができるから」

 そんな理由で、入学したらしかった。

 「あいつこそが、神なんじゃないのか?」

 困惑の心情、だった。

 「我が家の女神様、帰宅が遅れてごめんなさい」

 妹の怒りを静めるべく、謝っていた。

 「あらあら、いやねえ。素敵な我が家に、遅れちゃうなんてね。努力してまで入った学校で、何かの事件にでも巻き込まれちゃったのかしら?」

 妹は、くすくす笑っていた。

 「努力してまで入った学校で」

 その言い方は、大いに気に入らなかった。

 「お兄ちゃんは、私が、うらやましいでしょう?エスカレーター式で、高校に上がれるんですから。努力をして高校に入っちゃったなんて、ダッサイ。私なんか、もう、神様。女神様よ?」

 頭にきた。

 「これが、新しき女神の姿なのか?」

 不安でも、あった。

 「エスカレーターで雲の上に上がれちゃう私たち神は、新しい友達をつくったりする必要もなし。高校は、中学校のときと同じ仲間ばかりだもん。新しい社会に入って、いちいちあいさつしたりするのは、無駄よ。時間と労力の、無駄。そういう無駄な努力をしなくていいからこそ、私たちは、神様みたいなものなのよね」

 そうまで、言われた。

 「お兄ちゃんの良い友達って、誰だったっけ?」

 「何だ?トシユキの、ことか?」

 「ああ、そういう名前の人だったね」

 「トシユキが、どうかしたのか?」

 「何でも、ないよ」

 「まあ、良い!努力は、無駄じゃないんだからな!」

 小さく、反発していた。新しい女神様は、プリプリいていた。

 「ちょっと、また、出かけてくるよ」

 「えー?お兄ちゃん、またあ?」

 「自転車の、点検だよ」

 「あ、そう」

 外には、虹が出ていた。雨は、止んでいたのだ。

 本当は、洋館を目指して、自転車を飛ばしていた。

 「タマキさーん!」

 トランスファーの入り口門の呼び鈴を鳴らし、中にいるであろう愛しき女神様に、声掛けをし続けていた。

 「ねえ?どうして、学校にきてくれなくなっちゃったの?」

 …。

 「タマキさーん!」

 …。

 「誰も、いないのか?明かりは、ほんの少し、点いているのにな」

 無言のトランスファーに背を向け、空き家にいってみることにした。

 そのときにはもう、安心して自転車を漕げるくらいに、地面のぐちょぐちょも少なくなってきていた。

 そこにいく勇気も、出てきた。

 クマのぬいぐるみを空き家に運んだ犯人と会えれば、なお、良かったのだが。

 「タマキさーん!」

 足下に気を付けながら、あの空き家を目指した。

 キコキコ…。

 「良く考えれば、どうして、空き家なんかを、目指しているんだろう?空き家の本当の存在意義って、何だろうなあ?本当に、何をやっているんだろうか。自分のやっていたことが、自分でも、わからなくなってきちゃったな」

 そう思う度に、自転車はスピードを速めていった。

 「また、ここにきちゃったな」

 空き家の祭壇部屋を、見渡した。

 そのとき、だった。さざめく、得体の知れない寒気が走った。

 心のどこかが、ぞおっとしていた。

 「…もういい!悪趣味だ!」

 学校へと、自転車を漕ぎ出していた。

 外で、音がしてきた。その音が、強くなってきた。

 「没、没…」

 そんな雨音の鼓動は、ぐしゃぐしゃに、変わってきていた。

 「また、雨か」

 なんだか疲れた彼は、その日は、すぐに帰宅することにした。

 雨音が、轟音となっていった。

 「没、没、没…!」

 没没が、復活してきた。

 家で、TVのニュース番組をつけた。思った通りに、町に強烈に降り始めた雨の様子が、伝えられていた。

 「こちら、現場です」

 女性レポーターが、言った。

 ある町が、映し出された。雨に、押しつぶされた町…。

 「…え?」

 画面を、見つめた。

 「おいおい、この町じゃないか!」

 超、ゲリラ豪雨になっていた。レポーター女性が、叫んだ。

 「ゲリラです、ゲリラ!この町に降った予想以上のゲリラ豪雨で、山あいに建っておりました家が一軒、押し流された模様です!住民とは、未だ、連絡がとれず!ただいま救急隊を入れ、確認を急いでおります!警戒を、続けてください!雨は、今は収まってまいりましたが…あ、高齢者の1人住まいだということです!細かい確認を、急いでおります。どうか、警戒を続けてください!高齢者は、危険です!あまりに関わりすぎてしまえば、我が先輩のように…。いえ、何でもありません。皆さん!非難してください!」

 家族が、恐れをなした。

 「1人暮らしでなくて、良かったよ。1人暮らしだとなあ、どうしても、連絡がとりにくくなっちゃうんだよなあ」

 父親が言って、母親が、こう返した。

 「そうなのよねえ。だから1人暮らしは、怖いのよ。高齢の方なら、なおさらじゃないのかしら?」

 「老人は偉いだとかなんとかは、こういうときには、言ってられないよなあ」

 夫婦の会話が、つながった。

 「そうよねえ」

 「俺たちには、何もできん。見ているだけだ。老人は神様だから大切にしなけりゃならないが、こういうときには、なかなか助けてもらえないなんてな。それを見ている俺たちって、何なんだろうなあ」

 「あなたも、気を付けてよ」

 「わかっているさ」

 「わかっていないから、そう言えるんじゃない」

 「お前は、手厳しいな」

 「あなたも、高齢者になるんでしょう」

 「まあね。…カナメは?」

 「2階に、上がっていったわ」

 1階の居間に流されたTV中継が、冷たすぎた。

 「現場から、お伝えいたしました」

 あっさりとした声が、聞こえてきた。

 「これだけなのか?」

 1階の居間、TVの前に引き返すと、高齢男性の司会者が、大きく映っていた。

 「以上です」

 他人事のように、冷たく応じていた。

 「まだ、警報は解除されておりません。注意してください」

 棒読みを、続けていた。

 そのすぐ横に座っていた解説者のおじさんが、こともあろうか、見えない程度のあくびを始めていた。

 さらにその人の横にいた、サポート役の若い司会者だけが、皆に知らせようと、危機感をもって先を睨んでいた。

 「この災害を、甘く見ないでください!小さな油断が、命取りになるのです!これまで我々は、それを経験してきたはずです!社会のひずみが、我々の生活を脅かすのです!我々には、それが、わかっているはずです!」

 が、おじさんたちには何のことかわからず、他人事のように座っていただけだった。

 画面が、切り替わった。

 「あ。住人がわかった模様です!」

 若い方の人が、反応していた。

 「押し流された家の中で連絡がつかなくなっていたのは、高齢女性とのことです!ただいま、身元の確認を急いでおります!」

 …。

 高齢者…。

 神様も、流されるのか…?

 頭と心には、寒い予感が巡りっぱなしだった。

 「おい、どうしたんだ?」

 「報道番組を観にきたんじゃ、なかったの?」

 「カナメは、中途半端だなあ」

 「だから、努力なんか、しちゃうのよ」

 「老人になれば、努力しなくても、神になれるのにな」

 「ほんとよね」

 妹が、愛くるしい女神様になった気分で帰宅した。

 「ただいま。すっごい、雨。あれ?お兄ちゃんは?」

 「2階に、上がっていったぞ」

 「今日は、あなたのほうが、遅いのね」

 「うん。だって私、優雅なJC様だから」

 次の日は、朝から、快晴だった。

 が、自転車の進みは、異様に悪かった。雨降って、地は、やっぱりぐしゃぐしゃに戻ってしまっていたからだった。

 「ソラ?」

 「何、カナメ?」

 「タマキさんは?」

 「休みよ」

 「また?あの雨の、影響かな?」

 タカミに、聞いてみた。

 「いや、違うだろ」

 素っ気なさ過ぎた。

 「タマキさんの家、大丈夫だったのかな?」

 「家?トランスファー、か?」

 「うん。そこも、山に面して建っていたから」

 「なるほど、心配だな」

 「心配して、感謝されるかな?」

 「誰にだよ、カナメ?」

 「タマキさんに」

 「こらこら」

 「心配してくれてありがとう、って」

 「ない、ない」

 「だめかなあ」

 「ない、ない」

 「じゃあ、仕方ない」

 放課後になってまた、トランスファーにいってみることにした。

 「うわあ」

 自転車が、進まなかった。

 道は、ぐしょんぐしょん。昨日の雨は、本当にすさまじかったようだった。

 「せっかく、地面が固まってきたのにな」

 残念で、ならなかった。

 「ピンポン、ピンポン」

 洋館の呼び鈴を、鳴らした。

 タマキランドはもう、どうやっても、見えなくなっていた。

 応答は、なし。

 「また、誰もいないのかな…?」

 また、鳴らしてみた。が、同じだった。

 「やっぱり、いないのか…」

 残念だった。

 洋館の入口門には、新たな紙が貼られていた。

 「ご心配なく。老人クラブの老人が完全に神様になるには、もう少しでございます」

 …?

 「意味、わかんないな。タマキさーん!」

 何のことかわからず不安ばかりで、学校に戻っていった。

 「参ったな」

 あの空き家にいってみたのは、その、翌日のことだった。

 次の日もまだ少し、足場が悪かった。タマキさんを思う気持ちは、自転車のように、進まなかった。

 「でも、どうして、いきたくなっちゃったんだろう」

 自転車を、ゆっくりと進ませていた。

 「やっぱり、深層心理では、タマキさんのことが、気になっちゃったのかなあ?」

 不安だった。

 「いや、戻ろう」

 商店街を延びる道を、自転車を手で押しながら歩いていた。ここで、また、気になってきた。

 「やっぱり、いこうか」

 移り気に、洋館トランスファーへ引き返した。

 「タマキさん、本当に、大丈夫だったかなあ?」

 不安も不安に、なってきた。

 「あの雨、だったからなあ。心配だなあ。外に出ないで、ずっと洋館の中にいれば、問題ないはずだけれど。そんなに、上手くはいかないか」

 そうして、またも、叫んだ。

 「タマキさーん」

 洋館トランスファーに、着いた。

 「あれ?文面が、変わっているぞ?」

 洋館の入口門には、いつものように紙が貼られていたが、書かれていた趣きが、ずいぶんと違っていたようだった。

「なに、なに?強烈な雨で、神様は、困っておりました。そのため、神様を、休ませてあげることにしました。空き家に、向かっていただきました。どうか、神様の眠りを妨げないように」

 …まだ、続いていた。

 紙のずっと下に、付け足しが、あった。

 「空き家にいけば、あなたの求めている人が見つかるでしょう」

 頭を、切り換えた。

 「空き家にいけば、タマキさんに…じゃなかった、トシユキに会える!」

 楽しみに、なっていた。

 「タマキさん、…トシユキが、そこにいるはずなんだ!」

 自転車を押して、空き家に向かった。

 「タマキさん、…じゃなかった。トシユキがいなければ、割に合わないぞ!」

 信念めいたものを、生んでいた。

 「着いた!」

 祭壇部屋には、それまでとは違う新しい人形が、置かれていた。

 「でも、違うな…」

 置かれていた人形が、増えていた。

 今度は、2つ、置かれていたのだった!

 「また、いたずらか?」

 まずは、パンダ。

 「悪趣味だ」

 パンダは、ちょこんと、かわいらしく座らされていた。

 そのパンダのぬいぐるみには、ワッペンが貼り付けられていた。

 「ミナ。行方不明」

 相変わらずの、赤い字だった。

 「…あ。何だよ、これ」

 外した視線が、新しい何かを、捉えた。

 そのパンダのぬいぐるみの向かい側奥に、また、別のぬいぐるみの陰が見えたのだ。

 「ヨウコ」

 今度は、緑色の字でそう書かれたワッペンが、貼り付けられていた。

 「今度は、カエルのぬいぐるみか!」

 かわいいかわいい、ぬいぐるみたちだった。

 まるで、おとぎ話に出てくるようなぬいぐるみに、思えた。カエルは、まるで、雨傘をさしてお姫様を舞踏会場にエスコートする家来のような、すがすがしさだった。心を和ませる、ファンタジックなスマイルに、あふれていた。

 「…またまた、ファンタジーだな」

 ぬいぐるみを、良く見てみた。

 ぐっしょりと、濡れていた。

 「…水没かよ!まるで、水槽に浸けたものを、引き上げたみたいだ…」

 何かが、思い出されそうだった。が、思い出せなかった。

 「悪趣味だ!」

 学校へ逃げるべく、自転車を漕ぎ出すしかなかった。

 カナメは気付かなかったが、祭壇部屋には、こう書かれた紙が落ちていた。

 「老人クラブの老人たちが完全に神様になるには、もう少し。まずは、空き家にいってみましょう。お金持ちのヨウコさんにも、祝福を。空き家にいってみてください。そこに、あなたの求めている人も、いるでしょう」

 それに気付かなかったのは、未熟だった。

 「面倒だなあ。こういうのを、タライ回しって、言うんだろうなあ」

 ぶつぶつと、言っていた。

 「ちぇっ」

 空き家の中でも、こう叫んでいた。

 「タマキさーん!」

 なぜ、空き家で、そう叫ばなければならなかったのか?

 「疲れるなあ」

 目が、回ってきた。

 「早く、帰ろう」

 返り道を、急いだ。わけが、わからなくなってきていた。

 「はあ、はあ…」

 とんだ、運動になってしまっていた。

 「タマキさーん!」

 たしか洋館の門には、こう書かれていたはずだった。

 「空き家にいけば、あなたの求めている人がいる」

 それなら、求めていた人、タマキさんが、そこにいなければならなかった。

 彼女がいなければ、どうしても、どうしても、割に合わなかった。

 が…。

 そこに、彼女のいる気配は、なかった。その代わりに、足下を、変な虫が横切った。

 「今度は、何だ?」

 虫…?

 「何で…?」

 いよいよ、気味が、悪くなった。

 「何の、虫なんだよう」

 苦しかった。

 そこで、虫に詳しい、カナトというクラスメイトのことを思い出した。

 カナトは、カナメやトシユキとは違う中学校からの進学者だった。が、2人とは、新学期早々、気が合った。

 すぐに知り合いになれたのには、理由があった。新学期に、トシユキが、こんなことを言ったことが発端だった。

 「この虫、何だろうな?」

 カナメに、スマホ写真を見せていた。これが、素敵な出会いの始まりとなった。

 見せたスマホ写真は、トシユキ撮影によるものだった。そのとき、横から、興奮の声が上がった。

 「あ、それ。ちょっと、見せてもらっても良いですか?」

 そう言ってきたのが、カナトだった。

 「君、わかるのかい?」

 トシユキが聞くと、カナトは、言った。

 「たぶん」

 軽く、うなずいていた。

 「これは、害虫だ」

 即座に、返してきた。

 そこで、その害虫の駆除方法を、ネットで検索。

 2人プラスカナトの3人は、放課後にコンビニで、専用殺虫剤を購入。

 すぐに、事なきを得た。

 「これで、助かったよ」

 「すごいなあ!」

 「いやあ」

 そのときから3人は、仲良くなったものだった。

 そのカナトに、連絡をとってみたのだ。

 カナトに、空き家の虫ぬいぐるみの写真を送って、見てもらった。すぐ、返信がきた。

 「さすがは、カナトだ」

 カナトによれば、こうだった。

 「これは、俗称でいえば、コガネムシ。コガネムシ。聞いたことあるよね?金持ちだ。金持ちだ」

 「さすがは、カナト」

 トシユキは、感心していたものだ。

 「サンキュー」

 そんなことが、思い出されてきてしまっていた。

 「暗いなあ。一旦、高校に戻ろう」

 商店街の中を、抜けていった。老人クラブの横を、通りかけた。

 そのとき、何かが変わった。

 「…何だ?この空気は」

 金持ちの空気が、漂ってきたのだった。

 「あ。ポルシェだ…」

 つい、商店街の、老人クラブ前に停めてあった高級車のポルシェを眺めてしまった。すると、声がした。

 「あら、何よ」

 車の中から、超好景気時代の生き残りを思わせるケバケバ女が、出てきた。

 「何ー?」

 「うわ」

 「ちょっと、何よ?」

 「だっせ。泡組かよ…」

 「聞こえているんだけれど!」

 「しまった」

 「誰ー?」

 「こいつ…」

 「誰よ!」

 「超、勝ち組だ…」

 「誰よう」

 「あまり、関わりたくないなあ…」

 「君?私に、何か用なの?」

 出てきた女が、言った。

 「商店街の中に、ポルシェなんか停めちゃって…」

 「ちょっと、何?」

 「泡組だ…」

 「だから、何よ?」

 「ポルシェを商店街に停めて、良いんですか?」

 わけのわからないことを、聞いてみた。

 「良いじゃないの」

 ぶっきらぼうに、言ってきた。

 「…チヒロさんは、いないんですね?」

 「チヒロ?ああ。事務局長のこと、か」

 「はい」

 「いないわよ」

 「いない?」

 「うん。いない」

 「チヒロさんは、休みですか?」

 「老人会に、いかされたみたい」

 「チヒロさんはまだ、老人じゃないでしょう?」

 「生け贄よ」

 「生け贄?」

 「老人会の、生け贄。じゃなかった。…司会よ。老人会で、司会をすることになったから、出かけたのよ」

 「そうでしたか」

 残念だった。今日は、こんなケバケバ女と関わらなければならないのかと思うと、心が折れそうだった。

 「あなたは、商店街の人ですか?」

 「あたし?」

 「はい」

 「知りたいの?」

 「そりゃあ」

 「どうしようかなあ。教えてあげても、いいかなあ…」

 「泡組は、こんなのばっかりだ…」

 「あたしは、チエ」

 「チヒロさんのほうが、良かったな…」

 「何か、言った?」

 「いえ、何でも…」

 「ねえ君、私の話、ちゃんと聞けるの?」

 「す、すみません」

 「フン、俗物のくせに」

 「すみません」

 「氷河期を受け継いだ、俗物め」

 「…」

 「私は、事務局長の代理」

 「チヒロさんの代理、ですか?」

 「悪い?」

 「代理、か」

 「そうよ。だから、何?」

 「代理ねえ…」

 そう言うと、ポルシェ女は、激高した。

 「代理って、言うなー!」

 「面倒くさそうな、女…」

 「何か、言った?」

 「いえ」

 「まったく…」

 「代理のくせに」

 「代理って、言うなー!」

 面倒だった。

 「いい?」

 「はい」

 「もう、代理なんて、言わないでよね」

 「はい」

 「レディの言うことは、ちゃんと、聞きなさいよね」

 「すみません」

 「ふん。氷河期の後釜のくせに」

 腹も、立ってきた。

 しつこそうな女性、だった。

 まるで、換気扇に溜まった油汚れのように、しつこそうな女性に思えた。

 「良いじゃないの。ここに、ポルシェ停めたって。どうせ、この通りに人は少ないんだし。これが、金持ちレディの特権なんじゃないの」

 女は、彼を憐れむかのように、見るだけだった。

 「くやしかったら、私たちみたいに、超好景気に社会人になってみなさいよ。嫌ねえ。残り氷河に足を絡め取られて、バタバタしちゃって」

 嫌みったらしく、言うばかり。

 「くやしかったら、君も、コガネムシになってみなさいよ」

 結局は、ケラケラ笑いながら、見下してきた。

 すると、状況が変わった。

 「ああ。そうそう。あそこに、シルバー斡旋所ってあったじゃない?」

 「ああ、はい」

 「あそこの受付嬢、かわいい子だったわねえ」

 「受付嬢?」

 「ほら。何て言ったっけ?」

 「受付嬢…」

 「そう」

 「ユウカさんのこと、ですか?」

 「ああ。そんな名前だったわね」

 「ユウカさんが、どうしたんです?」

 「あの子とは、良く、顔を合わせていたのよ。同じ商店街の友、だものね」

 チエといった女性が、アーケードの天井を見上げた。

 そしてすぐに、向き直した。

 「良い子だったのにねえ。事務所の玄関先を掃除したりしちゃって、私も、仲良くなれそうな子だったのに」

 肩を、落とした。面倒な仕草、だった。

 「ユウカさんが、どうしたんですか?あの人に、何かあったっていうんですか?教えてください!」

 彼女に、つかみかかろうとした。

 すると、こうなった。

 「聞きなさいよ、俗物。老人クラブのケイコさんっていうおばあちゃんがさ、多額の寄付をおこなったらしいのよ」

 ユウカさんとは関係のなさそうなことを、言い出したのだった。

 「多額の寄付?」

 「そう」

 「ケイコさん、でしたっけ?その高齢女性が、たくさんの金を出したんですか?」

 「そう」

 「無償で?」

 「そうよ。寄付なんだから」

 「たくさんの金を、寄付…」

 「そうよ。君だって、しつこいんじゃない?」

 「どこに、寄付したんですか?」

 「蜂一号・シルバー斡旋所っていうところよ」

 「それ、本当ですか?」

 驚いた。老後の暮らしが苦しいと訴える人が多い中で、そんなに切符の良いことが起こるとは、信じられなかったのだった。

 「本当よ」

 「本当なんですね?」

 「だから、間違いないってば」

 「わかりました」

 チエというポルシェは、変にニヤニヤしながら、こうも言った。

 「らしいわよ。あのおばあちゃんは、高齢者世代の中でも、金の使い方がわからなくなっちゃうくらいの、金持ち組だったみたい。そのコガネムシさんが、蜂一号・シルバー斡旋所に、億を超える金を寄付したっていうのよ。裕福な老人は、やるわねえ。そういうことがあったもんだから、あの子の居場所がなくなっちゃったのね」

 呆れたように、言った。

 「それで、ユウカさんが、いなくなっちゃったんですか?」

 「だって、受付嬢だもの」

 「はい?」

 「仕方ないじゃない」

 「仕方ない?」

 「あの子、追いやられちゃったのよ」

 「追いやられた…?何に、追いやられたんですか?」

 「AI、でしょ」

 「AIに?」

 「機械に、代えられちゃったんでしょうねえ。AIに、仕事をもっていかれちゃったんじゃないの?かわいそうに」

 「どうして、代えられたんです?」

 「そうねえ。仕事の効率化もあるでしょうし」

 「あるでしょうし?」

 「さあね。それ以上はわからない」

 「何か、問題が…。いや、思うところがあったんでしょうか?」

 「そうねえ」

 「言ってください」

 「何を?」

 「何か、いけないことがあったんじゃないんですか?」

 「シルバー斡旋所で、老人に刃向かっちゃったんじゃないの?老人は神様なんだから、深く関わりすぎちゃダメだっていうのに」

 「はあ?」

 「そういうことでしょ」

 「老人に深く関わりすぎたから、消された…」

 「そういうこと、なんでしょうね」

 「うわあ」

 「かわいそうに。あの斡旋所の、えっと、エモトっていう所長の怒りを買ったんでしょうね」

 「エモト?」

 「そうよ」

 「それで、消されたんだ…」

 「ま。消されるべきは、その、ケイコさんっていうおばあちゃんの方かもしれないけれどさ。なんて、そんなこと言っちゃあ、ダメよね。言い過ぎか。私までが老人という神様に関わり過ぎちゃって、どうするのかしら。反省、反省」

 「ケイコさん、か…」

 「それで、他に聞きたいことは?」

 「ケイコさん…」

 「ちょっと、聞いているの?」

 悪い予感を覚え、すぐに、空き家へと向かっていた。

 「ケイコさん…、思い出したぞ」

 老人クラブが頭を抱えていた、失踪者のうちの1人の名前のはずだった。

 「同姓同名程度なら、良いけれど…」

 条件反射の空き家いき運動に、近くなってきた。

 「まただ。どうしてこうまでして、空き家に向かわなければならなかったのだろう?自分でも、わからないな。はあ。はあ…」

 空き家の祭壇部屋は、静かだった。

 「タマキさーん!」

 洋館の入り口門には、こう書かれていたはずだ。

 「空き家にいけば、あなたの求めている人がいる」

 タマキさんには、そこにいてほしかった。

 が…。彼女のいる気配は、なかった。

 「これって?」

 その代わりに、違う何かを発見した。

 「…また、違うものが増えている!」

 祭壇部屋には、新しいぬいぐるみが置かれていた。

 「また、か…」

 そこにあったのは、コガネムシの面をかぶせられた、サルのぬいぐるみだった。

 「コガネムシという金にまみれた、サル…か」

 酷さが、にじみ出ていた。

 「ひどい比喩、だな。一定世代の人への皮肉じゃあ、ないのか?特に…老人クラブの…チヒロさんの後任の、あの、チエっていうポルシェ女のことみたいだ」

 それ以外は、何も変わったところがなかった。

 「しつこい余興だなあ…」

 つらかった。

 「本当に、しつこいなあ…」

 まるで、換気扇に溜まった油汚れのようなしつこさだった。

 コガネムシのサルは、これまで見てきたぬいぐるみたちと共に、祭壇上に、ちょこんと座らされていただけだった。

 高校に、戻った。

 「疲れるなあ」

 弱音を、吐いていた。

 彼は気付かなかったが、コガネムシの面の裏側には、実は、またもや赤い字で書かれたワッペンが貼り付けられていた。

 「ケイコ」

 高校の放課後、また、洋館へと向かった。

 ふう。

 「運動のしすぎだよな」

 ふう。

 「タマキさーん!」

 ねえ!

 「誰も、いないんですかあ?」

洋館トランスファーの入口門にあった呼び鈴を鳴らして、またも、驚かされた。

 洋館トランスファーの入口門の紙が、成長していた。

 「神様の道は、終わりません。果てしない神様への道は、老人の心のように複雑です。一筋縄では、いかないのです。次の空き家を、探さなければなりません。この空き家はもう、満杯になりました。次の空き家に、向かいましょう。次も、空き家。目指すべきは、空き家なのです」

 疑問だった。

 「老人という神様を祀るのには、空き家でなければなりません」

 おの意味が、良くわからなかったからだ。

 「なぜだ?なぜ、空き家で祀らなければならないと、いうんだ?」

 長文を、追った。

 「空き家でなければ、なりません。神様である老人は、自らがたくさん生み出した空き家によって、祀られなければならないのです。一概に、老人が悪いわけでは、ありませんが…。この国では、法律上、土地に建物が残っていれば、固定資産税が原則6分の1になる制度があります。言い換えれば、土地を更地にしてしまえば、6倍の税金を払わなければならないというルールが、あります。そうである以上、誰もが、空き家を、空き家のままで残しておきたくもなるでしょう。空き家のままにすれば、払う税金が、格安で済むのですからね。金をかけてまで、家をつぶして更地にするでしょうか?しないでしょうね。高い固定資産税をとられるというのなら、建物を残したままで安い固定資産税を払った方がましと考えるのは、当然でしょう。けれど、そうした行為は、法律を逆手にとった神様のエゴです。残された世代のことを、考えていない。神様の、わがまま。次世代者は、大迷惑。困ったことです。神様に、わがままはなりません。神様は、皆の手本となる存在でなければならないのに」

 まだ、続いていた。

 「そんな神様は、どうですか?みっともない。迷惑でしょう。消す必要があるとは、思いませんか?もっとも、ただ消えていただいただけでも、困ります。それぞれの神様の金を、国庫に還るようにしたうえで、消えていただかなければなりません。そうしなければ、次世代者が、悲惨なままです。神様なる老人が本当に尊敬されたいのなら、次世代者に優しくできなければならならないはず。優しくない神様は、必要ありませんよね?さあ、消えていただきましょう。我々は今、神様なる老人を崇め、空き家を、有効に処理していかなければならない段階にきているのです。何度も言いますが、尊敬されるべき神様の老人を、祀ってさしあげなければ、なりません。神様を、元の住まいである空き家に、返してさしあげましょう。これが、空き家の正しい活用法なのです」

 優しく、結ばれていた。

 そして最後に、こんな殴り書きがされていた。

 「老人は、神様なる道へ」

 空き家の、正しい活用法…?

 「そんな…。何てことを…。だから、空き家でなければならなかったのか…?」

 いつかのように、震え出した。

 「空き家は、老人の命の聖地だとでもいうのか?」

 考えさせられた。

 「空き家を生み出したのが老人たちって、それ、飛躍的な見解じゃないのか?言い過ぎじゃないのか?」

 気持ちが、悪くなった。

 「神様、女神様…」

 そのとき、亡くなっていた祖母のことを、思っていた。

 「ああっ、女神様…」

 祖母の顔が、浮かんできた。

 「女神様!あなたなら、こんなとき、どんな答えをくださるでしょうか?」

 目を、閉じた。

 「助けてよ。父さん!」

 移り気か、救いの対象を変えてまで、うそぶいていた。

 「父さん…。勉強なんかしなくても人生楽勝だっていうのは、違ったよ。父さんの言っていたことは、おかしいよ。おかしいじゃないか!どういうことなんだよ、父さん!楽しい高校生活になると、思っていたのに!」

 怒りが、収まらなかった。

 「父さん!話が、違うじゃないか!努力して高校にいって、そこでどれだけ有意義に過ごせたって、ダメみたいじゃないか。結局、このポルシェ女のような人生楽勝運気は、巡ってこなかったじゃないか!人生楽勝のはずじゃ、なかったのかよ!父さん!俺たちはどうあがいても、神様にはなれない運命だったんだ!父さんめ!」

 父親が、憎くて憎くて、ならなかった。父親への突然の怒りが、止まらなかった。

 そうして、叫んだ。

 「タマキさん!」

 助けを、求めていた。

 「ああっ、女神様!助けてよ。頼むよ!」

 強く強く、願ってしまうのだった。

 …カナメにとっての本当の女神様は、誰だったのだろうか?

 「タマキさん…。ねえ。タマキさん…!」

 脳裏に、ある言葉が降ってきた。

 「老人は、神様である」

 父親のあの言葉が、またも、絡んできていた。

 「老人が、空き家を生んでいた1つの要因になっていた」

 その指摘が、痛かった。

 「そんな、ばかな!」

 祖母たちのことを、思い出していた。

 「神様が、空き家という負債を、全国に残したのか?」

 にわかには、信じられなかった。

 「だから、空き家の処理ができていない、だって?神様である高齢者は、…自分たちの行為に、自分たちによってケリが付けられていないのか。それじゃあ、赤ちゃんじゃないか」

 そう思い知らされて、苦しみが終わりそうになくなっていた。

 「神様は、空き家となるべき地を、俺たち次世代に押し付けようとしていたのか?どういうことなんだよ!おばあちゃん!父さん!空き家は、そのままじゃ、負債だ。その負債を、俺たち次世代が受け継がなくっちゃならないのか?」

 でも、何のために…。

 「ベーシック・インカムを、成就させるためか?」

 頭が、疲れた。

 「そんな、ばかな」

 空き家は、何のために存在したのか…。そこに、老人という神様は、どのように関わっていたというのか。

 考えれば考えるほど、わからなくなっていた。

 頭が、痛かった。

 「トシユキ君は、緊急合宿に参加して、今夜は、戻れません」

 トシユキの親に、説明にいった。

 「疲れすぎな日、だ」

 一般高校生らしからぬ運動量と、なっていた。

 無限の酷なる場所を、求め続けていった。

 「タマキさん、教えてよう!」

 しかし彼女の足跡は、その翌日も、感じ取れそうになかった。

 高校では、残念なことが続いていた。

 タマキさんが…。

 「また、休み?」

 「だってさ」

 「本当に?」

 「だってさ」

 翌日もまた、いなかったのだ。

 「一体、どうしちゃったんだろう?」

朝、クラス担任のキサラギ先生が教室に入ってきて、言った。

 「今日は、悲しい知らせが、あります」

 「何だ」

 「何?」

 「…?」

 「カナメ?」

 「何?」

 「トシユキは、大学見学で欠席するって、キサラギ先生に伝えたんだろう?」

 「ああ」

 「じゃあ、何の、知らせなんだ?」

 「さあな」

 クラスの皆が、ざわついていた。

 それでも、担任のキサラギ先生は、落ち着いていた。

 「コホン」

 先生は、咳払いをして見せたのだった。

 「先生は、大人の女性だなあ」

 「おい、カナメ。それって、キサラギ先生のことか?」

 「先生は大人で、素敵だなあ」

 「カナメ、何、言っているんだよ」

 「でも…」

 「また、移り気だ。お前の愛情は、いろんなところに、飛んでいくんだな」

 すると先生が、大きく出た。

 「ほら、ほら。皆さん、良いですか?」

 静かに、目を閉じた。

 「皆さん、良く、聞いてください」

 「何だ」

 「何よ」

「…」

 「破局だ」

 「静かにしてよ」

 一瞬、クラスの空気が止まったような気がした。キサラギ先生は、こんなことを言い出した。

 「せっかく転校してきてくれたタマキさんですが、お家の都合で、また、引っ越すことになりました」

 「まじか」

 「先生、タマキさんが?」

 「先生、何で?」

 「きたばかりじゃないか」

 「そうなのですが…」

 「で、先生。タマキさんは?」

 「急なことで、今日は、見えていません」

 「うわ…」

 「カナメ…落ち込まないでよ」

 ソラが言ったが、効果はなかった。

 「タマキさんが、いなくなっちゃうのかよ…」

 カナメの心が、机に伏した。いろいろな意味で、残念でならなかった。

 けれど、心のどこかでは、なぜか、ホッとしている自分もいた。その気持ちの理由がわからず、その日は、わけがわからなくなってしまっていた。

 洋館トランスファーにいくべきかどうか、悩みに、悩んだ。

 「どうしようか…」

 激しく、悩んでしまっていた。

 「どうしたのよ?カナメ」

 ソラが、声をかけてきた。

 「うん」

 助け船がきて、ようやく安心して乗れた思いだった。

 「キサラギ先生に、タマキさんのことが、気になってさ…」

 2人の名前を上げると、ソラに、クスクスと笑われた。

 「何?カナメって、まだ、移り気?」

 恥ずかしがったような声を、出していた。

 「移り気、だって…?」

 「そうよ」

 ソラは、笑っていた。

 「何、そんな声を出しているんだよ」

 「カナメは、タマキさんに、キサラギ先生にまで、移り気気分になっちゃったんじゃないのかって、言ったのよ」

 「おい、おい。勘弁してくれって」

 そんな2人に向け、カオルコが、やってきた。

 「あら、あら」

 困った表情を見せながら、こう言った。

 「嫌ねえ。愛情転移、よ」

 …?

 「愛情転移?」

 動揺して、カオルコのほうを見た。カオルコは、おしとやかに、笑んでいた。

 「それって、何?

 「カナメ君、知らなかったのか」

 「だから、教えてよ」

 「カナメに、教えてあげれば良いじゃないか」

 タカミが、注意した。

 カオルコが、幸せ顔になった。

 「ふふっ。後でね?」

 放課後に、なった。

 とりあえずカナメは、商店街の老人クラブへと、いってみることとした。そこにいけば、何か、胸に刺さった何かがとれるんじゃないかと、思えたからだった。

 しかしその考えも、すぐに、裕福な雰囲気に圧倒されていた。

 「あれ?」

 高級車。

 「またか」

 金の、雰囲気。

 「でもやっぱり、すごいなー」

 結局彼は、そう、納得させられてしまうのだった。

 相変わらずの、ポルシェ。

 商店街の中のポルシェは、不釣り合いに驚かされるアイテムだった。

 「こんなところで、金勘定」

 老人クラブには、金の予感。

 入口に停められていたポルシェは、嫌みったらしいくらいに、きれいになっていた。

 「洗車したのかな?したんだろうなあ」

 笑ってしまった。

 「失礼しますよー」

 老人クラブの入口扉を、開けた。

 「何よ」

 また、この人…。

 金色のいびつな匂いが、彼を包もうとしてきた。

 「何よ」

 「チヒロさんなら、良かったのに」

 その言葉が、聞かれてしまったようだ。

 「また、君か」

 嫌がられた。

 「それは、こちらのセリフですよ」

 ポルシェの、対応。

 相変わらず、ケバケバしい女性だった…。

 「どうかな?アッシー君のためにも、車、洗っちゃったわ」

 「アッシー…。いつの言葉、だよ…」

 「うらやましい?」

 「いえ」

 「正直に、言ってよ」

 「正直に、言いましたよ」

 「うらやましいんでしょう?」

 「こんな寂れた商店街の中に高級ポルシェを入れるのなんて、うらやましくも、何ともありませんよ」

 「うそだあ」

 まさに好景気時代の生き残り女性に、違いなかった。

 「君さあ?前に停めてあるポルシェ見て、どう?」

 「きれいでした」

 これで、ポルシェの気分が良くなったようだった。

 「洗車したからね」

 「ああ、そうですか」

 「そうよ」

 「そうですよ」

 「素敵でしょう?金持ちにしかできない、ステータスなんだからね。これで男どもを引っかけて、アッシー君にさせるのよ」

 「アッシー君…」

 「そういう哲学的な言葉が、あったのよ」

 「らしいですね…」

 「車なんて、動けば良いと、思っていたんでしょう?」

 「そりゃあ、それが車の存在価値なんですからね」

 「うわ。君は、マジで氷河期の生き残り。わかってないわねー。車は、高ければ高いほど、良いんじゃない。これを置いておくだけで、良い男どもが寄ってくるのよ?」

 高飛車な言い方に、呆れてきた。

 「車って、虫寄せだったんだ…」

 「何ですって?」

 「何でも、ないですよ」

 「ふん」

 「でも、そういう高いモノ買っちゃって、金が尽きたら、どうしようと考えていたんですか?」

 「そうしたら、あんたたちに、払わせるのよ。もっと、あなたたちに税金を出させれば良いに、決まっているじゃないの」

 「うわ。そういう考え方で、生きていたんですか?」

 「うるさいわねえ。それがダメだって言うなら、高齢者世代に金を出させれば、良いのよ。あの人たちは、神様なんだからね。私たちは、そんな神様の子ども世代。神様は、私たち子どもを、見放さないわ。だから、子どもをチャイルドって、言うんじゃないの。高校で、そのくらいは、勉強したでしょう?チャイルドってね、神様の子のことも指すのよ」

 「…そういえば、そう教えてもらっていた気がするな?」

 「遊べ、遊べ!」

 「ここ、本当に、老人クラブですよね?」

 「当たり前じゃない。ああ、嫌だ。素敵な社会の勝ち組、俗物の上に立つ人たちの社交場、老人クラブへようこそ」

 「ちぇっ」

 「遊べよ遊べ、俗物め」

 が、我慢、我慢。

 こんな好景気女性には、何をしても、及びそうになかった。あまり関わり合いをもちたくないと、感じたからだった。

 神様への道は、遠かったのだ…。ポルシェには、こう切り出してみた。

 「全国で、空き家が問題になっているみたいですけれど…」

 「ああ。あれか」

 ポルシェは、飽き飽きしたようだった。

 「あれって、どう活用すべきなんでしょうか?」

 「空き家の活用方法?」

 「そうです」

 「ああ、そう」

 少しは、まともな会話になってきた。

 「はい」

 「でも、何で?」

 ポルシェは、面倒くさそうに、あくびをし始めた。

 「だってここは、老人のことに詳しい場所だから。そうでしょう?」

 決して、食い下がらなかった。

 するとポルシェは、めちゃくちゃなことを返してきた。

 「そうだけれどさあ…。良く考えれば、不安も、不安ね。何で私たちが、老人の心配をしなくちゃ、いけないのかしら。あんな、コガネムシさんたちに。ここまで言ってきて、何だけれどさ」

 相変わらずの、ポルシェ。

 そこで、言ってやった。

 「金がなくて苦しんでいる老人たちも、たくさんいるらしいですよ。そういうこともわかっていて、言っていたんですか?」

 まるで、ニュースキャスターのような正論だった。

 「あっそ」

 だがポルシェは、素っ気なかった。

 「聞いてくださいよ」

 「何を?」

 「ここは、老人に詳しい、老人クラブでしょう?」

 「当たり前じゃない」

 ポルシェ合戦が、再開された。

 「空き家の問題をどう考えているのか、聞きたいんです。空き家と老人は、切り離せない問題でしょう?」

 「あー、あれね」

 「そうです」

 「老人といえば空き家、か」

 「まあ、1つには」

 「…」

 ポルシェは、口雲った。

 「教えてください」

 「ふん」

 「老人クラブなら、老人という名の神様、高齢者のことを、よーっく考えていたはずですけれどね」

 「また、それか」

 「教えてください」

 「君も、負けないわねえ」

 「空き家の正しい活用方法について、教えてください」

 「…嫌な、子ねえ。空き家は、神様なる老人を称える場所であるべきなのかな」

 そして、一呼吸置いていた。

 「そうねえ。空き家ねえ。本来は、おじいちゃんやおばあちゃんの皆がそこに優先的に入居して、ご飯を食べたり、新聞雑誌を読んだりしてさ。そういうふうに、有意義に使える空間にしてあげたらいいのにねえ」

 「なるほど」

 そうしたら急にポルシェは、真面目になった。

 「あ。空き家といえばさ…。新しい空き家ができそうなんだけれど。君なら、それを知っていたんじゃないの?そこに、老人クラブのこれからの活動指針とかも、明らかになってくるかも知れないわねね」

 ポルシェはまた、心の奥をゆさぶるようなこんな情報を、言ってきた。

 「商店街先にある洋館が、売却物件になった」

 それを聞いて、すぐに察しがついた。

 「あの洋館のことだな…」

 「本当よ」

 「それって…。どういうことなんでしょうか?」

 「まあ、だから…。知らないわよ。住んでいた人が、引っ越すか何かで、いなくなっちゃうって、ことでしょう?」

 「そうでしたか」

 「いちいち、うるさいわねえ。だからあ。人が、引っ越しちゃっただけの話でしょ」

 つまらない会話に、なってしまっていた。

 だがここで、空気が変わった。

 「昨日、その洋館では、君と同じ年齢くらいの女の子と、2人のおじいさんっぽい人が動いていたみたいだけれど」

 核心に迫るような話を、聞けたのだ。

 「同じ年齢くらいの女の子、でしたか?」

 「だから…そうよ」

 「それって、タマキさんでしたか?」

 「タマキ?誰よ、それ」

 ポルシェなんかには、わかるはずもなかっただろう。洋館トランスファーのこと自体、良くわかっていなかったのだから。

 うーん。

 2人のおじいさんっぽい人が、動いていた…?ポルシェも、たまには、役に立つことを言うものだった。

 「あの…。その2人って、トライチさんとヒコザエモンさんですか?」

 「そんなの、私にわかるわけ、ないじゃない」

 「すみません」

 「いやねえ、俗物!トライチと、何?」

 「ヒコザエモン」

 「誰なのよ、それ。漫画の登場人物じゃあ、あるまいし」

 「すみません」

 「もうその話は、終わりにしてよね」

 「わかりました」

 ポルシェに一礼して、それからすぐに、洋館へと走っていた。

 「急げ」

 何かで帰宅が遅れに遅れたときのことを考えて、朝コンビニで買っていたおにぎりを、むしゃむしゃとほおばっていた。

 「急げ」

 行儀の悪い食事だったのかも知れなかったが、急なことだったし、仕方がなかった。洋館トランスファーは、相変わらず、どっしりと構え続けていた。

 「…あれ?誰かいるぞ!」

 「カナメ君?」

 「…タマキさん?タマキさんなのか?」

 彼女にやっと会えたうれしさで、幾分か、裏切られたように震えていた。

 「どうしたの?」

 はあ。

 はあ。

 何かを食べながら走るのは、つらいものだった。















 「どうしたの?」

 「良かった。俺のことを、覚えていてくれたんだ」

 小さく、しかし誇らしく、頷いていた。

 「じゃあ、カナメ君は?」

 「え?」

 「私の名前、覚えていてくれなかったのかしら?」

 「…」

 「あら、あら。こんなところにまできちゃって、どうしたのよ」

 実は、彼女に聞こうか聞くまいか、迷っていた大きなことがあった。そう。ずいぶん前に、彼女に会っていたような気がしていたことについてだ。あのときの生徒は、タマキさんとしか考えられなくなっていた。

 聞かずには、いられなかった。

 「…」

 が、言えなかった。

 すると、その気配を見透かしたように、彼女のほうから、口が開かれた。

 「久しぶりね」

 ハッとした。

 「久しぶり、だって?」

 「ええ、懐かしいわ」

 彼女の言葉は、首筋を暗闇の中で押しつぶすように、鋭かった。

 「あのときと、同じ…」

 ぞうっとした。

 「この世に、幽霊というものがいたとしたら、彼女のことだったのか?」

 そんなことすら、思えていた。

 「君は…。どうして、どうして君は、年をとらないの?」

 …。

 ゴー…。

 2人の上空を、1台の大きなドローンが、飛んでいった。

 「…これは、これは、推論にすぎないけれど」

 冷や汗を出す直前の勇気で、言ってみた。

 「君は、誰かから、命をもらって生きながらえている…。その、つまり、老人から命を分けてもらって、若いままで生きているんじゃないのだろうかって…」

 「…」

 「タマキさん!」

 「…ああ、そっか。老人の活用方法と活用方法に、気付いちゃったのか」

 「老人の、活用方法?」

 「そして、老人の、命の使い道よ…」

 「え?」

 脅迫されたように、固まっていた。

 「商店街の老人クラブは、覚えているわよね?」

 奇妙な美しさ、だった。

 「も、もちろん…」

 「老人クラブに起こった老人失踪事件のこと、知っていたわよね?」

 「うん」

 「その事件が起きたのとほぼ同じくして、私が、若い姿のままで、現れた」

 その通り、だった。

 「…」

 「私は、若かった。君が、小学生の頃に見た私が、そのままの姿で現れた」

 「…」

 「カナメ君はさあ、蜂一号・シルバー斡旋所も、知っていたわよね?」

 変な汗が、吹き出てきた。

 「カナメ君?老人は、神様なのよ?あの人たちのおかげで、私だって、若いままでいられるのよ?それは、わかる?」

 「こ。こ。この。この、老人失踪事件の犯人は、君だったのか?」

 震えていた。

 「…」

 「君だったのか?」

 「…」

 「タマキさん!何か、言ってくれよう!」

 「何か」

 「そういうギャグは、やめて」

 「…」

 「トライチとヒコザエモンは、何者だったんだ?」

 真相を、知りたかった。

 「ねえ、教えてよ」

 「…」

 「どうなの、タマキさん」

 「あの2人も、違うわ。彼らは、この事件のきっかけに過ぎなかった老人」

 「タマキさん?それって、どういう意味なんだい?」

 「…」

 負けたくは、なかった。

 「この一連の事件には、別の主犯がいるってこと?誰なの?タマキさん?君が転校してきてくれてから起こったこの一連のベーシック・インカム、そしてトランスファー事件の犯人は、誰だったんだ?そしてあの老人たちは、どうなったんだ?神様になって…わけがわからないよ!タマキさん!」

 試練が増えたような気が、した。

 「蜂一号の謎を解くのは、楽しいわよ」

 「蜂一号の謎?」

 「カナメ君、わかってよ。老人は、神なのよ?」

 「老人は、神…」

 タマキさんが、ほほ笑んだ。

 「神は、有効に活用しなくちゃ、もったいないわ」

 「なぜ?」

 殺人事件を目の当たりにしてしまったかのようにして、タマキさんが、憎く変わっていた。

 「なぜって、それが、老人の存在意義になるからよ。古代に遡って考えるまでもなく老人というものは、子どもたちに遊び方や生活の方法、数々の知恵を授けてきた存在者だった。まさに、神様じゃないの。それは、様々な文献にも載って、現代にまで受け継がれていく考え方になった」

 「…」

 「カナメ君?それ、民俗学っていう学問なのよ…?」

 「…」

 「老人は、貴重な存在。誰もが尊敬すべき存在だったじゃないの。そんな神様は、尊敬されることを欲し続けた」

 「…」

 「でもね、カナメ君?それも、今じゃあ…。私はね、神様が哀れになったの」

 「タマキさん?」

 「なあに?」

 「神は、チェーンソーで、真っ2つ」

 「そういう話は、やめて」

 「ごめん」

 「そんなの、今どきの子にわかる話では、ないわ!」

 「…」

 「老人は、偉いわ。何といっても、神様なんですもの。カナメ君だって、私たち老人を大切にしろっていう声を、聞いたことがあるでしょう?」

 正論だった。

 「私たちは、神様である老人に、怒られ続ける羽目になっちゃった。我々は、お前たちの生活を作ってやったんだぞ!もっと、尊敬しろよ!誰のおかげで、今、お前たちは豊かな暮らしができるようになったと思っているんだ!って…偉いことを言っちゃってさ」

 「…」

 「神様は、怒り続けたわ。アンガーマネジメントなんか、できるはずもなかったしね」

 「…」

 「そこで、怒る神様を鎮めるシステムが、必要になった」

 聞き入ってしまっていた。

 「カナメ君?残された子どもたちで、神様となるべき老人を支えていくシステムが、続けられなければならなくなった」

 「いやが応にも、老人を支える…」

 「それが、今の社会の、ルール」

 タマキさんは、学校の、あるべき先生のようだった。

 「いずれ破綻するとわかっていながらも、そのシステムは、続けられた」

 「…」

 「これを破壊する必要が、あった。正常な世代のためにも…」

「破壊する?なぜ?」

 「あんな神様は必要と、思われたからよ」

 …。

 言い返せなかった。

 「あら。カナメ君だって、わかっているはずよ?老人を支えていく考え方が1つ具体化して生まれていたシステムが、何なのかを。いずれ破綻するであろうと思われていても、止められなかったシステム。それが、1つには、年金制度」

 「うん…」

 いつまででも、先生のようだった。

 「その制度があればこそ、老人はゆったり過ごせるようになり、老人を担う子どもたちや孫は、自分たちが神様を支えているという自負に浸りもして、未来を夢見ることもできたっていうのにさ」

 「…」

 「でも、今は、どうなっちゃったかな?」

 「…破綻寸前だ」

 「そうね。神様は、見放されそうになった」

 「…」

 「そうしたら神様は、怒るわよね?カナメ君も、さんざん、老人に怒鳴られていたんでしょう?だから私たちは、斡旋所ルートで、老人をもう一度神様に仕立て上げてあげようと、計画したのよ?」

 「…」

 真相に、近付いてきた。

 「老人は、神様なんですもの。神様なんだから、その神様の力で、社会の負債をすべてきれいにしてもらわなくちゃ」

 気付きが、増えた。

 「タマキさん?だから、空き家が舞台でなければならなかったのか?」

 「かもね」

 疲れる応対、ゆれる思い、だった。

 「そうね、カナメ君。でも神様は、怒れるばかり。残された私たちに向かって、俺たちを支えろ支えろって、わめくだけ。気付いたらもう、最悪…。私たちが、神様たちのツケを払う羽目になってしまったわ」

 社会勉強も、残酷だった。

 「私たちが、あんまりじゃない?だから私たちは、今、神様を消さなければならない段階にきたの。私の言っていること、おかしい?おかしくは、ないでしょう?私たち次世代は、動くべきなのよ?神様なる老人はしっかり祀って、しっかり消えてもらわなくちゃ、損だわ」

 「そんな…」

 「それが、蜂一号計画よ」

 「おばあちゃん…」

 「老人は、神様なのよ?私たちが、神様を支えてあげているのよ?私たちが、その神様の力を取り入れようと計画して、どうして、悪いの?」

 「…」

 きれいな女神様に言われると、口が重かった。

 「そんな計画は、恐ろしい?でも、神様もいろいろ。ここが、難しかったわ。生活が苦しい神様だって、たくさんいたのよね。調整は、難しかった。本当に、苦労するプログラミングになっちゃったわ。社会は、変わっていったわ…。すべての神様が裕福なわけじゃ、なくなっちゃったんですもの」

 「…神様も完全じゃなかった、か」

 「ええ」

 「蜂一号計画…。それって、すごい計画だったんだな…」

 「ええ」

 「でも、どうしても、腑に落ちないことだらけだ。神様ばかりが、苦しいのかい?僕らだって、苦しいよ。この胸のときめき、苦しすぎだ」

 「あら?苦しいのは、皆が、同じよ?神様なる老人も、苦しいのかも知れないけれど。今までさんざん金をもらって良い思いができたのに、さらにまた、私たちから、金も夢も希望ももらえちゃう裕福老人がいて、神様の苦しみは、増していく一方ってとこ、かしらね?神様も、案外、憎々しいわ。それでいて、金を出してくれる私たちを怒鳴りつける神様も、いた…。社会システムが、幻想にすぎなかったのよね。神様なる老人の偶像の扱いは、移り気だわ」

 「タマキさん。もう、やめようよ…」

 「どうして?私は、その、苦しんでいる神様、老人たちの力になりたくなった。それだけじゃないの。神様たちを、安らかにさせるべきよ。こんな愛の考え方って、ないでしょう?蜂一号計画は、これからも、努力のいらない日々を生きられた神様を敬い、手厚く葬ってあげるんだわ。私が、これからも生きていくためにもね」

 「タマキさん…」

 「いけない計画だったかしら?」

 「それで、神は、納得してくれたの?」

 「…」

 「おかしいよ…」

 「…」

 「タマキさん?それは、おかしい」

 「おかしくなんか、ないわ」

 ただ、苦しかった。

 「…くそう。何なんだろう、この、もやもやとした気持ちは。変すぎるくらいの、気持ちだ。これが、屈折した恋心っていうやつ、なのか?」

 「カナメ君?女神様の計画は、おかしくなんかないのよ?そうやって葬ってあげてこそ、神様としての老人は古代からの威厳を取り戻し、尊敬され直していけることになったんだからね」

 「老人を消すことが、神様の威厳の復活だって、いうことだったのかい?」

 「だから、そういうことじゃないの…。きっと…、きっと、そうよ」

 「そんな。そうとは、とても思えなかったのに…」

 「どうして?」

 そう聞かれて、発憤した。

 「おばあちゃんたちは、本当にたくさんの希望を、残してくれたからだ」

 勇気を出して、言っていた。

 「でもそれが幻想だったってことは、カナメ君にも、わかったでしょう?」

 「わからなかったよ、そんなの」

 「人生楽勝じゃ、なかったんでしょう?」

 「…」

 「カナメ君?もう一度あの空き家にいってみれば、わかるわ」

 彼女がそう言うと同時に、自転車を漕ぎ出していた。

 「あの、空き家だな!」

 女神様を望んで、急いだ。自転車を、古代ローマの戦車のごとく、強く突き動かしていった。

 立ちはだかっていた信号機も、決意を恐れてか、瞬時に、青に切り替わっていった。

 はあ…。

 「着いたぞ!」

 空き家の祭壇部屋を、見た。

 …な。

 「今度は、何だ?」

 祭壇部屋の中には、ルリコやアヤネを表した猫や犬の人形が、なくなっていた。代わりにそこには、3枚の写真が、置かれていた。それぞれ3枚ともが、男女、中学生くらいの子どもたちを映したものだった。

 「タマキさん!これって、どういうことなんだ?」

 振り返った。

 が、そこは、空き家。彼女のいたはずの洋館では、なかったのだ。

 「なあに?カナメ君」

 そう言われることを、期待していたというのに…。

 だが、すぐに、本当に声がしてきた。

 「…カナメ君?」

 「ええ?」

 幻の声、だったのか?

 「会いにきたの?」

 「そうだ」

 「誰に?」

 「トランスファーの君に」

 「…」

 「トランスファーの君に!」

 その、恍惚の幻聴の瞬間だった。

 「トランスファーの君に!…ハッ!」

 あたりが、一気に明るくなった。

 「トランスファーの君に…!それって、それって、何かの暗号だったんじゃないのか?閉ざされた扉を開く、何かの鍵になっていたんだ!タマキさん!そういうことだったんだろう?ねえ、タマキさん!」

 気付くと、洋館トランスファーの前に、引き戻されていた。

 「どういうことなんだ?」

 「…あら、どうしたの?」

 女神タマキさんが、目の前に立っていた。

 「トランスファーの君に…!それって、この事件の秘密を解く暗号になっていたんじゃないの?ねえ、タマキさん!」

 「…」

 「タマキさん!」

 「神様の力さえあれば、カナメ君は、空間をも越えられるのよ?」

 彼女は、平然と言った。

 「タマキさん!あの写真は、何だったんだい?」

 「ああ、あの写真ね」

 「誰の、写真だったんだ?」

 「ユウタ君とショウ君、それに、マホちゃんよ」

 落ち着いた声、だった。

 「…何の、3人だったんだい?」

 「カナメ君たちは、どこかで、その3人に会ったことがあるんじゃないの?」

 「…」

 ゆっくりと、思い出してきた。

 「タマキさん?…その子たちの正体って、何だったんだい?」

 「契約者よ」

 「契約?何の?」

 「神様なる老人の力をあなたたちに手に入れさせる代わりに、私が、その神様がもっていた残された寿命や時間をいただくっていう、契約よ」

 「…え。何、それ?」

 気分が、悪くなってきた。

 「ユウタ君とショウ君、マホちゃんの3人は、その契約に乗ってくれた子たちなの。3人とも、この高校に入学することを夢見ていた。あのころのカナメ君のように」

 過去の自分を、思い起こしていた。

 「…同じだ」

 「わかる?」

 「いや、だから。そ、その子たちが、何だっていうんだ?」

 「その子たちは、この計画に、合意してくれた子たちよ」

 「この計画…蜂一号計画、か」

 「そうよ」

 「…」

 「子どもは、重要。神様を受け継ぐ世代、なんですもの。子どもも、神様なのよ?」

 「子どもも、神様になれたのか?」

 「もちろんよ」

 いつか、高校の授業で聞いた話を交えて、思い出していた。

 「カナメ君?子どもは、チャイルドっていうでしょう?」

 「…そう言っていたな」

 「チャイルドってね?神様、神様の子っていう意味でも、あったのよ?」

 「…」

 「ちゃんと、勉強しなくちゃ」

 ニコッと、してきた。

 「…」

 「でも私たち、うかつだったわ。神様の子には、意外な力があったということを、忘れていたわ。参っちゃった。蜂一号・シルバー斡旋所を開く際、所長エモトの行動内容が、S NSで拡散されちゃったことがあったのよ」

 子どもに逃げられた教師のように、げんなりしていた。

 「何だって?」

 「情報を拡散させたのが、その、彼ら3人だった」

 「あの子たち、が?」

 「彼らは、この計画を、インターネット経由で手に入れたのね。危険な子どもたちだわ…。トライチたちの、ミスね」

 「…」

 「彼ら中学生によって、計画内容は、筒抜けになっちゃった。町の高齢者に、注意喚起が促された。老人クラブなんか、消しておくんだったわ。それでも、計画は、動き出しちゃっていたけれど。S NS世代の今どきの子にはあれほど注意しなさいって、言ったのに。トライチたちは、危機管理ができなかったから、そういうことになっちゃったのよ」

 「…」

 「仕方がないから、あの子たちに、条件を飲ませて口封じをさせた。斡旋所が裏で手を回して、彼らに、この計画を手伝わせることにしたの」

 「なんてこと…」

 そして彼女は、こう言った。

 「なぜ、トライチとヒコザエモンは、計画に乗り気になってくれたと思う?」

 簡単なこと、だった。

 トライチとヒコザエモンは、ルリコらを、恨んでいたからだ。

 「ルリコ」

 「アヤネ」

 「ナツヨ」

 「ミナ」

 「ヨウコ」

 「ケイコ」

 皆への、恨み…。

 「やっぱりあの人たちには、共通点があったんだ!」

そして彼女は、言った。

 「あの高齢者は…。全員、婦人警官だったのよ」

 「…婦人警官?」

 「トライチとヒコザエモンは、バイクが大好きな男たちだった。バイクを見るのも好きだったし、乗るのも、好きだった」

 「それで?」

 「今から30年以上も、前よ…。大学生だったあの2人は、あるミスを、犯した」

 「ある、ミス?」

 「スピード違反よ。それで彼らは、ルリコたちに徒党を組まれて、違反切符を切られちゃったの」

 「そうだったのか」

 「警察の交通課の業務としては、何も、おかしなことはなかったわ?」

 「交通課の職員連中、だったのか…」

 「けれど、たまたまだったんだけれど、違反切符を切ったタイミングが、最悪だった。ルリコたちは、職務中に、バレーボールをしていた最中だったのよ」

 「職務中に、遊んでいたのか?」

 「ええ」

 「でもそれって、やって良いことだったのかな?」

 「もちろん、いけないことだった」

 「だよね?」

 「警察職員として、地方公務員法にも処罰されるべき、だらしのない事案になっちゃった。それは、そうじゃない?おたくの警察署の婦人警官が、制服を着ながらバレーボールをしているんですが、どういうことなんですか?そう言われたら、どうするのよ?所属課の課長は、ひたすらに、謝った」

 「…そりゃあ、そうでしょう」

 「でも彼女らは、処罰されなかった」

 「それは、なぜ?」

 「あの人たちは、バブル採用組という人たちだったんだから」

 「バブル採用組…」

 「その人たちは、殺人さえしなければ、何をしても良い身分だったの。勤続年数が増えて、そのうち、神になっていく約束だった。だから、神を敬おうとしていた警察内部ではちやほやされて、問題にはならなかったの」

 「公務員がそんなことをして、良いの?」

 「昔は、良かったのよ」

 「民間とは、えらい違いだ」

 情けなかった。

 「トライチらは、違反切符を切られた。現職警察官だったクセに、バレーボールして違反切符を切ってきた彼女らに、殺意が芽生えた」

 「だろうね」

 「トライチたちは、彼女らの配属されていた警察署の前を通るたびに、トライチらは、悔しい思いになったそうよ?

 しかし、疑問だらけだった。

 「タマキさんは、なぜ、生まれる前のことを知っていたのだろうか?」

 そこだけは、良く、わからなかった。

 「今の子には注意しなさいって、言ったのに…。トライチたちは、危機感がない世代なんだから…まあ、いいわ」

 タマキさんは、何かをそらすように、言った。

 「じゃあ、この事件の首謀者は、やっぱり…」

 「私なんかじゃ、ないからね?首謀者っていうか、最高の協力者は、トランスファーの門に、書かれてあったはずだけど?忘れちゃった?」

 「…首謀者は」

 「…首謀者の名前は、書いてあったでしょう?良く、読んでみてね」

 「…」

 「良かったわねえ。マホちゃん。神様なる老人の力が、受け継がれていくことになった」

 「…」

 「マホちゃんには、ルリコおばあちゃんの力が、渡る。マホちゃんは、イタリア旅行をすることを、夢見ていたわ。たくさんの世界遺産を、見たかったんですって」

 「…?」

 「ネコのルリコおばあちゃんは、イタリア語を、しゃべれた。昔、イタリアに学びにいったことが、あったんですってよ。その能力が、マホちゃんに渡るわ。素敵」

 「…」

 「ユウタ君とショウ君にも、神様なる老人の力が、受け継がれていくわ。彼らは、もっともっと、神様に近付いていく」

 「…」

 「あの子たちには、神様なる老人の力が、たくさん、受け継がれていくわ。素晴らしいことじゃない?あの子たちには、神様なる生活力も、備わった。あの子たちは、お吸い物にもなれるんだわ」

 「…はあ?」

 「あの子たちは、老人たちと同じように、努力をしなくても、引く手あまたの楽しい社会を過ごしていけるようになったわ」

 「努力を、しなくても…」

 「ええ、そうよ?カナメ君だって、そうなのよ?カナメ君だって神様になって、お父さんたち氷河期組を踏み台にして、ゆるゆる生きていけるのよ?」

 「…」

 「カナメ君は、老人を大切にしたことがあったでしょう?おばあちゃんは、女神様だったんじゃなかったの?」

 「あ!君は、どうして、それを!」

 「その老人の力が、カナメ君にも、受け継がれたのよ。カナメ君?受験戦争も、就職難もない努力なしの日々を、楽しんでね?」

 「努力のない、日々…」

 父親の言葉が、降ってきた気がした。

 「あの子たちは、幸せ者よ。特に、老人の発言力が、受け継がれたわ。マホ、ユウタ、ショウ…、彼らの発言力は、増していく!警察官にだって、生意気な口がきけるようになっていくでしょうね」

 「タマキさん…」

 「さあ!蜂一号の契約により、老人と子どもたちによる命の循環が、始まるわ!とりあえず彼ら3人には、幼稚園児に戻ってもらうわ!そこから彼らは、やり直すべきよ!小さな頃から、もう一度、老人と接してみるといいわ!さらに、老人の偉大さがわかるでしょうから!今は、老人と手を取って、幼稚園でお遊戯でもやっていれば良いんだわ!お吸い物でも、演じてみるといいわ!」

 タマキさんが、怖かった。

 何も、言えなかった。

 次第に…。

 いけない気持ちが、揺れ動いて移っていった。

 「タマキさん!蜂一号計画…!君は…。そんないけないことを、考えていたのか!」

 思わず、叫んでいた。

 すると彼女は、こう返してきた。

 「いけないのは、カナメ君のほうよ」

 言い返す余裕が、もてなかった。

 「私のほうばっかり、見ちゃってさ」

 「え?」

 「それは、愛情転移なのよ?」

 「何だって?」

 「愛情転移だわ」

 「愛情転移…?」

 「カナメ君は、お父さんの言っていたことに、怒りを覚えた。それは、ある意味、当然のことでしょうね。人生楽勝だから何もしなくって平気って言われていたのに、現実社会は、そうじゃなかったんだから」

 「だって」

 「楽勝じゃなくて、残念だったわね。頭にきちゃった?」

 「…」

 「カナメ君は、お父さんに、急に怒りを覚えた」

 「だって…」

 「そのときカナメ君は、その抑圧していた感情を解き放って、私に向けたのね」

 「だって、君のことが…」

 「でも、気を付けてね」

 「…?」

 「抑圧していた感情を異性にぶつけちゃったなら、それは…」

 「それは、何…?」

 「それは、恋なんだから」

 「…」

 「愛情転移よ」

 「…」

 「愛情転移だわ」

 「違う!」

 「違わないわ!」

 彼女は、口元に、手をやった。そうして、言った。

 「カナメ君は、高校生にもなって、行儀の悪い人。お弁当つけて、どこいくのよ」

 …!

 ようやく、自分のほほに、コンビニおにぎりのご飯粒がついているのに、気が付いた。新たな思いが、こみ上げてきた。

 「お弁当つけて、どこいくの?」

 …!

 「それだ!」

 「…」

 「それだよ。タマキさん!」

 「…」

 「それだったんだ!」

 これで、わかった。

 「タマキさん、その言葉だ!あのとき君は…、それを言っていたのか!」

 彼女は、手を広げた。

 「カナメ君?お弁当つけて、どこいくの?」

 恥ずかしくなって、下を向いていた。

 「お弁当、とってあげるね。ほら。カナメ君。目をつむって、手の平を前に出して」

 「…あ!」

 「どうしたの?」

 「こんなシチュエーション、ずっと前に、どこかであったような気がするぞ…!」

 心の中で、過去を探っていた。

 「ああっ、女神様!たしかどこかで、これと同じようなことを…?」

 が、思い出すことが、できなかった。

 「もう、良いわ」

 3つ数えた後に、目を開けて、顔を上げてみた。

 「本当の女神様からの、贈り物よ?」

 目を開けると、ほほを侵していたお弁当の欠片は、無かった。

 ほほは、ほんわかと、幸せに潤っていた。

 彼女の姿は、もう、どこにもなかった。

 洋館も、消えていた。

あの空き地の前に、立たされていた。

 「トランスファーは、空き屋になって残されることも、ない。結局は、消えちゃう。どこかに、転校しちゃうのか…。転校生…。転校生、トランスファー」

 この一連の出来事を、父親にでも言おうかと思った。

 が、やめた…。

 「…こんなの、信じてもらえるわけないものな」

 ただ、洋館があったはずの場所を、見つめていた。

 彼女のいた洋館の名前は、こういった。

 「トランスファー」

 それは、転校生という意味の言葉だった。

 「転校生の館…」

 それは、出来すぎたくらいに、出来すぎた名前だった。

 が…。

 「そうだ!」

 思い出した。

 「そうだった!」

 トランスファーという言葉には、転校生という意味もあったが、愛情などを転移させるという意味も、あったのだった。

 「愛情転移…、か。トシユキ…」

 そのとき背後に、誰かが立った。

 「誰?」

 1人の男性高齢者と、若い1人の女性が、立っていた。

 そのうちの男性高齢者が、言った。

 「カナメ君?タマキの説明は、ちょっと、違ったな。蜂一号計画とは、本当は、そういうものではないのだ」

 「誰?」

 「私は、アプリケーション制度の、一層の安定を願っていた者だ」

 「…?」

 「そして、氷河期に苦しめられた人々が、社会に見直されることを願った者だ。私は、これまで以上に願うぞ。氷河期につぶされた人たちの思いを受け継いだ世代の子が、立ち上がれることを。まず、トシユキ君を復活させる」

 その男性高齢者の背後に、懐かしい気配がした。

 トシユキだった。

 「トシユキ!」

 「…お、俺。生き返ったのか?」

 涙が、止まらなかった。

 「カナメ君?がんばりたまえ…。努力をして、生きていってくれたまえ。さあ、トシユキ君?彼のもとに、いってあげなさい」

 トシユキが、走ってきた。

 「カナメ!」

 「トシユキ!」

 男性高齢者は、言った。

 「努力のできた氷河期世代は、尊重されるべきだ。ふふふ。女神様に、憧れなさい。努力を、しなさい。新卒テーマパークのことは、忘れなさい。新卒世代のヒヨコちゃんになっては、ならない。今の高齢者のようにもならないように、してほしい。あるいは、かも知れんがね。同じく高齢者たる私が言うのも、おかしいが」

 「…」

 「カナメ君!私は、神になれなかった、高齢者だよ」

 「ええ?神様になれなかった高齢者が、いたのか?」

 「私は、アプリケーション制度の安定を願いつつ、エモトによって考案された蜂一号計画を、守ろうとした。そう、はじめはな…」

 「え?」

 「だが、守ることはできなかった」

 「できなかった?」

 「ふふふ。できなかった…。だから、この通り、神様になり損ねたのだよ」

 「神様になれなかった、高齢者…」

 男性高齢者は、冷ややかに、口をゆがませた。

 「アプリケーション制度は、危険すぎた。蜂一号計画などというものは、絶対に、守れん」

 「…」

 「努力のいらないコースなど、社会で、必要ないのだ。蜂一号計画を承認しては、ならんのだ。もちろん、計画を阻止しようとしたとき、エモトは怒った。蜂一号計画により生まれし、高校生の姿を借りた永遠の女神様と、共にな…」

 「永遠の女神様…?」

 「そうだ」

 「それが、タマキさん…」

 「そうだ」

 「…」

 時間が、止まったような気がした。

 「私は、エモトとタマキの気を静めるために、エモトらにとっての希望の地図空間を、与えてやった。トランスファーの思いを込めた、交換条件というものだな」

 「…タマキランド」

 「そうだ」

 「あのテーマパークを見て、私は、愕然としたよ。努力のいらない新卒一括採用の醜さを、知った。あんなもの、制度化してはならん。あの新卒テーマパークは、闇の塊だよ」

 「そうだったのか…」

 肩を、落としていた。その逆に、男性高齢者は、勇ましいままだった。

 「私の名は、アリヅカ」

 一言置いて、鬼のような形相を見せた。

 「そして私は、アリヅカのアシスタント、エミコといいます」

 横にいた女性は、ニッコリとしていた。

 「カナメ君!努力だ。神様や女神様と戦い、乗り越えて成長していけるよう、努力をして生きなさい!」

 「私からも、エール!」

 「カナメ君?君は、新しい女神を捜し続ける努力を、しなさい。カナメ君!そして、トシユキ君もな!成長と努力は、何と、面白いことか。女神様には、いつでも、恋をしていきなさい。蜂一号計画のように、女神を作ることよりも、君たちは、女神を見つける努力をしてみなさい!良いかね?さあ、最後に、私に聞いておきたいことでもあるかね?」

 もちろん、望むところだった。

 「あの…」

 「言い給え」

 「さっき、その、アリヅカさんは、はじめは推し進めようとした蜂一号計画を承認できなくなったと、言いました」

 「そうだ」

 鬼の形相は、崩れなかった。

 「…それって、気持ちが揺れ動いていたっていうこと、ですよね?移り気、ですよね。まさに、トランスファー。アリヅカさんには、充分、トランスファーに、神様になれる資格があったんだと思います。それでも、神様になれなかったと、いうのですか?それは、なぜですか?」

 「…」

 アリヅカが答えることは、なかった。

 相変わらずの、鬼の形相だった。

 「さようなら。2人とも」

 エミコさんが言って、見えなくなった。

 白く輝く時だけが、残されていた。

 「神様、か…。女神様…、タマキさん…」

 気付けば、多様社会。

 この多様な社会に、専制的、一方的に強大な権力をもった神様など、必要か?

 「人の成長って、難しかったんだな」

 努力しなくてもなれる、神様…。そんな神様は、いらない…。新卒ちゃん…。いつか、消されるだろうから。

 「お前は、良い恋冒険に、良い成長ができたな」

 父親なら、そう言ってくれただろうか。

 「努力も成長も、楽しいもんだな」

 生きることが、楽しくなっていた。

 成長の旅は、最高級の冒険だった。

 「ああっ、女神様。これからも、冒険をするんだ!女神様を、さがしていこう!タマキさん?また、会おうね!…さあ、トシユキ、帰ろう」

 なぜか、涙が出ていた。

 「努力をしても良いのかも、知れない。父さん?僕の気持ちは、いつだって、不安定だ」

 なぜか、照れていた。

 「努力を、しよう」

 うれしかった。

 「そしてまた、会おう。トランスファーの君に!」











 

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神様、女神様に恋をして。そして、トランスファーの君に! @maetaka @maetaka1998

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