運賃(後編)

 結局D君が腰を上げたのは、さらに三つ停留所を過ぎた後だった。

 最初に降りられなかったのは、一実かずみが袖を引いたからだった。どうにか泣き止んではいたが、目に涙を溜めながら、お兄ちゃんお兄ちゃんと呼んでくる。だから次は寝たふりをした。一実はD君を真似する。居眠りしてくれたら、そのうちに行こうと思ったのだが、一実はD君の膝の上に頭を乗せてきた。頑として動かない。二つ目の停留所を過ぎた。

 とうとう一実を叱った。このままでは二人とも終点まで降りられない、と。もう一実は、嫌とは言わなかった。次で降りるから待ってろよ、と言うと、無言で頷いて窓を見遣る。その今にもくずおれそうな幼い決心があまりに切なく、今度はD君が妹を置いていけなかった。

 バスは田園地帯を走る。乗客は減っていたが、まだ十余人が残っていた。青い山肌が近い。ずいぶんと遠くまできた。


 一実の駄々を聞き入れなければ良かった、と思った。バスに乗らなければ、映画を観に来なければ――。後悔はしてみても、結局一実とバスに乗り込んだのは、そうすべきだと思ったからだ。

 父親は激務の中、週一日の休日を割いた。母親も休みなく家事に忙殺されている。それは家族のためであり、子供のためであり、突き詰めれば一実のためだ。まだ右も左も分からない子供の責任を、家族で分担する。当然だ。一実は自分の意思で生まれたのではないのだから。子供は無邪気に成長する、家族はそれを見守る。文字通り身を挺して。

 ――なぜ?

 こんなに大変なのに。面倒で厄介で、憎らしいのに。

 一実に付き添わなければいけないと決まったとき、気が進まなかった理由はこれだ、と思った。一実が生まれた瞬間から、D君には妹を守る責任が発生したのだ。母親は一実に付きっきりになり、父親は兄として妹を守るよう言い聞かせた。一実と四歳しか違わない少年に課せられた責任はあまりに重く、どうしようもなくなって泣き出すと、両親は取ってつけたようにD君を愛し始める。一時の寵愛。それは一層、D君を惨めにさせた。――守るべきは年少の者なのだ。

(一実を、守らないと)

 心から、そう思う。兄に、親に、年長の者に与えられた義務なのだ。その義務は、肉体を神経を擦り減らす。苦しくても放棄できない。


 不思議と頭が冴えて、心の内にわだかまっていた考えが脳内に溢れた。本でしか読んだことのない難しい台詞が滔々とうとうと流れだしてくるのが不思議だった。夢の中のように、突拍子もないアイデアが湧き出る感じ。

 たかぶった気持ちを鎮めるように、バスが速度を落とす。D君は立ち上がると、不安げに横目で見つめる一実に微笑み、手を差し伸べた。停車した車内を、二人で前へ歩いた。

 運転手は変わらず無表情に座っている。やはり前方の降車ドアだけが開いていた。

「あの、僕たち、お金が足りないんです」男はこちらを向いたが、怒っている風ではなかった。「さっき払ったので全部で、あといくら足りないかは分からないんですけど……」

 じっと男の目を見て反応を期待したが、動く気配はない。

「父が車に乗ってるんです。僕、公衆電話で父を呼んで、バスまで追いついてもらいます。必ずあとからお金を払うので、降ろしてもらえませんか」

 言いながら、先ほどメモ紙の裏に書いた連絡先を渡す。男はそれを受け取ったが一瞥することなく、ふと、固く握られた兄妹の手に視線をやって、首を横に振った。

「駄目です、二人は」D君を指さす。「君だけ」

 やはり、と肩を落とす。男は人質を要求しているのだ。

「……それは、出来ないです。一実は一人になるとパニックを起こすので。……どうか、二人一緒に降ろしてもらえませんか」

 D君は頭を下げる。真実、懇願から身体が動いたのだった。気づけば一実も頭を下げていた。兄の腕を握りながら、わけも分からず、けれど幼いながらに責任を感じて真似をする健気さが愛おしかった。

「置いていけばいい」

 頭上に降り注いだ冷ややかな声に、おずおずと顔を上げる。

 男が初めて表情を見せた。眉を顰め、心底呆れたような視線を投げてくる。

「厄介です、その子は」一実を一瞥する。「君から、両親の寵愛を奪った。泣き叫ぶことも、弱さをみせることも許されなくなった。それでも、愛さないといけないですか。我が儘に生きて、しかし保護されようと都合よく腕にしがみつく人間を」

 置いていきなさい、と憐れみを滲ませた声が降る。

「……出来ません」

「なぜ」

「……父さんと母さんに、妹を守れと言われたから」

「違う」男は瘦身から地響きのような低声をあげる。「染みついてるんだ、躰の奥の奥に。妹は守るものだ、幼い命は慈しむべきだと。合理的なことです。命を繋ぐには都合のいい仕組みだ。――でも本当に、身を張って守る価値がありますか。親なら分かる。でも君は、好きで妹を得ていない。知らぬ間に使命だけを背負わされた。妹のせいで辛い思いをしてきた。悪意なく家族に疎外されて寂しかった。それでも、一緒にいる必要がありますか」

 D君は咄嗟に頷けなかった。男の言っていることが正しい気がしたから。

 でも、と目を瞑る。D君は一実を愛していた。憎いと思うことはある。聞き分けはないし、勝手気ままな振る舞いに、妹などいらない、と思ったことも正直何度もあった。けれど、一実の表情が沈んでいるときは悲しい。一実が悲しんでいるとき、同じように沈み込んでいる自分を意識するたび、普段の奔放な明るさに、知らず知らず救われていたと知る。

 D君は目を開ける。

「……確かに一実はわがままで、面倒を見るのはとても大変だけど、でも、一緒にいたいと言われたら側にいてやります。それで僕も安心するから。……一実はまだ六つです。僕も子供だけど、少しは年上だから、妹を守らなくちゃいけない。一実は僕を頼りたい、僕は一実を助けたい。だから僕は一実と一緒にいます」

「それは答えになっていない! 君は摂理に毒されている! 親は子を守り、兄は妹を守り、幼子は周りに頼る。そうして必死で繋いだ命も、最後に必ず消えて虚無に陥るんだ。そんな世界に意味などない。不毛な循環に組み込まれて抜け出せないことを、なぜ受け入れられるんだ。人間はなぜ――」

 男はそこまで一息にまくしたて、はっと前方に視線を戻した。奥歯を噛みしめながら、ブレーキを踏む。バスは路肩に止まった。

「……行きなさい。その子と一緒に、後ろにいてあげるから」

 唐突な提案に呆気にとられたD君は、しかし男が立ち上がり、近寄って一実の手を取るのを見て、問題が解決したことを悟った。

「ありがとう、ございます……」

「救われたような目をしてはいけない。君は最初から降りられたのだから」

「え」

「でも君は降りなかった。妹をひとりにしておけないから。私はその繋がりの強さを切ないと思った。こんな感覚は初めてだから、せめて君のためになることをしてあげます」

 D君は首を捻ったが、男は気にする素振りもなく、一実の手を引く。

「次が終点です」

 そう呟く男に、一実の身体はついていく。

「一実、すぐ戻ってくるからな」

 握っていた手が離れた。通路を歩みながら、ちらりと振り返った一実の表情は、とても新鮮だった。少し大人になったような、知らなかった妹の顔。少女は不安げに眉を歪ませながら、しかし堂々とした足取りで歩いていく。

 D君はバスを降りた。通路の中程を歩む二人が見える。

 そのとき、目の前で降車ドアが閉まった。

「なんで……待って」

 瞠若してドアに取り縋っても後の祭り、バスは緩慢に発進する。

「誰が……」

 咄嗟に見遣った運転席には、見知らぬ中年男が寝そべっていた。額から、とろりと鮮血が流れている。

 いつの間にかフロントガラスが割れていた。乗客席の窓も割れている。車体の横腹は陥没し、後部から煙が上がり――。最後部の座席には二人が着席していた。けぶった車内に微かに見えた少女の名前を叫ぼうとしたが、とうとう一文字も浮かぶことなく、D君の視界は暗転した。


 刺すような後頭部の痛みに目を開けると、見覚えのあるトラバーチン模様が視界に広がった。糸くずを集めたような奇妙な模様。消毒液の匂いが鼻をついた。(病院だ)左手から啜り泣きが聞こえた。母親の声だった。右手を見ると、父親が安堵の息を吐いている。戻ってきた、と直感した。悪夢から醒めた幼児のように、D君は涙を流した。

 丸六日の昏睡から回復したD君は、世間の注目の的となった。十二名の死亡者を含む、死傷者二十五名を出した市営バスと暴走トラックの衝突事故。最後まで生死の行方が分からなかった少年の意識回復に、歓喜の声が止まなかった。

 三週間の療養を経て退院したD君を、大勢のマスコミが待ち構えていた。両親の必死の応対をすり抜けて辿り着いた記者に、D君は長い夢の話をした。暗がりの中で聞こえる無邪気な歓声、それを追っていると目が覚めたのだ、と。

「ご両親が毎日呼びかけていたそうですよ。声が伝わったんですね」

 ひとり頷きながら、嬉々として手帳に書き込む記者を横目に、もっと幼い声だった気がしたけれど、とD君は訝しむ。どこか思考の煙るようなもどかしさを感じながらも、両親に挟まれ、親子三人帰路に就いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

少年奇譚 数珠繋ぎ 小山雪哉 @yuki02

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ