拍動

 祖母が亡くなってTさんは、ではこれからはお祖母ちゃんと喋れるのだ、と嬉しがった。

 もちろん、死んだ人間が生き返らないことは六才男児なりに理解していたし、動いている祖母に会えないことが切なくもあった。しかしTさんの家族は、毎朝仏壇に参るのを欠かさず、墓参りも熱心だったため、難しい漢字の連なる位牌や墓石に、まるで友達と会話するように気安く話し掛ける様子を見て、人が亡くなると、特定の場所で意思疎通ができるようになるのだと信じていた。


 Tさんは、祖母が喋っているのを聞いたことがなかった。記憶にある限り――といっても物心ついてから二年ほどだが――祖母はずっと奥の間で寝たきりだったからだ。

 幾度か、母が祖母に対して恨みのこもった言葉を投げているのを見たことがある。祖母は生前、家族に相当あたりがきつかったらしい。しかし当時は、責められている祖母が可哀そうで、一層、声を聞いてみたい、話してみたいと思うのだった。


 未明に亡くなった遺体は、僅かの間、病院に安置された後、東の空が白み始めた頃には自宅へ運ばれた。さっぱりと涼しい初夏の朝だった。

 以前から準備をしていたお蔭で、葬儀屋の担当者と共に、淡々と死後の処置が進んだ。寺に、親戚に、近所にと忙しく電話を掛ける母親の横で、Tさんはカードゲームやら野球ボールやらをいじりながら、ぼんやりと家族の動きを眺めていた。


 昼過ぎになって親戚が続々と到着した。誰もが寂しそうに眉根を寄せているが、その瞳の奥には、どこか晴れ晴れとした、憑き物が落ちたような色が映っていた。

 仏間の隅に布団が敷かれ、祖母が仰向けに寝ている。沈痛な顔で合掌する大人たちの後ろで、Tさんは、薄化粧をした祖母の真っ白な顔を見つめていた。

(人形みたい)

 しかし死者は死者。その冷え切った肌に生気は微塵もなく、Tさんは遺体の冷気が自分の身体に染み込んでくるような気がして身震いした。

 通夜に先立って納棺が行われた。Tさんはこのとき初めて、「やめて」と呟いた。棺という物理的な壁で、今まさに外界と隔絶されようとしている姿は、祖母との対話への期待に満ちていたTさんですら、心が引き裂かれるような衝撃を受けた。

 通夜が始まった。言われた服を着て、言われた場所に座った。読経が済み、焼香が終わると、簡単に振る舞われたオードブルを一同で食し、遠方から来て一晩寝泊まりするごく近しい親戚を除いて、皆静かに家を去っていった。


 雨が降り始めた。夜九時を回った冷たい初夏の闇夜に、しとしとと雨粒が線を引く。

「涙雨か」ふと父親が縁側越しの庭を見つめて言った。「こりゃ風も吹いてくるかもしれないな。雨戸を閉めてこようか」

 母親が「そうね」と呟いたのを聞き、父親は庭に出て、ごろごろと木戸を引っ張ってきた。

 それから家族は、静かに、けれどもどこか落ち着かない様子で居間に身体を寄せ合っていた。       

 今や襖が取り払われ、仏間と居間と縁側が、家の中にぽっかりと大きな空洞を作っている。Tさんは他人の家に上がり込んでいるような寄る辺なさを感じて、始終緊張が取れなかった。


 十二時を回った。普段なら熟睡しているはずのTさんだが、さすがにこの日は眠れなかった。普段なら早く寝なさいと叱ってくる母親も、何度か「眠ってていいのよ」というばかりで、寝室へ行かないTさんをとがめようとしなかった。今夜は異常だった。人ひとりの心臓が止まったことが、こんなにも周囲の空気を変えてしまうことが恐ろしかった。

 結局父親の提案で、祖父、父、母の順に、朝まで二時間交代で寝ずの番をすることになった。Tさんは寝ていていいと言われたが、まるで戦力外のような扱いをされたのがしゃくに触って、父親の番のときに一緒にいると言い張った。


 二時になった。「来られるか」と布団を優しく叩かれ、Tさんは目を擦りながら、父親の腕を握って仏間へと歩いた。

 仏間には蛍光灯が煌々こうこうと照っていたが、眠気のせいか、はたまた線香の煙のせいか、どこかほの白く視界がぼやけていた。

 二人は部屋の右端に座った。正面には、布の掛けられた柩が横たわっている。ちょうど祖母の左手側に、二人が座るような格好だった。

「お前は祖母ばあちゃんと喋ったことはなかったか」

「うん。お祖母ちゃん、ずっとベッドで寝てたから」

「そうだな……」

 父親は柩の頭側に飾られた小机を見る。山盛りの御飯に立てられた箸、垂直に伸びる蝋燭の火、吊り下げられた渦巻き線香の螺旋の先には、ごく小さな、しかし火にも劣らない熱が秘められている。

「……お袋も苦労してきたんだ」父親は、火を見つめて独り言のように呟く。「確かに情緒は不安定で、俺も疎ましく思ってたことはあるが、やっぱり親が亡くなると辛いもんだな」

 Tさんが首を傾げると、父親は笑ってTさんの頭を撫でた。


 それから半時間ほど無言だった。父親の言った通り、今や風がびゅうびゅうと音を立てるほど強まって、雨粒が木戸に叩きつけられていた。

「ちょっと小便」

 そう言って父親が立ち上がり、縁側を歩いていった。

 ひとりになったTさんは、胸騒ぎがするのを感じた。両手で胸を押さえる。少しずつ、しかし確実に速くなっていく鼓動に合わせて、視界が小刻みに揺れた。おさまれ、おさまれと念じながら、無意識に蝋燭の火を見つめていると、Tさんは「おかしい」と直感した。

 火が揺れていた。自分の動悸のせいで視界が揺れていると思っていたのだが、火はそれよりはゆっくりと、まるで時計の秒針が刻まれるほどの速さで震えている。

 ど、ど、と揺れる火。もしやその震源は、柩ではないか、とTさんは無意識に考えた。

 身体が石のように硬直しているにも関わらず、Tさんは四つん這いで柩へと近付いた。

(ふた、開くのかな)

 遺体の顔の位置には観音開きの小窓がある。弔問客がそこから覗いていたのは見ていたが、勝手に開けても良いのだろうか。そう考えている間にも、ど、ど、と音は続いている。

 Tさんは外廊下に父親の足音がしないことを確認すると、柩の布を払い、逡巡の後、一息に小窓を開けた。

「わあっ」

 全開した小窓に映ったのは、かっと千切れそうなほど見開いた両目。黒目は異常に大きく、白目は血走っている。口元は、まるで何かを訴えるように半開きになっていた。

 Tさんは跳ねるように後退あとずさり、全身をわなわなと震わせたまま動けなかった。

 ど、ど、ど、と鼓膜が震える。

(生きてる)

 祖母の心臓が動いている――それはあまりにも不可解で恐ろしく、六歳の少年の頭で処理できる類のことではなかった。思考が渦を巻いて、なにも考えられなくなっているところに、背後から、ぬうっと伸びてきた腕がとどめを刺した。

 Tさんは声もなく横に飛び跳ねた。

「……ごめんなさい、驚かせて」

 なんとか視線だけは声の主を追いかける。Tさんの背後にいたのは、同い年くらいの少女だった。困ったような視線を向け、Tさんを見下ろしている。

「お手洗いに行きたくて、でも迷ってしまったの」

 お手洗い、迷う、と声に出していくと、徐々にTさんの身体は緊張を解いていく。少女が離れに泊まっている親戚の誰かだと理解すると、ようやく「ああ、そう……」と声が出た。

「……縁側に出て、まっすぐ進んだとこ」

 けれど今は父親が入っている、と言いかけて、Tさんは再び固まった。

 少女が柩に釘付けになっている。布がとられ、小窓の開いた柩。そして中には――。

「……目が開いてる」少女は膝をついて、柩に耳を当てる。「心臓の音が聞こえる……」

 少女はTさんに視線を遣る。Tさんは咄嗟に布を拾って取り繕おうと思ったが、

「お祖母さん、生きてるの……? 早く隠さなきゃ!」

「隠すって」

「このままじゃ、明日焼かれるよ! 生きたまま、熱い熱いって苦しむよ!」

 少女の鬼気迫る語調に気圧され、Tさんは、確かにこのままでは少女の言う通りになってしまう、と思った。家族も親戚も、祖母を嫌っている。生きていると訴えても、むしろ喜んで火葬してしまうのではないか。

 少女の指示で、Tさんは柩を頭の方から押し、少女は足の方から引っ張るようにして、縁側へ押し進めた。想像していたよりは軽かったが、六才二人ではなかなか進まない。それでも、ざりざりと畳を擦りながら、どうにか縁側まで柩の下半身が出た。

「どこへ隠せば」

 少女は庭を示す。

「雨戸を開けて! 外へ出すの」

「そんな」

 雨戸には先ほどにも増した猛烈な風雨が打ちつけている。戸を開けただけでも、吹っ飛ばされそうな勢いだというのに、彼女はどこへ運ぼうというのか。

「早く」

 少女から表情が消えた。視線を合わせていられずに俯くと、祖母が小窓の向こうで苦しそうに顎で呼吸していた。

「早く」

 少女が歩み寄ってくる。祖母が下から、低い呻き声をあげた。

(これが、お祖母ちゃんの声)

 祖母の鼓動が強くなる。呻き声も、苦痛に歪んだ表情も、刻一刻と酷くなっていく。

(ぼくが助けるからね)

 小窓に顔をめいっぱい近付けたTさんに、祖母は目が飛び出すほど目蓋をかっ開き、そして、ひゅうと風船が萎むような呼吸音を立てながら目を閉じた。鼓動が遠ざかっていく。

「まって、まって」

 一拍、一拍と間隔が広くなる。そしてついに、Tさんの思いも虚しく、疲れ果てた太鼓奏者のように最後の一拍が力の限り叩かれると、それきり心音は途絶えた。

 ふと頭上に息遣いを感じて振り向く。表情のない少女がTさんを覗き込んでいた。彼女はしばらくTさんを――あるいはTさん越しの祖母を――見ていたが、興味を失ったようにそっぽを向くと部屋を出ていった。

 無風の庭の水溜りに、しとしとと雨滴の落ちる音が響いていた。


 父親曰く、Tさんは柩の横でぼうっと座っていたらしい。こんな罰当たりなことをしてさぞ怒られるだろう、と微かに思っのは覚えているが、父親は驚きながら柩を戻し、自分の番が終わるまで、じっとTさんを膝にのせて抱きかかえていた。

 二十年以上経った現在、父親にそれとなく尋ねると、当時の親戚には六才くらいの少女などいなかったし、弔問客の中にも、その年頃の子供は見掛けなかったという。

 柩が縁側まで動いていたことも、中の遺体が不自然に乱れていたことも後に判明した確かな事実だが、Tさんはこれを、悪人を地獄に連れて行くような獄卒や、亡骸を奪う猫の妖怪だなどとは毛頭信じていない。あくまで寝ぼけていたTさんが、通夜という異常な夜、疲弊した頭で見た幻覚であると思っている。――雨の夜に、柩の中の拍動が聞こえるはずはないのだから。

 それでもTさんは、葬儀に立ち会うたびに、故人を悼みこそすれ、不用心に生き返ってほしいとは思わないよう気を付けている。

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