蒼白

 Aさんは幼少期、活発な男子だった。といっても、いわゆる餓鬼大将のようなリーダー気質ではない。学校が終わると、友人と裏山や河川敷で走り回り、遊び疲れると、誰かの家へ夕飯を馳走になって帰る――そんな活動的な少年時代を送っていた。


 小学五年生の春のこと、Aさんは「座っているだけでお金が貰える」という噂を聞いた。

 大人になった今は、そんな胡散臭い話には見向きもしないだろうが、なんたって五年生だ。クラスの友達は皆、ゲームに興じていたし、隣県まで自分たちだけで電車に乗って買い物に行ったのだと自慢する者もいた。小遣いだけでは到底足りないほど、欲しいものが膨らむ年頃だった。


 Aさんはとにかく、その噂の内実を知ろうと、クラスを駆け回って話を聞き集めた。

 奔走した結果、噂の出所が、同学年のある女子だと判明した。彼女の家の近所には、煉瓦造りの小さな洋館がある。以前は老夫婦が住んでいたのだが、いつからか貸家になっていた。そこに最近住みだしたのが大学生の青年であり、その青年こそ「座っているだけでお金をくれる」人だという。

「若手では間違いなく一番期待されてる人よ」と、彼女は自慢げに言う。なんとかという権威あるコンクールで優勝したらしく、既に画家としての収入もあり、洋館を借りてアトリエにしているらしい。彼女の母親が、青年からデッサンモデルを頼まれたらしく、「座ってるだけで謝礼を頂いちゃったわ」という母親の言葉が、巡り巡ってAさんの元に来たというわけだった。

 しばらくは「洋館へ行った」と言う者が絶えなかった。しかし誰もが、洋館の前を通ったり、塀に上って庭先を検分したりするだけで、中に入って青年に会った、という者は皆無だった。


「行ってみようよ」

 そう言い出したのは、最も仲の良かった友人だった。かっくん、と呼ばれていた彼は、Aさんに、洋館へ行って自分たちをモデルに描いてもらおうと相談してきた。今考えると、なんと傍迷惑な押し売りだろうと思うが、当時のAさんたちは、子供だけで何かをするという背徳感、あわよくばお金まで手に入るかもしれないという期待に、視野が狭くなっていた。

 Aさんは迷いなく「行く」と告げた。行く、とは勿論冷やかしに前を通ることではなく、チャイムを押して洋館に入り、青年に会うことだ。そしてデッサンモデルをしたいとお願いする。

 二人は何故か、どちらが先に行くか話し合った。こればかりは二人で行けば良かったとつくづく思うが、もしかすると、青年が二人分の謝礼金を払わなければいけないことを気にして断るのではないか、と思ったのかもしれない。

 かっくんが先に行くことになった。

 決行は金曜の放課後。一週間で最も開放的な時間だ。


 Aさんはその日――自分が行くわけではないのに――朝から落ち着かなくて、幾度となく先生に注意散漫を叱られた。一方かっくんは平然としていて、時折Aさんに、余裕ある微笑を向けてきたりしている。

(すごいなあ)

 Aさんは、かっくんを友人でありながら、兄のように尊敬していた。かっくんはAさんより大分小柄だったが、学年で唯一柔道を習っていた。身体が大きくて威張っている奴も、Aさんに悪戯ばかりしてくる奴も、かっくんなら全員倒せるのだ――そう思うと友人であることが誇らしかった。

 一度家へ帰ってから、公園で待ち合わせた。かっくんは家から走ってきたのと、いよいよ迫った決行の緊張感に、顔を上気させていた。

 かっくんはAさんに、戻って来るまで公園で待っていてほしい、と言った。Aさんは快く了承した。それから手に入れたお金であれを買いたい、これも欲しいと談笑したあと、かっくんは「行ってくる」と背中を弾ませながら公園を後にした。

 Aさんは後を尾けた。もとよりそのつもりだった。何かがあったら助けなければ、という思いもあったが、八割がた好奇心で身体が動いていた。


 住宅地の太い道に面して、洋館は建っている。子供の身長ほどのブロック塀に囲われ、ひし形格子の門を透かして、玄関アプローチが西日に煌々と照らされているのが見えた。

 かっくんは躊躇いがちにインターホンを押した。何事か話すと、門を開けて進み、音なく隙間の空いた玄関ドアに身体を滑り込ませた。

 Aさんは屈み歩いて、門の中へ忍び込んだ。

 玄関までは石畳が続いている。Aさんは玄関の東隣に背伸びをすればなんとか届きそうな窓を認めると、庭をそっと進んで、窓のすぐそばに迫った。

 そっと身体を伸ばして、中を覗く。二十畳はありそうな広い部屋だった。一階は全てアトリエなのだろうか。図工室にも似た、無機質な白壁の部屋に、完成した絵を置くためのラックがいくつも並んでいる。

 かっくんが奥から入ってきた。後ろで笑っているのが、例の青年だろう。

 いたって真面目そうな青年だった。細身の黒いズボンに、染み一つない真っ白なシャツを着ている。先に行きたいと言えば良かった、とAさんは少し後悔した。

 青年は机や雑多な道具を壁へ寄せ、部屋の真ん中に木の椅子を一脚置いた。かっくんをそこに座らせ、真正面にイーゼルを向かい合わせる。Aさんから見ると、左にかっくん、右に青年が向かい合う格好だ。青年は画板や画用紙をセットすると、鉛筆を握った。


 恐ろしく静かだった。窓の外のAさんには、住宅地の環境音が聞こえているが、部屋の中が張り詰めて、指一本動かせない緊張に満ちていることは、かっくんの硬直した姿勢から、痛いほど伝わってきた。

 三十分も経っただろうか。何度か休憩を挟みつつ、青年のデッサンは順調に進んでいるようだった。さすがに若手ナンバーワンと言ったところか、画用紙には既に、かっくんの精巧な鉛筆画が浮かび上がっていた。

(でも父さんの方が上手い)

 Aさんの父親は趣味で絵を描いていた。それを毎日見ているせいか、青年の描いた絵は綺麗だが、どこかありきたりで、上手いとは思っても、美しいとは思えなかった。

 ――思ったより大したことない。

 Aさんが内心で悪態づいたとき、急に青年が首を九十度回して窓を見た。反射的に屈みこんだAさんは、どうか気付かれていないようにと願いながら息を殺した。青年の近付く音が微かに聞こえる。窓の前でしばらく止まった音は、ぴしゃり、と何かを引く音がして、再び部屋の中央へと戻っていった。


 息を殺したまま立ち上がったAさんは、窓の向こうにカーテンが引かれたことを知った。気付かれたかどうかは分からないが、もう中の様子は見えないのだ、そう失望しかけたところに、窓の右端だけ、僅かにカーテンの隙間が空いていることに気付いた。

 Aさんは窓に張り付いて、片目で様子を見た。

 先ほどまでとは視野が段違いに狭くなってしまったが、キャンバスと青年の動かしている手元だけは辛うじて見えた。

 仕方なしに棒立ちになったまま部屋を覗いていると、ふと青年が椅子から立ち上がり、描きかけの画用紙を手に取った。かっくんのいる左側へ歩み寄る。すると青年の身体が完全にカーテンに隠されるわけだが、その瞬間、Aさんは猛烈な立ち眩みに襲われた。

 視界を黒煙が立ち込めるように覆い、次いで耳塞感が訪れる。視力と聴力を同時に失ったAさんは、その場に蹲った。冷や汗が目に入る。異常を示す視聴覚とは裏腹に、思考は冴え、自分は一生目が見えないのか、点字を覚えないといけないな、などと考えていた。


 それから五分ほどして、唐突に身体が軽くなった。水中から水面に顔を出したように、視界に光が差し、音も聞こえ始めた。Aさんは長い息を吐いて安堵した。

 軽い目眩が収まった頃、中の様子を見ようと立ち上がったAさんは、カーテンが再び全開していることに気付いた。窓に顔を近付けて中を覗くと、そこに青年はおらず、かっくんだけが座っていた。Aさんは驚愕した。

(真っ青だ)

 かっくんは姿勢こそ変わらなかったが、全く血の気がなく、顔面蒼白で虚ろな目をしていた。異常を察して部屋中を見回すと、Aさんの目はキャンバスに釘付けになった。

 淡く彩色された少年の肌、頬に射すほのかな赤み、血色の良い唇――それはまさに血の通った少年の、生気そのものが着色した、見事な人物画だった。

 ――美しい。

 今思い返しても、あれほど美しい、今にも喋り出しそうな生々しい絵画を見たことはない、とAさんは思っている。


 それからAさんは、沸き立つ恐怖のままに家へ駆け出した。

 月曜に教室へ来たかっくんは、アトリエで見たのと同じく蒼白で生気がなかった。

 かっくんと一度だけ目が合ったが、その虚ろな瞳に映った闇が恐ろしくて、Aさんは話し掛けることが出来なかった。

 かっくんは翌日から学校に来なくなった。洋館は翌月、再び空き家になった。

 Aさんは今でも、洋館の前を通るたびに軽い立ち眩みを覚える。しかし、友達を見捨てた疚しさと、あのときカーテンの向こうで行われた不可思議な行為への純粋な興味から、あの青年に会いたいという欲望を捨てきれずにいる。

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