おうちにかえろう

山下若菜

おうちにかえろう

「今日からここが俺たちの家だ!」

義人がそう言ったので私は

「そうね。これからよろしくね。」

と言った。


義人はかわいい奥さんと小さな男の子二人を連れてきた。

小さな男の子は喜んで駆け回り、少し大きな男の子は、奥さんの手を引いていた。奥さんはお腹がとても大きかった。


それから少しして家族は五人になった。産まれたのは女の子で、二人のお兄ちゃんも奥さんも義人も末娘を物凄く可愛がった。


それからまたしばらくしてお兄ちゃんたちはランドセルを背負うようになった。

流行りの遊びをしたり、日に日に伸びる身長を柱に刻んでは競い合う。

末娘はようやく覚えた歩き方で駆け回るお兄ちゃんたちを追いかけるのだが、到底追い付くことが出来ずいつも泣いていた。

真ん中のお兄ちゃんはそれをとても疎ましく思っていたが、一番上のお兄ちゃんは末娘の歩みに合わせて歩いてくれた。

それがまた真ん中のお兄ちゃんの癪に障ったようで、兄弟妹はよく喧嘩をした。

私は毎度喧嘩の行方にはらはらしたが、奥さんがちゃんと全員の言い分を聞いて喧嘩を納めるので、やはり母親というのはすごいんだなぁと尊敬した。


義人は国鉄に勤めていた。国が運営している鉄道会社だ。

給与もそれなりにあったし、家族が暮らしていくのに何不自由はなかった。


しかしある日、国鉄が民間企業に売りに出されることが決まった。

そのニュースを聞きつけて、義人の弟が義人に


「一緒に事業をやらないか」


と持ち掛けてきた。


「俺は家族を守らなければならない」


義人は言った。

私も同じ気持ちだった。

けれど奥さんは言った。


「義人さん。私はね、あなたが家族を守ってくれることはとても嬉しいわ。けれどあなたが自分のやりたいことに蓋をしているのなら、私は守ってもらわなくても結構です」


奥さんはそれからこう続けた。


「私があなたの盾になります。共に戦いましょう」


義人と私は頭をガーンと殴られたような衝撃を受けた。

奥さんのほほ笑みはそれほどに印象深かった。

おそらく義人はこの時もう一度奥さんに恋をしたに違いない。


それから義人は弟と一緒に新たな事業に乗り出した。

はじめは結果のついてこないことの方が多かった。

奥さんは庭に畑を作り、白菜、長葱、トマト、キュウリ、何でも作った。

奥さんがあまりに一生懸命やるので子供たちも畑づくりを手伝うようになった。

収穫した野菜は食卓を彩った。

そして奥さんはとれた野菜をご近所さんにおすそ分けした。


私は「自分たちが食うに困るかもしれないのに人に分け与えるなんて、奥さんは何を考えているんだ」

と、またはらはらしたが奥さんは笑っていた。


「畑の恵みは神様から分けていただいた恵み。神様から分けてもらった恵みを人に分け与えることは当たり前よ」


子供たちも笑っていた。

義人が帰ってくると子供たちはわれ先にと自分がいかに野菜作りを手伝ったか、どんな風にしたらうまく収穫できたか、近所の人に野菜を持って行ったらどれだけ喜ばれたか、といったことを話した。

義人も心から笑った。そうかそうか偉かったな、と子供たちを褒めた。

私の心配など全くの杞憂だというかのように、家族には幸せがあった。私はその時もう一度心に誓ったんだ。


「何があってもこの家族を守る」と。



それからずいぶんと時が流れた。

義人の事業はようやく軌道に乗り、奥さんが手を枯らさなくても暮らしていけるようになった。

それでも奥さんは畑づくりをやめなかったし、ご近所さんと一緒に町内清掃や巡回パトロールにも精を出した。


しかし家族が常に平穏だったかというとそうでもない。


賢く優しかった一番上のお兄ちゃんは病を患い、かえらぬ人となった。

私は心が軋む思いだったが義人も奥さんも涙を見せることはなかったので、私も泣かなかった。

あの二人より先に私が泣くのは違うと思った。


それから真ん中のお兄ちゃんは義人と大喧嘩をした。

将来のやりたいことについて意見が食い違ったからだ。

真ん中のお兄ちゃんは飛び出すように出て行ってしまった。


そして末の娘は結婚を機に出て行ってしまった。



ここには義人と奥さんだけになってしまった。

私はとても寂しかったけれど、やはりそれを言うことはなかった。

私より義人と奥さんのほうがずっと寂しいだろうということがわかっていたからだ。

私は何にも言わなかった。けれど必ず家族を守ると決めていた。



それからしばらくして、末の娘がやってきた。

末娘は二人の小さな男の子を連れていた。


「ここがおじいちゃんち。しばらくお世話になるよ」


末娘がそういうと小さな男の子は喜んで駆け回り、少し大きな男の子は末娘の手を引いた。末娘はお腹がとても大きかった。


それからの日々はとにかく騒がしかった。

小さな男の子たちは駆け回り、背を比べたり。

柱についていた印に自分を重ね


「僕!昔のお母さんより大きくなった!」


と言った。

義人も奥さんも


「そうね、もっともっと大きくおなり」


と言ってテーブルの脚が折れるんじゃないかというくらいのおかずとお茶碗にてんこ盛りのご飯を出した。


私は笑った。絶対にそんな量食べられないでしょうよ、と。

家族は笑った。私はとても幸せだった。



私が家族を見守るようになってからどのくらいの月日がたったのか、私も正確には覚えていない。

けれど義人が私にそっと手を触れて


「今まで本当にありがとう。これからは俺の家族達をよろしくな」


と言ったあの日を、私は絶対忘れない。




義人が去って奥さんが一人残された。

末娘とその子供たちは年に何度も遊びに来てくれたけれど、私はとても寂しかった。

けれどそれを言うことはなかった。

だって奥さんのほうがずっと寂しいことを私は知っている。

奥さんが寂しいと言わないのに私がそれを言うのは違うと思っていた。


「それはね、違うと思う」


ある日奥さんがそう言った。

奥さんの周りには誰もいない。

私はどうしたのかと奥さんの言葉に耳を傾けた。


「あなたが寂しいという気持ちを押し殺す必要なんてない。悲しいと思う気持ちを押し殺す必要もない。そうでしょう?」


私は驚いた。奥さんはきっと「私」に話しかけている。


「いつの間にか、私が一番あなたと長く過ごした人間になっちゃったわね。」


私は奥さんの問いかけに恐る恐る答えた。


「そうですね」

「どうして敬語なの?」


奥さんは笑った。私は震える声で言った。


「だってその、私は…」


そんな私の様子を察してか、奥さんはより優しい声で言った。


「義人さんもさ、この世を去る前あなたと話したでしょ?」


私はハッとした。


「そういうことよ」


奥さんはほほ笑んでいた。

私は自分でもびっくりするような大きな声で


「嫌です!あなたまで失ったら私は誰を守ればいいんですか?」


と叫んだ。

奥さんはうーんと少し考えてから


「うちの末娘は?あ、孫が住むかも。でもどうだろうなぁ。だいぶん古くなっちゃったし、いろんなところにガタがきてるもんねぇ。ふふふ、私と一緒だ。」


とあっけらかんと言った。


「…私は、義人さんが私を建ててくれたからこの世に生まれることができました。義人さんがいなければこの世にいる意味はないとさえ思いました。それでも…」


私はいつの間にか泣いていた。

ぽたぽたと落ちる雫に奥さんは


「泣いてるの?それとも雨漏り?」


と聞いた。

私は胸を張って


「雨漏りなんて絶対しません!私は義人さんの家族を守るためにここにいるんです!」


と言った。

すると奥さんは


「そうか。じゃあ今あなたは泣いているのね」


と言って優しく私を撫でた。


「ありがとう。私あなたに守ってもらえて幸せだったわ。義人さんと一緒になって大変だったこともあったけど、義人さんもあなたも、ずっと私たちを守ってくれた。本当にありがとう。」

「嫌です!お別れの言葉なんて言わないでください」


私はもう置いて行かれたくなかった。

義人さんを失って奥さんを失って、それでも自分がここにあり続ける意味を見出せなかった。

義人さんと奥さんの娘、さらにその子供たち、大好きだった。

これからも守ってあげたい気持ちはあった。

けれど義人さんと奥さんに置いて行かれるほうが嫌だった。


「…だから言ったでしょう?」


奥さんは言った。


「あなたが寂しいと思う気持ちを押し殺す必要はない。悲しいと思う気持ちを押し殺す必要もない。そうでしょう?」

「…どういうことですか?」


戸惑う私に奥さんは優しくほほ笑んだ。


「あなたは私たちの為にずっと我慢をしてきてくれた。もうワガママになったっていいの。あなたはどうしたい?私に教えて。」


それはいつだったか、子供たちの喧嘩を諫めた奥さんが一番上のお兄ちゃんに言った言葉と同じだった。

私はその時初めて気が付いたのだ。

私は義人さんとこの人の子供だったということに。




「ねぇお母さん、どうして泣いているの?」


末娘の一番小さな息子が聞いた。


「どうしてかな…」


晴れているのに雨が降る不思議な天気の日。

クレーンに吊り上げられた黒い鉄球が、幼少のころから過ごした家を打ち壊していく。その姿に末娘は涙が止まらなかった。

それは寂しい悲しいという気持ちだと思った。

寂しくて悲しくて自分は泣いているのだと。

けれどただそれだけではないような気がして、あふれる涙を止めることが出来なかった。


「お母さん、抱っこして」


息子がそう言うので、末娘は息子を抱きかかえた。

息子はその瞳に打ち壊されていく家をとらえると、静かにこう言った。


「そうなんだね。わかったよ」


息子が不思議なことを言うので末娘は


「どうしたの?」


と聞いた。すると息子はにっこりほほ笑んで言った。


「おじいちゃんとおばあちゃんが天国にお引越ししたから、お家も天国にお引越しして、またおじいちゃんたちを守るんだって、張り切ってるよ」


末娘は心臓をきゅっと掴まれた思いになった。

寂しくて悲しくて零れていたんだと思っていた涙が、ずいぶんと温かく感じた。


「そうか。お家はおばあちゃんと一緒に天国に行くんだね。それなら寂しくないね。天国でもおじいちゃんたちをよろしくねって言わなきゃね」


末娘がそう言って笑うと、息子も笑った。

いつの間にか雨はやんでいて、青く抜けるような空には虹がかかっていた。

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