クライム・ダズント・ペイ

雷田(らいた)

第1話

 私たちは彼のことを「犯罪」と呼んでいた。誰も彼の本当の名前を知らなかったので、みんな好きなように呼んだ。他にも「のっぽ」とか「ヨッパライ」とか「ろくでなし」とか、彼にはたくさんの名前があったが、私たちが一番好きだったのは「犯罪」だった。といっても、「犯罪」はそんなに悪い奴じゃない。彼は他人におごらせては、さっさとトンズラするのが天才的に上手いのだ。「クライム・ダズント・ペイ(犯罪は割に合わない)」というわけ。ハハハ。


 「犯罪」に初めて会ったのは、半分地下に埋まったアイリッシュ・パブだった。ここは私たちのお気に入りの場所で、映画館が近いし、店主は無愛想だし、客がみな他人のことをちっとも気にしないので居心地がよかった。

 その日の労働を終えたころに送られてきた「今から飲める人募集」というエリカのLINEにつられて、いつものメンバーが樽で出来たテーブルに集まり、愚痴をこぼしながら勢い余ってビールもこぼしていた。議題は今日の昼にニュースになった、ユリの「推し」の俳優が結婚したことについて。要するに、その日はユリを慰めるための会だった。

「私だって、好きでショック受けてるわけじゃないもん。推しの幸せを素直に祝えない自分はなんてダメなファンなんだろう……ってなるし、ツイッターには良い子ぶって『おめでとうございます!』とか書いてるけどさ、それとこれとは話が別だもん」

 集まったのは私とユリとエリカだった。職場が誓いこともあって、集まるのはたいていこの三人だ。 

「ちょうど昼休みにさ、『ご報告』ってタイトルのブログがアップされたの。『ご報告』だよ? もう、通知見た瞬間、ぞわーって。これかーって思ったよね。見たくなかったけど、見ちゃった。おかげで今日の仕事はね、帰らなかっただけ偉いよ」

 ユリが早口でまくしたてながら、器用にその合間にビールをあおる。ユリは小柄で声が高いので、早口でしゃべると小動物のようだ。

「でも、マスコミの報道で知るよりは、本人が先に言ってくれたほうがよくない?」

 なんの慰めにもならないことを承知で私がフォローを入れ、エリカがすかさずそれを台無しにする。

「そもそも、カノバレ炎上してたことあったじゃん。あの時の彼女と続いてたってことなんかね」

 同じようにこのパブでユリを慰めたのは、ちょうど一年前だった。ユリの推しの彼女との写真が流出し、炎上したのだ。それだけでもショックなのに、それに便乗するように元カノを名乗る謎の匿名アカウントがその俳優とのセックス事情を暴露し始めたりして、ファンは燃え上がる山の前で立ち尽くすがごとくだった。結局、真偽不明のまま匿名アカウントは数日で消え、俳優は沈黙を続け、焼け跡に佇んだしぶといファン(ユリを含む)はそれでもこの山に住み続けることを誓った。一年が経ち、山は再び緑を取り戻しつつあった。渡り鳥が帰ってきたのを見たという者もいた。そのタイミングだったのだ。

 炎上からここまでの道のりに思いを馳せたユリはますますヒートアップして、比例して声のボリュームも大きくなっていった。店の中に、彼女の絶叫が響く。

「だと思う。一般女性って言ってるし。こんな知らせをいつかは聞くんじゃないかって思ってたけどさー、もう!」

 ユリが勢いよくグラスをテーブルに置き、中身の半分が飛び散る。ちょっと、声でかいよ、とたしなめようとしたそのとき、店の客の一人が突然声をあげた。朗々とした男の声だった。

「このような知らせを一度は聞くだろうと思っていた」

 店中が声の方を見ると、カウンターで一人飲んでいた男が立ち上がった。店の中だというのにコートを着たままで、異様な雰囲気をしていた。パブのうすぼんやりとした明かりのせいで、顔はよくわからない。

 男はおもむろにテーブルの上に飛び乗った。長い脚で悠々と飛び上がるその様は、まるでピューマが跳ね上がるのを見ているようだ。衝撃でビールのグラスが揺れ、ぶつかってガチャンと音を立てた。

「明日、また明日、また明日と、時は小きざみな足どりで一日一日を歩み、ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、昨日という日はすべて愚かな人間が塵と化す死への道を照らしてきた」

 男はどうやら、シェイクスピアのセリフを諳んじているらしかった。テーブルからテーブルへと大股で移動し、店の客はみな、呆気にとられたまま彼を見上げた。男は痩せぎすで、そのくせ背が高かった。おまけにテーブルの上に立っているせいで、その高さにはほとんど神聖さがあった。男は長身を揺らめかせながら、樽の上で予言と亡霊に取り憑かれた王を演じ続けた。客たちは、まるで催眠にかかったかのように、ただ息を飲んで彼を見つめた。

「消えろ、消えろ、つかの間の燈火! 人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、舞台の上でおおげさにみえをきっても出場が終われば消えてしまう。白痴のしゃべる物語だ、」

 男が長い腕をふりかざし、足音を立てると、そこはもう劇場だった。

「……わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、意味はなに一つありはしない」

 男が独白を終えると、店の中は静まりかえった。男が顔をあげ、そこで初めて私は彼の顔をまじまじと見た。頬が少しこけていたが、整った顔立ちで、なにより凄まじい眼力を放つ目をしていた。撫でつけた髪の下、突き出た広い額に汗が浮かんでいるのが光って見えた。年の頃は三十半ばくらいに見えたが、だいぶ疲れた顔をしていたので、本当はもっと若かったかもしれない。

「おにいさん、上手上手!」

 静寂を打ち破ったのはエリカのバカ笑いだった。エリカは声もでかけりゃ手もでかいので、当然拍手もでかい。巨体を揺らしてギャハハと笑うと、店全体が揺れたかのうようだった。普通の人間なら馬鹿にされていると思っただろうが、男は恭しくお辞儀をした。ヴィンテージらしきロングコートの裏地の裾が、ほつれて紐のれんみたいになっているのが見えた。どいつもこいつも酔っ払いばっかりだ。

 エリカが手招きをして、男は私たちと一緒に座った。客たちは、文句も言わずにそれぞれのお喋りに戻った。今起こったことは夢なんじゃないかと思うくらいだ。

「面白いもん見せてもらったからさ、ね」

 「犯罪」はエリカのおごったビールをグイグイ飲みながら、自分は売れない役者をしているのだと言った。

「俺のエージェントときたら、ロクな仕事をもってきやしない。最後の仕事なんて、チューイングガムのコマーシャルだった」

 私たちはそのチューイングガムの名前を尋ねたが、誰も知らなかった。

「でもさ、お兄さん、カッコいいもん。そのうちいい仕事に巡り合ったら、ぜったいスターになるね。保証する」

 エリカの無責任な予言に、男は満足したようだった。

「そうそう、カノバレ炎上さえしなきゃね」

 ユリが独り言のように言った。

「何かつまむものも頼もうか。お兄さん、お腹すいてる?」

「そりゃもう。ここ最近、小麦粉を水で溶かして焼いたやつしか食べてないもんで」

「えーっ、ダメじゃん。もっと食べなきゃ」

 エリカは手羽先やら小さなカヌーほどもある皿に盛られたポテトやらを頼むと、「食べきれなければアタシが食べるから」と言ってニンマリ笑った。だが、結局男はそれらをほとんど平らげた。私たちは男が次から次へと皿を空にするのを眺めて満足した。それは犬に餌をやったり、ふれあい動物園のヤギにニンジンを差し出す感覚に似ていた。

「お兄さんが舞台に出るなら、絶対見に行くのにな」

 エリカは頼まれてもいないのに人をおだてるのが好きだ。

「出たいのはやまやまだが、まともな役が回ってこない」

 男はギネスをあおり、ポテトを流し込み、手羽先を吸い込んだ。

「いっそ、ここで何か出し物をやらせてもらえば。ほら、たまにフィドルの演奏してるときあるじゃない。ああいう感じで。さっきのだってキマってたし」

「そりゃいい。パブ演劇か。パブが舞台の演劇だってあるくらいだしな」

 誰も彼も酔って上機嫌だったので、皆好き勝手にアイディアを出して楽しんだ。

「お兄さん、もう少しきちんとした格好をしたら、すごく素敵だと思うんだけどな。家を出てくるときに鏡は見なかったの」

 私はエリカに咎めるような視線を送ったが、男は気にしていないようだった。エリカには、失礼なことを言っても許される能力がある。

「家に鏡は置いてない。いつか朝起きたときに、自分がどんなにくだらない人間だったかに気がつくのが嫌だから」

 私は冗談だと思って笑ったが、男がムッとした顔をしたので大真面目だったのだと分かった。気まずさをごまかすために、私は慌ててグラスを掲げた。

「鏡のない家に乾杯」

「鏡のない家に」

 私たちはギネスのグラスを掲げ、互いにガチャンとぶつけた。


 その後も私たちはくだらないことをべらべらと喋り続けたが、一時を過ぎたあたりから、みんな疲れ果ててだんだんと無口になった。ほとんど眠ったようになりながら、それでも時々気づいたようにビールを飲み、またうとうとし、ビールを飲んだり床にこぼしたりした。

 酔って眠くなると、だんだんと体の境界が曖昧になる気がする。その場にいる人間と、空間とが溶け合って、混然とした何かの塊が出来上がる。

「お客さん、閉店だよ」

 店主の声で顔を上げると、バーの古びた壁時計は二時を指していた。私たちはノロノロと立ち上がり、目をこすりながらバッグから財布を取り出した。もう店には誰もいない。

「次はいつ会う?」

 私はスマホのカレンダーを開いた。最近では、三日と空けずこのメンツで飲むのが習慣になっていた。ユリは思いついた、という様子で両手をパンと合わせた。

「じゃあ、あの人も呼ぼうよ。ねえ、……」

 私たちが振り向くと、男は忽然と姿を消していた。それが「犯罪」だった。

 私たちは彼の、誰にも気づかれずに出て行く技術に舌を巻いたが、べつに嫌な気分ではなかった。彼の話は面白かったし、最初から何杯かはおごるつもりだった。世の中にはたまに、人に奢らせておいて消えてしまっても、恨みを買わない才能を持つ人がいるものだ。

「あの、さっきまでいた、ロングコートの人、よく来るんですか?」

 私たちは千円札を一枚一枚並べながら、店主に尋ねた。「犯罪」が好きなだけ食べたり飲んだりしたぶん会計は高くついたが、三人で割れば後悔するほどではない。

「よくってほどじゃないけど、たまにね。いつも一人で飲んでて話さないから、役者をしてるってことぐらいしか知らないな」

 店主は受け取った千円札を一枚ずつ数える。並べてたときに数えればよかったのに。

「いつもあんなふう?」

 エリカが、「犯罪」がマクベスを演じているときの身振りを真似した。

「あれは今回が初めてだね」

 店主はレジをガチャンと閉めながら、なんでもないことのように言った。ここではみんな正気ではない。


 次に「犯罪」に会ったのも、やはり同じアイリッシュ・パブだった。といっても、私たちは店の前をたまたま通りがかっただけだ。映画が終わって喫茶店に移動するところで、ユリが彼を見つけた。

 その日は朝から雨で、店はまだ開店まで何時間もあるのに、「犯罪」は店の前でタバコを吸っていた。おそらく、軒下で雨宿りをしていたのだろう。「犯罪」は私たちを見て軽く会釈をした。どうやら私たちのことを覚えていたらしい。

「店が開くのを待ってるんだ」

 「犯罪」はタバコを咥えたまま笑った。たぶん、この男は酒とタバコだけで生きているんだろうな、と思った。「犯罪」は前に会ったときと同じように、古ぼけたロングコートに、サイズの合わない不格好な靴を履いていた。おまけにそのボロ靴は穴があいているのか、ガムテープで補修されていた。ロングコートはたぶん、もともとは上等なものだったのだろうが、ロクに手入れをされていないのであちこちがほつれていた。「犯罪」のみすぼらしい格好を外の光の中で見ると、なんだか哀れだった。

「この店、よく来るんですか」

 私が尋ねると、「犯罪」はタバコを指ではじいてコンクリートに灰を落とした。

「まあ、たまに。ここは誰も正気じゃないから好きなんだ」

 それは私たちがこの店に抱いている印象と同じだったので、それだけで私たちは「犯罪」に好感を抱いた。

「この靴ときたら、穴という穴から水がしみ込んできて、今日みたいな日には歩けやしない。いい年した男がみっともないったら」

 「犯罪」は忌々しげに自分の靴を睨んだ。

「じゃあ、今から靴買いに行こうよ。私たちがプレゼントするからさ」

 エリカがあっけらかんと言い、私とユリは顔を見合わせた。「私たち」って? 私は抗議しようとしたが、「犯罪」の靴に巻かれたグシャグシャのガムテープと、エリカの人の有無を言わせぬ笑顔を見たら何も言えなくなってしまった。エリカはたいして稼いでいるわけでもないのにお金を使うのが大好きで、おまけに人をそそのかす魔力がある。「犯罪」も最初こそしぶっていたが、「有名になったら出世払いで」というエリカに根負けして、ついに了承した。

 私たちは一番近くの百貨店まで歩いた。「犯罪」は傘を持っていなかったので、エリカがコンビニで買ったビニール傘を渡した。

 「犯罪」の靴を選ぶのは楽しかった。「犯罪」はファッションに興味がないというので、私たちはそれぞれ「犯罪」に似合いそうなものを探してきては彼に履かせた。「犯罪」はどんな靴でも似合うので、それがまた嬉しかった。『マイ・フェア・レディ』とか『プリティ・ウーマン』みたいだね、と私たちは笑い合った。

ウィングチップやらブローグやらオックスフォードやら、慣れない紳士靴の用語が飛び交う売り場をウロウロした挙句、「犯罪」が気に入ったのはサイドゴアブーツだった。「ビートルズっぽいから」というのがその理由だった。その靴はまるであつらえたかのように、「犯罪」の足にピタリと合った。

 みすぼらしいコートを脱ぎ、きちんとした靴を履いた「犯罪」は、それだけで見違えるようになった。髪や服を整えれば、きっともっと見栄えがよくなっただろう。

「なんか楽しい。推しに靴とか服とか渡しても、絶対着てくれないもん」

 「犯罪」を眺めながら、ユリがうっとりして言った。ユリが「推し」にいったいいくらの靴や服を贈ったのかは聞かなかった。


「履いていきますから、値札切ってください。それと、これは捨ててください」

 私が店員に「犯罪」がもともと履いていた靴を渡すと、ひどい臭いがした。店員はガムテープで補修されたそれを恐々と持ち上げ、そっとカウンターの裏へ持って行った。

 「犯罪」は値札が切られたばかりの靴を履き、その場でくるりと回って見せた。長身にブーツのヒールが映えて、私たちはニンマリした。レジに表示された値段を見て、私たち三人はそれぞれ財布からお札を引っ張り出す。財布に残った金額を見て、やはり安請け合いするんじゃなかった、しばらく飲み会は控えよう、と思う。

「箱は使われますか?」

 店員が尋ねた。

「あ、どうだろう。ねえ……」

 私たちが振り返ると、「犯罪」はいなかった。真新しい靴を履いて、悠々と出て行ったらしい。パブのときと同じパターンだ。

「いなくなっちゃった」

 私が呟くと、ユリが肩を竦めた。

「シンデレラみたいだね」

 シンデレラなら靴を置いていくはずだけど、と内心で私はつっこむ。

「パブに行ったんじゃない?」

 エリカはたいして気にしていない様子だった。パブで消えたときと同じで、「犯罪」が消えたことについてはそんなに腹が立たなかった。見目の良い男に靴をプレゼントするというのは、それだけでなんとも気分が良かったからだ。特に、それによってその男の見た目が格段に良くなる場合には。

 こうして、「犯罪」は私たちの共有するちょっとした秘密になった。それは子どものころ、友達にこっそり手渡した交換ノートみたいなものだった。


 再び「犯罪」に会ったのは、やはりあのパブだった。その日、「犯罪」は見たこともないくら上機嫌で、私たちが店に入るなり陽気に声をかけてきた。

 勝手に帰ったことに文句のひとつも言ってやろうかと思っていたが、私たちの買った靴を履いているのが見えたので、私たちはそれだけで彼を許してしまった。

「おーい、こっちこっち」

 私たちに向かって手を振る「犯罪」は既にかなり酔っていて、青白い顔が蒸気して健康そうに見えた。

「今日はやけに機嫌がいいんですね」

 私たちは「犯罪」の隣に座った。

「小さい作品だけど、主役が決まったんだよ」

 椅子の上でふんぞり返って、「犯罪」は誇らしげに言った。

「え、すごいじゃん」

 エリカが興奮してテーブルをバシンと叩いた。「犯罪」はコートのポケットから、小さな紙を取り出した。ポケットの中で潰されたのか、端が少し折れてしまっている。

「ひとり四千円」

 それは演劇のチケットだった。ちょうど三枚分。

「なるほど、チケット買えってこと」

 私がおどけて言うと、「犯罪」は年齢に不釣り合いな甘えた表情を作って見せた。

「才能への投資だと思って、頼むよ。どうやら三人は俺の幸運の女神らしいから。買ってもらった靴でオーディションに行ったんだ」

 「犯罪」の顔がおかしかったのと、おだてられて気分が良くなったので、私たちは一人四千円出してチケットを買った。演劇を見るのは久しぶりだったし(「推し」俳優のために遠征していたユリをのぞく)、「才能への投資」というのはなんだか甘美な響きだった。


 観劇の当日、私たちは浮き足立っていた。あの時は何も考えずにお金を払ってしまったが、これは本当に「犯罪」の出演する舞台なんだろうか? もしかして、ただの紙切れを買わされたんじゃないだろうか? 私たちは彼が本当に役者なのかも疑っていたし、そろそろ、「犯罪」はあのパブに住む妖精のようなものじゃないかと思い始めていたところだ。

 だから、実際に舞台の上に「犯罪」が立っているのを見て、私たちは息を飲んだ。舞台の光の中で見ると、「犯罪」の顔はよりいっそう青ざめて見えた。それでもやはり、彼は美貌の人だった。

 その作品は二人劇らしく、きっちりとしたスーツを着た相手の俳優と、よれよれのシャツを着た「犯罪」が舞台の上で会話をしていた。どうやら彼らはエリートと落ちぶれた男の役のようだったが、舞台上の「落ちぶれた男」の役よりも、「犯罪」のふだんの恰好の方がよほどみすぼらしかった。私には演技の巧拙はよく分からなかったが、「犯罪」は遠くの舞台の上にいても、パブで突然スコットランドの王になったときのように、私たちの目の前で話しているように感じられた。

「犯罪」は一番の見どころになる長セリフを生き生きと、淀みなく喋った。

「……じっさいね、犬に肉を食べさせようとした行為は、果たして愛の行為だったんだろうか? ことによると、あの犬がぼくにかみつこうとした行為こそ、愛の行為だったんじゃなかろうか? われわれがのべつこんなふうに誤解ばかりしてるんだとしたら、そもそもいったいなんで、愛なんて言葉を発明したんだろう?」

 渾身のセリフを終えた彼は、ベンチに腰を下ろす。ここから、「犯罪」ともう一人の男は言い合い、いまにも決闘せんばかりになる。「犯罪」がナイフを投げてよこすと、もう一人の男がそれを拾う。

 突然、「犯罪」は相手の男が持ったナイフに向かって突進する。ナイフは「犯罪」の胸にズルリと飲み込まれる。私たちは突然の展開に戸惑い、息を呑む。彼はよろめき、ベンチにもたれて逃げるように囁く。男は狼狽え、混乱しているが、やがて舞台の上手へ走り去っていく。一人で舞台上に残された「犯罪」は、目を閉じている。

「ああ……神さま」

「犯罪」が息絶え、舞台は暗転する。「犯罪」が最後の息を吐くとき、その音が聞こえた気がした。人が死ぬときの最後の一息の音が。すかさず、客席から拍手が起こる。私たちも慌てて拍手をした。舞台の明かりが灯ると、起き上がった「犯罪」と、戻ってきた男が客に向かってニコニコと手を振り、二度、三度とお辞儀をした。


「『犯罪』ってば、けっこう凄いんじゃない? 私、ドキドキしちゃった」

 終演後、ユリは小さな体を弾ませんばかりにして熱っぽく語った。彼の間の取り方、ちょっとしたジェスチャーのおかしみ、驚くべき身体の存在感、芝居がかって大仰で魅力的な台詞まわし。

「うん。すごかった。正直、お話の意味はぜんぜん分からなかったけど」

 私たちは興奮しながら、いつものアイリッシュ・パブになだれ込んだ。扉を開けると、カウンターに座っていた「犯罪」が、私たちを見て手を振った。

 私たちは顔を見合わせた。

「こんなとこで何してるの?」

 エリカが尋ねると、「犯罪」はギネスのグラスを掲げて見せた。

「公演が無事に終わったから、祝杯」

「演劇のことはよくわからないけど、ふつうはそういうのって俳優さんとか、スタッフの人みんなでやるんじゃないの」

「そうだけど、途中で嫌になって逃げだしてきたんだ」

「ふうん」

 「犯罪」がまともな役を得られない原因は、こういう浮世離れしたところにもあるのではないか、と私は思った。「犯罪」によると彼のマネージャーは役立たずらしいが、相当苦労していそうだ。私たちは「犯罪」の隣に座り、それぞれ飲み物を注文した。エリカがジンジャーエールを飲んでいるのを見て、「犯罪」はグラスを指さした。

「酒は?」

「今日、実家に寄って帰るつもりだったから車で来てんの。駐車料金高くてやってらんないよ」

「じゃあ、その分は俺が飲んでやる」

「犯罪」は既におごられる気らしかった。私たちは彼の演技に感嘆したところだったので、ビールの一杯や二杯、もちろんおごるつもりだった。

「今日の舞台、すごく良かったです」

 私は憧れの俳優に対面したファンのように――事実、そうだと言っても良いのだが――おずおずと「犯罪」に話しかけた。

「そう、ありがとう」

 「犯罪」の言葉は素っ気なかったが、見たことのないくらい表情が柔和だったので、おそらく喜んでいるのだろう。

 それだけじゃない。その日の「犯罪」の飲みっぷりは常軌を逸していた。彼はギネスを数えられないくらいと、ジンのショットと、エールを半パイントと、スコッチを何杯か飲んだ。まるで自分のやりとげたことに満足して、今ここで死んでも構わないとでもいうような飲みっぷりだった。私たちは先ほど見た芝居のせいで、彼は死に受かっているのではないかという気がした。とうとう彼は前後不覚になり、わけの分からないことを呟くようになった。私たちは見かねて彼を家まで送ることにし、当然のように彼のぶんの酒代を支払った。

「ねえ、あんた家はどこなの」

 エリカが尋ねると、「犯罪」はムニャムニャと住所らしき言葉を口にした。酒くさい息を我慢して顔を近づけて聞いたところ、それは繁華街のアパートで、とても「犯罪」が住めるような場所とは思えなかった。「犯罪」にそれほどの稼ぎがあるようには見えなかったし、私たちは、彼はもしかしたらホームレスなんじゃないかとすら思っていたのだ。私たちは三人がかりでなんとか「犯罪」を担ぎ上げ、エリカの車まで連れて行った。


 「犯罪」のアパートは、建物と建物の間に無理やり建てたような、縮こまった造りをしていた。夜であることを差し引いても、薄暗い雰囲気をした、古びた建物であることが分かる。「犯罪」の部屋は四階だったので、私たちは階段をのぼりながら、なぜこのアパートにはエレベーターがないのかと文句を言い合った。やっと「犯罪」の部屋の前にたどり着いた時には、三人とも汗だくだった。

「ねえちょっと、鍵は?」

 エリカが尋ねたが、担がれた「犯罪」はモゴモゴと訳の分からない言葉を繰り返すだけで、要領を得ない。コートのポケットに手を突っ込んでみたが、入っていたのは小銭とゼムクリップだけだった。およそ事務仕事に何の縁もなさそうなこの男が、ゼムクリップを何に使うというんだろう。

 そのとき、内側からガチャガチャと音がしてドアが開いた。

「どなたですか」

 中から男が出てきて、私たちは面食らった。てっきり、「犯罪」は一人で住んでいるのだと思い込んでいたのだ。男はまだ若かった。白い肌に目の縁が真っ赤に染まっていて、ウサギのように見えた。落ち着きなくビクビクと震え、丸眼鏡の奥から怯えるように私たちを見ていた。男は明らかにヤク中だった。

「この人、送り届けにきたんだけど」

 エリカが「犯罪」を指さすと、男は目を細めて彼を見た。それから「そのへんに転がしといてください」と言って、廊下を指さした。だが、廊下は足の踏み場もないくらい物が散らかっていて、生ごみが入っていると思われる袋や、何に使うのかわからないぼろきれが束ねて置かれていた。部屋中から手入れされていない水道管のような臭いがして、胸が悪くなった。「犯罪」はこんなところに住んでいるのか。

 部屋の惨状にひとしきり驚いた後、この男にひどく腹が立ってきた。エリカとユリも同じ考えのようだった。いったい、この男はどうして「犯罪」をこんな場所で生活させているんだろう。こんな男よりも私たちのほうが、ずっと上手く「犯罪」の面倒を見てあげられるのに。

 男はさっさと部屋の奥に戻り、ゴミに埋もれたソファの上で寝転がっていた。私たちは「犯罪」を家の中に入れようとしたが、廊下が狭すぎて三人ではうまく彼を運べなかった。ほとんど引きずるようにして廊下を進んでいると、何かにつまずいて三人とも崩れ落ちた。床に這いつくばると、すえた臭いがいっそう強く感じられて、思わず吐きそうになるのをぐっとこらえた。私たちはなんとか立ち上がり、顔を見合わせた。

「連れてく。こんなとこにいたら体が悪くなる」

 エリカは私とユリに耳打ちし、私たちは黙って頷いた。

「ちょっと、どこ連れてくんですか」

 男が叫んだ。私たちは聞こえないふりをして、そのまま「犯罪」を引きずってアパートを出る。乱暴にドアを閉め、再び上がってきたばかりの階段へ向かう。上るときはあんなに苦労した階段なのに、下りるときは不思議と「犯罪」を持ち上げていることは気にならなかった。とにかく、男が追いかけてくる前に逃げ切らなければならない。私たちは、ほとんど飛び降りるように階段をかけ下りる。階段を踏む度に踏板がガンガンと鳴る音が頭に響き、まるでサイレンのように聞こえる。全身から汗が噴き出し、喉がカラカラになる。私たちはエリカの車に「犯罪」を詰め込み、自分たちの身体を滑り込ませると、すかさず発進させる。男が追いかけてきたかどうかは見なかった。


「どうする」

 前の車を睨むように車を運転するエリカに、私は短く言った。これって誘拐になるんだろうか。後部座席で、相変わらず「犯罪」は訳の分からないうめき声をあげている。

「とりあえず私んち連れてくよ。二人も泊まってけば」

 エリカのアパート、四人も寝れるスペースないじゃん、と言いかけて、エリカが実家のことを指しているのだと気がついた。車は高速道路の入り口に吸い込まれてゆき、いっそうスピードを増す。都会のビル街が滑らかに過ぎ去ってゆくのを見ると、もう引き返せないところまで来たのだと思った。興奮と後ろめたさで気分が悪くなりそうだった。高速道路の防音壁の向こうで、次第に都会の光が消え、木々と山腹とゴルフ場のネットしか見えなくなる。


 三十分もして高速を下りたころ、「うーっ」と呻き声がして、後部座席で寝ていた「犯罪」が顔を上げた。

「ここ、どこだ?」

 「犯罪」の口調はまだボンヤリしていたが、どうやら自分が見覚えのない場所に連れてこられていることは理解できたらしい。

「いいから寝てなよ」

 「犯罪」の隣に座っているユリが言った。

「気持ち悪い……」

「えっ」

 言うが早いか、「犯罪」が派手に吐瀉物をぶちまけた。 車の中に、すっぱい臭いが充満する。

「ちょっと!」

 エリカが悲鳴を上げた。

「これ、新車だよ。手取り十六万で買うの、どんだけ貯めたと思ってんの」

 浪費家のエリカが新車を買えるほどお金を貯めたというのは、たしかに驚きだった。

 エリカは道沿いのスーツ店の前で車を寄せた。私とユリが「犯罪」を引っ張りだし、雑草の生えた歩道に転がした。「犯罪」はまだ意識がはっきりしないようで、アスファルトに生えた雑草に吐き続けていた。こんなに吐くものがあるとは驚きだった。

 私はふと、「犯罪」のコートのことが気になった。古ぼけてはいるが、上等なコートだ。それに、いつも着ているところから見て、大事なものに違いない。「犯罪」が買えるような値段とは思えないから、ひょっとしたら、父親か祖父から受け継いだものかもしれない。私は「犯罪」の後ろから手を伸ばし、ゲロがかからないようにとコートを脱がせてやろうとした。そのとき、コートの内ポケットから小さな袋が飛び出した。暗い中で目をこらすと、透明のジップ袋のようなそれには、錠剤が何粒か入っていた。

 一瞬血の気がひいた。心臓が破れそうなほど音を立て始めて、耳が変になったのかと思う。すべての音が遠くなって、自分の鼓動しか聞こえない。これが何なのか、即座に浮かんだ考えを必死で否定しようとする。隣でユリが固まっている。その表情から、ユリも同じことを考えたのが分かる。なんでもないのかもしれない。きっとそうだ。ビタミン剤とか、持病の薬とか、そういうのかも。そう言い聞かせようとしたが、アパートにいたあの男の顔がちらつく。ヤク中の男。荒れ果てたアパート。いつも不健康そうな「犯罪」の顔。

「置いていこう」

 私が言うと、え、なに? とユリが聞き返した。国道のバイパスは夜中だというのにひっきりなしに車が行き来して、声がほとんどかき消されてしまう。私はユリに耳打ちした。

「エリカん家になんて連れてけないよ、何かやばいもの持ってるかも」

 ユリは戸惑ったようだったが、私はユリの腕を引っ張って車に乗せた。運転席で待機していたエリカが、なに、どしたの、と慌てる。

「ねえ、あいつやばいもの持ってるかも」

「やばいものって?」

「白い薬みたいな……」

「まじかー……」

 エリカの顔に逡巡の表情が浮かぶ。

「もう置いていこう」

 私は低い声で繰り返した。エリカは観念したように深呼吸をすると、車を発進させた。景色が滑ってゆく窓ガラスの向こうで、「犯罪」は雑草に突っ伏したままだった。

 そもそも、アパートから連れてきたのが間違いだったのだ。もし「犯罪」が違法薬物を持っていたんなら、それを理由に置き去りにしたって仕方のないことじゃないか。私は頭の中で、必死に正当化するための言い訳を考えた。なにもかもぜんぶ、自分たちがやったこととは思えなかった。私たちはこんなことができる人間だっただろうか。

 車の中には、まだ「犯罪」のゲロの臭いが立ちこめていた。私たちは何も言わなかった。霧が立ちこめてきたので、エリカはワイパーを動かした。規則正しく窓を滑る音がやけに響く。ユリは落ち着かなさそうに手を組んだり足を組んだりしていたが、赤信号で車が停止したところで、とうとうワッと泣き出した。

「『犯罪』が死んじゃう……」

 顔を覆って泣くユリは、ますます小さく見えた。

「まだ十月だよ。一晩くらい外で寝たって、死なないよ」

 ユリの背中をさすってやると、背骨からしゃくりあげる動きが伝わってきた。

「でも、ゲロ吐いてたじゃん。ヤクやったあとにゲロが詰まって死ぬやつ、『ブレイキング・バッド』で見たもん」

「……」

 私はそのドラマを見たことはなかったが、舞台の上で息絶える「犯罪」の顔が、ふいにフラッシュバックした。

「ねえエリカ、」

「ああもう、戻るよ! 戻りゃいいんでしょ!」

 エリカは勢いよくブレーキを踏んだ。Uターンしようとした瞬間、雷に打たれたような衝撃があった。思いがけないような方向に吹き飛ばされて、身体が宙に浮いた気がする。骨という骨が衝撃に反響し、私たちは一つの押しつぶされたスクラップのように縮こまる。ヘッドライトの光が目の奥で乱反射して、私たちはトラックが衝突してきたことを知った。


 幸い、誰にも怪我はなかった。トラックの運転手には、ほとんど聞き取れないほどの怒号で怒られた。

 エリカの自慢のヤリスは、ひしゃげて無惨な姿になっていた。何百万が一瞬でダメになってしまった。

「……警察に電話する。それから保険屋にも」

 エリカの消沈ぶりは見ていられなかった。

「私、『犯罪』を探してくる」

 私が言うと、エリカは携帯を耳に当てたまま、黙って「早く行って」というジェスチャーをした。私とユリは国道バイパスをとぼとぼと歩いた。すぐに引き返そうとしたつもりだったが、「犯罪」を置いてきた場所まではかなりあった。十五分ほどしてスーツ店の前に着いたが、「犯罪」はいなかった。店の前の雑草には、彼の吐いたゲロが街灯に照らされていた。霧が出ているせいで、滲んだ街灯とその周りは絵画のように見える。辺りには人っ子ひとりいない。私は彼を呼ぼうとして、自分が彼の名前を知らないことに気がついた。


 「犯罪」に会うのが気まずくて、あのアイリッシュ・パブには行かなくなった。それでなくても、エリカは車の修理代のためにジリ貧生活で、とても飲み歩けるような状況ではなかった。

 しばらくしてユリの推し俳優が強制わいせつで逮捕されたが、ユリを慰める会には別の店を探さなければならなかった。

 あの夜から、私たちは「犯罪」に会っていない。あのアイリッシュ・パブは、今は閉店したと聞く。



引用文献:

ウィリアム・シェイクスピア『マクベス』小田島雄志訳、白水社、一九八三年。

エドワード・オールビー「動物園物語」『動物園物語 ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』鳴海四郎訳、早川書房、二〇〇六年。

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クライム・ダズント・ペイ 雷田(らいた) @raitotoko

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