第八章 惑星の子守唄

第八章 惑星ほしの子守唄


       一


 柊矢は小夜が作っている野菜の天ぷらの中からニンジンをつまむと口に入れた。

「柊矢さん、つまみ食いなんてダメですよ。楸矢さんみたいなことしないで下さい」

「じゃあ、他のものならいいのか?」

「他のものって、まだ天ぷらしか……」

「例えば……」

 柊矢が小夜の耳元で囁こうとしたとき、

「柊兄、小夜ちゃんといちゃいちゃするなら俺も彼女と同棲するの認めてよ」

「い、いちゃいちゃなんて……」

 小夜が赤くなって抗議した。

「ダメだ。同棲したらお前、彼女と寝るだろ。俺が出来ないのにお前だけするのは不公平だ」

「ととと、柊矢さん、何を……」

 小夜が耳まで真っ赤になった。

「柊兄だって小夜ちゃんとすればいいじゃん」

「楸矢さん!」

「お前、こんな子供と寝て罪悪感持たずにいられるのか!」

 柊矢が小夜を指さした。

「柊矢さんまで何言ってるんですか!」

「確かに……」

 楸矢と目が合った小夜は赤くなったまま俯いた。

 何を言っても墓穴を掘りそうだった。

 それに、自分はもう子供じゃない、と言って、じゃあしようという話になっても困ると思うと何も言えなかった。

「大体、今はフルートの練習の時間だろう。見たくなければ音楽室で練習してろ」

「はいはい」

 楸矢は大人しく音楽室へ向かった。

「これで二人きりだな」

 柊矢は後ろから小夜に腕を回した。

「柊矢さん、私今夕食作ってるんですよ」

 そのとき、楸矢が笛で小夜のムーシカラブソングを吹き始めた。

 すぐに他のムーソポイオスが歌い始める。

 小夜が真っ赤になった。

「あいつ……」

 柊矢は音楽室の方を睨んだ。

「俺は部屋で仕事してくる」

「支度が出来たら呼びますね」

「分かった」

 柊矢はそう言うと出ていった。

 楸矢は小夜のムーシカを吹き終えると気が済んだのか、フルートの練習を始めた。


 沙陽は昔柊矢が使っていたマグカップを床に叩き付けた。

 自分のムーシカを無視しただけではなく、小夜のムーシカに応えた。

 ムーシコスの誰もが分かっただろう。

 柊矢や小夜や沙陽を知らなくても、三人が三角関係だったことも沙陽が振られたことも。

 同じ男に二度も振られるなんて。

 こんな屈辱はない。

 覚えてなさいよ。

 絶対に許さない。

 あの子も、柊矢も。


「やっぱりさぁ、ホワイトデーまで一ヶ月もいらないと思わない? 一週間もあれば準備出来るじゃん。男はチョコ作らないんだからさ」

 清美がぼやいた。

 未だに誰からも返事がないらしい。

 もっとも返事をする気ならチョコを貰ったときにするだろう。

 休み時間、小夜は清美とお喋りをしていた。

「清美の六号君が隣のクラスの坂田さんと歩いてったよ」

「嘘!」

 清美が廊下の方を振り返った。

「ホントだ! 他の子選ぶならチョコ受け取るなっての!」

 悔しそうに机を叩いた。

「受け取るよ。貰った数、競ってるんだもん」

「でも、まだ三十三人いるし」

「そんなに渡してたらみんな義理だと思うって」

 しかもそのうち十九人はバレンタインの翌日渡されたのだ。

「ちゃんと渡すとき本命だって言ったもん」

 清美のことだから、なんの恥じらいもなく明るい口調で言ったのだろう。

 想いを告げるのはムーシコスも地球人も大変だ。

 歌うとそれがムーシコス全員に知られてしまうのも恥ずかしいが、チョコレートを渡しても本気にしてもらえないというのも困りものだ。

 もっともバレンタインにあげるから義理だと思われるのではないのだろうか。

 何もないときに告白すれば義理だと思われることは絶対ないだろう。

 いや、清美の様に三十四人に同時に告白したら、からかわれたと思うのがオチか。

 そもそも本命って普通一人なんじゃ……。

「ねぇ、楸矢さん、いつ紹介してくれるの?」

「分かったってば。今日、帰ったら聞いてみる」

「ありがと」

「でも、彼女いるんだからね」

「分かってるって」

 本当に分かってるか怪しいが、紹介するだけなら構わないだろう。

 楸矢の彼女は婚活していると言っていたから結婚相手が見つかったら別れるだろうし。


 その日、楸矢がおやつを食べに台所に現れたところをつかまえて清美の話をした。

「小夜ちゃんの友達? この前、小夜ちゃんが危ないって連絡くれた子?」

「そうです。楸矢さんに彼女がいることは話してあるんですけど……」

「いいよ。そういえば、小夜ちゃん、うちに友達連れてきたことなかったね。連れてきなよ」

「いいんですか?」

 今まで居候だからと言うことで友達を呼ぶのを遠慮していたのだ。

「いいよ。どんどん連れてきて紹介してよ。ちなみに、俺、明日は学校ないから」

 楸矢は高校三年の上に音大への進学もとっくに決まっているから三学期はあまり学校へ行っていなかった。

「ありがとうございます」

 そう言ってから、

「楸矢さん、二股かけるのだけはやめてくださいね」

 と釘を刺した。


「ホント?」

 小夜が楸矢がOKしたと伝えると、清美が嬉しそうな顔をした。

「うん。柊矢さんもいいって言ってくれたし、良かったら今日来ない?」

「行く! やった!」


 その日の放課後、清美と一緒に柊矢の車で家に帰ると、リビングに楸矢が紅茶とクッキーを用意して待っていた。

「いらっしゃい」

「こんにちは!」

 清美は礼儀正しくお辞儀した。

「ま、座って」

 清美に続いて小夜も座ろうとしたとき、

「小夜、ちょっと来てくれ」

 柊矢に呼ばれた。

「はい。清美、ゴメンね。楸矢さんとお話ししてて」

「こっちは気にしなくていいからごゆっくり」

「清美!」

 小夜は赤くなって清美を睨んでから柊矢と音楽室へ入った。

 柊矢がガラス棚の戸を開いた。

「キタラ弾くんですか?」

「いや、彼女はムーシコスじゃないんだろ」

「はい」

「楸矢にだけ聴こえたらまた文句言われるからな」

 柊矢はそういってヴァイオリンを出した。

 あ……。

 ヴァイオリン、弾いてくれるんだ……。

「何年も弾いてないから腕はにぶってると思うが……」

 柊矢は調弦をした後、ヴァイオリンを弾き始めた。

 うわぁ……。

 これでにぶってるなんて信じられない……。

 綺麗な音色……。

 小夜は感動して柊矢のヴァイオリンを聴いていた。


「これだよ……」

 清美と話をしていた楸矢は頭を抱えた。

 音楽室からヴァイオリンの音色が聴こえてくる。

 防音とは言え、隣の部屋だとどうしても聴こえてしまう。

「楸矢さん、この曲って……」

 清美が音楽室の方を見ながら訊ねた。

「セレナーデ。小夜ちゃんへの」

「これがセレナーデっていう曲なんですか?」

「いや、曲名は『Love's Greeting』 、日本名は『愛の挨拶』。セレナーデって言うのは音楽のジャンルでもあるけど、恋人のために窓の下とかで演奏する場合も指す言葉。今がまさにそう。窓の下じゃないけど」

「こういうの、毎日聴かされてるんですか?」

「そんなとこ」

「うわ、きっつ……」

「分かってくれる?」

 楸矢が身を乗り出した。

「分かります!」

 清美が力強く頷いた。

「ありがとう~。分かってくれる人がいて嬉しいよ」

「柊矢さんってもっとドライで冷静沈着な人だと思ってました」

「俺も」

 柊兄って周りが見えなくなるタイプだったんだなぁ……。

 とはいえ、恋してる最中というのを抜きにしてもここまで見えなくなるとは思ってなかった。

 少なくとも沙陽と付き合っていた時はこんな風にはなってなかった。

 あの頃ならまだ十代だったから、こうなったとしても若いからと言うことで納得できたが今はもう二十六だ。

 柊矢の話だと、沙陽は柊矢と桂のどちらかがムーシコスだと当たりを付けて二人に近付いてきて、ムーシコスの振りをした桂を選んだらしい。

 多分、沙陽と付き合っていたのは綺麗な女の子が言い寄ってきたからというだけで、元々好みは小夜みたいなタイプだったのだろう。

「楸矢さんも大変ですねぇ」

 柊矢と小夜、二人して毎日こんな調子なんだとしたら楸矢はたまったものではないだろう。

 清美は心底同情した。


「清美ちゃん、また来てね」

「はい! 小夜、またね」

 清美は柊矢の車の窓から手を振ると、柊矢に送られて帰っていった。


       二


 翌日、学校から帰ってきた小夜は夕食を作っていた。

 この歌声、沙陽さん?

 切れ切れにムーシカが聴こえてくる。

 なんだか嫌な気分になるムーシカ。

「ただいま」

 楸矢が帰ってきた。

「あ、楸矢さん、お帰りなさい。……顔色、良くないですけど」

「ちょっと気分が悪くて。夕食は食べられそうにない。リクエストしておいてゴメン……」

「それは気にしなくていいですけど……。大丈夫ですか?」

「多分、部屋で寝てれば治ると思う」

 楸矢はそう言うとよろよろと自室へ上がっていった。


 小夜は二階に上がって柊矢の部屋をノックした。

「どうした?」

「楸矢さん、具合が悪いそうなんですけど」

「なんか悪いものでも拾い食いしたか?」

「柊矢さん!」

「分かった分かった。様子を見てみるよ」

 柊矢はそう言って部屋から出てきた。

 真向かいの楸矢の部屋をノックすると、返事を待たずに中へ入っていった。


「おい! 大丈夫か!?」

 部屋の中では楸矢がゴミ箱に吐いていた。

 小夜は急いで洗面所に置かれている使われてないバケツを持ってきた。

「楸矢さん、これ。そのゴミ箱のは私が処分してきますから」

「小夜ちゃん、ゴメン」

 楸矢は食べたものを全て吐き、吐くものがなくなっても胃液を吐いていた。

 小夜は楸矢の背中をさすりながら、

「楸矢さん、もしかして、ムーシカ、聴こえてます?」

 と訊ねた。

「うん」

 吐く合間に楸矢が頷いた。

「ムーシカ? 俺には聴こえないぞ」

「多分、治癒や呼び出しのムーシカの応用みたいなものじゃないでしょうか。きっと、楸矢さんの具合を悪くするために歌ってるんです」

「ムーシカか……」

 柊矢は楸矢の部屋を出て行くと、すぐにキタラを持って戻ってきた。

「ムーシカで具合が悪くなったなら治癒のムーシカで治るんじゃないか?」

「あ! そうですね。私、歌います」

 柊矢のキタラにあわせて治癒のムーシカを歌い始めると、他のムーソポイオスも歌い始めた。

 楸矢の顔色が良くなった。

 顔を上げてムーシカを聞いている。

 最後のコーラスを残して治癒のムーシカが終わった。

 その瞬間、再び沙陽のムーシカが流れ出して楸矢が戻し始めた。

「またムーシカが始まったのか?」

「はい。もう一回歌います」

 小夜が歌おうとするのを、

「待て」

 柊矢が止めた。

「柊矢さん! どうしてですか!?」

「向こうには歌えるヤツが少なくとも三人はいる。他にもいるかもしれない」

「三人?」

 小夜が首をかしげた。

「この前の交通事故の時、歌っていたのは沙陽じゃなかった」

 そういえば、沙陽ではない女性からの呼び出しのムーシカを聴いたことがあった。

 それに榎矢もいる。

「こちらは椿矢を勘定に入れても二人だ。交代で歌われたらこちらが負ける。負けないにしてもどちらかが根負けするまで続くだろう」

「じゃあ、どうすれば……」

「とりあえず、楸矢を病院に連れて行く」

 柊矢はスマホを取り出した。一一九番を押す。

「でも、ムーシカで具合が悪くなったなんて言っても……」

「そんなことは言わない。ただ具合が悪くなっただけだと言えばいい」

 柊矢は急病人だと言って救急車を呼んだ。

「病院で治せるんですか?」

「食事が出来ないまま吐き続けてたらどんどん消耗していく。病院で点滴でも打ってもらえば少なくともこれ以上衰弱することはないだろう。その間に対策を考える」

「分かりました。楸矢さん、必ず助けます。だから待っててください」

「小夜ちゃん、ありがと」

 救急車のサイレンが近付いてきた。


「そうだ、楸矢さん、これを。これならきっとムーシカから守ってくれます」

 小夜はクレーイスを楸矢の手に握らせた。

「小夜ちゃん、これは君のお守り……」

「元気になったら返してください」

「ありがとう」

 楸矢は何とか笑みらしきものを浮かべた。


 楸矢が入院するとすぐ、柊矢は椿矢を呼び出した。

 柊矢が喫茶店に小夜を連れて入ると、既に椿矢は来ていて、二人を見ると片手を上げた。

「呪詛の資料だったのか」

 柊矢から話を聞いた椿矢が眉をひそめた。

「何のことだ?」

「榎矢がうちの蔵から古文書を色々持ち出したんだよね。目録があるわけじゃないから何を持っていったのか分からなかったし、どうせ森の資料はないからと思って放っておいたんだけど」

 雫が一滴、テーブルの上に落ちた。

 男二人が驚いて見ると小夜が泣いていた。

「そんなに楸矢君のことが心配なの?」

「私のせいでしょうか。私が沙陽さん達の言うこと聞いていれば……」

「それはない。お前が言うことを聞いても俺と楸矢は従わなかった」

 柊矢はハンカチを渡しながらきっぱりと言い切った。

「でも……」

「ま、それは今更言っても仕方がないよ。問題はこれからどうするか、だね」

「お前んちの資料にあったものなら、治し方だって……」

「僕が君らに味方してるって知ってるのに、治し方の資料置いてくと思う?」

「だろうな」

 予想していた答えらしく、大して落胆した様子はなかった。

「ま、楸矢君の命がかかってるみたいだし、何とか探しておくよ」

「頼む」

「待ってください!」

 小夜が立ち上がった。

「このままじゃ楸矢さんが……」

「焦る気持ちは分かるが、今はこいつを信じて待つしかない」

 柊矢にそう言われて、それ以上何も言えなかった。

 小夜以上に柊矢の方が心配しているはずなのだ。

 今は大人しく柊矢に従うしかなかった。


 翌日、昼休みに小夜は学校を抜け出した。

 新宿御苑の前でムーシカを歌っていると、沙陽がやってきた。

「人のこと呼び出すなんていい度胸してるじゃない」

「沙陽さん、お願いします。沙陽さんの言うこと聞きますから歌うのやめてください」

 小夜は挨拶抜きで切り出した。

「じゃあ、クレーイスを渡して」

「分かりました。でも、その前にムーシカを止めてください。そしたら取ってきます」

「そんなことして柊矢を呼んできたりするんじゃないでしょうね」

「そんなことするくらいなら最初から柊矢さんと一緒のときに呼びます」

「もし本物のクレーイスを持ってこなかったら……」

「そのときはまた歌えばいいじゃないですか」

 沙陽はそれもそうだと思ったのか、それ以上何も言わなかった。


「小夜ちゃん……」

 小夜が病室に入っていくと、楸矢が弱々しい声で言った。

「学校はどうしたの?」

「サボってきちゃいました。今、ムーシカは止まってますよね。クレーイス、貸してもらえますか?」

「いいけど、どうするの?」

「思い付いたことがあるんです。それを試してみたくて」

 楸矢さん、嘘付いてごめんなさい。

 小夜は心の中で謝った。

 小夜はクレーイスを受け取ると、

「早く良くなってくださいね」

 と言って病室を出た。


 病院の出口に向かう途中、突然辺りが暗くなった。

 渡すなって事?

 ここがムーシケーだというのはグラフェーが見えているから分かるが、森の中ではない。

 周りには何もなかった。

 夜空は地球の月よりも遥かに明るいグラフェーの光に照らされて星はほとんど見えなかった。

 小夜は大きな窪地の底にいるようだった。

 不意に目の隅を何かが走った。

 そちらを見ようとしたとき、真上から星が流れた。

 流星の軌跡きせきは太く、刹那、一際ひときわ大きく丸く光ったかと思うと消えた。

 濃灰色の短い飛行機雲のような流星痕りゅうせいこんが夜空に残った。

 流星痕がゆっくりと薄れていく。

 あれは流星というより火球かきゅうだ。

 そんなことを思っているうちにまた太い軌跡を描いて火球が流れていった。

 ムーシケーの夜空を火球が幾筋いくすじも流れていく。

 空に沢山の流星痕が残っている。

 これが時々ニュースで言っている流星群なのだろうか。

 一つ、かなりの太さの軌跡を描いたものが、その先でいくつかに別れて消えていった。

 しばらくして大地を穿うがつような轟音ごうおんがして地面が揺れた。

 今のは隕石だ。

 大きすぎたから大気圏で燃えきないでムーシケーの大地に落ちたのだ。

 不意に悟った。

 ここはクレーターの底だ。


 その瞬間、病院に戻った。

 病院の前で小夜は沙陽にクレーイスを渡した。

「もう歌わないでくださいね」

 小夜は今見たことを沙陽に言うべきか迷ったが、

「分かってるわ。これさえあれば用はないもの」

 沙陽はそう言うと、すぐに去っていった。


       三


 楸矢の容体はすぐに回復し退院した。

「楸矢さん、良かった……」

「小夜ちゃん、クレーイス、渡したね」

 楸矢が森の方を見ながら言った。

 楸矢の言葉の意味が分かったらしく、柊矢が小夜を見た。

「申し訳ありません! でも、歌うのめて欲しくて……」

 小夜が二人に深く頭を下げた。

「お前にやったものだ。お前がどうしようと自由だ」

「俺は取引したわけじゃないから封印のムーシカ吹くよ」

「俺もだ」

「それは向こうも最初から分かってるはずですから」

 柊矢や楸矢を止めるという約束はしていない。

 二人が封印のムーシカを奏でれば、他のムーソポイオスが歌うだろう。

 小夜が歌わなくても森は封印されるはずだ。


 柊矢と楸矢は家に帰るなり、音楽室へ入って封印のムーシカを奏で始めた。

 他のムーソポイオスが歌い始める。

 華やかなメゾソプラノから始まり、それに優しいアルトの斉唱、透き通るソプラノの重唱が加わる。

 更に椿矢の甘いテノールが重なった。

 しかし、ムーシカが終わっても森は消えなかった。

「なんでっ!」

 楸矢が森を見ながら言った。

「クレーイスさえあれば俺達の妨害は効かないってわけか」

「くそ! 俺のせいで!」

 楸矢が左手で壁を殴った。

「楸矢さんのせいじゃありません。クレーイスを渡したのは私です。私が悪かったんです。すみません!」

 小夜は頭を下げた。

「俺のためにやってくれたんでしょ。小夜ちゃんは悪くないよ。ムーシケーの意志に背くのがどれだけつらかったか分かってるから」

「……っ!」

 小夜の目から涙があふれた。

 勝手にクレーイスを渡してしまった自分にそんな優しい言葉を掛けてもらう資格なんてないのに。

 二人のお祖父様の形見なのに……。

 柊矢がそっと小夜の肩を抱いた。

「椿矢に連絡を取ろう」

 柊矢はスマホを取りだした。


「消えないね」

 椿矢は喫茶店の窓から見える森を見ながら言った。

「あんたの弟もんでるんだろ。何か分からないの?」

 楸矢がれたように言った。

「いっそ、帰還派はこのままムーシケーに行かせちゃったら? で、行ったら二度と地球と繋がらない様にして帰ってこられなくするってのはどう?」

 椿矢が本気とも冗談とも付かない口調で言った。

「確かに魅力的な案ではあるが……」

 沙陽達が二度と自分達と顔を合わせないところに行ってくれるのは有難い。

「でも、それはムーシケーの意志に反します」

 小夜が言った。

「なんでそこまで拒むのかなぁ」

 椿矢が首を傾げた。

「関係あるのか分かりませんけど……」

 小夜は病院で見たムーシケーの話をした。

「隕石ねぇ。けど、火球にしろ隕石にしろ地球にだって降ってきてるわけでしょ。その程度のことで帰還を拒むかねぇ」

 椿矢が当然の疑問を口にした。

「まぁ、何にしろ、封印のムーシカで森が消えないなら、これ以上君達に危害を加える心配はないと思うけど。クレーイスも取られちゃったことだし、このまま連中を向こうへ行かせたら?」

 椿矢は他人事ひとごとの様に言った。


「あとは森が、ムーシケーが、溶けるのを待つだけだな」

 晋太郎が言った。

「それだけじゃダメよ。クレーイス・エコーがこの先どんな邪魔をしてくるか分からないじゃない」

 沙陽が低い声で言った。

「向こうに帰ってしまえばクレーイス・エコーに邪魔なんか……」

「されてから後悔しても遅いでしょ。あの三人は始末するべきよ」

 小夜の言葉にその場にいた者達はみな黙り込んだ。ここにいるのは全員ムーシコスだ。ムーシカで沙陽達の三角関係のことは知っていた。

「いいんじゃない? 後顧こうこうれいは絶っておくに越したことはないと思うよ」

 榎矢が賛同した。柊矢には消えてほしかった。沙陽の未練を断つために。

 榎矢の言葉に他のメンバー達も顔を見合わせて頷いた。

 小夜達がいなくなれば新たにクレーイス・エコーが選び直される。

 沙陽が再び選ばれるかは分からないが、別のムーシコスがなったとしても邪魔さえしてこなければ問題ない。


 小夜達は家に戻ると、何となく台所に集まった。小夜がコーヒーを入れ、クッキーを皿に載せて出した。

「収穫はなかったな」

 柊矢が言った。

「あのムーシカ、小夜ちゃんにも聴こえてたんだよね」

「はい」

「それなのに小夜ちゃんは大丈夫だったってことは、俺も能力ちからが強ければあんなムーシカなんかで無様な姿を晒さずにすんだんだよね」

 楸矢が悔しそうに言った。

「何もなかったのは、私に向けられたものじゃなかったからですよ」

 小夜が慰めた。

「ありがと、小夜ちゃん」

 楸矢が無理に笑顔を作って言った。


「見つけた!」

 楸矢が中央公園で叫んだ。

「また見つけられた! って、また僕のこと捜してたの?」

 椿矢は中央公園のベンチでムーシカを歌っているところだった。

 聴衆が邪魔をした楸矢を睨み付ける。

「ま、少し待ってて」

 楸矢は椿矢のムーシカが終わるのをじりじりしながら待った。

 ようやく椿矢が終わりを告げ、聴衆が散っていった。


「で、なんで捜してたの? 僕の番号なら柊矢君が知ってるよ」

「柊兄や小夜ちゃんには内緒で会いたかったんだよ。俺にもあんたの番号教えて。俺も教えるから」

「どうせ密会するなら可愛い女の子がいいなぁ」

 椿矢が冗談めかして言った。

「小夜ちゃんのこと言ってるなら……」

「小夜ちゃんに手を出す気はないよ。柊矢君、怖そうだし。で、用って?」

 椿矢が促した。

「クレーイスを取り返したい。小夜ちゃんがすごく気に病んでるんだ。それがダメならせめてこの森を消す方法ない?」

「古文書の類は榎矢がほとんど持ってっちゃったんだよね」

「でも、先祖代々伝えられてる口伝くでんとか秘伝ひでんとか、蔵があるような家ならあるでしょ」

「楸矢君、それすごい偏見」

 椿矢が苦笑した。

「ないの? あんた、ムーシコスのこととかかなり詳しいじゃん。資料はないって言ってたらしいけど、ならなんで地球に来たのが四千年前なんてこと知ってんの?」

「四千年前って言うのは推測だよ。ムーシケー、グラフェー、ドラマ、ムーシカ、ムーシコスって言う固有名詞は古典ギリシア語だけど、実際ムーシケーにいた頃、ムーシコスがその固有名詞を使っていたのは確かだし」

「なんでそんなことが分かんの」

 ムーシコスが地球こちらへ来てからも、ムーサの森は度々ムーシコスの前に現れていた。

 そのため自分の子供に目の前のムーサの森やグラフェーやドラマを指差して名前を教えることが出来た。

 それで固有名詞だけは数千年間変わることなく伝わってきた。

 だが、文字もなく、世界共通の年号もなかった時代だ。

 こちらへ来てからの正確な年数は分からない。

 古典ギリシア語を使っているならその言葉が使われていた頃には来ていたのではないかと推測するのが精一杯だ。

 あくまで自分の推測だが、と断った上で、

「ムーシケーが凍り付いてムーシコスが全員地球こっちに来たのはもう少し後でも、ムーシコスはその前から地球との間を行き来していたんじゃないかな」

 と言った。

「根拠は?」

「全てのムーシカがこっちで作られたものじゃないなら、ムーシケーで使っていた言葉のムーシカがあるはずだけど、それらしいのはないから。ムーシカのほとんどが古典ギリシア語なんだ」

 雨宮家の人間の中には何人かムーシケーやムーシカの研究をしている者がいてムーシカの殆どは古典ギリシア語だという事は分かっていた。

 椿矢もムーシケーのことを調べるために大学で古典ギリシア語を専攻した。

 それでムーシカは九割方古典ギリシア語だということと、他にも地球の言語を使ったムーシカはあったが地球にはない言語のムーシカはないことが分かった。

 つまりムーシコス独自の言語のムーシカはないのだ。

 ギリシア人が移住してきたムーシコスの言葉を使うようになったというのは考えづらい。

 古代ギリシアと交流があって同じ言葉――古典ギリシア語――をムーシコスも使っていたのではないか。

 だから、惑星ムーシケーが凍り付いたときもすぐに地球(ギリシア)に溶け込めたのだろう。

 惑星ムーシケーが凍り付いたとき、地球と繋がったとしても全く未知の世界だったらあっさり移住するか疑問だし、繋がった先が偶々たまたま生存環境と言語の似ていた地域というのも都合が良すぎる。

 元々ギリシアのどこかと繋がっていて行き来していたから地球のことを知っていたと考える方が自然ではないのか。

 往来があって地球人との混血も進んでいたなら古代ギリシア人と容姿が似ていてもおかしくない。

 容姿が似ていて同じ言葉を使っていれば簡単に移住出来ただろう。

 椿矢はそう言った。

「そういえば、この森から落ちてきた旋律の雫、イーリアスだって言ってたっけ」

 楸矢の言葉に椿矢は一瞬黙って考え込んだ。

「ホントだ。イーリアスの歌詞のムーシカがあるね」

 椿矢は古典ギリシア語を学んでいてイーリアスも原語で知っているから、その歌詞のムーシカがあるかどうか分かるのだろう。

 イーリアスはホメーロスが作ったとされているが、ホメーロスが実在の人物かどうかは分かっていない。

 イーリアスの制作年代は紀元前八世紀頃と言われているが、文字化されたのは紀元前六世紀頃だ。

 そもそも作者だと言われているホメーロスの実在さえ怪しいのだから制作年代もあくまで推定に過ぎない。

 作られたのが紀元前八世紀よりも前の可能性は十分ある。

 ムーサに地球のムーシカイーリアスがあったのだから、椿矢の言う通りムーシケーが凍り付く前から地球と行き来していたのは間違いないようだ。

「この森を消す方法、あんたの親か親戚に聞いても分からない?」

「うちは帰還派よりなんだよね」

「てことは榎矢はあんたんちにいるってこと?」

「いや、榎矢は古文書持ち出した後は帰ってないって言ってた。帰還派の誰かのところにいるみたいだね。クレーイスが手に入ったし、ムーシケーに行く準備でもしてるんじゃない?」

 いくら音楽のことしか考えてないとは言っても文明の全くないところへ手ぶらで行こうとするほどバカではないだろう。

「つまり、打つ手は無しってことか……」

 楸矢はベンチに座り込むと溜息をついた。

「楸矢君はそれほどムーシケーの意志にこだわってなさそうに見えたけど、違ったんだ」

 椿矢が意外そうに言った。

「拘ってないよ。俺はね。ムーシケーの意志なんて感じたことないし。でも、小夜ちゃんが気にしてるからさ。特に今回のことでは責任感じて凄く自分を責めてて……。でも、そもそも俺のせいじゃん。なのに自分を責めてるの、見てられなくてさ」

 椿矢にも小夜が気に病むだろうと言うことは容易に想像が付いた。

「元々柊兄が気休めにお守りだなんて言って渡したものなんだから、気にすることないのに」

 祖父に育てられた小夜にとって、祖父というのは特別な存在なのだ。

 だから柊矢と楸矢の祖父の形見を勝手に沙陽に渡してしまったと言うことで小夜は自分を責めていた。

 勿論、ムーシケーの意志に反しているというのもあるだろうが。

「小夜ちゃんの為にも取り返したいんだ」

「……分かった。出来そうなことを探しておくよ」

「無理言ってゴメン」

 楸矢は椿矢に頭を下げた。

 クレーイスは自然にクレーイス・エコーの手に渡るものだから、柊矢から小夜に手渡されたのは必然なのだが、小夜はそれを知らないのだろう。

 いや、知っていてもムーシケーにそむいたことに変わりはないのだから気に病むか……。

 楸矢が肩を落として帰っていくのを、椿矢はブズーキを爪弾きながら見ていた。


       四


 ムーシカが聴こえる。

 夢うつつで小夜はムーシカを聴いていた。

 これ、沙陽さんの声?

 このムーシカは確か……。


「小夜! 起きろ!」

 突然の大声に小夜は飛び起きた。

 柊矢が戸口に立っていた。

「ど、どうしたんですか?」

 最後まで言う前に分かった。

 外がオレンジ色をしている。

 火事だ。

 小夜はそれを見た途端、自分の家の火事を思い出して竦んでしまった。

 強風が窓ガラスを乱暴に鳴らす。

 柊矢は動けないでいる小夜を抱き上げると部屋を飛び出した。

「楸矢! 起きてるか!」

「起きた!」

 楸矢が部屋から駆け出してきた。

「うちが燃えてるの?」

「多分そうだ。とにかく避難するぞ」

 小夜を抱えた柊矢と楸矢は家から飛び出した。

 納屋が燃えていた。

 消防車のサイレンが近付いてきた。

 柊矢は小夜を下ろすと、消化器を取りに家の中へ戻ろうとした。

 だが、服の裾を小夜が握りしめていた。小さく震えている。

「楸矢、消化器取ってきてくれ」

「分かった」

 楸矢がすぐに家の中に戻っていった。

 初期消火の効果もあり、幸い納屋と母屋の屋根の一部だけで済んだ。


「うげ、びしょ濡れ」

 家の中に入った楸矢が言った。

 消防車の放水で窓が割れたところから大量の水が入り込んでいた。

「この様子じゃ、濡れてないものは無さそうだな」

「うわ、フルートはともかく、ケースに入れてなかったキタラや笛はやられちゃったかもね」

 あ、ヴァイオリン、大丈夫だったかな。

 三人は音楽室に入った。

 ガラス戸の付いた棚の中でケースに入っていたフルートとヴァイオリンは無事だったが、キタラと笛はそうはいかなかった。

「直りますか?」

「なんとかなるだろ」

「て言うか、しないとね。キタラは新しいの買えるだろうけど、この笛はそう簡単には手に入らないだろうし」


 音楽室を出ると、柊矢と楸矢は自分の部屋に向かった。

 小夜は台所の被害状況を見た。

 火元の納屋に近かったためにびしょ濡れだった。

 ガス台を布巾でざっと拭くと、火を付けてみた。

 火は付いた。

 小夜はお湯を沸かすと、ココアを三人分入れた。

「パソコンのデータがパーだよ」

「バックアップしとかないからだ」

「うっかりしてたんだよ」

 柊矢と楸矢が台所に入ってきたので小夜はココアを二人に渡した。

 楸矢は椅子に座ろうとして、

「うわ、これもびしょ濡れ」

 と言って立ち上がった。

「これじゃあ、どうしようもないな。明日、清掃業者を手配するとして、家の中が元に戻るまでホテルに泊まろう」

 柊矢はスマホでホテルの手配をした。


 あ、スマホ!

 小夜は慌てて部屋に駆け戻った。

 スマホは完全に死んでいた。

 後からいてきた柊矢は小夜のスマホを覗き込んだ。

「完全に水没してるな。明日、新しいスマホを買いに行こう。とにかく、ホテルへ行くぞ」

「はい」

 小夜は鞄の中に入れておいた財布を取ると、柊矢の後に続いた。


 家から持ってきたもの、また一つ無くなっちゃった。

 せめて財布だけは無くさないようにしようと握りしめた。

 柊矢は近所のコインランドリーの乾燥機で小夜と楸矢の私服を乾かしてくると、二人はその服に着替えて柊矢が予約したホテルに三人で向かった。


 おかげで翌朝、小夜と楸矢は外に出ることが出来た。

 ただ制服はコインランドリーの乾燥機に放り込むわけにはいかないので当日中に仕上げてくれるクリーニング店に開店と同時に持っていった。

「参ったな。沙陽がここまでやるなんてね」

 楸矢がホテルの一階にあるラウンジでコーヒーを飲みながら言った。柊矢は清掃業者の手配や保険請求などの手続きのために出掛けていた。

 沙陽のムーシカが聴こえていたのだから、彼女の関与は疑いようがない。

 しかし小夜や楸矢はともかく柊矢まで狙うとは思わなかった。

 柊矢の心が小夜に移ったのが気に入らなかったのだろう。

 とはいえ、それは小夜にはどうしようもない。

「あの人達、何かある度に家に火をける気かね」

 楸矢はそう言ってから、やべっと言うように口をふさいだ。

「小夜ちゃん、ゴメン」

「いいんです」

 事実だし……。

 火の付いたままのタバコを捨てておけば後は強風を起こせるムーシカで遠くから火をけられる。

「小夜、楸矢さん、こんにちは」

 清美がホテルに入ってきた。さっき小夜が新しいスマホで清美に連絡をしたのだ。

「やぁ、清美ちゃん。お見舞いに来てくれたんだ。ありがとう」

「そんな大層なものじゃないですよ~。手ぶらだし」

 清美が笑いながら言った。

「清美ちゃんが来てくれただけで嬉しいよ。ね、小夜ちゃん」

「はい」

 小夜は楸矢の言葉に頷くと、

「清美、座って」

 と自分の隣を叩いた。

 楸矢は清美にコーヒーでいいか訊ねてから注文した。

「へ~、火事って燃えてなくても水浸みずびたしになっちゃうものなんですね」

「そうなんだよ。参るよね」

 そんな話をしているとき、小夜の背後からハイヒールの足音が聞こえてきた。

「せ、聖子さん」

 楸矢が思わず立ち上がった。

 小夜と清美はすぐに察した。

 楸矢の彼女だ。

 二人は後ろを振り返った。

 聖子は大人っぽい落ち着いた雰囲気の美女だった。

「あ、じゃあ、しゅ、大家さんへのご挨拶もすんだし、向こうで話でもしようか」

「そうだね」

 清美と小夜は自分の飲み物を持つと素早く立ち上がった。

 楸矢が目で、ゴメンね、と言っていた。

 聖子がこちらに歩いてくる。

 清美の横を通りかかった瞬間、

「諦めなさい。楸矢は子供なんか相手にしないわ」

 と聖子が小声で言った。

 そのまま二人は何事もなかったかのようにれ違った。

「すごい、今のって修羅場だよね」

 ソファに座るなり小夜が興奮を抑えた声で言った。

「まさかこんなところで修羅場になるとは思わなかったわ」

「修羅場って初めて見た」

 地球人の修羅場って怖い。

 ムーシコス同士なら歌でむのに。

「あれ? この前の怖い人、柊矢さんの元カノって言ってなかった?」

「あ、そうか」

 そういえば修羅場になったことあったっけ。

 思い返してみるとムーシコス同士の修羅場もかなり怖い。

 喉を潰されたり、家に火をけられたり。

「まだ二回しか会ってないのに修羅場になるってことは、マジになったらどうなるんだろ」

「ちょっと、清美! 彼女がいるうちは楸矢さんに手ぇ出しちゃダメだからね」

「分かってるって。あの人怖そうだもん」

 ……分かってない。絶対に。

「あ、なんか揉めだした」

 聖子がつかつかとフロントに歩み寄っていく。

 楸矢が慌てて聖子の腕を掴むと小夜達の方を見て何か言った。

 聖子が小夜達を睨むと楸矢に何か言ってホテルから出て行った。

 楸矢が小夜達の方へ来た。

「あの人、追いかけなくていいんですか?」

「今は頭に血が上ってるから。参るよね、小夜ちゃん達が見てる前で部屋に行きたいなんてさ」

「私達がいないところでゆっくりお話ししたかったんじゃないんですか?」

「小夜……」

 清美が白い目で小夜を見た。

「そうだったのかもね」

 楸矢が微笑わらいながら言った。

「それより、さっきはゴメンね。聖子さんに何か言われたでしょ」

「え!? 聞こえたんですか!?」

「いや、あの人、俺に近付く女の子みんな脅してるから、もしかして小夜ちゃん達にも何か言ったかなと思って」

「嫉妬深いんですね」

「清美!」

「あはは。いいよ、ホントのことだから」

 楸矢が笑って手を振った。

「柊兄の彼女とその友達って説明したんだけどね。柊兄の彼女が高校生のはずないって言って信じてくれなくてさ。柊兄と同い年の自分だって高校生の俺と付き合ってるのに」

「か、彼女って……」

 小夜が赤くなった。

「ホントのことでしょ。何、赤くなってんのよ」

「だ、だって……」

「ま、無事みたいで安心した。明日は学校来られるんだよね」

「うん。行く」

「じゃ、明日ね」

 清美が手を振った。

「そこまで送っていくよ」

 楸矢がそう言って清美と一緒に歩き出した。

 小夜は手を振りながら、結構お似合いかも、と思っていた。


       五


 数日後、柊矢達は完全に綺麗になった家に帰ってきた。

 早速小夜は夕食を作った。

「やっぱ、ホテルよりうちの方がいいな。うちなら小夜ちゃんの手料理食べられるし」

 夕食を食べながら楸矢が言った。

「明日は買い物に行かないといけないので、リクエストがあるなら聞きますよ」

「ホント! じゃあ、何にしようかなぁ」

「ゆっくり考えてください」

「うん、今はこの夕食を味わ……」

 不意に電気が消えた。

 台所だけではない。家中の電気が消えたようだ。

「停電!? 嘘だろ! まだバックアップしてないよ!」

 楸矢が悲鳴を上げた。

「この辺り一帯全部停電したようだな。どうやら、あれと関係がありそうだ」

 窓から外を覗いた柊矢が森を指した。

「森が広がってる」

 しかも白くない。

 つまり旋律が溶けているのだ。

 空にはグラフェーとドラマも見えている。

 その時、椿矢の歌声が聴こえてきた。

 これ、呼び出しのムーシカだ。

 小夜が顔を上げた。

 柊矢がそれに気付いた。

「どうした?」

「椿矢さんからの呼び出しのムーシカです。多分、あそこから……」

 小夜は森に視線を向けた。

 楸矢は、

「なんでスマホ……」

 使わないんだろ、と言おうとして画面を見て気付いた。

 電波が届いてない。

「停電で電波も飛んでないんだろ。小夜、楸矢、支度をしろ。森に行くぞ」

 柊矢は車の鍵を手に取った。

「笛、まだ本調子じゃないんだけどな」

 楸矢はそう言いながらキタラと笛を抱えて出てきた。

 三人は柊矢の車に乗ると森に向かった。


「見事に真っ暗だね」

「道路と森の区別が付かなくなってきた。ここで車を降りよう」

 柊矢はそう言って車を道路の端に止めると、助手席側に回ってドアを開けた。小夜が車から降りた。楸矢も後部座席から降りてきた。


 柊矢は車のドアに鍵をかけると、

「何があるか分からないからな。気を付けて歩けよ」

 と言って小夜の肩に手を回した。


 中央公園の近くまで行くと椿矢がブズーキを引く手を止めて片手を上げた。

 一緒に森の中へ進んでいくと沙陽達がいた。

 明かりはグラフェーの光だけなのではっきりとは分からないが、榎矢と、その他にも何人かいるようだ。


 森の中を漂うように旋律が流れていた。

 これは森の旋律だ。

 池からは池の旋律が流れてくる。


「ムーシケーは完全に溶けたわ。後は帰るだけよ」

 沙陽は小夜達に気付くと勝ち誇った様に言った。

「この停電と何か関係してるのか?」

 柊矢の問いに、

「旋律を溶かすにはエネルギーが必要だったのよ。膨大ぼうだいなエネルギーが」

 沙陽が答えた。

 旋律を溶かすためのムーシカが歌えなかったか、歌っても溶けなかったから地球のエネルギーを使って強引に溶かしたのだろう。

 惑星中の旋律を溶かすほどのエネルギーともなると、もしかしたら地球規模で停電になっているかもしれない。

 グラフェーが照らす森は緑の葉を茂らせ水面は波打っていた。

 旋律があちこちから聴こえてくる。

「森が戸惑ってる」

 小夜は辺りを見回しながら言った。

 森もこんな起き方をするとは思ってなかったのだ。

 不意に沙陽の腰の辺りが眩しく光った。

 多分、腰のポケットにクレーイスが入っているのだろう。

 クレーイスから封印のムーシカの旋律が聴こえてきた。

 帰還派は驚いたように光の方を見ているが旋律は聴こえていないようだ。

 だが小夜には聴こえていた。

 小夜が柊矢達を見ると、二人にも聴こえているらしい。

 二人は頷いて楽器を構えた。

 前奏が始まる。

 椿矢も気付いたらしくブズーキを奏で始めた。

「今更……」

 沙陽がバカにしたようにわらった。


 不意に辺りの景色が変わった。

 小夜は宇宙空間にいた。

 自分の姿は見えないが柊矢達の演奏は聴こえている。

 多分、意識だけここにいるんだ。

 正面にテクネーを構成しているムーシケーとグラフェー、そしてドラマが見えた。

 ムーシケーはグラフェーに向かって歌いかけ、グラフェーも大気の色や雲の形を変えることでムーシケーに向けて想いを伝えていた。

 この前、ムーシケーで聴いたムーシカじゃない。

 互いが想い合っていることを喜んでいるムーシカだ。

 グラフェーもそれに応えてる。

 これは過去のことだ。


 不意に視界が変わった。

 目の前に茶色い惑星があり、その向こうに青い星が二つ、寄り添うように並んでいる。

 テクネー――ムーシケーとグラフェーと衛星のドラマ――だ。

 ドラマは小さいからこの距離からだと肉眼では見えない。

 テクネーの向こうに太陽のように大きくまばゆく輝く星(恒星)が見えるから目の前にあるのはテクネーの外側の軌道を回っている惑星だ。

 テクネーのすぐ外側を回っている惑星がテクネーの近くを通っている時なのだろう。

 そこへ、茶色い惑星と同じくらいの大きさの天体近付いてきた。

 ゆっくり近付いているように見えるが大きいからそう感じるだけで実際は相当な速さだ。

 惑星と天体が激突した。

 二つの星が砕けて破片が宇宙空間に散らばった。

 そのうちの一部が接近中だったテクネーの引力に引かれて落ちていく。

 これが火球の正体だったんだ。


 再び視界が変わり、ムーシケーの大地から夜空を見上げていた。

 視線の先にはグラフェーがあった。

 美しい旋律が風に乗って流れていく。

 まだ凍り付く前のムーシケーだ。

 惑星の破片がテクネー全体に降り注ぐ。

 ムーシケーにも無数の火球や隕石が降ってくる。

 夜空が次々に流れる流星で覆われていた。

 時折、隕石が激突したと思われる轟音がして大地が振動する。

 ムーシケーが戸惑っているのが感じられた。

 グラフェーも困惑しているのか互いのやりとりが途切れた。

 その間にも、夜空を次々に星が流れていき、大きな音がして地面が揺れる。

 そのうち、破片がグラフェーへと落ちるのが見えた。

 いや、破片と言うには大きすぎる。点にしか見えないとは言えこの距離から目視出来るのだ。

 破片はグラフェーの大気に触れると赤く発光しながら地表へ近付いていき、地面にぶつかる。

 グラフェーの大地が僅かにくぼんだのが分かった。

 そこから大量の衝突しょうとつ放出物ほうしゅつぶつが舞い上がった。

 一部は大気圏から飛び出している。

 衝撃波がグラフェー全体に波及はきゅうしていく。

 あれは灼熱の大気――隕石が衝突の衝撃で気体になった岩石蒸気――だ。

 ムーシケーとグラフェーの大気は繋がっている。このままではグラフェーを覆おうとしている四千度にも達する高温の風がムーシケーまで到達してしまう。

 ムーシケーは自分の大地のものを守るために、ムーシコスを地球へ送り惑星ほしの表面を旋律で凍り付かせた。

 その直後、グラフェーから灼熱の蒸気が流れ込んできた。

 凍り付いていたことでムーシケーのもの達は守られた。

 グラフェーは壊滅した。

 隕石の冬がグラフェーを覆っている。

 グラフェーは死んでしまったのか、意識を失っただけなのか、ムーシケーの呼びかけに応えなくなった。

 グラフェーの衝撃波は収まったが依然として破片は降り注いでいる。

 次はムーシケーに巨大な破片が落ちるかもしれない。

 だからムーシケーはムーシコスの帰還を頑なに拒んだ。

 いつムーシケーも巨大な破片によって壊滅するか分からないから。

 現にクレーターを作るほどの隕石が降り注いでいる。

 ムーシケーは、クレーイス・エコーにクレーイスを持たせた。

 いつか帰れるようになった時、旋律を溶かすためのムーシカを伝えられるように。

 そうだったんだ。

 小夜はムーシケーの想いを理解した。

 ムーシケーの大地のもの達や全てのムーシコスも、今の光景を見ていた。

 前奏が終わり、小夜が封印のムーシカを歌い始めた。

 すぐに椿矢や他のムーソポイオスの斉唱や重唱、副旋律を歌うコーラスが加わった。

 小夜の、ムーシコスの、歌声と演奏がムーシケーに広がっていく。

 樹々が、草が、水が、大地が、それに応えるかの様に同じ旋律を奏で始めた。

 ムーシケーの地上に存在する全てのものが同じ旋律を奏でた。

 惑星ほし中のものが奏でる交響曲がムーシケーを覆っていく。


 小夜達を中心に、渦巻きのように、消えていた電気が次々とついていき、街が息を吹き返す。

「そんな……」

 沙陽が信じられないという表情で辺りを見回す。

 ムーシカが終わろうとする頃にはムーシケーの全てのものが封印のムーシカを奏でていた。

 自分達を眠らせるためのムーシカを。

 池が凍り付いた。樹々も、草も、大地も、全てのものが凍り付いていく。

 そしてムーシカが終わると同時に夜空にオーロラが現れた。

 オーロラから一滴の滴が小夜の手の中に落ちてきた。

 クレーイスだった。

 沙陽の腰の辺りの光はいつの間にか消えていた。

 クレーイスからムーシカが伝わってきた。

 小夜はクレーイスから受け取ったムーシカを歌い始めた。

 これはムーシケーが、自分の全ての子供達に対して歌いかける子守唄。


 破片の脅威はいつかは去る。

 だから、それまでは眠って。

 目覚めるときは必ず来ると信じて待っていて。


 小夜がムーシカを歌い終える頃には惑星ムーシケーのもの達は再び眠りにつき、ムーサの森も薄れていった。

 電気は完全に戻っていた。

「榎矢、お前にも見えただろ。ムーシケーに行くのは無理だ。諦めろ」

 椿矢がそう言うと、榎矢は憎々しげに椿矢を睨み付けてから去っていった。

「そっちの人達は? 諦める気にならない?」

 他の帰還派も何も言わずに帰っていった。

 沙陽だけがわずかに躊躇ためらっていたがやがて夜の街に消えていった。

「やれやれ、これで帰還派が大人しくなってくれるといいんだけど」

「え? だって、帰れない理由は分かったんですから……」

「そうだね。僕の取り越し苦労だよ。それじゃね。今度また一緒にムーシカを奏でよう」

 椿矢はそう言うと帰っていった。

「俺達も帰るか。子供は寝る時間だ」

 小夜は、子供じゃありません、と言いたかったが、またからかわれそうだったので黙っていた。


 おやすみ、ムーサの森。


 小夜達はゆっくりと消えていく森を後にした。


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「魂の還る惑星」は、この話の2,3日後から始まる地続きの続編です。

 小夜や霧生兄弟の両親が亡くなった理由などの話です。

 この話をお気に召していただけたら読んでいただけると幸いです。

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歌のふる里 月夜野すみれ @tsukiyonosumire

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