第7話 クソ。

 翌朝、午前五時。


 普段滅多に目を覚ますことがない時間帯に俺は今、自室の姿見と睨めっこをしている。


「やっぱ流石にタキシードはやり過ぎだよな……」

 

 そんな言葉をぼそりと呟いて、俺は着方もよくわからないままに身を包んだ服の襟元をぎゅっと握りしめる。ファッション好きの父親からの無駄なプレゼントで、クローゼットには山のように服が眠っているのだが、まさか本当に活用する日が来るとは思わなかった。

 

 とまあ一人ファッションチェックに熱を入れている様子からもわかるように、俺は朝早くから川波とのデートの為に準備をしているところである。いや、正直に言えば早起きどころか喜びと緊張のせいで一睡もすることができなかった。

 しかし不思議なことに、普段であれば深夜アニメの見過ぎで寝るのが遅くなった時は仮に三時間程度睡眠が取れたとしても翌朝は死にそうな面をしているはずなのに、今日はそんな雰囲気は一切ない。それどころかばっちり十二時間ぐらいは熟睡できたかのような気力さえも沸き起こっているではないか。


「川波はどんな服装をするんだろう」

 

 試しに着たラッパーまがいの服に身を包みながら俺はぼそりとそんな言葉を呟く。未だかつて川波の私服及び部屋着を見たことのない俺にとって、彼女がどんな服装で現れるのかも今日の楽しみの一つなのだ。

 そんなことを考えていると「川波もそろそろ起きて着替えてる頃かなー?」なんて邪念に取り憑かれて無意識に隣室の壁に耳を当ててしまいそうになり慌てて我に戻る。けしからん、俺は一体何を考えているんだ!

 

 今日こそ紳士を貫くべきだと決意を新たに誓いを立てた俺は、川波の部屋がある壁から距離を取ると、再び熱を入れてファッションチェックを始めた。

 だが残念なことに普段からファッションに興味がなくセンスのセの字もない自分が突然ファッションに目覚めたところでお洒落なコーディネートが生まれるわけもなく、結局その後三時間費やしてようやく決まったのはジーパンにチェック柄のシャツといういつもの組み合わせだった。


「筒乃宮様、おはようございます。起きていますか?」

 

 優しいノックの音と共に想いを寄せる女の子の声が扉越しに聞こえてきて、「は、はいっ!」と俺は急いで返事をする。ちなみにもちろん声は裏返る。


「朝食の準備が出来ましたのでダイニングでお待ちしております」


「わ、わかったすぐに行く!」

 

 俺はそう返事を返すと、まさかデートのために徹夜で服選びをしていたことを悟られないように部屋に散らばっている服たちを慌ててクローゼットへと押し込む。よし、これで万が一部屋の中を見られたとしてもバレないだろう。

 そんなことを思いふぅと小さく息を吐き出すと、愛しのハニーが待っているダイニングへと足を急ぐ。


「ご、ごめん遅くなって……」

 

 謝罪の言葉を口にしながらダイニングへと一歩足を踏み入れると、そこにはいつもと違う服装を……することなくいつも通りの制服を着た川波の姿が。


「あれ?」と思わず首を傾げる自分に、「どうかしましたか?」と川波がきょとんとした表情を浮かべる。


「いや、その……今日も制服なんだなって思って」


「はい。これが正装ですので」


「……」

 

 どうやら一緒に遊びに行くという壁は乗り越えたものの、まだ服装については気を許してもらえてはいないらしい。……まあもちろん、制服姿の川波も可愛いので文句はないが。

 それでも川波の新たな一面を見れるのではと期待していた俺は、「くっ」と思わず漏らした声に悔しさを滲ます。しかしアメーバよりも単細胞で出来ている俺の頭は、川波お手製のフレンチトーストとコーンスープを口にするだけで、そんな悔しさなどすぐに忘れで幸せに包まれるのであった。


「それで今日はどこに行くんだ?」

 

 二人一緒にマンションを出た瞬間、俺はまるで彼氏にでもなったかのような口ぶりでそんなことを尋ねた。するときっちりと線引きを引いてくる川波が、「近場です」と端的に敬語で答える。……うぅ、やっぱちょっとヘコむな。

 なんてことを思いながら二の句を継げずにいると、再び川波の方から口を開いてきた。


「実は前々から行きたいと思っていたところがありまして」


「ほほう……」

 

 なるほど。それはつまり前々から俺と一緒に行きたい場所があったという解釈でよろしいのかな?

 どうやら俺の頭が単純細胞であることは間違いないようで、そんなバカな妄想を考えるだけで気持ちはすぐに持ち直った。それどころか、「そこまで楽しみにしてくれていたのなら」と俺は内心でそんなことを呟くと、やはり今日は紳士筒乃宮が美しい彼女のために何から何までエスコートすべきだろうとふんと鼻息を荒くする。


 が、しかし。ここでまたも予想外のことが起こってしまう。


「――っ!?」

 

 隣を歩いていた川波が何故かふと立ち止まったかと思いきや、なんと俺の目の前に右手をすっと伸ばしてきたのだ。

「なっ」とそのあまりに積極的過ぎる姿勢に、俺は思わず呼吸も歩みも止めてしまう。


「か……川波?」


 まるで恥ずかしさを隠すかのようにこちらを見ることはなく地面を見つめ、黙ったまま綺麗な指先を俺に向けてくる川波。いやいやいや、ちょっと待って! さすがにこの展開は早くない!? だって俺たちまだ付き合ってないのにいきなり『手を繋ぐ』とかそれはちょっとーー

 

 初めて見る彼女のそんな大胆な行動に、俺の心臓はもはや爆発寸前だった。

 けれどもそれは川波だって同じはず。彼女は恥を忍んで我慢できない俺への気持ちを行動に起こしてくれたのだから。


 だったら俺も、とゴクリと唾を飲み込んで覚悟を決めると、汚れを知らないその真っ白で綺麗な指先に自分の指を絡……


「筒乃宮様お気をつけて下さい。足元に犬の汚物がございます」


「………………」

 

 だそうである。

 

 どうやら川波は手を繋ぐために右手を差し出してきたのではなく、犬の糞に向かって突撃しようとしていた俺のことを守ってくれていたらしい。ははっ……やっぱ家政婦って頼もしいな。……犬のクソぅっ!

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