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夢見遼

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私が死んだら葬式に来てほしいぐらいに好き、と言っていたことを思い出して、礼服を着て式場の最寄りの駅まで来た。白く濁った曇りの空の、妙に寂しい秋の日だった。プラットホームは閑散としていて、空き缶の転がる音だけがやけに響いて聞こえた。僕は風に巻き上げられた枯れ葉が線路の溝に溜まっていくのをぼんやりと眺めて、一つ身震いをしてから反対側の電車に乗った。行き先は決めてない。

 決して目立つ人ではなかった。けれど素敵な人だった。電車の小刻みな振動に任せて揺れているうちに、遅れたように一つの情景が浮かび上がってくる。メールで連絡として処理したときは、すっかり忘れていたというのに。あれはアルコールを注いでさらに盛り上がる熱と活気の場から逃げるように退散して、川沿いの道を歩いていたときだった気がする。ゆったりと流れる川からは都内の腐った匂いがして、ときおり歩道の横の茂みから虫の声がして、秋の風は少し肌寒いくらいだった。周りが暗かったから彼女がどんな顔をしていたのかは覚えていないが、等間隔に設置された街灯に照らされる度に目蓋にのった化粧が光っていたのは、なぜだか強く印象的に残っている。

 同じ写真同好会の先輩だった。首から下げた一眼レフが、いつも不釣り合いに大きく見えて、本人はひっそりとした人だった。小さな同好会だったため、全員合わせても十人程度のメンバーしかいなかったが、その中でも後半で名前が挙がるような人だった。縁の細い楕円形の眼鏡が、そばかすを散りばめた小さな鼻にそっと載っていて、産まれてこのかた染めたことないという黒髪は、先の方が肩に触れてうねっていた。もう少し鮮明に思い出せるような気もするが、ぼんやりとした輪郭しか思い出せない。第一印象は冴えない人、売れないインディーズバンドのボーカルみたいだったし、実際そういう風に揶揄されてた場面もある。本人は「歌は上手くないんだけどね」と恥じらっていたような気がする。いずれにせよ10年ほど前の話だ、正確には覚えていないし、思い出せそうにない。それくらいの人だった。足裏から伝わる電車の音と振動に負けてしまいそうな思い出だ。

 この先どうしたものか、と時間を確認すると、職場から明後日の連絡が来ていた。つくづく今日が土曜日で良かったと思う。知り合いの忌引きで休むと言ったって、どんな関係の知り合いかと聞かれたら迷ってしまう間柄であったし、そもそも休日でなければわざわざ足を運ばなかっただろう。五年前に会って以来の人の葬式なんて。結局は知らない人々に囲まれるのを考えると億劫で、今この足はどんどんと遠ざかっているのだが。しかも聞いたところ自死らしい。余計リアクションがしにくい。そもそも知人というと他人行儀だが、友人と呼べるほど親しくはなかった。そのような人の葬式にはどんな顔で出席すれば良いのだろうか。もっと長生きしてくれていたら良かった。そしたら忘れた頃に風の噂程度に聞いて、残念なんて一瞬の感傷で済んだのに。

 諦めて自宅に戻ろうかと決心したときには、いつの間にか高田馬場に着いていて、流れるように降りていた。かつての大学の最寄駅だ。無意識のうちに感傷に浸りたがっていたのか、それとも五年前の癖か。久々に降りた高田馬場はやはり今も学生の街で、立ち並ぶチェーンの定食屋の明かりとまだ若い顔立ちをした大人達が溢れており、自分がひどく場違いに感じた。居酒屋のキャッチとエネルギーが飛び交っているターミナルを避けるようにして、神田川沿いに進む。人気がすっと消え、ぽつぽつと立った街灯と今も昔も汚い神田川だけが残った。この道を教えてくれたのも彼女だった。

「君は写真好き?」

 そういえば先輩は、右も左も分からないまま新歓に参加したとき、初めて話しかけてくれた。まだ髪が長かった頃だ。大学に入ったらサークルに加入し、大学生活を楽しんでいるフリをしなければいけないと思っていた自分は、特段写真に興味があったわけではなかったので、咄嗟に聞かれた質問に狼狽し「はい」と答えてしまった。実のところ嵐のように吹き荒れるビラの中から、活動頻度が低く雰囲気が緩そうなところを選んだのだった。

「じゃあ普段からよく写真撮る方? カメラは何持ってる?」

「あ、いえ、撮るより見る方が好きで」

 斜め下の方に目を逸らす。これも難を逃れるための出任せではあるが、あながち嘘ではない。一昨年あたりから写真にハマった叔父に半ば強引に連れられて行った、地元の公民館の写真展はそこまで嫌ではなかった。素人の写真でも、見比べるとなんとなく技術の違いが分かり、個人的には奇を衒った図より素朴な風景画が好きだった。叔父によると風景画はきれいなだけで、魅力的にするのが難しいそう。レンズにも違いがあるらしい。そこまで細かいところは分からないが。

「見るの楽しいよね。撮るのも楽しいから、サークル入ったら挑戦してみて」

 苦し紛れの言い訳にも先輩は優しく答えてくれたが、恐らく本気の写真家の前で変なことを口走ったのが恥ずかしくて、あまり聞いてなかった。実際そのサークルで先輩ほど腕が立つ人は二、三人くらいしかいなかったのだが。このやりとりも、たった今思い出した。

 先輩の写真はいつも柔らかくて少し寂しげだった。人物より自然が多く、空の色や葉の色、建物の色に温度があり、影がもの悲しくさせた。簡単に撮れそうに見えて、自分で撮ってみるとなかなか再現できない。先輩の撮る景色はなぜだか懐かしくて、安心できるような暖かさと夕焼け色のセンチメンタルがこもっている。なけなしのバイト代で叔父の勧めの一眼レフを自分も買ったが、先輩の写真には最後まで遠く及ばなかった。それでも月一の活動を二ヶ月に一回出席したり欠席したりしながら撮り続け、新しく後輩ができる頃には、なんとかモノになった。先輩は「近藤くんの写真は素直で良いと思う」と褒めてくれたが、自分はどうしても先輩の写真のような雰囲気を撮りたくて、だいぶ苦しんでいた記憶がある。写真同好会のメンバーは、先輩と会長を含めて明らかに上手な人が三人、素人が四人で、幽霊がその他の小さなサークルで、学園祭では隅の教室でボードを借りてきて展示するくらいだった。コンテストのようなものに応募した覚えもあるが、記憶にないので乏しい結果だったのだろう。先輩は確か「評価されたくない」と言って出してなかったような気がする。そのようにして、月一で公園に出かけ一日中カメラを構えては、暗くなって居酒屋に入り安酒を呑む活動は、嫌いではなかったが熱い思い入れがあるほどでもなかった。大学もバイトも忙しく、サークルはついでのようだったし。先輩は毎回参加してるものの、あまり会話をせず、一人で黙々と撮っていた。先輩と話す人も少なく、積極的に話しかけたのは同好会会長と、自分くらいだろう。どんな話をしたのかは覚えてないが、ゆっくりでも物事を深く考えてぽつぽつと話す先輩は、誰よりも誠実で心地良かった。自分と先輩の間には、無言の理解とたどたどしい歩み寄りがあって、その距離感がちょうど良かった。ああ思い出した、これくらいの関係だった。

そうして過ごして引退式の夜。打ち上げの途中で抜け出したんだった。先輩にそっと手を引かれて、つられて立ち上がったら先輩はするりと店を抜けた。外は冷えていて、アルコールで火照った身体の熱を静かに冷ました。

「どこ行くんですか」

「どこと言うか。先帰っちゃおうかと思って」

「え、良いんですか」

「今日の主役だから、わがままでいいかなって」

 こんなことしたの初めてだよ、と先輩は付け加えた。目立つことが苦手な先輩は確かに送別会が格別嬉しいからと言われたら、遠慮したい気持ちだったのだろう。それを誤魔化すのも、なんだか面白くて、そうかと勝手に納得してしまった。それに自分を選んでくれたことが嬉しかった。

「この道逸れると、川沿いになるんだけど。ここからでも高田馬場着くから。こっちから行かない?」

 先輩に連れられるがままに川沿いを歩く。正直暗くてよく見えなかったが、のっぺりとした水面は妙に落ち着いた。先輩は途中にあるコンビニに寄って、度数の低い缶チューハイを買ったと思うとその場で開けだした。

「ここ歩きながら飲むの好きなんだよ」

 先輩がピアスを開けたことがある、と聞いたときくらい衝撃だった。思わず、路上飲酒ですかと口走ると、路上喫煙とは違うから許されるんじゃ、とよく分からない返しをされた。先輩が潰れた様を見たことはないが、この日はだいぶ酔っていたんだと思う。

「はい、チーズ」

「あ」

 とっさに振られたカメラに、思わず立ち止まると、先輩は何枚かパシャパシャとシャッターを切って、にっこり笑った。

「案外悪くないね」

「それは良かったです」

 時折思い出したように街灯が瞬いて、虫が鳴いた。静かな夜だった。

「あ〜、今なら死んでも良い。お酒飲むと思う。別にもういいやって。楽しかったしな」

「ずいぶん早死にですね」

「そうかな」

 先輩は缶の中のお酒を回して、ちゃぷちゃぷと音を立てては遊んでいる。このやりとりを覚えていたから、先輩の死因が自死であったとしても、あまり驚かなかったのかもしれない。

「そしたらさ、葬式来てね。それくらいには好き」

 いつもの会話と何も変わることない口調だったから、そうですね、と軽く返した。そしたら先輩は軽く笑って、もう一度フィルターに僕の顔を写した。

先輩から「好き」と言われたのはその一回きりだった。


今日もあの日と同じような風が吹いていた。同じような温度で、同じように川が流れていた。いや、違ったかもしれない。あの日の方がもっと光っていて、もっと、もっと、綺麗だった。


名前の付けることができないあの関係が、こんなに好ましかった。なんでまだ覚えてたんだろう。


彼女は写真を撮るのが好きだった、と式場に伝えた人はいたのだろうか。急に不安になってきた。彼女に交際相手がいたのかも、結婚しているのかも分からない。一人で死んだのなら、やっぱり悲しかったのではないだろうか。彼女のことを理解していた人は式にいるのだろうか。カメラは共に燃やしてもらえたのだろうか。カメラでなくとも、何枚かは写真を燃やしてもらえただろうか。今の彼女はどんな顔をしてたのだろう。やっぱり葬式に出れば良かった。故人になる前に写真を撮っておくべきだった。彼女の写真は一枚もない。写真同好会に属していたというのに、なぜ彼女の姿を撮っておかなかったのだろう。彼女が被写体になるのを嫌ったからか。けれど、彼女は笑いながら自分に被写体を頼んでいた。彼女の持っているカメラには、自分が収められていたはずだ。それじゃズルイでしょう、と撮らせてもらうべきだった。いや写真で思い出に残す前に、もっと話せば良かった。葬式に出る前に、死ぬ前に会っておけば良かった。そういうことだったのだ。写真じゃ、葬式じゃ、終わってしまったことだから。葬式に出て欲しいなんて言葉じゃ、あんまりに不器用じゃないか。分からないよ。


あの人は川沿いを歩きながら飲む酒が好きだと言っていた。通りがかったコンビニで、缶のサワーを買った。アルコール度数5%の炭酸水は安い味で喉と頭と心を詰まらせて、それがなぜだが無性に悲しくて声を上げて泣いてしまった。

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