第25話 黄木藍子の場合 <転機>

「お疲れ。宏典」

「お、藍子」


 やはり予想したように片倉は給湯室に来て、コーヒーを用意していた。


「またコーヒー飲むの?」

「藍子も飲む?」

「飲みたい」


 藍子は給湯室の棚に置いていたマグカップを取り出し、片倉に渡した。

 給湯室には社員が自由に飲めるように、カートリッジ式のコーヒーマシンが設置されている。

 片倉が操作すると、ぶぶぶと動き出してマシンに設置したマグカップに黒い液体が注がれていく。


「『ニューワールド』の新イベは順調に進んでるのか?」

「あー、うん。まぁね。今のところ順調。機能を追加するタスクはちょっとてこずってるけど」

「珍しいな、手こずるなんて」

「そう?」

「何か気になることでもあるのか?」


 コーヒーを注ぎ終えマシンが止まり、片倉からマグカップを受け取った。

 並々と注がれた黒い液体がゆらゆらと揺れる。


「『ニューワールド』の著作権譲渡のことなんだけど……今どんな感じで進んでるの?」

「契約締結に向けて進めてるよ。赤坂さんから譲渡の条件を話してもらったから、それを下地にマネージャーと一緒に社内の調整をしてる。さっき電話で赤坂さんと来週の頭に打ち合わせをすることになったから、そこで締結に持っていこうと思ってる」


 先ほどの電話で打ち合わせの予定を組んでいたのか。

 そこまで状況が進んでいたのか、と藍子は進捗が把握できなかったことに唇を噛んだ。


「……本当にそれでいいのかな?」

「どうした?」


 片倉は訝しげに藍子を見た。


「渉くんは『ニューワールド』をきっと大切にしてると思うのよ。それを大人たちの思惑で奪い取っている形になってるんじゃないかって……」

「思惑って……」

「私、どうしても渉くんが打ち合わせの時に出て行ったことが引っかかってるんだよね。本人は納得してないんじゃないかって」

「高校生だしね、感傷はあるんじゃないかな」

「高校生とか年齢は関係ないと思う」


 間髪入れずに答えた藍子に、ふぅと片倉が溜息を零した。


「藍子、肩入れしすぎじゃないか? 同じ制作側の人間として共感しすぎているっていうか」

「そんなことは……」

「ないって言いきれないだろ?」


 藍子は図星を突かれて押し黙った。


「藍子、これはビジネスなんだ。もう個人の問題じゃなくて、他の社員の生活もかかっている企業の問題」

「そんなこと分かってる!」


 思わず声が出てしまい藍子は慌てて口を押さえた。

 そんな藍子の様子に片倉は目を丸くしていた。


「藍子は少し冷静になった方がいい」

「……冷静よ」

「大きな声を出しといて?」


 片倉の冷静な声音が、逆に藍子の状況をはっきりと表す。


「この件は俺とマネージャーで進めてるから、藍子は新イベに全力を注いでくれ。チームのみんなも藍子の指示を待ってるから」

「でも……」


 なんとか状況を覆せないか藍子が食い下がろうとするが、片倉が意外なことを言ってきた。


「藍子、そんなこと言ってる場合じゃないぞ」

「急に何よ……?」


 今度は藍子が訝しげに片倉を見た。


「マネージャーから藍子にはまだ言うなって言われてたけど……藍子にもうすぐ内示がでるよ」

「は?」


 藍子は一瞬何を言われたのか分からなかった。


「来月会社で、ポスト『ニューワールド』を生み出すために、新しいチームを作るらしいんだ。しかも社長直轄の部署。その部署に藍子が抜擢された」

「何よ、それ? 何で私なのよ!?」


 藍子は目を丸くした。

 『ニューワールド』チームを私が離れるだって?

 体全体がわなわなと震え出した。


「『ニューワールド』をウチの会社のヒットコンテンツにした立役者だろ? その実績が認められたんだ。昇進だよ。俺ら同期の中ではトップだ」

「だったら宏典が行くべきでしょう? 宏典はこのチームのリーダーで、実績を作ったのは宏典の力が大きいんだから」


 確かに藍子は立役者の一人だろう。商品化できるようにプログラムし直した部分もあったし、オンラインゲーム化したのも藍子だ。

 けれども、それを顧客に認知させるための仕掛けやマーケティング、著作権を持つ赤坂親子との交渉、そのほか細かいことまで売り上げに直結する部分を担ってきたのは、片倉に他ならない。


「藍子、俺じゃないよ」


 片倉は藍子の言葉を即座に否定した。


「確かに藍子の言う通り、俺もきちんと仕事をしてきた。でも、俺は藍子に引っ張ってもらってこのポジションにいる。藍子のおかげなんだよ。感謝してる」


「感謝だなんて……」


 藍子からしてみたら、自分にできないことをやってくれる片倉に感謝をするのは、自分の方だと思う。


「フリーゲームサイトに投稿されていた『ニューワールド』を見つけてきたのは藍子で、藍子のアイデアを形にしなかったらヒットコンテンツは生まれなかった。会社は藍子に期待してるんだよ」


「そんな……」

「それにマネージャーからその話を聞かされて意見を聞かれた時、俺も推薦させてもらった」

「何で!?」

「俺は藍子に恩を返したかった。藍子はもっと高みに行ける。『ニューワールド』を卒業して新天地に行くんだ」

「私、そんなの望んでない!」

「藍子、もう決まったことなんだよ」


 片倉は藍子の肩をぽんぽんと叩き、給湯室を出て行った。藍子はぐっと俯いた。

 『ニューワールド』はメインプログラマーという役割を初めて担い、ヒットコンテンツへと成長に導けた藍子にとって思い入れのある、別格の仕事だった。

 離れたくない。

 手放したくない。

 もう、高校生の時の自分のような思いをしたくないのに。

 でも、決まったことを覆せるほど藍子には力がなかった。

 そして、片倉に裏切れらたような気分だった。

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