第13話

 ティアナが馬車に乗り込んだ途端、すぐに扉が閉められ、馬車が出発した。


 気がつくと、いつの間にか先に乗り込んでいたらしい人物に手を握られていた。ティアナの冷えきった両手には彼女の手がとても温かく感じられ、一連の出来事が現実に起こったことであると実感させられた。


「メアリー……?」


 ティアナの目の前にいたのは、ルスネリア公爵家で一緒に働いていたメイドのメアリーであった。


「ティアナ様、私はあなたの味方です。今は誰も信じられないかもしれませんが……この後のことは私にお任せいただけますか?」


 もう疲弊しきって難しいことは何も考えたくなかったティアナは、素直にこくんと頷いた。


「ティアナ様はこれからどうしたいですか?私はあなたの意思に沿う行動をしたい」

「メアリー……私、胸が痛くて……。もう、何も考えたくないの。何も考えなくていいところに行きたい」

「かしこまりました。今のティアナ様には少し休憩が必要のようですね。私の心の休まる場所で申し訳ないのですが、そこへお連れします。あなたは何も考えなくてもいいですよ。あなたの心も身体も、私が守ってみせます」


 メアリーがそう言い終えた瞬間、馬車の中が光に包まれた。

 仄かに広がった温かな光とともに、メアリーとティアナの姿は消えていた。

 アドルファス宮殿へと向かって走る馬車に誰も乗っていないことを知る者は、一人を除いてその場には誰もいなかった。


◆◆◆


 ティアナは町を歩いていた。


 ーーあ。これは……あの日の夢……?


 ティアナは10歳の時から、少しでも家計の足しになればと母に教えてもらった刺繍の技術をお金に替えていた。最初は既製品に刺繍を刺していたのだが、よく売れるようになってからは簡単な小物入れ等をデザインして作るところから手がけるようになり、とても楽しんで仕事をしていた。

 その日は納品したものの売れ行きを確認して、店主と次の仕入れについて簡単に打ち合わせているところに幼馴染みが現れたので、そのまま挨拶をして店を出たのであった。

 

 ーーそう。レオが送ると言ってれていたのを無視したのだったわ。私の住んでいた家までは歩いて十分程度だったし、危険な目に遭ったこともなかったから本当に必要ないと思っていたのよ。


 けれど、その日はいつもと違った。

 歩いていたらいきなり後ろから殴られ、路地裏に引き摺り込まれたのである。


 頭は割れるように痛むし、何か袋のようなものに入れられて運ばれているようだし、何が起こっているのかわからなくてティアナはパニックになっていた。


 このままどこかに売られてしまうのかもしれないと恐怖に怯えていると、急に浮遊感をおぼえた後に、真上から光が差し込んだのだ。


 眩しさに咄嗟に閉じた目を恐る恐る開けると、心配そうにこちらを伺う空色の瞳、少し遅れて太陽の光を浴びた綺麗なダークブロンドの髪が目に映った。

 天使のように美しい容貌にびっくりして「私は死んでしまったの?ここはもしかして天国?」と目まぐるしく考えながら呆然としていると、その天使様から「大丈夫ですか」と声をかけられた。

 

 やっと動転していた意識がはっきりして、その人がティアナを助けてくれたらしい状況を理解すると、「すみませんでした。助けていただきありがとうございます。天使様はお怪我などなさいませんでしたか?」と恩人である天使様の身体の状態を確認したのだった。

 その「天使様」こそがウィルバートだった。


 ーーあのあと、私が「天使様」って呼んだことに対して大笑いされて、ことあるごとにからかわれたのよね。


 ウィルバートとの出会いを思い出し、悲しい思いに心を痛めながら目覚めるのは久しぶりだ。


 ーーあの方は皇太子殿下だったのよ。もうそろそろ夢から覚めないと。彼は……今はアマンダの婚約者なのだから。


 甘くて悲しい夢を追い払うように目を覚ますと、見知らぬ天井が目に入る。


 周りを見渡してみると、上等な調度品が揃っており、どこかの貴族の邸宅の一室であることが窺われる。


 左手が何か温かいものに包まれていることに気が付いて目線を下げると、そこにはティアナの左手を握って眠る見知らぬ男性がいた。


 ーー誰……?


 うつ伏せているから頭頂部しか確認できないが、さらさらの明るいブロンドは触り心地が良さそうだ。


 ーーメアリーはどこかしら……


 自分の左手を握る見知らぬ男性も気にはなるが、ティアナをここに連れてきてくれたはずのメアリーの所在の方が気になった。


 そっと握り込まれた左手を取り戻そうとすると、逃さないとでもいうようにぎゅっと手に力が入った。


 ーー起こしちゃったかしら……?


 男性の方に視線を移すと、目を覚ましたらしい彼がゆっくりと顔を上げるところだった。


「目が覚めたのですね。私の女神……」


 ーーえ?なに?……女神??


 顔を上げた彼はまだ寝ぼけ眼で何かとても神々しいものを目にするような表情でティアナを眺めていた。

 彼の空色の瞳は、窓から降り注ぐ日の光を浴びてきらきらと輝いており、出会った日のウィルバートの瞳を思い起こさせた。


 ーーなんだか、あの時のウィルと立場が逆になったみたい……


 ウィルバートとの出会いの日は、ティアナが天使のような彼に見惚れていたが、今日のこの彼の様子はあの時の自分のようかもしれない、とティアナは微笑ましく思っていた。


「誰の女神ですか。その言いよう、あの人にそっくり……」


 はぁ、とため息をつきながら現れたのは、頼れるメイドのメアリーであったので、ティアナはほっと安心して息をついた。

 見知らぬ男性と二人でいることで、無意識にも身体が強張っていたようだ。


「メアリー。私、すっかり眠っちゃったのね。馬車に乗ってあなたに慰められたことまでは覚えているのだけれど、どうして私はここにいるのかしら?全く記憶がなくて。ごめんなさい」

「無理もありませんよ。あんなに大変なことがあったのですから。心身ともにゆっくり静養することが必要なのですよ。きちんと説明いたしますから。まずはこの無礼な男の話を聞いてやってくださいな」


 二人の会話を聞きながら完全に目を覚ました明るいブロンドに空色の瞳を持つ男性は、メアリーに無礼な男と称されて苦笑いしつつも、居住まいを正してその場で美しい騎士の礼をした。


「サミュエル・スペンサーです。許可もなく御身に触れて申し訳ありませんでした」

「まあ。スペンサー伯爵家のサミュエル様でしたか。お会いするのは初めてでしたよね。私を心配して手を握ってくださっていたのでしょう?おかげさまで目を覚ました時に心細くありませんでした。ありがとうございます。でも、もしかして私についていてくださっていたせいでよくお休みになれなかったのではないですか……?」


 勝手に手を握ってしまったサミュエルの不作法を咎めることもなく、お礼を言って微笑みながら、サミュエルの体調まで気遣ってくれるティアナに、自身の判断は間違っていなかったことを彼は再認識した。


「女神‥‥」と呟くサミュエルと、彼を睨みつけるメアリーを眺めながら、ティアナは自身が置かれた状況がまだ把握できていないにも関わらず、穏やかな笑みをたたえていた。

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