第6話

 『ウマコイ』の中のジェレスは、三歳の時に前世の記憶を取り戻したという設定である。

 前世の彼女は病弱な少女で、病院のベッドの上でスマホゲームに興じることだけが唯一の楽しみだったわけだ。

 そして十六歳という若さで儚く世を去った後、自分がプレイしていた乙女ゲームの世界に転生したと……これ、全部設定である。

『ウマコイ』愛読者である節子は、もちろん、こうした設定をすべて把握していた。

 だからうっかり、まるでよく知っている親戚の子に会ったときのような気分になってしまったのだ。


「あら~、前世では病気だったのに、今はすごく元気そうねえ、安心したわぁ」


 節子の言葉に対して、ジェレスは露わな警戒の色を表情に浮かべた。


「ちょっと待って、私の前世を知ってるわけ?」


「もちろん、知ってるわよ~」


「えっと……もしかして、知り合い?」


「違うわよお、ファンなの」


「ファン? 誰が? 誰の?」


「やあねえ、私が、あなたの、に決まってるじゃない」


 ジェレスがうっかり素で答える。


「マジ? なんでそんなことになってるし!」


「だってこれ、『ウマコイ』のお話の世界でしょ?」


「はあ? なに言ってるし、これ、『恋もん』の世界じゃん?」


「私、よくわからないんだけど、その『恋もん』ってどんなお話?」


「あんたこそ、『ウマコイ』って、なんの話?」


 ふたり、「ん?」と顔を見合わせる。

 同じ転生者であるはずなのに、どうも話がかみ合わない。


「待って、ちょっと情報を整理してみましょう」


 節子はこの言葉に大興奮だ。


「悪役令嬢モノによくある、『情報を整理してみましょう』ってやつね、憧れてたのよぉ!」


 ジェレスは、「ん?」と、首をさらに傾げた。


「悪役令嬢モノってなに?」


「あらまあ、知らないの、悪役令嬢モノ」


「いや、そういうジャンルがあるのは知ってるけど、『恋もん』は悪役令嬢モノじゃないし」


「だから、言ってるじゃないの、ここは『ウマコイ』の世界なのよぉ」


「はっは~ん、アタシ、なんとなくわかっちゃったし」


 ジェレスは得意そうに……というか、いかにも悪役令嬢っぽく腕組みをして、説明を始めようと顎をあげた。

 しかし、物語の世界では、こういった『いいタイミング』で必ずトラブルが起きるものである。


 この時も、少し離れた灌木の向こうで『ぼっちゃん』と大きな水音がして、ジェレスの話をさえぎった。

 ジェレスが不快そうに眉を顰める。


「もしかして、この音って……」


 節子がしれっと答える。


「皇子様がお堀に落ちた音じゃないかしらねえ」


「ははっ、皇子だから水に落ちる音もぼっちゃんってか、マジウケる」


「ふふふ、親父ギャグよねえ」


「ちょ、腹筋崩壊」


 ケラケラと笑い転げる二人の少女とは対照的に、リタは大慌てだ。


「ちょっと、アンナさま、何笑ってるんですか!」


 血色を変えて節子を叱り飛ばすリタに向かって、ジェレスがぎろりと睨みをきかせる。


「ちょっとアンタ、この子の使用人よね?」


「え、はい、そうですけど」


「ふうん、だとしたら、主に対する口のきき方というものがなっていないわね、よろしければ、この私が直々に躾けて差し上げても良くってよ?」


 今、ジェレスのは9歳の子供の姿だ。

 それでいながら堂々と胸を張ってふんぞり返るその姿は、まさに生意気な悪役令嬢そのもの。

 これに節子は大興奮。


「かっこいい、すごくかっこいいわぁ、本物の悪役令嬢みたい!」


「ふふん、まあ、悪役令嬢として転生したんだから、これくらいはね」


 もはや堀に落ちたであろう皇子などどうでもいいこと。


「さあ、この調子で情報を整理しちゃうわよ!」


「素敵よ、ジェレスちゃん!」


 この二人、大盛り上がりである。


「私がおかしいなと思ったのは、ここは『恋もん』の世界のはずなのに、あんたが『ウマコイ』とかいう、ワケわかんない作品のタイトルもってきたことだったのよね」


「そうよね、それは私もおかしいと思ったのよ」


「つまりさあ、私とあんたがもといた世界は、似てるけど違う場所なんじゃないかなって思ったのよ」


「え、え、ちょっと待ってちょうだいね、おばちゃん、ちょっと難しい話は分からないのよ」


「おばちゃんって、中の人はおばちゃんなの? そんな可愛い……小さい子の姿なのに?」


「そうよ~、池亀節子、54歳よ」


「うっそ、マジ? あたしのお母さんより全然年上じゃん!」


 二人が盛り上がっている間にも、皇子はどんぶらこっこどんぶらこっこと堀を流されていっているはずで……

 植え込みの向こう、堀の中を覗き込んだリタが悲鳴を上げた。


「アンナさま、アンナさまっ、本当に皇子さまが溺れているんですけどっ!」


「それはそうよ、そういう運命だもの」


「いや、運命とかそういうことじゃなくて、助けなくていいんですか、あれ!」


「リタ、仮にも目上の方をアレ呼ばわりしちゃダメよ。」


「そんなこと言ってる場合ですかっ!」


「そうは言ってもねえ、王子様を助けるのは私の役目じゃないのよ」


「じゃあ、誰が助けるんですか!」


「もちろん、ジェレスちゃん?」


 いきなり話を振られたジェレスはまさに寝耳に水、「は?」と目をむく。


「ちょい待って、おかしくない? このイベントって、アンナが皇子を助けてあげるはずじゃん?」


「いいえ、『ウマコイ』では、アンナより先にジェレスちゃんが現場について、皇子を助けてあげることになってるのよ」


「えー、めんどーい、どっちが助けても一緒じゃん?」


「それがねえ、私、カナヅチなのよ」


「マジか、やられたわ」


 ジェレスはパッと体勢を整えると、そのままアキレス腱伸ばしの運動を始めた。


「ま、私、着衣泳とか得意だったし、いけるっしょ」


「ごめんなさいねえ、私が泳げればよかったんだけど」


「気にしなくていいし。それより、後でいろいろ話し合いたいかも。なんか、あんたのいう『ウマコイ』と、あたしの知ってる『恋もん』って、なんか違うところ多いみたいだし」


「ちょうどよかった、私もそう思ってたのよ」


「んじゃま、ちょっと行ってくるんで、そこで待ってて」


 言うが早いか、ジェレスは灌木を飛び越え、その先にある堀の中へ身を躍らせた。

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