眠るゾンビが夢を見るならば

@aratanadays

眠るゾンビが夢を見るならば

 不景気の話は世に絶えずとも心穏やかに迎えられる時がないという事もない。春の日差しが柔らかく、涼しげな風が頬を撫でれば気の弛んだ欠伸の一つも漏れでる。用事のない日曜というのは色々な事を忘れるにはちょうどいい。とはいえ、用事が無かったのはつい先程までの事。普段より遅めに開いたスマートフォンのロック画面には、幼馴染みからの通知が一件。『運転係は頼んだ!!』とのこと。何とも強引だが、何時もの事だ。せめて行き先を文章に入れろと注意しているのに直す様子はない。

 

 幼馴染みである横田日鳴(よこた ひなり)が待ち受けるのは我が家から徒歩五分の一軒家。確認した通知は真夜中である午前2時である事から未だにグースカと惰眠を貪っているだろう。

 

 チャイムを鳴らすと案の定呼び出しをした本人ではなく彼女の母親が現れた。

 

 「ヒナリ、起きてます?」

 

 「あら、またあの子ったらナガシ君を呼び出しておいて寝てるのね。悪いけど、お料理中で手を離せないから直接起こしてきて貰える?」

 

 慌ただしそうに対応してくれた彼女の母親は扉を押さえたまま俺を家の中へと招いてくれた。靴を揃えて脱ぎ、迷いなく彼女の居城である二階の一室へと向かう。今さらヒナリの部屋へと訪れるのに緊張も何もない。

 

 粗雑にノックをしながら呼び掛ける。返事はない。

 

 「起きろー、パシりが到着したぞー。」

 

 ヒナリは回遊魚みたいなもので、何処までも活発的な女だ。歳は同じ20、数年前から茶髪に染め始め肩より上で切り揃えている。俺の知っているなかで外出しなかった休日はない。見目は良いくせに彼氏というのは足枷みたいで嫌だと中学の頃に彼氏を別れてきり、そう言い捨てて誰とも付き合っていないらしい。

 

 俺も恋してしまったんじゃないかと錯覚した日もあったが、コイツとは無理だ。飛んでいく風船を追いかけ続けるには熱量が足りない。幼馴染みで飾らず付き合える親友だ。

 

 ノックを続けるが何時までも反応がなく、埒が開かない。面倒になって部屋のドアを開く。やっとの対面に胡乱な眼差しでベッドに眠る彼女を見るが、相変わらず寝相だけは良い。ガサツな普段の姿とは遠く離れたイメージだ。

 

 安らかな寝顔に若干腹を立てながら彼女をやや乱暴に揺する。か細い体は大した労力も必要なく左右に揺れるが、目覚める気配はない。

 

 「ほら、早く起き……」

 

 言葉にして違和感を覚える。回遊魚みたいな彼女は自分で起きれない事はよくあるのだが、誰かに起こされる時は既に起きていたみたいにパッチリと目を覚ます。

 

 こんなに起こしても身動ぎもしないのは何かがおかしい。息を飲んで彼女の姿を改めて見る。顔もしかめず、呻きもしない、何より呼吸をしていない。手首に触れても脈すら確認出来ない。

 

 彼女は死んでいた

 

 

 ……病院に連絡をすれば、まだ、間に合うかもしれない。頭が思想で塗り潰される。何も考えが纏まらない。再確認に何度も彼女に触れ、少しでも生きている証拠はないかと探し回る。

 

 やがて気付いてしまった。脈を測る為に握った手の温度が上がらない。死体など触った事はないが、脈もないのに体温が低くない。ゾンビ病の特徴だ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  

 

 ゾンビ病、五年ほど前から世界各地で疾患者が増えている原因不明、感染源不明、現在までの科学知識では治療法の目処さえ立っていない奇病。分かっている事はどの患者も眠った状態から仮死状態へと移行し、親しい人間から名前を呼ばれながら体を揺すられる事で目覚め、理性を失った状態で人間を襲い出すという事だ。目覚めた疾患者に噛まれる事で感染が拡大するといった、ゾンビ映画に出てくる様な行動をとることから俗称でゾンビ病と呼ばれている。

 

 また、別の呼び名として永眠病とも呼ばれる。一定以上の力がなければ体が変化しない、物理現象としては特異な状態を維持する性質から、微生物による腐敗など起こらない事で名付けられたものだ。

 

 これらの特徴からゾンビ病となった人々を政府が預けられ、治療法が見つかるまでコールドスリープの様な扱いとなる。

 

 だが、ゾンビ病の患者は年々増え続けた。解決法の糸口すら掴めていない。ウイルスの存在も発見出来ていない、詳細を知るための検査ですら20年先の技術が求められている。この五年で3000万人の疾患が確認された。

 

 二年も前ならば涙ながらに再開を誓う家族は悲劇の代名詞であったが、解決策のない状態でゾンビ予備軍を何十万人も保管しておく事は莫大な不安を世界に与えた。

 

 そんな情勢の中で保管された患者達にヘイトを向ける声が上がった。感染の仕方は未だに謎とされ、噛まれる以外の接触感染すら認められていない。だというのに、感染者を全て殺すことでこれ以上の感染が防げるのではないかと語られ始めたのだ。

 

 倫理観の不足した話であると当初は貶され続けた考えだが、不安が高まるに連れより人数が増え、多くの犠牲者が出てからでは試せないといった事や、もしかしたらという声が押し上げられた。

 

 もう時期にゾンビ病の患者達は、遺体として火葬する決断が可決されようとしている。愚かな道であるとマトモな人間は分かっているが、もしかしたらという可能性と大きな声が反対の声を曇らせている。

 

 ヒナリがゾンビ病に掛かった事を申告すれば、彼女が二度と目覚めることはないだろう。

 

 何はともあれ、俺のみで判断は出来ない。彼女の両親にこの事を告げなければならない。

 

 部屋を出て後ろ手でドアを閉じる。圧縮されていた様なため息が出てドアの前で座り込んだ。

 

 「何でこんなに事に……」

 

 実感が湧かない。どこか地に足がついていない気分だ。

 

 一階に降りて料理の最中であるヒナリの母へと声を掛ける。朝食の良い香りが日常の感触を主張するというのに、空気は何故か静まっている。

 

 「少し、いいですか……。」

 

 「ん?どうしたの、ナガシ君?あの子は起きた?」

 

 落ち着いて聞いてください、そう言って後に一拍おいて残酷な現実が音となった。

 

 

 「ヒナリが……ヒナリがゾンビ病に疾患しました。」

 

 「え?」

 

 ガシャンッ

 

 ヒナリの母が手に持っていた金属製のボウルが床に落ち、中に入っていたサラダが散乱した。返答を待たずに言葉を続ける、二度も伝える勇気が出るとは思えなかった。

 

 「体は冷えていないのに脈を失っています。温めても体温が変わりません。」


 残酷な事を淡々と感情を込めずに、伝えなければならないという意識だけで言葉にして紡ぐ。

 

 ヒナリの母はこちらの瞳を一瞥すると、非常識な冗談なんかではないと通じたのか涙を落とした。現実を否定する言葉ばかり口から放たれる。それでも、夢や嘘だったなんて結末は来ないだろう。

 

 何をするでもなくその姿を前に立ち尽くす。僅かばかりに行動を支えていた義務は終えた。あれこれ思考が巡るというのに今の自分は空っぽだった。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 『明日も私と遊ぶ!絶対だかんね!』

 

 幼い頃の記憶、屈託もなく笑うヒナリに羨ましいと思ったあの頃。俺は毎日のように明日なんて来なきゃいいと思ってたから、明日を楽しみに出来るヒナリは俺にとってズルい人間だった。

 

 ヒナリはクラスの中心で友達も沢山いて、俺に劣る所なんて何一つ無い。格好良くて、何でも出来て、何時も笑っていて、怖いものなんてないって感じで何処までも走っていく。

 

 彼女が立ち止まる姿なんて幼い頃も、昨日だって想像出来なかった。

 

 

 夕食時、俺はヒナリの家で彼女の両親の前で座っていた。俺は未だに空っぽで、ヒナリの状態を彼女の父に説明したのは俺ではなく、彼女の母親だった。

 

 彼女の父は顔を真っ青にして二階に走り、ヨロヨロになったスーツ姿で戻ってきた。目から光が失われ、拳が痛いくらいに握られている。

 

 「すまないナガシ君、この話は誰にも話さないでくれ……。ヒナリを……失いたくない。頼む……。」

 

 「ナガシ君、巻き込んじゃってごめんなさい……。この病を隠す事が罪になる事は分かってるの。でも……どうしても…………お願いします…知らないフリをしてください……。」

 

 まさか断れる筈もない。寂しさからゾンビ病の疾患者を起こしてしまう家族が存在する為、日本では報告の義務が制定されている。感染が拡大し最大で数百人単位でゾンビ病の疾患を増やした事件もあった。噛まれ事で感染した場合、眠ることなく周囲の人間を襲い始める。下手をすればゾンビ映画の様な世界が出来上がる可能性がある。

 

 だが、自分勝手な話だが可能性なんて曖昧なモノの為に、ヒナリを差し出したり出来ない。もし、行政に報告するとしてもヒナリにとっての最善を考えてからだ。それに、俺自身もヒナリが居なくなる事に心が追い付かなかった。

 

 「誰にも言いません。だけど…もう一度だけヒナリの顔を見てきて良いでしょうか。」

 

 何か考えがあった訳ではない。ただ、どうにも離れ難い。根拠の無い罪悪感に首を絞められる様な感覚がずっと心から外れない。

  

 ヒナリの両親は言葉少なに頷いて、階段の陰に消えていく俺を見ることもなく俯いていた。

 

 

 ヒナリの部屋にソッと入る。部屋には月明かりが差し込み、ヒナリのシミ一つ無い肌を照らしている。

 

 

  心が「もしかして」と囁く。

 

 

 体を揺すった程度では目覚めはしない。名前を呼びながら起こさなければ、彼女は永遠と目覚めないだろう。

 

 あるいはもう死んでしまっているのだろうか。ゾンビとなって動き出すことから治療という考えを持っているが、状態としては心臓も動かず脳も働いていない。死者として扱うべきだという声もある。

 

 起こされゾンビの様な状態となった実例は100に満たない。もし、もしかしたら、ヒナリだけはそのまま……。

 

 彼女の髪を撫でる。サラサラと指先から髪の毛が溢れ、ダラリと布団の落ちた。月の青白い光が彼女の肌を染めて、普段の彼女とは遠く離れた姿を浮かび上がらせている。

 

 「なんでこんな勝手な考えしかできないんだろうな。」

 

 存外に穏やかな声が喉から流れた。彼女が人を襲う可能性を飲んで部の悪い賭けに出てまで、目覚める事を望まないというのは分かっている。

 

 表情に力が入らない。時計の秒針ばかりが時が進む証明となった空間で、彼女の側で立ち尽くした。

 

 何時かは身近な誰かがこんな事になるかもなんて考えた事もあった。あの頃は皆殺しにするなんて話は無かったから、永遠の別れにはならないだとか世間一般の誤魔化しに似た結論を付けて不安になる考えから逃げた。

 

 だけど、眠る度にチラリと悪い夢が顔を覗かせる。近所の誰彼がゾンビ病に罹ったと聞くたびに、ニュースで流れる全国の疾患数を聞く度に瞼の開かない朝を思った。

 

 彼女はどうだったのだろう。いや、彼女ならそんな憂鬱にしかならない"もしも"なんてケロッと忘れて明日は何をするかと考えていただろう。それに約束もあった。だからこそ部屋まで起こしにきたのだ。運転係なんて簡単な役目すら果たせなくなるなんて思ってもみなかった。

 

 思考を置き去って熱が瞳に集まって、堪えられなかった何かが水滴となって流れた。彼女の普段の姿がどうであったか、そんな対比ばかりが脳裏を走る。

 

 笑った顔やどうでも良い事に拘って急に怒りだす姿、負けが込むと自分を追い込む為だと勝手に賭けを始める姿、心が追い詰められた時に背中を押してくれた姿。

 

 俺というちっぽけな存在を親友だと言ってくれた、何より大切な友人。

 

 「なんでお前なんだよ…」

 

 返せていないものがあまりに多い。これが俺だったら良かった。未練なんて親かお前くらいしかないんだ。お前が持ってたものは俺なんか比べ物にならないくらい大きかったじゃないか。お前の持っていた何か一つでも持てる気がしないんだ。

 

 嗚咽が闇に溶ける。

 

 どれだけ心が削れたとしても自分と彼女の違いは埋まることはない。仮初めでも、と握った手すら暖まる事なく、何時しか限界が訪れ椅子に座ったまま眠りに落ちた。


 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 茫然自失の頭に大学の食堂の賑わいがただ流れる。どうして周囲が平和に見えるのだろう。誰だって悩みの一つや二つを抱えていると知っている筈なのに。

 

 「ヒナリ、最近来てないよな。」


「なんか旅行に行くとか聞いたけど、何処にいったんだろ」


 ヒナリの話題。そこまで人間関係を上手く保てる才能は無いので、聞かれたら「ヒナリは旅行に出掛けた」程度の事しか出来ていない。

 

「そうだ、折原、お前なんかしらない?」


「…また、旅行に行ったらしい。高校の時も思い付きで淡路島とか行ってたし、相変わらずだよ。」


「マジで?」


「マジだよ。」

 

 

 あれから一週間、ヒナリの居ない世界で生きて分かった事がある。俺の騒々しくて慌ただしい日常というのはアイツが作っていたらしい。突然折り畳み傘が花柄になったりしないし、弁当が五百円玉に化ける事もない。体感時間と時計の秒針が揃う事が異常だ、なんて思っていた日々は無くなった。


 風の吹かない日みたいな窮屈な日々が、これ以上続くのかと思うと生きていくのが嫌になる。ヒナリが何時だって欲しがった明日というのが、本当に憂鬱で仕方ない。


 ヒナリは……ヒナリはどうなったんだろう。今もあの家で眠っているのだろうか。それとも、ヒナリは既に……。


 生き死になんて本人しか決められないというのに、俺はあの人達が決めることだと逃げ出した。間違いでは無かった筈だ。友人なんて立場では口を出せる問題じゃない。


 それなのに


 

 心がざわつく。


 

 今まで、最低限を目指して生きてきた。ヒナリが無理矢理にでも俺を引っ張ってくれるから、そんな生き方をしても色々と世界は広がってった。

 

 

 俺は……

 

 俺はヒナリに何かを返せていたんだろうか。

 

 

 

 ……そういや、半年前に貸した一万返してもらってないな。

 

 はぁ……なんだかな。こんな時でも締まらないな、俺は。よりにもよってこんな理由しか出てこないのか。

 

 欲しがってた理由は、あまりにちっぽけなモノだった。それでもまだ、ヒナリがあの家の中で眠っているというなら。


 あの人達がヒナリが目覚める日を夢見るのなら。



 分かってる。


 ただのゴミみたいな罪悪感だ。何もしないのは卑怯だと思われるからだ。それでもいい。ヒナリの為に動けるなら理由なんてどうでもいい。返せるものがまだあるのなら、渡しに行こう。


 何が出来るかは分からないけど、最後までこのウザったい面ぐらい見せつけなきゃ、お前の友達だったって言えなくなりそうだから。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

  ヒメリの家は静まり返っていた。…通常、急な休みを連続でとった人間はゾンビ病の疑いを持たれ、調査チームが自宅を訪れる。ヒメリが旅行という嘘によって大学を休みだして一週間、後三日もすれば調査チームが訪れる。ただ、三日というのも怪しまれていなければ、だ。


 恐る恐るチャイムを鳴らす。


 「カズシです。何かお手伝い出来ないかと思って来ました。」


 『…まってね。今開けるから。』


 インターフォン越しに疲れた声が返ってくる。今にも消えてしまいそうな小さな声だ。随分と印象が変わってしまったが、ヒナリの母の声で間違いない。玄関が少しだけ開かれ、ドアノブを引き継いで中に入る。


 通されたリビングではヒメリの父がグッタリとソファに座り込んでいた。およそ活力というものは存在せず、ただ残った何かが酷く鋭く、諦めという言葉を想像させない。


「警官の友人に頼み手を回してもらっている。私は娘を殺した殺人犯として捕まる事にした。妻も了承済みだ。」


 ヒメリの父の第一声は俺が一週間ウダウダと悩んで持ってきた覚悟とは、比べ物にならない重たいものだった。


「カズシ君、ヒメリの為に来てくれて有り難う。けれど、可能性は低いが共犯として検挙されるかもしれない。知らないフリを続けてくれた事を感謝しているんだ。」


 だから、と続ける。

 

「このまま帰りなさい。君にこれ以上の迷惑は掛けたくない。」 


 淡々と感情の無くなった声色で、俺の方に視線を向けることなく床を一点に見つめている。空気が鉛の様に重い。


「俺は……」


 決意が霧散した。自分がここに立っている資格はないのではないかと理性が警鐘を鳴らす。俺が逃げていた間にも、この人達は永遠と現実とヒナリの将来を見つめ続けていたんだ。


 何も言えなくなった。ヒナリの両親の計画には俺は必要ない。余分な歯車を態々付け加える余裕なんてないんだ。俺が逃げたからだ。

 

 すみませんでした、そんな言葉が小さく溢れた。謝ることはない、本当に感謝している、ヒメリの父はそう言って俺に対して頭を下げた。


 結局の所なんの力にもなれなかったと後悔を抱きながら玄関へと向かう。

 

 

 その瞬間、チャイムが鳴った。

 

 

 全員が息を飲んだ。ヒナリには友達が多く、突然大学へと来なくなったヒナリを心配して訪ねて来てもおかしくはない。けれどヒヤリと何か感覚の何処かが凍りつく。

 

 ヒナリの母が震えた指先でインターフォンのスイッチを押す。祈る様に手を組んで、か細い声で「はい」とだけ言葉にする。

 

 『調査局の者です。横田ヒナリさんはご在宅でしょうか。』

 

 最悪な結末だ。覚悟を決めて余裕を持って建てたヒナリの両親の計画が頓挫する。調査員達はゾンビ病という性質上、本人が不在の際にその家族を見張る許可が下っている。その間に周辺の監視カメラを確認し、本人の動向を確認した末に家宅捜査の許可が下る。

 

 いくら警察側に手を回したとしても、調査局はまったくの別窓。彼らはゾンビ病疾患者を発見するのが仕事だ。それを同情から無かった事にはしないだろう。

 

 「俺が……俺が囮になります。その間にヒナリをどうか。」

 

 言い訳ならどうだって出来る。捕まるのが調査員達じゃなければヒナリの両親の計画はどうにかなるだろう。少し不謹慎かもしれないけど、力になれるなら来てよかった。

 

 「気持ちは有難いが、カズシ君じゃ怪しまれる。一人で囮になってもらっても、この家の監視は外れないだろう。」

 

 たしかに、この家の人間でもない俺が逃げ出したとして、よほど上手くやらなければ意味のない行動だ。

 

「私が妻を背負って囮となり逃げる。協力を断っておいて身勝手な話なのだが……君にはこの地図の場所へヒナリを連れていって欲しい。」

 

 「俺が、ですか?」


 呼吸が詰まる。地図にはここから少し離れた場所にある森の中。おそらく、ヒナリを隠そうとしている場所だ。

 

 「けど、君にも今後の人生に関わる様な迷惑を掛けるかもしれない。断ってくれても……」

 

 何も考えずに手が動いた。ヒナリの父から車のキーと地図を受け取る。一瞬触れた指先から血の通りを想像させない氷の様な温度が伝わってきた。

 

 車のキーを見てヒナリから運転手を頼まれていた事を思い出す。

 

 「やります。大切な幼馴染みですから。」

 

 優柔不断な自分から出たとは思えない真っ直ぐな声が出た。ヒナリの父がゆっくりと頷づく。

 

 「カズシ君、娘を頼む」

 

 「ハハハッ…人生で絶対に口に出したくない台詞だったのだが、口にする羽目になってしまったか。」


 「ごめんね、ナガシ君。ヒナリを宜しくね。」

 

 二人の微笑む表情に力はない。殺人犯ともなれば五年以上刑務所から出てこれない。こんな形で別れを告げる事になったのだ、平然と出来るわけがない。だが、二人は泣き言一つ口にしない。


 灯りの消えた室内の薄暗闇の中ではっきりと此方を見据える瞳に、何を言おうと止めることは出来ないだろうと思った。これが守るべき者を守り続けた人達の覚悟なのだろう。


 手短に手筈を確認し、ヒナリの両親が行動に移る。ヒナリの父が寝袋に入った妻を抱えて窓から飛び出て走る。玄関まで来ていた調査員二人分がヒナリの父を追って離れていくのが足音で分かった。


 息を潜めて数分待つ。調査員達が戻ってくる気配はない。手のひらに乗った車のキーはキーホルダーの一つもなく、素っ気なく存在する。俺はヒメリの両親が出た窓の逆側の窓から、ヒナリを抱えて抜け出した。


 仮にも女性に向かって失礼だが、たまらなく重たい。自分に筋力がない事が原因だが、それだけじゃない。他人の思いを受け取るのは初めてだ。重力が何倍にもなったみたいに、存在が現実に押し付けられる。


 ヒナリを後部座席に乗せて、静かに車を発進させた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

  目的地までは車のままでは辿り着けず、途中から彼女を背負って進む。木々が入り組んだ道を決して彼女を落とさない様に慎重に運ぶ。あの人達の覚悟で運ばれた彼女を、自分のミスで傷付ける訳にはいかない。


 漸く着いた湖は何の見所もない場所だった。池というにはやや大きく、湖というと物足りなさがある。人の手はあまり及んでいなさそうだ。


 湖の縁に赤銅色の箱が置いてある。地図に記された文字にもこの箱について書かれていた。金属質のその箱の上には、手紙とこの箱の使い方が掛かれたメモがある。どうやら内側からは簡単に開けられる様にだとか、目覚めた時に呼吸が出来るようにだとか色々と工夫があるらしい。一週間もヒナリが自宅に居たのは、この箱の準備をしていたからだ。

 

 一度でも沈めればこの大きさだ、工事ほどの規模でなければ手を出すことも難しいだろう。情報収集を怠らなければ、工事が決定したとしてもその前に移動させる事も出来る。


 腕を箱の中へ伸ばしてそっと彼女を箱の中へと降ろす。こんなどうしようもない状況だというのに、彼女は眠る様に穏やかな表情のままでいる。


「また会えるかは分かんないけど、そん時にまだ俺が生きてたらお前の行きたかった場所に連れてってやる。そんで、お前がきっと嘆くだろうから俺が生きてる間は、好きだった漫画の続編とかゲームのハードとかソフトとか集めててやるから。お前が寝てる間の家族の動画とかも取っておいてやる。あとは写真とか…あとは……」


 蓋を閉じようとする手が震えて言い訳みたいに約束を重ねる。誰かに見られれば怪しまれる。調べられて全てが露呈するなんてあってはならない。はやく、はやく蓋を閉じて沈めなくてはいけない。


 

 

 「あとは……」


 

 

 

 「忘れない」


 

 

 

 「絶対にお前の事を忘れない。」


 

 

 手の力が抜けてバタンッと重たい音を響かせ箱の中を照らしていた月明かりを遮断する。

 

 鉄の箱はゆっくりと水底へと沈んでいった。彼女の姿を次に目にする事があるのなら、それはゾンビ病から救われる時だろう。


 

 死ぬまでくらいまでは待ってやろう。

 

 

 彼女の死に顔とも寝顔ともとれる表情を思いだし、星空を見上げる。

 

 

 眠るゾンビは夢を見るのだろうか。

 

 

 もし、見るのならば楽しい夢を彼女に望む。夢の中でだって彼女ならば幸せぐらい自分で掴むだろうから。


 

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