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峡 みんと

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 落下した。どこか知らない高いビルの屋上から、ものすごい速度で。背中から落下している。見えるのはどこまでも広がっている青い、青い空と白い雲、と、光。雲がどんどん遠くなって、ふっと意識が暗転する……そんな夢を昔から、私はよく見る。実際にビルから落ちたことなど一度もない。その上、ジェットコースターだのああいうのも苦手なたちで、乗ったこともない。要するに高いところから落ちる経験が皆無であるはずなのに、夢の中の私は頻繁に空に投げ出されている。それでも「実際に落下したら、間違いなくこういう感覚なのだろう」という確信があった。恐怖からシーツを汗でぐっしょり濡らすほどのリアルな感覚が、偽りであるはずがないと感じるから。七時半のアラームに起こされた私は、背中のべたつきに不快感を覚えながらむくりと起き上がる。安っぽいカーテンを開くとまばゆい日光が目を刺した。


「おはよう、チサトさん」


 声が聞こえて振り返る。声の主は透き通るような長い銀髪を後ろで結んでいる。黒縁の眼鏡越しにある両の翠の瞳をもし宝石にしたら、きっと相当な高値がつくだろう。ぷっくりとした涙袋、雪によく似た白肌。まさしく美少年と呼ぶにふさわしいレイは、私と顔を合わせるとにこっと笑う。

 洗顔を終えると、びしょびしょのパジャマを脱いで隣の洗濯機に投げ入れる。レースがついた白いブラウスにラベンダー色のカーディガンを合わせ、ベージュのフレアスカートを履く。ライトベージュのコンシーラーで目の下の隈をぐりぐりと塗り誤魔化して、瞼に星をのせ、唇に花を咲かせた。色落ちしてきたココアブラウンのミディアムヘアーをくるくる内に巻きつけ終わってやっと、私は自分が自分であるような心地を覚える。まだ家にしばらくいるから、本当はまだ寝間着のままでいい。けれども、なんとなくきちんと自分を作った方が落ち着いて朝を迎えることができた。

 リビングに移動すると、香ばしいコーヒーの香りが広がっていた。起きて二人分のコーヒーを入れるのがレイの役目だ。二人掛けのテーブルの奥側に座り、赤いマグカップを手に取る。淹れたてのそれは、まだ少し熱かった。

「悪夢を見たの」

 ふーふーしながらコーヒーを一口飲んで、ぽつりと零した。向かいに座っていたレイは左手に持った青いマグカップをゆっくりと置いて、薄紅色の唇の両端を上げた。

「大丈夫? ……どんな夢?」

 レイは私が零す言葉をいつも丁寧に拾ってくれる。床に投げっぱなしにせず、拾い上げて、埃をはらって私に返してくれる。だから私も、今度はその言葉に綺麗に化粧してレイにまたプレゼントする。

「落っこちたの」

 レイは襟を正しながら、ゆっくりと私の言葉を噛んだ。彼はいつも白いシャツに黒スラックスだ。大学に行くときも、デートのときも変わらない。全く同じ服を何着も持っている。せっかく綺麗な顔をしているのだからもっとおしゃれすればいいのに、本人が致命的なほどにそういったことに興味がない。それに、シンプルな装いが悔しいくらい良く似合っている。さすがに寝るときはパジャマを着ているけど、私より遅く眠って起きるのも早いから、その姿を見たことがない。見たことがあるのは、洗濯機に放り込まれた紺色の布だけだ。

「じゃあ、僕がチサトさんを引き上げる」

 真っすぐな瞳だった。その爪楊枝みたいな細い体でよく言うな、とぼんやり思う。

「できなかったら?」

「一緒に、落っこちる」

 私の余計な言葉にもレイはそう言って、またにっこり笑った。そのまま透けて消えてしまいそうな笑顔だ。

 もし本当に落っこちたら、私はぐちゃぐちゃの肉片になって飛び散る。でも、レイはきっと違う。レイは透明だから。空っぽだから。落ちても、何も残らない。最初からそこに何もなかったかのように、ふわふわ空気と一緒になって空へと昇っていくんだ。ぐちゃぐちゃの私を置いたまま、ずっと、遠くに。

「ごちそうさま」

 私もレイも食が細いので朝はコーヒーだけで済ませる。本当はよくないのだろうが、朝ご飯を食べると逆に体調が悪くなるので仕方がない。シンクにマグカップを二つ置いて水を出す。このささやかな洗い物が私の朝の役目だった。流れていく水に手とカップを浸す。色のない、透明な水。私はこの水を見るたびに、透明じゃなかった頃のレイのことを思い出してしまう。

「レイ、あのさ」

 洗剤をスポンジにしみこませながら呼んでみる。綺麗好きなレイは机をアルコールで拭きながら、ん、と返事する。

「今日、講義終わったら星でも見に行かない?流星群がピークなんだって」

「うん、いいよ。チサトさんが行きたいなら」

 カップを洗う手が、自然に止まる。……分かっている。透けている。まだ、彼は。でも、どこか期待してしまっている。そして試してはいつも失望するというのに。ありがとう、楽しみにしてるという声は、自分でもわかるくらいに震えていた。かたん、と音が聞こえる。アルコールスプレーを、レイが机に置いたのだ。

「……チサトさんから見たら、まだ僕は透明なんだね」

 レンズ越しの目は、青かった。翠色だけれども、青かった。深い青は、しっかりと私のすべてをとらえている。でもこれは違う。レイの色じゃない。私の色だ。胸がキュッと締め付けられて、同時に恐怖に襲われた。

「……なんで、なんで透けてるの? こんなに頑張ってるのに!」

 私はそれだけ言うと、家を飛び出した。胸からせり上がってくる何かに、耐えきれなくなった。財布もスマホも持たず、この身一つで。人目も気にせず廊下を走り、階段を駆け下りてエントランスへ出る。管理人室で暇そうに立っていたおじさんが、びくっと跳ねた。レイは、追いかけてきてはいない。私は灰色の壁にもたれかかって、力なく座り込んだ。


 レイが透明になったのは、もう何年前のことだったか。中学の時だったから、もう五年以上は前になる。レイは天文部の大切な後輩で、沢山の思い出を作った。夏休みになると大三角を見て、冬になるとオリオン座を見た。大三角の時は横並びで、オリオン座の時は手を繋いでいた。だんだん夜以外も会いたくなって、プールにもショッピングにも行った。いつも二人で行き先を決めて、ここがいい、それは嫌、と打合せして。レイと過ごしていると、色をたくさん見つけられた。

 昔から、私には「色」が見える。その人自身の色、心の色。明るい人は黄色で、静かな人は紫色。悲しいときは青で、恥ずかしいときは桃。レイは静かな人だったけど、どちらでもない不思議な色をしていた。綺麗な目の色と同じ翠色。私の周りで、翠はレイだけだった。いつまでも終わりのない幸せが続くと、あの日までの私は信じていた。

 三年生の春、彼が行方不明になったと聞いた時は、文字通り気が気でなかった。勉強も手につかずテストで酷い点数を取った時、母親が真っ赤になっていたのを今でも覚えている。一週間経って、怪我無く戻ってきたと知らされた時は、心の底から安心した。でもそれは間違いだった。レイは、あの日色を無くしたのだ。親戚の女性に監禁され性的暴行を受けた、あの日に。

 女性と話さなくなったレイも、私に挨拶はしてくれた。放課後、部室の前まで来て、おはよう、チサトさん。と微笑む。どこまでも透き通った声で。それだけ言うけれど、部室には決して入ろうとしない。私が話題を振っても無視。そのまま踵を返して帰っていく。

 私は、徐々に焦っていた。部室に来ないことも、私とまともに話してくれないことも別に構わない。そんなことより怖いことがあった。……このままだとレイは、いつか消えてしまうんじゃないか。翠色は確かに珍しかったけれども、そんなものの比ではない。透明なんて見たことない。というか、ありえない。だから、私はレイにずっと話しかけた。――――消えないで。ただその一心で。そして、昔のように話してくれる段階までたどり着いた。でも、レイに色は戻らなかった。

 高校三年、進学のために上京すると伝えた時、まさかついてくるなんて言葉が彼から出るとは思わなかった。けれどいいチャンスだと思った。環境が変わると、元の翠を取り戻せなくても新しい色がつくかもしれない。それでもかまわなかった。レイの色なら、なんでも。


 結局、何も変えられなかった。自分のせいだ。自分じゃ力不足だった。きっとレイには、出会うべき人がいたのだ。その人と出会ってレイは綺麗な色に染まる。私はチャンスだと思ったけど、実際はチャンスを奪っていた。ゆっくり立ち上がって、エレベーターのボタンを押す。流石にもう階段を登る気力は残っていない。すぐに到着した狭い箱に乗って、再びボタンを押した。箱は部屋のある二階を通過して、最上階に向かっている。


 少し不安だけど、大丈夫。夢で何度も見たから、イメージトレーニングはばっちりだ。


 相違点は、屋上ではないということだ。立ち入り禁止なので仕方なく妥協することにした。逆に言えば、それ以外は完璧だ。白い雲に青い空、目の痛くなるような太陽光。ゆっくりと手すりを持って、右足から外側へ身を乗り出す。風がびゅう、と強く吹いた。

「チサトさん!」

 レイの声が聞こえ、階段を駆け上がる音がした。登り切ったレイは肩で息をしながら、手すりの外側で振り返った私と目を合わせた。

「レイ、ごめんね。私、レイに色つけられないみたい」

「そんなことどうでもいい。星、見に行くんじゃなかったの。」

 声を荒らげるレイにも、色はつかない。私は、首を絞められているような心地がした。ゆっくりと首を振り、顔をひきつらせて笑う。

「私にはどうでもよくないから。星なんて、別に見たくなかったし」

「でも、僕は見たいよ」

 もう一度首を振って、ごめんね、と笑った。ぽろぽろぽろぽろ、自分の水色が瞼からあふれ出ている。不意に、右腕に暖かい感覚が走った。

 レイに手を握られたのは中学生ぶりだった。でも、握った手が小さく震えている。顔は強張っていて、呼吸が少し荒くなった。レイは無理をして、私に触れているのだと分かった。本当は、女性になんて触れたくもないのに。

「色があってもなくても、僕はチサトさんが好き。それじゃいけないの? なんで透明じゃダメなんだよ。色のない僕が、そんなに嫌い?」

「嫌いなわけないでしょ!? 好きだから、好き、だから……好きだから、怖いの……」

 そう叫ぶと、私はバランスを崩した。あっ、と思った時にはもう遅い。足を滑らせて、そのまま背中を地面に向けて宙に躍り出た。レイの翠の目が見開かれる。風の音、雲と空の色。白い光。夢の通りだ。ほとんど全部、なにもかも。

 違うのは、それが二人であるということだけだった。

 レイは、手を繋いで透明のまま笑う。銀の髪が太陽を浴びてキラキラと光る。どうして、と思ったのもつかの間、私は意識を失った。


 私の目を覚まさせたのは、いつものアラームの音ではない。

「おはよう、チサトさん」

 という、何度も聞いた彼の声だ。驚いて上体を起こすと、ベッドの脇に座っていたレイはよかった、と泣きそうな声で呟いた。間違いなく自分の部屋だ。しかしカーテンを開けると、目に飛び込んでくるのは黒色だった。


 あの時、私の錯乱した様子を見た管理人が、警察を呼んでいたらしかった。私とレイの体はクッションで守られて、助かった。助かってしまった。私はほとんど無傷で、私を庇ったレイは、腕に少し怪我をしていた。落ちたのにそれだけで済んだのだから奇跡だ、と言われたらしい。

「やっぱりここからだと、星は見えないね」

 レイは窓を見て、ため息をついた。

「レイ」

 私が呼ぶと、ん、といつものように彼は振り返る。

「……ごめん。レイの言う通り。色がなくたって、きみはレイ。私の、大切な人。私、何も見えてなかったね」

 うん、いいよ。とレイはまた私の落としたものを丁寧に拾ってくれた。そして、ゆっくりと手を握った。震えずに、しっかりと。驚いて顔を見ると、一瞬恥ずかしそうに俯いた。けれども、すぐ顔を上げて私に近づけると、そっと、唇を私の頬に触れさせた。触れたのかも怪しいくらい、ほんの少し、ほんの一瞬。しかも、眼鏡が思いっきりぶつかった。いつもとは違う、スペアの眼鏡。わ、と小さく悲鳴を上げて、レイは真っ赤にした顔を背けた。

「レイ……?」

 私には、信じられなかった。だって、あまりにも突然すぎたから。でも、これは夢じゃない。私は勢いよく立ち上がって、窓の外を見る。レイはゆっくり後ろについてくる。見えるものは変わらない。相変わらず、一面の闇だ。

「チサトさん、怒ってる?」

「まさか。嬉しいよ」

 ほんとかな、とレイは頭を掻く。どんな顔をしても、彼は本当にきれいだった。

「真っ暗だね。星、一つも見えない」

 残念そうなレイの言葉に、私は笑った。

「うん、でも、いいや。だって、レイの色だもん」



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