第2話 昇と鈴子

 颯也は立ち上る炉火を見つめながら薪のはぜる音を聞いていた。

 その日の客は彼らだけで、加えて彼の父は宿の馴染みでもあったから主人と御上おかみを含め四人での夕食となった。

 竹串を打ってずらりと並べられた岩魚がぱちぱちと音を出している。それらはよい香りをも放っているのだろうが、颯也の席では囲炉裏から流れ来る煙の方が勝っていた。いずれにせよ親子二人だけで食べきれる量ではなかった。


「いやあ沢山釣れましたよ、昇さん。雪を押して来た甲斐がありました。結構いい型が釣れたんで魚籠びくに入りきらなくて。それに雪も酷くなってきたんで正午で切り上げちゃいましたけどね」


 上機嫌だった。それもそのはず谷川に入った颯也の父は二時間余りで15匹の岩魚を釣り上げてきたのだ。

 御上の鈴子が岩魚の骨酒と大きな塩焼きを運んで来る。

「あなた、見てくださいよ。この大きな岩魚。これは颯也さんが釣ったんですって」

「よく釣ったな、颯也。しかし、これ一匹とはお前にしては珍しい」

 ああ、うん、と颯也は気のない返事をした。

「なんだ、嬉しくないのか?欲しいソフトを買ってやるぞ。勝負はお前の勝ちだ。さてはあれか?心配するな、また来年も連れてきてやるからさ」

 はは、と颯也の父は愉快そうに笑った。


「父さん、また来年もこんな雪が降ってる時がいい」

 他の三人が顔を見合わせる。

 昇は少し難しい顔をした。

「いやあ、颯也君。それはどうかなあ」

 へっ?と颯也は間の抜けた声を出した。


 今年に限って雪が多いのだと云う。以前は四月に入ってからも20センチくらい雪が積もることがあったそうだが、近頃ではスキー場が悲鳴を上げるほどに少ないとのことだった。


 「そうなんですか」颯也は落胆せずにいられなかった。

 焼けた岩魚を囲炉裏から一匹引き抜いて颯也はかぶりついた。

 

 窓越しに外を見ると本当に月夜にも関わらず雪が降っていた。雪月の言った通りだった。


 月下に降る雪をじっと見つめる颯也に昇が言った。

「今夜は表に出ない方がいい。こんな晩には月鬼様がお出ましになられる」

「月鬼さま?」

「そうだよ、月鬼様だ。一般的には雪女、またの名を月姫様とも云うがね」

「雪女、ですか?」

 それを聞いていた鈴子は、あら珍しい。あなたがお客様の前でその話をするなんて、と言った。


「満月の夜、月世界の姫は退屈な生活から抜け出すために雪とともにこの地上に降りてくるんだが、そのまま月へ帰れなくなってしまいこの世界を彷徨うのだそうだよ」


「それじゃあ、別に月姫さまでいいんじゃ?」

「それがそうでもなくてね。姫を見たいと望む者には絶世の美女の姿で、しかし心に鬼を宿す者には恐ろしい鬼の姿で現れ取って喰われてしまうのだそうだ」


 颯也の顔をまじまじと見ながら言ったかと思うと、昇はニヤリとしてただの昔話だよ、昔話、と笑った。

 ちなみにその月鬼さまに会ったことはあるんですか?と聞くと「あるよ」と驚きの返事が返ってきた。

 颯也は持っていた岩魚を灰のなかに落としかけた。

 あるんですか?それはどんな姿でした?と驚いている颯也に、ほらあそこにいるだろ?と鈴子を指差した。

「じゃあ、鈴子さんは、そ、その雪女!?」

 話を聞いていた鈴子は、ポッと頬を赤らめた。

 

──なぜ頬を赤らめる。


「あなた、止してくださいよ。人様の前でそんなぁ」

 と言うと、私、お味噌汁持ってきますねと席を立ってしまった。

 昇は回された骨酒をぐいと一口飲むと語り出した。それはまだ彼が中学生の頃だったと云う。


 ある冬の月夜の晩、ふいに目が覚めた彼はまだそのころは家の外にあったという御手洗いへ用を足し向かった。用を済ませ外に出ると月明かりの下、雪が降りはじめていた。それは何とも幻想的で美しい光景だった。

 勝手口にたどり着くと可愛らしい女性が一人立っていた。年はそう、二十歳そこそこに見えた。「綺麗な夜ですね」と声をかけると女性はにっこりと微笑んだ。

 きっとお客だろう、と思ったが翌朝両親に聞いてもそんな客はいないとの事だった。

 寝ぼけていたのだろうと、そのことはそれ以上誰にも話さずいつしか忘れてしまっていたのだと云う。


 そして大学に通い出したある日、その女性とそっくりな鈴子と出会った。

「あの人、なんて言ったと思います?私を見るなり"月姫様"って大声で言うんですもの。私、もう、びっくりするやら、恥ずかしいやらで」

「まさか、それでご結婚されたなんてことは?」

 そう颯也の父が訊ねると、

「そうよ。だってお姫様なんて言われたこと無かったから、私、舞い上がってしまって……」

 と恥ずかしそうにしている。そして──。

「でも私生まれも育ちも東京ですから、雪女じゃあ、ないと思いますよ──」

 と、鈴子は颯也を見てにっこりと微笑んだ。


 食事を終えてしばらく休むと、颯也は玄関先からそうっと外をうかがった。

 雪雲にすっかり覆われてしまったのか、ふっくらとした大きな雪片だけが暗闇のなか音もなく静かに降っている。


 雪月はきっと、もういない──。


 颯也は少し淋しくなるのだった。





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