雪月鬼

秋野かいよ

第1話 雪月

 その年の三月、僕は自らを雪女だと名乗る少女と出会った。

 少女の名は雪月ゆづき

 忽然こつぜんと目の前へ姿を現した少女は腰に帯のようなものを巻いていて、一見するとその装いはいわゆる着物にも見えたのだが、どうやらそれは少し違うようだった。

 着物で云うところのたもとにあたる部分が、ふわりと風を包みこんでいた。


 それは見たこともないデザインで、最新のファッションなのかとも思ったが服装にはあまり興味がなかったから、それもよく分からない。

 しかも下半身はタイトなパンツだかタイツだかを履いていて、上半身同様そのどれもが白一色だった。ちなみに履き物は足下の雪に沈みこんで見えなかったから、重さのある実体としてそこに存在していたのだろう。


 何より驚いたのはその髪と瞳の色。

 銀髪ツインテールに緋色の瞳。よく見ればその姿は昨夜読んでいた小説の登場人物そのものだった。

 あれは!雪月。

 僕は心の中で叫んだ。

 そして彼女は言った。

 「雪月ね。その名前気に入ったわ。しばらく使わせてもらうわね。あっ、ちなみにわたし雪女だから」

 思考を読まれたことも驚きだったが同時に思った。

 暦の上ではとっくに春なのだ。しかもこの格好と言動。辺りはまだ雪景色で雪も少し舞っていたけれど、仮に少女が本当に雪女だったとして少しズレた雪女だな、と。


 その日僕は父に連れられ、とある雪国に来ていた。解禁間もない渓流に釣りをしに来たのだ。そして今夜は近くの宿で一泊することにもなっている。

 父と二人きりで宿に泊まるなど初めてだ。

 釣りは唯一共通の趣味だったから、父親が幾分成長した息子と特別な時間を過ごしたいという思いがあったのかもしれないが、母から一泊二日の釣行ちょうこうの許可を得るために僕がダシに使われた可能性も大いにあった。

 

「おい、颯也そうや。父さんはそこの谷川を釣り上がろうと思うんだけどお前はどうする?」

 父は数釣りを楽しむつもりのようだった。

「あっ、僕は本流を攻めるよ。こっちの方が大物が居そうだし」

「そうか、じゃあどちらが大物を釣り上げるか勝負するか?」


 父はそう言ったが内心勝負は僕に分がある。狙う魚は岩魚いわなだったから、谷川の細い流れのなかにも大物が潜んでいる可能性は充分あった。

 とはいえ、本流の方がそれは確実だろう。釣り上げることが出来るかが問題ではあるがこの解禁間もない状況ならば、それなりの自信があった。

「いいよ。僕が勝ったら新しいゲームソフトだ」

「じゃあ、父さんが勝ったら来年も釣りに付き合ってもらうからな」

 釣り好きの僕にとってこれのどこが勝負なのか疑問ではあったけれど、快く父の挑戦を受けることにした。


 宿の主人が用意してくれた餌箱を開けてみると、そこには川虫とミミズの二種類の餌が入っていた。

 僕が産まれるまでは友人とよく来ていたというから、気心も知れているのだろう。僕は高校一年生ながらに気が利いた主人だなと感心した。

 川をよく見てみると大きな淵が連続するよい渓相けいそうをしている。

 

 この時季は身を隠す草木がない。谷間に差し込み始めた日の光による自身の影を水面に落とさぬよう気を付けながら、そっと川縁かわべりに近づいた。

 探りを入れるまでもなく、ここぞという淵の流れ込みに餌のミミズを投げ入れる。

 水温も低いだろうから岩魚は水底に、もしくはその近くの岩場に隠れて流れ来る餌を待っているはずだった。魚が居れば十中八九釣れるだろう。


 そんなことを想像しながら餌を流した。川の流れと一体となるようにあくまでも自然にだ。

 水面の僅かに上をゆっくりと動いていた目印がピタリと止まった。

 沈め過ぎて石にでも引っ掛かったか?

 そう思い竿先を上げたその時だった。ググッという魚の引きとともに重みがぐんと乗る。

 でかい──。

 しかし、水温のせいなのか魚は川下へ走ることもなく引きずられるように、そしてあっさりと、釣れた。

 見れば40センチはある大きな岩魚だった。

 今年初めて見る岩魚の美しさを堪能した後そのまま近くの雪の上へ放り投げた。天然のクーラーだ。魚が悪くなることはないだろう。


 僕はすぐに次の釣りに取り掛かろうとした。まだ一投しかしていないのだ。はやる気持ちを落ち着かせるように新しい餌を取り付けようとした。

 しかし先ほどの魚の重みで針が伸びている。

 僕は針を交換し始めたが指先がかじかんで上手く結べない。


 ふと、魚を放り投げたあたりを見るとそこには一人の少女が釣り上げたばかりの岩魚を覗き込んでいた。

 ──誰だ、一体どこから。

 少女はこの川原にあってひどく浮いていた。

 全身白一色の格好をした美少女は僕の怪訝けげんな視線を全く気にするふうもなく、言った。

「これはなんなの?」

「え、えっと、岩魚、だけど」

「イワナ?」

「そう、岩魚。この川にんでる魚だ」

「ああ、サカナね。それなら知ってるわ」

「もしかして、君は魚を見るのが初めてなの?」

「ええ、そうよ。綺麗なものなのね」

 少女の言葉から切身以外の魚を見たことがないのだと思っていたが、そういうことではないようだった。


 少女の周りは陽炎かげろうのように歪んで見えた。そして彼女自身もぼんやりとしていて、手を伸ばせば消えてしまいそうなほどにはかなげだ。しかもどこかで見たような気もするのだが、どうにも思い出せない。

 少女を見つめていると、その黒髪はさらさらと銀色に輝き出し、瞳は黒からやや黄色がかった鮮やかな赤へと変化した。

 僕が少女の存在をはっきりと感じその姿を心に刻みつけるほどに、そこに立っている少女もまた存在感を増した。

 その姿はまるで昨夜読んでいた小説の「雪月」だった。

 そして少女は言ったのだ。「雪月ね。その名前、気に入ったわ」と。さらに自分が雪女だと付け加えた。


「こんな山奥でどうしようかと思ったけれど、あなたみたいな想像力の豊かな人間がいて助かったわ」

 ──想像力、豊か?僕は決してそんなことはない。しいて云えば妄想が過ぎるということはあるかもしれない。それにしても銀髪美少女に雪女とは、僕の想像だとしてもいくらなんでも盛りすぎだろう。

「あなた名前は?あるんでしょ?」

 雪月の言葉を聞いて咄嗟に自らの口を塞いだ。雪で手を軽く洗うように擦っただけだったから魚の匂いが鼻に充満する。

 口を塞いだところで、どうにもならないだろう。何しろ雪月はさっき僕の思考を読んだのだ。今しがた考えていたことも当然筒抜けだろう。

 僕は心の内で自分の名を唱えた。

 ──結城颯也、結城颯也……。

 しかし、雪月は首を傾げるばかりで何も言わない。

「どうしたの?この姿、中身はともかく外見はあなたが想像した通りのはずよ。わたしとお話するのがいや?それとも……こわい?わたしが雪女だって言ったから?」

「あっ、そっか。さっきは思わずあなたの心を読んじゃったから、それでね。ごめんなさい。今はもうしてないわ。それにむやみに人間の心を読んじゃいけません、って先輩にも言われてるの」

「先輩?」

 僕はようやく声に出して言った。

「そう、先輩」

「先輩がいるの?」

「うん、けっこういるわ。そうね、あなた達が最初に出会ったっていうところだと、600年くらい前の先輩がいるわ。知ってる?」

「知らないよ。そんな昔のこと」

「あらそう。残念だわ。でもわたし達みたいなのをこの辺りじゃ雪女って呼ぶのよね。合ってるかしら?」

 そう雪月は言った。

 曰く少女はこのあたりに来るのが初めてなのだと云う。違う場所では「雪や氷の精霊とかなのよね」とも言っていたから色々な場所に雪月のような存在がいるのだろう。

「ところでさっきも聞いたのだけれど、あなた名前は?」

「あっ、ごめん。僕は結城颯也」

「ソウヤ…ね。覚えたわ。いい響きね」

 どうやら僕は雪女に名前を覚えられたらしい。


 どうしてわたしが颯也の前に現れたのか不思議でしょ?と雪月は話し始めた。 

「わたし達は、月夜に降る雪を愛でに来るの。この近くにはそれを見るのに、とっておきの場所があるそうよ」

 それと僕とに何の関係があるのだろう。見たければ勝手に見ればいいのに、と思った。

 しかもまだ午前中なのだ。雪は舞っているけれど月なんか何処にも見えはしないし、雪月の云う意味がさっぱり理解できないでいた。

「そこで颯也、あなたの出番なわけ。わたしはあなたに出会えて本当に運がいいわ。あなたの想像力でわたしは受肉することが出来たのだから。あなたがわたしを造り上げたと言ってもいいくらい」

 受肉とは、ますます意味が分からない。

「まあ、体が無くったって雪くらい見られるのだけれど、月夜に降る雪はやはり下から見上げるに限るわ。もちろん肉体を持ってね」

「見てよ、激しくそして美しいこの世界を」


 この雪景色が激しいのか。色といえば、雑に言ってしまえば白と黒。音は川のせせらぎや鳥の声、そして雪がしずり落ちる音くらいだ。どちらかといえば静かだろう。決して激しくはないと思うのだが雪月はこれらを激しいと云うのだろうか。


「あのね、颯也。肉体があってはじめて客観的に体験出来ることってあるのよ。そのものと一体化していてはどうしても感じることができないの」


──そして今夜、月夜に雪が降るわ。しかも満月。


「実はね、あなたの想いの力が無ければ、わたしはこの細い体のどこに力を入れて立てばいいかも分からないの。だからね、あなたにお礼がしたいの。何がいいかしら?」


 雪月に僕はまた会いたいと言っていた。

 何故だかは分からない。

 雪女に魅入られてしまったのだろうか?

 雪月は、いいわ、と言った。

 そして条件を告げられた。


「また、いつかこの季節の満月の夜、そして雪の降る夜に逢いましょ。それまで颯也がこの事を誰にも言わなければこの約束はわたしたちが再会するまで継続するわ。どうかしら?」 

「いいよ」と僕は答えた。


 雪月が目の前からふうっと居なくなったかと思うと、雪は静かに激しさを増した。


 遠くから父の呼ぶ声が聞こえていた。

 

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