後宮の漢

海老

後宮の漢

 かつて、死後に神として祀られた側妃がいた。



 スーザン・クジンスキ伯爵令嬢は病弱である。

 見合い用の肖像画は出回るものの、縁談が持ち上がる度に血を吐いたとか、高熱で生死の境を彷徨っているなど、様々な不運が重なり破談になった。

 古来より、男は薄幸の美少女に焦がれるものである。

 噂話だけが広がり、いつしか彼女の名は帝国全土に広がっていた。



 クジンスキ伯爵は、四十歳の小男である。

 背が低く、撫で肩。顔付きはすこぶる善良で、愛嬌がある。

 伯爵というよりは、子供好きの肉屋の主人といった姿で、領民からは慕われていたが、貴族からは伯爵だというのに軽んじられていた。

 武功もなければ、入り婿であるという立場もそれに拍車をかけている。

 クジンスキは有名だ。

 娘のこともあるが、亡き妻は帝国随一の美女であったからだ。

 こんな小男が、いかにして武門として名高い老クジンスキと美姫に見初められたのか、余人は首をひねるばかりである。中には艶めいた口さがない噂話まで出る始末であった。

 そんなクジンスキは先帝の寵愛を受けた男である。それは小姓としてではなく、道化としてであった。

 皇帝陛下の御前で麦踏の踊りをやったことは、末代までの語り草とされている。

 さて、こんな弱味だらけの小男が安泰に伯爵として生きていけるのは、彼の嫡子が母方の血を継いでいたからである。

 嫡子であるリチャードは、文武両道の美青年として知られており、軍を率いて山賊団を幾つも壊滅させるなど、トンビがなんとやらの見本のような男である。

 そんな親子がいま、頭を悩ませて言い争いをしていた。

 伯爵の邸宅、その大広間でのことである。


「父上、あの子……、姉上のことを如何するつもりですか」

 凛としたリチャードの一喝が、伯爵の身を竦ませる。

 伯爵は眉間に皺をよせて、「そうは言われてもなぁ」と小さく言い訳を口にする。

「このような話を受けるとは、陛下に弓を引いたと思われますぞ」

「うん、でももう、どうしようもないし、スベ、いやスーザンならなんとかしてくれそうじゃないか」

「なんともなりませんッッ」

 リチャードの叫びは、ひどく高い。

 伯爵家の家臣は皆が知る。

 この細身の貴公子は、実の所、女であった。

「だけどなあ、お前はもう陛下と面識がある。それに、将軍らともだよ。もう無理だよ、無理」

「ち、父上、後宮です。スーザンに務まるはずがない」

 ううん、と伯爵は唸る。

「エリザベートを侍女としてつけるし」

「そういう問題ではありません」

 議論は堂々巡りを繰り返している。こんな話を二人は二時間も続けているのだ。

 そこに、広間のドアが力強く開け放たれた。

「あねう、いや、兄上。心配めさるな。このスーザン、大役を仰せつかって参りましょう」

 リチャードは、その声を聴いてへなへなとソファに倒れ込んだ。

「死地となるのだぞ。お前は、ここにおればよい。クジンスキ領なら、お前は幸せに生きられるというのに。この姉の言うことがきけないというのかえ」

「お家の一大事、この身をかけて後宮へ参りましょう」

 この日、リチャードは泣いた。

 貴公子という仮の姿を捨てて、姉としておいおいと泣いたのだ。




 後宮、それは女の世界。

 権謀術数と神算鬼謀の渦巻く、閉鎖された愛の巣である。

 噂の病弱薄幸の美姫の噂は後宮に響き渡っていたが、当の姫は輿にかつがれて誰にも見られずに自室へ入ることとなった。

 侍女のエリザベートは、しわくちゃの老女であった。

「ひっひっひ、姫様は御熱が出ておりましてな、伏せっておいでですじゃ」

 と、歯の抜けた口をすぼませて言う。

 エリザベートは他の側妃に対してもそのように接したが、不敬とされることはなかった。老人というものは、死が近くなればなるほどにそれらが許される。

 妖怪婆と陰で言われるエリザベートは、実に素早く後宮に馴染んだ。



 さて、後宮とは陰謀渦巻くところである。

 五年前に即位した若き皇帝陛下。

 身籠った側妃の子は、全て流れた。

 陰謀であるのか、皇帝陛下の血なのか。

 正妃に子がいないからこそ、子は闇に葬られたのか。

 真相は闇の中である。



 病弱な側妃のため妖怪婆は後宮の中に専用の厨房を作った。

 薬膳料理を作るためというのだが、滋養のあるとされる熊の手や肝、糯米などが持ち込まれ、常日頃から良い匂いが漂っている。

 後宮の側妃というのは、毒味だなんだで冷めたものしか食べられないために、料理の発する熱というものに抗い難い魅力を感じていた。

 エリザベートは手ずから作った料理を手土産に、まずはレテンヴェル侯爵家の側妃に会いに向かった。

 手土産の発する匂いに惹かれたのか、固く閉ざされているはずの扉は開かれ、エリザベートと侍女が毒見を済ませれば、姫は猛然と湯気の立つ饅頭を頬張った。

「ヒッヒッヒッ、熱い饅頭は美味かろうて」

「ひゃい、わたくし、こんな美味しいもの、初めて食べました」

 レテンヴェルの姫は、リリアーナの名を食べ終えてから名乗った。

「実はのう、この婆は噂に聞いたのじゃが、リリアーナ様は御子を宿しておられるとか」

 瞬間、エリザベートの喉元に侍女が短刀を突きつける。早業であった。

「ひひひひ、この婆は味方じゃわい。うちの姫様はどうせ子など産めん身体じゃ。常日頃から薬漬けの日々での、薬剤の匂いだけには鼻がききまするでな。リリアーナ姫様の水瓶から毒の匂いがしとるというんじゃ」

 さっと、姫と侍女の顔色が変わった。

「ひひひ、言うことは言うたわい。婆と姫を疑っても構わせんがのう。姫様は、腹の子を護ってやりたいんじゃ。毒の無いものを食わせてやるでな、いつでも来ておくれよ」

 侍女は妖魔のごとき老エリザベートに怖気を覚えた。

 何も信用できない状況下に現れた悪魔に対して、側妃が何を思い決断したのかは分からない。しかし、妖怪婆の食事を取ることになった。



 皇帝陛下にとって、リリアーナはただの女の一人である。

 ご懐妊というのも、めでたいことではなく悪いことをしたという気持ちが強い。

 正妃に子がいない今の状態では、子は育つまい。

 母の胎で死ぬか、出てから死ぬか。

 考える度に、厭な気持になる。

 小姓は酒を勧めてくる。強い酒だ。

 酒に溺れているならば、操作もしやすかろう。

 自らの派閥の勢力を3の強さとするなら、正妃の外戚勢力は7だ。

「ままならんな」

 酒を飲むと勃起しない性質である。四代前の皇帝は酒で女を抱いたとか。本当に自分自身にその血はあるのか。

 若き皇帝にとって、腹が大きくなればなるほどに死病の匂いを発する姫というのは、どうにも見たくないものであった。しかし、喜んでやらねばならぬ。リリアーナの属する派閥に『素直に喜ぶ』姿を見せてやらねばならん。


 リリアーナの顔色が悪くなることはなかった。

 子ができれば抱くことはない。

 語らいといわれても、共通の話題は何も無い。

 気まずい沈黙から、リリアーナは語る。

 病弱姫のお付のエリザベートという侍女のことだ。

 子供の健康を願った食事を作る老女で、どうにも人を喰った物言いをするのだとか。不敬であるが、それを咎める気にもならないとか。

 顔色の良い女が、腹を撫でていて、子供のためだと言って妙な匂いのする乳白色の茶らしきものを呑む。

 戯れに持ってこさせれば、ひどく濃い味の奇妙な茶だった。

 リリアーナという姫は、こんな顔をしていたのかと、今になってようやく顔を覚えた。

 会うたびに姫の胎は大きくなる。

 恐ろしい。

 見る度に、少しずつ希望のようなものが募る。

 腹に触れれば、驚くほど暖かくて、その手に残る温もりは女陰(ほと)とは違う。触れるだけで、背骨に力が湧く気がした。



 時が過ぎれば過ぎるほどに、リリアーナの話すことは子供のことと、老エリザベート、そして、その主人である病弱姫のこととなった。


「大層、変わったお方です。陛下、御子を産んだ後、この言葉が違えているのだとすれば、わたくしを不敬として断じて下さいませ。新月の夜に、病弱姫様にお渡り下さい」


 リリアーナの瞳は震えていて、皇帝陛下は「あい分かった」と応えていた。




 新月の夜。

 月の無い夜は後宮の闇は一段と深まる。

 皇帝陛下は噂の病弱姫の部屋にいた。


 闇から灯りと共にぬっと顔を出した老婆のしわくちゃな顔に、声を上げなかったのは驚きすぎて息が詰まったせいだろう。

「皇帝陛下のご尊顔、お目にかかれて恐悦至極でございますじゃ。ささ、姫は奥でございまするぞ」

 渡りの際に、目付け役が同行する。

 皇帝陛下がどのような作法で女を哭かせ、どのような姿勢で精を放ったか見定める役目だ。それは、専用の教育を施された女が代々世襲する役目である。

 背後で一言も口を利かず、影のように付き従う。

 この女は中立であるはずだが、皇帝陛下は信じていない。誰よりも殺したい者である。こいつのせいで、子は死んだのでいないか、その疑念があるからだ。


 案内された部屋の窓は閉め切られ、月明かりさえ差し込まない。

 姫の装束をまとった影が、茶の用意をしていた。

「そなたが、病弱と……貴様」

 護衛もかねる目付け役を捜したが、いない。

 誘い込まれたか。

 リリアーナの子を次なる皇帝とするか、それにしては自らを弑するには早すぎる。

「茶だ。飲みなされ」

 立ち上がろうとした皇帝陛下は、強い力で無理に椅子に座らされた。

 姫の力強い手である。その手が、些か乱暴に茶を汲む。

「いいだろう」

 どのみち、命はなかろう。

 最後に湯気の立つ茶を飲めるのなら、それも悪くない。

 初めて触る入れたての茶の入った湯呑というのは、こんなにも熱いものだったかと驚いた。

 美味い。

 毒が入っていたとしても、問題は無い。

 この茶だけは、平和に生きても死ぬまで飲めぬはずのものだ。

「お、……いや、ワタクシがスーザン・クジンスキである」

 太い腕、太い首、そして太い声であった。

「男だろ、お前は」

 どんぐりのような大きな目と、大きな口、口元に薄らと浮いた髭。はちきれんばかりの筋肉で姫装束をパツパツにした偉丈夫が、燭台の光に照らされて浮かび上がっていた。

「ふん、多少は男らしいだろうが、病弱姫とは俺のことよ。見ろ、この胸を。男ではないわ」

「き、筋肉であろう」

 膨れ上がった熊のごとき大胸筋である。

 大きく開いた胸元には、矢傷と獣の爪による傷痕があった。

「胸だ」

 大胸筋である。

「まあいい、殺さば殺せ。クジンスキに恨まれておったというのは意外だが、男の身で後宮に潜むのは見事の一言。最後に面白いものを見れた」

「何を勘違いをしとるのか。おれ、いやわたくしは見ての通り病弱でな。子は産めん」

「まだ、それを続けるのか」

 どこから指摘していけばよいものか、あまりにも無理が多すぎる。

「聞けい、小童ッ」

 雷のごとき一喝である。

「お前の子を護ってやる。子を産めんからな、あとは無聊の慰めじゃ」

 スーザンを名乗る男が手を叩けば、妖怪婆が食事を運んできた。

 どれも、湯気の立つ出来立てである。

 ごくり、と唾を呑みこむ。

 暖かな食事から発せられる匂いは、今までのどのよりも鮮烈な欲望を皇帝に与えていた。

「俺が自ら狩った猪肉じゃ、食うがいい。ほれ、酒もあるぞ」

 皇帝陛下はいつしか箸を握り、金糸銀糸の服が汚れるのも構わず口に運んでいた。

 美味い。

 このように美味いものが世の中にはあったのか。



 目付はエリザベート老の炊く香により正気に戻るが、その記憶は改竄されたものとなっていた。

 目付の目には病弱姫は『病弱』に見えていたし、男女の営みもそこにはあったことになっている。

「ヒェヒェッヒェ、これもまた年の甲じゃよ」

 明らかに細作の手管だが、皇帝は狐につままれた気持ちで言葉を出すことはできなかった。

 ひどく泥酔して、目覚めた時には姫はいない。

 妖怪のような老婆が言うには、慣れない夜伽で体調を崩して伏せっているとのことだ。

 あの男はなんなのだ。

 目付に聞けば、姫の特徴と精を放った時刻までが正確に記された記録を見せられる。服は、行為の際に汚してしまったため、代わりを届けさせたということになっている。

 皇帝の記憶では、服は料理の汁をかけてしまったせいで台無しにしていたし、男同士の語らいだと言って、女の好みについてしつこく聞かれたのを覚えている。

 一つ質問するごとに、茶碗で酒をぐいぐい飲み干すという下らない遊びをやったはずだ。

 あれは、全てが夢か。




 あまりに気になるので、またしても渡ることにした。

 今度は昼日中である。

 急な形で渡れば、そこにはやはり、姫がいた。

 老婆は目付役を音もなく気絶させて、暗がりに引きずりこんでいる。

 姫は諸肌を脱いで、練習用の鉄槍を振り回していた。

 豊かな大胸筋は、槍を打つたびにびくりと躍動する。太い猪首とそれの乗る肩は逞しい。天井の低い部屋で自在に槍を操り、見事な演武を見せていた。

「見事……」

「おう、ここに篭っておると体を動かせんでな。なかなか窮屈じゃわい」

「お前、男だろう」

「姫じゃと何回言わせおるのか。しつこい男じゃのう」

 そう言うと、何が可笑しいのかガハハハと太く笑う。

「せっかく来たんじゃ。粗末なものしかないが食っていけ」

 汗を拭きながら、スーザンを名乗る男がエリザベートに目配せをした。

 しばし待っていると、エリザベートが持ってきたのは茶と肉饅頭である。

 饅頭も、湯気を立てるものであったか。

 皇帝陛下は肉饅頭を頬張り、脳髄を走る『美味い』という感覚に酔いしれた。

「おう、俺もこいつが好物でな。エリザベートの造る饅頭は美味いわい」

 酒でも飲むか、という話になった。

 以前のような泥酔をする飲み方はせず、碁を打ちながら飲むこととなった。

 姫は碁が弱い。

「無茶苦茶弱いな、お前」

「ええい、もう一勝負じゃ」

 すっかり熱くなったスーザンは、酒を飲むことも忘れて碁を打つのだが、弱すぎて話にならない。

 飽きるまで、というよりもこの男の頭が痛むまで打てば、すかり夕暮れの時刻である。

「おい、すっかり熱中しておったが、時間はよいのか」

「いい。どうせ、配下のものどもがなんとでもする」

 酒を酌み交わしながら、そんな話になった。

「皇帝というのはそんなものでよいのか」

「開祖様の時代とは違う。余は神輿でしかない」

「この阿呆が。男がそんなことでどうする。俺に政(まつりごと)は分からぬが、そんなものでは毎日死んでいるようなものではないか」

「貴様、不敬であるぞ」

「おう、女に向かって不敬とくるか。貴様のようなものを女の腐ったヤツというのだ」

 睨み合い、先に目を逸らしたのは皇帝である。

「お前に何が、何が分かるというのだ」

「分からん。話してみせろ」

 皇帝は捲し立てるように語る。

 どれほど、今の宮廷が陰謀と腐敗に満ちているか。どれほど、戦の無い太平の世が帝国の経済を圧迫しているか。

 為政者であるはずの皇帝の意志など、最早介在する余地は無いのだ、と。

「ふん、つまりはアレか、兵が言うことを利かないというのに山賊に囲まれておるような状況という訳か」

「そんなものに例えるな。しかし、お前が言うそんな状況だと思っていい」

「兵を束ねる者がお前一人では無理だろう」

 皇帝を、お前と呼ぶとは、この痴れ者め。と叫びたいが、この男に意味はなかろう。

「どうしろというのだ」

「知ったことか、と言いたいが、将を使え。一人や二人はおるだろう。いないなら、兵のまとめ役に将をやらせればいい」

「そいつらは裏切る」

「裏切らんように男を見せるか、金で釣れ」

 皇帝は酒を口に運んだ。

 確かに、そういうことだ。そんなことは分かっている。

「上手くいくはずがない」

「ふん、そんな情けない顔ではな。おい、少し鍛えてやる。そこの木剣を持て」

 そういうことになった。


 足腰に力が入らなくなるまで、部屋の中で剣を打ち合った。

 強い。

 姫を名乗るこの訳の分からない男は、とんでもなく強い。

 皇帝も武術の指南は受けている。そんなものが通用しない相手だ。いや、指南役は手加減をしていただけに過ぎないのかもしれなかった。


「はは、はははは、足に力が入らぬわ」

 どうしてか、笑ってしまった。

 部屋には二人の男の汗の匂いが漂っている。

 皇帝である。だが、その前に、自らは男であった。そんなことを、ふと思う。

「おう、俺についてくるとは、なかなか根性があるではないか」

 その後、飯を食って酒を飲んだ。

 少し眠り、深夜に尿意を覚えて目を覚ます。



 スーザンのいびきがぴたりと止まる。

 窓が破られて二つの影が飛び込んできた。

「ふん、殺気を隠せておらんとは、二流だな」

 スーザンは寝台から跳ね起きて、襲いかかってきた影の首めがけて鋭い回し蹴りを放つ。敵もさるもの。ひらりとそれをかわす。

 暗殺者の放った短刀を両の手で挟み込んで受け止めたスーザンの背後に、もう一つの影。

 必殺の一撃が放たれる寸前に、その襲撃者の身体が止まった。

「ひひひひ、殺し屋としちゃ一流半じゃのう」

 エリザベートの鋼糸術である。

 細い金属の糸を自在に操る技により、襲撃者の身体は絡み取られていた。

 スーザンはもう一人の暗殺者との距離を詰めて、その首に太い腕を回し、へし折った。

「貴様らもまた帝国を想う者に放たれた狗であろう。安らかに眠れい」

 敵の死を悼む。それも暗殺者という汚れ仕事の細作の命をだ。

「起こしてしまったか」

 と、スーザンは闇の中で、静かに言葉を発した。

「見事だな」

「俺を恐れぬのか」

「暗殺者を倒した手並み、誉めこそすれ恐れるなど無い」

「そうか、小便にいくがお前も行くか?」

「ああ」

 皇帝陛下はスーザンに続いて部屋から庭に出る。

 池と小川の造られた庭園である。

 月に照らされて二人は歩き、小川の橋に立った。

 スーザンは服を脱ぎ捨ててふんどし一枚になると、器用にほどいて逸物を取り出す。

 皇帝陛下は少し戸惑ったが、自らも立ち小便のスタイルを取った。

 二人の発する水音が庭園に響く。

「人間というものは不思議なものじゃ」

 スーザンは月を見上げて言う。そして、続けた。

「敵の命を奪っても良い気はせん。親しい者が死んでどれほど悲しくとも、腹は減るし小便は出るし屁も糞も出る。そんなことをしておる内に、どんな気持ちも忘れてしまう」

 小便はとめどなく出た。

 子が幾度も流れ、最初は隠れて泣いていた。しかし、五度目からそういうものだと思うようになり、泣くこともなくなった。

「悲しいが、生きていくためにそうなっておるものだと、そうは思わんか」

 滴を切り、逸物をふんどしにしまう。

「ああ、そうだな。そうせねば生きていけん。余は、そう思う」

「お前の子は護ってやる。うらなりの青びょうたんだが、お前は俺の友じゃ」

「ほう、余を友とするか」

「酒を酌み交わし、連れ小便をすれば友であろうが。ハハハハ」

「その立派な逸物。やっぱり、男ではないか」

「ハハハハ、スケベな男じゃのう」

 月夜に笑い声が木霊する。

 友か。

 生涯、そんなものは持てぬと思っていた。




 皇帝陛下の派閥は少しずつ勢いを強めていった。

 武術指南役を呼び集めるこことから始まり、将と接近する。

 様々な戦いがあった。

 宮廷のそれは苛烈を極めるが、神輿に座るのではなく立った皇帝は、前に進む。


 リリアーナと病弱姫の元へ渡ることも多い。

 人々は、皇帝陛下が病弱姫の虜になったと噂をし、民に至るまでにその絵姿、皇帝いわく「似てはいない」それを買い求める。




 リリアーナ姫の出産が始まる。

 皇帝は出産には立ち会えない。

 女の穢れが移るとされているからだ。

 友は『任せておけ』と言った。


 リリアーナ姫が産気づいたのは真夜中のことであった



 諸肌を脱ぎ、手には鉄槍。

 背後の扉を護る、護鬼となろう。

「さあ、参れ。このスーザン、いやスベン・クジンスキ、皇帝陛下の、友のため護鬼となった」

 放たれた鬼どもは、そこにいる男の姿に息を呑む。

 暗殺者と細作、そのどれもがたった一人の男の迫力に呑まれた。


 その戦いは朝日が昇るまで続いた。



 皇帝は後宮の禁を破り、護衛の兵を連れて姫と子の待つ部屋へと走る。

 そこは、血の池となっていた。

「お、おお、なんということを」

 暗殺者の死体が足の踏み場もないほどに、散乱していた。

 扉の前には、剣で刺し貫かれ、矢が突き刺さり、それでも立つ男の姿がある。

「このような姿になってまで、お前は、お前は、なぜ」

 その胸にすがりつき、皇帝陛下は瞳から熱いものを流した。

「任せろと、言ったであろう」

「死ぬな、命令だ。勅命であるっ、死ぬな、俺を一人に、するなよ……」

「ふ、ふふふ、もう一人では無いぞ」

 血まみれの男は、笑みを浮かべて言う。

 もはや、目は見えてはいない。

 護鬼の守り通したその扉、そこから元気な赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。




 忠義の姫であると。

 子をなせぬ身体であったからこそ、命を賭して子を護ったのだと伝えられている。

 スーザン・クジンスキの絵姿は安産のお守りとなり、やがて信仰となった。

 安産と子供の守護神であり、時を経ると共に娼婦の守護神ともなった。



 皇子は、先代皇帝の意志を継ぎ、停滞に陥っていた帝国に再び光を取り戻した名君へと成長した。

 後宮には今も、スーザン・クジンスキの霊廟が残る。




 この後、皇帝はクジンスキ伯爵を重用し、庶子であるスベン・クジンスキを将軍として取り立てた。

 二人は友となり、義兄弟の契りを交わしたとされる。

 肖像画に残るスベン・クジンスキは、病弱姫とは正反対のむくつけき醜男しこおである。

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