火の元は飯田橋

連続して直交する振動


「分を弁えろ」

 それが僕の父親の口癖だった。口を開くたびにそう言っていたような気がする。大変偉そうで子供に言うには強過ぎる言葉だと、今なら思う。

 しかし、どうやら僕の父親は大した人間だったようである。もう殆ど話してくれないけれど、たまに母の口から語られる父親はスーパーマンか少年漫画の主人公のようで、そんな不遜な言葉を使っていたにも関わらず、父親に違和感を覚えたことは一度もなかった。

 とは言え、あの人に違和感を覚えるには、過ごした時間が少なかっただけかもしれない。


 父は僕が小学校に入学する前に、家族の前から姿を消した。蒸発、という奴である。

 ある日の夜8時頃、いつもなら夕方には帰ってきているはずの母親が帰って来なかった。妹と腹を空かせて待っていると、やけにお洒落をした母親が、赤く腫らした目を携えて帰ってきた。

「ごめんね、お腹空いてたでしょ」

とだけ言って、いそいそと食事を作り始めた母親は、その服装を除いて、いつもと変わった様子はなかった。母親は、綺麗な服をきたまま、僕らにオムライスを作ってくれた。

 確か母親は何も食べていなかった気がする。

 その日父親は帰らなかったが、毎日帰ってくる父親ではなかったので、僕も(恐らく妹も)大して気にせず日々を過ごしていた。

 それから一ヶ月ほど経った頃だろうか。僕はなんとなく「ああ、もうお父さんは帰って来ないのだろうな」と察して、理由なく、現状を理解した。勘のようなものだったが、概ね当たっていたようで、今日この時まで、父親は帰ってきていない。

 しかし、妹はその限りではなく、母親に何度か父親の所在を確認していたようである。その度に、母親は妹の質問をいなし、

「さあねえ」

とか

「どこにいるのかしらねえ」

とか答えていたらしいが、一度として「帰ってくるわよ」とは言わなかった。


 かくして、僕の家は母子家庭となったわけだが、ありがたいことに、何不自由なく僕は「大人」と呼ばれる年齢にまで成長した。

 齢23、学生。実家に住いながらも、漫然と日々を送れる程度には健康な大人になった。

 それもこれも「分を弁え」た結果なのかもしれない。望みすぎず、引きすぎず。物事はそんな感じの押し引きのバランスが肝要なのだ、と思う。

 父親にそこまでの思いがあったか、今となっては知る由もない。しかし、僕は今まで意図せず常に、自分に与えられたものと、欲するモノのバランスを測っていた気がする。彼を憎んではいないが、彼の教えが体に染み付いていることを思うと、少し胸が苦しくなる。殆ど一緒にいなかった、顔も朧げだけれども、あの人の血を感じずにはいられない。


 そんな父親の存在も、今や我が家の中では公然の秘密というか、なんとは無しに口には出さないものになった。

 昔は、ことあるごとに父の所在を聞いていた妹も、中学生になった頃だろうか、色々と受け入れたらしい。大学生となった今では、その話題に触れることすら無くなった。


 母親も、あの日以来積極的に父親のことは話さなくなった。あの人がいなくなった直後は僕たち兄妹のことを思ってか、一緒に過ごした日々の話をしてくれたが、少しずつ話さない時間が長くなっていき、今となっては名前すら滅多に口に出さなくなった。

 言わずもがな、僕も父親の話をしない。特に気になるわけでもないし、もう父親といた時間より、父親がいない時間の方が長くなってしまった。所謂いわゆる慣れという奴だ。


 そんな日々が十数年続いた今朝のことである。妹が郵便受けに新聞を取りに行くと、いつもは朝刊しか入っていない箱の中に、一通の封筒が入っていた。宛名も宛先も差出人も書かれていない、奇妙な封筒である。

 奇妙なのはそれだけではなかった。封筒の装いはあまり日本に馴染みのない形式である。長辺に三角形のフタがある葉書大の封筒、通称つうしょう洋封筒と呼ばれる種類のもので、封印は真っ白な封蝋ふうろうによって施されていた。

 中世の欧州で使われていそうな封筒を想像してもらえると良いかもしれない。

 封蝋に刻まれた紋章もんしょうは神仏を思わせる荘厳そうごんな象の横顔だった。特に目が印象的な紋章で、封蝋を見ると目があっているようで少し気味が悪い。

 気味は悪いが、封蝋で封印された手紙なんて初めて見たので、妹から渡された封筒に、僕はつい見入ってしまった。

 ダイニングテーブルの上に封筒を置き、朝食のコーヒーを飲みながら、ゆっくりと封筒を眺める。

 この封を開けるにはどうしたらいいのだろう。もしかしてこの封蝋を壊したりするのだろうか。しかし触って見ると結構硬い。それにこの象の紋章を傷つけるのは少し気が引けるし———そう思ってスマホで開け方を検索しようとしたところ、真横にはペーパーナイフを持った母親がいつの間にか立っていて、僕の手から封筒を引ったくった。


 大人しい母親が、存外強い力で僕の手から封筒を奪ったため、僕は唖然としてしまった。唖然としている間に母親は迷わずペーパーナイフを封入口の隙間に差し込み、封蝋をポンと剥がす。

 なるほど封蝋はシールみたいに剥がすのか。と思った。

 本当に注視しなければいけないのは母親の焦りと怒りがない混ぜになったような表情だったのだけれど、パニックになった時、僕はどうでもいいものに集中してしまうようである。

 そう、僕はパニックになっていた。温和な母が、荒々しく封筒を開け、中身を机の上に無造作に並べたところで、混乱は収まらなかった。いや、むしろ机の上に並んだモノたちを見て、余計に訳がわからなくなる。


 改めて、全てを見渡すように僕は立ち上がった。

 

 ほおを伝う汗があごまでのラインを引き、重力に従って封筒に落ちる。


 中にはA4のチラシが四つ折りになったものと、一枚の便箋が入っており、他には何も入っていない。チラシは最近テレビでたまに見かける投資家の講演会の宣伝チラシだった。


便箋には、

「こいつだけが俺の居場所を知っている」

と書かれた一文と、解読できないほど崩して書かれたサイン。怪文書である。

僕が呆然としていると、母親が鬼気迫る表情で便箋を握り潰し丸くして、そのまま台所へ歩いていった。


 「ちっちっちっ」とコンロが鳴り、都ガスを燃料として炎が燃え上がる。

何も言わず火に投げ入れた元便箋が映る母の瞳から、涙のようなものが溢れていた。

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