大江戸大廻天

鈴原日々木

飛ぶ新宿

軽くて短い広がる点


 星ひとつない夜空を見上げ、新宿上空を飛んでいる。右目の隅には忘れて欲しそうなくらい細くなった三日月が浮かんでいて、星は明るい数個を除いてほとんど姿を隠している。いつでもどこでも僕を離さなかった重力は、今だけ僕を手放して、まるで水面を揺蕩たうゆたうような、不快感のない抗力こうりょくが全身を支えていた。

 視界のおよそ全ては夜の帳にジャックされている。単体では小さな音しか出せない空気の粒が、まとまりうねり絡み合って僕の鼓膜に押し寄せる。たちまち轟音となった彼らの向こうで、微かに都会の喧騒が存在を主張していた。

 走る車のエンジン音、政治家の演説、駅前のジャズバンドと泣き声笑い声すらも——

 目に写るものが少ないからだろうか。聴覚は鋭くなり、聴こえないものまで聞こえ始めている。

 心地良い浮遊感に身を委ねながら 耳に入ってくる雑音を聞き流していると、視界の右端にいた三日月がゆっくりと、少しずつ中央に移動している。緩やかだけれど、確かに視認できるほどの速さで移動する月を見て、年取ると時間の感じ方早くなるらしいしなあ。あれなんて言ったっけ。ジャミングの法則みたいな……と思っていると、徐々にスピードを上げた月がいよいよ視界の中央に到達した。そこでいよいよ気づいたが、どうやら僕が回っているらしい。

 脳天から尾骶骨に至る線、俗に言う正中線を回転軸として、緩やかに僕の体は回転を始めていた。メリーゴーラウンド程の早くも遅くもない速度で変化する視野には様々なものが映り込む。月の手前には防衛省の電波塔や皇居、外堀が現れ、少しずつ視界の隅にはダウンタウンの光が滲んでくる。ついに体が真下を向いた時には先ほどまで遊んでいた新宿ゴールデン街が豆粒ほどの大きさで怪しく存在していた。

 夜も12時を回ったというのに新宿の街は未だに眠る様子を見せず、歌舞伎町ではピンクのネオンが煌々こうこうと光っていて、対をなす西口の青いイルミネーションも負けじと点滅していた。代々木、中野、大久保の灯りは落ちていて、そこから活力を吸い取ったように新宿は燦然さんぜんと輝いている。時に止まったり回ったり点滅したりする街が何やら一つの生き物のようで、無軌道に動いているはずなのに、やけに秩序ちつじょだって駆動くどうしているようにも見え、気づいた時には僕の体は再び天を見上げようとしていた。

 視界から消えていく都庁に別れを告げると、再び星一つない夜空と相対することとなる。先ほどまで浮世離れした夜景に目を奪われて気づかなかったが、どうやら回転速度が上がっているようだ。そう思った瞬間には、再び防衛省の電波塔が僕を出迎えていた。徐々に上昇する速度に比例して目の前が明滅めいめつするペースも早くなる。夜景を味わう暇も与えられず、先程まで点々としていた光たちは線となって、とうに麻痺まひしたと思っていた三半規管さんはんきかんが僕に吐き気を訴えてきた。

 回転が加速するに従ってせり上がってくる胃液と消化物のカクテル。膝を擦りむいたとき初めて膝の存在を自覚するように、僕は食道の形を思い出した。こんなところで戻したらどうなるのか、如何なる予想も残酷であることは言うまでもなく、僕は必死で吐き気を我慢した。それはもう、決死の思いで。このままいつまでも回り続けるかもしれない。

 僕は新宿上空で吐瀉物としゃぶつ螺旋らせんを描く自分を想像した。想像し、未来の自分に落胆したところで急に視界がロックされた。いや、違う。回転が止まったのだ。先程まで僕の眼前を小躍こおどりしていた自愛、尊厳、希望の全ては一瞬にして吹き消え、……僕の吐瀉物としゃぶつは重力に従って遠ざかり、やがて点となり消えてしまった。狂った平衡感覚は僕の感性にも影響を与え、地に満ちているはずの新宿は、さながら僕の上を飛んでいるようである。

………。

「ハハハハハハハハ、若い奴がゲロ吐く姿はいつ見てもいいなあ!?」

 鼻をすする僕のおよそ5メートル下から、本当に愉快そうな笑い声が聞こえる。胡座をかいて器用に浮かぶ彼は、腹を抱えてヒーヒー笑う。その横で仰向けで足を組みながら浮かび、僕を指差す彼女もシニカルな笑みを浮かべている。この大人達はなんなのだろう。そんな苛立ちを抱えてはいるものの、彼らの姿を見ていると、どうでもいい気がしてくる。それでも僕が申し訳程度にムッとした顔をすると、今度は彼女の方が腹を抱えて笑い始める。

「ハッハハ。いいねえ、少年。ハハハハハ。」

彼女は大きく開けた口と笑い声を引っ込めると、再び微笑んだ。

「少年、ジャミングの法則ではないよ。ジャネーの法則だ」

 本当に、なんなんだこの大人達は。

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