第五章 家族の形 6

 久我山信明は及川守と何度か食事するようになっていた。守は人目を気にして二人で会うことに最初は難色を示していたが、最近は随分前向きに話してくれるようになって信明も会うのが楽しみになっていた。


 信明は一人っ子だったので、血は繋がってはいないとはいえ、弟ができて心が満たされていることに気付いた。信明は母を亡くしてからというもの、家族というものに飢えていた。血の繋がっている実の父親に対しては嫌悪感はあっても愛情などは感じたことが無かった。相手も自分を煙たがっているのは知っていたので尚更だ。守と話していると、家族というものは本来このようなものなのだと改めて感じた。


 これまでの人生を一人きりで生きてきた弟を、これからは兄である自分が支えていってやろうと強く思っていた。


 守もそんな自分を慕ってくれだしている。父のあまりの愚行ぶりを目にして、一時期は生きる方向性を見失っていた信明は、守べき家族ができて、もう一度生きる活力が溢れだしてきたことに喜びを感じていた。


「それにしても守君遅いな」


 先に待ち合わせの店に入って待っていた信明は時計を見た。待ち合わせの時間を三十分過ぎていた。これまでの食事で守が遅刻したことなど無く、いつも先に着いていて信明のことを待っているのが通例になっていたので不思議に思った。


 心配になった信明は、守の携帯電話に掛けてみたが、コールはするものの出ない。もう一度時計を見てからおもむろに立ち上がり店の入り口まで見に行くことにした。


 店の入り口まできて表の通りに目をやり守の姿を探したが、多くの人通りの中にその姿を見つけることはできなかった。店に戻りもう少し待ってみようと考えた信明の視線が、大通りを挟んだ向かい側にある喫茶店の中に見覚えのある後ろ姿を見つけた。


「お母様?」


 その視線の先に見えていたのは間違い無く久我山裕美の後ろ姿だった。


 その視線の更に先、久我山裕美の向かい側に座っている守に気が付き、信明は汗が噴き出るのを感じた。


「どうしてお母様と守君が?」


 頭の中の整理が付かないまま、車の行き交う大通りを危険を顧みず横断して、二人のいる喫茶店の扉を開けて中に入った。声を掛ける店員を無視して、二人の座っている席へ足早に進み、二人の向き合うテーブルの横に立った。


「お母様、こんなところで何をなされているのですか?」


 睨むような視線を向けながら話す信明のそんな態度を気にする素振りも無い、涼しげなトーンで久我山裕美は答えた。


「信明さんこそ、私に内緒で何をこそこそなされているのかしら?守の復讐に手を貸そうとでもしてらっしゃるのかしら?」


「僕は復讐なんて考えていない……」守は消え入るような声で言った。


「お母様ふざけたことを言うのはよして下さい。あなたに黙って守君と会っていたことはお詫びします。時期がきたらお母様にもお話するつもりでした。それに守君はあなたを恨んでなんかいない。それなのにあなたはそのような決めつけでものを言って。彼を傷つけないでもらいたい」


「そんなに怒らなくていいじゃない。母親が息子に声を掛けたくらいで。確かに母親らしいことは何もしていないけど、お腹を痛めて産んだ子供に会いたい母親の気持ち分かるでしょう?」


「あなたは本当にひどい人だ。薄々気が付いてはいましたが、あなたは人の痛みの分からない自己中心的な悪人だ。面白半分に人の気持ちをもて遊ぶ。今後一切守君の前に姿を見せないで頂きたい」


「ひどい言われようね。確かにそうよ。面白半分にからかってみただけ。こんな男、私の息子でもなんでも無いわ。その顔、あんたのその顔、あの男にそっくり。虫唾が走るわ。えらそうなこと言って金持ちぶって、挙げ句の果てに首を吊ったあの男にそっくり。あんたが私の子供なんてこっちが忘れたいくらいよ。あんたこそ息子だとか言って私の前に現れないでもらいたいわ」


 守は俯いて黙って聞いている。その肩は僅かに震えていた。


「今すぐこの場から立ち去って下さい」そう言って睨んだ信明の目からは涙がこぼれ落ちた。


「はいはい、分かりました。どうもお邪魔さまでした」


 久我山裕美はすっくと立ち上がり店を出て行こうとしたが、何かを思いだしたかのように引き返してきた。


「信明さん。守よりもあなた自身の心配をした方がよさそうよ。聡さん、最近のあなたのスタンドプレーにかなりおかんむりらしくって、あなたの計画が軌道に乗ったのを見計らってあなたを社長職から退けるよう役員会に掛け合っているみたいよ。一度助かったからって安心したら駄目だわ。あの人は執念深いわよ、あなたもよく知っているでしょう?それと、私もうすぐあなたのお母様じゃなくなるので、これからは呼び方に気を付けてね。あの人、私に飽きたらしくって、若い女に乗り換えるそうよ。今度のあなたの施設のイベントまでだから、私が会長夫人なのは。まあ、私は会長夫人なん肩書きに興味無いし、慰謝料さえきっちり払って貰えればそれで清々するわ」


 久我山裕美は唖然とした表情の二人を楽しい出し物でも見るかのような表情で見つめたあと、バッグから取り出したサングラスを掛けて店から出て行き、表通りに待たせていた車の後部座席に乗り込み去って行った。


「信明さん……、今の話しって……」


 心配そうに語りかける守の声にハッと我に返った信明は、守に気を遣わせてはいけないと思い笑顔を作ったが、上手く笑えていないことに店の窓ガラスに映った自分の姿を見て気付いた。


「守君こそ大丈夫かい?君の実の母親のことなので悪く言いたくはないが、あの人は誰に対してもあんな感じだ。悲しい人だよ。自分以外に興味が無いんだ。僕が事前に話しておけばこんなことまでしなかったろうに、守君には本当にすまないことをした」信明は深く頭を下げた。


「そんなことはいいんです。それよりも信明さんの方が心配です。大丈夫なんですか?」


「ここでは何だから、落ち着いて食事しながら話そう」


 信明は置いてあった伝票を持ってレジに歩き出した。その頭の中ではこれからの対応をどうすればいいか、そんなことばかりが渦巻いていた。


 予約してあった店の個室で食事を始めたものの、箸は一向に進まず二人は向き合ったまま押し黙っていた。

 

 信明は左手にビールの注がれたグラスを持ったままそれに一度も口をつける事無く、視線はテーブルに並べられた料理に向けられていたが、意識はそこには無かった。

 

 父である久我山聡のやり方は嫌でも知っている。いつかはこのような事態になるのではないかと予想はしていたが、自分が思っているより随分と早かった。役員会に掛けると言っているようだが、役員会など形だけのもので、実際のところ、久我山聡がやるといったらそれで決定だ。やるべきことを急がなくてはいけない。自分がいなくなっても部下達を護れるように体制を整えておく必要がある。そのようなことを凄まじい勢いで考えていた。

 

 それと同時にじぶんがした浅はかな行動を後悔していた。あの時はどうでもいいと思っていたのだ。最後になってもいいつもりで、父親に対する当てつけも込めての行動だった。その後、父が取った行動には心底呆れた。自分の都合しか考えていない、なんとつまらない人間なんだと、改めて失望した。それが今になって自分を排除するための口実として使われている。あんなことをしなければ良かったと心の底から思っていた。


 ふと、我に返った時、守が自分を見つめていることに気付いた。


「ごめんごめん、守君。せっかくのおいしい料理が台無しだ。さあ、食べよう」


「信明さん。僕にできることならなんでもやるよ。なんなら邪魔者を消そうか?」


 冗談のようなことを口にした守だったが、その眼差しは冷たい光を放っていた。その眼差しを見た信明は、なにかゾッとするような戦慄が背筋を這い上がるのを感じた。


 温厚そうに見える守の根幹にある、今までの不遇な人生によって抑圧されていた本来の攻撃的な部分が垣間見えて、その恐ろしさに思わず目を逸らした。

 

 少しの沈黙の後、信明が再び守を見ると、先程の恐ろしさなど全く感じさせない、哀感を帯びた眼差しで見つめ返していた。


「信明さん、あなたと出会ってからのここ最近の僕は、本当に生き返ったかのように人生を送ることができた。失った時間を取り戻させてくれた信明さんには感謝しかありません。信明さん、あなたが考えていることを当ててみましょうか?自分を犠牲にしてでも僕たちを護る方法をあなたは必死で考えている。でも、それは大きな間違いです。僕も、あなたを慕う部下の人たちも、あなたという人間に惹かれているのです。そのあなたがいなくなっては何も意味が無い。僕はあなたを護りたい」そう語った守の眼差しは確固たる決意の光を帯びていた。




 数日後、再び同じ店の個室に信明と守は二人でいた。


 守はここ数日で考えたという計画を信明に淡々と話し出した。それを聞き終わって信明は心底驚いた。

 

 守の話した計画は、信明の会社が新たに建設したある施設を利用したもので、その特性を上手く利用した隙の無い物に思えた。この計画を実行すると、恐らく警察は自分を怪しむに違いないが、犯罪を証明するには至らない。そこまで考えられた計画だった。守はもしもの時は自分が全ての罪を被る覚悟で、この計画を実行しようと提案してきていた。


「信明さん、あなたは優しい人だから恐らくこんなことをせずに、もっと穏便な解決方法があると考えているだろうけども、それは違いますよ。僕はいままで生きてきた人生の中で、あなたの父親や、僕の母親のような人間の中身がどんな物なのか嫌というほどみてきました。あの類いの生き物が、自分の生き方を変えてまで反省することはありません。これは最善の方法なんです。最終的に警察があなたを怪しんだとしても、僕が全てをやったと言えば、それを覆す術を警察は持たない」


 信明は守が言っていることを黙って聞いたあと、小さく頷いた。


 守はそれをみてニコリと微笑んだ.


 信明はその笑顔を見た時、心に誓った。


 守は自分を護るために自らの手を汚してでもこの計画を実行しようとしている。


 そんな弟を兄である自分が見捨てる訳にはいかない。


 守には悪いが、最後罪を被るのは自分だと。

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