第五章 家族の形 4

 水尾は扉のノブに手をかけて、ゆっくりとそれを回した。鍵はかかっておらず、少し扉を引くと軽く開いた。一旦開いた扉を閉じて後ろを振り返った。


 真後ろには田中がいて、その後ろには坂本の姿が見えた。興味津々で前に出てきそうな櫻子の姿が見えないことに違和感を感じたが、田中に目で合図を送ってから、音がしないようにゆっくりと扉を手前に引いた。


 部屋には明かりが付いていて、先程までいた部屋よりは幾分か明るい。扉は金属製のもので開ける瞬間は僅かに音がしたが気付かれるような大きい音ではない。扉が閉まらないようつっかえ棒をしてから、水尾は少し身を屈めるような姿勢で部屋に入った。


 荷物が乱雑に置かれているため、見通しは良くない。物陰に隠れるように少し進むと、何やら話し声らしきものが聞こえた。静かに話している雰囲気が一変して、怒鳴るような声が聞こえた。


「そんなことお前に言われなくても分かっている。僕は最初から反対している」

 その声は及川守のものだった。


 大きな段ボールの陰から右目の部分だけを出すような状態で声がする方に視線を向けた。その視線の先に及川守の後ろ姿が映った。その隣に立っているのは久我山信明だ。及川守の向こう側に髪の長い女の姿が確認できた。恐らく不動峰子だろうと思い、後ろにいる田中に目配せして確認するように促した。


 田中は水尾の見ていた方向を確認するとコクリと小さく頷いた。


 一旦物陰に身を潜めて、水尾は田中に聞こえるか聞こえ無いかの小さな声で話した。


「どう思う?拘束されている感じでは無さそうや。不動峰子も共犯ということも考えとかなあかん感じやな。相手が三人やと少しやっかいや。応援呼んどる暇も無さそうやしな」


「相手が凶器を持っていた場合は少しややこしそうだ。素手なら俺達二人でもなんとかなるだろうがな」

 

 田中はそう言い終わると、後ろにしゃがみ込んで身を潜めている櫻子達の方を見て「あなた達はそこに隠れていて下さい」と優しく微笑みながら言った。


「私も協力しましょうか?」松本祥子が匍匐前進ほふくぜんしんの形で二人に近付いて言った。


「松本さん。あなたの実力は知っていますが、二回も民間人のあなたに危険なまねをさせる訳にはいきません」水尾は右の掌を祥子に向けて首を振った。


「分かりました……」祥子は残念そうな表情で後ずさりするように櫻子達がいる場所まで戻った。


「どういうこと?」田中は水尾に聞いたが、その質問を無視して水尾は話し始めた。


「不動峰子が共犯では無いという前提で、俺が信明、お前が及川を取り押さえる。不動峰子が共犯だった場合、拳銃でも持たれていたら状況は一変するが、あの組み合わせの三人が共犯だった場合、女に銃を持たせているケースはまれだ。俺とお前なら一瞬でカタがつく」


「お前、銃を持っているんだろう?それで警告するという手もあるぞ」


「いや、そのケースで犯人が自死するケースがまれにある。できるだけ確率の高い方法で行きたい。なんや、お前らしくも無い。自信無いんか?」


「では、それで行きますか」 いつものにやけた緊張感の無い表情で田中が答えた。


 水尾は田中のこういう所が苦手なのだ。真剣に考えているようでつかみ所の無い、この男のこういった所が生理的に合わないのだ。こればかりはどうしようも無い。


 水尾と田中が更に身を屈めて慎重に三人との距離を詰めている時、思いもよらないことが起こった。


 水尾達の背後にあった何かを制御する機械が異常を知らせるような警告音を発したのだ。その装置のあった方向が運悪く水尾達がいる方向だったため、三人の視線がその方向に向けられた。思わず目が合う三人と水尾。田中は素早く掛け出し及川に掴みかかる。水尾も少し遅れて信明に掴みかかった。信明の腕を掴んだ水尾はそれを捻り挙げて、肩から地面の押さえつけるような体制で信明を拘束した。


 その状態から身体を捻り後ろを振り向くと、田中と及川の状況を見て顔をしかめた。


 田中が迫ってきた事に驚いた及川はバランスを崩して、前に立っていた不動峰子と絡まるように転倒した。

 

 その転んだ先にあった工具箱の中にあったカッターナイフを掴み、倒れたままの姿勢でその尖った切っ先を不動峰子の脇腹あたりに当てていた。田中は向かい合って、両の手を上に上げる格好で何もしないというアピールをしていた。それを見た水尾が言葉を発しようとした時、下になって押さえつけられていた信明が大きな声を発した。


「守君!そんなことをしては駄目だ。直ぐにその刃物を捨てなさい」押さえつけられているため少し苦しそうだが、強めの発声で言った。


「この女がどうなってもいいのか?信明さんから手を離せ。信明さんは何もしていない。殺したのは僕だ。二人殺した僕は、もう一人殺すのなんて訳無いぞ!」

 

 及川のその見た目からは想像も出来ない程の殺気を帯びた目で二人の刑事を睨み、その声は数々の修羅場をくぐり抜けてきた二人の刑事をひるます程の迫力を持ったものだった。


 その迫力に水尾も田中もどうするべきか決めかねていた。しばらく沈黙が続いたあと、水尾が静かに口を開いた。


「及川。お前が何でそんなに信明のことを庇うんか知らんが、状況証拠だけとはいえ、信明が今回の事件に全く加担していないなんてこと警察は絶対に思わん。そんなことをしても信明を助けることにはならんぞ。大人しく不動さんを解放してくれんか?」水尾の話し方は友人に声を掛けるような優しいものだった。


 及川は内ポケットから何やら便せんのような物を出して水尾の方に投げた。


「そこに、今回の殺しの全貌が書いてある。それを読めば今回の殺しが僕一人でやったものだって分かる筈だ。大体僕は信明さんを庇ってなんかいない。信明さんが僕を庇おうとしているだけだ。その理由もそこに書いてある」


「守君。何を言っているんだ。そんなこと僕は絶対に許さないぞ。そんなことをして僕が喜ぶとでも思っているのかい?」信明は顔を真っ赤にして叫んだ。


 及川が黙って水尾を睨んだまま、膠着状態がしばらく続いた。


 そんな時、何かに驚いたように及川の表情が変わったことに水尾は気付いた。驚いた表情になった及川の視線の先を目で追うと、そこには倉ノ下櫻子の姿があった。


「倉ノ下さん。ここは危ないので下がって下さい」


 そんな水尾の忠告を無視するかのように櫻子は及川のいる方向に一歩進んだ。


「さくちゃん……」


「マモさん……。マモさんと久我山社長が話している内容を聞いちゃった。不動さんは関係ないんでしょう?離してあげて。マモさん、そんな酷いことする人じゃないでしょう?いつもの優しいマモさんに戻ってよ……」櫻子は今にも涙が落ちそうな瞳で及川を見つめた。


「ごめん、さくちゃん。僕はさくちゃんが思っているような、そんな人間じゃないし、人殺しをしたのは本当だ。この女の人には悪いけど、信明さんを離さないなら死んでもらう。ほらっ、はやく信明さんから手を離せ」尻餅をついた状態で少し身体をよじりながら、後ずさりするように櫻子から距離を取った。


 櫻子は更に何か言おうと身体を前に傾けたが、その身体の前に大きな掌が現れて遮る状態になった。それは田中の手で、田中は櫻子を自分の身体で覆い隠すように前に出ながら、櫻子にだけ聞こえる小さな声で優しく呟いた。


「さくちゃん、大丈夫。俺と水尾に任せておけば何も起こらないから……」

 田中はそう言ってから、水尾に視線を向けた。


 その視線を受けて、水尾は小さく舌打ちしながら、ゆっくりと信明を抑えていた手を緩めた。解放された状態になっても信明は俯いたまま直ぐに起き上がろうとしなかった。


「信明さん?何処か怪我でもしましたか?大丈夫ですか?貴様っ、信明さんに何かあったら許さないぞ」及川は語気を荒らげて水尾を睨んだ。


「大丈夫だよ、守君。僕は何処も怪我はしていない。さあ、不動さんを解放してあげて」信明は穏やかな表情でゆっくりと立ち上がった。


 それを見て及川は、安心した表情を浮かべながら壁に背中を押しつけるような状態で不動峰子の身体を抱えるように立ち上がり、信明を見つめた。


「守君。ここまでのようだよ。お互いやったことを素直に認めて償うことにしよう。僕たちのやりたかったことは誰かが必ず引き継いでくれるよ。僕達で出来なくなるのは残念だけど、僕には優秀な部下が多いから心配することは無さそうだ」そう言って信明は坂本を見た。


「信明さん。あなたはこの世界に必要な人です。あなたの代わりになる人はいない。僕みたいな人間はいくらでも代わりはいる。信明さん。あなたに出会えて本当によかった。感謝しています……」

 

 そう言うと、及川は不動峰子の耳元で彼女にだけ聞こえる程の大きさで「なにも関係無いあなたに、こんな怖い思いをさせてすみませんでした」と言い、抱えていた不動峰子の身体を大きく突き放して、手にしていたカッターナイフを自分の喉元に当てた。


 水尾は突き放された不動峰子を助けようと反応したため、及川の行動に対処するのが一歩遅れた。

 

 思わず「しまった」と水尾が口にだすのとほぼ同時に、田中が一瞬にして及川の襟元と手首を掴み、手首に掛けた手を捻ると「いたっ」という声を発して、及川は手にしていたカッターナイフを離した。そうして及川の手を後ろ手にして動きを制した。


 振り向いた田中は額に汗をかきながら僅かに笑いながら櫻子を見た。


「ありがとう……、田中さん」そう言いながら、櫻子の瞳からは大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。


 水尾は大きく深呼吸をして目を閉じた。そうして不動峰子に怪我が無いか確認したあと、信明の方に向き直り

「あなた程の人が、何故このようなあさはかな行動を?全部話してもらえますね」


 信明はその質問に答えること無く、水尾の目を見つめた。




 及川は田中に後ろ手に拘束されながら、何やらぼそぼそと呟いた。


「田中くん。やっぱりただ者じゃ無かったんだね。最初に見た時から気が付いてはいたけど、最後まで油断しちゃ駄目だよ。そんなことでは長男として、さくちゃんのことを任せるわけにはいかないな……」そう言って櫻子の方は見た及川の目には、櫻子と同じように大粒の涙が溢れていた。


 それを見た水尾が凄まじい語気で叫んだ。


「田中っ!及川に気をつけろ!」


 その声と同時に、及川は空いている左手をズボンのポケットに入れて何かを取り出したと思ったら、それを口に含んでかみ砕いた。


「うぐっ」という声を発したと思ったら、及川は泡を吹いて昏倒した。田中は慌てて拘束をしていた手を解いて、及川の口に手を入れ、飲んだと思われる物を吐き出させようとした。地面に横たわった及川の身体は、ビクビクと僅かに痙攣してから動かなくなった。


「くそがっ!なんちゅーアホなことを!」水尾が田中と及川の元へ駆け寄る。


 及川の様子を確認して、水尾は慌ててポケットに入れている携帯電話を取りだして掛けようとしたが、地下にあるらしいこの部屋は電波状態が悪く、電話を掛けることが出来なかった。


 田中は及川に声を掛けたり、首元に手を当てて脈を見たりしていたが、明らかに反応が悪い。その状況を見て水尾は立ち上がり坂本に声を掛けた。


「坂本さん、急いで上にいる警察関係者に、至急救急車を呼ぶように言って下さい」


 坂本は大きく頷くと、着ていた上着を脱ぎ捨てて部屋から駆け出して行った。


 水尾は振り返り田中を見た。


 田中は及川に何度も声を掛けて身体を揺すったりしている。しかし及川は答えなかった。

 

 水尾の心中には諦めの気持ちが沸き上がった。


「田中……。恐らくもう無理や……」水尾は田中に声を掛けた。


 その声が聞こえていない筈は無かった。しかし田中は及川の手首を握り脈をとったあと、覆い被さるように及川にまたがり、及川の胸に手を当てて心臓マッサージを始めた。


「田中……。気持ちはわかるが、もう無理や。いくらお前でも出来ることと、出来んことくらい分かるやろ……」水尾は田中の肩を掴み心臓マッサージを止めさせようとした。


 それを無視するかのように心臓マッサージを続ける田中。


 そのあまりに真剣な表情に、水尾も周りにいる誰もが近寄ることすら出来なくなっていた。


 何分経ったのか誰にも分からなかった。それほど長い時間に感じた。その間中、田中はずっと及川の心臓マッサージを続けていた。額からは玉のような汗がしたたり落ちて、着ているシャツは既に汗を吸う能力を失っていた。それでも一瞬も止まること無く、田中は動き続けていた。そこまでしても及川には何の変化も無かった。


 現場からの連絡からそう時間を置かず、救急車が到着した。


 救急隊員数人が慌ただしく動き、及川は担架に乗せられ近くの病院に搬送されていった。


 水尾が救急隊員の一人を捕まえ及川の状態を確認したが、応対した隊員は表情を曇らせ小さく首を振った。


 そこにいた誰もが放心状態で、声一つ発しなかった。


 田中は壁にもたれかかり、地面を見つめたまま肩で息をしていた。


 水尾はそんな田中に声を掛けることが出来ず、立ち尽くした。


 静まり返ったその場所には、櫻子のすすり泣く声だけが聞こえていた。

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