第二章 エンターテインメントの城 7

 ガバッと突然櫻子が起き上がった。


 その様子をみて祥子は安心したように微笑んだ。どうやら櫻子が夢の国からご帰還らしい。


「おはよう。気分はどう?」祥子が優しく聞いた。


「また、やっちゃった……」櫻子は口を尖らすような表情をしてから、ガクッとうなだれた。


 櫻子は女優としてのスイッチが入るとその人物になりきることが出来る。今日はおしとやかなレディーになりきり優雅に食事という設定だったのだが、なりきるといっても体質が変わる訳では無い。優雅に食前酒を飲んでこの有様である。


「ごめん、お姉ちゃん。久我山社長はさぞかし幻滅していたでしょう?あ~、気合い、入れすぎた」櫻子はこの世の終わりのような落ち込みぶりである。


「そうでもないみたいよ。確かに最初はビックリされていたみたいだったけど、そのあと突然クスクス笑われて『こういったところが人を惹きつけるのですね。大変可愛らしいお人だ。ますます好きになりました』っておっしゃったの」祥子が思い出すように右斜め上を見ながら言った。


「ますます好きになりましただって。これはさくちゃん玉の輿か!羨ましい!」小夜子は悔しそうな顔をした。


「櫻子さん、お腹、減っているでしょう?目を覚ましたら坂本さんが知らせてって。お食事をお部屋までお持ちしますっておっしゃっていました」美紀はいつもの落ち着いた口調で報告した。


 時計を見るとお昼の二時過ぎを指しているので約二時間程度眠っていた計算だ。


「皆はお昼大丈夫なの?」


「小夜子さんと私は軽く取らせて頂きました。祥子さんは櫻子さんが起きてから一緒に食べるということで」美紀は祥子の方を見ながら話した。


 美紀は坂本に内線電話で櫻子が起きたことを知らせた。


 十分後にドアがノックされ食事をのせたワゴンを押して坂本が入室してきた。


「倉ノ下様、ご気分はいかがですか?突然のことに驚きました。軽めのメニューを用意させて頂きましたが、他の物がご希望でしたら遠慮せずにおっしゃって下さい」坂本は心配そうな表情で櫻子を見た。


「坂本さん、ご心配をお掛けしてすみませんでした。久我山社長には後で失礼をお詫びに参りますので」櫻子は神妙な面持ちで詫びた。


「いえいえ。社長は全く気にしていないと申しておりますので。食事の後で、一息お着きになられましたら、施設を少しご案内しますので。今度は普段着の倉ノ下様でいらして下さいとのことです」微笑みながら坂本は退室した。


「普段着のさくちゃんで大丈夫なのかしら?」小夜子は真剣な眼差しで他の三人を見つめた。


 流石に本当の普段着の櫻子では問題があるので、ある程度小夜子にコーディネートしてもらい、建物の二階部分にある一番大きな部屋に向かった。そこは透明なガラスの衝立のような物で細かく部屋が仕切られていて、壁には何処かで見たことがある突起物が突き出していた。


「ボルダリングですよね、どう見ても。でも天井までの高さが三メートルも無いので掴まるくらいしかできなさそうですけど」美紀は透明の仕切りの外側から壁を眺めて首を傾げた。


「あれじゃない?今流行の老人向けってやつだよ。あの高さなら落っこちても平気って感じの」小夜子は自信満々の表情だ。


「そもそもお年寄りがわざわざボルダリングする意味ってあります?」美紀は呆れたように小夜子に質問した。


「そうやって不思議がってもらうのがまずスタートラインです」そう言いながら久我山信明が部屋に入ってきた。


 後ろには秘書の坂本がいて、四人に軽く会釈をした。


「普段着の櫻子さんも素敵ですね。可愛らしい感じの方が本来のあなたなんでしょうか?女優さんというのは本当に凄いですね」信明は目を大きく見開いて櫻子を見た。


「櫻子さんだって。これは本格的に玉の輿か?」小夜子がニヤニヤ笑って櫻子の脇腹辺りを突いた。


「この中で一番スポーツが得意なのはどなたでしょう?」信明は四人に視線を送りながら尋ねた。


「小夜子さんは問題外として、勿論祥子さんですね」美紀は眼鏡のフレームを触るいつもの癖をしながら祥子を見た。


「問題外って……。確かに運動神経良くはないけど、そこまで言う?美紀ちゃん」小夜子は口の右端を少し挙げて美紀を睨んだ。


「でも、三メートルくらいなら運動神経は関係無さそうですけど。あれに登るんですよね」祥子は突起物の出た壁を指差した。


「運動神経も大事なんですが、高所恐怖症の人は間違い無く駄目ですよ」信明が少年のような笑顔で話した。それを横で聞いている坂本も楽しそうだ。


「高所恐怖症って、流石にこの高さでは大丈夫でしょう?」小夜子がオーバーに肩をすくめるリアクションをした。


 坂本が壁際に設置された棚から何やらケースのような物を運んできて祥子に渡した。


「では松本さん。この眼鏡を掛けて下さい」


 坂本が持ってきたケースに入っていたのはよくあるスポーツ用のサングラスに見えた。


 祥子はそのサングラスを掛けると透明な仕切りのドアを開けて小さな部屋に入り、突起物の出た壁の前に立った。


 坂本が壁際に設置された端末を操作して祥子に声をかけた。


「松本さん、それでは始めますよ」坂本が信明に目配せしてから、ポンッとキーボードをはじいた。


「わっ、凄い。これって私だけに見えているんですが?」祥子はぐるりと首を回して周りの景色を確認するような動きをした後、手を伸ばして壁の突起物を掴んだ。


 壁の大型液晶モニターに映像が映し出された。そこに映っているのは遙か上空までそびえ立った壁面だった。


「今、そのモニターに映し出されているのは松本さんが見ている物と同じです。松本さんが見ている方は更に映像処理されていて立体視になっています。正にそこにあるように見えているはずです」坂本が櫻子達の方で向き直って説明した。


「それでは登り初めてもらってもいいですか?」坂本が再び端末を操作しながら言った。


 祥子が壁の突起物を掴んで登り始めると、壁が下に動き出した。床の中に滑り込んでいるという表現が正しい。


 祥子はどんどんとペースを上げて登っていくが、そのペースに合わせて壁が動くスピードも上がっていく。モニターにはどんどん高度が上がっていく景色が映し出されていた。その高さは地上から十メートルに達しようとしていた。


「ひえ~。確かに高所恐怖症ではこれは無理だわ」実は高所恐怖症の小夜子がモニターから目を逸らした。


「凄い。本当の景色にしか見えない。リアルですね」祥子はそう言いながら息を切らすこと無くどんどん登っていく。その高さは既に二十メートルを優に超えていた。モニターには祥子が首を振って見回す度に、遙か遠くの景色までがくっきりと映し出された。


 祥子は止まること無く更に登っていく。


 それを見ていた坂本が信明に視線を送り驚きの表情をした。


「あのマネージャーさんは何者なんですか。プロクライマーもビックリですね」信明は目を大きく見開いて櫻子に尋ねた。


「驚きです。このペースで登られる方は初めて見ました。それにこの高さまでいって怖がらないなんて」坂本は何か違う生き物でも見るかのような視線で祥子を見た。


「でも、実際は三メートルも登ってないんですよね。飛び降りても平気かな?」と言って祥子はピョンと飛び降りた。


 それを見て美紀は心底驚いた。人間はたとえそれが仮想現実だと分かっていても、目に見えている映像に左右されるのが普通だ。まして、二十メートルの高さから飛び降りるなんて普通の人間には出来ない。それを簡単にやってしまう祥子の胆力に改めて感心した。


「楽しかった。櫻子もやってみる?」

 

 サングラスを外しながら祥子が部屋から出てきた。


 櫻子はこれ以上無いというくらい首を左右にブンブンと振り「お断りします」とボソッと呟いた。


 その時、部屋の扉が開いてスタッフらしき男が顔を見せた。タイミングが悪かったというような表情をして扉を閉めようとしたのだがその行動は無駄に終わった。


「さくちゃんだ!」と若い女性の声がしたのを皮切りに、なだれ込むように先頭にいたスタッフの男を押しのけて騒がしい一団が部屋に入ってきた。


「さくちゃん」


「キャーッ」


「本物?」


 思い思いに言葉を発してお互いの顔を見合わせたり、飛び跳ねたりして、その一団はほぼパニック状態だった。


 それに気が付いた櫻子が、ニコッとえくぼを作って微笑みながら軽く手を振ると更にヒートアップした一団はほとんど絶叫のような声を発した。


 美紀は大変な事になったと思いながらその一団を見ていたが、その一団の一番後ろ辺りに見覚えのある顔を見かけた。その男は、前にいる人間に気を遣うような仕草をしながらも何とか櫻子の姿を見ようと少しでも前に行けないか四苦八苦していた。身体の大きな男に後ろから迫られて、前にいた女性は振り返りながら少しスペースを空けてその男を前に通した。先頭辺りに躍り出たその男の顔は先程よりもハッキリ見えて、美紀はその男が誰なのかハッキリと確認出来た。


 その男のことを櫻子に伝えようとした美紀の行動よりも早く櫻子が声を発した。


「田中さん」

 

 声を掛けられたその男は何が起こったのか分からないようにキョロキョロと周りを見渡している。どこから声を掛けられたのか理解できていないような様子だ。


 しばらくして、周りにいる人間全ての視線が自分に集まっていることに気が付き、自分の置かれている状態を理解したかのように驚いた視線を櫻子に向けた。


「田中さん」改めて櫻子が手を振りながら名前を呼んだ。


 櫻子から名前を呼ばれているこの男はいったい何者なんだというような刺すような視線が男に一斉に集められている。明らかにその男はその一団から浮いていた。その空気に耐えかねたかのように男は後ろに引き下がってしまった。


「あれ?田中さん、聞こえなかったのかな?」櫻子は首を傾げながら呟いた。


「田中さんって、何処の田中さん?」祥子が人混みに目を向けた。


「刑事さんだよ。前にお世話になった東京の捜査一課の田中さん」


「東京の刑事さんが大阪で何か仕事かな?仕事中だったんで声を掛けたらまずかったんじゃない?だから聞こえないふりしたんじゃないの?」祥子は思案顔で櫻子に言った。


「お揃いだったら丁度良い。皆さんに是非見て頂きたい物があるんですが、今からどうでしょう?」信明が未だにどよめきが収まらない集団に、自らは落ち着いた口調で提案した。


「皆さん、一緒に見せて貰いましょうよ」と櫻子が集団に声を掛けると、反対する者などいるはずも無く、皆がそうしようという空気になっていた。


 坂本の後に信明が続き、その後をチーム櫻子、その後にスタッフに誘導されて三十人程の集団が連なって階段を下りて、先程入ってきた通用口から駐車場に出た。


 外は相変わらずの晴天で空には雲一つ無い。建物の壁は鏡のように晴れ上がった空をくっきりと映し出している。


「それでは皆さん建物をご覧下さい」坂本がそう言って耳に当てた携帯電話でどこかに指示を出した。


 すると建物の壁一面に昨年行われた櫻子のライブツアーの映像が映し出された。


 その画面のあまりの巨大さに、そこにいた全員から大きな歓声が上がった。


「今は音は出していませんが、勿論出す事も可能です。あらゆる媒体の映像を映し出すことができます」信明は少し興奮気味の声で説明した。


 坂本が更に携帯電話で指示をだすと、今度は現在巷で流されているこの施設のテレビコマーシャルが流れた。櫻子の顔がアップになるとファンから拍手と歓声が上がり、信明も坂本も満足そうな表情でお互い、頷きあっている。


 しばらくコマーシャルを流したあと、信明が坂本に指で合図した。


「他にもこのような使い方もあります」信明がそう言うと、コマーシャルの映像が消えて一旦真っ暗になり、建物の下の方からレンガが積み上がる映像が映し出されそれがどんどん高さを増していき、今そこで建設されているかのように建物が出来上がっていく。


 数分でそこには巨大な西洋の宮殿風の建物が姿を現していた。その圧倒的現実感は、正にそこにあるリアルさだ。


 丁度その建物の真ん中辺りに石造りの門がそびえ立っていて、その高さは約五メートル、横幅は二十メートルほどもある。


「では今度はこちらから入りましょう」


 そう言って信明がその石造りの門に手を触れると、門は左右に開きだし、そこには先程までいた受付カウンター前の広い空間が広がっていた。


「どうです?面白いでしょう?色々な形状に変化させることが出来て、例えば日本の城風だとか、宇宙船のようにだとか、そうそうピラミッド風なんてのも出来ますよ」信明は子供が楽しむような笑顔を浮かべて話した。


「扉の形状によって開き方を変える機構になっています」坂本が補足するように説明した。


「季節によって建物の趣を変えるため外見を変化させる予定です。プロジェクションマッピングの進化形ともいえる技術だと理解していただけたらと思います」坂本は自慢下に説明を加えた。


「次はこの建物のメインともいえる施設をご紹介したいと思います」


 信明が言い終わったのと同時に、一人の男性スタッフが信明に近寄ってきて耳打ちした。


 信明は珍しく不快感を表すような表情を浮かべた。


「皆様すみません。一番紹介したい物があったのですが、それは夕食の後ということでよろしいでしょうか?皆様には一度お部屋でくつろいで頂いてから、倉ノ下さんとのお食事を楽しんで頂いて、その後ということで」信明はお辞儀をして一同に同意を求めた。


「それでは、招待客の皆様のお部屋をご用意いたしますので、こちらの受付カウンターの方へ」坂本が一団に移動を促した。


 最初は渋々といった感じで動き出した集団だったが、櫻子が「またあとでね」と微笑みながら声を掛けると、分かりやすく機嫌が良くなり、坂本の指示に素直に従っていた。


 列の最後尾に並んでいた背の高い男の姿が目に入り、美紀はその男の真後ろに立って軽く背中を二度叩いた。


 その男は振り返ると見下ろすように美紀に視線を向けたが、少し首を傾げて不思議そうな顔をした。


「僕に何か用ですか?」


「警視庁の刑事さんがこんな所でお仕事ですか?」美紀は起伏のない事務的な口調で尋ねた。


「どこかでお会いしましたっけ?」男は周りに聞こえないように気を遣いながら小声で答えた。


「倉ノ下櫻子の所属事務所で働いている遠藤です。あなたには二度ほどお会いしております」感情の入っていない機械が話すような口調で美紀は答えた。


「思い出しました、遠藤さん。そう遠藤さんだ。すみません、プライベートなので職業のことは内密でお願いできないでしょうか?」


「ということは、一般人として普通にこのイベントに参加されているということでよろしいんですね。そういうことでしたらそのように……」美紀は踵を返して櫻子たちの後を追った。

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