骨と造花と明日

犬丸寛太

第1話骨と造花と明日

 昼前頃、むくりと体を起こしていつも思う事がある。

 明日が鬱陶しい、夜が鬱陶しい、一時間先が鬱陶しい、次の瞬間が鬱陶しい。

 ほかの人間は気怠いだけとか、そういう日もあるとか言う。

 それも確かにわかる。私だってこうなってしまう以前はそうだった。まさか、私の未来全てを鬱陶しい、いや、面倒だと放り出してしまう時が来るとは思っていなかった。

 昔は未来、いやもっとくだらない表現がいい。

 明日何が私の元を訪れるだろうか。週末は何をしようか。来月は連休があるぞ。

一寸先に光を見つける事が今よりもっと簡単だったはずだ。

何をどうあがいても朝の光は私の元に届かない。例えであり、例えではない。何年にも及ぶ投薬、一体どれだけの薬物を摂取したのか見当もつかない。近頃また種類が増えた。

そんな日々を送る中で私の一日からは朝が無くなってしまった。ともすれば未来永劫私に朝が訪れる事は無いのかもしれない。

私は未来に絶望、いやそんな大仰な事ではない。未来が鬱陶しくなってしまった。

ある朝の事だ。その日も昼前にスマートフォンのアラームで目を覚ます。一応少しでも日中は体を起こすようにはしている。

朝食は取らない。昼食も取らない。ほとんど活動しない私には必要が無い。造花に水を与える人間がいないのと同じに、私は私に何かを与える事をしない。医者には三食摂るように言われたが、私はいつも素っ頓狂な答えを返す。

食欲と空腹が繋がってないんです。

医者は何とも言い難いような表情でいつも通り三食摂るようにと繰り返す。

未来が面倒だと、次の瞬間が面倒だと思ったのなら、当然食事も、もっと言えば欲望さえも面倒になるものらしい。

獲得、保存、秩序、解明、承認。少しずつ少しずつ私の中から欲望は消え失せ、いよいよ三大欲求と言われる食欲も失せた。性欲も感じなくなって久しい。残すところの睡眠欲も薬で無理やり欲の蓋をこじ開けているに過ぎない。

持ち物はいくつもある。友人も僅かばかりいる。収入も微々たるものだがなんとかある。

しかし、どれも捨てようと思えば簡単に捨てられる。

左手に握りしめた薬を捨て去り、右手に引っかかっている自分をひょいと放してしまえばもう何もかも無くなる。

私は死後の世界を信じてはいない。妙な言い回しだが死んでも生きなければならないなんて勘弁願いたい。もし死後の世界があるとすればそこは地獄しかないだろう。よしんば輪廻六道の果て、私の行いが何某かに認められ天道へ至ったとしてもそこには天人五衰と言われるものが誰の手によってか周到に用意されている。

体から悪臭を放ち、居場所を好まなくなり頭の上の花が枯れてしまい苦痛の果てに死に絶える。

なんだ、ほとんど私と変わらない。どうやら私は天人のようだ。すでに五衰に差し掛かっているようだが。

くだらない妄想に耽っていると、私に知らせが届いた。祖父がもう間もなく身罷ると。

私は、簡単に着替えを済ませ、祖父の病室へと向かった。

病室へ着いた頃にはもう何もかも終わっていた。魂を繋ぎとめるように張り巡らされていた呼吸器だの点滴だのは全て取り外され、祖父は静かに真っ白のベッドに身を横たえている。酒飲みでいつも気色の良かった顔は土気色となっていた。

私は不幸者なのかその様を見ても何も思わなかった。

詩的に言えば、始まったものが何十年と続き、終わった。それだけだ。

周囲の親族達も思いは知れないが皆私と同じく表情は無い。

ただ、一人祖母を除いては。

祖母は空っぽの祖父にしがみついて泣き崩れていた。今まで私には見せたことがないほどに取り乱していた。

何を語り掛けているのか嗚咽交じりの祖母の声は判然としなかったが一つだけ聞き取ることができた。

繰り返し繰り返し祖父の体をさすりながら、か細い言葉が一つだけ。

まだ、暖かいのに

そこで、私の中で何かが弾けたのがはっきりと感じられた。

涙が止まらなかった。私は祖父の病室を出て泣きじゃくった。祖父との思い出があふれてくる。例えでもなんでもなく同じ量の涙があふれて止まらなかった。

私よりも長く祖父と連れ添った祖母の涙の量など推し量ることもできない。

その時はただただ涙をぬぐう事で精一杯だった。

やがて、祖父の葬式が終わり、祖父は焼かれ骨となった。

その段になってようやく祖父が死んだのだと理解できた。本当に何も無くなってしまったのだと。

諸々を済ませ、私を含め親族も祖母も落ち着きを取り戻し火葬場の一部屋で食事という事になった。

私は親族と軽く言葉を交わしながら、頭の中では別の事を考えていた。

私はなぜ、涙を流したのだろう。

もらい泣きというものだろうか。しかし、あの時の涙は決して誰かに貰った物ではない。確かに私が流した涙だ。

祖父の死には何も思わなかった。しかし、祖母の泣き崩れるさまを見て、まだ、暖かいというあまりにも当り前な言葉を聞いて、私は涙を流した。

私は、思った。

私は死に涙を流したのではなく、生に涙を流したのだ。

祖父とこれまで過ごした生ある時間が私に涙を流させたのだ。

祖母の一言は当然祖父に投げかけられたものだ。祖父と共に過ごした生ある日々を失うまい、なぜ失われてしまったのか、まだ、暖かいじゃないか。

その、当たり前の祖母の欲望が私の感情の蓋を開けたのだ。

その出来事以来、私は生を欲するようになった。とにかく求めた。興味の湧く出来事に貪欲になった。ギターを始めたり、文章を書いたり、釣りに出かけたり、旅行に行ったり。

未だ、鬱陶しいだとか、面倒だとか、処方されるどんな薬よりも危険な劇薬の呪縛からは解放されていないが、それを危険だと、呪縛だと思える程に私は前向きに生というものを捉える事ができるようになった。

私は生を身中に与えた。

あの日流した涙は、私の頭の花に水を与えた。

あとは、朝の光だけだ。

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