第33話 もっと傷つけて、私を刻みつけて

 大きな声を出したつもりは無い。強い言葉を使ったわけでもない。

 それなのに、いぶきは棒でも飲み込んだような表情を浮かべていた。

 何故そうなったのかは不明だが、僕はこれがチャンスだと感じた。いぶきにずっと訊きたかったことがあって――今日それを尋ねなければ……

「……なぁ、どうして“アンドレア”なんだ?」

 いぶきはずっと病気で。それなのに、病気でもないのに動こうともしないアンドレアのどこに惹かれる理由があったのか。それが――どうにもわからない。

「最初はね、叔父さん」

 いぶきが突然始めた。

「私は“こんなの”だから情緒不安定だったのよ」

 そんないぶきの言葉に、僕は思わず苦笑を浮かべてしまう。

「……まぁ、過去形にしても良いような気もするな」

「過去形に出来たのはアンドレアのおかげ……になるのかな? とにかく否定しまくりだったのは同じでね。そんな私を見て叔父さんが『海と風の王国』を勧めたのよ。アンドレアを見ろ、ってね」

「……ゴメン。よくわからない」

「私も騙されたと思う」

 そこで手の平を返されても。

「だって、アンドレアは徹底的に否定しても最後には唯一とも言える道筋ルートを探り出すでしょ? それを私に理解させておいて『いぶき。君も何かを探してるんだね?』と、こうだもの。これ簡単に言っちゃうと、私はおだてられたのよね。そうとわからないような手口で」

 手口……手口ね。

「で、何だか闇雲に否定してると、好き勝手に解釈されて前向きにされてしまうのよ。それもイヤだから、感情的に否定するのは止めて、慎重になったら……アンドレアがね」

「アンドレアが?」

「あれだけ否定しまくれるって事は、絶対に報われる道があるって信じてるって事になるでしょ? 何だかそれが、とんでもないロマンチストのような気がして……で、それを叔父さんに話してみたら、次はこうよ。『アンドレアに会ってみないか?』って」

 ……小谷さんも無茶苦茶する。立派に悪人だ。確かに僕は「アンドレア」のモデルではあったけど、決して「アンドレア」ではないのだから。

「そこから先は、先生の訃報を聞いて、それで『海と風の王国』ともケリを付けたんだけど、私もいよいよって話になって、それならやりたいことをやってしまおう、ってなって今の状況」

 いぶきが器用に肩をすくめた。

「最初は単純に『海と風の王国』を終わらせたかった。でも朋葉さんがいざ動き出すと、無意識で無茶するのよね。お父さんが亡くなって、遺されたネームに手を入れるのも辛いんじゃないのかなって遠慮してたら、良い漫画にするためにまったく容赦しないんだもの。私もかなり覚悟決めて容赦しないつもりだったけど……全然甘かった――やっぱりそれが唯一の方法みちだったのよ。そう……王国を出ることがね」

 ――「王国を出る」

 つまり、どうやっても僕は漫画に関わってしまうって事か。

 今度は僕が肩をすくめた。

 そんな僕を見つめていたいぶきが、やおら口を開いた。

「……まぁ、それでちょっと怖くなって」

「怖く?」

 病気のことではないのだろう。このタイミング――いや、何だかいぶきが混乱してるみたいだし。もしかしたらナースコールが……

「それで……それで朋葉さんが、進んだら忘れられるんじゃ無いかって。だから私は考えたのよ。元々、朋葉さんが私のやり方に困ってたのは確実だったから、もっと傷つけて、私を刻みつけてやるって」

 ――やはり、いぶきは危険人物だ。

 何しろ、私は“思った”では無くて“考えた”なんだから。

 衝動的な行動じゃ無くて、計画的に傷を付けるなんて宣言――危険以外に言い様があるか?

「……でも、そんな事で揺らぐようじゃ、アンドレアじゃないし、朋葉さんでもなかった。だからね――私は満足!」

 そんな宣言とは裏腹に、いぶきの顔色はますます悪くなった。もう限界なのだろう。そして僕は、どう応えるべきなんだろうか。

 「海と風の王国」は父さんがいなくなったことで確かに傷を負った。僕はそれを受け入れるべきだと主張して……つまり――

「いぶき、『麺鉄』な」

「はい~?」

 さすがに、いぶきの声が裏返った。僕はそれに構わず続ける。

「あの店は確かに旨いんだよ。でもそれを堪能するのに、強い運が必要でな、ちょっと僕には望めそうも無い」

「だから――」

「君の力が必要なんだ。遮二無二、自分の我を通すような力がね。要するに、さっさと病気を治して一緒に『麺鉄』に行こう。今度こそ案内する。その代わり、僕のために良い席を引き当ててくれ。その一番良い席は仕方ないから、君に譲ろう」

 いぶきは、僕の言葉を聞いて呆気にとられたような表情を浮かべていた。

 僕はそれにも構わず、さらに続ける。

「要するに……要するに、君がこのまま治らないなんて事が――僕はイヤなんだ」

 そんなこと言っても仕方が無いのに。

 どうしようも無いのに。

 けれど僕は、言わずにはいられなかった。

 この“否定”はただの我が儘。その先に何か道があると感じたわけでもないのに――だから、これは全然「アンドレア」らしくなくて……

「……朋葉さん。それじゃ全然、アンドレアじゃないよ」

 優しく諭すように、いぶきは頬を染めながら。

 僕はそれで確信出来た。


 ――いぶきには伝わった、と。


 そして、それはいぶきにさえ伝われば良いことで。それが本当かどうかも重要じゃ無くて。

 激しい雨音が、僕たちがいる病室を世界から隔離して、隠していたのだから――そもそも本当かどうかもはっきりしなくて。





 

 やがて時は過ぎ、いぶきと再会した九月が巡ってくる前に――
























 

 ――いぶきは逝った。

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