第32話 旅立ちと離別と

 北海道を除く日本全土が、雨煙に覆われる六月下旬――


 僕は日野市を訪れていた。

 正確に言うと日野市の病院だね。正直、他の場所には興味が無い。

 ぶっちゃけてしまうと東京にはあまり来たくなかった。山手線でどこで降りても梅田か難波みたいな無秩序さがどうにも肌に合わない。何回か英橋館に行かなくちゃならなくて、僕はもう面倒になってタクシーを使って、点と点だけで東京を把握しているような有様だ。

 今回もタクシーを使ってやろうかと思っていたんだけど、流石に距離があるし、雨の中を歩いて病院に向かう過程が――なんだろう? 必要と言うべきか必然と言うべきか。

 とにかく、そんな感じに愚痴を並べてみると、

「私に言われたって知らないわよ。基本的に私は病院にいるんだから」

 と、病人とは思えないようなけたたましさで、いぶきが僕の愚痴を斬って捨てた。

 顔色は悪く、チューブを繋がれ、病院服に包まれた半身を病室のベッドの力を借りて起こしているような状態なのに、いぶきは変わらずいぶきだった。

「……とにかく東京は合わないって話だ」

「大阪のテレビ番組の方がよっぽどだと思うけど」

 その話題から逃げ出すように、僕は病室の窓へと目を向けた。どうやら雨足はますます強くなっていたらしい。いぶきの声の大きさに気付かなかったが、窓ガラスに打ちつける雨音も相当なものだ。

 これは嵐といっても良いんじゃないか? それだけに割と広めの個室でいぶきと話していることが、外の世界と切り離されたような。何だか現実感がないような気持ちになる。

 面会許可が下りるのをずっと待っていたんだけど、今この状況が何だか夢の中のようで。

「……叔父さんにも困ったものね」

 視線を逸らしてしまったせいなのか、雨に濡れたシャツの袖とチノパンの裾がやけに重い。先端の色が変わってしまったことに気付いてしまったせいなのか。それとも――

「引き籠もり……では無いんだろうけど」

 僕は自分の中に生まれてしまった“何か”を誤魔化すように、どうでも良い言葉を並べて、いぶきに合いの手を入れる。

「自分やりたいことが出来てるんだから、その後どうなっても、どうでもいいことよ。悪になりたかったって言うなら、そんな事を省みてどうするのよ!」

 ……やっぱりいぶきは危険人物だった。

 でも、そんな風に割り切ってくれた方が、助かるんだろう――僕も改めて心に刻まないとな。本当にいぶきに気付かされることが多い。

 話の枕として小谷さんの話を出してみたら……ええと臨時収入が相応しい言葉なのかな? 小谷さんへの励ましと、対処法を教えてもらったことは。

「でも、叔父さんには私から言っておく。何だかおかしな事になってるみたいだし」

「それは、まぁ……」

 無理もない、という言葉は付け足さないでも大丈夫だろう。

「それで、頼んでおいたものは?」

「もちろん」

 それが今日の本命だ。僕は足下に置いたトートバッグから、ビニールで固めておいた紙の束を取り出した。何のことはない「海と風の王国」をプリントアウトしたもの。ただし「リキキャン」に掲載される前の、守秘義務に触れるような危険物でもある。

 つまりは「海と風の王国」のラストだ。

「これこれ。ずっと気になってたのよ」

「君は作者だからな」

 本来ならとっくに知っていなければおかしいはず。

 それなのに、いぶきが知らないのは――僕が病院まで来たことで、それ以上の説明はいらないだろう。

 いっそのこと、いぶきにはファンに戻って貰って、毎号楽しみにして貰うというの……どうやら間に合いそうもないらしく。

 いぶきは僕から紙の束を奪い取ると、バラバラとめくっていく。

 そのやり方は、どう見ても職業・漫画家の“それ”で、僕は思わず笑みを浮かべてしまった。

 そもそもファンに戻るなんて事は、いぶきには無理だったのだろう――





 ――いぶきがめくっている「海と風の王国」の最終回。

 いや、明確にそういうつもりで書いたわけではないんだけど。今も一切「トビラ」無しでどうにかこうにか体裁を整えている。垂水さんの苦労が忍ばれるが、今さらどうしようも無い。

 なにしろ、いぶきはもう無理なのだから。

 いぶきが僕の家で倒れて。搬送されて。

 それから何がどうなったのか、よく覚えてないんだけど、いぶきはルッコラだけは完璧に仕上げてきた。ラストページのルッコラもキチンと。

 後から考えると、僕もそういった指定をキッチリ行っていたんだから……やっぱり何かしら、おかしな事になっていたんだろう。

 そして今さら、その原因を探すことほど無益な事は無くて。

 では今、アンドレアが歩くことも無益なことだったのだろうか。

 二つの王国があった島、長靴の先、そして街道を北に進み――ローマへと。

 それはかつて拒否したファビオの道筋を辿るかのようで。

 友を失いながら、それでも将軍に会い、その全てを「否定」したアンドレアは何を思うのか?

 アンドレアの“地に足の着いた”言葉は将軍を去らせ、それを見届けた叔父は去り、そして「イタリア」は成った。

 もう一度問う。アンドレアは何を思うのか――

 そして、ローマから望む故郷の島。その視線の先に浮かぶのは、ファビオがいる。ルッコラがいる。叔父もいて――だけど、そこにアンドレアの姿はない。




「……なるほど」

 いぶきが、無色透明……よりは少しばかり色の付いた表情を浮かべていた。僕は、特に何も言わず続きを待った。こぼれて欲しい言葉は沢山あるが、出来ればこちらから水を向けたくない。

「まず、この背景だけど……凄いね」

 そこから来たか。これも確かに聞きたかった言葉だな。

「その辺りは稲部さん」

「稲部先生が? やってくれたの?」

「最初はラストの見開きだけの予定だったんだけど、その前のあれやこれやにも手を出して貰ってな……借りを背負ってしまった」

 まず先に稲部さんのテンションがおかしかったんだけど。

 「キャンパス×コンパス」のアニメ化決定で――とは、いぶきに報告出来ない。

 放映される時には恐らく。

「どおりで。さすがのクオリティ。何だか、普通に音楽が聞こえてきそうだもの」

「本当に。稲部さん、実は背景描きたいんじゃないのかな?」

 僕は苦笑を浮かべながら、いぶきの論評に深く頷いた。

 ただの模写じゃ無くて、強調すべきところをそれとなく演出することで、背景は沈み込むことなく、それ以上に音の無い漫画にBGMを囁かせることにさえ、稲部さんは成功していた。

 「海と風の王国」にケリを付ける事が出来る――そんな事を稲部さんは冗談交じりに口にしていたけど、案外本音だったのかも知れないな。

「それで……アンドレアは帰らなかったのよね」

「読んだとおりだよ」

 僕はそう答えるしか無い。そこは読者に任せたいところだからだ。

 ただアンドレアが故郷に帰らずに、引き続き動く理由は歴史の中にちゃんと記されている。即ち、「未回収のイタリア」問題だ。

 この問題は、一朝一夕には解決せず第一次世界大戦でもおかしな事になってしまった。いや、おかしな事のきっかけになったと言うべきか。

 とにかく叔父を尊敬し、視野の広がったアンドレアなら、その解決に乗り出すだろう――それが僕の「解釈」だった。

 それはアンドレアを育んでくれた「海と風の王国」との決別でもある。

 だからこそ、望んだ故郷を思い出したときに思い出されるのは……

「で、これは朋葉さんの……決意表明って事で良いの?」

「内情知ってる人は、全員がそういう解釈なるみたいだな。これはもっとぼやかした方が……」

「いい度胸ね」

 間髪入れずに脅されてしまった。

 けれど、これは確かに僕が悪かった。

「ああ。僕はとにかく動くことにするよ。実際、東京には何度も来ている――ああ、物理的に動こうってわけじゃない」

「うん」

 今度は、真剣に頷くいぶき。

「次回作を望まれてるのも確かだし、実は編集になってみないかって話もある。どっちにしても漫画に関わる未来になりそうなんだけど」

「編集ね……叔父さんみたいな感じか」

「小谷さんとは違った編集になるだろうけど」

 そこで僕は、ため息のように息を吐いた。


「――とにかく僕は『王国』を出るよ。そう決めたんだ」

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