第54話 第三戦 カリラ 後

 半歩、早く動いていた。

 予定より早く動いたのでも、調子を崩したのでもない。

 自らの足が動くであろう場所に半歩早く到達していた。その半歩は、意識の上で置いた足と同時に出た。

 うん、そうか。

 わたしの足は、わたしの思う先にあるのか。

 ほんの一呼吸早く、わたしの足は先の時間に踏み込んでいる。

 そこにあってそこに無いような、そんな歩き方になっていた。

 これでは誰でも斬れてしまう。


 冬が過ぎてから、どうにも体の調子に違和感がある。


 侯爵家の武人たちに、そして、わたしを見続けたリリーに気取られぬよう、真夜中に体を動かしている。

 丑三つ時に、自らの体に探りを入れているのだ。

 侯爵家の庭園は青ざめた月に照らされていた。

 この足、まさしく神の一手に他ならない。

 足なのに一手か、はははは。

 偶然の神技ではない。わたしは常にこの足を踏み出せる。


 この時機にか。


 皮肉とはまさしくこのことだ。

 天下無双を手にして、この時機にあるとは。

 口元に歪に刻まれるのは、達人の芝居を始めてから戒めてきた外道の笑みである。

 息吹の闇狩りとして、石を投げつけられる度に浮かべていた悪鬼の笑み。


 はは、はははははは。


 右の胸をまさぐるとしこりがあった。

 不吉な感触のそれは、女の病である。

 乳房の中に石粒ができて、それが大きくなるにつれて生死人の有様になる業病だ。


 いい塩梅だよ。


 何もかも上手くできている。

 春を目前に咲く白い小さな花が、月明かりに照らされてうっすらと輝いていた。

 リリーの好きな花だ。

 あの子は、大きな花よりもこういった小さな花を好む。

 この花は食べられるため、わたしはたまに食べる。茎は酸い味がして、口の中を爽やかにしてくれるし、歯の病にかからないようにもしてくれる良い花だ。

 名前は知らない。

 リリーが甘いものを食べるのが好きなために、無理矢理に食べさせている。侍女殿が黙認しているということは、正しいことなのだろう。


 わたしの正しき天命は、手に入らぬということ、それそのものであったか。


 天運極まるとはこのことだろう。

 おのれ、おのれ、おのれ。

 坊主共の言う神よ、呪われろ。

 わたしの天運は遅きに失するというのか。

 今まで何一つ、何一つ手に入らなかったというのに、またしても。

 時を置き去りにする必殺の半足は、死の業病がもたらしたものか。





 時は穏やかに過ぎていく。

 リリーは健やかにして、剣を諦めるそぶりが無かった。

 侯爵閣下も困り顔であったが、わたしも今さら止めましょうかとは言えない。

 癇癪を起したリリーを何度か叱っている。

 そのたびに、これでなんとかなったと安心した。そんなことがあった矢先に、リリーはこっちに抱きついてきたり、ごめんなさいと謝るのだから、破門だなどと言えなくなってしまう。

 木刀はもうすぐ完成する。

 修行であっても真剣を振ることが少なくなった。

 身体が少しずつ、確かに衰えていく。

 老いではなく、乳房に生じた石が大きくなっているせいだ。

 乳房を切り取れば良いとも云われているが、それで病魔が去ったという話は聞いたことが無い。

 死にたいと願ってきたが、本当に死にたかったことなど一度も無かった。

 自死とはそういうものだ。

 死ぬしか無いから、それしか選べなくなって死ぬのである。

 潮時か。


 リリーは木剣を振る。

 大振りにする癖が治ってきたので、今は歩きながら振ることを教えていた。

 これはなかなか難しい。

 相手は動くものだから、こちらも動いて剣を振らねばならない。

 騎士剣は叩くことで殺せるが、女が扱うには向いていない。

 切れ味の鋭い片手剣は、包丁を大きくしたものだ。斬るための包丁であれば、力に劣る女にも使える。

 人を斬るための包丁は、女に相応しい武具だ。

 この世に満ちる悪意を断つには、力がいる。

 リリーの顔立ちは絶世とはいかなくても美しくなるであろう顔立ちだ。そして、侯爵家の権勢は揺ぎ無い。

 充分に力はある。有りすぎるほどだ。

 剣を多少使えるのなら、それもまた力になるだろう。

 弱い者が踏みつけられるのは当たり前のこと。

 それでも、弱いものに何をしても良いという訳ではない。だというのに、人は弱さに喰らいつく。

 揺ぎ無き力があれば、リリーの幸せも揺るがない。

 剣の振り方の次は、受け方だ。

 振り方の素地はできた。受け方も必要だ。

 わたしは、リリーに死んでほしくない。受け方と逃げ方、馬の乗り方も必要だな。

 リリーは飽きずに歩き、今は木剣を振っている。

 自分を守る術だけでも教えよう。



 季節は廻り、リリー十歳の誕生日を祝う祝宴が開かれた。

 この祝宴は社交界への顔見せを兼ねる。

 いつものように、わたしは護衛の役目を果たす。

 何度か狼藉者が現れたことはある。しかし、そのほとんどはわたしが出るほどではなかった。

 肌にびりびりと伝わる何かがある。


 何か、来たな。


 身体の具合はよくない。

 どうにも気怠けだるく、長い時間はやれそうになかった。

 宴の中で暗殺者を捜すのは難しい。

 近くの騎士に気をつけるよう言い含め、侯爵家の細作にも伝えた。わたしとかち合うだろうか。いや、避けるはずだ。

 細作というものは戦士ではない。

 わざわざ、わたしのような難敵を相手取りはしないだろう。

 普通に考えれば、そうなる。

 来たか。

 何人だろうか。二人、三人。

 狙いは侯爵閣下か、それともリリーか。

 ああ、そうか。

 リリーを狙うのであれば、わたしの敵だ。

 どうして自分でもこんなことができるのかは分からない。しかし、分かる。暗殺者の持つ冷たい殺気が分かる。

 足は勝手に動く。

 目までわたしの意識から外れて動く。


 おい。外でやろう。


 年のころなら十二歳かそこら。月のものが来ているかも怪しい少女は、笑みのまま凍り付いている。


「何用でしょうか」


 ここでやると床が汚れるし、宴が台無しになる。外でやろう。


 言って、剣の柄をぽんぽんと叩く。

 幼い貴婦人は笑みを浮かべたままだ。

 面倒だが、侯爵閣下の顔を潰す訳にもいくまいよ。

 薄暗い所にいるのは見て分かる。

 促すと、大人しく従った。

 庭園に出て、さらに歩いてわたしが修行に使っている広場へ出た。物置小屋と使用人のための蒸し風呂がある場所だ。


「どうして、気づいたのですか」


 隠せるものでもないよ。わたしも、そっち側だからね。


 幼い貴人に化けていた細作は笑った。

 その笑みは、どこか素直なもので、わたしも笑ってしまった。

 わたしが剣を抜こうとする前に、少女は突如として動いた。袖に隠した針か、それとも内太ももの短剣か。

 剣を抜くのにも時間がかかる。昔なら一呼吸で抜けたというのに、今は三つも呼吸しないと抜けない。随分と弱くなってしまった。

 足は、やはり半歩先に出ていた。

 どうしてそうなるのかさっぱり分からない。

 少女の脇をすり抜けながら、ようやく抜いた剣を少女の白いうなじに差し込んでいた。


 痛みもあるまいな。


 それにしても、わたしはどうやって刺したのか。全くもってよく分からない。

 勝手に半歩が先をいく。この半歩は時間を飛ばしたように、先に進んでいる。

 我ながら、全く意味が分からない。ただ、これならだいたいのものは斬れるなと思う。不思議と、このような芸を会得したというのに嬉しいとも思わなかった。


 細作の正体は知れなかったが、この夜会では数人の暗殺者を斬った。

 後のことは侯爵閣下の仕事でもあるし、貴種の争いはわたしには分からない。ただ、リリーが三人もいる皇子、その誰かと婚約するであろうことは噂に聞いていた。

 こんなものが放たれるような世界か、上というものは。

 地を這いずり回る我らとは違うが、斬れば死ぬは同じ。

 この細作がリリーを害していたら、わたしはどうしただろう。

 想像しただけで、胎が熱くなった。わたしのなかに潜む蛇が、鎌首を持ち上げる。


 少し、真面目に仕事をすることにしよう。

 剣など所詮は芸の一つ。ようやく、使える芸が出来た。今のわたしなら、競わずに斬れる。


 穏やかな日々の裏で、細作の暗躍はあった。

 侯爵閣下の細作とはあえて顔つなぎもしていなかったが、宴の日からは彼らと連絡を取り合っている。

 リリーの近くにいるのはわたしだ。

 このわたしがいる限り、あの子に手出しはさせない。

 少しずつ技を教えている。だが、それでは足りない。

 侯爵閣下には、かつて敵であった恐るべき細作一族の名を伝えておいた。庇護を与えれば、彼奴きゃつらは護鬼となる。

 侯爵閣下はそれを聞入れてくれた。

 これで、出ていける。あとはどこかで死ぬだけだ。

 死期を悟った猫はどこぞへ消えるというが、これが猫の心持(こころもち)であろうか。

 そのようことがあり、わたしはリリーにこう言った。


 令嬢の修行もしなさい。


 春の麗らかな陽射しのもと、リリーは口を開けたまま固まっている。

 はっきりと言えば、剣の修行は控えろという意味になる。この子はそういう所が鈍いため、駄々をこねるならはっきり言わねばならない。

 この子に出ていくことは伝えられそうにない。

 もう旅の支度は整えていた。

 ここにいたことは、わたしにとって幸せな時間だった。


「いやです」


 わたしも別れたくない。

 だが、出ていかねばならない。

 そうしないと、わたしの胎にいる蛇が起きてしまう。

 何か答えねばならない。

 口元に笑みを浮かべることは、できた。


 どうして、こんなことをしても幸せにはなれないよ


 わたしの疑問だ。

 剣で得られるのは憎しみと恨み。

 誰よりも知っている。どれほど強くなろうと、わたしは惨めであった。

 心が休まる日など、あるはずもない。こんなにも、剣はわたしの大切なものを斬り捨ててきた。



「師匠みたいになりたいって思ったの」



 その言葉に、わたしはどうしていいか分からないほどに、心を揺さぶられた。

 リリー、どうして、どうしてそんなことを言う。

 わたしには価値など無い。

 あると信じた価値はどこにもなかった。いつも心にはあった。どれほど世から疎まれようと、天下無双であると。

 天下無双であれば、我が名は後世に遺るほどの英傑として讃えられようと。

 そんなことはなかった。剣など芸に過ぎず、高名な達人など貴種ばかり。天下無双に価値はあった。だが、わたしという人間に価値がなかったのだ。

 なのに、ようやく出会えたリリーが言うのか。

 わたしの宝物であるお前が、わたしのようになりたいなどと。

 胎の奥で蛇が目を醒ます。

 嬉しくて、哀しい。

 笑っているのか、泣いているのか、それすら分からない。

 それでも、言葉は出た。

 胎の奥にいる蛇が、鎌首を持ち上げて口を開き、赤い舌を出す。



『そうか、お前が私の運命であったか。令嬢の修行をして、その後で教えよう。時間がある時は歩法をやりなさい。それから、これをあげよう』


 リリー、私の可愛いリリー。

 お前のための木剣は無駄になった。いいさ、あれは私には必要ないものだ。

 誕生日に渡してきた木剣ではない。息吹の業を遣うための、木刀。

 私を苦しめ、我が師の頭蓋を叩き壊し、どれほどか分からぬほどの血と息吹を吸い続けた木刀を渡そう。

 その木刀は、私そのものだ。


『ああ、それから、今日からは息吹を教える』


 私の可愛いリリー。

 私の全てをお前に伝えよう。いつまでも、私が守ってやろう。

 お前こそが、私の欲しかったものだ。

 だから、お前に全てと力を与えよう。私の得たもの全てを。この憎しみに満ちた私が得た天下無双を伝えよう。

 私はようやく一番欲しかったものを手に入れた。


 ある程度の時間を準備に費やして、誘拐同然にリリーを連れて侯爵領を出る。

 そのころになると、リリーは息吹の呼吸法を多少とはいえ使えるようになっていた。

 追手は全て斬り捨てることとなった。

 共に笑い合い暮らした騎士であっても、斬ることにためらいはない。

 弱いくせに私からリリーを奪おうとするからだ。

 少し悪いことをしたという気持ちがある。彼らは、リリーに見せないために、寝静まってから襲い掛かってきたからだ。

 私の愛するリリーは、私以外からも愛されている。少し、気に入らない。


 厳しい修行と共に街から街へ。

 良いことも悪いこともあった。

 リリーは帰りたいとは言わなかった。時には言ったが、なんとか宥(なだ)めている。

 リリーの書いた無事を知らせる手紙の大半は、飛脚に渡すふりをして握り潰す。時には、追手を撒くために別の街から出すこともあった。

 侯爵閣下、お許し下さい。

 この命、もって五年ほどでしょう。命尽きるまで、それまでリリーは私のものだ。


 世慣れないリリーを連れての旅は、なかなかに大変だ。

 旅籠では女児というだけで危険が伴う。

 リリーにはそれに対する対処も教えた。身を守るというのは、正しい力の遣い方だ。

 とある宿場で、リリーに手を出そうとした男がいた。身なりからして貴族ではないため、丁度良い。

 人さらいの男の手首を斬り落とし片足の腱を裂いた。そして、放逐する。ここで殺しても誰からも文句は出ない。むしろ、持ち物を路銀に換えることができる。

 本来はそうするべきだが、剣の達人であるのだから追剥じみた真似はできない。仕置きで止める。

 それに、あの男が惨めに野垂れ死ぬのは当然のことだ。生き延びたとしても、地獄であろう。私のリリーに触れようとしたのだから、温すぎるほどの報いである。

 リリーに格好の悪い所は見せられない。

 宿場ではついつい甘やかしてしまう。

 食べ物を与えてしまうのは悪い癖だ。

 この子は美味しそうに食べる。

 傭兵の母娘に見られることもあるほどに、リリーは懐いている。たとえ、顔かたちが違い、髪の色まで違っていても。


 修行を続ける内に、形になってきた。


 かつて、私が頭を叩き潰した師のやり方は、多数に教えて覚えられない者を間引くものだった。リリーにそんなことはしない。

 できないことは、何度も繰り返して覚えこませる。

 私ですら、正しい形を得るのに長い年月をかけた。模倣で良い。足りていないのは実際に斬ること。


 隊商の護衛として雇われた際に、リリーに一人与えた。

 野盗が出るのは知っていた。商人が通行料を払う前に挑発し、一人斬る。そうすれば、思っていた通りの戦いとなった。

 騎士崩れや兵士崩れであれば危険もあったが、食い詰め者が集まっただけの野盗である。弓持ちを最優先で斬れば、危険はなくなった。

 十人いても負けはしない。

 リリーに与えたのは、農民の息子が棒を持ったにすぎない少年であった。

 身体に力が入りすぎている。さあ、いつもの練習と同じように。

 リリーの性質は、戦いの中で熱を帯びて狂うものだ。石の如く冷たい私とは違う。さあ、斬るのだ。中にある力を解き放ち、肉の塊に変えてしまえ。

 どうせ、価値の無い命だ。リリーの糧となれれば、そこに価値が生ずる。だから、さあ、その頭に打ち込みなさい。


 手すら出せないか冷や冷やされられたが、なんとか打ち倒してくれた。


 リリーは優しくて良い子だ。

 野盗の命を奪うことをためらってしまうほどに優しい。

 仕方あるまい。貴種として蝶よ花よと育てられたのだから。

 人が難しいなら、怪物も斬らせなければ。


 それから帝国領内を周り、最後は山に行きついた。

 ここに住む山の民に貸しがある。

 追手がここを見つけることはないだろう。

 人の住んでいない場所に腰を落ち着けることができた。

 子供のころに修行をしていた場所とは似ても似つかない。あれはシラミの巣だった。修行により与えられたのは痛みだけ。誰かと自分のすすり泣きを子守歌代わりに震えて眠る。

 そんなことはしない。

 焚火の前で眠るリリー。その隣に私はいる。

 いつも、寝静まった後に子守歌を歌う。多分、もう子供じゃないとリリーは言うだろう。もう十三歳だ。

 リリーはこの暮らしにすっかり慣れた。

 野に生える草にも食べられるものとそうでないものがある。青く縦に伸びて、掘り返せば丸い球根のあるものはネギに似て美味い。

 蛇も食えるし、猪も良い。

 このような深山幽谷であれば、魔物も出る。裂け目から出た魔の類いを狩ることも教えた。動物に憑依するが、息吹がとおれば容易たやすい相手だ。

 ここで息吹をリリーは会得しつつある。

 息吹呼吸は幼い日から呼吸の訓練をせねばならない。リリーに教えてきたことは無駄ではない。そして、間違っていなかった。

 我が師よ、地獄で見ているか。

 お前が虫ケラのように扱ってくれた修行は間違いだったぞ。

 こんなに才能の無いリリーは、とても遣うようになった。

 よく食べて、よく眠り、愛情を注ぐ。

 それさえあればいい。私のような憎しみは要らない。はははは。

 焚火を見つめながら、笑う。

 リリーの頭を撫でた。

 髪が痛んでいる。山の中ではそうなるのも仕方ない。身綺麗にしてやらねば。

 山の音は寂しいものだ。

 街に住む者はこれに風情があるというが、私にとっては寂しさだけしか感じない。自然にあるものと人は調和などしない。

 アメントリル派の坊主共が言うような世界の調和など嘘だ。この世は調和などしていない。全ては危険で、それらを避けて潰して出来上がった今があるに過ぎない。

 息吹も同じだ。

 怪物への憎しみが、訳の分からないものを造った。そして、伝えられている。

 私がリリーに教えた息吹は、終わらせるためのものだ。

 リリーは誰かに伝えるだろうか。伝えなくてもよい。お前が捨てるりであれば、それは世界にとって必要ないものであったということだ。

 夜は過ぎゆく。

 あと一年というところか。



 時は無情。最後の一年は幸せと共に過ぎ行きた。



 まだまだ未熟。

 だが、そこらの騎士には負けないというところまでリリーを仕上げた。

 この山と一体化するところまでは及第点。

 古い言葉では、オブジェクトとの合一ともいうものだが、そのような歴史は何も教えていない。

 ただ、魔や外法の類いを打倒せるものであり、それらは自然に反しているから倒されるということだけを教えた。

 息吹は理外であり反そのものだ。

 理に反し、世界に反し、幸せを反する。

 まさに理外外法の極み。

 リリーにはそれが似合った。そして、不思議なことに私にはリリーの未来に陰があることが分かった。

 半歩を踏み出せるようになってから、私の片足は幽界にあるのかもしれない。リリーの行く先には大きな陰がある。私もそれに覆われて生きた。

 陰を斬ることはできない。じょうの理であればそうだ。

 リリー、わたしの可愛いリリー。お前を陰になど好きにはさせん。

 死にあって見えるものが定められた未来さきであるのなら、反の極みにある息吹であれば抵抗できるやもしれない。


『修行を始めて十年、お前がずっと積み重ねてきたからこそ、できるのだ』


 ある時、リリーをそう褒めた。

 そうだ、あの日、リリーを救ってしまってからの積み重ねだ。

 夜中に熱が出る。

 内腑ないふ全てに石粒は根を張って増えたようだ。

 良い頃合いだろう。もっと見ていたいが、これ以上は私も動けまい。


『リリー、今夜は特別な修行をする』


「特別、ですか」


 十四歳になったリリーは、いつの間にか敬語を使うようになった。

 子供の成長は早いものだ。


『印可を与えられるか、みるのさ』


 リリーは驚いていた。

 身体を落ち着けておくように、それだけを言って私は私を整えるため、滝に向かった。

 滝行というものに意味は無い。

 単に何かした気持ちになれるだけだ。今の私がやっても意味は無いだろう。だから、釣竿を持ってきた。

 虫を捕まえて餌にして滝壺から少し離れたところで釣りをする。

 魚を捕るのなら素手でやるか、銛で突く方が速い。あの子も魚くらいなら素手で捕れるようになった。

 釣竿の隣にはドゥルジ・キイリという師から奪った剣がある。

 頭を叩き潰した後、当然のように自らのものとしたが、これはリリーに渡そう。

 魚はとんと釣れない。

 釣りなど、何年もしていない。いつも素手で捕っていた。

 リリーには一つだけ克服できない弱さがある。

 克服させるには、丁度良いだろう。あんなもので死ぬのは勿体ない。

 あ、そうか。

 だから、みんな死んだのだ。

 幼い日の修行で、その弱みを持っていた者から死んでいった。

 最終的には私とジャンだけになる訳だよ。

 みんな、同じ境遇の子供たちを蹴落とすことをためらっていた。私とジャンはそれを何とも思わずにできたのだ。


 悪いことをしたなぁ。


 私もようやく分かった。リリーにそうしたいように、皆、仲間を思いやって、その結果として修行についていけず死んだのか。

 随分と、悪いことをしてきたのだなあ。

 それも、今日終わる。



 青ざめた月の下、リリーはやってきた。

 緊張した面持ちで木刀を手にしている。私が何をするか、想像もしていないのだろう。


『リリー、最後の修行だ。私に一太刀でも浴びせれば、お前に印可を与えよう』


 私はドゥルジ・キイリを抜いて、鞘を捨てた。

 まずは軽く頭を割ってみようか。さあ、かわせよ。

 私はゆっくりと剣を振った。

 殺す気で振るが、頭には当てない。意識の上では当てているが、最悪でも肩口を落とすようにする。

 これもなかなか難しい。殺気だけで相手を怯ませるための芸だ。

 リリーは大きく距離を空けるように下がってかわす。

 よし、上手いぞ。

 それでいい。初手でやれない時は距離をとるのが正解だ。


『よくぞ、この十年に渡り着いてきた』


 私のかけた言葉に、リリーはようやく木刀を正眼に構えた。

 うん、それでいい。八相なぞやろうものなら、焦っていますと言うようなものだ。

 言葉を失っているリリーの右目の下に向けて剣を振る。わざと、浅く斬った。血が流れる。

 ごめんな、リリー。痛かっただろう。許しておくれ。

 可哀そうに。顔に傷をつけてしまった。こんなことしたくないというのに、でも、しなければいけない。


「なんでっ、こんなことっ」


 お前のためだよ。

 私の可愛いリリー、私の愛するリリー。お前は私の弟子だ。許されるなら、あのまま私の子供にしたかった。

 でもそんなことは言えない。

 だから、心にもないことを言う。


『無駄口はよせ。呼吸を乱すな。今の私であれば、お前にも斬れる』


「いやだいやだいやだ。怖い」

 

『それでも、我が弟子かっ』


 挑発するため、そう叫んだ。

 あの時、私も本当は怖かった。

 師匠は鬼のように強いと思っていて、そして、憎んでいた。私はあの時、憎しみで斬った。

 リリー、憎しみでもいい。

 斬れ。

 命を奪わんとするならば、どれほど愛していても、斬るのだ。

 言葉を紡ごうとした瞬間、来た。腹が焼けるように痛む。

 咳き込むと、血を吐いていた。


『時間が無いのだ』


 私はどうしてか、笑ってしまった。

 過去のいつでも時間が無かった。どんな時も、時間などなかった。ただ浪費していただけだ。だから、こんなに惨めだ。

 いや、リリーを助けた時は、無い時間の中で正しいことをした。たった一つだけの正しいことだ。

 痛みを感じなくなった。身体の中に焼けた石があるようだが、痛くない。

 さあ打ってこい。

 リリーは私の誘いには応じず、呼吸により息吹を整えていた。

 はは、やるじゃないか。

 その目、こらえているんだな。私などのために。

 そろそろ身体を動かすのも辛い。今なら、私も真面目に斬る気でやれるよ。


『よくぞ、見た』


「はい」


 あの時と同じだな。

 泣くのをこらえて答える様は、弟子にしたあの日のリリーのままだ。

 剣を下段に構え直し、向き合う。

 ああ、いい気持ちだ。

 呼吸を戻して息吹を練るが、どうにも肺から漏れていくようだ。

 リリーは気合の声と共に打ち込んできた。

 一合、二合、三合。

 いいぞ、上手だ。

 息吹は木刀を鉄のごとく変える。それでいいんだ。

 楽しくなってきた瞬間に、私は意識せず半歩先にいた。

 リリーの首を目掛けて放たれる私の刃。

 やめてくれ、リリーを殺させないでくれ。どうしてこんな時に。

 どすんという重い感触だった。

 私の手に重みはなく、腹に木刀の突きが埋まり、背まで貫いていた。

 ははは、凄いな。

 どうやったんだ、それ。

 わたしの半歩は未来さきにあるというのに……。

 身体から全ての力が抜けている。剣をいつの間にか取り落としていた。

 ああ、そうか。

 もう使い果たしていたのか。私に未来さきなど無かったから、斬れなかったのだな。

 よかった。

 かみさま、ありがとう。



 リリーが泣いている。

 幼い日のように、小さなリリーのぐずる声が聞こえた。

 もうよく見えないが、分かることもある。

 まだ、声は出せる。



 私は、お前に会うために産まれたのだ。

 お前の前には様々な運命が悪意と共にやって来るだろう。だが、その全てを倒 せるだけのことを教えたつもりだ。

 私は死して故郷に帰れる。リリー、お前に会えてよかった。

 運命を憎んでいたよ。寄る辺ない世界で、ただ一人……。

 リリー、幸せにおなり。そのために私の命はあったのだ。





 死に際に憑き物が落ちた。


 我ながら、侯爵家の令嬢を誘拐するなど、正気ではない。

 だというのに後悔は無かった。

 今は、とても安らいでいる。

 わたしにも、生きた意味が、価値が、あったよ。

 これで、帳尻は合った。

 憎しみも、痛みも、全てはこのためだった。

 幸せにおなり、リリー。








 追憶が終わる。


 闘技場へ向かう足取りは思うより軽い。

 カリラは、あの子は驚くだろうなと、想像して浮いてしまった笑みを噛み殺す。

 どんな子に育ったのだろうか。

 どれだけ強くなっただろうか。

 噂に聞く通りであれば、あの子は道を誤っているかもしれない。

 いや、それは無いだろうな。

 そうであれば、あのシャザという女が許さないだろう。それに、そうであったら二人の男たちがあのように死ぬものか。

 毒蛇のような音を立てる独特の呼吸音。

 息吹呼吸がカリラの全身に行き渡る。


 カリラが闘技場に姿を現した。

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